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奥大和の宇陀松山城跡登城記。 <前編> 登城道

奈良県宇陀市にある宇陀松山城跡を訪れました。

宇陀松山城跡は同じ大和国の大和郡山城から25kmほど南西、同じく大和国の高取城から13kmほど北東に位置します。

平成29年(2017年)4月6日に発表された続日本100名城に選定されています。


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宇陀松山城跡への登城コースは2つありますが、この日は、かつての大手筋のルートで登りました。

現在、大手筋にあたる入口は、春日神社が鎮座しています。


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参道を進むと、いきなり櫓台のような立派な石垣が現れます。

これは、かつての大手筋正面にあった春日門跡の石垣です。


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現在、門跡には虎口を構成する東西2つの石垣積の櫓台が残っています。


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東櫓は東西4m以上、南北10m以上、高さ約6mの規模を持つ櫓台の南西隅に一段低く、東西約4m、南北約7m、高さ約2mの櫓台が取り付きます。西櫓台は東西約6m、南北11m以上、高さ約4mを測ります。


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いかにも大手門って感じですね。


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説明板によると、春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭にあり、松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られたことが明らかとなりました。

また、現存する櫓台は17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築であることが判明したそうです。


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かつての大手筋にあたる参道を進みます。


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宇陀松山城は、南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国司北畠氏から「和州宇陀三人衆」と呼ばれた秋山氏が築いた城と伝わります。

築城時期は定かではありませんが、南北朝時代には構えられていたと見られています。

秋山氏が居城としていた頃は、秋山城と呼ばれていました。


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天正13年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い、秋山氏は宇陀から退去しました。

以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種ら豊臣家配下の大名の居城として大改修が行われ、大和郡山城、高取城と並んで豊臣政権の大和国支配の拠点となりました。


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関ヶ原の戦い時の城主・多賀秀種は西軍に属したため改易され、代わって福島正則の弟・福島高晴が入城しました。

しかし、その福島氏も、大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして改易され、城も破却されて廃城となりました。


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境内南側に、城跡を誘導する石碑が建てられています。

ここから、神社を抜けて本格的な登城コースがはじまります。


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山道は整備されていて、進みにくいということはありません。


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「秋山城跡」と書かれた誘導板があります。

「宇陀松山城」という名称は豊臣政権下になってからのもので、それ以前は城主の秋山氏の名からとって秋山城と呼ばれていました。


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しばらく登ると、城跡まで100mと書かれた木碑の立つ開けた場所に出ました。

郭跡のような感じです。


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横に設置された案内板です。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)7月22日。

案内板には「平成30年3月」と書かれていますから、つい最近設置されたもののようです。

続日本100名城に選ばれた影響でしょうね。


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長くなっちゃったので、<後編>に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-05-30 21:56 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その7 <五百羅漢>

「その6」の続きです。

高取城跡からの下山途中に、「五百羅漢道」と刻まれた石碑を見つけ、立ち寄ってみました。


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高取城跡のある高取山中腹の香高山に壷坂寺という由緒あるお寺があるのですが、そこから高取城跡方面へ500mほど登ったところに、香高山の大きな岩山いっぱいに彫られた石像群『五百羅漢』があります。


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ここは壷阪寺の奥の院とも呼ばれる場所です。


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ありました。

五百羅漢岩です。


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この五百羅漢岩は、幅さ5m×高さ3mほどあります。

岩肌に刻まれた壮大な無数の仏像に圧倒されます。


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この五百羅漢岩が作られた時期は、16世紀末頃と推定されていますが、確かなことはわかっていません。

時期的にみて、天正17年(1589年)に豊臣秀長の命令で高取城に入った本多利久が、城の大改修時に石工たちに命じて掘らせたという説が有力視されているそうです。


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この大きな五百羅漢岩以外にも、登山道には多くの石仏が点在しています。


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羅漢岩に至る参道には、千手観音の種子と、弘法大師像が彫られた町石がたてられていて、年号はありませんが、「甲辰」の紀年があるので、様式から見て慶長9年(1604年)のものと考えらます。

また、五百羅漢岩の前の石灯籠には慶長10年(1607年)の紀年があるそうで、このことから、香高山五百羅漢はこの慶長年間の作と推定されています。


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「羅漢」というのは阿羅漢の略称で、釈迦の弟子のことだそうです。

煩悩をすべて超越して最高の境地に達した聖人を意味するのだとか。

古来、日本では戦災などで多くの人命が失われたときに、その霊を慰めるために五百羅漢が作られました。

高取城は関ヶ原の戦い時に、西軍の攻撃を受けています。

あるいは、そのときの戦死者の霊を慰めるために作られたのかもしれません。


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「その5」で紹介しましたが、高取城跡を訪れた司馬遼太郎さんが、アンコール・ワットに例えた気持ちがわかるような気がします。


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さて、第7稿まで続いた高取城跡シリーズですが、本稿をもって終わりです。

最後に、登城証明書缶バッジ、それから日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-29 22:16 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第20話「恋の片道切符」 ~アントワープオリンピック~

 第一次世界大戦が終結した翌々年の大正9年(1920年)夏、第7回アントワープオリンピック大会が開催されました。4年前のベルリン大会中止をはさんでいたため、ストックホルム大会以来8年ぶりの開催でした。8年前には金栗四三三島弥彦2人だけの出場だった日本選手でしたが、この8年間で日本国内のオリンピックに対する意識は大いに高まり、代表選手を選ぶ予選会は、札幌、仙台、東京、新潟、名古屋、大阪、松江、岡山、広島、福岡の全国10ヶ所第一次予選が行われ、そこに参加した選手の数は3600人を超えたといいます。ここから選ばれた198人が東京で開催された第二次予選に進み、その中から上位者がオリンピックの日本代表に選ばれました。


 マラソンの出場選手枠は4人。選ばれたのは、箱根駅伝で活躍した東京高等師範学校の茂木善作、早稲田大学の三浦弥平、そして北海道は小樽の中学生だった八島健三、そして、金栗四三でした。このとき金栗は30歳。マラソン選手としてのピークは過ぎた年齢といえましたが、第二次予選ではぶっちぎりの独走だったようで、この時点では、まだ、日本国内では金栗に勝てるランナーはいない、正真正銘の日本のエースだったんですね。


 日本選手は陸上選手のほか、競泳テニスなどを含む15名が参加。それも、全て国費での渡航となります。8年前のストックホルム大会は金栗と三島の2人だけの出場で、しかも渡航費は自費という冷遇だったことを思えば、国のスポーツに対する意識もこの8年間で大いに変わっていたようですね。もっとも、渡航費についていえば、そのときのお国の財布状況にも関係したでしょう。8年前のストックホルム大会のときは、日露戦争で使った莫大な戦費により日本は借金まみれで、緊縮財政により財布のひもが固かったんですね。日露戦争は、勝利とは多分に表面上のことで、ポーツマス条約において日本はロシアから賠償金はまったくとれず、財政はたちまち困窮を極めており、国内各地で政府に対する不満が爆発して、あちこちで暴動が起きているといった国内情勢でした。まだまだオリンピックの認知度が低かったこともあって、スポーツごときに国費を投じるというのは、財布の事情も、そして国民感情も許さなかったのでしょう。


 一方で、8年後のアントワープ大会時は、第一次世界大戦の特需で日本は一気に財政を立て直し、好景気の真っ只中でした。戦争期間中、ヨーロッパ諸国は大戦に手一杯でアジアに手が回らず、その間、アジアに対する輸出を日本が独り占めにし、たいそうボロ儲けをしたようです。そんな折のアントワープ大会でしたから、8年前とは全然背景が違ったんでしょうね。もっとも、このすぐ後に戦争バブルは弾け、やがて世界大恐慌に陥るのですが。


e0158128_19143806.jpg 満を持して挑んだマラソンでしたが、結果は金栗が2時間48分45秒16位、茂木は20位、八島は21位、そして三浦は24位に終わりました。日本選手15人中最も多くの4選手を派遣したマラソンの成績としては、物足りない結果だったといえるかもしれません。もっとも、8年前は途中棄権だったことを思えば、出場選手4人が全て完走できたことは、収穫だったかもしれませんね。この大会でのマラソン出場選手は48人で、うち13人が棄権していたといいますから。ドラマでは、失意の金栗でしたが、実際には、自身の年齢からいえば、ある程度予想していた結果だったかもしれません。ただ、改めて悔やまれるのは、「第16話」の稿でも述べたとおり、選手として最もピークだった時期を戦争によって棒に振ったことでしょうね。悔やんでも仕方がないことですが。


 あと、この大会での一番の収穫は、庭球(テニス)熊谷一弥選手がシングルスで銀メダル、ダブルスでも柏尾誠一郎選手と組んで銀メダルを獲得したことでした。これが日本人初のオリンピックメダル獲得で、ここから日本のメダリストの歴史は始まったわけですが、テニスだけでいえば、こののち100年近く日本人選手がメダルを獲ることはなく、96年後のリオデジャネイロオリンピックでの錦織圭選手の銅メダルまで待たねばなりません。日本人初のメダリストがテニスだったっていう歴史は、ちょっと意外ですよね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-05-27 17:44 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その6 <本丸>

「その5」の続きです。

高取城跡本丸下を1周して、いよいよ北側から本丸に登ります。


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まず登り始めて、右へ曲がらされます。


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右へ曲がると、またすぐ右へ曲がらされます。


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右へ曲がると、今度は左へ曲がらされます。

当時はここに城門があったそうです。


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左へ曲がると、またすぐ突き当りを左に。

本丸下と本丸の高低差が大きいので、何回も曲がらされます。

これは堅固ですね。


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ここを曲がると、ようやく本丸らしき場所が見えます。


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振り返ると、向こうに行き止まりの道があります。


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そして、本丸です。


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本丸からもう一度、虎口を見下ろします。

いかに複雑で堅固な造りといなっているかがわかりますね。


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本丸部分の大きさは東西に75m、南北に60mあります。


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天正17年(1589年)に豊臣秀長の命令で高取城に入った本多利久でしたが、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、その功で、徳川の世になったあとも本多氏は引き続き高取城を任されていました。

しかし、その本多氏が三代で断絶すると、寛永17年(1640年)に徳川家譜代の家臣であった植村家政が、本多氏と同石高の2万5千石の大名として入り、高取藩初代藩主となりました。

植村氏は、酒井氏本多氏(本多利久の本多氏とは関係ありません)らと共に三河時代から松平氏に仕えた古参で、徳川家康の下で抜群の戦功を挙げたことから、歴代藩主に家康の「家」を名乗ることを許されていた名門譜代でした。

以後、明治維新まで植村氏が14代の長きに渡って高取藩を治めます。

前稿でも紹介した司馬遼太郎さんの『街道をゆく』のなかで、司馬さんは高取城の存在価値についてこう分析しています。


城主が越智氏から筒井氏、本多氏と変わるうちに規模も大きくなり、やがて徳川初期に植村氏が入って、この山奥の急峻に累々と石垣が組みあげられ、近代的な築城形式に模様替えされた。徳川幕府がここに外様大名などを置かず、もっとも信頼できる譜代大名を封じ、当時すでに大時代だったこの山城をわざわざ補修改築させたのは、わかるような気もする。

幕府の近畿地方の防衛戦略という大きな視野からの判断だったかもしれない。

徳川幕府の仮想敵は、家康の代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。

<中略>

家康は、島津氏が京都に入って近畿をおさえ、天皇を擁して幕府と対決するだろうという想像をもち、死の寸前までそれが気がかりだったといわれている。

架空の状況において、島津氏がもし近畿をおさえた場合、大和の幕軍は平城の郡山城をすててこの高取城にこもり、他の方面の幕軍の巻きかえしを待つという戦略があったのではないか。


高取城は江戸時代には時代遅れの山城でしたが、徳川幕府はこの城を重要な拠点として考えていたということを、植村氏を封じたという事実が雄弁に語っています。


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本丸の説明板です。

高取城本丸には大天守、小天守、鉛櫓、煙硝櫓があり、それらを多門櫓で連結した連立式天守でした。

これは姫路城和歌山城などに見られる形式ですが、山城の天守としては、稀有な存在といえます。


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その大天守台石垣が北西隅に見えます。


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大天守台です。


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前稿で見た高石垣の上が、ここです。


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高取城天守台には通路が約3mの穴蔵が設けられています。


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大天守台に上がってみましょう。


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大天守の大きさは東西に約16m、南北に約14mの規模で、「御天守」と呼ばれていました。

『和州高取城山之絵図』によると、外観は1重目は千鳥破風、2重目の中央に出窓形式、3重目には軒唐破風があり、外壁は白漆喰総塗籠であったようで、外観3重、地下1階の大天守が推定されています。

また、大天守台の東側には付櫓台が属しており、2重の「具足櫓」が建っていたと考えられています。


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大天守台からさっきの穴蔵を見下ろします。


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大天守台から見た本丸。

手前に見える迷路のような石垣は、本稿の最初に紹介したジグザグ虎口です。


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まさに迷路です。


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天守台から二ノ丸を見下ろします。


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その向こうの西の空には、大和国と河内国の国境にある金剛山葛城山が見えます。

あの中腹に、楠木正成が築城した千早城があります。


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雲が低い。


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大天守台の前には、井戸跡の遺構があります。

5m×3m巨大井戸です。


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本丸南側には、多門櫓台跡石垣が伸びています。


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その石垣上からの南側眺望。

後醍醐天皇(第96代天皇)が南朝を開いた吉野山が見えます。


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こちらも雲が低いですね。


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明治4年(1871年)の廃藩置県により、全国の多くの城郭が廃されることとなり、建物の大部分が取り壊されましたが、標高600m近い山城であったため都市計画などに巻き込まれることはなく、廃城から150年近く経った現在でも、こうして壮大な石垣の遺構を見ることができるんですね。


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さて、本丸まで制覇しました。

まだまだ載せたい写真が山ほどあるのですが、キリがないのでこのへんで終わりにしたいと思います。


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ちなみに、高取城をCG再現した画像がこれです。

(引用元:高取城CG再現プロジェクト

こんな城がもし現存していたら、間違いなく世界遺産だったでしょうね。


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あっ、下山中に立ち寄った場所があります。

もう1回だけおお付き合いください。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-24 23:40 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その5 <二ノ丸上段~本丸下>

「その4」の続きです。

太鼓櫓跡新櫓跡をあとにして東側に向かうと、ど迫力の高石垣が目に入ります。


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ここは二ノ丸の一段高くなっている場所で、本丸のすぐ下。

二ノ丸上段といえば良いのか、本丸下段といえばいいのか、まあ、呼び方なんてどっちでもいい。

とにかく圧巻のロケーションです。


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正面の巨大な高石垣は天守台石垣

高取城には大小ふたつの天守があったそうで、この石垣は大天守石垣。


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大天守石垣の前にある巨木

樹齢はわかりませんが、かなりデカイです。

あるいは、往時を知っているかもしれません。


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大天守石垣の前には、石碑が建てられています。


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大天守石垣を見上げます。


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本丸の石垣は打込み接ぎです。


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本丸高石垣を1周してみましょう。


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作家、司馬遼太郎さんはその著書『街道をゆく』のなかで、高取城を訪れたときの感想を次のように述べておられます。


高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていていい。

その石垣も、数が多く、種類も多いのである。

登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳としている。

それが、自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持がすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。


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こちらは南西の出隅。

算木積みになっています。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。

この上に、小天守があったとされます。


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南側石垣。


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東南出隅。


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東側石垣。


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花には詳しくないのでわかりませんが、ユリの仲間でしょうか?


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北東部の本丸下にやってきました。


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司馬さんのいうように、自然林と石垣が同化したような神秘的な空間が広がります。


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まるでジブリアニメ『天空の城ラピュタ』神殿のようなロケーションです。

近年、兵庫県但馬地方の竹田城跡「天空の城」として有名になりましたが、あちらは、雲海の上に浮かぶ城跡という意味での天空の城で、アニメに出てくる神殿のロケーションでいえば、高取城のほうがイメージに近いです。

あるいは、宮崎駿氏も、ここを訪れたことがあったのではないでしょうか?


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北側の本丸へ通じる虎口前に来ました。

が本丸を誘導してくれます。


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これ、切り株の上に彫刻を乗せているのではなく、自然の木から彫り出したもののようです。

スゴイ!


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こちらのお城も、同じく木を彫り出したものです。


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さて、「その6」では、いよいよ本丸に登ります。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-23 03:58 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その4 <大手門~二ノ丸>

「その3」の続きです。

高取城三ノ丸大手門からスタートします。


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高取城には複数の登城ルートがあって、「その2」で紹介した壺阪口門からのルート、「その3」で紹介したニノ門からのルート、そして、この日は通行止めになっていて通れなかった吉野口門からの登城ルートの三方からのルートが、すべてここ三ノ丸の大手門につながる仕組みになっています。


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案内板です。


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明治20年頃に撮影されたという大手門から見る古写真と、CG再現された画像が紹介されていました。


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それにしても見事な石垣です。

もっとも、城門はここではなく、ここを更に曲がったところにあったそうです。


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ここまでの石垣は野面積みでしたが、ここからは打込み接ぎと野面積みが混在し始めます。


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ここまでの入口は喰違虎口でしたが、ここからは枡形虎口になっています。

ここを曲がったところに城門があったそうです。


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ここがその城門跡

正面にドドーンと高石垣が見えます。


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後ろを振り返った大手門。


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大手門を過ぎると、二ノ丸下段の空間に出ます。

正面に見える高石垣は、二ノ丸の十三間多門櫓台石垣

ど迫力です。


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二ノ丸下段です。


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二ノ丸下段から二ノ丸に登る十三間多門です。

城門が十三間あるという意味ではなく、十三間多門櫓に付随した城門という意味でしょうね。


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それにしても山城としては異例の巨大な城門です。


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石垣は打込み接ぎ、出隅は算木積みです。


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苔むした石垣がいいですね。


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載せたい写真がありすぎて、先に進めません。


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ここも枡形虎口です。


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おそらく、城門は天正17年(1589年)から豊臣秀長本多利久に命じて大改修させたときのものだと思います。


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二ノ丸側からみた三間多門。


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二ノ丸側からみた十三間多門櫓台石垣です。


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そして二ノ丸です。


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現在は芝生広場になっていますが、往時は建物があったのでしょう。


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そして二ノ丸東側に聳える石垣。

十五間多門櫓台石垣です。

1間=約1.8mと考えて、約27mということですね。


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この石垣の上に太鼓櫓新櫓がありました。


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日本三大山城の説明板です。


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こちらは高取城の説明板。


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十五間多門櫓台石垣の上に行ってみましょう。


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十五間多門跡です。


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十五間多門櫓台石垣の裏側(東側)です。


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こちらはその北隅にあたる太鼓櫓跡です。


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反対側の新櫓跡


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石垣の上に登ってみます。


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このスペースから見て、太鼓櫓と新櫓の間を結んでいたのは、多門櫓ではなくだけだったんじゃないでしょうか?


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石垣の上から二ノ丸広場を見下ろします。

ここは一段高くなっているので、二ノ丸上段といったところでしょうか?


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さてさて、今回も長くなっちゃったので、「その5」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-22 00:45 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第19話「箱根駅伝」 ~箱根駅伝の始まり~

大正8年(1919年)夏には下関から東京までの1200kmを走破する耐久マラソンに挑み、同じ年の11月には日光から東京間の120kmを、学生たちの駅伝チームともに走るというイベントを成功させた金栗四三でしたが、翌年の2月、東京箱根間往復大学駅伝競走を企画、実施します。現在ではお正月の風物詩となった箱根駅伝の始まりです。


e0158128_19143806.jpg そもそもの着想は、大正8年(1919年)10月、金栗が埼玉県の小学校に審判として招かれたその帰路、同じく審判として同行していた明治大学学生の沢田英一と東京高等師範学校の後輩・野口源三郎とともに汽車のなかで陸上競技について語り合っていた際、今度はアメリカ横断マラソンに挑戦しようという話で盛り上がったといいます。沢田英一は、同じ明治大学の出口林次郎とともに、金栗が下関-東京間約1200kmの耐久マラソンに挑む1ヶ月ほど前に、札幌-東京間約830kmを20日間で走破した人物でした。また、野口源三郎は、大正9年(1920年)のアントワープオリンピック棒高跳びの選手として出場して12位になり、大正13年(1924年)のパリオリンピックでは日本選手団の監督を務めることになる人です。彼らが立てた計画は、サンフランシスコから中部農村地帯を横切ってニューヨークまで走るという壮大なもの。1人ではとても不可能だとしても、駅伝形式なら出来なくはないかもしれない。しかし、途中にはロッキー山脈という途方もない山岳地帯が行く手を阻みます。これを越さねばならないとなると、相当な鍛錬が必要だということで、その鍛錬を兼ねた前哨戦として着想したのが、箱根の山越え駅伝だったそうです。つまり、箱根駅伝は、アメリカ横断クイズ・・・じゃなかった、アメリカ横断駅伝のメンバーを選ぶ予選会だったんですね。


 金栗はさっそく報知新聞社に話を持ちかけてスポンサー協力を仰ぐとともに、東京都内の大学や専門学校、師範学校に参加を呼びかけました。しかし、当時は10人の長距離走者を揃えられる学校が少なく、結局、東京高等師範学校、早稲田大学、明治大学、慶應義塾大学4校のみの出場となります。ともあれ、このとき1校10人の選手で2日間かけて東京-箱根間を往復するという形式が決められました。


 大正9年(1920年)2月14日、スポンサーだった有楽町の報知新聞社前から4校の選手がスタートし、現在まで続く箱根駅伝が始まりました。そのとき審判長としてスタートの号砲を鳴らしたのは、他でもない金栗四三だったそうです。ドラマでもありましたが、当時は、「学生の本分は勉学にあり」という理由から、選手たちは午前中は通常どおり授業を受け、午後からのレースとなりました。そのため、途中で日没を迎えてしまい、往路最終ランナーである5区の選手たちは、地元の青年団たちが松明を掲げて伴走してくれるなかでのレースとなったそうです。


 結果は、往路は明治、東京高師、早稲田、慶應の順で、復路は先行する明治を終盤になって東京高師が激しく追い上げるというドラマチックな展開となり、ゴール間際で追いつき、最後は東京高師がわずか25秒差逆転優勝。時間は15時間5分16秒だったそうで、今より4時間以上も遅いタイムですが、まあ、これは当然でしょうね。何より、4校とも全選手がリタイアすることなく完走したことに意義があったでしょう。特に慶應は往路で10マイルも遅れたにもかかわらず、最後まで諦めずに走破したことで、金栗は「最後迄奮闘した男性的態度は、普く人士の以って模範とすべき」と評しています。このとき始まった箱根駅伝が、来年で100年を迎えるわけですから(第二次大戦中は中止されていたため、100回大会ではありませんが)、第1回大会を完走した4校の選手たちのタスキが、今なお繋がっているといえます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-05-20 18:47 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その3 <ニノ門~大手門>

「その2」の続きです。

大手門から本丸とは反対方向の北側に山を20分ほど歩いて下ってきました。


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写真はニノ門跡

ニノ門というくらいですから、このもっと麓近くに一ノ門があるのでしょうが、本格的な城跡はここからということで、ニノ門から大手門に向かって登ります。


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その前に、ニノ門のすぐ北側に、猿の石像があります。


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これは「猿石」と呼ばれる遺跡で、飛鳥時代の斉明朝(7世紀)に作られたものと推定されるそうです。

これと同じような猿石が、奈良の明日香村の吉備姫王墓内に4体あるそうで、この猿石も元は同じ場所にあったものを、高取城築城の際に石垣に転用するため飛鳥から運ばれたのではないかと考えられているそうです。

この猿、400年以上もの間、ここを通る侍たちから現代の観光客まで見続けてきたんですね。


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さて、もう一度ニノ門です。


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ニノ門の案内板。

本丸まで872mとあります。

高取城がいかに巨大な縄張りを誇る山城であったかがわかります。


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ニノ門の左側(東側)を見ると、巨大な野面積みの石垣が東へ伸びています。


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その東には、池が見えますが、縄張り図では水堀とあります。


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ニノ門を過ぎると、いきなり目の前に長い石垣が目に入ります。

縄張り図によると、このあたりから侍屋敷エリアが始まります。


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ここから本丸まで、ずっとこんな感じで石垣群が続いているんですよね。

すごい規模です。


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しばらく進むと、西側の国見櫓への誘導板があります。

行ってみましょう。


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国見櫓です。


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「国見」というくらいですから、大和国が見渡せるのでしょうね。


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案内板です。


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国見櫓からの西側眺望です。


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中央に見えるのは、貝吹城址のある貝吹山です。

高取城を最初に築城した越智氏の本城です。


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その右に見えるのは、畝傍山

あの山の麓に神話に出てくる初代天皇の神武天皇を祀った橿原神宮があり、先ごろ退位された上皇陛下が、平成の終わりに退位のご報告のため行幸されていた畝傍山東北陵(神武天皇陵)があります。


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霞んで見えるのが奈良県と大阪府の境にある生駒山


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その少し南に見えるのが、信貴山城跡のある信貴山

あの松永久秀自爆したことで有名な城ですね。

ここも奈良県と大阪府の境にあります。


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さらにその南に見えるラクダの背のような山が、ニ上山城のあるニ上山

ここも奈良県と大阪府の境にある山ですね。

そして、その向こうに微かに見える山が、わがまち神戸の六甲山です。


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国見櫓も石垣の櫓台跡がちゃんと残っています。

かつてここには二層造りの櫓があったそうです。


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さて、景色を堪能したので、また大手筋に戻ります。

さっそく櫓台のような石垣が。


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矢場門跡の櫓台でした。

喰違虎口の形状をしているのがわかります。


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さらに5分ほど歩くと、松ノ門跡があります。


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ここは、「その1」で紹介した高取児童公園に移築されている門があったところですね。


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さらに進むと、またまた向こうに門跡らしき石垣が見えてきました。


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宇陀門跡です。

ここも喰違虎口の形状をしています。


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宇陀門の名前の由来は、おそらく同じ大和国にある宇陀松山城からきたものでしょうね。


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宇陀門を過ぎると傾斜が緩やかな尾根道になります。

右側の石垣は大きな面積の城代屋敷の石垣

ニノ門からここまでずっと侍屋敷エリアでしたが、その最上段には城代屋敷があったんですね。


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その城代屋敷の横にある千早門跡です。

千早門の名前も、おそらく楠木正成が築城した千早城に由来するのでしょう。

南北朝時代に最初に高取城を築いたとされる越智邦澄は、楠木正成と同じく南朝方の悪党だったと言われます。

ちなみに「悪党」とは、いまで言う悪人という意味ではなく、在地の土豪的武士のことです。


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ここも喰違虎口の形状です。

名前は南北朝時代に由来するかもしれませんが、石垣や喰違虎口の形状は、筒井順慶から豊臣秀長の時代のものと思われます。


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千早門を過ぎると侍屋敷エリアが終わって三ノ丸に入ります。


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そして、「その2」で紹介した大手門まで戻ってきました。

今回はめっちゃ長くなっちゃました

つづきは「その4」にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-17 01:08 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その2 <八幡口登り口~大手門>

「その1」の続きです。

高取城跡八幡口登り口から登山道を進みます。


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進み始めていきなりから石垣のお出迎えです。

まだ本格的な郭跡に入ってないんですけどね。


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このあたりの石垣は野面積みです。


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前稿でも紹介しましたが、最初に高取城が築かれたのは南北朝時代、地元の土豪・越智邦澄によってでした。

当時、越智氏は別に貝吹山城に本城を構えており、高取城は越智氏の一支城に過ぎませんでした。


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また、当時の城の構造は、現在残る高石垣などは存在せず、山の地形を削平してを築き、それを幾段にも連ねて逆茂木やにわか造りの板塀で防御する中世の山城で、いわゆるカキアゲ城でした。


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時代は下って戦国時代、織田信長一国破城によって、大和国は郡山城を残して他の城はすべて破却することになり、天正8年(1580年)に高取城も一旦は廃城となります。


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しかし、天正12年(1584年)に大和国を治めていた筒井順慶が、郡山城の詰城として高取城の改修を行いました。


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高石垣が見えてきました。


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このあたりも野面積みですが、見事な高石垣の始まりです。


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壺阪口門跡です。


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壺阪口門の名称の由来は、おそらく高取山の中腹にある壷阪寺からきたものでしょう。

高取城への登城ルートはいくつかありますが、壷阪寺から登城した場合の虎口が、ここ壺阪口門だったのでしょうね。


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なんか立て札があるのですが、文字が消えて読めない(笑)。


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縄張り図によると、壺阪口門を入ると、かつて侍屋敷が建ち並んでいたようです。


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しばらく進むと、木製の階段が設置されていました。

これは観光客用のものですね。

中央の木を伐採せずに階段を設置しているところがすごい!


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階段を上りきったところに、櫓台と思われる石垣があります。


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壺阪口中門跡です。


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石垣の配置からみて、壺阪口中門はおそらく立派な櫓門だったんのでしょう。

縄張り図を見ると、さっきの壺阪口門から壺阪口中門までの間が侍屋敷エリアだったようです。


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反対側から見た壺阪口中門跡。


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壺阪口中門を過ぎると、細い喰違形状になっています。


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角を曲がると、長い高石垣が伸びる通路に出ます。

おおっ! これ、パンフとかで見たロケーションだ!


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高石垣の通路を挟んで向かい側の石垣は、ご覧のとおり低い石垣です。


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反対側(東側)から見た高石垣です。

見事な石垣ですよね。

さぞかし立派な櫓が乗っていたのでしょう。


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で、そのまま視点を左(東)にずらすと、大手門跡です。

つまり、上の高石垣は大手門櫓跡だったんですね。

なるほど立派なはずです。


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このまま大手門を抜けて、二ノ丸、本丸に向かおうと思ったのですが、横の誘導板を見ると、南へ進めば本丸まで200m、北へ進めばニノ門跡まで560mとあります。

迷いましたが、せっかくなので、もう一つのルートも見てみたいと思い、ニノ門まで山を下ってみることにしました。

つづきは「その3」にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-16 08:53 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その1 <夢創舘~八幡口登り口>

今回は日本最大の山城として名高い奈良県の高取城跡を歩きます。

高取城はかつての大和国高取藩の藩庁として幕末まで存在した城で、現在、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城のひとつに数えられています。

山城好きにとっては必見の城ですね。


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城山を登る前に、麓の観光案内所「夢創舘」に立ち寄り、案内パンフレットや縄張り図をもらいましょう。

日本100名城スタンプもここにあります。


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ここに車を停めて、歩いて登城という選択肢もあったのですが、ここを訪れたのは平成30年(2018年)7月21日。

ここから城跡本丸まで歩いて1時間半ほど掛かるということで、そんな熱中症の危険がはらんだ冒険はしません。


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夢創舘から南西に150mほど歩いたところにある高取児童公園に、かつて高取城にあった松ノ門が移設されています。


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こちらがその松ノ門の城門です。

明治4年(1871年)の廃藩置県によって高取城が廃城となった際、多くの建築物は取り壊されましたが、数棟は移築されました。

その中のひとつが「松ノ門」で、明治25年(1892年)に土佐小学校の校門として移築されていましたが、昭和19年(1944年)の火災によって一部が消失したため、解体されたままとなっていたそうです。

現在の門は平成16年(2004年)に復元されたものです。


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その説明板です。


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こちらの案内板には、松ノ門があった場所が記されています。


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さて、麓の町をあとにして、車を走らせて高取山を登り、八幡口登り口までやってきました。

駐車場はありませんが、乗用車数台は停められるスペースがあります。


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ここからだと、歩いて20分ほど本丸まで登れます。


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案内板です。


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高取城を初めに築いたのは、南北朝時代の地元の土豪・越智邦澄が、元弘2年/正慶元年(1332年)に築城したのが始まりと伝えられています。

時代は下って戦国時代、織田信長一国破城によって天正8年(1580年)に一旦は廃城となりますが、天正12年(1584年)の筒井順慶による復興を経て、豊臣秀長の家臣・本多利久によって天正13年(1585年)から大改修が行われます。

現在に残る高取城跡の遺構は、そのときのものがベースになっています。


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縄張り図です。


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さて、登城開始・・・・と言いたいところですが、つづきは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-05-15 00:10 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)