人気ブログランキング |

<   2019年 09月 ( 13 )   > この月の画像一覧

 

天誅組の足跡を訪ねて。 その3 「錦織神社」

「その2」で紹介した狭山藩陣屋跡から3kmほど南東の富田林市にある錦織神社に、天誅組顕彰碑があります。

テニスの錦織圭選手は「にしこり」と読みますが、錦織神社「にしきおり」と読みます。


e0158128_14320354.jpg


錦織神社という名称になったのは明治40年(1907年)だそうで、天誅組の時代には、水郡神社と呼ばれていたそうです。


e0158128_14320651.jpg


鳥居をくぐると、長い真っ直ぐな参道が目に入ります。

200mほどあるでしょうか?


e0158128_14334719.jpg


その参道の途中の脇に、その碑はあります。


e0158128_14395153.jpg


この碑は、天誅組に参加した河内勢を讃えたものだそうです。


e0158128_14395771.jpg


天誅組は、結成時の同志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士でしたが、その進軍の途上、続々と同志が増えていきました。


e0158128_14395457.jpg


この石碑には、天誅組に参加した河内勢の志士たちの名が刻まれています。


e0158128_14400034.jpg


なぜここに石碑が建てられたかというと、天誅組河内勢のリーダーで天誅組小荷駄奉行となった水郡善之祐が、かつてここ錦織神社(当時は水郡神社)の祠官だったからだそうです。

水郡善之祐は同じ年の足利三代木像梟首事件にも関与していたといいますから、なかなか過激な人物だったようです。

善之祐は天誅組を財政面で支え、当時13歳だった息子の英太郎もともに参加しました。

天誅組瓦解後は投降し、善之祐は京の六角獄舎処刑されますが、息子の英太郎は若年と言うことで命を救われ、戊辰戦争に従軍した後、明治維新後はアメリカへの留学を経て、大阪、和歌山、姫路などの地方裁判所の検事を歴任しました。

明治31年(1898年)、父子ともに贈正五位を賜ります。

善之祐辞世

「皇國のためにぞつくすまごころは知るひとぞ知る神や知るらん」


e0158128_14422709.jpg


中央の大きな顕彰碑の横には、「和田佐市碑」と刻まれた石碑があります。


e0158128_14423020.jpg


和田佐市は水郡善之祐の従者で、天誅組伍長として参戦。

水郡父子、森元伝兵衛と同じ甲田村の出身でした。

なぜ、この人の碑だけ単独で建てられているのかは、わかりませんでした。


e0158128_14461308.jpg


せっかくなので、社殿の写真もアップしておきます。


e0158128_14461755.jpg


本殿は天平18年(1368年)創建だそうです。

南北朝時代のものですね。

重要文化財に指定されています。


e0158128_14462122.jpg


主祭神は、建速素戔嗚命、品陀別命、菅原道真

でも、近年は錦織圭選手ファンの参拝が多いとか。

そのうち祭神に合祀されるかもしれません(笑)。



「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
   ↓↓↓

天誅組の足跡を訪ねて。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-20 00:53 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その2 「狭山藩陣屋跡」

文久3年8月15日(1863年9月27日)に堺港に上陸した天誅組は、翌16日、払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入りました。

そこで天誅組は吉村寅太郎を軍使として狭山藩の陣屋に送り、先代藩主で隠居の身であった北条氏燕との面会を申し出ました。


e0158128_14190476.jpg


現在、その陣屋跡の一角には、石碑が建てられています。


e0158128_14190764.jpg


狭山藩北条氏は、戦国時代の関東で勢威を振るった小田原北条氏の子孫です。

豊臣秀吉小田原征伐によって小田原北条氏は滅亡しますが、その後、嫡流は断絶したものの、その枝流が跡を継いでこの地に移って大名となり、小藩ながら明治維新まで続きました。


e0158128_14191163.jpg


天誅組の申し出を受けた氏燕は、急病と偽って面会を断り、家老の朝比奈縫殿が代って対応します。

天誅組主将の中山忠光は、吉村を通して狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じました。

これに困った狭山藩は、とりあえず、甲冑ゲベール銃などの武具と、米、塩などを贈り、天皇親征の節には加わると回答したといいます。

しかし、周知の通り天皇親征は行われなかったんですね。

狭山藩の対応は賢明だったといえます。


e0158128_14191445.jpg


狭山藩陣屋は、狭山池東北の地にありました。

狭山池は日本最古のダム式ため池とされ、現在も洪水調整機能を備えたダム池として管理されています。


e0158128_14224883.jpg


現在、狭山池の周囲は公園として整備されています。


e0158128_14225165.jpg
e0158128_14225497.jpg


天誅組の一行も、このため池の畔を歩いたかもしれませんね。



「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
   ↓↓↓

天誅組の足跡を訪ねて。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-19 01:02 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その1 「堺旧港」

幕末には、新選組、見廻組、誠忠組、新徴組など、「○○組」と称する団体がいくつかありましたが、その性格は様々で、警備組織もあれば政党もあり、武装集団もあれば思想集団もありました。

そんななか、政党であり思想集団であり武装集団でもあるという複数の性格を持ちながら、最も短命に終わった組織がありました。

天誅組です。

彼らは、幕末史のなかのわずか1ヶ月ほどの短い間に、一瞬の花火のように炸裂して散っていきます。

そんな天誅組の足跡を辿ってみました。


e0158128_14034267.jpg


嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、活発化していった尊皇攘夷運動は、文久3年(1863年)の前半期には最高潮に達し、その急先鋒の長州藩士をはじめとする全国各地から集結した尊皇攘夷派が、京の政局を握っていました。

彼らは孝明天皇(第121代天皇)を大和行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。

これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。

そして、文久3年8月13日(1863年9月25日)、天皇の大和行幸が正式に朝議で決まると、機をうかがっていた討幕急進派の公家の中山忠光、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎、岡山脱藩浪士の藤本鉄石、刈谷脱藩浪士の松本奎堂らが皇軍の先鋒となるため、翌14日に京都を発ち、大和国を目指します。

これが天誅組です。


e0158128_14034676.jpg


天誅組の面々は長州下関へ下る勅使と偽って大坂から海路でへ向かいます。

そして15日、堺港に上陸しました。

現在、その上陸の地を示す石碑が、堺市内に建てられています。


e0158128_14034914.jpg


手前の小さな石碑には、「天誅組義士上陸蹟」と刻まれています。


e0158128_14035381.jpg


後ろには大きな顕彰碑が。

昭和11年(1936年)に建てられたものだそうで、扁額は伯爵・田中光顕の揮毫だそうです。

田中は土佐勤王党出身で、あの坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃された現場に最初に駆けつけた人物です。

天誅組には土佐勤皇党の同志が大勢参加していましたから、田中が揮毫したのでしょうね。

幕末の土佐系の石碑の建立事業には、だいたい田中が関わっています。


e0158128_14065491.jpg


真夜中過ぎに堺港へ到着した天誅組は、旭橋東詰から上陸すると2軒の旅館に分かれて休息し、朝、狭山へ向かって西高野街道を進軍したとあります。


e0158128_14065863.jpg


天誅組上陸地碑の隣には、慶応4年2月15日(1868年3月8日)に起きた堺事件発祥地碑が並んで建ちます。

堺事件とは、この地に上陸したフランス軍艦の兵士11名を、当時、堺の警護にあたっていた土佐藩士が殺傷するという事件で、フランス政府からの要求で、土佐藩士11名が切腹しました。

この話は、また別の機会に触れることにしましょう。


「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
   ↓↓↓

天誅組の足跡を訪ねて。





ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-18 02:14 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第35話「民族の祭典」 ~東京五輪招致の成功とベルリン五輪~

 二・二六事件から五ヵ月後の昭和11年(1936年)7月29日、ベルリンIOC総会が開催されました。前年の総会で日本がムッソリーニに交渉してローマを辞退させたことにより、IOCの反感を買って決定が先送りになった昭和15年(1940年)の第12回オリンピック大会の開催国を決定するための総会です。前年の政治的な運動の責任をとって杉村陽太郎がIOC委員を辞任したため、日本からの出席は嘉納治五郎副島道正の2人。嘉納はIOC委員としては最古参で、副島は初めての総会出席でした。


 候補地は東京ヘルシンキ一騎打ちでした。東京の最大の不利は、極東の遠い国ということ。これまでの11回のオリンピックは、全て欧米で開催されてきました。飛行機が発達していないこの当時、ヨーロッパから日本に来るには、船でアフリカ、インド洋を経て日本に向かうか、あるいは北米回りの航路か、はたまたシベリア鉄道でソ連を横断して日本に入るかのいずれかのコースしかありませんでした。いずれも20日間近い日数を要します。東京開催に難色を示すIOC委員の共通の理由は、渡航日数が長く旅費がかかりすぎるということでした。


e0158128_19143177.jpg しかし、これに嘉納は真っ向から反発します。


 「日本はその極東から、1912年以来二十余年、毎年多くの選手を派遣している。日本が遠いということは理由にならない。むしろ、東京で開催することによって、オリンピックはようやく欧米のものから世界的な文化になる。オリンピックは当然日本に来るべきだと思われるにもかかわらず、もし来ないのであれば、それは正当な理由が斥けられたということに他ならない。それならば、日本からヨーロッパへの参加また遠距離であるから、出場するには及ばないということになる。そのときは日本は更に大きな世界的な大会を開催してもいいと思っている」


 この嘉納の半分脅しともとれる強気の熱弁が功を奏したのか、投票の結果、36票対27票東京が勝利しました。アジアではじめてのオリンピック開催が決定。満州事変以降、日本は国際連盟を脱退するなど世界的に孤立して数年が経過していたこの時代に、せかいスポーツの国際大会を東京で行うことの支持を取り付けた。これは一にも二にも嘉納の功績といって大過はないでしょう。まさに、スポーツと政治は別ものという理想を体現してみせました。まったく、すごいじいさんですね。しかし、実際のアジアでのはじめてのオリンピック開催は、20年以上先になることは周知のところです。やはり、スポーツと政治は切り離せなかったんですね。それは、これから描かれていくのでしょう。


e0158128_00002262.jpg 同じ年、第11回オリンピックベルリン大会が開催されました。第一次世界大戦によって第6回オリンピックベルリン大会が中止されてから20年。ドイツ国民にとっては悲願のオリンピック開催だったでしょう。もっとも、この20年の間にドイツは様変わりしていました。昭和8年(1933年)にドイツの政権を掌握したアドルフ・ヒトラーは、昭和10年(1985年)に「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(ニュルンベルク法)に制定し、アーリア民族至上主義のもとに国内のユダヤ人を迫害していました。この当時、第一次世界大戦の過酷な戦後措置に対して深い遺恨を抱いていたドイツ国民が、このヒトラーの思想に同調し、多くの支持を寄せるようになります。そんななか、ヒトラーは当初、オリンピックは「ユダヤ人の祭典」だとしてベルリン開催に難色を示していましたが、しかし、側近から「大きなプロパガンダ効果が期待できる」との説得を受けて、開催することに同意したといいます。ヒトラーはオリンピックを通じて国威を見せつけるべく、膨大な国家予算を投じて10万人以上を収容する巨大なメインスタジアムを建設するなど、大いに政治利用しました。やはり、スポーツと政治は切り離せなかったんですね。


 ちなみに、アテネからランナーが聖火をリレーして開催地に運ぶという、いわゆる聖火リレーが初めて行われたのが、このベルリン大会だったそうです。実はこれも、彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想から生まれたプロパガンダだったそうですが、当初の思惑はさておき、いまなお続いている聖火リレーを考案したのは、唯一、ヒトラーの後世に残した功績といえるかもしれません。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-16 00:00 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

緒方洪庵の適塾をたずねて。 <後編>

<前編>の続きです。

建物内はひととおり見学したので、建物の外を歩いてみましょう。


e0158128_21192933.jpg


説明板によると、表屋の建物は寛政4年(1792年)の北浜大火後まもなくの建築と考えられ、元は町筋に面する商家の形であったようですが、その後、弘化2年(1845年)に緒方洪庵が買い上げた際に若干の改造が行われたと見られています。


e0158128_21210336.jpg


建物の東側に、庭のような空間があります。


e0158128_21210716.jpg


入口の看板。

文字が消えて読めない(笑)。


e0158128_21222452.jpg


庭というか、公園ですね。


e0158128_21231169.jpg


近代的なビルに囲まれ、今も残る町家風のたたずまい。

不思議な空間ですね。


e0158128_21242449.jpg


第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)にこの建物は国に寄付されることになり、現在は大阪大学が所有、管理しています。

洪庵の子息や適塾門下生によって明治初期に設立された大阪仮病院大阪医学校が、やがて大阪帝国大学となり、現在の大阪大学医学部につながっているからだそうです。


e0158128_21242702.jpg


障子窓が開いているところが、前編で紹介した塾生大部屋です。


e0158128_21265723.jpg


続いて建物西側にやってきました。


e0158128_21270141.jpg


西側は広い公園になっていて、緒方洪庵の銅像が座しています。


e0158128_21342398.jpg


緒方洪庵は文化7年7月14日(1810年8月13日)、備中足守(岡山市足守)藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれました。

17歳のときに大坂に出て中天游の私塾「思々斎塾」に学び、21歳で江戸に出て坪井信道、宇田川玄真らに学ぶと、さらに26歳で長崎へ遊学して医学、蘭学を学び、29歳のときに大坂に帰って医業を開業しました。

このとき、同時に適塾を開きます。

同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚し、のち6男7女をもうけました。

その後、医師として種痘の普及や天然痘の予防などに尽力し、日本における西洋医学の基礎を築くとともに、教育者としては、福沢諭吉大村益次郎など幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


e0158128_21342670.jpg


人柄は温厚篤実を絵に描いたような人物だったようで、福沢諭吉曰く「誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。


e0158128_21342977.jpg


故・司馬遼太郎氏が小学校の国語教科書用に書いた『洪庵のたいまつ』の冒頭で、司馬氏は洪庵について次のように語っています。


世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。

ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。

緒方洪庵のことである。

この人は、江戸末期に生まれた。

医者であった。

かれは、名を求めず、利を求めなかった。

あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。

そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。

(『洪庵のたいまつ』より)


e0158128_21362072.jpg


また、司馬氏の小説『花神』では、こうも言っています。


なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。

洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。

当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。

洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。

その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。

洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。

適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。

「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。

洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。

(『花神』より)


司馬さんはよほど洪庵に惚れ込んでいたようですね。


e0158128_21362670.jpg


ここ適塾で学んだ門下生たちが、のちに医学、兵事、政治など各方面で活躍し、そしてそれが現在の私たちの生活につながっています。

まさに、洪庵のたいまつはつながっているんですね。

先述した司馬氏の『洪庵のたいまつ』の文末は、こう結んでいます。


洪庵は、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。

かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。

弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。

やがてはその火の群が、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。

後生のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。

(『洪庵のたいまつ』より)


ここ適塾は、近代日本のたいまつ発祥の地といえるかもしれません。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-15 07:53 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

緒方洪庵の適塾をたずねて。 <前編>

大阪市内のオフィス街のど真ん中に、緒方洪庵が開いた適塾(適々斎塾)の建物が残されています。

緒方洪庵は、幕末における洋楽研究の第一人者として仰がれた医師、蘭学者で、「日本の近代医学の祖」と呼ばれる人物です。

洪庵は、天保9年(1838年)から文久2年(1862年)までの25年間、大阪・船場で塾を開き、幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


e0158128_20450503.jpg


この建物は、弘化2年(1845年)に洪庵が町家を買い受け、適塾を拡張したときのものです。


e0158128_20472710.jpg


間口は約12mしかありませんが、奥行きは約40mあり、敷地面積は464㎡あり、木造2階建の建面積は285㎡、延床面積は417㎡あります。


e0158128_20473048.jpg


正面には昭和16年(1941年)に建てられた石碑があります。


e0158128_20512803.jpg


入口横の説明板です。


e0158128_20513256.jpg


玄関を入ってすぐの土間に、平面図が書かれた行灯看板があります。


e0158128_20523559.jpg


それでは、建物の中を見てまわりましょう。


e0158128_20551564.jpg


1階は主に教室に使われた表屋と、洪庵とその家族の住まいとなっていた主屋に分かれます。

教室は2部屋あります。


e0158128_20551905.jpg


教室の奥には、中庭があります。

この中庭より奥が、洪庵の居住スペースとなります。


e0158128_20561282.jpg


書斎です。

六畳間です。


e0158128_20572004.jpg


手前が八畳の応接間で、奥が十畳半+床の間の客座敷です。


e0158128_20591365.jpg


客座敷です。

奥に庭が見えます。


e0158128_20591748.jpg


前栽(庭)です。


e0158128_21001604.jpg


こちらは、客座敷の隣にある家族部屋です。

七畳ありますが、洪庵は6男7女の子供がいました。

まさか、ここで全員寝てたわけではないですよね。


e0158128_21022069.jpg


そして台所


e0158128_21022463.jpg


ここで塾生たちの飯を炊いていたのでしょう。


e0158128_21022763.jpg


台所の天井です。

煤けていますね。

150年以上前の煤でしょうか?


e0158128_21044854.jpg


台所から2階へ上がる階段があります。

この急な角度、階段というより梯子のようです。

でも、昭和の時代も、古い家屋はみな、こんな急な階段でしたよね。


e0158128_21054600.jpg


2階へやってきました。

上ってすぐにあるのは、女中部屋です。


e0158128_21065498.jpg


そしてこの六畳間は、ヅーフ部屋と呼ばれる部屋です。

その名称の由来は、塾生たちが使用したヅーフ辞書(長崎出島のオランダ商館長ヅーフが作成した蘭和辞書)だそうです。

適塾の教育システムの中心は蘭書の会読だったといいますが、その予習のために塾生たちはこのヅーフ辞書を使ったそうですが、当時、極めて貴重だったこの辞書は適塾にも一冊しかなく、塾生はヅーフ辞書が置かれていたこの部屋につめかけて奪い合って使用したといいます。


e0158128_21123408.jpg


そして、その奥にある大広間が、塾生大部屋です。


e0158128_21123749.jpg


洪庵は医学者でしたが、適塾門下生からは、医学のみならず様々な方面で活躍する人物が出ました。

もとは医学者でありながら、やがて幕末の政治活動に身を捧げて死んでいった橋本左内や、同じく医学者から兵学者に転身して維新十傑の一人となった大村益次郎、維新後、慶応義塾大学を創設した福沢諭吉、同じく維新後、内務省の初代衛生局長となった長與專齋などがいました。


e0158128_21124103.jpg


また、戊辰戦争で新政府軍に抗い、あの五稜郭に立て籠った大鳥圭介高松凌雲も適塾門下生で、大鳥はのちに明治の外交で活躍し、高松は五稜郭の戦いで箱館病院を開院し、敵味方を問わずに傷病兵を助けるという我が国最初の赤十字博愛精神を実践した人物で、これがやがて日本赤十字を生むことになり、その初代総裁には、同じく適塾門下生だった佐野常民が就きました。

まさに、幕末維新の錚々たるメンバーがここから巣立ったんですね。


e0158128_21143928.jpg


この大部屋で、門下生たちは寝泊まりしていました。

塾生1人一畳が使えましたが、毎月、成績のいい者から好きな場所を選べたようです。

出入口付近はみんなに踏まれて最悪だったとか。

福沢諭吉なんかは、きっと常にいい場所を確保していたんでしょうね。

福沢諭吉は後年、適塾時代を振り返り、「およそ勉強ということについては、このうえにしようもないほど勉強した」と述懐しています。

その理由は、向上心よりも、場所取りだったかも(笑)。


e0158128_21124514.jpg


大部屋中央の柱には、塾生がつけたと伝わる刀傷が無数に残っています。

秀才ぞろいの適塾でしたが、やはり武士の若者たちですから、血の気の多いやつもたくさんいたんでしょうね。


e0158128_21124898.jpg


さて、ひととおり建物内を見て回りましたが、次回、建物の外を歩きます。

<後編>に続きます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-13 23:27 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

映画『アルキメデスの大戦』に見る、将軍たちは一つ前の戦争を戦う。

先日、映画『アルキメデスの大戦』を観てきました。

何の予備知識もなく観に行ったので、わたしはてっきり戦艦大和を題材にした史実ベースの戦争映画だと思っていたのですが、ぜんぜん違いましたね。

物語は戦艦大和建造のみにスポットを当てたヒューマンドラマとでもいいますか・・・。

少しはモデルとなった実話があるのかと思いましたが、まったくのフィクションだそうで。

原作漫画は読んでいませんが、映画としては、まあ面白かったと思います。


e0158128_16403696.png


物語は、巨大戦艦「大和」を建造しようとする海軍首脳部と、その建造は開戦につながるとして、それを阻止しようとする反対派との机上の戦いが主軸でした。

ここで、実際に戦艦大和の建造が必要だったかどうかを考えてみたいと思いますが、確かに、結果を知っている後世から見れば、すでに戦闘機が主流となっていた第二次世界大戦に、途方もない巨額予算を投じて時代遅れの巨大戦艦を造り、一瞬にして海の藻屑と消えた愚かな策に映りますが、当時の日本人に、果たしてそれがわかっていた人がどれだけいたでしょうか?


当時、日本は大正11年(1922年)のワシントン海軍軍縮条約以降、10年以上戦艦を造っていませんでした。

その後、昭和5年(1930年)に結ばれたロンドン海軍軍縮条約で、さらに主力艦建造停止が延長され、英・米・日の補助艦総保有量は10:10:7となりました。

この条約に不満を持った海軍将校たちが、あの五・一五事件を起こすのですが、とにかく、海軍としては軍備を強化したくてもできない時代が長く続いていたんです。

そこで、条約の期限が切れて建艦制限が失効した昭和12年(1937年)から大和の建造が始まるわけですが、なぜ戦艦に固執したかというと、やはり、そこには日露戦争の戦勝の経験があったのでしょうね。

日露戦争で日本は、当時、世界最強とうたわれたロシアのバルチック艦隊を、日本海で壊滅させました。

このときも、それをやろうとしていたんですね。

アメリカが日本に艦隊を送る場合、狭いパナマ運河を通る必要があり、そのためには、そこを通れないような大型の戦艦は造れない。

それを見越して、日本は46cmの主砲を擁した巨大戦艦を造ろうと考えた。

そしてアメリカが日本近海に来るのを待ち構えて叩こうとしたんです。

軍縮条約のため数で勝てない日本は、その性能で米・英を凌駕しようと考えたんですね。

その着想の原点は、やはり日露戦争の日本海戦にありました。


「将軍たちは一つ前の戦争を戦う」


という格言があります。

指揮をとる者は、どうしても前回の成功の経験をもとに戦略を立ててしまいがちで、それが今に合わなくなっていることに気づかない、という意味ですが、これは、軍人のみならず、人間、過去の成功を踏襲したいと思うのは普通のことだと思います。

それをしなかったのが織田信長でした。

彼は、桶狭間の戦い寡兵を率いて今川義元の大軍を破り、一躍、戦国の勢力争いに名乗りを上げましたが、以後の信長は、桶狭間のような奇策はいっさい用いず、必ず勝てる戦力を整えてからでないと戦を仕掛けませんでした。

普通なら、過去の成功を模倣して百戦そのやり方でいきそうなものですが、そこが信長の天才たる所以でしょうね。


しかし、信長のような天才は日本史上においてもです。

日本が日露戦争の戦勝に模倣したのは、当然の成り行きだったでしょう。

あるいは、映画における山本五十六のように、戦艦を無用の長物と考える先見性を持った人物がいたかもしれませんが、ほとんど声にならないほどの少数だったでしょうね。

実際の山本五十六が大和建造に反対していたかどうかもわかりません。

一説には、当時、航空本部長だった山本が、「これから海軍も空が大事で、大艦巨砲はいらなくなる」という発言をしたという話がありますが、これも、戦後の回顧談によるものだそうで、本当の話かどうかはわかりません。

大和建造は、避けられない歴史の必然だったんじゃないかと。


話を映画に戻して、菅田将暉くん演じる主人公の櫂直は、大和建造の不正を暴いて計画を中止させるべく奮闘するわけですが、しかし、最終的に大和が建造されることは歴史の事実としてわかっているわけで、そこにどう話を着地させるのかが物語の最大の焦点だったと思いますが、なるほど、そうきたか・・・と。

なかなか見事な落としどころでしたね。


ここからはネタバレになるので、映画を観ていない人は読むか否かは自己責任でお願いします。

大和の設計者である平山忠道(架空の人物)曰く、日本はアメリカと戦ったら確実に負けるとした上で、こう言います。


「戦争での負け方を知らない日本人は、最後の一人まで戦ってしまいうだろう。その結果、国はつぶれる。この国を守るには、絶対に沈まないと信じさせた鉄壁の艦を目の前で沈ませ、国民を目覚めさせなければならない。この戦艦は、日本という国の“依り代”なのだよ。」


そして、そのためにふさわしい名「大和」なんだ、と。

みごとな落とし方ですね。

「依り代」を辞書で引くと、「神霊が依り憑く対象物。神霊は物に寄りついて示現されるという考えから、憑依物としての樹木・岩石・動物・御幣など」とあります。

戦争に負けても日本が沈まないために、日本の代わりに沈んでくれる、それが「大和」だと言うんですね。

大和が沈むことを知っている現代人目線だから言えることだ、という無粋な見方はやめましょう。

だって、所詮はフィクションなんだから。


ただ、実際の歴史では、大和は「依り代」にはなれませんでした。

戦艦大和が沈んだのは昭和20年(1945年)4月7日、日本がポツダム宣言を受諾したのが同年8月14日。

この4ヶ月間に、おびただしい数の国民が命を落としました。

もし、映画の平山忠道の言葉どおり大和沈没で日本が目を覚まし、そのすぐあとに戦争を終わらせていたら、どれだけの命が助かったか。

本土主要都市の空襲のほとんどがこの4ヶ月の間のことで、それも避けられた。

当然、広島、長崎の原爆投下もなかった。

ひめゆり学徒隊も死なずにすんだ。

広島城岡山城福山城和歌山城名古屋城仙台城大垣城首里城も、焼けなくてすんだ。

ソ連が参戦することもなく、のちの北方領土問題もなかった。

何より、この4ヶ月間だけで数十万人の国民が死んでおり、その命が助かっていたんです。

この4ヶ月間で日本が失ったものは計り知れません。

残念ながら大和は「依り代」にはなれませんでした。


ただ、大和は戦後も日本を象徴する存在ではありつづけました。

戦艦「武蔵」「金剛」は知らなくても、大和を知らないという人はいないんじゃないでしょうか。

大和を題材とした映画やドラマも数多く作られました。

なんせ、戦後30年足らずでイスカンダルまで行っちゃいますからね(笑)。

それだけ日本人は大和という艦が好きで、その理由は、片道の燃料だけを積んで海に沈んだという敗戦の無念さを象徴する艦だからということもあるでしょうが、やはり、いちばんは、「大和」という名称にあるように思います。

「武蔵」や「金剛」では、ここまで日本人は哀愁を感じなかったんじゃないかと。

やはり、映画のとおり、沈む艦としてはふさわしいネーミングだったといえるかもしれません。

その意味では、少しは「依り代」になったのかもしれませんね。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-11 00:23 | 映画・小説・漫画 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第34話「226」 ~二・二六事件~

 昭和11年(1936年)2月26日早朝、陸軍青年将校たちが約1500名の下士官兵を率いて日本中を震撼させる大規模なクーデターを断行しました。世にいう「二・二六事件」です。彼らは、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃し、首相官邸をはじめ、陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠します。マーちゃんこと田畑政治の務める朝日新聞社も襲撃されました。このとき殺されたのは、岡田首相と間違われた義弟で海軍大佐の松尾伝蔵、高橋是清、斎藤實、渡辺錠太郎の重臣4名と、警察官5名。鈴木貫太郎は瀕死の重傷を負います。牧野伸顕はからくも逃げおおせ、難を逃れました。決起した将校たちは4日間に渡って国の中枢を占拠し、東京の首都機能は完全に麻痺してしまいました。


 当時、ニューヨークで起こった世界恐慌の影響で、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に陥っていました。企業は次々に倒産し、まちは失業者であふれていました。また、デフレからの農作物の価格の下落により、農村も大きなダメージを受け、農家の娘の「身売り」が社会問題となっていました(農村恐慌)。まさに、日本経済はどん底の状態にあったんですね


 そんな中、当時の政党内閣は何の策も講じず、相変わらず財界と癒着して汚職事件を繰り返している・・・と、国民は政治に不満を抱いていました。こうした国民の政治不信を背景に、軍部の一部の青年将校たちは右翼と協力して国家の革新を目指すようになり、過激な行動を起こすようになります。それが、昭和6年(1930年)の浜口首相狙撃事件、昭和7年(1931年)の三月事件、昭和7年(1932年)の血盟団事件、そして同年の五・一五事件などを生みます。


e0158128_22095188.jpg 当時の陸軍内は「皇道派」「統制派」と2つの派閥に分かれていました。統制派は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥で、彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えていました。これに対して皇道派は、天皇を中心とする天皇親政を目指し、そのためには武力行使も辞さないという過激派です。二・二六事件は、この皇道派が起こした事件です。彼らは「昭和維新」「尊皇討奸」をスローガンに掲げて天皇を中心とした政治体制を確立すべく、そのためには天皇を取り巻く「君側の奸」を排除すべしとテロを起こします。


 ところが、これに激怒したのが、彼らが最も崇敬していた昭和天皇でした。昭和天皇は彼らを「賊徒」と見なし、事態に厳しく対応するよう軍の上層部に求めます。当初、陸軍内部では首都での同士討ちを避けたいという思いから、武力での鎮圧に消極的でしたが、一説には、天皇は自ら軍を率いて鎮圧するとまで明言されたといい、そうなると、陸軍も動かざるを得なくなり、東京市に戒厳令が敷かれ、海軍とともに武力鎮圧に乗り出しました。崇敬してやまない天皇陛下から「賊徒」とみなされた彼らは、もはやその行動の意義を失い、29日に部隊は解散され、クーデターは未遂に終わりました。事件の首謀者である青年将校ら19名は、裁判の結果、銃殺刑とされ、彼らの理論的指導者だった北一輝も、事件に直接関与しませんでしたが、死刑となりました。


 これとよく似た事件が、幕末にもありました。文久3年(1863年)8月に孝明天皇大和行幸に乗じて大和国で挙兵した天誅組の変です。彼らは「尊皇攘夷」をスローガンに孝明天皇の攘夷親征の魁となるべく討幕の兵を挙げますが、これを最も拒絶したのは当の孝明天皇で、彼らの挙兵の翌日に京都で八月十八日の政変が起き、天皇から「暴徒」とみなされた天誅組は、朝廷からも幕府からも追われる身となり、やがてほとんどが討死します。二・二六事件の将校たちとそっくりです。


 二・二六事件の将校たちも天誅組の志士たちも、彼らは彼らなりの正義があったのでしょうが、客観的に見れば、彼らがやったことは、どう考えても義挙とは言えず、単なるテロリズムでした。ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ませんね。


 少しだけオリンピック招致の話もしましょう。二・二六事件から1ヶ月も経っていない3月19日、IOC会長のラトゥールが来日しました。日本滞在中、彼は明治神宮外苑競技場などの競技施設を視察したほか、中山競馬場講道館を訪問し、さらに関西にも足を伸ばし、甲子園球場を視察したのち京都や奈良を観光したそうです。3月27日には昭和天皇にも謁見したとか。陛下も二・二六事件が集結したばかりのたいへんなときだというのに、よく時間を割いていただけましたね。まさに、この日本の「お・も・て・な・し」攻勢は、オリンピック招致に大いに功を奏することになります。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-09 22:12 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その10 <ライトアップ>

「その9」の続きです。

令和元年(2019年)6月1日から築城400年事業の一環として、本丸の櫓がライトアップされるという情報を知り、その初日、昼間に続いて再び明石城にやってきました。


e0158128_14343036.jpg


写真は明石公園南入口にあたる太鼓門

「その2」でも紹介しましたが、昼間とはまたぜんぜん雰囲気が違いますね。


e0158128_14353604.jpg


で、公園内三ノ丸の芝生広場にやってきました。


e0158128_14362702.jpg


左が坤櫓、右が巽櫓です。


e0158128_14401604.jpg


ライトアップが始まりました。


e0158128_14401949.jpg


三脚も立てずに撮影していますので、手ブレ、ご容赦ください。


e0158128_14402292.jpg


七色に七変化です。


e0158128_14402534.jpg


今風にいえば「城ナリエ」ですね。

ちょっと違うか。


e0158128_14403361.jpg


城のライトアップというのは各地で行われていますが、日本で最初の城のライトアップは、今から約440年前の天正9年(1581年)7月15日、織田信長による安土城のライトアップというのはあまりにも有名ですよね。

もちろん、電飾などない時代ですから、照明はすべて松明提灯でした。

『信長公記』によると、安土城の天主および惣見寺にたくさんの提灯を吊るさせ、また、お馬廻り衆を新道に配置し、または入り江にを浮かべさせて、それぞれに松明を灯させたと伝えられます。

また、ルイス・フロイス『日本史』には、安土城周辺の家臣の屋敷はすべて火をたくことを禁じ、色とりどりの豪華な美しい提灯で上の天守を飾らせたとあります。

そのライトアップされた城が琵琶湖の水面に映り、言いようもなく美しかったと。

当時の人々にとっては、見たこともない幻想的な光景だったでしょうね。


e0158128_14403599.jpg


現代のそれは、LEDによって色とりどりに演出されています。

でも、安土城を見た当時の人々のような感動はないかなぁ・・・。


e0158128_14434683.jpg


坤櫓です。


e0158128_14434969.jpg


巽櫓です。


e0158128_14435304.jpg


今年で築城400年を迎えた明石城ですが、実は、約400年前の元和年間(1615~1624年)は、空前の築城ブームだったので、令和元年(2019年)の今現在、築城400年を迎えようとしている城、城跡は全国にたくさんあるんですね。

なので、いろんな場所でこれから数年間に築城400年事業が計画されているようです。

これを機に、築城400年めぐりをしてみるのもいいかもしれません。


e0158128_14450541.jpg


さて、これで本当にシリーズを終わります。

最後に、この日に押したものではありませんが、日本100名城のスタンプを載せます。


e0158128_14454193.jpg




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-07 01:30 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その9 <織田家長屋門・明石駅>

「その8」の続きです。

前回までで明石城内はすべて攻略しましたが、「その1」で紹介した中濠南西の西不明門(にしあけずもん)の南側に、古い屋敷門跡があります。


e0158128_14180594.jpg


この門は「織田家長屋門」といい、明石城築城当時から、歴代家老・重臣が住んでいた屋敷の門跡です。


e0158128_14180894.jpg


「織田家」「織田」は、あの織田信長の一族にあたる家系だそうで、代々明石藩家老を務めました。


e0158128_14181147.jpg


明石藩家老の織田家は、織田信長の叔父である犬山城主織田信康を祖とします。

信康は尾張統一を目指す甥の信長に領地を奪われ、信康の子・織田信清は信長に敵対して敗れますが、その子・津田(織田)信益は許されて信長に仕え、のちに豊臣秀吉に仕え、晩年は越前の結城秀康(徳川家康の次男)に仕えます。

信益の子・織田信勝は初代大野藩主の松平直良に仕え、その直良の子・松平直明が明石藩に移封となると、織田家も共に明石へ移り、以後、代々明石藩家老としてこの屋敷に居を構えていたそうです。


e0158128_14181841.jpg


長屋門は江戸時代から現存するもので、明石市の文化財に指定されています。


e0158128_14181449.jpg


もとは門の西側に棟割長屋4軒納屋2軒があったそうですが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失し、門のみが残ったそうです。


e0158128_14182105.jpg


門に使用されている太鼓鋲、蝶番、飾り金具などは室町時代の様式で、明石城築城時に破城となった船上城の門を移築したと伝えられています。

明石城が今年築城400年なら、この長屋門も築400年ということになりますね。


e0158128_14215823.jpg


さて、これで明石城をすべて制覇しましたので、帰路につきました。

写真はJR明石駅のホーム上からの北側の眺望です。

手前に見えるのが中濠その向こうに、本丸、二ノ丸、東ノ丸の高石垣が東西に長く伸びています。

以前は、本丸の櫓はここから見えていましたが、石垣は樹木に隠れてほとんど見えませんでした。

最近、その木が伐採されて、石垣が露出して見えるようになったんですね。


e0158128_14260893.jpg


左が坤櫓、右が巽櫓です。


e0158128_14280909.jpg


坤櫓にズーム。


e0158128_14281181.jpg


巽櫓にズーム。


e0158128_14292593.jpg


そして、こちらは二ノ丸と東ノ丸の高石垣です。


e0158128_14320505.jpg


さて、これで帰路についた私でしたが、ここを訪れたのは令和元年(2019年)6月1日だったのですが、ちょうどこの日から築城400年事業の一環で、夜に本丸の櫓がライトアップされるということを知りました。

せっかくなので、夜も見てみようじゃないかと思いたち、この日の夜、再び明石を訪れることにしました。

あと1回、「その10」に続きます。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-05 23:29 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)