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いだてん~東京オリムピック噺~ 第37話「最後の晩餐」 ~嘉納治五郎の死~

 昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致に成功した日本でしたが、その開催準備に入ると、すぐさま様々な問題が浮き彫りになります。まず、最も大事なメインスタジアムの計画が、いきなり暗礁に乗り上げてしまいます。当初、メインスタジアムは神宮外苑陸上競技場12万人収容できるものに改修し、その周辺にある代々木練兵場の一部を利用して各競技場を建設する予定でしたが、陸軍がこれに難色を示し、この計画は頓挫してしまいます。その後、代替案をめぐって東京オリンピック組織委員会は迷走し、スケジュールは大幅に遅延することになります。


 また、昭和12年(1937年)7月7日に起きた盧溝橋事件に端を発し、日本と中国は交戦状態となっていました。現在ではこれを「日中戦争」と呼びますが、当時は「支那事変」と呼ばれていました。その理由は、両国ともに宣戦布告がないまま戦闘状態に突入したので、国際法上は「戦争」ではなく「事変」にあたるということだったようですが、現在では、事実上の戦争状態だったという見解から、「日中戦争」と呼ばれることがほとんどになっています。実際に宣戦布告が行われたのは、真珠湾攻撃の翌日の昭和16年(1941年)12月9日に蒋介石側から日本側に布告され、日中間が正式に戦争状態になったのは、そこからという見方もあります。まあ、呼び方はどうあれ、日中間は交戦状態にあったわけです。


そんななか、国内外から東京オリンピック返上論が叫ばれはじめます。日中戦争の長期化によって鉄材の統制が厳しくなり、スタジアムの建設に必要な鉄材が確保できず、また、働き盛りの人々が多く徴兵されているため作業員も集まらず、工事は遅れるばかり。各国のIOC委員もこれを不安視するようになり、「交戦国での開催は前例がない」と、準備の遅れを危ぶむ声が大きくなっていきます。また、ドラマにもあったように、政友会河野一郎議員が衆議院予算総会で東京オリンピック反対論を声高に演説し、さらに、陸軍大臣杉山元が議会において開催中止を進言するなど、東京オリンピック開催に否定的な空気が国内で広まっていきます。


e0158128_19143177.jpg そんな状況下の昭和13年(1938年)3月、エジプトのカイロでIOC総会が開かれます。その中心議題はもちろん、東京オリンピック開催をどうするか・・・でした。開催地を他国に変更するとしても、ギリギリのリミットでした。しかし、日本を代表して会議に出席した嘉納治五郎は、あくまで東京開催を主張します。その論旨は、「オリンピックの開催は、政治的な状況などの影響を受けるべきではない」というものでした。この主張に対し、各国のIOC委員のなかで異を唱える者はなかったといいます。19日までの会議で東京オリンピック開催が再確認され、同時に札幌での冬季大会開催も決定し、20日、ラジオ演説で嘉納自身が改めてこのことを故国に伝えました。


 なぜ嘉納はそこまで東京開催に固執したのでしょう。ドラマ中、田畑政治が嘉納に対して「今の日本は、あなたが世界に見せたい日本ですか?」と諫言していましたが、嘉納ほどの人物なら、いまの日本では情勢的にも物理的にも不可能であることは理解できたはずです。「政治とスポーツは別」という理想をあくまで貫きたかったのか、あるいは、自身の晩年のすべてを費やした東京招致をここでご破算にしたくないという意地だったのか。今となってはその心中は想像するしかありませんが、ただ、このような状況下でIOC委員を説得できたのは、一にも二にも嘉納の人徳以外にはなかったでしょう。どう考えても、東京開催を支持する理由が他にないですからね。彼がIOC委員の最古参ということもあったでしょうが、よほど各国の委員から一目置かれる存在だったのでしょうね。


 かくして東京オリンピック開催中止を阻止した嘉納治五郎でしたが、彼はそれを見ることなく、その帰国途中の船上で急死してしまいます。IOC総会後、22日にカイロからアテネに入り、26日にクーベルタン男爵慰霊祭に参列したのち、ヨーロッパ各国、さらにアメリカに渡ってIOC委員たちを訪問し、礼を述べてまわったそうです。そして4月23日、カナダのバンクーバーから氷川丸に乗船して帰国の途につきますが、その船上で風邪をこじらせて急性肺炎を併発し、5月4日、帰らぬ人となりました。享年77。横浜帰着のわずか2日前のことでした。


 嘉納逝去の報は、日本のみならずアメリカでも大きく報じられ、各国から追悼文が寄せられました。幕末に生まれ、講道館柔道の創始者となり、明治、大正、昭和という激動の時代に世界を股にかけてスポーツの発展に力を尽くした嘉納。今やグローバルスタンダードとなった柔道を通して、「逆らわずして勝つ」という彼の精神は世界中に広まりました。あるいは、世界に輸出した最初のサムライスピリッツだったかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-30 19:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その6 「千早峠」

文久3年8月17日(1863年9月29日)午前に観心寺に集まった天誅組一行は、大和国五條に向かうべく千早峠を東に進みました。

峠越えは急峻なため、千早村で三日市からの駕籠人足を返し、新たに千早村に100人の人足と駕籠10挺を徴発しようとしたそうですが、しかし、村では要求された駕籠と人数が整わず、三日市の人足18人を雇い、駕籠6挺を借りて、ようやく人足97人と駕籠を揃えて一行に差し出したといいます。

また、新たに木綿三反を購入し、菊の紋の旗を掲げました。


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当時の千早峠超えのコースとは少し違うようですが、現在、千早峠越えの街道は国道310号線となっています。

その頂上付近のトンネルの中が大阪府と奈良県の県境になっていて、そのトンネルを抜けると、奈良県五條市が一望できます。


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幕末の頃の五條は幕府の直轄地でした。

当時は「天領」と呼ばれていたはずです。

天領には殿様はおらず、幕府から代わる代わる代官が派遣されます。

代官は代官所にて政務を行いますが、幕藩体制が確立していた江戸時代においては、代官所の規模は諸藩と比べて規模が小さく警備も手薄でした。

幕末の五条代官所では、南大和7万石に対して代官1人、幕臣の手付3人、お抱えの手代10人(士分)しかいなかったといいます(他に下働きの足軽、中間はいました)。

7万石をわずか十数人の役人で統治していたわけですから、襲うのも容易なことだったでしょう。

そこに天誅組が目をつけたんですね。

そのあたりの内部事情は、五条出身の天誅組隊士だった乾十郎から、中山忠光吉村寅太郎ら幹部に筒抜けだったようです。


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標高700mを超える千早峠の頂上から見る五條の景色は、吸い込まれそうで少し足が竦みました。

中山、吉村ら天誅組の面々は、きっとこの景色を眺めて武者震いをしていたんじゃないでしょうか?

まだこのときは、孝明天皇大和行幸は行われると信じていたでしょうから。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-28 01:46 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その5 「観心寺」

三日市の宿場を早朝に発った天誅組一行は、河内の観心寺に立ち寄りました。

観心寺には、彼ら勤王の志士たちの精神的支柱である楠木正成首塚や、第97代天皇にして南朝第2代天皇の後村上天皇陵があります。


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山門横の大楠公騎馬像です。


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観心寺の寺伝によると、大宝元年(702年)に役小角によって開かれ、当初は雲心寺と称したとされますが、天長4年(827年)に空海がこの地を訪れ、「観心寺」の寺号を与え、その一番弟子の実恵が実質的な開祖となった寺院です。


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国宝金堂です。


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そして、こちらが正成の首塚


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天誅組一行は、この首塚前に勢ぞろいして戦勝祈願をしたといいます。

結成当初は38人だった天誅組も、ここに詣でたときには100人を超えていました。

彼らが尊敬してやまない大楠公の首塚を前に、士気は大いに高まったといいます。


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首塚前の広場を挟んで向かい側には、「天誅組讃蹟碑」があります。


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石碑の高さが260cm、幅が115cm厚さ19cm、台石の高さが45cmというどデカい石碑です。


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文章は漢文なので、わたしでは読解できません。


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観心寺では、地元の吉年米蔵という人物が握飯草鞋を100人分準備して待っていました。

米蔵は、ここで帰ろうとしましたが、中山忠光が許さず次の千早村まで同行したそうです。

また、軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流したのも、ここ観心寺でした。


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石碑と首塚の間の広場です。

100人ぐらい余裕で集えます。


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おそらく、このロケーションは天誅組の面々が目にした光景とさほど変わっていないでしょう。

ここで士気を高めた天誅組は、いよいよ大和国に向けて出発します。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-26 21:07 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その4 「油屋本陣蹟」

文久3年8月16日(1863年9月28日)の夜に狭山を出発した天誅組一行は、翌17日未明、高野街道の三日市宿で休息を取ります。

このとき主将の中山忠光が泊まったと伝わる旅籠・油屋の跡地には、現在、「油屋本陣天誅組史跡」と刻まれた石碑と、門構えを演出したモニュメントが設置されています。


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三日市町は大阪高野山のちょうど中間地点に位置します。

昔の旅人は1日に8里(約32km)ほど歩いたといいますが、大阪から高野山の間がおよそ16里で、その中間地点の三日市が、朝、大阪を出発して夕方頃に着く場所だったため、古くから宿場町として栄えました。


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なかでも「油屋」は、江戸時代、本業は菜種油の製造・販売を営みながら、高野詣の本陣格の旅籠として有名だったそうです。


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ここが天誅組の宿場となったのは、天誅組河内勢のリーダーで天誅組小荷駄奉行となった水郡善之祐が、油屋の主人、油屋庄兵衛と親交があったためと伝わります。

ここ油屋に中山忠光をはじめ幹部たちが泊まり、残りの浪士や人足たちは、脇陣の菊屋鍋屋などで休息をとりました。


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モニュメントの説明書きによると、このとき当主の油屋庄兵衛は、三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配などの世話をしたと伝えられているそうです。


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油屋本陣跡前の旧高野街道沿いには、いまも当時を偲ばせる古い家屋がいくつか建ち並びます。


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「三田市宿」再生しましょう・・・だそうです。


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三日市駅前には、石碑や説明板などが設置されています。


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その一角には、今年(2018年)に設置されたばかりの楠木正成像が。

石像は、当時は多聞丸という名だった少年・正成に兵学を教える大江時親の姿です。

彼ら天誅組がこのコースを選んだのは、勤王の志士たちの精神的支柱である楠木正成ゆかりの地を通って士気を高める狙いだったといいます。

夜が明けて三日市を発った一行は、楠木正成ゆかりの観心寺に向かいます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-25 00:34 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第36話「前畑がんばれ」 ~伝説の名実況~

アドルフ・ヒトラー率いるナチス体制下のプロパガンダとして開催された第11回ベルリンオリンピックでしたが、日本選手団は4年前のロサンゼルス大会より多い179人。メダルも金、銀、銅あわせて4年前と同じ18個を獲得しました。そのうち11個が競泳で獲得したものでしたから、競泳王国ニッポンの面目躍如といったところだったでしょうか。その中でも、最も主役といっていいのが、競泳の前畑秀子だったでしょう。「前畑ガンバレ!ガンバレ!」の実況は、あまりにも有名ですね。


e0158128_15562366.jpg 前畑秀子は大正3年(1914年)生まれで、このとき22歳。実家は和歌山の豆腐屋で、泳ぎは紀の川で覚えたといいます。小学校時代からその才能を発揮した彼女でしたが、当初は小学校卒業後は水泳をやめて豆腐屋を手伝うはずでした。ところが彼女の才能を惜しんだ学校長など関係者が両親を説得し、名古屋の高等女学校に編入して水泳を続けることになります。親元を離れて単身名古屋で寮生活。当時の15、6歳は今の子たちより精神年齢はずいぶん大人だったと思いますが、それでも、やはり不安だったでしょう。ところが、彼女が17歳のときに両親が相次いで病死してしまいます。そんな深い悲しみのなか、翌年にロサンゼルスオリンピックに出場したんですね。結果は0.1秒差で惜敗。銀メダルでした。このとき彼女は家庭の事情もあって引退を考えていたそうですが、祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎から、「なぜ君は金メダルを獲らなかったのか。わずか0.1秒差ではないか。たったひと掻きの差だよ。」というデリカシーのない言葉を浴びせられ、この永田市長の言葉に奮起して現役続行を決意したといいます。この話は第32話「独裁者」の稿でもふれましたね。


 そして向かえたベルリンオリンピックで、彼女は4年前に0.1秒差で金メダルを逃した200m平泳ぎに出場。地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げ、1秒差で見事勝利を収めました。このときNHKの河西三省アナウンサーの伝説の実況は、のちにレコードにもなりました。


「あと25、あと25、あと25。わずかにリード、わずかにリード。わずかにリード。前畑、前畑ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ。ゲネンゲルが出てきます。ゲネンゲルが出ています。ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ。前畑、前畑リード、前畑リード、前畑リードしております。前畑リード、前畑ガンバレ、前畑ガンバレ、前、前、リード、リード。あと5メーター、あと5メーター、あと5メーター、5メーター、5メーター、前っ、前畑リード。勝った勝った勝った、勝った勝った、勝った、前畑勝った、勝った勝った、勝った、勝った勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑の優勝です。前畑優勝です」


 実に「前畑ガンバレ!ガンバレ!」23回「勝った!勝った!前畑勝った!」12回連呼しています。実況というより、ただの応援ですね(笑)。でも、その興奮は十分に伝わってきます。実況というのは、その描写を正確に伝えるということも必要かもしれませんが、スポーツ実況の場合、その場の熱気や臨場感を伝えることがいちばんなのかもしれません。その意味では、やはりこれは後世に伝説となるほど名実況といえるのかもしれません。


 ドラマでは、「ガンバレ」の言葉に押しつぶされそうになる前畑のプレッシャーとの戦いが描かれていましたね。後世の私たちは、この「前畑ガンバレ!」の実況と、日本人初の女性金メダリストという偉業しか知りませんが、たしかに、彼女にとってレース前の「前畑ガンバレ!」は、プレッシャーでしかなかったかもしれません。この56年後のバルセロナオリンピックの同種目で金メダリストとなった岩崎恭子選手は、それほど注目されていないなかでの金メダル獲得だったので、比較的ノンプレッシャーで臨んだ結果だったといえます。その後、注目されるようになってからは、そのプレッシャーから思うような結果が出せなくなったそうです。また、過去には、長崎宏子選手や千葉すず選手など、オリンピックメダル候補として注目された選手は他にもいましたが、残念ながらオリンピックでは思うような結果が残せていません。やはり、日の丸を背負うというプレッシャーは、たいへんなものなんでしょうね。そんななか、前畑秀子は日本中の期待を一身に受け、そのプレッシャーのなかで金メダルを獲得したわけです。これは、まさに正真正銘のスーパーアスリートといえるでしょう。


 ちなみに、前畑の獲得した金メダルは、のちに空襲で焼失してしまったそうです。残念な話ですが、金メダルはそのであって、それがなくなっても、彼女が日本人初の女性金メダリストであるという事実は永遠に残り続けますからね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-23 22:05 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その3 「錦織神社」

「その2」で紹介した狭山藩陣屋跡から3kmほど南東の富田林市にある錦織神社に、天誅組顕彰碑があります。

テニスの錦織圭選手は「にしこり」と読みますが、錦織神社「にしきおり」と読みます。


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錦織神社という名称になったのは明治40年(1907年)だそうで、天誅組の時代には、水郡神社と呼ばれていたそうです。


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鳥居をくぐると、長い真っ直ぐな参道が目に入ります。

200mほどあるでしょうか?


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その参道の途中の脇に、その碑はあります。


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この碑は、天誅組に参加した河内勢を讃えたものだそうです。


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天誅組は、結成時の同志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士でしたが、その進軍の途上、続々と同志が増えていきました。


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この石碑には、天誅組に参加した河内勢の志士たちの名が刻まれています。


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なぜここに石碑が建てられたかというと、天誅組河内勢のリーダーで天誅組小荷駄奉行となった水郡善之祐が、かつてここ錦織神社(当時は水郡神社)の祠官だったからだそうです。

水郡善之祐は同じ年の足利三代木像梟首事件にも関与していたといいますから、なかなか過激な人物だったようです。

善之祐は天誅組を財政面で支え、当時13歳だった息子の英太郎もともに参加しました。

天誅組瓦解後は投降し、善之祐は京の六角獄舎処刑されますが、息子の英太郎は若年と言うことで命を救われ、戊辰戦争に従軍した後、明治維新後はアメリカへの留学を経て、大阪、和歌山、姫路などの地方裁判所の検事を歴任しました。

明治31年(1898年)、父子ともに贈正五位を賜ります。

善之祐辞世

「皇國のためにぞつくすまごころは知るひとぞ知る神や知るらん」


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中央の大きな顕彰碑の横には、「和田佐市碑」と刻まれた石碑があります。


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和田佐市は水郡善之祐の従者で、天誅組伍長として参戦。

水郡父子、森元伝兵衛と同じ甲田村の出身でした。

なぜ、この人の碑だけ単独で建てられているのかは、わかりませんでした。


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せっかくなので、社殿の写真もアップしておきます。


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本殿は天平18年(1368年)創建だそうです。

南北朝時代のものですね。

重要文化財に指定されています。


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主祭神は、建速素戔嗚命、品陀別命、菅原道真

でも、近年は錦織圭選手ファンの参拝が多いとか。

そのうち祭神に合祀されるかもしれません(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-20 00:53 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その2 「狭山藩陣屋跡」

文久3年8月15日(1863年9月27日)に堺港に上陸した天誅組は、翌16日、払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入りました。

そこで天誅組は吉村寅太郎を軍使として狭山藩の陣屋に送り、先代藩主で隠居の身であった北条氏燕との面会を申し出ました。


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現在、その陣屋跡の一角には、石碑が建てられています。


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狭山藩北条氏は、戦国時代の関東で勢威を振るった小田原北条氏の子孫です。

豊臣秀吉小田原征伐によって小田原北条氏は滅亡しますが、その後、嫡流は断絶したものの、その枝流が跡を継いでこの地に移って大名となり、小藩ながら明治維新まで続きました。


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天誅組の申し出を受けた氏燕は、急病と偽って面会を断り、家老の朝比奈縫殿が代って対応します。

天誅組主将の中山忠光は、吉村を通して狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じました。

これに困った狭山藩は、とりあえず、甲冑ゲベール銃などの武具と、米、塩などを贈り、天皇親征の節には加わると回答したといいます。

しかし、周知の通り天皇親征は行われなかったんですね。

狭山藩の対応は賢明だったといえます。


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狭山藩陣屋は、狭山池東北の地にありました。

狭山池は日本最古のダム式ため池とされ、現在も洪水調整機能を備えたダム池として管理されています。


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現在、狭山池の周囲は公園として整備されています。


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天誅組の一行も、このため池の畔を歩いたかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-19 01:02 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その1 「堺旧港」

幕末には、新選組、見廻組、誠忠組、新徴組など、「○○組」と称する団体がいくつかありましたが、その性格は様々で、警備組織もあれば政党もあり、武装集団もあれば思想集団もありました。

そんななか、政党であり思想集団であり武装集団でもあるという複数の性格を持ちながら、最も短命に終わった組織がありました。

天誅組です。

彼らは、幕末史のなかのわずか1ヶ月ほどの短い間に、一瞬の花火のように炸裂して散っていきます。

そんな天誅組の足跡を辿ってみました。


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嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、活発化していった尊皇攘夷運動は、文久3年(1863年)の前半期には最高潮に達し、その急先鋒の長州藩士をはじめとする全国各地から集結した尊皇攘夷派が、京の政局を握っていました。

彼らは孝明天皇(第121代天皇)を大和行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。

これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。

そして、文久3年8月13日(1863年9月25日)、天皇の大和行幸が正式に朝議で決まると、機をうかがっていた討幕急進派の公家の中山忠光、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎、岡山脱藩浪士の藤本鉄石、刈谷脱藩浪士の松本奎堂らが皇軍の先鋒となるため、翌14日に京都を発ち、大和国を目指します。

これが天誅組です。


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天誅組の面々は長州下関へ下る勅使と偽って大坂から海路でへ向かいます。

そして15日、堺港に上陸しました。

現在、その上陸の地を示す石碑が、堺市内に建てられています。


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手前の小さな石碑には、「天誅組義士上陸蹟」と刻まれています。


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後ろには大きな顕彰碑が。

昭和11年(1936年)に建てられたものだそうで、扁額は伯爵・田中光顕の揮毫だそうです。

田中は土佐勤王党出身で、あの坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃された現場に最初に駆けつけた人物です。

天誅組には土佐勤皇党の同志が大勢参加していましたから、田中が揮毫したのでしょうね。

幕末の土佐系の石碑の建立事業には、だいたい田中が関わっています。


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真夜中過ぎに堺港へ到着した天誅組は、旭橋東詰から上陸すると2軒の旅館に分かれて休息し、朝、狭山へ向かって西高野街道を進軍したとあります。


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天誅組上陸地碑の隣には、慶応4年2月15日(1868年3月8日)に起きた堺事件発祥地碑が並んで建ちます。

堺事件とは、この地に上陸したフランス軍艦の兵士11名を、当時、堺の警護にあたっていた土佐藩士が殺傷するという事件で、フランス政府からの要求で、土佐藩士11名が切腹しました。

この話は、また別の機会に触れることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2019-09-18 02:14 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第35話「民族の祭典」 ~東京五輪招致の成功とベルリン五輪~

 二・二六事件から五ヵ月後の昭和11年(1936年)7月29日、ベルリンIOC総会が開催されました。前年の総会で日本がムッソリーニに交渉してローマを辞退させたことにより、IOCの反感を買って決定が先送りになった昭和15年(1940年)の第12回オリンピック大会の開催国を決定するための総会です。前年の政治的な運動の責任をとって杉村陽太郎がIOC委員を辞任したため、日本からの出席は嘉納治五郎副島道正の2人。嘉納はIOC委員としては最古参で、副島は初めての総会出席でした。


 候補地は東京ヘルシンキ一騎打ちでした。東京の最大の不利は、極東の遠い国ということ。これまでの11回のオリンピックは、全て欧米で開催されてきました。飛行機が発達していないこの当時、ヨーロッパから日本に来るには、船でアフリカ、インド洋を経て日本に向かうか、あるいは北米回りの航路か、はたまたシベリア鉄道でソ連を横断して日本に入るかのいずれかのコースしかありませんでした。いずれも20日間近い日数を要します。東京開催に難色を示すIOC委員の共通の理由は、渡航日数が長く旅費がかかりすぎるということでした。


e0158128_19143177.jpg しかし、これに嘉納は真っ向から反発します。


 「日本はその極東から、1912年以来二十余年、毎年多くの選手を派遣している。日本が遠いということは理由にならない。むしろ、東京で開催することによって、オリンピックはようやく欧米のものから世界的な文化になる。オリンピックは当然日本に来るべきだと思われるにもかかわらず、もし来ないのであれば、それは正当な理由が斥けられたということに他ならない。それならば、日本からヨーロッパへの参加また遠距離であるから、出場するには及ばないということになる。そのときは日本は更に大きな世界的な大会を開催してもいいと思っている」


 この嘉納の半分脅しともとれる強気の熱弁が功を奏したのか、投票の結果、36票対27票東京が勝利しました。アジアではじめてのオリンピック開催が決定。満州事変以降、日本は国際連盟を脱退するなど世界的に孤立して数年が経過していたこの時代に、せかいスポーツの国際大会を東京で行うことの支持を取り付けた。これは一にも二にも嘉納の功績といって大過はないでしょう。まさに、スポーツと政治は別ものという理想を体現してみせました。まったく、すごいじいさんですね。しかし、実際のアジアでのはじめてのオリンピック開催は、20年以上先になることは周知のところです。やはり、スポーツと政治は切り離せなかったんですね。それは、これから描かれていくのでしょう。


e0158128_00002262.jpg 同じ年、第11回オリンピックベルリン大会が開催されました。第一次世界大戦によって第6回オリンピックベルリン大会が中止されてから20年。ドイツ国民にとっては悲願のオリンピック開催だったでしょう。もっとも、この20年の間にドイツは様変わりしていました。昭和8年(1933年)にドイツの政権を掌握したアドルフ・ヒトラーは、昭和10年(1985年)に「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(ニュルンベルク法)に制定し、アーリア民族至上主義のもとに国内のユダヤ人を迫害していました。この当時、第一次世界大戦の過酷な戦後措置に対して深い遺恨を抱いていたドイツ国民が、このヒトラーの思想に同調し、多くの支持を寄せるようになります。そんななか、ヒトラーは当初、オリンピックは「ユダヤ人の祭典」だとしてベルリン開催に難色を示していましたが、しかし、側近から「大きなプロパガンダ効果が期待できる」との説得を受けて、開催することに同意したといいます。ヒトラーはオリンピックを通じて国威を見せつけるべく、膨大な国家予算を投じて10万人以上を収容する巨大なメインスタジアムを建設するなど、大いに政治利用しました。やはり、スポーツと政治は切り離せなかったんですね。


 ちなみに、アテネからランナーが聖火をリレーして開催地に運ぶという、いわゆる聖火リレーが初めて行われたのが、このベルリン大会だったそうです。実はこれも、彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想から生まれたプロパガンダだったそうですが、当初の思惑はさておき、いまなお続いている聖火リレーを考案したのは、唯一、ヒトラーの後世に残した功績といえるかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-16 00:00 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

緒方洪庵の適塾をたずねて。 <後編>

<前編>の続きです。

建物内はひととおり見学したので、建物の外を歩いてみましょう。


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説明板によると、表屋の建物は寛政4年(1792年)の北浜大火後まもなくの建築と考えられ、元は町筋に面する商家の形であったようですが、その後、弘化2年(1845年)に緒方洪庵が買い上げた際に若干の改造が行われたと見られています。


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建物の東側に、庭のような空間があります。


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入口の看板。

文字が消えて読めない(笑)。


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庭というか、公園ですね。


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近代的なビルに囲まれ、今も残る町家風のたたずまい。

不思議な空間ですね。


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第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)にこの建物は国に寄付されることになり、現在は大阪大学が所有、管理しています。

洪庵の子息や適塾門下生によって明治初期に設立された大阪仮病院大阪医学校が、やがて大阪帝国大学となり、現在の大阪大学医学部につながっているからだそうです。


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障子窓が開いているところが、前編で紹介した塾生大部屋です。


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続いて建物西側にやってきました。


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西側は広い公園になっていて、緒方洪庵の銅像が座しています。


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緒方洪庵は文化7年7月14日(1810年8月13日)、備中足守(岡山市足守)藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれました。

17歳のときに大坂に出て中天游の私塾「思々斎塾」に学び、21歳で江戸に出て坪井信道、宇田川玄真らに学ぶと、さらに26歳で長崎へ遊学して医学、蘭学を学び、29歳のときに大坂に帰って医業を開業しました。

このとき、同時に適塾を開きます。

同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚し、のち6男7女をもうけました。

その後、医師として種痘の普及や天然痘の予防などに尽力し、日本における西洋医学の基礎を築くとともに、教育者としては、福沢諭吉大村益次郎など幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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人柄は温厚篤実を絵に描いたような人物だったようで、福沢諭吉曰く「誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。


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故・司馬遼太郎氏が小学校の国語教科書用に書いた『洪庵のたいまつ』の冒頭で、司馬氏は洪庵について次のように語っています。


世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。

ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。

緒方洪庵のことである。

この人は、江戸末期に生まれた。

医者であった。

かれは、名を求めず、利を求めなかった。

あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。

そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。

(『洪庵のたいまつ』より)


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また、司馬氏の小説『花神』では、こうも言っています。


なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。

洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。

当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。

洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。

その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。

洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。

適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。

「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。

洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。

(『花神』より)


司馬さんはよほど洪庵に惚れ込んでいたようですね。


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ここ適塾で学んだ門下生たちが、のちに医学、兵事、政治など各方面で活躍し、そしてそれが現在の私たちの生活につながっています。

まさに、洪庵のたいまつはつながっているんですね。

先述した司馬氏の『洪庵のたいまつ』の文末は、こう結んでいます。


洪庵は、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。

かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。

弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。

やがてはその火の群が、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。

後生のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。

(『洪庵のたいまつ』より)


ここ適塾は、近代日本のたいまつ発祥の地といえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-15 07:53 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)