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<   2019年 08月 ( 17 )   > この月の画像一覧

 

築城400周年の明石城を歩く。 その6 <本丸~天守台・人丸塚~>

「その5」に続いて本丸を歩きます。

本丸南西隅の坤櫓の北側に、天守台があります。


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天守台は小笠原忠真の築城時から存在していましたが、明石城には一度も天守が築かれることはありませんでした。


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この時代に築かれた城で天守台だけ築いたという例は他にもあり、その理由については、幕府に遠慮して建てなかったというものや、当時、大砲が主力兵力となりつつあり、その標的になりやすい天守は、時代にそぐわない無用の長物と考えられ始めていたから、とか、あるいは、経済的理由で、いつかは天守を建てるべく天守台だけ築いた、とか、様々な見方がありますが、定説はありません。


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明石城の場合、本来南西隅に築かれるべき天守台が、あえて奥まった場所に築き、南西隅には坤櫓を設けていることから見て、当初から天守を築く予定はなかったのではないか、とも考えられているそうです。


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でも、だったら、そもそも天守台を築く必要もなかったんじゃないかと思っちゃうんですけどね。


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天守台上に登ってみましょう。


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天守台は上面の大きさが東西25m、南北20m、約152坪あり、5重の天守が乗る規模です。

これは熊本城の天守台と同じ規模なんだそうです。


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天守を建てるつもりがないのに、こんな立派な天守台を設けるでしょうか?


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天守台からみた坤櫓です。


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その西側を見下ろすと、三ノ丸居屋敷郭跡明石球場(現・明石トーカロ球場)が見えます。


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天守台から「その4」で紹介した稲荷郭を見下ろします。


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その向こうには、明石陸上競技場(現・きしろスタジアム)が見えます。

かつてあの場所には、山里郭がありました。

築城当時は樹林屋敷と呼ばれ、城主の遊興所があったと伝わります。


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さて、天守まで攻略しましたが、もう少し本丸を歩いてみましょう。


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本丸内には「人丸塚」と書かれた駒札と、鬱蒼と大樹が茂る小さな丘陵があります。

もともと本丸の位置には弘仁2年(811年)に弘法大師・空海が創建したと伝わる湖南山楊柳寺がありました。

人丸山の由来ともなった人丸塚の名は、仁和3年(887年)に僧・覚証柿本人麻呂の夢を見て、寺の背後の塚を「人麻呂塚(人丸塚)」と名付けたことにはじまります。

このときに寺号も月照寺と改めたそうです。


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時代は下って元和5年(1619年)、小笠原忠政による明石城築城の際、月照寺と柿本神社は移転させましたが、人丸塚は城の鎮守のためにそのまま残し、現在も本丸跡に残っています。


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その横には「横山蜃楼句碑」と記された駒札石碑も。


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横山蜃楼という人は明石の人だそうですが、すみません、よく知りません。

なので、駒札の説明書きをお読みください。


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ひととおり本丸を歩いたので、本丸北西の「見ノ門」から外に出てみます。


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ここにも、立派な櫓台石垣があります。

おそらく、往時はここに立派な櫓門があったのでしょうね。


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本丸外側から見た見ノ門。


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ここを下ると、「その4」で紹介した万ノ門に繋がります。

本丸を歩き終えたので、「その7」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-30 00:03 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その5 <本丸~巽櫓、坤櫓、艮櫓跡~>

「その4」の続きです。

いよいよ、明石城の主要部に向かいます。


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「その3」で紹介した南帯郭虎口に戻って、石段を登ります。


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石段を登りきったところが右にカーブしていて、食違い虎口になっています。

ここに、「大ノ門」という櫓門がありました。


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櫓門跡の石垣です。


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振り返ると、向こうに明石海峡大橋が見えます。


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大ノ門を過ぎると、東にまた櫓門跡の石垣がみえます。

ここは「番ノ門」という名称の門で、本丸の東側虎口です。


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番ノ門前から左(南)を見ると、巽櫓があります。


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番ノ門から本丸に入ります。


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番ノ門内側と巽櫓です。


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本丸です。

明石城の本丸は東西114.5m、南北116.4mのほぼ正方形で、面積は約1万ヘクタールあります。


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小笠原忠真の築城当時はここに本丸御殿があったようですが、寛永8年(1631年)、三ノ丸下屋敷台所より出火した火災により本丸にも火がまわり、消失してしまいました。

以後、本丸御殿は再建されず、藩主の居屋敷は三ノ丸に建てられ、本丸には四隅に櫓を建て直し、塀でつないだとされています。


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明治維新後は明石神社が創建され、その後も飲食店人形館などが設けられていましたが、現在は芝生の広場となっており、巽櫓坤櫓の2現存櫓として残されています。

では、その櫓を見ていきましょう。

まずは、本丸南東隅にある巽櫓です。


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巽櫓の大きさは、桁行五間(9.03m)、梁間四間(7.88m)、高さ七間一寸(12.53m)

同じ明石にあった船上城から移築されたと伝わっており、一説には、船上城の天守だったとも言われています。


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「その2」で紹介した南面には窓がありましたが、西面、北面にはが1か所も設けられておらず、破風も南面には千鳥破風唐破風がありましたが、本丸側から見ると、西面の一重目と北面の二重目に千鳥破風があるのみです。

あくまで三ノ丸側から見上げる南面が巽櫓の顔ということでしょう。


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私が訪れたこの日は、築城400年記念とあって巽櫓の中が一般公開されていました。

中を見てみましょう。


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巽櫓の中です。


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階は一間半、2階は一間の武者走り(入側廊)が周囲をめぐります。

3階は1室のみで武者走りはないそうです。

ただ、この日公開されていたのは1階のみ。


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2階に上がる階段

というか、ほとんど梯子といっていい角度です。


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櫓は松材などの柱や梁によって支えられており、などは使用されていません。

平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災時に多くの石垣が崩落したにもかかわらず、櫓自体が倒壊しなかったのは、明治34年(1901年)の宮内庁による修理で、入側柱筋に加えられた筋違の効果によるものだったようです。


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外に出て、西側にある土塀内側の展望台から見た巽櫓です。


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そこから目を少し右(南)に向けると、遠くに明石海峡大橋が見えます。


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展望台から南側の三ノ丸を見下ろします。

その向こうに見えるのがJR明石駅


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そのまま西側に目を向けると、土塀の端に坤櫓が見えます。

その向こうに見えるのが、「その4」で紹介した明石球場(現・明石トーカロ球場)です。


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巽櫓と坤櫓を結ぶ土塀は、阪神・淡路大震災によって崩落した石垣を修復した平成12年(2000年)に、100年ぶりに復元されたものです。

向こうに見えるのは巽櫓。


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土塀には様々な形をした鉄砲狭間が。


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鉄砲狭間から三ノ丸を見下ろします。


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そして、土塀の最西端には、坤櫓があります。


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坤櫓は本丸南西隅に位置し、明石城内で最大規模の3重櫓です。

天守が築かれなかった明石城の天守代用として使われました。

櫓の大きさは、桁行六間(19.94m)、梁間五間(9.15m)、高さ七間二尺九寸(13.28m)あります。

伏見城から移築されたといわれています。

本瓦葺、妻部を南北に置く入母屋造りで、巽櫓が南を向いているのに対し、坤櫓は西を向いています。

その理由は、明石城には西国大名を監視する役割があったからだと考えられています。


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巽櫓と違って正面から見えない北面と東面にも窓があり、北面一重目には千鳥破風を配し、東面二重目には軒唐破風の上に千鳥破風を飾っています。

これを見ても、坤櫓が明石城の要の櫓だったことがわかります。


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残念ながら、坤櫓の中はこの日は一般公開されていませんでした。


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現存する櫓は巽櫓と坤櫓のふたつだけですが、かつて本丸にはあと2つ、艮櫓乾櫓がありました。


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現在、本丸北東の艮櫓跡には、その場所を示す駒札説明板が置かれています。


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説明書きによると、艮櫓は広さが五間(9.1㎡)あり、高さは六間一尺九寸(11.4m)であったといいます。

廃城後の明治14年(1881年)神戸相生小学校(現在の湊川小学校)の建築用材として取り壊されてしまったそうです。

また、本丸北西にあった乾櫓も、明治34年(1901年)に解体され、状態のよい木材や瓦の一部が巽櫓と坤櫓の補修材として転用されたそうです。


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さて、櫓だけでめっちゃ長くなっちゃいました。

次稿、もう1回本丸を歩きます。

「その6」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-29 00:03 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その4 <稲荷郭>

「その3」の続きです。

南帯郭最西端まで戻ってきました。


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写真は本丸の西側にある稲荷郭の石垣です。


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その稲荷郭に向かってみましょう。


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稲荷郭に向かう虎口の正面にそびえる高石垣は、天守台石垣です。

明石城は一度も天守は築かれませんでしたが、天守台は、小笠原忠真の築城時から存在していました。


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天守台は上面の大きさが東西25m、南北20m、約152坪あり、5重の天守が乗る規模です。

これは熊本城の天守台と同じ規模なんだそうです。


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石垣は打込み接ぎ、出隅は算木積みですね。


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天守台のすぐ側に、坤櫓が見えます。

城内でいちばん大きな櫓だった坤櫓は、天守代用として使われました。


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で、その天守台石垣の西側に広がるのが、稲荷郭です。


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稲荷郭は本丸の西側に位置し、築城時は「西の丸」と呼ばれていたそうです。

「稲荷郭」という名称は、北端に稲荷の祠があったことに由来します。


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稲荷郭の北西隅には「文ノ櫓」、南西隅には「正ノ櫓」というふたつの二重櫓がありました。

写真は正ノ櫓跡です。


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礎石跡とみられる遺構が残っています。


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正ノ櫓跡から南を見ると、三ノ丸居屋敷郭跡明石球場が見えます。

現在は明石トーカロ球場という名称になっています。

高校野球の兵庫県大会や軟式高校野球の全国大会が行われている球場で、「もうひとつの甲子園」とも呼ばれる球場です。

かつてはプロ野球の公式戦も行われ、かの長嶋茂雄氏がジャイアンツに入団した年のキャンプ地でもありました。

近年はプロ野球の公式戦が行われることは少なくなりましたが、楽天の三木谷浩史オーナーの地元ということで、年1回程度、楽天主管の試合が行われています。


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正ノ櫓跡から見た稲荷郭跡。


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あずまやの向こうに見えるのが、天守台石垣です。


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角度を変えると、坤櫓が見えます。


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稲荷郭の西側は一段高くなっています。

かつてはここに多門櫓があったのでしょうか?


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稲荷郭の北側は、現在、林になっています。


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稲荷郭の広さは東西56m南北122mあります。

昭和27年(1952年)には、ここに演舞場が建てられたそうですが、昭和43年(1968年)に取り壊されました。


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稲荷郭東側の本丸石垣です。

本丸との高低差は約9mあります。


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稲荷郭北側の虎口です。

縄張り図では、「万ノ門」となっています。


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両側には、櫓門があったであろう石垣が残されています。


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万ノ門を出て、稲荷郭の北側から西側を歩いてみましょう。


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稲荷郭の西側石垣下です。


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見事な打込み接ぎの石垣が続きます。


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石垣の高さは、北が二間四尺(4.8m)、西が三間四尺(6.67m)、南が四間半(8.2m)あるそうです。


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出隅は算木積みになっていますね。


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排水口もあります。


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稲荷郭西南隅の正ノ櫓跡の石垣下です。


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その1段下にも、何かの台だったと思われる石垣があります。


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さてさて、今回もまた、稲荷郭だけで長くなっちゃいました。

次回、「その5」では、いよいよ本丸を歩きます。





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by sakanoueno-kumo | 2019-08-28 00:06 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第32話「独裁者」 ~前畑秀子の決意~

 昭和7年(1932年)秋、ロサンゼルスオリンピックから帰国した選手らをたたえる「大歓迎祭」日比谷野外音楽堂で行われました。4年前のアムステルダムオリンピックでは5個だったメダル獲得数が、ロサンゼルスでは金7、銀7、銅4の18個に大躍進。そのうちの12個水泳陣が獲得していたわけで、総監督を務めた田畑政治は、さぞ鼻が高かったことでしょう。


e0158128_15562366.jpg その祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎が、女子200m平泳ぎで銀メダルを獲得した前畑秀子に対して、「なぜ君は金メダルを獲らなかったのか。わずか0.1秒差ではないか。たったひと掻きの差だよ。」という言葉を浴びぜ、非難を浴びていましたが、あれ、本当の話だそうですね。それだけ期待していたからとっさに口に出てしまった言葉だったのでしょうが、どうも、お偉方というのはこういうとき無神経な発言をする方が多いですよね。近年でも、平成26年(2014年)のソチオリンピック女子フィギュアスケート痛恨のミスをした浅田真央選手に対して、「見事にひっくり返った」「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね」「負けるとわかっていた」などといった配慮にかける発言をして非難された元総理大臣がいましたよね。あれと同じようなものだったでしょう。どちらも、本人としては激励の意味での発言だったのでしょうが、やはり、デリカシーがなさすぎます。そんな無神経なおっさんが、令和2年(2020年)の東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長をやってるんですから、先が思いやられますね。また、失言をやらかしそうです。


 ちなみに、ネタバレになりますが、引退を考えていて前畑秀子選手は、この永田市長の言葉に奮起して現役続行を決意し、翌年には世界記録樹立、4年後には日本人女子選手初のオリンピック金メダリストとなります。平成の浅田真央選手は、森喜朗元総理の失言の翌日のフリーで完璧な演技を見せ、自己ベストを更新しました。やはり、一流のアスリートは、デリカシーのない言葉もバネにする強靭な精神力を持っているんですね。


e0158128_15561983.jpg その永田市長が言い出しっぺではじまった昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致ですが、道はなかなか険しいものでした。昭和8年(1933年)に満州国の承認が国際連盟否決されると、日本は連盟を脱退。満州国と国境を接する華北地方では日本軍と中国軍の小競り合いが頻発し、日本は国際社会の批判を浴びて孤立感を深めていました。そんななかで東京にオリンピックを呼ぶというのは、極めて困難な道だったのですが、嘉納治五郎は諦めずに奔走します。これまでIOC委員は嘉納と岸清一の2人だけでしたが、昭和8年(1933年)6月のウィーン総会で杉浦陽太郎を3人目のIOC委員に推挙し、就任させます。杉浦は日本が脱退するまで国際連盟事務局次長を務めていた人物で、嘉納の懐刀のような存在でした。しかし、ドラマのとおり、同年9月に岸清一が急逝。嘉納は長年の同志を失ってしまいます。ドラマで左目だけが二重で大騒ぎするというどうでもいい話がコミカルに描かれていましたが、この写真を見てみると、たしかに左目だけ二重なんですね(笑)。こういうのも「史実」というんでしょうか(笑)? こんなところに着目してあんな話を作っちゃうなんて、さすがはクドカンです。


 岸清一が逝去した翌年の昭和9年(1934年)5月に行われたIOC総会で、嘉納は副島道正をIOC委員に推挙し、就任させました。こうして体制を整えた嘉納は、東京オリンピック招致の強敵はローマと絞り、11月の東京市実行委員会で奇抜な策を提案します。すなわち、ムッソリーニと交渉してローマに辞退してもらおうという策です。さすがは、「逆らわずして勝つ」の嘉納です。ムッソリーニ、ヒトラーきな臭い名前が出てきましたね。時代に暗雲が立ち込めはじめましたが、嘉納たちは、そんなことより東京オリンピック招致だったようです。その後の歴史を知っている私達にしてみれば、少し滑稽にも思えますが、彼らは超真剣だったのでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2019-08-26 16:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その3 <南帯郭>

「その2」のつづきです。

三ノ丸東側の石段を登って、本丸に向かいます。


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写真左側は巽櫓

そこから西(右)に伸びている高石垣は、二ノ丸、東ノ丸の石垣です。


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数年前にここを訪れたときには、木が覆い茂っていてこんなに高石垣は露出していなかったのですが、築城400年事業の一環なのか、木が伐採されていて、いい感じのロケーションになっています。

ただ、私が訪れたこの日、たまたま絵を描きに訪れていた老翁が、「木がなくなってしまって、絵にならない」と嘆いておられました。

わたしのような城好きの者と、絵描きの方の見方は違うようですね。


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西側に目を向けると、巽櫓と坤櫓がそびえます。

櫓下の石垣は、三ノ丸から一段上の帯郭までが高さ5m、そこから櫓までが15mの計20mあり、東西の幅は380mあります。


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石段を上りましょう。


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このまま石段は二ノ丸、本丸へと続いていますが、その前に、その南下にある南帯郭を歩いてみましょう。


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東から西へ歩きます。


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手前が巽櫓、向こうに見えるのが坤櫓です。

こうして見ると、向きが違うのがわかりますね。

巽櫓は南を向いていますが、坤櫓は西を向いています。


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帯郭の幅は7~8mほどでしょうか?


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巽櫓台の石垣です。

打込み接ぎ、出隅は算木積みです。


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前稿でも述べましたが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災により、両櫓とも傾いて石垣も広範囲にわたって崩落しましたが、その後、いったん両櫓を曳家(建物を解体しないで、そのまま移動する建築工法)して石垣を積み直し、櫓も修復され、平成12年(2000年)にその雄姿が蘇りました。


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こちらは、南帯郭西側から見た本丸高石垣です。


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坤櫓を見上げます。


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さて、元の石段まで戻って、今度は南帯郭を東に向かって歩きます。


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東側は、二ノ丸、東ノ丸の高石垣が続いています。


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その中央付近に、「松平若狭守直明公茶の水遺跡」と刻まれた石碑と、古い井戸跡があります。

松平直明は、天和2年(1682年)に越前国大野藩より転封となった明石藩8代藩主で、それまで明石藩は、初代の小笠原忠真以後、小笠原家1代、松平(戸田)家2代、大久保家1代、松平(藤井)家2代、本多家1代と、コロコロと藩主が代わって来ましたが、この松平直明以後、幕末まで松平(越前)家10代続きます。


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その直明が、城内で催されていた茶会の際に愛用していた井戸なんだとか。


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南帯郭の最東端までやってきました。


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西を振り返ると、東西に伸びる帯曲輪が一望できます。


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そこから、巽櫓と坤櫓をズームアップ。

この光景も、以前は木が茂っていて見れなかったロケーションです。


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さて、今回も南帯郭だけで終わっちゃいました。

なかなか進みません。

「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-24 22:40 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その2 <太鼓門、三ノ丸>

「その1」の続きです。

明石城中濠南側中央の太鼓門から城内に入ります。


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太鼓門は現在、JR明石駅のすぐ北側にあり、明石公園の正門となっています。


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向こうに見えるのは本丸の坤櫓巽櫓です。

いずれも現存櫓で、国の重要文化財に指定されています。


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数年前に来たときは、太鼓門正面の石垣の上に木が茂っていたので、ここから坤櫓と巽櫓は見えなかったのですが、今はその木がなくなっていて、見えるようになっていました。

これも、築城400年事業の整備の一貫でしょうか?


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太鼓門は大手筋にあたりますが、大手門はここより300mほど南の外濠に面してありました。


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往時はここに長さ十一間(約20m)、幅三間(約5.5m)の木橋が架かっていたそうで、「太鼓門橋」と呼ばれていたそうです。

橋を渡った先には、正面に「定ノ門」と呼ばれる高麗門(一の門)がありました。


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その城門をくぐると、五間に八間の枡形虎口になっていました。

これは、今も遺構を残しています。


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太鼓門の石垣裏の雁木です。


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枡形虎口を過ぎると、かつての三ノ丸に繋がります。

往時は、ここに更に内濠があり、そのなかに居屋敷(下屋敷)があったとされています。


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目の前に坤櫓と巽櫓がそびえます。


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現在、三ノ丸の一部は芝生広場になっています。

この芝生広場から西側の明石球場にかけてが、往時の居屋敷郭でした。


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明石城のいちばんの見どころは、なんといってもこの坤櫓と巽櫓というふたつの現存櫓でしょう。

このふたつの櫓の下の高石垣は、高さ20m、東西幅380mあります。


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このふたつの櫓は、元和5年(1619年)の築城当時のものではなく、寛永8年(1631年)の火災後に再建されたものだそうです。


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明治に入ってからも、このふたつの櫓以外にもうひとつ乾櫓が残っていましたが、明治34年(1901年)の修理に際して乾櫓は解体撤去され、状態のよい木材や瓦の一部が巽櫓と坤櫓の補修材として転用されたそうです。


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平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災により、両櫓とも傾いて石垣も広範囲にわたって崩落しましたが、その後、いったん両櫓を曳家(建物を解体しないで、そのまま移動する建築工法)して石垣を積み直し、櫓も修復され、平成12年(2000年)にその雄姿が蘇りました。

このとき、両櫓をつなぐ土塀も、約100年ぶりに復元されました。


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坤櫓は明石城内で最大規模の3重櫓で、天守が築かれなかった明石城の天守代用として使われました。

櫓の大きさは、桁行六間(19.94m)、梁間五間(9.15m)、高さ七間二尺九寸(13.28m)あります。

伏見城から移築されたといわれています。


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もう少し近づいて、坤櫓を見上げます。

数年前までは、もっと木が覆い茂っていて、このように石垣は露出していませんでした。


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こちらは巽櫓です。


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巽櫓は本丸の南東端に築かれた3重櫓で、その大きさは、桁行五間(9.03m)、梁間四間(7.88m)、高さ七間一寸(12.53m)あり、坤櫓より少し小ぶりです。

同じ明石にあった船上城から移築されたと伝わっており、一説には、船上城の天守だったとも言われています。


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三ノ丸東側には、三ノ丸庭園が復元されています。


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説明板には、「武蔵の庭園」とあります。

武蔵とは、あの剣豪・宮本武蔵のことです。


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築城当時、小笠原忠真の客分として姫路にいた宮本武蔵が、明石城築城に伴う明石城下町の町割り(都市計画)を指導したと言われています。


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享保年間(1716〜36年)の地誌『明石記』には、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云」とあり、小笠原家に伝わる『清流話』には、城内の庭園や藩主の御屋敷の建設を武蔵に命じたとされており、武蔵が何らかのかたちで築城事業に関わったことは事実だと考えていいのかもしれません。


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三ノ丸だけでめっちゃ長くなっちゃいました。

「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-22 23:23 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その1 <中濠、東不明門、西不明門>

令和元年(平成31年)の今年、兵庫県明石市にある明石城築城400周年を迎えました。

そこで、過日、その400周年を記念して明石城をじっくり歩いてみました。


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現在、JR明石駅の北側にある明石公園内に、その一部が残っています。

上の写真はその明石公園の南東外周から見た

往時は三ノ丸の外を囲う中濠でした。

右側に見える石垣は三ノ丸の南東にある東不明門(ひがしあけずもん)の石垣です。


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石垣は打込み接ぎですね。


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では、その東不明門を見てみましょう。


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東不明門は、別名「明ノ門」とも呼ばれていました。


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枡形虎口

往時は2階建ての櫓門がありました。


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石垣の上に登ってみます。


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櫓台石垣の上から見下ろした枡形虎口。


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東不明門を抜けると、三ノ丸庭園に繋がります。

往時は、ここは家老屋敷への専用入口でした。

向こうに本丸の巽櫓が見えます。


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ひとまず城内には入らず、中濠に戻ります。


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中濠沿いに西へ歩きましょう。


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築城400周年を記念した看板が設置されています。


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中濠南中央の太鼓門が見えますが、大手門にあたるここはひとまずスルーして、さらに中濠を西へ向かいます。


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中濠の西の端まで歩いてきました。


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東を振り返ります。

中濠は東西550mほどあります。


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向こうに見えるのは、明石天文科学館の塔。

東経135度日本標準時子午線の直上に立つ塔です。

つまり、東は北海道から西は沖縄まで、日本の時刻はすべてここ明石の時刻に統一されているわけです。

ある意味、日本の中心地といっていい町です。


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中濠南西には、西不明門(にしあけずもん)があります。

現在は明石公園の駐車場入口となっています。


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1時間200円

良心的な値段です(笑)。


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枡形虎口の駐車場入口です(笑)。


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日本広しといえども、枡形の石垣を進む駐車場は、なかなかないんじゃないでしょうか。


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江戸時代の縄張図によると、往時はこの西不明門を入るとすぐに内濠があり、その中に居屋敷郭があったとされていますが、現在は明石トーカロ球場があります。

かつてはプロ野球の試合もときどき行われていた立派な球場です。


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さて、城外に戻って中濠沿い西側です。


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ここ明石城は、元和3年(1617年)に信州松本城主より初代明石藩主となった小笠原忠真が、元和5年(1619年)、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命により、岳父にあたる姫路城主・本多忠政の協力を得て築城したものです。


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中濠西側は石垣がなく、土塁が南北に伸びています。


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西不明門から200mほど北上したあたりで中濠は終わっており、公園への入口があります。

でも、縄張図を見ると、中濠はもっと北まで続いており、こんな入口もありません。

おそらく、この入口は明治に入って公園整備された際に作られたものでしょうね。


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上の写真は江戸時代の縄張図です。

本稿はこのあたりで、「その2」では城内にお入ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-21 11:31 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第31話「トップ・オブ・ザ・ワールド」 ~過去の栄光が持つ底力~

 今回も前話から続いて昭和7年(1932年)夏の第10回ロサンゼルスオリンピックの話でしたね。この大会に日本はこれまで最も多い131名の出場選手を送り込みましたが、そのなかでも田畑政治総監督とする日本競泳陣の活躍は凄まじく、男子競泳6種目中5種目で金メダルを獲得します。とくに背泳ぎでは金銀銅すべてを日本人選手が獲得し、表彰台を独占しました。唯一金メダルを逃した400m自由形の大横田勉選手も銅メダル。まさに、「水泳王国ニッポン」の異名が世界に轟いた大会だったといっていいでしょう。


 e0158128_17101632.jpg第29話では、かつて日本競泳界のエースだった高石勝男が、後輩たちの急成長に押されて代表枠から漏れ、ノンプレイングキャプテンとして競泳陣を支える心の葛藤が描かれましたが、今回は、同じく4年前の第9回アムステルダムオリンピック金メダリストだった鶴田義行選手の姿が描かれました。鶴田はこのとき30歳高石同様アスリートとしてのピークは過ぎていたのですが、高石と違っていたのは、今回も代表選手に選ばれていたことでした。もっとも、日本としての期待度は若き新鋭の小池禮三選手のほうが大きく、ドラマで描かれていたように、鶴田は小池の練習台といった立場での出場だったようです。ところが、ふたを開けてみれば、鶴田は小池とともに決勝に勝ち進み、決勝ではその小池を抑えて見事に優勝。鶴田は日本人初のオリンピック連覇者となります。わからないものですね。オリンピック競泳平泳ぎでの連覇は、男女を通じてこの鶴田と、そして平成のスター・北島康介選手の二人だけだそうです。


 e0158128_17102028.jpgこれとよく似た話が、平成の女子マラソンでもあります。それは、平成4年(1992年)のバルセロナオリンピックと平成8年(1996年)のアトランタオリンピック2大会連続メダリストとなった有森裕子選手。今でこそ彼女は日本女子マラソンのパイオニアとして名高い存在ですが、当時の彼女は、決してそんな期待度の高い選手ではありませんでした。初めて出場したバルセロナ大会のときは、代表選手3人の3番目の枠松野明美選手と争い、泥仕合のすえ勝ち取ったものの持ちタイムは一番遅く避難や誹謗中傷を浴びせられるなかの出場だったのですが、そんななかで見事銀メダル獲得。それでも、陸上ファンの中では「松野を出場させていたら金メダルだったんじゃないか!?」いう声が多かったのを覚えています。


 そして、その4年後のアトランタ大会のときも、やはり前回と同じく3人目の出場枠をギリギリ獲得。しかし、3選手の中で年齢は一番上で持ちタイムも最も遅く、ファンや専門家の期待はもっぱら浅利純子選手に集中しており、有森選手は過去の選手といった見方が強かった。ところが、ふたを開けてみると、有森選手は見事銅メダルに食い込み、日本女子陸上選手初の2大会連続メダリストとなります。その後は一気に国民的英雄となり、まるで最初から国民の期待を一身に背負っていたかのような印象で後世に伝わっていますが、決してそうではなかったんですね。有森選手にしてもドラマの鶴田選手にしても、過去の栄光というのは、決して侮ることはできない底力になるのかもしれません。ただ、だとしても、過去の実績に重点を置いて選手を選考するというのは、それはまた違うように思います。難しいですね。


 話をドラマに戻して、大会終了後のエキシビションが描かれていましたが、あれ、史実だそうです。日本は初めて出場したアントワープオリンピックからわずか10年余りで「水泳王国ニッポン」を築くに至ったわけですが、それを可能にしたのは、400年以上の伝統を誇る日本泳法にあった、と。たしかに、アントワープ大会では「クロール」という最先端の泳法を知らずに惨敗を喫しただけで、こと「泳ぐ」ということに関しては、周囲を海で囲われた日本では常に身近にあった文化だったわけです。日本の躍進は当然の結果だったのかもしれませんね。


 ちなみに、エキシビションの日本泳法、今のシンクロナイズドスイミングに似てましたね。日本のシンクロが強いのも、原点は日本泳法にあるのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-08-19 17:17 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

平成最後の築城、145年ぶりに甦った尼崎城天守。

令和の幕が開ける1ヶ月ほど前の平成31年(2019年)3月29日、兵庫県尼崎市に2年間の建設工事をかけて完成した尼崎城の復興天守がグランドオープンしました。

まさに、平成最後の築城です。


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この天守は、家電量販店ミドリ電化(現・エディオン)創業者の安保詮氏が、「創業の地に恩返しがしたい」という意向で私財12億円を投じて再建を構想し、さらに市民らからも2億円近い寄付が集まって再建されたものです。

平成30年(2018年)11月30日に竣工すると、尼崎市に寄贈されました。


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尼崎城は元和3年(1617年)に徳川家の譜代大名、戸田氏鉄によって築城され、明治6年(1873年)の廃城令によって取り壊されるまで、250年以上、幕府の西国支配の拠点となった城です。


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尼崎城公園の北側には、その築城主の戸田氏鉄の顕彰碑が建てられています。


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そこには、往時の尼崎城の絵図も。


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かつて尼崎城があった場所は、現在は市街地となっていて、往時をしのぶ遺構はほとんど残っていません。

このたび天守が建てられた場所も、かつて天守があった場所より300mほど北に築かれました。

実際の場所には、現在、小学校があります。


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北側の門から城跡公園に入ります。


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天守北側です。

高さは約24mあるそうです。


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鉄筋コンクリート造ですが、一応、外観は古写真を元に造られました。


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ただ、左右を反転して附櫓の配置も変えちゃってるそうです。

理由は、「城らしさ」を演出するためということだそうですが、せっかく古写真が残っているんだから、忠実に再現してほしかったと思ってしまうのですが・・・。


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出来たばかりなので、濠の水がまだ澄んでいます。


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城の南側にやって来ました。


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わたしがここを訪れたのは、令和元年(2019年)5月25日。

グランドオープンしてからしばらくは、イベントが目白押しといった感じだったので、純粋に天守を見たいわたしとしては、熱りが冷めてから訪れようと思い、オープンから2ヶ月経ったこの日に満を持して訪れたのですが、まだ何かイベントをやってました。


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人がうじゃうじゃいて、天守の写真がうまく撮れません。

もう少し待てばよかった。


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日本各地の城跡に天守がありますが、そのほとんどが再建であることは周知のところだと思います。

江戸時代の城がそのまま残る「現存天守」は、世界遺産の姫路城をはじめ全国に12天守しかありません。

そのほかはすべて昭和以降に再建されたものですが、その中でも、「復元天守」「復興天守」「模擬天守」といった名称に分類されます。


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まず「復元天守」は、古写真や図面などの史料に基づいて、往時の天守を忠実に再現したもののことを言います。

その中でも、材料や工法もできるだけ忠実に、外観だけでなく内部の構造も再現したものを「木造復元天守」といい、これは、大洲城白河小峰城など、少ししかありません。

一方で、鉄筋コンクリート造などの近代の工法を用い、外観のみ忠実に再現したものを「外観復元天守」と呼びます。

名古屋城、岡山城などが該当します。


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次に、「復興天守」と呼ばれるものは、かつて天守はあったものの、その史料が乏しく、実際にあったものとはちょっと違う再建となった天守を言います。

大坂城小田原城がそうですね。


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最後に、「模擬天守」と呼ばれるものは、実際には天守がなかったはずの城にほかの城を参考にして天守を建てたもの。あるいは、天守が存在したけれど、実際の天守とは全く違うものを建ててしまったものなどをいいます。

岐阜城などがこれにあたります。


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では、尼崎城はどれにあたるか・・・。

一応、古写真などの史料をベースに再建されたものですが、実際にあった場所とは違うこと、また、上述したとおり左右反転したり附城の位置を変えたりしていることから、「復興天守」に該当します。

新聞やニュースなどでも、安直に「復元」といった言葉を使ってたりしましたが、実は「復元」ではないんですね。


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かつて天守があったとされる明城小学校の校庭のフェンス沿いには、明治21年(1888年)に建てられた石碑があります。


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明城小学校の住所に、かつてここが城の敷地内だったことの名残を見ることができます。


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尼崎城を築城した戸田氏鉄は寛永12年(1635年)に美濃国大垣藩へ転封となったため、戸田氏の城主は1代限りでしたが、その後、入部した青山幸成から青山氏が4代城主を務め、その後は桜井松平氏が廃藩置県まで7代城主を務めました。

戸田氏、青山氏、桜井松平氏、いずれも徳川家譜代大名です。

また、江戸時代を通して、兵庫県下で天守が許されていたのは姫路城と尼崎城の2城だけです。

わずか5万石しかない尼崎藩を、幕府がいかに重要視していたかが窺えますね。


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また、尼崎城が築かれる以前、この付近には尼崎古城(大物城)がありました。

織田信長に反旗を翻した荒木村重が籠もった城です。

尼崎古城を包囲した信長は、見せしめとして尼崎城近くの七松にて、村重の家臣の妻子122人の上、長刀によって処刑し、その他510余名の小者や女中たちも、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込め、家もろとも焼き殺したといいます。

そのときのことは、5年前にここを訪れたときに起稿していますので、よければ一読ください(参照:荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~)。

5年前には、まさか尼崎城の天守が再建されるとは、思いもしませんでした。


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最後に、尼崎城築城記念マグネットとコースターです。

平成最後の築城なのに、「令和」とはこれ如何に?




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-15 12:54 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第30話「黄金狂時代」 ~実感放送~

 昭和7年(1932年)夏の第10回ロサンゼルスオリンピックに、日本はこれまで最も多い131名の出場選手を送り込みましたが、そのなかでも田畑政治総監督とする日本競泳陣の活躍は凄まじく、男子競泳6種目中5種目で金メダルを獲得します。とくに背泳ぎでは金銀銅すべてを日本人選手が獲得し、表彰台を独占しました。唯一金メダルを逃した400m自由形の大横田勉選手も銅メダル(競技前に胃腸炎を患っていたというのは実話のようです)。まさに、「水泳王国ニッポン」の異名が世界に轟いた大会だったといっていいでしょう。


 そんな現地の興奮を本国に伝えたのが、ドラマで描かれていた「実感放送」でした。当初、日本はこの大会で初めてのラジオ実況放送を計画していました。アメリカとの交渉でその許可も得ていたそうですが、ところが、直前になって放送が不可となってしまいます。その理由は、「開催国アメリカの国内放送も許可していないのに、外国である日本の実況放送は認められない」というものだったとか。では、なぜアメリカでも国内放送しなかったかというと、ラジオで放送すると、現地での観戦客の客足が遠のくという考えからだったようです。


これとよく似た話は日本にもあて、テレビ放送の草創期にも、プロ野球の実況放送を始めようとする計画が上がったのに対し、当初は、球場への客足が遠のくとして反対の声が多かったといいますし、今お騒がせの吉本興さんでも、芸人さんのラジオ出演を寄席に客が来なくなるという理由から拒んでいたといいます。しかし、実際には、それらのメディアを通すことによって、広く大衆の認知度が高まり、集客を大いに高める効果があるわけですが、まだこの当時は、ラジオの宣伝効果というものがそれほど理解されていなかったということでしょうね。


e0158128_11335181.jpg とにかく、競技の実況放送ができなくなりました。そこで、苦肉の策として行われたのが、競技を観戦したアナウンサーがその場でメモを取り、そこから車で15分ほどのところにあるスタジオに移動してから、あたかも実況しているように実感を込めて伝えるという方法。文字どおり「実感放送」だったわけです。放送時間は現地時間の午後7時から8時まで、日本時間は翌日の正午から午後1時までとなります。ちょうど昼休みの時間帯ということもあって、多くの国民がラジオに耳を傾けました。100メートル自由形で金メダルを獲った宮崎康二選手の決勝の実況の様子は、以下のようなものでした。


 各選手スタートラインに立ちました。さすがに場内は水を打ったような静けさになりました。ドンと号砲一発、場内は総立ちです。60m、宮崎、河石、高橋、グングン出てきました。そして6名並行しております。70m、宮崎グングン出てきました。半メートルも引き離しております。河石、シュワルツが続いております。80m、宮崎トップです。


 また、「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳選手の出場した陸上男子100m決勝では、実際には10秒ちょっとのレースにもかかわらず、実感を込めすぎて1分以上の時間がかかっていたというエピソードもあります。こうした放送が実況放送でないことは、事前に日本の聴取者にも知らされていました。しかし、それでも、日本国民はラジオの前に釘づけでこの放送を聴いたといいます。ロス五輪中盤の8月6日、アナウンサーは実況放送ではなく実感放送となってしまったことの詳しい経緯を説明したのち、最後にこう付け加えました。


 然し皆さん、世界数十ヵ国参加のオリンピック大会の情況を、たとえスタジオからの実感放送とは云え、外国語を以て放送しているのは僅かに日本一国あるのみです。あるロサンゼルスの在留邦人は、日本の同胞諸君は何という仕合せであろう。競技後一時間余りでラジオに依り詳細な結果を知る事が出来るのですもの、と語っておりました。


 この実感放送は、その後、放送史上の一種の“伝説”となって語り継がれているそうです。

 


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by sakanoueno-kumo | 2019-08-13 11:39 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)