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三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その1 ~登城道~

今回は大阪府下最大の規模を誇る芥川山城を攻めます。

芥川山城は阿波徳島から攻め上ってきた三好長慶が管領・細川晴元を追い落として入城し、畿内統治の本拠としていた城です。


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登城口近くの「塚脇」というバス停に、芥川山城の案内板や説明板が並んで設置されています。


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こちらの説明板では、「三好長慶が細川晴元を擁して入城」と書かれていますね。

わたしが知るところでは、晴元は長慶に攻められて追い落とされたはずなんですが・・・。


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説明板には、縄張り図が記載されています。


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こちらは「芥川山城復元推定図」とあります。

これはわかりやすい。


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その下には、登城ルートの案内が。

登城ルートは2つあって、大手筋ルート塚脇ルートがありますが、この日は塚脇ルートから登り、大手筋ルートで下山するコースを選択しました。

ちなみに、芥川山城の山は現在、「三好山」と呼ばれています。

その由来が三好長慶であることは、言うまでもないでしょう。


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こちらは摂津峡の案内板。

このあたりは摂津峡と呼ばれる渓谷があり、桜や紅葉の名所として知られています。

この日は桜のシーズンより少し前の平成31年(2019年)3月9日。

桜のシーズンには花見客で賑わう摂津峡公園の駐車場に車を停めて城跡を目指します。


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その摂津峡公園の東側にある売店の横に、登山口につながる道があります。


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ここにも、バス停にあったものと同じ芥川山城復元推定図の看板が。


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売店の横を抜けて細い道を進みます。


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摂津峡の芥川です。


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この木橋を渡ります。

けっこう怖いです。


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3月なのでまだ緑が少ないですが、陽射しは春の陽気で心地いい日でした。


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で、しばらく集落の中を歩いて、城跡南東部の登城口にたどり着きました。

ここが、上述した塚脇ルートの登城口です。


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「三好山へ40分」とあります。


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登山道の脇には、まるで城跡の遺構のような石垣の段が広がりますが、これは、棚田の石垣です。


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古井戸のようです。


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古井戸を過ぎたあたりの登山道に立派な石垣が現れますが、これも、明治以降に築かれたもののようで、城跡の遺構ではありません。


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しばらく進むと、「池・曲輪群」と書かれた看板があります。


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その誘導に従って道脇に足を踏み入れると、たしかに曲輪跡と見られる削平地がいくつもあります。


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削平地には、古い墓石が複数並んでいますが、城とは関係ないのかな?


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池らしき場所がみあたりません。


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さらに進むと、「竪土塁」と書かれた案内板が。


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たしかに、これは立派な竪土塁です。


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竪土塁をすぎると、大きな堀切土橋が現れます。


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城跡らしくなってきました。


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土橋を渡ると、明らかな虎口跡があります。

ここから本格的な城郭の縄張りに突入するのですが、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-29 08:38 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

摂津国茨木城跡を歩く。

先日の稿で紹介した高槻城跡から5kmほど南西あたりに、かつて茨木城がありました。

現在、茨木城があったとされる場所は、茨木市の中心地として宅地化されているため、その遺構を確認することはできません。


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茨木城は現茨木小学校付近の小字「本丸」「中土井」付近に中心があったと考えられており、現在、小学校の校門は茨木城の移築櫓門を模したという門が建てられています。


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寛文3年(1663年)に大和国小泉藩2代目藩主の片桐貞昌が、父の片桐貞隆の菩提寺として建立した慈光院(大和郡山市)の山門は、茨木城から移築された櫓門を茅葺きに変更したものと伝えられるそうです。

その門を模して、この茨木小学校の門が建てられました。


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城門の横にある小学校名の名盤は織部焼だそうです。


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片桐氏の家紋「片桐違い鷹の羽」です。


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茨木城の築城時期は定かではなく、一説には建武年間(1334年~1336年)に楠木正成によって築かれたとも言われますが、伝承の域をでません。

確かな史料に確認できるのは、戦国時代に摂津国を代表する国人の茨木氏が拠点としていたことです。

この茨木氏は、摂津守護の細川京兆家の被官でしたが、やがて守護家内部の権力抗争に巻き込まれ、文明14年(1482年)に茨木城は攻撃を受けて、茨木氏は没落しました。

以後、茨木城周辺は、京兆家当主の細川政元、守護代の薬師寺氏らによって支配されていたようですが、永禄11年(1568年)に織田信長が上洛したときの記録によれば、茨木氏は城主として復帰を遂げていました。


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元亀2年(1571年)、足利義昭を支える高槻城主の和田惟政と摂津最大の勢力を誇る国人・池田氏が衝突するなか、茨木氏は和田氏に与し、その戦いのなか、茨木城近くで起きた白井河原の戦いで破れ、滅亡しました。

その後、茨木城には荒木村重の配下についていた中川清秀が入りました。

荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、中川清秀は信長に降り、その信長が本能寺の変で横死すると、直後の山崎の戦い羽柴秀吉について功をあげますが、翌年の賤ヶ岳の戦いで戦死ました。


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その後、豊臣政権時代は豊臣家の直轄地だったようですが、秀吉が死に、関ヶ原の戦い後は片桐且元が茨木城主となります。

もっとも、且元は豊臣秀頼の補佐役として大坂城につめていたので、実質的には弟の片桐貞隆が城主だったとも言われます。

その後、且元は周知のとおり、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件から大坂の陣にかけて豊臣家と徳川家の間で翻弄され、やがて豊臣家と袂を分かつことになります。


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学校の敷地内には城跡を示す顕彰碑が建っていますが、この日は日曜日だっため学校は閉まっており、この角度からの写真しか撮れませんでした。


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裏面は外から撮影できました。

「昭和三年十月建立」とあります。


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付近を歩いてみると、T字路L字路が多く、十字路が少ない。

これも、城下町の名残でしょうか?


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このあたりの住所は「片桐町」です。

茨木城主の片桐氏からきた地名であることは間違いないでしょう。


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茨木小学校の南西にある茨木神社の東門は、かつての茨木城の搦手門を移築したものと伝えられます。


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そのことを説明した看板が設置されていました。


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茨木神社境内にある「黒井の清水」は、豊臣秀吉の茶会に使用された名水と伝わります。


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もう一つ、茨木小学校の北東にある妙徳寺の表門は、かつての茨木城の脇門を移築したものと伝えられます。

現在は幼稚園の入口でもあるようです。


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やがて江戸幕府が発布した一国一城令により、北摂津では高槻城だけが残され、大阪夏の陣の翌年の元和2(1616年)、茨木城は取り壊されました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-28 01:45 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

北摂津、高槻城跡逍遥。

今回は、かつて北摂津にあった高槻城跡を歩きます。

江戸時代、高槻城は北摂津唯一の城郭として重要な役割を果たしていました。


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現在、高槻城の縄張りは市街地化によってその痕跡を見るのは難しくなっていますが、その敷地の一部が城跡公園として整備され、石垣などで演出されています。


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公園の入口に建てられた石碑です。


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その横に設置された説明板


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高槻城の歴史は古く、伝承では永祚2年(990年)に近藤忠範久米路山と呼ばれる小丘に築城したのが始まりとされていますが、史料が乏しく定かではありません。

その後、南北朝時代に入り、天平7年(1352年)の観応の擾乱において足利尊氏方についた入江左近将監春則が、高槻城に入って居城としたと伝わります。


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高槻城が文献に初めて登場するのは、大永7年(1527年)の桂川原の戦い山崎城に詰めていた薬師寺国長波多野稙通に攻められ、高槻城に逃亡した記録です。

その後、天文22年(1553年)には三好長慶が入城した芥川山城の支城となっていたようで、入江春継が城主となっていましたが、永禄11年9月28日(1568年10月28日)、摂津に侵攻してきた織田信長によって芥川山城が落とされると、高槻城も無血開城に近いかたちで降伏しました。


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その翌年の永禄12年(1569)には、足利義明の功臣・和田惟政が信長の命によって高槻城に入り、近代城郭として整備します。

しかし、元亀4年(1573年)にその子・和田惟長と対立した高山友照、高山右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となります。


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城跡公園内には、その高山右近像があります。


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右近は後世にキリシタン大名として知られていますよね。


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説明板によると、右近は天正2年(1574年)に高槻城の側に壮大な教会堂を建ててキリスト教の布教に努めたそうで、天正9年(1581年)には、イタリアの巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎えて盛大な復活祭を催しています。

宣教師の記録によれば、領民2万5千人のうち1万8千人がキリスト教徒になったとか。


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しかし、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発した伴天連追放令によって行き場を失った右近は、領地、財産を捨てて諸国を転々としたのち、最終的にはマニラに逃れ、そこで非業の死を遂げたという話はあまりにも有名ですね。


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右近像の横には、天守台を模した空間がありましたが、これは復元ではなく模擬

往時の天守はこの場所からもう少し西にある高校の校舎のあたりにあったと考えられており、三重天守だったといいますから、もっと大きな天守台だったはずです。


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現在の公園は、かつての三ノ丸にあたります。


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公園内にある高槻市民族資料館

江戸時代中期に建築された建物を、ここに移築復元したものだそうです。


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高山右近の12年間の城主時代のあと、高槻城は豊臣家直轄領となり、さらに関ヶ原の戦い後は徳川幕府の直轄地となり、譜代大名が頻繁に交代して城主を務めますが、慶安2年(1649年)に永井直清が城主となると、以後、明治維新まで永井家が13代に渡って城主を務めます。


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その後、明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となり、翌年には破却されてしまいますが、明治42年(1909年)から昭和20年(1945年)の敗戦までは、大日本帝国陸軍工兵第4連隊がこの地に駐屯していました。

現在、公園内にはそのことを示す石碑が建てられ、かつての営門跡が残されています。


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営門跡は平和のモニュメントだそうです。


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10世紀から20世紀までおよそ1000年ものあいだ、この地は兵の屯所だったということですね。

まさに、兵どもが夢の跡です。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-26 23:00 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第24話「種まく人」 ~関東大震災~

 今回も前話に引き続いて関東大震災の話でしたね。大正12年(1923年)9月1日に発生した大地震は、死者・行方不明者10万8000人に達するという未曽有の被害をもたらしました。被災者340万人、その被害の大半が火災による二次災害で、死者・行方不明者の9割が焼死全焼した家屋が38万世帯といいますから、その被害の甚大さは筆舌に尽くしがたいものでした。それだけ多くの家が焼けたということは、それだけ住む家を失った人がいたということに他なりません。そこで政府は、応急措置とし学校、官公庁、寺社などの公共施設へ被災者を収容し、また、明治神宮外苑屋外天幕を張り、約1万人を収容しました。


 続いて、現代でいうところの仮設住宅にあたる「バラック」の建設が計画され、9月4日以降、東京府、市、警視庁の分担によって建設が開始されます。明治神宮外苑、日比谷公園、靖国神社境内、上野公園、芝離宮、芝公園の6ヵ所に大規模なバラックが建設され、また、小学校の焼け跡や公園、空き地、広場など90ヵ所に小規模なバラックが建てられ、10月上旬から収容が開始されました。わたしも、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災を経験したひとりですが、私の住まいは一部損壊ですんだため避難所生活を送る必要はありませんでしたが、町中の学校や公園、スポーツ施設など至るところに仮設住宅が建てられ、そこで生活している方々の姿を毎日目にしていました。平成の仮設住宅ですら、その過酷な生活環境には目を覆うものがありましたが、この時代のバラック生活の劣悪さは、おそらくその比ではなかったでしょう。


e0158128_19143177.jpg この惨事のなか、大日本体育協会の名誉会長となっていた嘉納治五郎は、9月30日に帝国ホテルで理事会、常務委員会を開き、翌年に行われる予定の第8回パリオリンピックに日本人選手を派遣することを決議します。その一環として、この秋に第一次予選会を行い、翌年の4月中旬には第二次予選会を東京で開催することを決定します。そして、そのために、競技場建設を急ぐよう求めるということも。翌10月1日に発表した大日本体育協会の宣言文には、こうあります。


 「翌年七月にパリで開かれる国際オリンピック大会に選手を送る計画のあったことは一般の知るところであり、この震災のために全ての計画を放棄するのは極めて遺憾であるとし、この際海外に日本国民の元気と復興の意気を示すためにも、派遣したほうがよい」


 こんなときだからこそ、国民の士気を鼓舞するためにもオリンピックに出るべきだ、と。東日本大震災のときも、プロ野球の開幕前だったことで、自粛すべきか否かで議論がありましたよね。100年前も今も、直面する問題は同じようです。


e0158128_22162429.jpg そんな震災のドサクサのなか、人見絹枝が上京してきましたね。実際には、この翌年の4月に上京し、二階堂トクヨが塾長を務める二階堂体操塾に入学します。ドラマでもいっていましたが、彼女はこの年の岡山県女子体育大会において、走幅跳4m67という当時の日本最高記録(非公認)で優勝しています。そんな彼女のスポーツの素質に注目した岡山高等女学校の教師が、彼女に東京の二階堂体操塾に進学するよう勧めたそうですが、ドラマでは、シマちゃんこと増野シマが彼女の素質を見抜いたという設定でしたね。シマちゃんはドラマのオリジナルで、実在の人物ではありません。そんな架空の人物であるシマちゃんに、物語は人見絹枝をスポーツの世界へ導くという重要な役割を与えていたんですね。シマちゃんのような名もなき女性がいたからこそ、人見絹枝のような稀代のアスリートが生まれた、と。まさにタイトルどおり「種まく人」でした。あるいは、本当にシマちゃんのような「種まく人」がいたかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-24 22:17 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

犬走りの代表的な城、岸和田城攻城記。 その3 ~二ノ丸~

「その2」のつづきです。

岸和田城大手門の北西には、かつての二ノ丸跡があります。

現在は二の丸広場として市民憩いの公園となっています。


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いまは芝生広場になっていますが、かつてはここに二ノ丸御殿がありました。

さらに昔の中世にまで遡ると、ここ二ノ丸が本丸だったそうです。


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岸和田城の歴史は古く、南北朝時代、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の建武の新政によって摂津国、河内国、和泉国の3ヵ国守護に任ぜられた楠木正成が、甥の和田新兵衛高家を和泉国の代官にし、この地に城を構えさせました。

それが岸和田城の始まりとされていますが、そのときの城は今より少し東にあったとされ、現在、岸和田古城跡として石碑と案内板が設置されています。

参照:太平記を歩く。 その64 「岸和田古城跡」

一説には、このあたりは、かつては「岸」と呼ばれていたのが、和田氏が代官となったことで「岸の和田氏」と呼ばれるようになり、やがてそれが「岸和田」という地名になったのだとか。

その後、和田氏の一族である信濃氏が岸和田に入り、その信濃氏の時代に新たに築かれた城が、現在の二ノ丸を本丸とした城だったと伝わりますが、別の説では、永禄年間(1558~1570年)頃の松浦肥前守、三好義賢らの時代とも言われます。

正確なことはわかっていません。


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二ノ丸公園東隅にはが再建されています。


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入口には「二ノ丸多聞」と書かれていたのですが、なんと中は公衆トイレ


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こちらは、伏見櫓跡


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説明板によると、かつてここには京都の伏見城から移築された伏見櫓があったそうです。

元和9年(1623年)に伏見城が廃城になった際、その建物が全国の主要な城に移築されて「伏見櫓」と名付けられましたが、ここ岸和田城にも移築されたということは、徳川時代になっても岸和田城は重要視されていたことがわかります。

現在、広島県の福山城にも、伏見櫓が残されています(参照:備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」)。


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こちらは二ノ丸公園内に建つ「心技館」という道場。

私が訪れたこの日も、中から剣道の練習をしている様子が聞こえていました。


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公園内にある皆吉爽雨の歌碑。

「城山へかつ天守へと登高す」


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同じく公園内に建つ岸和田の女流歌人・河野繁子の歌碑。

「めぐりつつ登り来りし高殿の俯仰の視野に花あふれたり」


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二ノ丸広場から望む天守です。


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二ノ丸公園西側に残るです。


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向かいに絵図が設置されていました。

二ノ丸を囲う堀は「百聞堀」と書かれています。

中堀にあたるのかな?


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内堀の西側にある駐車場の前に、岸和田藩薬園跡と書かれた説明板が設置されています。

かつてこの場所に岸和田藩第9代藩主・岡部長慎が命じて作らせた薬園があったそうです。


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また、岸和田城は、慶長20年(1615年)の大阪夏の陣の舞台のひとつにもなっています。

そのときの件については、以前の拙稿で紹介していますので、よければ一読ください。

(参照:大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11

最後に、続日本100名城のスタンプです。

やっぱ、スタンプにも犬走りが描かれています。


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by sakanoueno-kumo | 2019-06-22 00:05 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

犬走りの代表的な城、岸和田城攻城記。 その2 ~本丸~

「その1」の続きです。

岸和田城内堀北西の土橋を渡って本丸に向かいます。

土橋入口の左右に設置された行灯には、それぞれ「千亀利城」「猪伏山」という文字が書かれています。


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「猪伏山」とは岸和田城が築かれた丘の名称で、「千亀利城」とは岸和田城の別称です。


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大手櫓門は再建です。


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門をくぐると枡形虎口になっており、その隅に石碑が建てられています。


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碑文は漢文で、文末に「正五位勲五等舊臣 土屋弘 謹撰」とあります。

土屋弘とは、旧岸和田藩士の儒学者で、明治維新後は、堺県中属、堺県師範学校長、奈良師範学校長、華族女学校教授、東洋大学教授などを歴任し、教育の振興に尽くした人だそうです。


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内側から見た大手櫓門。


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大手門から本丸まではスロープ状の道になっていましたが、おそらく往時はこんなコースはなかったのでしょう。


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スロープの途中には、「岡部氏紀年碑」と刻まれた大きな石碑があります。

岡部氏とは、岡部宣勝を初代として明治維新まで13代続いた岸和田藩主の岡部氏のことです。


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本丸に来ました。

眼の前に美しい天守がそびえます。


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前稿でも述べたとおり、岸和田城を近世城郭として整備したのは、豊臣秀吉の叔父に当たる小出秀政でした。

そのとき築かれた天守は5層の大天守でした。


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ところが、その大天守は文政10年(1827年)11月20日の落雷によって焼失し、その後、幕府に復興願いを届出済みで、それによると3層の天守、2層の小天守とありますが、結局は再建されませんでした。

江戸時代後期には、もう天守など再建する必要はなかったのでしょう。

お金も掛かるし。


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現在の天守は、昭和29年(1954年)に市民の寄付や旧城主の子孫である岡部氏の要望などによって鉄筋コンクリートで再建されたものです。

もっとも、予算の都合で5層天守ではなく3層となりました。

なので、復元天守ではなく、史料に基づかない模擬天守です。


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でも、見ようによっては、落雷の焼失後に幕府に再建を願い出た3層の天守、2層の小天守の設計ともとれます。

江戸時代の再建計画が昭和になってやっと実現したといえるかもしれません。


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それでは、天守の中に入りましょう。


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天守の中は、おおかたの復元天守と同じく、岸和田藩にまつわる史料館となっています。


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岸和田城の縄張り模型が展示されています。

これは堅固です。


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最上階の展望台からの南西側の眺望です。

向こうに見える山脈を越えると、紀伊国(現在の和歌山県)です。


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こちらは反対側の北西の眺望。

向こうに大阪湾が見えます。


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展望台から本丸を見下ろすと、変わったデザインの庭が見えます。

この庭は「八陣の庭」といい、庭園設計の第一人者、重森三玲氏によって設計監督されたもので、室町時代以前の城郭平面図をもとに地取し、諸葛孔明八陣法をテーマに作庭されたものだそうです。

真ん中の巨石が大将で、周囲に天、地、龍、虎、風、雲、鳥、蛇が布陣されているそうです。

なぜ、岸和田城の庭に諸葛孔明なのかは不明。


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さて、天守まで制覇しましたが、次回、もう一回だけシリーズ続けます。

「その3」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-21 00:36 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

犬走りの代表的な城、岸和田城攻城記。 その1 ~内堀~

だんじり祭りで有名な大阪府岸和田市にある岸和田城は、犬走り石垣の代表的な城として知られています。

「犬走り」とは、石垣と堀の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分のことで、犬が通れるくらいの幅しかない道という意味合いから、そう呼ばれます。


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写真は内堀の南東からの撮影です。

石垣の下に犬走りがあるのがわかるかと思います。


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南東は本丸大手門のちょうど真裏になります。

犬走りから本丸に登る石段が見えますが、内堀に橋は架かっていないので、搦手門というわけではなさそうです。


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石段のアップです。


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天守のアップです。


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内堀に沿って1周してみましょう。


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内堀南西側からの撮影です。

ここも犬走りが続いていますね。


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本来、城の防御の面からみれば、犬走りは敵に侵入の足掛かりを与えてしまうため、決して有利とはいえない構造です。


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一方で、石垣や土塁の崩落を防ぐための効果があると考えられ、ここ岸和田城の犬走りは、もろい泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐために作られたという説が有力だそうです。


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西側から見た天守です。


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内堀西隅まで来ると、ここで犬走りが終わっています。

その上に見えるのが、本丸隅櫓

その向こうに大手門につながる土橋が見えます。


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角度を変えて、南西内堀の犬走りを見ます。

櫓、多聞櫓の向こうに少しだけ天守が見えます。


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北東側の内堀にやってきました。

こちらは、なぜか犬走りがありません。

どういう意図なんでしょう?


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岸和田城といえば、岡部宣勝を初代として明治維新まで13代続いた岡部氏の城という印象が強いですが、現在残る岸和田城を築いたのは、豊臣秀吉の叔父に当たる小出秀政でした。

秀吉は紀州周辺の反豊臣勢力根来衆雑賀衆への抑えとして、ここ和泉国の岸和田に多重の堀に囲まれた巨大な城を作らせました。

それが、岸和田城です。


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内堀東隅まで来ました。

ここからまた犬走りが始まって、最初の写真の南西につながります。

ちなみに、出隅の石垣の色が違っているのは、平成11年(1999年)の豪雨で石垣の一部が崩れたために修復したせいだそうです。

やっぱ、北東側にも犬走りを造るべきだったんじゃないですかね?


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さて、内堀を1周したので、「その2」では本丸を攻めます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-19 22:03 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第23話「大地」 ~関東大震災~

 大正12年(1923年)9月1日、関東地方を中心に広い範囲に被害をもたらした大地震が発生します。いわゆる「関東大震災」です。震源地は相模湾の真ん中あたりで、現代の観測値でいえば、マグニチュード7.9、最大震度6という規模だったと言われています。その被害の範囲も広大で、房総半島の太平洋側から、東京府、埼玉県、神奈川県、さらには東伊豆から静岡県の東の方、また、山梨県の一部まで家屋の倒壊があったと言われています。木造建築がほどんどだった時代とはいえ、その地震の規模の大きさがうかがえます。


e0158128_21313576.jpg また、これもよく知られていることですが、地震が起きたのが午前11時58分という、ちょうど昼食の準備の時間帯だったことも、被害を拡大させました。当然のことながら、当時はIHキッチン電子レンジもなく、どの家庭でもなどのを使って炊事をしていたわけで、その火が燃え移って大規模な火災が発生しました。消化器消火栓なども当然なく、水道すらまだほとんど家庭には通ってなかった時代ですから、なす術もなかったのでしょう。また、不運なことに、ちょうどこのとき台風が日本海沿岸を北上中で、その強風がいっそう火を煽ったようです。特に横浜市は中心部がほとんど全滅だったようですし、東京も、下町の本所・深川、今で言う江東区とか墨田区、それから日本橋・京橋など、要するに宮城(皇居)から東側は壊滅的だったようです。ドラマの舞台となっている浅草も例外ではなく、当時、浅草のシンボルだった凌雲閣(通称:浅草十二階)も、8階より上が倒壊。地震発生当時、頂上展望台付近には12、3名の見物者がいたといいますが、看板に引っかかって助かった1名を除いて全員が崩壊に巻き込まれて死亡したといいます。その中に、まさかシマちゃんがいようとは・・・。


 関東大震災の被災者は340万人、死者・行方不明者は10万8000人に達しました。時代が違うので比べようがありませんが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災6500人ほど、平成23年(2011年)の東日本大震災1万8000人ほどだったことを思えば、その被害の大きさに驚かされます。阪神・淡路大震災のときは建物倒壊による圧死、東日本大震災のときは津波による溺死が圧倒的に多かったそうですが、関東大震災では、やはり焼死がいちばん多かったようです。昭和20年(1945年)の東京大空襲の際の被害がこれに匹敵するのだとか。東京は、わずか20年ほどの間に2度も焼け野原になったんですね。


e0158128_21332287.jpg もうひとつ不運だったのは、このとき日本政府は、地震発生の8日前に内閣総理大臣加藤友三郎急死しており、外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を兼任するという臨時内閣のときでした。この緊急事態を受け、地震翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任するというドタバタでことにあたったのですが、政府機関が集中する東京が壊滅していることもあって、政府の対応もスムーズにはいかなかったようです。そういえば、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災も、当時、自社さ連合政権で首相が旧社会党の村山富市総理だったため、自衛隊の出動が遅れたと言われていますよね(真偽は定かではありませんが)。また、平成23年(2011年)の東日本大震災のときも、あの稚拙民主党政権下だったため、菅直人総理の右往左往する姿しか思い出せません。どうも、わが国の政府が混乱しているときに、「大震災」と呼ばれるような未曾有の災害が起きるようです。偶然と言ってしまえばそれまでですが、政治が不安定になったとき、地震に気をつけたほうがいいかもしれません。


 わたしの住まいは神戸市で、あの阪神・淡路大震災を経験しました。ドラマにあった安否をたずねる貼り紙が、24年前の神戸のまちにもあちこちに貼られていました。ドラマを観て思い出しちゃいましたね。シマちゃん、生きていてほしいと思いますが、たぶん、ドラマではその安否は描かれないんでしょうね。胸が詰まります。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-17 21:33 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

悲運の藤堂高吉を家祖とする名張藤堂家邸跡を訪ねて。

三重県名張市にある名張陣屋跡を訪れました。

現在残る名張陣屋跡は「名張藤堂家邸跡」として一般公開されています。


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名張藤堂家は、藤堂高虎の養子となった藤堂高吉にはじまります。


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こちらが入口です。


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説明板です。


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敷地内に入ります。


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名張藤堂家は寛永13年(1636年)からこの地に居を構えますが、当時の屋敷は宝永7年(1710年)の名張大火によって焼失したため、現存する建物はその後に再建されたものだそうです。

ただ、それも明治初年に大部分が失われたため、現在残る建物は、ほんの一部だけです。


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建物前の庭です。


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地面にかつての屋敷図面の石板が埋め込まれています。


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建物内に入ってみましょう。


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現存する建物は、「御西」と称された中奥、祝之間、茶室など日常生活に使用された奥向の一部だけだそうです。


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名張藤堂家の系図です。

初代の藤堂高吉はなかなか数奇な人生だった人で、元は織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれましたが、本能寺の変で信長死去の後、羽柴秀吉の所望により、実子がいなかった弟の羽柴秀長養子となります。

これは、天下を望む秀吉が、柴田勝家を討ち滅ぼすために丹羽長秀と縁を結ぶ目的だったといわれます。

この縁組で高吉は秀長の後継ぎなるはずでしたが、天下人となった秀吉は甥の秀保を立てたため、話はおじゃんになりました。

その後、高吉を家来と結婚させようとしますが、このとき秀長の家臣だった藤堂高虎が願い出て、高吉を養子に貰い受けました。

このとき、名を高吉としました。


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高虎は実子に恵まれなかったため、高吉を跡継ぎにするつもりでしたが、高虎48歳にして実子が生まれたため、その話はまたまたおじゃんに。

やむなく高吉は高虎の家臣となりますが、高虎は高吉を疎んじはじめ、参勤交代にも同伴しなかったといいます。

高吉は何も悪いことしてないのですが、悲運としか言いようがありません。


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高虎の死後は実子の藤堂高次の家臣として仕えるようになりますが、その高次の命によって高吉は伊勢国へ2万石の移封となり、その後、ここ名張に移封となりました。

その際、次男以下3人に5000石を分知させられ、1万5000石に減封となりました。

高次は高吉の存在を危険視したとされ(幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったためといわれる)、名張移封も、高吉に対する高次の冷遇の一環であったといわれます。

まさに、たらい回し人生ですね。


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中奥の間にあったこの屏風絵は、「長徳」の落款が記されています。

名張藤堂家7代目の藤堂長徳の作品のようです。


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です。

便所も畳敷きなんですね。


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湯殿です。


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茶室「清閑楼」です。


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茶室から見える庭です。


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向こうに見えるのは、太鼓門


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東側の「祝之間」は、武具や書簡など名張藤堂家に伝わる品々の展示コーナーになっています。


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羽柴秀吉・丹羽長秀の書簡です。

ふたりとも高吉の人生を狂わせた人物ですね。


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こちらは秀吉の朱印状


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さて、建物の外へ出て、先ほど庭に見えた太鼓門を見に行ってみましょう。


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こちらが太鼓門です。


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名張藤堂家と藤堂藩本家の間の確執は高吉の死後も200年近く続きました。

享保19年(1734年)には第5代・藤堂長熙は藩祖・高吉の実家である丹羽氏を通して幕府に独立を働きかけますが、翌年にそれが本家の知るところとなり、本家と分家の一触即発の状態になりました。

最終的には重臣3名が主君のあずかり知らぬところと主張し、責任を被って切腹したため落着しましが、長熙は隠居を命じられ、藤堂長美が跡を継ぎました(享保騒動、名張騒動とも)。

以降、本家から2名の横目付が派遣され、徹底した監視下に置かれるようになります。

しかし、第8代当主の藤堂長教が本家の藩主・藤堂高嶷の娘と結婚すると、ようやく両家の関係が徐々に良好になっていったそうです。

現代でも、後継者争い相続争いが確執を生むといった話は珍しくありませんが、200年近い対立というのは、双方、しんどかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-15 20:27 | 三重の史跡・観光 | Comments(0)  

室町時代の庭園が残る多気北畠氏城館跡を訪ねて。<後編> 武家庭園

<前編>の続きです。

多気北畠氏城館跡内にある庭園を散策します。

ここからは有料。


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入口横には、「名勝及史蹟多気北畠氏城館址」と刻まれた石碑があります。


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案内板です。

庭園は7代国司・北畠晴具の時代、享禄元年(1518年)頃の管領・細川高国の作庭という説に合致するそうです。


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いざ、庭園内へ。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)11月18日。

見事な紅葉が彩ります。


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天気が良ければもっときれいだったのでしょうけど、この日は曇りだったうえに、ここを訪れたのが夕方4時を過ぎていたので、暗い写真になってしまったのが残念。


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北畠氏伊勢国との関わりは、『神皇正統記』の作者としても知られる北畠親房が延元元年(1336年)に伊勢国田丸城を拠点としたことに始まります。

親房は伊勢神宮の存在や南朝を支持する南伊勢の諸勢力、及び、吉野朝廷と東国との連絡経路等について考慮し、伊勢国に拠点をおいたものと考えられています。


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親房自身はやがて常陸国に移りますが、次男の北畠顕信と三男の北畠顕能が伊勢にとどまり、延元3年(1338年)に顕能が伊勢国司となりました。

ちなみに、長男が前稿で紹介した悲運の武将・北畠顕家です。

その後、南伊勢の各拠点が北朝方の攻撃を受け、興国3年/康永元年(1342年)に田丸城が落城すると、北畠氏はほどなくここ多気に拠点を移し、霧山城や館を築いたといわれています。


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南北朝が統一されたあとも北畠氏は伊勢国司としての地位を保ち、守護大名として室町時代を生き抜いていきます。

往時の北畠氏の勢力範囲は、拠点である多気の地だけにとどまらず、およそ旧一志郡以南の諸地域に及び、隣国である伊賀国大和国の南部をもその支配下におさめていたといわれます。


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しかし、時は流れて天正4年(1576年)、織田信長天下布武の動きの中で侵攻を受け、約240年続いた多気北畠氏の歴史は幕を閉じることになりました。

栄華盛衰は世の慣いです。


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説明板によると、近年、同時代の庭園が発掘調査によって各地で見つかっていますが、ここ多気北畠氏城館跡の庭園のように、埋もれずに残っているものは他に例がなく、たいへん稀有な存在といえるそうです。


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庭園内にはかなりの樹齢であろう巨樹がたくさん茂っていましたが、おそらく、往時はこのような巨樹はなく、もっと見通しの良い空間だったのでしょう。


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さて、名勝を堪能したので、庭園を出て裏山への登山道入口に来てみました。


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霧山城址まで1350mとあります。


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でも、この時点で時刻は16時半で、とても1km超えの登山などできません。

霊山城はまた、いずれ、機会があれば。

最後に続日本100名城スタンプを載せます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-06-13 23:58 | 三重の史跡・観光 | Comments(0)