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天誅組の足跡を訪ねて。 その21 「鷲家口古戦場~植村定七・山下佐吉(安田鉄蔵)戦死の地」

「その19」で紹介した出店坂の上にある吉野小学校の校舎沿いに、「天誅義士 植村定七先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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植村定七那須信吾を隊長とする決死隊6名の1人ですが、五條近在の人という以外、詳しいことはわかっていません。


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説明板によると、文久3年9月24日(1863年11月5日)夕方、決死隊が彦根藩陣所を攻め込むべく出店坂を駆け下りる際、この付近で彦根藩歩兵頭伊藤弥左衛門という人物を討ち取ったが、その後、間髪入れずに飛来した敵の銃弾によって、この付近で討ち死にしたそうです。

遺骸は小川の明治谷墓地に埋葬されています。

賀名の堀家に残されている天誅組隊士署名の中に「大和、上村貞心」とあるそうですが、これが植村定七の本名のようです。


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出店坂を下って少し北に歩くと、「天誅義士 山下佐吉先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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説明板によると、文久3年9月26日(1863年11月7日)夜、酒屋弥八郎宅前の明蔵に潜伏していた山下佐吉は、彦根の巡羅卒に発見され、この付近まで走って彦根勢に取り囲まれ、激戦の末に戦死したとあります。


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山下佐吉という人のこともよく知らないのですが、説明板には本名が安田鉄蔵とあり、元高取藩士と記されています。

高取藩といえば、「その15」で紹介した鳥ヶ峰天誅組と戦った敵方でしたが、天誅組のなかにも高取藩士がいたんですね。


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同じ説明版には、決死隊の那須信吾は碇屋前の彦根陣所を突破してここまで進んだとき、彦根藩の大館孫左衛門という人物に遭遇し、これを手だれの槍で討ち取ったとも記されています。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-31 23:56 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その20 「鷲家口古戦場~天保高殿・西田仁兵衛戦死の地」

「その19」で紹介した那須信吾戦死の地のすぐ近くの高見川沿いに、「天保高殿先生戦死之地・西田仁兵衛先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。

天保高殿は水戸藩脱藩浪士、西田仁兵衛は武蔵国出身の人物だったようですが、それ以上のことはよくわかりません。


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石碑は高見川沿いの堤防の上にあります。


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その横に建てられた説明板は、「その18」で紹介した出合橋跡を説明したもので、二人とは関係ありません。


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両士に関しての説明板は、道路を挟んで向かい側に設置されていました。


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説明板によると、これも「その18」で紹介した福屋彦根陣所を一蹴した天誅組の本隊は、直ちに出合橋を渡って鷲家口集落に突入するも、そのとき、主将の中山忠光の側近にいた天保と西田の2名が、この付近で敵弾に散ったと記されています。

中山忠光の側近にいた二人ですから、決して軽い身分の人物ではなかったのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-30 23:04 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(2)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第40話「バック・トゥー・ザ・フューチャー」 ~フジヤマのトビウオ・古橋廣之進~

 昭和19年(1944年)に開催されるはずだった第13回ロンドンオリンピックは、第二次世界大戦の真っただ中で中止となり、それが、第14回大会として昭和23年(1948年)に開催されることが決定していました。昭和11年(1936年)のベルリンオリンピック以来、12年ぶりのオリンピックです。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第40話「バック・トゥー・ザ・フューチャー」 ~フジヤマのトビウオ・古橋廣之進~_e0158128_17574863.jpg 戦後、田畑政治日本水泳連盟会長に就任し、また、日本体育協会常任理事にも就いていました。田畑の目指すところはひとえにオリンピックへの復帰。敗戦国となった日本も、何とかロンドンオリンピックに参加すべく模索しますが、戦時中に日本の各競技団体は国際競技連盟から除名されており、この除名処分の撤回を求めようにも、GHQの統治下にあった日本では、外国と交渉するにもすべてGHQを通さねばならず、事は思うように運びません。ならば、と、田畑は国際水泳連盟の除名が解けないままIOCに直接アプローチを仕掛け、IOCから招待状をもらえるよう働き掛けますが、IOC委員には日本に同情的な意見が多かったものの、日本の招待を強く拒絶したのが、ロンドンオリンピックの開催国であるイギリスだったそうです。IOCも開催国の国民感情を無視することは出来ず、結局、日本のロンドンオリンピック参加は実現しませんでした。やはり、嘉納治五郎が死に際まで訴えた「政治とスポーツは別」という理想は、ここでも受け入れられなかったんですね。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第40話「バック・トゥー・ザ・フューチャー」 ~フジヤマのトビウオ・古橋廣之進~_e0158128_14363507.jpg ならば、オリンピックに出られなかった日本代表選手の実力を見せつけてやろうと、田畑はロンドンの日程に合わせて日本選手権の決勝を開催します。戦前、世界最強とうたわれた日本競泳陣の実力は世界の知るところであり、否応なしに世界の注目を浴びる。ここでもし本場オリンピックの選手に勝てば、オリンピック金メダルの価値が下がり、国際水泳連盟も日本を無視できなくなる。なかなかの策士ぶりですね。ほとんど宣戦布告といっていいでしょう。そして、その田畑の狙いは見事にハマり、ロンドンオリンピックの400m自由形の金メダリストとなったアメリカウィリアム・スミスの優勝タイムが4分41秒0だったのに対し、日本選手権の同種目で優勝した古橋廣之進選手のタイムは、オリンピックのタイムより6秒以上も速い4分33秒4世界記録を更新します。また、古橋は1500m自由形でも、19分18秒5のオリンピック優勝タイムを遥かに上回る18分37秒0世界記録で優勝し、古橋と同じ日本大学の橋爪四郎選手も、18分37秒8の記録を叩き出しました。オリンピックに出ていれば、日の丸が金銀を独占したことになります。この結果は、ロイター通信によってロンドンにも即時に伝えられたとか。現地はドッチラケだったでしょうね。


 古橋廣之進選手はその後も世界記録を連発しましたが、これらの記録は日本が国際水泳連盟から除名されていたため公式な世界記録としては公認されませんでした。しかし、敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に「世界記録」を連発する古橋は、国民的ヒーローだったそうで、翌年に招待された全米選手権でも3種目で世界記録を更新する活躍を見せ、アメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyamaと称賛されたそうです。今回、その戦後のヒーロー・古橋廣之進を、平成のヒーロー・北島康介さんが演じておられましたね。驚きました。北島さんのクロール、初めて見ましたね。「チョー、気持ちいい」とは言いませんでしたが(笑)。


 田畑のはたらきや古橋、橋爪らの活躍もあってか、昭和24年(1949年)4月にローマで行われたIOC総会への出席が許され、同年6月には国際水泳連盟への復帰が許されました。その後、他の競技団体も次々に国際連盟への復帰が認められます。昭和26年(1951年)9月のサンフランシスコ講和条約で第二次世界大戦が正式に終結すると、日本は沖縄や一部の離島を除いてGHQの占領は終わり、日本の独立が回復します。そして、その翌年に開催された第15回ヘルシンキオリンピックに、日本は念願の復帰を果たしました。残念ながら古橋は、アスリートとしてのピークを過ぎていたことと、前年の南米遠征中に感染したアメーバ赤痢の後遺症が癒えず、思うような結果が残せませんでした。


 その後、昭和31年(1956年)の第16回メルボルンオリンピックを経て、物語は昭和34年(1959年)の東京オリンピック招致スピーチまで進みましたね。次週からは、昭和39年(1964年)の東京オリンピックまでの道のりが描かれる最終章に突入します。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-29 14:38 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その19 「鷲家口古戦場~那須信吾戦死の地」

文久3年9月24日(1863年11月5日)夕方、鷲家口手前で軍議を開いた天誅組残党一行は、敵陣に決死隊を斬り込ませて撹乱し、その隙に中山忠光ら本体が切り抜ける作戦を立てます。

その決死隊に志願したのは、那須信吾を隊長として、鍋島米之助、宍戸弥四郎、名所繁馬、植村定七、林豹吉郎の6名でした。


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那須は、もとは土佐勤皇党の一員で、あの吉田東洋暗殺の実行犯と言われる人物です。

彼らは、宝泉寺前の出店坂を駆け下って彦根藩脇本陣碇屋に斬り込みます。

上の写真は、その出店坂の上に建てられていた説明板です。


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これが出店坂。

ここを那須らが駆け下っていったそうです。


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坂の途中にも説明板があります。


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坂を下ったところにある民家に、「彦根藩・石原甚五左衛門陣所跡」と書かれた看板が設置されています。

ここに、那須らが斬り込んだ彦根藩脇本陣碇屋があったようです。


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その横の商店の前に、「天誅義士 那須信吾先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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もともと彼ら決死隊は、中山忠光ら本隊を逃がすために編成した隊でしたから、読んで字の如く「死ぬと決めた隊」であり、時を稼いで玉砕することが彼らの目的でした。

古来、死を決した戦士ほど強いものはありません。

彼らは壮烈な戦いを繰り広げ、彦根藩追討軍にも相当のダメージを与えたようです。

しかし、やがて6名全員が戦死します。


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那須信吾は身長180cm以上の巨漢で、武勇に優れた怪力の持ち主で、走ることにおいては馬より速いと噂され、「天狗様」と称されたといいます。

天狗が死を決して玉砕に臨んだわけですから、追討軍の兵たちは相当怖かったんじゃないでしょうか。


辞世

「君ゆゑえに 惜しからぬ身を ながらへて 今この時に逢ふぞうれしき」




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-25 13:24 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その18 「鷲家口古戦場~出合橋」

高取城攻めで大敗を喫し、天ノ辻本陣まで退却した天誅組でしたが、そこで、中山忠光吉村寅太郎らの意見が別れはじめます。

そこへ、幕府の命を受けた紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などによる総勢1万4000の討伐軍が進軍を開始し、さらに文久3年9月1日(1863年10月13日)には、追い打ちをかけるように朝廷からも天誅組追討の勅令が下されました。

つまり、天誅組は幕府、朝廷の両方から暴徒とみなされたわけです。


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もはや孤立無援となった天誅組は、それでも必死の抵抗を見せますが、多勢に無勢はいかんともしがたく、また、もともと戦意の乏しかった十津川郷士たちが離反し、14日には吉村らが守っていた天ノ辻本陣が奪われ、19日、ついに進退窮まった中山は、天誅組の解散を命じました。

天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出を試みますが、やがて重傷を負っていた吉村が一行から脱落し、24日、鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇し、激しい戦いとなります。

鷲家口の激戦地となった奈良県東吉野村には、その場所を示す石碑看板が数多く建てられています。


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村を流れる高見川に架かる出合橋です。

もちろん、当時は木の橋でしたが、ここを中山忠光率いる天誅組本体が進軍したと伝えられます。


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橋の欄干には天誅組のイメージ画を刻んだ鋳物が埋め込まれています。


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「維新のさきがけ天誅組」と書かれたも。


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橋から高見川を見下ろすと、川遊びをする家族連れが楽しそうにはしゃいでいます。

かつての激戦地も、いまは長閑な山里です。


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橋の少し北側には、「出合橋跡」と書かれた看板があります。

どうやら、当時の出合橋は今より少し北側にあったようです。


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出合橋を渡って西側にある東吉野村役場の一角には、「天誅組史跡(福屋)彦根藩 舟橋七郎右衛門陣所跡」と記された銘板があります。

ここに、中山忠光らが攻め込んだと伝えられます。


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鷲家口には他にもたくさんの激戦の跡が残されています。

次稿もその足跡を追います。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-23 21:02 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その17 「鳥ヶ峰古戦場」

「その15」で紹介した天ノ辻へ本陣を移した天誅組は、近隣の高取藩兵糧の提供を求めます。

この数日前、天誅組は五條代官所襲撃後すぐに高取藩に対して那須信吾らを恭順勧告の使者として送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきていました。

しかし、京の政局が変わるや否や、高取藩は態度を翻して兵糧の差し出しを拒否します。

そこで、天誅組は高取城の攻撃を決定。

文久3年8月25日(1863年10月7日)に進軍を開始しました。


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高取城は織豊時代から続く高取山山頂に築かれた堅牢な山城でしたが、江戸時代になると、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移されていました。

天誅組はここを襲撃すべく、中山忠光率いる本隊が高取に向かい、吉村寅太郎別働隊を率いて御所方面に進出して郡山藩に備えました。

この動きを察知した高取藩は、防備を固めます。


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8月26日、鳥ヶ峰で火蓋は切られました。

現在、その地には「鳥ヶ峰古戦場」と刻まれた石碑が建てられています。


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1000人ほどの天誅組に対して、2万5千石の小藩である高取藩の兵力は、わずか200人程だったといいます。

しかし、地の利を熟知していた高取藩兵は、ここ鳥ヶ峰の丘の上に大坂冬の陣で使用したと伝わる大砲「権現砲」四門を据えて、天誅組に向かって砲撃。

火力に劣る天誅組はたちまち大混乱に陥り、若き忠光にこれをまとめる力はなく、敗走して天ノ辻まで退却します。

その夜には、吉村寅太郎率いる別働隊が夜襲を試みますが、味方の誤射によって寅太郎が負傷し、結局なすところなく退却します。

やはり、結局は即席で集まった烏合の衆だったということですね。

この鳥ヶ峰の戦いは、司馬遼太郎の短編『おお、大砲』で描かれています。


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石碑の横には、戦いの様子が描かれた絵が紹介された説明看板があります。


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石碑の立つ高取の森の丘の上から南を見ると、高取城跡がある高取山が見渡せます。

この日は高取城跡にも足を運びました。

その登城記は別稿で紹介していますので、よければ一読ください。

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日本最大の山城、高取城登城記。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-22 21:33 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その16 「賀名生皇居跡(堀家住宅)」

櫻井寺本陣から天辻本陣に南下するちょうど中間地点あたりに、賀名生(あのう)という山里があるのですが、かつてここは、南北朝時代の一時期、南朝の行宮所が置かれた場所です。

現在、その場所は賀名生の里歴史公園として観光用に公園整備されています。


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延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山に潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。

そのとき、後醍醐天皇を手厚くもてなしたのが地元郷士の堀孫太郎信増という人物で、その後も、その縁で後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)はこの地に入られたときも、皇居となりました。


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この賀名生の里に、櫻井寺本陣から天辻本陣に移る途中の天誅組の面々が立ち寄ったと伝えられます。


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文久3年8月20日(1863年10月2日)に櫻井寺本陣から天辻本陣に移った天誅組は、その道中、かつて後醍醐天皇を手厚くもてなした堀孫太郎信増の子孫の邸に立ち寄ります。

地元出身の乾十郎らの手引きがあったのかもしれません。

現在、その堀家の屋敷が公園内に残っています。


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このとき、堀家で後醍醐天皇の遺品を見た吉村寅太郎は、そこが戦火に巻き込まれないようにと、「皇居」と書いた扁額を冠木門に掲げました。

それが、これ。


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墨の色がまったく色褪せてないやん!・・・と思ってしまいますが、実はこれはレプリカで、本物は隣の「賀名生の里歴史民俗資料館」に展示されています。


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資料館内は撮影禁止だったため実物の扁額の写真は撮れなかったのですが、博物館内で撮影OKだった観光マップの写真を見ると、写真左端になんとなく写りこんでいました。

これぐらいなら許していただけるでしょうか?


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屋敷はいまも「堀家」様の住居として使用されておられるそうで、見学には事前の申込みが必要だそうです。

この日は申込みをしていなかったので、外観の写真のみ。


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この日は日曜日だというのに、観光客はわたしひとりでした。

人里はなれた山里だし、天誅組とか南朝行宮とか、マニアックですからね。

ここは、以前の拙稿(太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」)でも紹介していますので、よければ一読ください。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-21 22:16 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その15 「天誅組天ノ辻本陣跡」

文久3年8月17日(1863年9月29日)に櫻井寺(別稿:その11)で五条新政府を立ち上げるも、その翌日に起きた「八月十八日の政変」により、わずか1日で逆賊となってしまった天誅組

京で天誅組追討の命が下されたことが明らかとなると、解散抗戦か協議のすえ、徹底抗戦の道を選びます。

もう、代官らを殺しちゃってましたからね。

いまさら後戻りは出来なかったのでしょう。

そして櫻井寺を後にした天誅組は、南下して要害堅固な天ノ辻本陣を移すことを決め、20日にこの地に入りました。

現在、本陣が布かれた場所は、維新歴史公園として整備されています。


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総裁の吉村寅太郎は、地元の医師・乾十郎とともに尊皇の志の厚いことで知られる十津川郷士募兵を働きかけ、960人の兵を集めました。

そして8月24日、その960人がこの地に集結したと伝えられます。


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しかし、その十津川郷士たちも、自ら臨んで来援した志士ばかりではなく、半ば脅迫されて強制的に集められた者たちも多かったため、戦意に乏しかったといいます。

しかも、休息も食事もなく戦闘に参加せられるなどの苛烈な指揮だったため、玉堀為之進ら数名の十津川郷士が天誅組幹部に抗議しますが、ここ天の辻で斬首されています。

こうなると、もはや義軍とはいえませんね。

天誅組は単なる暴徒と化していました。


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公園内には、「天誅組本陣遺趾」と刻まれた石碑が建てられています。


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こちらの説明碑は、新しいもののようです。


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ここ天誅組天辻本陣のあった場所は、地元の豪商であり有力者であった鶴屋治兵衛の屋敷がありました。

鶴屋治平衛は、天誅組の求めに応じて快く自宅を提供したと伝えられ、その結果、鶴屋も天誅組と運命をともにすることになります。

本当に快く協力したのか、あるいは、のちの明治政府がそういうことにしたのかはわかりません。

公園内には、「義烈 鶴屋治兵衛翁碑」と刻まれた石碑があります。

揮毫は公爵・三条公輝

元勲・三条実美の三男です。


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公園内には、天誅義士の歌碑がいくつかあります。

こちらは、天誅組記録方の伴林光平の歌碑です。


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伴林光平の歌碑がもうひとつありました。


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こちらは、武器取調方の野崎主計の歌碑です。

野崎は吉村と乾の誘いによって来援した十津川郷士です。


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誰の歌碑かわからないものもあります。


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8月26日、天誅組は高取城を攻撃しますが、高取藩兵の銃撃を受けてあえなく敗退

その日の夜に吉村ら決死隊が再び夜襲をかけましたが、これも失敗に終わり、天誅組は再びこの地に退却しました。

そして、9月14日、紀州藩・藤堂藩の追討軍が迫ってきたため、天誅組はここ天辻本陣に火を放って放棄し、その後、十津川村の武蔵、風屋、上野地などに本陣を転々と移すことになります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-19 11:55 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その14 「森田節齋宅跡・顕彰碑」

五條は、幕末の思想家・森田節齋の出身地です。

森田節齋は頼山陽に学び、頼三樹三郎梅田雲浜、宮部鼎造らと親しく交わり、その門下には吉田松陰久坂玄瑞がいました。

そして、同じ五條出身で天誅組の隊士となった乾十郎も、森田節齋に学びました。


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現在、市内の住宅地の一角に、「森田節齋宅跡」と刻まれた石碑があります。


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説明板です。

サビサビで一部読めません。


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石碑から500mほど北上したところには、森田節齋頌徳碑が建立されています。


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文久3年8月17日(1863年9月29日)、天誅組が五條の地で挙兵すると、京にいた節齋は中川宮朝彦親王へ上申するなどの援護運動をしたといいます。

その行動で幕府に目をつけられた節齋は、紀伊国に逃れて髪をおろし、愚庵と号して身を潜め、明治改元目前の慶応4年7月26日(1868年9月12日)、病でこの世を去ります。


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一説には、天誅組が五條で挙兵したのは、尊皇攘夷思想の指導者だった節齋の出身地であったことも理由のひとつだったと言われます。


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この頌徳碑は、明治42年(1909年)、勤皇の志士たちに多大な影響を与えた維新の功労者として節斎に従四位の位階が追贈され、それを記念して、義捐金を募って大正2年(1912年)に建てられたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-18 01:28 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その13 「井澤宜庵宅跡・墓所」

五條出身の天誅組隊士としては、「その12」で紹介した乾十郎のほかにも2人いましたが、そのなかのひとり井澤宜庵の住居あとにも石碑が建てられています。


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井澤宜庵は乾十郎と同じく、五條で医者をしていた人物です。

あまり有名な人ではありませんが、天誅組には軍医として参加していたそうです。

軍中では病傷人の面倒をよくみ、隊士の信頼も厚かったと伝わります。


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説明板によると、高取城攻めで負傷した吉村寅太郎の手当てもしたそうで、その丁寧な治療により、大将の中山忠光から褒美としてを贈られたといいます。


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近くの永楽院には、井澤宜庵の墓があります。


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説明板によると、天誅組が鎮圧された後、五條で津藩の軍勢に降伏して捕らえられ、五條の人々の働きかけによっていったん釈放されたそうですが、のちに今度は幕府の役人に捕らえられ、慶応元年(1865年)、乾が処刑された京都六角獄に投獄され、そこで毒殺されたそうです。

享年43

妻の禮以ととともにここに眠ります。


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五條代官所襲撃で殺害された代官の鈴木正信(源内)さらし首の絵が残っているそうですが、その絵を描いたのが井澤宜庵だったといいます。

明治31年(1898年)、政府は井澤宜庵に正五位を贈りました。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-17 01:46 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)