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いだてん~東京オリムピック噺~ 第16話「ベルリンの壁」 ~第一次世界大戦~

 大正3年(1914年)6月28日、バルカン半島のサラエヴォで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が自動車に乗っているところをピストルで撃たれ、夫婦揃って暗殺されました。犯人はオーストリアのバルカン半島支配に反発する青年でした。この事件でセルビアドイツの関係が悪化し、とうとうドイツがセルビアに宣戦布告。それがきっかけとなって第一次世界大戦が勃発します。


 この時代の世界情勢は、19世紀から続く植民地争奪競争の真っただ中でした。明治43年(1910年)にはイギリスがアフリカ大陸の南の端のボーア人の国に攻め込み、これを征服して植民地とし、南アフリカ連邦を作りました。そして、その奥地のキンバリーという鉱山を押さえ、そこから出るダイヤモンドを独占します。これを見たドイツやフランスも、指を加えて見ているわけにはいかず、負けじとアフリカ大陸に植民地を作りました。アジアでも、ロシア旅順、大連を租借して鉄道を敷くと、ドイツは青島を租借して、そこから済南まで鉄道を造る。フランスはベトナムを領土にしていましたから、そこから更に手を伸ばして南の広州湾を租借する。そして日本も、韓国併合に続いて満州に手を伸ばすなど、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、世界の植民地争奪競争は激化していました。


 そんななか、ドイツはオーストリアと手を結び、イギリスはフランス、アメリカと協力し、両陣営の対立が深まっていきます。そして、上述したサラエヴォ事件をきかっけに第一次世界大戦に発展し、これが、4年も続くことになります。


日本は、当時、日露戦争前に結んだ日英同盟があったので、イギリスに加担していました。日本にとっては、遠いヨーロッパでの戦争ということで、特にドイツと敵対する理由もなかったのですが、イギリスからの要請もあり、戦争に加わります。当時の日本は大隈重信内閣でしたが、イギリスに恩を売るために、ちょっとだけ軍事行動っぽいことをやって、勝ち馬に乗っかったという感じの参戦でした。ただ、戦争期間中、ヨーロッパ諸国は大戦に手一杯でアジアに手が回らず、その間、アジアに対する輸出を日本が独り占めにし、たいそうボロ儲けをしたようです。当時、日本は日露戦争で使った莫大な戦費により借金まみれで、財政は困窮を極めていましたが、第一次世界大戦の間の好景気で、一気に財政を立て直します。まさしく、漁夫の利ってやつですね。時代は下りますが、昭和の敗戦後の日本も、焼け野原となった日本を救ったのは、朝鮮戦争の特需でした。言葉は悪いですが、対岸の火事は儲かるんです。戦争で困窮した財政を戦争が立て直す。皮肉な現実です。


 第一次世界大戦の勃発によって、大正5年(1916年)に開催される予定だった第6回ベルリンオリンピック中止となります。開催国ドイツは大戦の中心国ですから、やむを得ない決定だったでしょうね。しかし、金栗四三らにとっては、そんなことは知ったこっちゃなかったでしょう。これによって、金栗は年齢的に最もピークの時期を棒に振ることになります。気の毒としか言いようがありません。


e0158128_00063073.jpg これと似た話が昭和の時代にもありましたよね。戦前の東京オリンピックの中止もそうですが、わたしたち戦後生まれでもよく知っているのは、昭和55年(1980年)のソ連アフガニスタン侵攻による西欧諸国モスクワオリンピックボイコットです。「いだてん紀行」では、レスリングの髙田裕司選手や柔道の山下泰裕選手がクローズアップされていましたが、当時、中学生だったわたしがもっとも悔しかったのは、金栗と同じく金メダル間違いなしと期待された男子マラソンの瀬古利彦選手でした。当時の瀬古選手は向かうところ敵なしの絶頂期で、国民も、そして瀬古選手自身も、日本人初のマラソン金メダルを確信していました。事実、それを実証するかのように、モスクワオリンピック後の12月に行われた福岡国際マラソンで、瀬古選手はモスクワオリンピック金メダリストの東ドイツのチェルピンスキー選手を破って優勝します。その後、なんとか瀬古選手に金メダルを獲らせたいという国民の願いは叶わず、4年後のロサンゼルスオリンピック、さらにその4年後のソウルオリンピックでは、残念ながらメダルに届きませんでした。もし、モスクワに瀬古選手が出ていたら・・・。いまでも思わずにいられません。


 モスクワオリンピックの4年後に開催されたロサンゼルスオリンピックは、モスクワのボイコットの報復とばかりに、今度は東側諸国がボイコットしました。


「政治とスポーツは別だ。オリンピックは平和の祭典。4年に一度の相互理解の場なんだよ。たとえ戦時中でも、殺し合いの最中でも、スタジアムは聖域だ!汚されてたまるか!」


 ドラマ中の嘉納治五郎の台詞ですが、残念ながら、この嘉納の理想は、このときも、そして70年後の未来でも、そして現代でも、未だクリアできていません。人間とは愚かな生き物ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-30 00:07 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その3「本丸中の段」

「その2」の続きです。

下の段南面から中の段に登ります。

ここも枡形虎口になっており、不明門(復元)を見上げながらL字に曲がらされます。


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石段を登ると、鉄門跡があります。


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この両側の石垣を渡すように、かつて鉄板で覆われた櫓門がありました。


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鉄門跡を過ぎてまっすぐ西へ進むと、中の段南西隅櫓の大納戸櫓跡があります。

この大納戸櫓は、櫓の多さでは全国で最多級といわれる岡山城の櫓のなかで最も大きな3重4階の櫓で、その姿は天守といってもいいような雄姿だったといいます。


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説明板に、古写真に写るその姿が紹介されていました。

一説には、永禄年間(1558~70年)に宇喜多秀家の父・宇喜多直家が築いたといわれる沼城の天守移築したものとも言われます。

沼城は岡山城の北東10kmほどの位置にありました。

古写真に残る大納戸櫓は、城郭の天守が登場したころの形態を示していることから、沼城の天守だったという説の信憑性は高いと考えられているそうです。


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大納戸櫓から中の段西側を北に向かって伸びる多門櫓跡です。

説明板によると、大納戸櫓から伊部櫓の間に、長さ37m、幅4mの多聞櫓があったそうです。


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ここがその伊部櫓跡

説明板によると、伊部櫓は白壁造りの3階建ての櫓だったそうです。


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そして、伊部櫓と北側の数寄方櫓をつなぐ長さ30m、幅5m多門櫓跡です。


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そして、ここが数寄方櫓跡

数寄方櫓も伊部櫓と同じく白壁造りの3階建ての櫓だったそうです。


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そしてこちらが、中の段北西隅にある岡山城唯一の現存する櫓月見櫓です。


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月見櫓は、池田氏二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築に際して、本丸搦め手に備えて建てた隅櫓です。

1階が×4間で、地上2階、地下1階の構造で、城外側から見ると二重に見え、城内側から見ると、地階に屋根がつくため三重に見えます。

変則的な櫓で、櫓からの眺望を考慮して城内側は開放的になっており、櫓では珍しく最上階に廻縁がついています。

その名のとおり、ここで月見の宴が催されていたのかもしれません。


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説明板です。


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石碑には、「国宝」と刻まれていますね。

これは、戦前の「旧国宝」のことです。

現在は重要文化財に指定されています。


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中の段の真ん中には、かつて表書院がありました。

表書院は岡山藩の政庁の役割を果たしていた建物で、大小60を超える部屋があったとされています。

現在、その建物は残っておらず、だだっ広い空間にその区画を示す部屋割りが地面に表示

されています。


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説明板には、その平面図が紹介されていました。


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中の段表書院跡から見上げる天守です。


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こちらは、表書院の中庭にあった泉水

復元です。


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こちらは穴蔵

もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたと考えられています。


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中の段広場内には、発掘調査で出土した宇喜多秀家時代の石垣が展示されています。


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これらの石垣は、出土した場所にそのまま残されて展示されています。

写真を見てわかるように、かなり深い場所から出土しています。

この出土によって、この中の段が江戸時代での城域の拡張工事の際に作られたということがわかります。


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で、最初に紹介した鉄門跡のすぐ上にある不明門(あかずのもん)です。

その名の通り、儀式のとき以外に開かれることはなく、この名称となったそうです。

でも、南側の鉄門跡から不明門は、大手門にあたるはず。

大手門は使用せず、鉄門から表書院の中を通って北側の搦手門の廊下門から本段に登っていたのでしょうか?


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昭和41年(1966年)再建の鉄筋コンクリート製ですが、立派な門です。

こんな立派な門なのに、使われていなかったなんてもったいない。


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さて、不明門を潜って、「その4」では、いよいよ本丸本段に登ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-26 21:09 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その2「本丸下の段」

「その1」の続きです。

岡山城本丸は、下の段、中の段、本段の三段で構成されています。

本稿では、下の段を歩きます。


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上の写真は中の段南西隅の大納戸櫓下石垣です。

見てのとおりの野面積みですが、それほど古いものではなく、関ヶ原の戦い後小早川秀秋が築いたものだそうです。


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下の段西側の石垣です。

コの字型になっているのですが、向こうの出隅部分の石垣が打込み接ぎ、入隅より手前の赤みがかった石垣が野面積み、手前の低い石垣が切込み接ぎと、明らかに築いた時代が違うであろう3種の石垣が一度に見られるスポットです。


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左が打込み接ぎ、右が野面積みですね。


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こちらは、左が野面積み、右下の低い石垣が切込み接ぎです。


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説明板によると、野面積みの部分が関ヶ原の戦い後に小早川秀秋が築いたもので、打込み接ぎ部分が1620年代に池田忠雄が築いたものだそうです。

その奥には、宇喜多秀家時代の石垣が埋まっているそうです。


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ここらで岡山城の歴史について触れておきます。

岡山城の前身は、南北朝時代に南朝の功臣・名和一族上神高直という人物が築いたとされる石山城と呼ばれる城だったといいます。

しかし、その後についての史料がなく、150年以上に渡って城主も不明で、どのような城だったかも定かではありません。


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次に石山城の存在が記録として確認できるのが、大永年間(1521~27年)に金光備前が在城し、金川城主松田氏に仕えていたという記録です。

この金光氏を滅ぼしたのが、宇喜多秀家の父・宇喜多直家でした。

元亀元年(1570年)に石山城を手に入れた直家は、城の大改修に着手し、3年後の天正元年(1573年)に入城しました。

しかし、その8年後の天正9年(1581年)に直家は死去し、その後、跡を継いだ当時10歳だった秀家は、豊臣秀吉庇護を受けて成長し、57万石の大大名に成長すると、この地に新しく大規模な城を8年の歳月を掛けて築城し、慶長2年(1597年)に完成しました。

このとき、名称を「岡山城」とし、同時に整備された城下町も「岡山」と呼ぶようになったそうです。


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その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いたことで秀家は八丈島へ流罪となり、代わって筑前国名島より小早川秀秋が備前・美作52万石の大名として岡山へ入封します。

しかし、その秀秋も2年後に急死し、嫡子もいなかったことから小早川家は断絶となりました。

その翌年の慶長8年(1603年)に播磨国姫路藩主の池田輝政の五男・池田忠継28万石で岡山藩主となり、その後は幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、池田家を藩主として明治維新に至りました。


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と、歴史を語っている間に下の段北側まで歩いてきました。

写真は、中の段北西の隅櫓・月見櫓を下の段から見上げたものです。


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月見櫓は本丸内で唯一現存する櫓で、元和元年(1615年)に岡山藩主となった池田忠雄が建てたものだそうです。


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その説明板です。


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月見櫓を見ながら、下の段北側を東に向かって歩きます。

石垣は、小納戸櫓下の石垣です。


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きれいな打込み接ぎです。


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小納戸櫓下の石垣の東側には、漆黒の天守が見えます。

小納戸櫓と天守台の間に、中の段に繋がる搦手門廊下門があります。


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これがその廊下門(再建)です。


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廊下門前から見上げる天守北側です。

その手前に見える石碑は、宇喜多直家・秀家父子を称える顕彰碑です。


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これがその顕彰碑。


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天守です。


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よく見ると、一層目に鈍角に突き出した角があることがわかるでしょうか?

岡山城の天守は、珍しい不等辺五角形になっています。

これは、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかという説や、豊臣秀吉の大坂城天守を模しているという説、また、当時の土地の形をそのまま利用したからこうなったという説など、様々な見方があるようです。


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天守台の石垣です。

野面積みですね。

これは、最も古い宇喜多秀家の築城時のものだそうです。


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説明板によると、石垣が赤く変色しているのは、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲時によるものだそうです。


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天守台沿いにそのまま下の段東側に向かって歩きます。


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下の段東側の水の手と本段をつなぐ六十一雁木上門(要害門)です。

要害門とは、非常口のようなものでしょうか?


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「六十一雁木上門」という名前の由来は、江戸時代初期に整備された際に、61段の石段があったことにちなんでいるそうです。


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門は再建ですが、石垣や石段は池田氏時代に築かれたものです。


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下の段南側にやってきました。

写真左側に見える建物は、中の段と本段を結ぶ不明門(復元)です。

その右側に続く白塀の下の高い石垣は、本段の石垣。


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石垣は宇喜多時代のものだそうです。


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その説明板です。


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門の下の石垣だけ色が新しいのは、たぶん、門を復元する際に足されたのでしょうね。


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ここから中の段に登ります。

下の段だけでずいぶんと長くなっちゃいました。

次稿、中の段を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-25 10:38 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その1「内堀~大手門」

過日、備前岡山城を訪れました。

岡山城は、豊臣秀吉から目をかけられ、57万石の大大名となった豊臣五大老のひとり・宇喜多秀家が8年の歳月をかけて完成させた梯郭式平山城です。

現在、城跡は国の史跡に、岡山後楽園は国の特別名勝に指定されています。


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岡山城の登城ルートは、南側の大手門から入るルートと、北側の後楽園側の搦手門から入るルートとがありますが、この日は、南側の大手門から登城しました。

写真は、大手門前に建つ「烏城みち」の石碑。

「烏城」とは岡山城の別名で、天守が黒漆塗の外観のため、そう呼ばれるようになったそうです。


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城跡南西から見た内堀石垣です。

岡山城の内堀は本丸の南側と西側にL型で構成されています。

北側と東側には旭川が流れており、天然の堀の役割を果たしています。


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城跡公園の案内図です。

南側と西側をL型で守っているのがわかります。


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こちらは南側内堀

土橋が見えるのは、大手門に通じる目安橋(内下馬橋)です。


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内堀南西隅にある太鼓櫓跡の石垣です。

野面積みですね。


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大手門に向かって目安橋(内下馬橋)を渡ります。

寛永9年(1632年)に因幡鳥取から入封した池田光政の時代、この橋のたもとに領民からの投書を受け付けるための目安箱が置かれたことから、そう呼ばれるようになったのだとか。

かつては木橋が架けられていたそうですが、明治になって撤去され、土橋に改められました。


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橋をわたると枡形虎口の形状になっています。

その隅には、「烏城公園」と刻まれた石碑が。


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枡形虎口内にある大石の説明板です。


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枡形のニノ門跡です。

かつてここには櫓門がありました。


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その櫓門の土台の石垣です。

ここにも大石が使用されています。

説明板によると、これらの巨石は実は板状になっていて、厚さはないそうです。

発掘調査の結果、関ヶ原の戦い後に池田氏が築いたものと考えられているそうです。


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さて、本丸内に入りました。

「その2」では本丸下の段を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-24 01:02 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第15話「ああ結婚」 ~金栗四三の結婚~

 「しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」


e0158128_19143806.jpg ストックホルムで途中棄権した翌日の日記にこう記した金栗四三は、その誓いどおり、帰国するとすぐに4年後のオリンピックに向けてトレーニングを開始しました。日本人初のオリンピック選手として経験したことを未来に繋げねばならない。彼は自身の失敗を教訓に、まずは暑さを克服すること、そして欧州の硬い石畳や舗装された道路への対策など、様々な工夫を凝らして練習に励みます。そして大正3年(1914年)に東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業した彼は、当初、名古屋の愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高校)の教師に赴任することが内定していましたが、悩んだすえ、この話を断ったそうです。理由は、次のオリンピックに向けての練習に専念したいという思いからでした。彼の並々ならぬ覚悟のほどが窺えますね。そんな金栗の思いに対して、嘉納治五郎校長は東京高師の研究科に籍をおいて練習に励めるよう配慮します。金栗を日本初のオリンピック選手にしたのは嘉納ですから、最後まで支援しようという思いだったのでしょう。ドラマで、「プロフェッショナル」という言葉が出てきましたが、まさしく、日本初のプロスポーツ選手の誕生だったといえるかもしれません。


 同じ年の4月10日、金栗は地元、熊本県の池部家の養子となる話がまとまり、石貫村の医者の娘である春野スヤ結婚します。金栗は数え歳で24歳、スヤは23歳でした。ドラマではスヤは再婚という設定ですが、実際にもそうだったのかどうかは知りません。まあ、当時の女子の23歳といえば、行き遅れの年齢と言えるでしょうから、再婚は本当の話だったかもしれませんね。オリンピック選手との結婚と聞けば、現代の感覚でいえば華やかな縁談に思えますが、当時の感覚でいえば、変わり者と結婚するようなものだったかもしれません。スポーツ選手なんて職業は存在しなかった時代ですからね。当時の結婚適齢期の16、7歳の初婚の娘さんには、とても相手にはされなかったかもしれませんね。実際のところ、年増のバツイチが関の山だったんじゃないでしょうか。


 ちなみに、ドラマでは金栗とスヤは幼馴染の設定ですが、これも、本当の話かどうかはわかりません。たぶん、ドラマオリジナルの設定なんじゃないでしょうか。ちなみにちなみに、池部家の養子となった金栗でしたが、かれはその後も旧姓の「金栗」を名乗り続けます。日本初のオリンピック代表選手として彼の名はすでに全国に知れ渡っていましたからね。そのへんを考慮してのことだったのかもしれません。


 さて、晴れて妻帯者となった金栗でしたが、祝言から5日目には新妻を残して東京に旅立って行きました。次のオリンピックを目指して練習に励むためでしたが、それを可能にしてくれたのが、池部家の養母による支援でした。こののち、養母の幾江は東京の金栗に仕送りし続けます。当時、都会で働く息子は実家に仕送りをするのが当たり前でしたから、全く逆だったんですね。金栗は幾江とスヤに宛てて筆マメに便りを送っていますが、それは、仕事もせずに走ってばかりいることで、妻と養母に対しての引け目だったのかもしれません。


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 ちなみに余談ですが、オープニングのタイトルバックに現れたスヤさんの回転レシーブにはビックリしましたね。あと、スヤさんの冷水浴。あのシーンの瞬間視聴率は高かったんじゃないでしょうか(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-22 00:53 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

黒田官兵衛の生誕地と伝わる播磨黒田城跡を訪ねて。

兵庫県西脇市に黒田官兵衛孝高生誕地と伝わる黒田城跡があります。

江戸時代に編纂された福岡藩主・黒田家の公式記録『黒田家譜』によると、官兵衛の祖先の黒田氏は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市木之本町)の出自で、官兵衛の生誕地は姫路であると記されており、これが通説になっています。

ただ、これは実は確たる証拠はなく、『黒田家譜』の記述によるところが大きいのが事実です。

一方で、江戸時代に編纂された播磨国の地方史料などには、官兵衛やその父は多可郡黒田村(現在の西脇市黒田庄黒田)生まれとする記録が多数あり、江戸時代の播磨地区では、その説が広く認識されていたようです。


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現在、その跡地には「黒田官兵衛生誕の里」と刻まれた石碑が建てられています。


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最近建てられた石碑のように思えたので裏を見てみると、「平成二十六年NHK大河ドラマ軍師官兵衛放映祝碑」とありました。

なるほど、大河ドラマ誘致が決まって、にわかに建てられたもののようですね。


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駐車スペースに車を停めて、誘導表示に従って進みます。


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道中も官兵衛推しです。


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しばらく進むと、「姥が懐」と書かれた看板と「黒田官兵衛生誕地」と刻まれた石碑が建てられている場所に出ます。


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『播磨古事』によると、城山と黒田城下を流れる北谷川に囲まれた田畑の周辺が「姥が懐」と記されており、このすぐ近くにあった多田城(構居)に付随する邸宅跡だったと伝わるそうです。

官兵衛生誕地というのは、あくまで推測です。


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その説明板です。


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さて、城跡に向かって進みましょう。


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道中、とにかく官兵衛生誕地推しです。

大河ドラマ効果というのは絶大ですね。


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城跡本丸跡には現在稲荷神社が鎮座しており、登り口には鳥居があります。


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その横には、官兵衛の里と書かれた案内看板が。


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鳥居が連なる石段を登ります。


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頂上が見えてきました。


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どうやらここが本丸跡のようです。


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「黒田城跡」と記された木碑と説明板があります。


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説明板です。


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縄張り図。


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説明板によると、黒田氏は赤松則村(円心)の弟・赤松円光を先祖とする赤松庶流の一族で、観応2年(1351年)に円光の子・七郎重光が多可郡黒田城に移り、黒田七郎重光と名乗って初代となったそうです。

その後、9代・黒田治隆まで200年以上この地を拠点としますが、元亀3年(1572年)に丹波の赤井五郎、石原掃部助連合軍の突然の襲撃に敗れ、黒田城は落城しました。

一方、治隆の弟・孝隆は、それより早く姫路城主・小寺職隆の猶子(養子)となっており、御着城主・小寺政職家老になっていました。

この小寺官兵衛孝隆が、のちの黒田官兵衛孝高だと説明しています。


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本丸跡からの眺望です。


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本丸跡に鎮座する稲荷神社。


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こちらは、縄張り図にあった東郭です。


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黒田氏播磨国発祥説

通説とは大きく異なる説ですが、通説自体も根拠に乏しい分、こちらの説も、まったくの俗説といってしまうことも出来ないでしょう。

実際、官兵衛は播磨国で育ったことは間違いないわけですから、むしろ、近江国から流れて来たという説よりも、もともと播磨国発祥という説のほうが、見方によっては自然な気がしないでもないです。

官兵衛のみならずですが、中興の祖と呼ばれる戦国大名のそれ以前の出自というのは、けっこう曖昧で、後世に作られたものが多いですからね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-20 19:54 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

但馬国守護大名山名氏の本拠、此隅山城登城記。 <後編>

前編の続きです。

西郭を跡にして、主郭を目指します。


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ここから主郭までの進路には、小さな郭跡とみられる削平地が連なっています。

いよいよ主郭近しといった感じです。


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傾斜がキツくなってきました。


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主郭の近くまで登ると、大きな岩がゴツゴツと行く手を阻みます。

足の短いわたしにはツライ(笑)。


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ようやく登りきり、広い削平地に出ました。

ここは主郭下の第2郭です。

のちの言葉で言う二ノ丸ですね。


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ここまで、麓から約30分ほどです。


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二ノ丸と主郭の間にある「切岸」です。

切岸とは、斜面を削って人工的に断崖とした構造で、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られた防御壁です。


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その説明書き。


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そして、ここを登ると主郭です。

いざ!


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主郭です。

のちの用語でいえば本丸ですね。

此隅山城の主郭は標高140mの山頂にあり、南北42m、東西15mの細長い形をしています。


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此隅山城は但馬国の守護大名・山名氏の居城として、伝承では応安5年(1372年)頃に山名時義が築城したとされていますが、定かではありません。

応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱では、西軍の総帥となった山名宗全(持豊)の元に計2万6千の軍勢が集まったといいますが、それも、ここ此隅山城だったと伝えられます。


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此隅山城が古文書ではじめて確認できるのは、永正元年(1504年)夏のことで、山名致豊垣屋続成との抗争で、垣屋続成が山名致豊と田結庄豊朝の立て籠もる此隅山城を攻めたという記述が残っています。

しかし、戦国時代に入って山名氏はその勢力を失い、永禄12年(1569年)に織田軍の羽柴秀吉但馬侵攻によって但馬国の18の城が落とされ、そのとき、ここ此隅山城も落城しました。

この後、その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊は、天正2年(1574年)にここから約3km南の有子山山頂に有子山城(参照:有子山城跡と出石城跡登城記。)を築いて本拠としました。

此隅山城は別名・子盗城とも言いますが、その「子盗」という名を山名祐豊が嫌って、次の城は「有子」城と名付けられたともいわれています。


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主郭からの眺望です。


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主郭に設置された説明書きと縄張り図です。

縄張り図を見ると、主郭を中心に、尾根伝いに四方に郭が多数連なっているのがわかります。

説明書きによると、尾根という尾根にこれだけ多数の郭を設けている例はあまりないそうです。

主郭はそれほど大きくはありませんが、縄張り全体で見ると、南北約750m、東西約1200mもあり、但馬国最大の大城郭だったことがわかります。


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下山しました。

此隅山城の遠景です。

なんか、カメラの設定が狂っていたようで、色が変になっちゃっています。


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南側に目を向けると、有子山城も見えます。


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山名氏はその後、祐豊の息子の山名堯熙のときに毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で再び攻撃を受け、有子山城は落城。

200年に渡って隆盛を誇った山名氏は滅亡しました。

栄枯盛衰は世の慣いです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-19 00:30 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

但馬国守護大名山名氏の本拠、此隅山城登城記。 <前編>

先日の稿で紹介した有子山城、出石城から3kmほど北上したところに、此隅山城跡があります。

此隅山城は但馬国の守護大名・山名氏が有子山城に移る前に拠点としていた城で、有子山城と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されています。


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登山口は兵庫県豊岡市出石町にある「いずし古代学習館」の裏側にあります。


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説明板と縄張り図です。


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登山道は見学者用に整備されているので、進路を迷うようなことはありません。


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此隅山城跡の城主・山名氏は、もとは新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって室町幕府成立の騒乱で活躍します。

室町幕府の四職家で最大級の大名となった山名氏は、その一族が但馬、因幡、丹波、美作など日本全国66カ国中11カ国守護職を兼帯して「六分の一殿」と呼ばれました。

元中8年/明徳2年(1391年)の明徳の乱によって、一族の内紛を起こしたために一時衰退しましたが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で勢力を回復し、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱では、山名宗全(持豊)西軍の総帥となりました。

但馬国はこの山名氏の根拠地であり、戦国時代まで一貫して山名氏が守護大名としてこの但馬国を治めました。


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道中、急勾配の道はロープが張られていました。

けっこうキツイ。


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主郭まで300mとあります。


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急勾配の道を登りきったところに、郭跡のような削平地があります。


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説明板が設置されています。


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郭を過ぎたところに、堀切跡らしき地形が見られました。


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さらに進むと、今度ははっきりと分かる堀切跡があります。


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その説明板です。


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さらに進むと、主郭西郭への分岐点があります。

まずは西郭に行ってみましょう。


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何やら説明板が見えます。


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土塁跡のようです。


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さらに尾根伝いに西へ向かいます。


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説明板らしきものが見えてきました。

どうやら、ここが西郭のようです。


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案内板です。

汚れててさっぱり読めない(苦笑)。


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西郭からの眺望です。


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西郭の真ん中には、大きな盛り土のコブがあります。

土塁?

何の遺構かよくわかりません。


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さて、引き返して主郭に向かいましょう。

続きは「後編」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-18 00:54 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第14話「新世界」 ~明治の終焉~

 第5回ストックホルムオリンピックのマラソンが行われた日から半月後の明治45年(1912年)7月30日、明治天皇崩御し、元号が「大正」に改められ、同日は大正元年7月30日となりました。先ごろ、平成の次の元号「令和」が発表されましたが、「令和」の出典は万葉集からだそうで、日本の国書からの出典は歴史上初のこととして話題になっていましたが、「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)からだそうで、過去4回、候補に上がりながら採用されず、5回目での採用だったそうです。当時はネットSNSもありませんから、巷でむやみに予想されることもなく、学者さんたちも決めやすかったでしょうね。


 「激動の昭和」などとよく言われますが、明治期もまた、昭和に勝るとも劣らない激動の時代だったといえるでしょう。戊辰戦争の真っ只中に改元され、薩長閥を中心とした新政府が発足したものの、明治10年(1677年)の西南戦争までは各地で内乱が続き、その後は「富国強兵」をスローガンに掲げ、殖産興業政策とともに産業が発展し、明治22年(1889年)には憲法議会が設置され、曲がりなりにも近代国家の仲間入りを果たしました。


また、軍事面においても、明治27年(1894年)から翌年にかけての日清戦争、明治37年(1904年)から翌年にかけての日露戦争に勝利したことで、明治の終わりには世界の強国に名を連ねるようになりました。当時、八大強国と言われたのは、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア=ハンガリー、ロシア、そして日本でした。幕末、ペリー艦隊黒船来航で大騒ぎになった日本は、わずか半世紀余りで世界有数の軍事大国となったわけです。昭和の敗戦からわずか40年ほどで世界一の経済大国となった昭和の時代と似てますよね。本気を出したときの日本の力はすごいんです。


 もっとも、日露戦争に勝利したあとの日本は、自国の国力を過大評価し、盲信し、やがて昭和の敗戦を迎えるまで軍国主義が国を支配し、国を滅ぼすに至ります。一方で無類の経済発展を遂げた戦後の日本も、昭和の終わりにバブル経済に浮かれ、やがて崩壊し、失われた20年の平成期に至ります。やはり、急激な発展というのは、地に足がついておらず、なにか歪なものを生み出すのかもしれません。


 明治天皇は、日露戦争の前ぐらいから糖尿病を患っておられたようでした。当時、糖尿病は原因がわかっておらず、正しい治療法が確立されていませんでした。明治天皇はたいへんな酒豪だったそうですが、おそらく、糖尿病を患われてからもお飲みになっていたのでしょう。明治45年になると病状はどんどん悪化し、7月19日に倒れられ、そのまま昏睡状態となり、7月30日、最後は心臓麻痺で崩御しました。宝算61歳(満59歳)。


e0158128_22463989.jpg 9月13日に大喪の礼が執り行われましたが、その夜、陸軍大将乃木希典が奥さんの静子さんとともに自害した話はあまりにも有名ですね。いわゆる「殉死」というやつですが、このとき、当然のことながら、乃木大将夫妻の行いを讃える人批判する人の両方があらわれ、大いに議論されたようです。その死は文学作品の中でも扱われ、日露戦争後に乃木は学習院の校長を務めていましたが、その乃木の教育方針に批判的だった白樺派志賀直哉芥川龍之介などの一部の新世代の若者たちは、乃木の死を「前近代的行為」として冷笑的批判的な態度をとりました。これに対し、夏目漱石は小説『こゝろ』森鴎外は小説『興津弥五右衛門の遺書』をそれぞれ書き、白樺派などによってぶつけられるであろう乃木に対する非難や嘲笑を抑えようとしました。当時は当時で、幕末生まれと明治生まれのジェネレーションギャップがあったようですね。


 ちなみに、アイドルグループ「乃木坂46」の乃木坂は、乃木大将の殉死を悼んでつけられたネーミングなんですが、そんなこと、彼女たちのファンは知らないだろうなぁ。


 と、気づけばドラマのストーリーにほとんど触れずにきちゃいました。とにかく、オリンピックを終えた金栗四三たちが帰国したときの日本は、そんな状態だったわけです。彼らにしてみれば、明治に旅立って帰ってきたら大正になっていたのですから、さぞ驚いたことでしょう。もっとも、オリンピックで結果を残せなかった彼らにしてみれば、そんなドサクサに紛れて帰ってこられて良かったのかもしれませんが。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-15 22:49 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

有子山城跡と出石城跡登城記。 その4 ~出石城~

「その3」有子山城跡をすべて攻略したので、下山して麓の出石城跡を散策します。

出石城は関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)、有子山城主だった小出吉英が山頂の城を廃し、麓にあった居館を整備して出石城と命名し、幕府に居城として届けた城です。


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橋や城門は後世のものですが、石垣は江戸期のものです。

背後にそびえる山が、有子山です。


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城門の横に目を向けると、「続日本100名城選定」と印刷された横断幕が。


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城門をくぐると、西郭があり、そこから見た二ノ丸の石垣と西隅櫓が上の写真です。


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こちらが、その西郭


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二ノ丸に登る石段です。


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二ノ丸です。


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「二の丸跡」の石碑の背後に見えるのは、本丸西隅櫓です。

昭和43年(1968年)に建てられた模擬櫓


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二ノ丸東側を見上げると、本丸東隅櫓が見えます。

これも同じく昭和43年(1968年)の模擬櫓


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本丸西側の石垣と西隅櫓です。


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本丸に登ってきました。


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本丸といっても、最上段ではありません。

もともと有子山城の麓の居館だったところを改築した城ですから、籠城戦を想定して築かれてはいないんですね。


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本丸の背後には、高さ13.5mの高石垣がそびえます。

但馬地方の城跡では、最大級の石垣だそうです。


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東隅櫓です。


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西隅櫓です。


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江戸時代に入り、徳川幕府によって制定された一国一城令により、出石城は但馬国唯一の城郭となります。

やがて9代続いた小出氏は無嗣改易となり、その後、出石藩主は松平忠周から仙石政明へと引き継がれ、以後、廃藩置県まで仙石氏7代の居城となります。


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本丸には、その仙石氏の中興の祖である仙石秀久を祀った感応殿が鎮座します。


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本丸を出て、さらに上段の郭に向かいます。

その道中、本丸東側にある山里丸です。


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苔むした高石垣。


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そして最上段の郭。

ここには有子山稲荷神社が鎮座することから、稲荷郭と呼ばれます。


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社殿は江戸後期のものですが、有子山稲荷の始まりは、小出吉英が城内鎮護のために有子山城にあった稲荷社を移したものとも、旧領の岸和田の稲荷社の分霊を勧請したものともいわれます。


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稲木郭から本丸を見下ろします。


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稲荷郭から見た出石の城下町です。


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出石の城下町のシンボル、辰鼓楼も見えます。


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参道を通って下山しましょう。


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辰鼓楼です。

背後の有子山山頂に、有子山城本丸石垣がかろうじて見えますね。

辰鼓楼については、以前の拙稿を一読ください(参照:日本最古の時計台~辰鼓櫓~)。


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せっかく出石に来たので、出石そばを食べて帰りましょう。

最後に、続日本100名城のスタンプです。


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by sakanoueno-kumo | 2019-04-14 12:08 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)