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但馬八木城跡登城記 その1 ~登山道~

先日の稿で紹介した但馬朝倉城跡から5kmほど西に、但馬八木城跡があります。

八木城は、戦国時代の八木氏、豊臣時代の別所氏が居を構えた大規模な山城で、現在、国指定の史跡となっています。


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北近畿豊岡自動車道の八鹿氷ノ山インターで降りて国道9号線を3kmほど西に走ると、看板があります。

写真右手の山の頂に、八木城跡があります。


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車は麓にある八木城交流館の駐車場に停めさせてもらえます。

ここでパンフレットももらえます(パンフは高速道路を降りてすぐの道の駅「ようか但馬蔵」でももらえます)。


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登山口には、案内板やら石碑やらが至るところに設置されているので、迷うことはありません。


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登山道の案内図を見ると、「八木城跡」「土城跡」という表記があります。

八木城は標高303mの山頂に石垣跡が残る城山と、そこから北西へ450mほど尾根伝いに登った標高409mのところにある土塁作りの土城山の2か所に城跡があり、一般に標高303mの石垣作りの城が八木城、標高409mの土塁作りの城を八木土城(別名:八木古城)と呼びますが、この2つを合わせて八木城跡と呼ぶ場合もあります。


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防獣柵を開けて中に入ると、いよいよ登山道です。


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城跡まで900m

もっとも、これは標高303mの城跡を指しているので、標高409mの八木土城跡までは1.5kmほどあります。


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登り始めて間もなく、樹木の間から集落が見渡せる場所に説明板が設置されています。

かつてここには八木城主の城館があったと伝えられています。


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登山道は整備されているので、道なき道を進むような場所はありません。

傾斜も緩やかな尾根伝いの場所が多く、登山にあまり慣れていない人でも登れそうなコースです。


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ところどころに残りの距離を表示した立札が設置されています。

これって、けっこうありがたい。


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残り500mというあたりから、石垣跡と思われる痕跡が各所に見られはじめました。


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八木城の歴史は古く、伝承によると、康平6年(1063年)に前九年の役で功があった閉伊頼国が、源頼家から但馬国を与えられて八木の地に築城したのが始まりとされています。

その後、建久5年(1194年)に朝倉高清源頼家から但馬国を与えられて朝倉城を築城すると、朝倉氏と閉伊氏の間で何度か合戦があり、朝倉氏が勝利すると、高清の次男・重清を八木城の城主とし、八木の姓を名乗られ八木重清となったと伝えられます。

ただ、別の史料によれば、高清の長男・安高が八木氏を興し、八木城主となったとも言われます。

このあたりは曖昧なんでしょうね。


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以後、八木氏は15代、300年以上にわたりこの地で栄え、第6代城主・八木重家は、但馬国守護山名時氏、山名時義の重臣となり、太田垣氏、垣屋氏、田結庄氏と共に山名四天王に数えられました。


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残り250mです。


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土塁の穴には「秋葉さん」と呼ばれる石仏があります。

ここは八木城跡の東面第7郭

ここから、本格的な城跡となります。

長くなったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-29 15:56 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

越前朝倉氏発祥の地、但馬朝倉城跡を訪ねて。

先日の稿で紹介した越前国の一乗谷に城下町を築いた大名、朝倉氏のルーツは、但馬国だといわれています。

現在の兵庫県養父市八鹿町朝倉が、その朝倉氏の発祥の地と伝わり、その集落の南にある標高150m、比高100mの山の頂に、朝倉城跡が残されています。


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登山口です。

説明板、幟が設置されています。


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説明板です。


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登山口の正面には、地蔵堂宝篋印塔があります。


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説明板によると、この宝篋印塔は室町時代のものと推察されるそうで、高さは230cm月輪金剛界四仏の梵字が刻まれています。


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あるいは、朝倉氏の誰かを供養したものかもしれませんね。


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頂上を目指します。


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しばらく登ると、防獣柵があります。

鉄扉を開けて、さらに登ります。


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ここを訪れたのは9月でしたが、登山道は草が刈られていて、歩きづらいということはありませんでした。


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登山道の道中にもいたる所に幟が立てられています。


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朝倉氏は孝徳天皇(第36代天皇)の皇子・表米親王の後裔と伝えられ、はじめは日下部を名乗っていましたが、平安時代末期に地名の朝倉を苗字とし、源頼朝の御家人となった朝倉高清を初代としました。

高清は、南北朝時代に越前に入国した朝倉広景から数えること7代前、一乗谷に本拠を移した朝倉孝景から数えれば13代前、織田信長によって薄濃の髑髏にされた朝倉義景から数えれば18代前の人物です。

朝倉氏の歴史の長さがわかりますね。


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頂上が見えてきました。


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頂上の本丸跡です。


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説明板によると、朝倉城跡は東西130m、南北110mの規模を持ちますが、本丸はそれほど広くはありません。


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本丸からの北西の眺望です。

写真中央やや左に見える山に、朝倉氏の流れをくむ八木氏の居城、八木城がありました。


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本丸北側の朝倉集落を見下ろします。


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本丸北東の眺望です。

正面の山には、支城の朝倉比丘尼城があったとされています。

その山に隠れて見えないさらに向こうの山には、同じく支城の朝倉向山城があり、ここ朝倉城と合わせて朝倉三城と呼ばれるそうです。

今回は本城であるここのみの来訪。


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写真ではわかりづらいですが、本丸を囲う土塁跡です。


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本丸を色んな角度から見てみましょう。


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初代・朝倉高清の長男・朝倉安高八木氏を興し、同じく但馬国の八木城を本拠としました。

朝倉氏は次男の朝倉信高が継いでいます。

ここ朝倉城は、その信高が築いたと伝えられます。

しかし、承久3年(1221年)の承久の乱にて信高は敗れた京方に付いたため朝倉氏は衰退し、そのため、八木安高の孫にあたる八木高実が朝倉氏を継ぎました。


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その後、南北朝時代に朝倉広景、朝倉高景父子が斯波高経に従って越前国に本拠を移しますが、ここ但馬国にも朝倉氏は残っていたようで、応仁の乱で山名氏に従った朝倉豊後守や、戦国時代末期には朝倉大炊という武将が朝倉城を改修して守備したとの記録が残されています。

しかし、天正5年(1577年)に羽柴秀吉が攻め寄せると、朝倉大炊は八木城主の八木豊信とともに降伏しました。

その後、ここ朝倉城がどうなったかは、定かではありません。


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最後に、麓からの遠景です。


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さて、次回は朝倉氏と縁の深い八木城跡を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-28 00:03 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その5 「朝倉義景・朝倉孝景墓所」

「その3」で紹介した朝倉氏館跡の東南隅旧松雲院墓地内に、第11代当主の朝倉義景墓所があります。


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木標には「五代」とありますが、朝倉氏の拠点を一乗谷に移した朝倉孝景を初代とした場合、義景は5代目になりますが、越前国に入国した朝倉広景を初代とすると、義景は11代目となります。

当ブログでは、11代とさせてもらいます。


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こちらが、その義景の墓です。


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朝倉義景は、天正元年(1573年)8月20日、刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)織田信長に敗れ、従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていましたが、そこで景鏡の裏切りに遭い、自刃します。

この墓は天正4年(1576年)に村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663年)に福井藩主の松平光通によって現在の墓塔が立てられたそうです。


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義景の死によって朝倉氏は滅亡し、義景は最後の当主となります。

義景の首は信長家臣の長谷川宗仁によって京都で獄門に曝され、その後、浅井久政・長政父子とともに髑髏に箔濃を施された話は、あまりにも有名ですね。

その髑髏をにして酒を飲ませたという逸話は、後世の作り話といわれています。


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一乗谷遺跡内には、もう1ヵ所、朝倉氏の墓所があります。

「その4」で紹介した中の御殿跡の東にある山道を登ります。


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これが、その墓所。

7代目当主・朝倉孝景の墓所です。


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木札には「初代」とありますが、上記と同じ理由で当ブログでは7代目とします。

7代目当主・朝倉孝景は、朝倉氏の拠点をここ一乗谷に移した人物です。


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朝倉氏は代々、越前守護代甲斐氏、尾張守護代織田氏とともに、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の斯波氏の宿老を務めていました。

応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると、孝景は当初は西軍に属して京都で戦いましたが、文明3年(1471年)に越前に帰国し、越前守護代甲斐氏に代わって守護代職になることを条件に、東軍(幕府側)に寝返りました。

このため、甲斐氏と越前支配をかけた激しい戦いを展開し、文明7年(1475年)、越前をほぼ平定します。

ところが、守護斯波氏は孝景の越前支配を「越前押領」とみなし、文明11年(1479年)には、東軍(幕府側)に帰順した甲斐氏や二宮氏など被官人を引きつれ、「朝倉退治」と称して越前に下国、一進一退の戦いが続きます。

この戦いの最中、文明13年(1481)7月、孝景は病死しました。


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孝景の墓は、その法名から英林塚とも呼ばれます。

高さ約2mの宝篋印塔で、昔から、越前に危機が迫ると鳴動するとの伝説があるそうです。


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さて、朝倉氏5代103年の歴史をもつ一乗谷朝倉氏遺跡をめぐってきましたが、本稿をもって終わりにします。

本当は、遺跡の東にある一乗谷城跡にも登りたかったのですが、その時間がとれませんでした。

また今度の機会ということで。

最後に、日本100名城のスタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-27 00:34 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第12話「太陽がいっぱい」 ~金栗四三の五輪マラソン初挑戦~

 明治45年(1912年)7月14日、いよいよ金栗四三選手が出場する第5回ストックホルムオリンピックマラソンの日がやってきました。天候は快晴。ストックホルムは北欧スウェーデンの首都で、北緯60度に近い位置にあり(ちなみに日本の最北端の稚内でも北緯45度)、亜寒帯気候で7月の平均日最高気温は22度前後という過ごしやすい気候の都市ですが、数年に一度、熱波に襲われることがあり、それが、この年だったそうです。この日のストックホルムの気温は、陽の当たる場所では40度を超えていたといいますから、まさに、本話のタイトルどおり、雲ひとつない「太陽がいっぱい」の日でした。


 ドラマのとおり、この日、それまで床に伏していた大森兵蔵監督が、安仁子夫人の制止をふりきって、金栗選手と共にスタジアムに向かいました。先に行われた三島弥彦選手の短距離走で、自身の体調不良によって力になってやれなかったことが気になっていたのかもしれません。12時半、彼らはホテルを出てタクシーを探したものの拾えず、電車で行こうとするも、満員で乗れなかったようです。そこで、二人は競技場まで歩くことにしました。ドラマのように大森監督を背負って歩いたかどうかはわかりませんが、足手まといではあったでしょう。マラソンのレース前の金栗選手にとって、これは大きな体力の消耗になったでしょうね。


 そもそも、スタジアム近くに大会事務局が用意した選手宿舎があったのですが、日本選手団は、周囲が言葉の通じない外国人ばかりでは気づかれするだろうという理由でこれを利用せず、少し離れた繁華街のホテルを宿としていました。これも、になったんですね。


 なんとか間に合った金栗は、おそらく入念なアップをするゆとりもなく、スタート地点に立ちました。ときの心境をのちに金栗は、「スタートで私は中位、私より小柄な外国人も多くて見劣りは感じなかった。」と語っています。短距離走の三島弥彦選手は明らかな体格の違いに圧倒されたようでしたが、長距離はそれほどでもなかったようですね。


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ピストルの音で出場選手68人が一斉にスタート。マラソンはスタジアムを走って、外に出ていくことになっています。スタート地点では集団の中ほどにいた金栗でしたが、スタートしたとたん、外国人選手は猛スピードで飛び出し、たちまち金栗は最後尾になります。のちの金栗の回顧談です。


 「68人の選手が競技場の外に出たとき、私はビリだった。外国人はぐんぐんスピードを出す。あわてて無理にピッチを上げたのがわるかった」

 「スタートして外人は短距離を走るように走り、私は最後となり、実に面食らった。いわゆる調子がはじめから乱されていた」(『日本スポーツ百年』日本体育協会編)


 スタートでつまづいた金栗でしたが、その後、最初のハイスピードが仇となって失速してきた選手を徐々に抜き去り、少しずつ追い上げを見せます。しかし、次第に暑さによって体力を消耗し、目まいに襲われ始めました。後年、彼はこのように述懐しています。


 「途中で2、30人抜いて折り返し点をまわり、これなら相当いけるぞと思ったのも束の間、脚が痛みだし汗が目に入り、15マイルを過ぎるあたりから意識がぼんやりし始めて、途中で水をのんだりかぶったりしたのがなおいけなかったか」(『日本スポーツ百年』日本体育協会編)


 テレビ中継もラジオ中継もない時代ですが、選手たちの順位は、スタジアムで待つ観客にも逐一伝えられていたといいます。スタンドにいた嘉納治五郎団長をはじめ、大森監督ら関係者たちは、ドラマのようにさぞかし気をもんでいたことでしょうね。もっとも、大森監督がおとなしくベッドで寝ていてくれれば、レース前の体力の消耗はもう少し少なくてすんだでしょうが。


 レースを制したのは、暑さに慣れた南アフリカケネス・マッカーサー選手でした。何より、68名のマラソン競技参加者中、ほぼ半数の33名がゴールできなかったという結果が、このレースの過酷さを雄弁に語っているといえます。そして、その33名のなかに、金栗選手も入っていました。ところが、当初、その途中棄権者リストのなかに金栗の名前がなく、さりとてゴール地点にも現れず、忽然と姿を消してしまっていました。つまり、棄権ではなく失踪しちゃったんですね。その辺の経緯は来週に持ち越しのようでしたので、当ブログでも、ネタバレはやめておきます。つづきは来週にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-25 23:59 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

記録にも記憶にも残る希代の天才打者・イチロー選手、ついに引退。

イチロー選手引退を表明しましたね。

いつかはこの日が来るとは思っていましたが、やっぱ、もうちょっと見たかったですね、彼の勇姿を。

かつては50歳まで現役を続けたいという目標を語っていたイチロー選手でしたが、数年前までは、彼なら本当にやってのけるんじゃないかと思っていたのですが・・・。

でも、昨年、選手登録から外れたあたりから、この日が近いのではないかという予感はありましたよね。

残念です。

今朝のスポーツ紙、全部買ってしまいました。


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イチロー選手の輝かしい実績を挙げたらキリがないですが、日米通算4367安打のギネス世界記録はもちろん、メジャー通算3089安打は歴代22位の記録であり、生涯打率3割1分1厘は、3000本安打を達成した32人では最高の打率です。

メジャーに移籍した1年目の平成13年(2001年)には新人シーズン242安打(歴代1位)、平成16年(2004年)にはシーズン262安(歴代1位)、10年連続200安打(歴代1位)、5年連続両リーグ最多安打(歴代1位)、両リーグ最多安打7度(歴代1位)、たしか、メジャー通算2000安打もスピード記録だったはずです。

バッティングだけでなく、その肩はメジャー移籍1年目からレーザービームの異名をとり、10年連続ゴールデングラブ賞受賞は史上2人目の快挙。

走っても、通算509盗塁は歴代35位、500盗塁と3000本安打の両方を達成したのは、メジャー100年の歴史のなかで7人しかいません。


日本プロ野球時代を見ても、鮮烈なデビューとなった平成6年(1994年)の年間210安打は当時の歴代1位、7年連続首位打者(歴代1位)、首位打者7度(歴代1位)、年間打率3割8分7厘(パ・リーグ最高)、69試合連続出塁(歴代1位)、年間猛打賞26(当時歴代1位)、216打席連続無三振(歴代1位)、そして、日本通算1000安打もスピード記録でした。とにかく、彼の野球人生は、まさに記録ずくめといえます。


また、記録だけでなく、記憶にも残ったイチロー選手。

われわれ日本人ファンのなかで永遠に語り継がれるであろうシーンは、平成21年(2009年)のワールド・ベースボール・クラシック決勝戦で放った、あの延長10回のタイムリーでしょう。

シリーズ中、「心が折れかけていた。」と珍しく弱気な発言をするほど絶不調だったイチロー選手が、最後に魅せた渾身の一打

昭和の古いプロ野球ファンの方々が、記憶に残る名シーンとして天覧試合での長嶋茂雄選手のサヨナラ本塁打を挙げますが、平成の野球ファンにとっては、一番の名シーンはあのイチロー選手の伝説のタイムリーで異論はないんじゃないでしょうか。


それから、われわれ神戸市民にとって忘れられないのは、阪神・淡路大震災の翌年の平成8年(1996年)、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ二塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「神戸での胴上げ」を実現したシーンです。

阪神・淡路大震災以降、イチロー選手を始めとするオリックスの選手たちは「がんばろうKOBEスローガンを袖口に縫い付けたユニフォームを身にまとい、復興のシンボルとしてリーグ連覇を成し遂げ、イチロー選手自身も、平成7年(1997年)の震災の年には首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率のタイトルを獲得し、史上初の「打者五冠王」に輝きました。

あのとき、まさにイチロー選手は被災地に輝く希望の星でした。

今でもイチロー選手は神戸を第二の故郷と語っており、それが、神戸市民にとっての誇りでもあります。


あと、わたし個人的な思い出でいえば、平成6年(1994年)9月に第一子となる長男が生まれたのですが、ちょうどその年はイチロー選手が鮮烈な一軍デビューを果たした年で、9月といえば、まさに「史上初の200安打成るか!」と世間が注目していたときで、息子が生まれた9月13日に、元阪神の藤村富美男選手が持っていた最多安打記録191本を44年ぶりに更新したのを覚えています。

そんなイチローフィーバーにあやかって、地元の兵庫銀行(現みなと銀行)では、イチロー選手の200本安打を記念した「イチロー定期」という5年ものの定期預金が企画され、イチロー選手のシーズン最終打率3割8分5厘にちなんで利率3.85%という今では考えられない高利率で販売されたため、これも何かの縁と思い、息子の出産祝いにいただいたお金をそのままそっくりイチロー定期に預金しました。

証書には、200本安打を達成したときのネッピーとイチロー選手の写真が印刷されています。

いまとなってはお宝ですね。


あれから四半世紀、その息子も現在24歳になりました。

小・中・高と野球をやっていましたが、イチロー選手のような素質には恵まれず、普通に大学を出て、いまは会社員になっています。

その息子と同い年なのが、エンゼルスの大谷翔平選手です。

つまり、イチロー選手が史上初の200安打で世間の注目を浴びた年に、大谷選手は生まれたんです。

そう考えれば、イチロー選手が刻んできた歴史って、とてつもないですよね。


昨夜の記者会見の席で、今後の身の振り方についての質問に対して、「監督は絶対に無理。人望がない。」などと冗談交じりに語っていましたが、それで言うなら、名将・野村克也氏や落合博満氏なんかも、選手時代、決して万人から愛されるキャラではなかったですよ。

そのノムさん語録に、こんな言葉があります。


「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上なり」


金を稼いだだけでは下人、実績を残してもまだ凡人、人を育ててこそ初めて立派な人といえる、ということですね。

その意味では、これだけの偉業を成し遂げたイチロー選手でも、まだ凡人ということになります。

地位と名声を残した人には、その得手不得手にかかわらず、次の人材を育成する責務がある、そういう言葉なんじゃないでしょうか。

イチロー監督の野球、ぜひ見てみたいものです。


とにもかくにも、28年間お疲れさまでした。

イチロー選手という希代の天才打者と同じ時代を生きれたことを幸せに思います。

昭和を代表するプロ野球選手がONなら、平成の代表は間違いなくイチロー選手と断言しても異論はないでしょう。

その平成の代表が、まさに平成の終わりに一線を退く。

出来すぎのシナリオですね。


「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道」


平成16年(2004年)、メジャー年間最多安打記録を84年ぶりに更新したときのイチロー選手の言葉です。

再来週には新しい元号が発表されますが、次のステージでは、どんなとんでもないところに連れて行ってもらえるのか楽しみです。

これからも、鈴木一朗氏から目がはなせません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-03-22 23:19 | プロ野球 | Comments(2)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その4 「庭園~中の御殿跡~諏訪館跡」

「その3」のつづきです。

朝倉氏館跡の東の高台を上ると、湯殿跡庭園があります。


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一乗谷朝倉氏遺跡には、多くの庭園が遺存していますが、そのなかでも、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園、義景館跡庭園の4庭園が、「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991年)に国の特別名勝に指定されました。


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湯殿跡庭園は4庭園のなかでも最も古く、10代目当主の朝倉孝景の時代に造られたと推定されています。

説明板には「4代孝景」とありますが、一乗谷を拠点としてから4代目ということで、越前国に入国した朝倉広景を初代とすると、孝景は10代目となります。

ちなみに、一乗谷に拠点を移した7代目当主も「孝景」というので、ややこしいんですが・・・。


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湯殿跡庭園は南北に細長い約100㎡の池を中心に、その周囲に巨石が豪放に配置されています。

現在、池には水はなく、わたしの目にはただの岩石群にしか見えませんでした。


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湯殿跡庭園の南にある大きな空堀跡です。


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石垣も少し残存しています。


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空堀跡に架けられた橋を渡ると、広い敷地があります。


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ここは中の御殿跡で、足利義昭から従二位に叙せられた朝倉義景の母・光徳院が居住したと伝えられています。


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その案内板です。


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建物跡の礎石が並びます。

その向こうに見える草が生えてない部分は、池跡だそうです。


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中の御殿跡南門の石垣です。


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中の御殿跡東側の高台に上り、中の御殿跡を見下ろします。

遠くに見えるのは、「その2」で紹介した復原町並です。


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中の御殿跡から更に南下すると、諏訪館跡があります。

諏訪館は朝倉義景が4人目の側室だった小少将のために造ったと伝えられる館です。


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その敷地内南東には、諏訪館跡庭園があります。


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諏訪館跡庭園は一乗谷の庭園のなかでも最も大きな規模のもので、上下二段構成の回遊式庭園です。


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上段は滝石組湧泉石組、下段は大きなヤマモミジの下に高さ4.13m、幅2.5m日本最大の滝副石を使った豪壮な滝石組があります。


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滝副石の表面には、弘化4年(1847年)に心月寺十八世月泉和尚の筆により、朝倉教景、朝倉貞景、朝倉孝景の法号が刻まれています。


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湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園の3庭園は、発掘調査以前より庭石が地上に露出していたため、昭和5年(1930年)に国の名勝に指定されていたそうですが、その後の管理が不十分であったため、荒廃していたそうです。

その後、昭和42年(1967年)から文化庁指導のもとに整備が行われ、昭和62年(1987年)には湯殿跡、諏訪館跡で湧水用の石組溝や暗渠が発掘され、現在の姿になったそうです。


もう1回、シリーズを続けます。

「その5」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-21 11:29 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その3 「朝倉氏館跡」

「その2」の続きです。

一乗谷朝倉氏遺跡の復原町並の東側に流れる一乗谷川を渡ると、堀に囲われた朝倉氏館跡があります。

その入口には唐門があります。


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これは復元ではないそうですが、朝倉氏の時代にはなかった門で、朝倉氏滅亡後に豊臣秀吉朝倉義景の菩提を弔うために建てた松雲院の寺門だそうで、その後、江戸時代中期に再建されたものだそうです。


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唐門の幅は2.3mあります。


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唐門を潜ると、広大な敷地が広がります。

その背後に見える標高473mの山の山頂に一乗谷城があったのですが、この日は山城には登っていません。


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説明板です。


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西、南、北の三方を高さ1.2mから3mほどの土塁で囲われています。


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かつてはその土塁の上に、があったとされています。


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「垜(あずち)」と書かれています。

垜とは、弓場で的をかけるために土を山形に高く盛ったもののことだそうです。


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敷地内平坦部の面積は約6,400㎡あり、17棟の建築物があったそうです。


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敷地内にはその建物の礎石跡が整然と並びます。


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こちらは倉庫跡のようです。


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こちらは台所跡


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こちらは館内最大の常御殿跡です。

東西約21.4m、南北約14.2mあるそうです。


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その常御殿跡の南には、庭園跡があります。

一乗谷朝倉氏遺跡には、多くの庭園が遺存していますが、そのなかでも、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園、そしてここ義景館跡庭園の4庭園が、「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991年)に国の特別名勝に指定されました。

他の3庭園と違って、この義景館跡庭園は完全に埋没していたものを、昭和43年(1968年)の発掘調査で発見されたものだそうです。

この庭園を囲むように接客用の館が建てられていたと考えられています。


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館跡東側の高台に上り、館跡を見下ろします。

中央のいちばん広い区画が常御殿跡。


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その手前に見える池のところが、義景館跡庭園です。

義景は、のちに室町幕府の第15代将軍となる足利義昭が上洛への助力を要請するために訪れてきたとき、この館に迎えて盛大に饗したと伝わります。

義昭は2年間一乗谷に滞在しますが、義景には上洛する気はなく、その後、朝倉氏に仕えていた明智光秀の仲介により、織田信長を頼ることになるんですね。


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遺跡は広大です。

シリーズは「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-20 01:42 | 福井の史跡・観光 | Comments(4)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第11話「百年の孤独」 ~開会式と三島弥彦選手の挑戦~

明治45年(1912年)7月6日、第5回ストックホルムオリンピック開会式が行われました。それは、現在のように大会初日ではなく、大会期間中で最も多くの選手が集まりやすい日に行われたようです。というのも、この頃のオリンピックの開催期間は現在のオリンピックのように半月ほどの日程ではなく、5月5日から7月27日までの約3か月半以上の長丁場だったそうです。当時の交通機関の移動手段などを考えれば、それぐらい必要だったのでしょうね。開会式というより、お披露目式といった趣旨の入場行進だったのでしょう。


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 日本の入場はイタリアの次でした。白い半袖半ズボンのユニフォームの胸には、日の丸が付いていて、三島弥彦選手は白いシューズ、金栗四三選手は黒い足袋での入場行進でした。三島選手が日の丸を掲げ、金栗選手がプラカードを持ちました。そこに記された国名は、JAPANではなくNIPPON。この表記にこだわったのが金栗選手だったかどうかはわかりませんが、たしかに、当時の日本人にとってJAPANなんて単語は、あまり馴染みはなかったでしょうね。そもそも、国名や地名は固有名詞なわけですから、東京はTOKYO、大阪はOSAKAであるように、日本はNIPPONであるべきなんですね。JAPANの語源は諸説ありますが、マルコ・ポーロ東方見聞録に登場する「黄金の国・ジパング (ZIPANG)から来たという説が有力となっています。そんな16世紀の西洋人がつけた呼称が世界公用語だと言われても、日本人としては納得いきませんよね。そう考えれば、日本人が日本人のことを「エキゾチック・ジャパン」なんて歌っちゃだめです(笑)。


 ちなみに、5つの大陸を表したという青、黄、黒、緑、赤の五輪マークは、この時点ではまだ存在せず、この2年後のパリでの会議でピエール・ド・クーベルタン男爵が初めて提案します。おそらく、このストックホルムオリンピックに日本や南アフリカが参加したことで、ようやくオリンピックで五大陸が輪でつながったという意味だったのでしょうね。


e0158128_21444997.jpg かくして日本人初のオリンピック選手2人の戦いが始まりますが、最初に世界と戦ったのは、短距離走の三島選手でした。入場行進当日の7月6日、三島は100m走の予選に出ますが、結果は11秒8で予選落ち。優勝したアメリカのラルフ・クレイグ選手のタイムが10秒8だったといいますから、1秒差の惨敗です。1秒といえば、およそ10m差ですからね。まったく歯が立たなかったといっていいでしょう。7月10日には200m走に挑戦した三島選手でしたが、ここでも最下位。その2日後の7月12日に行われた400m走では、エントリー選手5人のうち3人が棄権したため2人のレースとなり、予選2位以上が決勝進出という条件から三島は決勝進出の権利を得ますが、ここで三島は棄権しました。自分には決勝で走る力はないと悟ったのでしょうね。


「敵はタイムのみ。一緒に走る選手のことはライバルではなく、タイムという同じ敵に立ち向かう同志と思いたまえ」


 ドラマでプレッシャーに押しつぶされそうになっていた三島選手にかけた大森兵蔵監督の台詞ですが、いい言葉ですね。わたしは数年前まで少年野球の指導者を長くやらせてもらっていましたが、よく子供たちに言い聞かせていたのは、「他人と比べて上手い下手を気にするのではなく、昨日の自分より今日の自分が上手くなれるよう頑張れ!」という言葉でした。スポーツのみならずですが、いちばんの敵は自分自。自分との戦いに勝ってこそ、人は成長していくものだと思います。


 とはいえ、このときの三島選手の400mのタイムは56秒2。羽田での国内予選大会のときのタイムが59秒6だったことを思えば、昨日の自分より格段に速い記録を打ち立てているのですが、このとき優勝したアメリカのリードパス選手のタイムが48秒2だったといいますから、日本国内で無敵を誇った三島選手にして、世界の舞台ではまったく相手にならないどころか、初めから競技の土台にも立っていない状況だったといえそうです。


 「日本人に短距離走は無理です。100年掛かっても無理です。」


 ドラマ中、100m、200m、400m走の3種目を走り終えた三島選手が言った言葉ですが、いだてん紀行で紹介されていたように、三島から96年後に行われた2008年の北京オリンピックにおいて、塚原直貴、末続慎吾、高平慎士、朝原宣治K(4×100mリレー)日本人初のメダルを獲得しました(当初は銅メダルでしたが、のちにジャマイカの「金」はく奪のため、銀メダルに格上げ)。しかし、水を差すようですが、あれとて、アメリカ等の強豪国がバトンパスのミスや引き継ぎ違反で決勝に進めなかったことが日本にとってラッキーだったためで、本当の意味で世界に通用したとは言えないと思います。それで言うなら、2017年に桐生祥秀選手が日本人初の9秒台をマークした9秒98のタイム。これはとんでもなくスゴイことで、2019年3月の現時点で100m走9秒台の選は全世界で136人いますが、そのなかで非ネグロイド(黒人以外)の選手は8人しかいません。そこにようやく日本人選手が名を連ねた。三島選手のストックホルムから実に105年後のことで、まさしく三島選手の言葉どおり100年以上掛かったわけですが、それでも、桐生選手のタイムは世界順位でいえば106位で、非ネグロイド8人のなかでも7位です。ようやく世界と戦える入口に立ったという段階といっていいでしょうね。短距離走における日本人の挑戦は、まだまだ先は長そうです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-03-18 00:15 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(2)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その2 「復原町並み」

「その1」の続きです。

広大な一乗谷朝倉氏遺跡の一角に、城下町を復原したゾーンがあります。

今回はその復原町並を歩きます。


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復原町並は土塀で囲われています。


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塀に囲われた重臣の屋敷が山側に並び、計画的に造られた道路を挟んで武家屋敷や庶民の町屋が形成されていた様子がリアルに再現されています。

発掘された石垣建物礎石をそのまま使い、建具なども出土した遺物に基いて忠実に再現されています。


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町屋の入口には色とりどりの暖簾がかけられています。


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こちらの暖簾には「刃」という文字があります。


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どうやら鍛冶屋のようですね。


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こちらは染物屋


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なかには染料の瓶がならびます。


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こちらの建物には暖簾がかかっていませんが・・・。


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中に入ると、焼き物がずらりと並んでいました。

陶器屋のようです。


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裏庭に出てみました。

庭には隣家との垣根がありません。


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井戸跡ですね。


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こちらは、どうやら武家屋敷の門のようです。


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武家屋敷は町家と違って四方を土塀で囲われています。


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敷地内には6間×4間主殿があり、あと、納屋離れもあります。

庭の中央には井戸が。

これらはすべて、発掘された礎石に基いて復原されたものです。


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こちらは使用人が暮らしていたとされる納屋です。


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です。


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こちらが主殿です。


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入ってすぐの台所では、使用人たちが食事の準備中です。


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奥の座敷では、武士が将棋を指しています。

その横には「越前朝倉象棋」と書かれた看板が見えます。

調べてみると、普通の将棋とはちょっと違うみたいで、「酔象(すいぞう)」と呼ばれる駒を使うそうです。

酔象は駒を並べたとき王将のすぐ前に置くそうで、真後ろ以外の7方向へ1マスずつ移動でき、さらに、相手陣に入ると成って「太子」となり王将と同じ動きをするそうです。

また、自軍の王将がとられてしまっても、王将の代わりとして試合を続行できるんだそうで・・・。

いわば王の影武者ですね。

昔の将棋は、実践的です。


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その隣にはが展示されていたのですが、角度的に撮影が難しかったので、その説明板のみ撮影。

朝倉氏最後の当主・朝倉義景と友好関係にあった北近江の小谷城主・浅井長政の厚い信義にあやかって、平成9年(1997年)に作られた鎧だそうです。

義景と長政、織田信長によって薄濃の髑髏にされたふたりですね。

平成になって再び同盟を結んでいたとは知りませんでした。


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さて、復原町並をあとにして、「その3」では朝倉氏館跡を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-15 20:09 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その1 「下城戸跡~武家屋敷跡」

福井県福井市の市街地から東南に10kmほどのところある一乗谷朝倉氏遺跡を訪れました。

ここは、文明3年(1471年)から天正元年(1573年)までの103年間、戦国大名の朝倉氏が領国支配の拠点とした場所で、一乗谷城を中心とする城下町の跡が、そのままそっくり埋もれていたものを、昭和42年(1967年)から進められた発掘調査によって、広大な遺跡が地上に出現したという貴重な遺跡です。


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一乗谷は東、西、南を山に囲まれた谷で、南北の谷幅が最も狭まった場所に城戸を設けて防御を固め、その間の長さ約1.7km「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された城下町が形成されていました。

上の写真は、その最北部の「下城戸跡」に建てられた石碑です。


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遺跡案内図です。

下部の「現在地」表記の場所が、下城戸跡です。


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下城戸跡にある幅18m、高さ5m、長さ20mの土塁跡です。

かつては長さ50mほどあったと推定されているそうです。


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土塁の横の入口部分は、枡形虎口のかたちをした門跡があります。


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積まれている石は重さ10t超の巨石ばかりで、なかには40tを超えるものもあるとか。


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下城戸跡から1.5kmほど南下したところにある駐車場に車を停めて、遺跡をめぐります。

上の写真はその案内図です。


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有料区域の遺跡です。

写真右側に見える土塀は、復元街並の区画です。


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遺跡はとにかく広大で、広大すぎるため写真では伝わりづらいですね。


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朝倉氏はかつて但馬国を拠点としていた豪族でしたが、南北朝時代に朝倉広景が足利一族の斯波高経に従って越前国に入国しました。

その後、7代当主の朝倉孝景のとき、応仁の乱での活躍をきかっけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前国を平定しました。

以後、孝景、氏景、貞景、孝景、義景5代103年間にわたって、この地が越前国の中心として栄えます。


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この103年間の繁栄はたいへんなものだったようで、雪国でありながら京や奈良の貴族や僧侶などが大勢下向し、「北陸の小京都」と呼ばれていたといいます。

ところが、天正元年(1573年)の刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き討ちにあって灰燼に帰します。


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このあたりは武家屋敷が立ち並ぶ地区だったようです。


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礎石跡が規則正しく並んでおり、かつて建物があったということが確認できます。


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井戸跡ですね。


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とにかく広大すぎて、写真で見ただけじゃただの空き地ですね(笑)。

この遺蹟の素晴らしさはドローンでもなけりゃ伝わらないですね。

「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-14 09:49 | 福井の史跡・観光 | Comments(2)