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いだてん~東京オリムピック噺~ 第28話「走れ大地を」 その2 ~五・一五事件~

 「その1」の続きです。

 柳条湖事件発生時、日本の総理大臣は若槻禮次郎でした。若槻内閣は閣議で騒ぎを大きくせずに収取する不拡大方針を取りますが、これに軍部が抵抗し、若槻の制止を振り切って戦線を拡大します。さらには、閣内からも軍部支持の声があがり、閣僚からも見放されたかたちで総辞職に追い込まれます。もはやシビリアン・コントロールが機能していなかったことがわかります。


e0158128_19300703.jpg そのあとを引き継いだのが、犬養毅でした。犬養内閣は基本的には満州国の建国には反対の立場でしたが、引くところは引いて軍部との調和を図り、決して軍部との関係は悪くはありませんでした。しかし、昭和7年(1932年)5月15日、海軍青年将校によるテロ事件によって暗殺されてしまいます。世にいう「五・一五事件」です。


 この事件の背景は、昭和5年(1930年)に濱口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことにありました。この条約によって主力艦建造停止が延長され、英・米・日補助艦総保有量10:10:7となりました。この条約に不満を持った青年将校たちは、時の政府要人たちを殺害して軍部を中心とした政府をつくろうと画策します。犬養は政友会総裁であり、軍人たちにとっては、軍部の思いどおりにならない政党政治邪魔な存在だったわけです。


 事件当日は日曜日で、犬養は首相官邸にいました。襲撃犯たちは靖国神社に集合し、午後5時頃に官邸に乗り込み、犬養と面談します。犬養は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを話し始めましたが、「話せばわかる」という犬養に対して、「問答無用!」と叫んでズドン!・・・というのは有名な話ですね。犬養は頭部左側に銃弾を受けるも即死には至らず、駆けつけた女中に「いま撃った若者をもう一度連れてこい。よく話して聞かすから。」と語ったといいます。これも、ドラマで描かれていましたね。その後、犬養は次第に衰弱し、深夜になって死亡しました。


 殺されたのは犬養首相ひとりでしたが、襲われたのは、元老・西園寺公望、内大臣・牧野伸顕、侍従長・鈴木貫太郎ら天皇の側近三人で、また、警視庁、変電所、三菱銀行なども襲撃されましたが、いずれも被害は軽微でした。事件後、襲撃犯たちは自首しますが、どういうわけか彼らは当時の国民から人気があり、助命嘆願運動が各地で起こります。また、本来なら軍法会議にかけて厳重に処分しなければならないはずの軍部も、なぜか彼らに同情的で、それがまた、政府批判の世論を煽りました。そんな世論が加味されてか、のちに行われた裁判で、当初は死刑が求刑されましたが、結局、首謀者が禁固10年~15年、その他参加者は禁固4年という軽い刑で終わります。一国の首相を殺したのに・・・です。この甘い判決が、のちの二・二六事件につながったと考えても的外れではないでしょう。


 この五・一五事件によって、犬養が総裁を務める政友会は潰され、その後、海軍大将斎藤実総理大臣になります。犬養内閣は閣僚も政友会で固めた政党内閣で、日本は明治31年(1898年)の第一次大隈重信内閣以来30年以上、政党内閣できたのですが、五・一五事件によって政党政治は完全に息の根を止められてしまいました。斎藤内閣は「挙国一致内閣」といって、政党にこだわらず幅広く人材を集めた内閣をいいます。こうして、政府は軍部寄りになっていきました。ここから、軍の力が政治や言論を支配する、一種の恐怖時代に突入していきます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-30 23:11 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第28話「走れ大地を」 その1 ~満州事変~

 「激動の昭和」とよく言われますが、その入口となったのは、昭和6年(1931年)9月18日に起きた柳条湖事件に端を発する満州事変といっていいでしょう。この事件後、日本の関東軍が主導となり、事実上の日本の傀儡国家・満州国を建国。これをきっかけに日本は国際連盟を脱退し、世界で孤立するとともに、国内は軍部独裁の方向に向かっていきます。いわば、昭和の日本がダメになったスタート地点です。


e0158128_19211734.jpg 清朝滅亡後、中華民国と呼ばれていた当時の中国は、誰が国を統治するかが定まらない不安定な状態にありました。のちに中華人民共和国を建国する毛沢東率いる共産党と、共産主義に反対する蔣介石率いる国民党が対立し、また、日本が駐留していた満州を支配していたのは、張作霖でした。日本はこの張作霖を支援して満州における権利を拡大しようとしていたのですが、やがて張作霖が日本の言うことをきかなくなり、蔣介石との戦いに敗れると、張作霖を無用の存在として、関東軍の謀略で列車ごと爆殺してしまいます。これが満州事変の3年前の昭和3年(1928年)6月4日に起きた「張作霖爆殺事件」。当初、この事件は中国人同士の政争と見せかけられていましたが、実際には日本の関東軍の陰謀だったことがわかります。しかし、首謀者の関東軍参謀の河本大作大佐は停職処分という軽い処分で済まされました。この事件とその後の政府の対応に激怒した昭和天皇は、当時の首相・田中義一を叱責し、田中内閣は総辞職します。しかし、このとき関係者を厳しく処罰しなかったことで、のちに軍部が政府のいうことを聞かなくなっていくんですね。


 この事件後、張作霖の息子・張学良が日本軍に強い恨みを持ち、父の敵だった蒋介石とタッグを組み、反日運動を激化させていきます。満州を支配するために張作霖を殺したはずが、逆にますます満州の権益は事件前より悪くなってしまいました。当然の報いといえます。


e0158128_19212164.jpg 張作霖爆殺事件の後、石原莞爾板垣征四郎という二人のエリート軍人が関東軍の参謀となります。この二人によって満州事変が計画されました。石原はこの時点で、いずれ東洋の代表である日本西洋の代表であるアメリカ戦争になることを予見し、その戦いに勝ったほうが世界の覇権国となり、そうなることで、以後、世の中から戦争はなくなるという持論を掲げていました。そしてその戦争に日本が勝つためには、どうしても満州を日本の領土にしなければならないと考えていたんですね。それまであったロシアからの国防論とは、少し違った観点での満州支配論でした。


 昭和6年(1931年)9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路の一部が爆破されました。いわゆる柳条湖事件ですね。当初、関東軍はこれを中国軍の犯行と発表します。日本国民のほとんどは第二次世界大戦終結までこれを信じていました。しかし、実際には、関東軍が自作自演したでっちあげの謀略だったというのは、現在では周知のところだと思います。関東軍はこの事件をきっかけに軍事行動に訴え、満州各地を次々と占領し、翌昭和7年(1932年)2月、関東軍は満州全土を制圧。3月1日に満州国の建国を宣言しました。


こうした日本軍の行動に対し、中国政府は、日本の満州での行動は不法であると国際連盟に訴えました。これを受けて国際連盟はリットン調査団を満州に派遣します。調査団は日本の満州における権益を認めながらも、軍事行動は自衛と認められないと結論づけます。この報告書を受けた国際連盟は、満州国建国は認められないとし、日本は占領地から引き上げるよう勧告します。これを受けた日本代表の松岡洋右は会議から退場、国際連盟を脱退しました。ここから、日本は戦争への道を突き進んでいきます。


 満州事変だけで長くなっちゃったので、明日、「その2」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-07-29 19:22 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

引田ひなまつり逍遥。

前稿まで引田城の攻城記を起稿してきましたが、その続100名城スタンプがある讃州井筒屋敷を訪ねて来たところ、臨時駐車場が設けられていて観光客がいっぱい。

何かと思って歩いていると、こんなポスターが貼られていました。


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引田ひなまつり

ここを訪れたのは平成31年(2019年)3月2日。

ひなまつりの前日でした。


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この日、たまたま朝にテレビを見ていると、タレントのラッシャー板前さんがこの引田ひなまつりを生中継レポートしていたのですが、わたしがこの日訪れようとしていた引田城と、この引田ひなまつりの町が同じ場所だとは全く気付かず、見るともなしに観ていました。

で、来てみてビックリ。

これ、今朝テレビでやってたやつやん!・・・みたいな(笑)。


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で、せっかくなので、まつり会場を逍遥しました。


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引田では昔から女の子が誕生すると、初節句にこの地域独特の「引田雛」と呼ばれるひな飾りを親族や近所の人に披露する風習があったそうです。

雛人形は母親の実家が準備するのがしきたりだったそうで、豪華なものを各戸競うように披露しあうため経済的負担も大きく、周辺地域では、江戸期以前より「引田には嫁にやるな」といわれていたそうです。


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あまりに華美で家計の負担も大きく、昭和の終わり頃には自治会の申し合わせにより自粛となっていました。

それが、近年、町おこしの一環で数件の有志によって復活され、平成15年(2003年)から開催されて平成最後の今回で17回目を迎えたそうです。


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引田雛は内裏びなが御殿入った御殿雛と、雛壇の横に市松人形を飾るのが特徴だそうです。


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雛人形についてのウンチクはわたしにはわかりませんので、とにかく写真を掲載します。


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引田の町は江戸時代に醤油醸造のまちとして栄え、現在でもその当時の建物が現存しています。

いくつか主だったところを紹介しましょう。


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こちらは元禄5年(1692年)創業の讃州井筒屋敷

引田醤油の名を全国に広めた『引田御三家』のひとつで、現在は引田を代表する建物、歴史資料館として一般公開されています。

引田城の続100名城スタンプもここで押せます。


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この日は人が多すぎて、じっくり建物を撮影できませんでした。


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こちらは松村家の屋敷

江戸時代中期より村内魚の棚において「多島屋」の屋号で魚の卸商を営んでいた豪商だそうです。

建物は国の登録有形文化財に指定されています。


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こちらは泉家の屋敷

明治期より海産物の販売を営み、煮干製造も行っていたそうです。

こちらも建物は国の登録有形文化財に指定されています。


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こちらは山本家の屋敷

江戸時代後期から醤油醸造元を営んでいたそうです。


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こちらは長崎家の屋敷

江戸時代後期から廻船業を営んでいたそうです。


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また、通りの一角には「藤澤南岳誕生地」と刻まれた石碑と説明板がありました。

藤澤南岳は幕末から明治にかけての儒学者で、高松藩に仕え、幕末のギリギリの段階で佐幕派だった藩論を一夜にして勤王派へと転換させ、藩滅亡の危機を救った人物です。

明治以降は大阪の泊園書院を再興するなど、学匠としての地位を築きました。

大阪の「通天閣」名付け親でもあります。


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さて、偶然出会った引田ひなまつりでしたが、良いものを見せていただきました。

備忘録として、ここに紹介した次第です。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-25 23:46 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

瀬戸内海を望む讃岐引田城。 その3 <東の丸~北二の丸~大手門~南二の丸>

「その2」のつづきです。

引田城最東端の引田鼻灯台から北西に向かいます。


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誘導板には「東の丸約70m」とあります。


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ここからまた登りになります。


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「東の丸」です。

往時には、ここに火薬を保管する煙硝蔵などの軍事施設があったと推定されています。


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東の丸から東側を見ると、前稿で紹介した引田鼻灯台が見えます。


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沖に浮かぶ小島は、右手前が通念島、左奥が松島


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東の丸は東から西に150mほど左ドッグレッグした曲輪です。

大きな石が散乱しているのは、石垣の名残でしょうか?


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東の丸から北西に向かいます。

途中、女郎島に向う誘導板がありました。

女郎島にまつわる伝説は前稿で紹介しましたが、この日は時間的制約があってパス。


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このあたりから、北二の丸に入ります。

縄張り図によると、このあたりに石垣があるはずなんですが・・・。


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あった!・・・・と思ったら、何やら養生シートで覆われています。

貼り紙には、「ここの石垣は崩れる危険があるので、シートで保護しています」とのこと。

残念。


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と、思いきや、もうひとつの貼り紙によると、ここを下ったところに高石垣があるとのこと。

行ってみましょう。


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ありました!

見事な野面積みの石垣です。


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その説明板。

高石垣の高さは5~6mあるそうです。


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石垣を見ながら、引田城の歴史についてお話しまししょう。

引田城の歴史は古く、その伝承によると、天智天皇6年(667年)、屋島築城に際して引田氏がここに築いたのが始まりとされています。

文献史料に引田城の記述が見られるのは、江戸時代編纂の軍記物語『南海通記』にある応仁年間(1467~69年)に寒川氏が領したというのが初見だそうです。

永正年間(1504~21年)ごろには寒川氏の属する四宮右近が城主となりますが、元亀2年(1571年)、三好長治に城を奪われ、その家臣の矢野氏が入城しています。


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京で本能寺の変が起きた2ヶ月後の天正10年(1582年)8月、四国統一を目指す長宗我部元親は、中富川の戦いで三好一族の十河存保を破り、さらに9月には存保の籠もる勝瑞城(参照:勝瑞城)も攻め落とし、阿波国をほぼ制圧しました。

このとき引田城を守っていたのは十河氏の一族でしたが、存保は讃岐虎丸城へ退却し、中央の羽柴秀吉援軍を求めました。

ところが、その頃秀吉は織田家の後継者争いの真っ只中で、多人数の援軍を送ることが出来ず、仙石秀久を援軍として派遣。

天正11年(1583年)4月に仙石秀久が海上から引田城に入ります。

しかし、長宗我部軍との圧倒的な兵力差はいかんともしがたく、撤退を余儀なくされました。


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以後、引田城は長宗我部氏の配下となりますが、しかし、その元親も、四国をほぼ平定した天正13年(1585年)、秀吉の四国攻めによって降伏し、元来の土佐一国の領有だけを許されるに至ります。


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そして引田城には再び仙石秀久が入城して大規模な改修が行われますが、続く九州平定戸次川の戦いで島津軍に大敗を喫し、逃亡した秀久は所領没収となります。

その後、城主は目まぐるしく代わり、天正15年(1587年)に讃岐一国約18万石を得た生駒親正が入城しますが、引田城の立地が領国の東端に位置するため、同年、聖通寺城に移ります。

その後は、生駒氏のとして機能していたようですが、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となりました。


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石垣を堪能したので、そろそろ移動しましょう。

縄張り図によると、ここからさらに北西に進んだところに北曲輪があるのですが、特に遺構は残ってなさそうなので、スルーして南に向かいます。


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しばらく進むと、虎口跡と思しき場所に出ます。

縄張り図によると、ここが大手門跡のようです。

かつての大手道は、現在は登山道としては使用できません。


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石垣などの遺構は残っていませんが、大きな石が散乱しています。

これは、石垣の名残でしょうか?


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大手門の南は南二の丸が広がります。

この曲輪をさらに南に進むと、「その1」「その2」で紹介した本丸に繋がります。


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さて、城跡をぐるっと1周しました。

これで引田城の攻城を終わりますが、次稿では、城山を降りて引田の街を逍遥してみたいと思います。

最後に、続100名城のスタンプです。

上の石垣の写真がそのままスタンプになっていますね。


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by sakanoueno-kumo | 2019-07-24 21:23 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

瀬戸内海を望む讃岐引田城。 その2 <本丸跡~化粧池~引田鼻灯台>

「その1」のつづきです。

本丸西の郭を後にして、30mほど登ったところに、本丸(天守台)北二ノ丸の分岐点があります。


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本丸(天守台)まで約40mとあります。

行ってみましょう。


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写真左奥に見えるのが先ほどの分岐点の誘導板。

40mというと、このあたりになるのですが・・・う~ん、たしかに土が幾分か盛り上がっていますが、天守台には見えません。

本当に天守があったのでしょうか?


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さらに50mほど尾根伝いに進むと、「南の郭」と書かれた案内板がありました。


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南の郭には、1段高いところになにかのがあります。

何を祀った祠なのかは、説明書きがないのでわかりません。

あるいは、ここが天守台跡でしょうか?


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そこから南の郭を南東に進むと、休憩スペースのような広いスペースがあります。


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どうやら、ここが山頂のようですね。


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南側に引田港が見えます。


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そして南の郭最南端に出ました。

ここでも引田港や引田の城下町が一望できます。


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現在は山麓の町並みと陸続きになっている引田城ですが、往時は海がもっと入り込んでいて、城山の西側のみが陸に通じ、他の三方は海岸に面した断崖だったそうです。

まさに、天然の要害だったわけですね。


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「その1」で紹介した西の郭からここ南の郭までの150mほどの長い尾根が、本丸と考えられているようです。


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で、本丸を後にして、城跡北東に向かいます。

ここから下りになります。


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200mほど下ったところに、木橋があります。


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その橋の北側に大きな溜池が広がっているのですが、ここは、引田城の姫君女中たちが、この池の水を化粧の際に利用していたという伝承があり、「化粧池」と呼ばれています。


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池の周りには石垣が積まれており、この池が人工の溜池ということがわかります。


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石垣は「その1」で紹介した西の郭のものと同じく天正後期のものと見られ、おそらく、天正15年(1587年)に入城した生駒親正の時代か、その前の天正13年(1585年)に入城した仙石秀久の時代のものと思われます。


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きれいに残っていますね。


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現在、化粧池には水は少ししか残っていませんが、往時は、この石垣が隠れてしまうほど水が貯められていたのでしょう。

この大きな貯水池が、女性たちの化粧だけのために使われていたとはとても思いません。

おろらく、城内の生活水として利用されていたのでしょうね。


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さらに北西に進んだ城跡最東端に、灯台があります。


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この灯台は「引田鼻灯台」といい、昭和29年(1954年)に造られたものだそうです。


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灯台より西は断崖になっています。

引田城の時代は、ここに物見櫓のようなものがあったのかもしれません。


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灯台には登れないので、灯台前から瀬戸内海を望みます。

樹木が茂って見えませんでしたが、城山の北側に、女郎島という小さな岩島があります。

「女郎」とは、後世には遊女という意味で使われるようになりましたが、かつては大名などの奥方に仕える女中をそう呼んでいたそうです。

この島は、干潮時には陸続きになりますが、満潮時には離れ小島になるそうです。

この女郎島にまつわる悲恋物語『おせんごろし』という伝承が、ここ引田には残っています。

生駒親正が城主だった時代、おせんという奥女中が、ひとりの若僧侶に落ち、この島で逢引を重ねていたそうです。

ところが、ある日、おせんが待てど暮らせど、若僧侶が姿を表さず、そのうち満潮になり、おせんは城に帰れなくなりました。

無断で逢引をしていたとなれば、お咎めは免れ得ない。

悲嘆に暮れたおせんは、この島から身投げしたそうです。

その後、この島のまわりに赤い小さな魚が現れるようになり、その魚を捕らえて食べると、腹痛を起こすという噂が広まりました。

人々はこの魚がおせんの生まれ変わりだとし、「おせんごろし」と呼ぶようになったんだそうです。


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以上が「おせんごろし」の伝承。

若僧侶、なんで来なかったんでしょうね?

今ならLINE「今日は野暮用で行けませ~ん!(ごめんなさいスタンプ)」で終わりなんでしょうけどね。

今の若い人は、「待ちぼうけ」なんて経験がないかもしれませんね。

「その3」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-23 20:35 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

瀬戸内海を望む讃岐引田城。 その1 <登山道~本丸西の郭>

今回は香川県の引田城跡を攻めます。

引田城は東かがわ市引田の北側に岬状に突き出した標高82mの城山山頂に築かれています。


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登城口です。

案内板と幟があります。


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「続日本100名城選定」とあります。

引田城は平成29年(2017年)4月6日に日本城郭協会から発表された続日本100名城に、香川県で唯一選定された城です。


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案内図です。

登城口は北の田浦キャンプ場側からと、南の引田港側の2ヶ所にありますが、この日は南側の引田港側からの登城です。


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ともあれ、さっそく登ってみましょう。


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登り始めてすぐに設置されている説明板です。

文献史料に引田城の記述が見られるのは、江戸時代編纂の軍記物語『南海通記』にある応仁年間(1467~69年)に寒川氏が領したというのが初見だそうです。

永正年間(1504~21年)ごろには寒川氏の属する四宮右近が城主となりますが、元亀2年(1571年)、三好長治に城を奪われ、その家臣の矢野氏が入城しています。


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登城開始。


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標高はそれほど高くない山ですが、海沿いに面している山のため、ほぼ標高=比高となりますから、決して楽な登山ではありません。


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登り始めて10分弱、見晴らしの良い場所に出ました。

南側の引田港です。


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さらに登ります。


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いい天気なので、景色が綺麗です。


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登り始めて15分、いきなり石垣が眼前に現れました。


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本丸まで約70m

ええっ!いきなり本丸?

現在の登城コースはかつての大手道とは違うため、いきなり本丸にたどり着くようです。


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ってことは、これは本丸の石垣


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どうやらそのようですね。


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石垣の上に説明板があります。

登ってみましょう。


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説明板です。

本丸西側に位置するこの算木積みは、隙間に間詰め石を用いる古い積み方で、引田城で最初に築かれた石垣と考えられているそうです。


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石垣上に上がってきました。


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先程の説明板の裏にも、何か別の説明文が書かれています。


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大正12年(1923年)に久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)の行啓予定地となったと書かれています。

こんな山の中に皇后様(当時は皇太子妃)がお越しになる予定があったなんて、ビックリです。


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引田城の城主は何度も変わっていますが、石垣は天正後期のものと見られ、おそらく、天正15年(1587年)に入城した生駒親正の時代か、その前の天正13年(1585年)に入城した仙石秀久の時代のものと思われます。


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本丸西の郭まで登ってきましたが、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-22 23:53 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その4 <小倉丸~椎の丸~下山道>

「その3」の続きです。

本丸を後にして、一宮城南側に向かいます。


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一宮城の縄張りは大きく北城南城に分かれていて、「その2」「その3」で紹介した才蔵丸、明神丸、本丸が北城、そして本稿で攻める曲輪が南城になります。


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誘導板にある水手丸、小倉丸、椎丸が、南城の曲輪です。


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しばらく歩くと、「投石用の石」と書かれた説明板と石がありました。

たしかに、投げやすそうな大きさの石ですが、これだけをもって「投石用」と断定できるのでしょうか?


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「曲輪跡」と書かれた立札があります。

北城南城の間にも、小さな曲輪がいくつかあります。


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堀切跡


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そしてまた曲輪跡を横切り、南西に向かいます。


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土橋のように見えます。


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「小倉丸」と書かれた誘導板が出てきました。

行ってみましょう。


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「土塁跡」と書かれた立札が見えます。


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土塁の上に登ってきました。


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小倉丸は本丸の南側を防御するように作られた細長い曲輪で、曲輪の西南は高さ2m土塁がめぐっています。

土塁の長さは内側で58mあるそうです。


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土塁の北西の突出した部分は、櫓台になっています。


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ここがその櫓台

現在、城跡の遺構をわかりやすくするために木を伐採している途中のようでした。


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小倉丸を降りて、さらに西へ向かいます。

上の写真は、小倉丸西側の空堀です。


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見事なV字型です。


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道中、「竪堀」やら「土塁」といった立札が随所に見られましたが、いずれも草木に埋もれていて、イマイチわかりづらかった。


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続いて、城跡最南西端にある椎丸にやってきました。


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椎丸は、それほど面積は広くありません。


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縄張り図によると、この椎丸の北側に水手丸があるのですが、その行き道が草木に埋もれてわかりませんでした。

なので、水手丸はスルーすることにしました。


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椎丸から東に下った谷底に、貯水池堤跡があります。

今は少ししか水が残っていませんが、往時は、長い籠城戦に耐えられるほどの水がここに確保されていたのでしょう。

上述した椎丸と水手丸は、この貯水池を守るための役割も果たしていたようです。


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『伊藤文章』、『森古伝記』、『太閤記』、『異本阿波志』などの古記録には、羽柴秀吉四国攻め「水の手」にからむ攻防戦が行われたとの記載があります。

羽柴秀長率いる寄手は、この貯水池を奪って城を落とそうとし、そうはさせまいとする長宗我部元親籠城軍と、ここで激しい攻防が繰り広げられたのかもしれません。


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貯水池から下ったところには、「陰滝」と呼ばれる滝の跡があります。

説明板によると、この岩壁と周囲の曲輪によって、貯水池が守られていたようです。


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さて、この陰滝を過ぎると、緩やかな下山道となり、攻城終了です。

登り始めてから約1時間半の攻城でした。

ちなみに、余談ですが、この日、本丸跡で地元の徳島新聞の記者さんから取材を受け、後日、その様子が新聞に載りました。

紙面を送っていただいたので、載せさせてもらいます。


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氏名は伏せさせていただきますことをご容赦ください。

記者さんによって、「古城愛好家」という肩書をいただきました(笑)。

名刺作ろうかなあ(笑)。


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最後に、続100名城のスタンプを載せます。

ここを訪れたのは平成31年(2019年)3月2日だったのですが、スタンプはそれ以前に押していました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-18 23:59 | 徳島の史跡・観光 | Comments(2)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その3 <本丸>

「その2」の続きです。

一宮城本丸跡まで登ってきました。

眼前に姿を見せた本丸石垣の迫力に圧倒されます。


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一宮城本丸は標高約144.3mに位置し、ここだけ、総石垣造りとなっています。

石垣に沿っての本丸の大きさは、東北約36m、西北約23mの不等辺三角形で、石垣の高さは約5mあり、反りはほとんどありません。


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虎口は東側の1ヶ所だけです。


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とにかく本丸石垣の周囲を1周してみましょう。


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虎口石段横の石垣。

櫓台のようにも見えます。

虎口には櫓門があったのかもしれません。


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本丸東面から北面に向う細い犬走りのような道です。

鈍角にを設けて横矢を効かせています。


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虎口横の石垣と違って、このあたりは石垣が苔むしています。

たぶん、北東部分なので、陽があまり当たらないのでしょうね。


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振り返ってみると、犬走りの向こうに石垣が突き出しているのが見えます。

あそこが、櫓台と思われる石垣です。


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こちらは北面の石垣。

本当は北東出隅の石垣を写したかったのですが、通路が狭すぎて引きの写真が撮れませんでした。

写真左側がその出隅。

なんとなく、算木積みっぽい形状をしています。


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反対側から見た北面石垣。


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そして、こちらは本丸西面。

ここだけ、一部石垣が積まれていません。

崩れてしまったのでしょうか?


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その向かい側(西側)には、「釜床跡」と書かれた石碑と説明板がありました。

いわゆる炊事場ですね。

あるいは、本丸西側の石垣がない部分には、この釜床跡につながる搦手口があったのかもしれません。


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本丸南西の出隅石垣です。

なんとなく算木積みっぽい積み方です。


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1周してきました。

では、本丸上に登ってみましょう。


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本丸上です。


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本丸には天守台がないので、天守が建っていたかどうかは不明ですが、本丸の南側に礎石跡が見つかっているそうで、天守に相当する何らかの建築物が建っていた可能性は高いようです。


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天正13年(1585年)5月、一宮城は羽柴秀吉四国攻めの主戦場のひとつとなりました。

秀吉は弟の羽柴秀長6万の兵を与えて阿波国を攻めさせると、秀長はそのうち4万の兵でここ一宮城を包囲します。

対する長宗我部元親方の籠城兵は約1万

この兵力差のなか城方はよく守りましたが、同年7月下旬に元親が降伏し、開城となりました。


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その後、秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、家政は一宮城を居城としました。

現在に残る石垣の遺構は、このときのものと考えられています。

本丸だけにしか石垣が積めなかったのは、予算の都合上だったのでしょうか?


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本丸からの北側眺望です。

下に見えるのが鮎喰川

その向こうの山が、標高197m辰ヶ山です。

あの山に羽柴秀長軍が陣を布いたといわれています。


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本丸の説明板です。

天正14年(1586年)7月、蜂須賀家政は新たに築いた徳島城に移り、一宮城は家臣の益田長行に守らせますが、その後、江戸幕府の一国一城令によって、寛永15年(1638年)に廃城となります。

このとき、石材の一部徳島城に運ばれ、修築に使われたと言われています。


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こちらは案内図です。

才蔵丸、明神丸、本丸北城

案内図で見る本丸より右上部分が南城になります。

「その4」では、南城を攻めます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-17 23:41 | 徳島の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第27話「替り目」 ~皇紀2600年の東京オリンピック招致~

 関東大震災復興がなんとか形になってきた昭和5年(1930年)頃から、東京へのオリンピック招致の声があがり始めました。金栗四三三島弥彦が日本人選手として初めて参加したストックホルムオリンピックから20年近くが経ち、いよいよ日本も自国での開催を企画できるレベルにまで来ていたんですね。そもそもの発案者は、関東大震災時に東京市長を務めていた永田秀次郎でした。永田は昭和5年(1930年)に再び東京市長に選ばれると、関東大震災からの復興を象徴するイベントとして、東京オリンピックの招致を唱えます。昭和39年(1964年)の東京オリンピックは戦災からの復興、令和2年(2020年)に開催予定の東京オリンピックは東日本大震災からの復興といった具合に、国内外に復興をアピールするには、オリンピックはもってこいのイベントなんでしょうね。


e0158128_17104791.jpg また、このときの東京オリンピック招致は、もうひとつ、開催予定の昭和15年(1940年)が皇紀2600年にあたることから、その祝賀イベントにしようという意図もありました。「皇紀」(戦前は「紀元」とも言われていた)というのは、戦後生まれの私たちには耳なじみがあまりありませんが、戦前に使われていた紀年法で、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とします。その元年は、西暦(キリスト紀年)でいえば、紀元前660年とされています。戦前の日本では、キリスト紀年の西暦はあまり使用されず、元号もしくは皇紀で年をよむのが一般的だったそうです。もっとも、この皇紀の歴史はそれほど古いものではなく、明治5年(1872年)に明治政府が太陰暦から太陽暦への改暦を布告した際に制定したもので、それ以前の江戸時代にはなかったものです。まあ、日本が皇国であるということを国民に植え付けたいという意図から作られたものだったのでしょうが、それでも、明治、大正期はあまり国民に浸透していなかったようで、多用されるようになるのは、昭和期に入ってからだそうです。第二次世界大戦前国定歴史教科書では、元号も西暦も用いられず、一貫してこの皇紀が用いられていたとか。こうして皇国日本のナショナリズムが作られていったんですね。


 もっとも、神武天皇の即位は『日本書紀』に基づくもので、これが信憑性に乏しいことは、当時でも少し学のある人なら周知のことだったでしょう。国民がこの皇紀をどれほど尊重していたかは疑問です。それでも、この皇紀2600年記念事業というのは、かなり盛大なイベントだったようで、紀元節(2月11日、現在の建国記念日)には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会体育大会など様々な記念行事が全国各地で催されました。わたしは、城跡や寺社などの史跡めぐりを趣味にしていますが、史跡に建てられている戦前の石碑などの裏を見ると、「皇紀二千六百年記念」と刻まれているのをよく見かけます。国全体が祝賀ムードだったようですね。


e0158128_19143177.jpg 話が脱線しちゃいましたが、東京オリンピック招致を思い立った永田は、IOC委員である嘉納治五郎にその意図を伝え、協力を求めました。しかし、当初、嘉納は慎重だったようです。その理由は、参加国の大半が欧米諸国であるなか、極東の東京は地理的に遠すぎて移動費がかかりすぎること、選手や役員を宿泊させる十分なホテルがないこと、語学の面で欧米語を使える人材がスポーツ界に乏しく、十分な接待ができないことなどから、時期尚早ではないか、ということでした。これまでオリンピック参加には積極的だった嘉納でしたが、自国での開催となると、IOC委員であるだけにその難しさを熟知しており、そう簡単には決断できなかったのでしょう。しかし、永田をはじめ東京市関係者の熱心な説得を受け止め、嘉納は70歳代になってから、東京オリンピック招致で世界を駆け回ることになります。


 ドラマでは、金栗四三のお兄さんが亡くなりました。幼い頃に父を亡くし、父親代わりだった兄の死は、金栗にとって大きな悲しみだったことでしょう。日本初のオリンピック選手としてマラソンに熱中できたのも、兄の支えがあってこそだったでしょうから。これを機に、金栗はしばらく故郷の熊本に帰ることになります。ここから、物語は田畑政治を中心に展開していくんでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-15 17:18 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その2 <才蔵丸~明神丸>

「その1」の続きです。

一宮城の縄張りは大きく北城南城に分かれていますが、その北城の東側にある才蔵丸明神丸を分断する大堀切が下の写真です。


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見事なV字です。

この左側が才蔵丸、右側が明神丸です。


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その説明板。


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反対側からみた堀切です。


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堀切の南側に、才蔵丸に登る虎口があります。


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入口に立つ石碑は「才蔵丸」ではなく「財蔵丸」と刻まれています。


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才蔵丸跡です。


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広い。


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才蔵丸は一宮神社横の登城口から最初に到達する主要曲輪で、後世の呼び方でいえば三の丸にあたると考えられます。

曲輪の形態は自然地形に沿って不整形で東西に細長く、曲輪内は平坦ではなく東方向にやや傾斜しています。

標高は129.2m


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才蔵丸からの西側の眺望です。

正面奥の山が、徳島市街を望む眉山です。


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さて、才蔵丸を出て西に進みます。

右は明神丸、左は竪堀となっています。


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そして門跡

5段ほどの石段跡があります。


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石段を上がると、右が明神丸、左が本丸となっています。

まずは明神丸に向かいます。


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明神丸虎口前の石碑。


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そして、明神丸周辺の案内図です。

「その1」の最後に紹介したのが「湧水」と書かれたところ。

そこを上がって、本稿の最初に紹介したのが才蔵丸で、堀底を通って門跡を抜け、右に折れて明神丸に向かっています。


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明神丸の虎口です。


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明神丸跡です。

明神丸の標高は140.9mだそうで、本丸との高低差は3.4mしかなく、後世の呼び方でいえばニの丸にあたると考えられています。


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南北朝時代、一宮城主の一宮(小笠原)長宗は南朝方に属していましたが、長宗の死後、息子の一宮成宗が北朝方の細川頼之との戦いに敗れたため、以後、一宮氏は北朝方に下り、細川氏の配下となります。

しかし、戦国時代に入って細川氏を追い落とした三好氏が阿波国の実験を握ると、姻戚関係を結ぶなどして三好氏に従うことになり、一宮成祐の時代には三好家臣団のなかでも重要な地位となっていました。

しかし、三好長治との間に不和が生じ、天正5年(1577年)の荒田野の戦いでは三好軍と敵対し、長治を討ったものの、孤立無援となって長宗我部元親の軍門に下ります。

天正10年(1582年)には長宗我部元親の配下として中富川の戦いの参戦し、元親の阿波国平定に貢献しますが、戦いが終わると、元親は一宮成祐が三好康長と通じていたとの理由をつけて殺害し、一宮氏を滅ぼします。

一宮城を手に入れた長宗我部氏は、南城に江村親俊、北城には谷忠澄を置いて城を守らせました。


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明神丸からの北西の眺望です。

はるか遠くに見える平野が徳島市街です。

中央右側の山が眉山


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景色を堪能したのち、明神丸を出て本丸に向かいます。


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本丸と明神丸の間は、長さ64m、幅13mの帯曲輪となっています。


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そして帯曲輪を抜けると、ドドーンと本丸の石垣が現れます。

これはスゴイ!

じっくり見たいので、続きは「その3」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-13 17:54 | 徳島の史跡・観光 | Comments(2)