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天誅組の足跡を訪ねて。 その14 「森田節齋宅跡・顕彰碑」

五條は、幕末の思想家・森田節齋の出身地です。

森田節齋は頼山陽に学び、頼三樹三郎梅田雲浜、宮部鼎造らと親しく交わり、その門下には吉田松陰久坂玄瑞がいました。

そして、同じ五條出身で天誅組の隊士となった乾十郎も、森田節齋に学びました。


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現在、市内の住宅地の一角に、「森田節齋宅跡」と刻まれた石碑があります。


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説明板です。

サビサビで一部読めません。


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石碑から500mほど北上したところには、森田節齋頌徳碑が建立されています。


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文久3年8月17日(1863年9月29日)、天誅組が五條の地で挙兵すると、京にいた節齋は中川宮朝彦親王へ上申するなどの援護運動をしたといいます。

その行動で幕府に目をつけられた節齋は、紀伊国に逃れて髪をおろし、愚庵と号して身を潜め、明治改元目前の慶応4年7月26日(1868年9月12日)、病でこの世を去ります。


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一説には、天誅組が五條で挙兵したのは、尊皇攘夷思想の指導者だった節齋の出身地であったことも理由のひとつだったと言われます。


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この頌徳碑は、明治42年(1909年)、勤皇の志士たちに多大な影響を与えた維新の功労者として節斎に従四位の位階が追贈され、それを記念して、義捐金を募って大正2年(1912年)に建てられたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-18 01:28 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その13 「井澤宜庵宅跡・墓所」

五條出身の天誅組隊士としては、「その12」で紹介した乾十郎のほかにも2人いましたが、そのなかのひとり井澤宜庵の住居あとにも石碑が建てられています。


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井澤宜庵は乾十郎と同じく、五條で医者をしていた人物です。

あまり有名な人ではありませんが、天誅組には軍医として参加していたそうです。

軍中では病傷人の面倒をよくみ、隊士の信頼も厚かったと伝わります。


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説明板によると、高取城攻めで負傷した吉村寅太郎の手当てもしたそうで、その丁寧な治療により、大将の中山忠光から褒美としてを贈られたといいます。


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近くの永楽院には、井澤宜庵の墓があります。


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説明板によると、天誅組が鎮圧された後、五條で津藩の軍勢に降伏して捕らえられ、五條の人々の働きかけによっていったん釈放されたそうですが、のちに今度は幕府の役人に捕らえられ、慶応元年(1865年)、乾が処刑された京都六角獄に投獄され、そこで毒殺されたそうです。

享年43

妻の禮以ととともにここに眠ります。


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五條代官所襲撃で殺害された代官の鈴木正信(源内)さらし首の絵が残っているそうですが、その絵を描いたのが井澤宜庵だったといいます。

明治31年(1898年)、政府は井澤宜庵に正五位を贈りました。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-17 01:46 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第39話「懐かしの満州」 ~満州と終戦~

 今回は5代目古今亭志ん生が主人公の物語でしたね。昭和20年(1945年)5月6日、志ん生は同じ落語家の6代目三遊亭圓生や講釈師、漫才師らとともに慰問芸人として満州に渡航しました。昭和20年5月というと終戦の3ヵ月前で、この翌日の5月7日にはドイツが連合国に降伏し、枢軸国で残るのは日本だけとなります。連合軍が沖縄に上陸して沖縄戦が始まったのが前月の4月1日で、あのひめゆり学徒隊集団自決したのが翌月の6月。神風特攻隊による菊水一号作戦が始まったのが4月6日で、4月7日には戦艦大和が沈没しています。本土では、東京や大阪だけでなく全国各地の主要都市が空襲を受け始めたのもこの5月。3年8ヵ月続いた第二次世界大戦中、このラスト3、4ヵ月でおびただしい数の死者が出ました。そんな時期に、まだ兵隊さんの慰問活動なんてやってたんですね。


e0158128_18320298.jpg このとき古今亭志ん生55歳、三遊亭圓生は10歳下の45歳でした。満州に渡った彼らは満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会と契約を結び、各地で兵士たちを前に落語を演じながらまわったそうです。その契約は7月5日に終わり、そのまま日本へ帰る予定だったのですが、悪化する戦局のなか船便がなくなってしまい、やむなく、次の船が出るまで満州電電傘下の新京放送局の仕事を引き受け、慰問のため各地をまわることになります。このとき志ん生ら一行の引率を担当したのが、このころ新京放送局のアナウンサーをしていた当時32歳の森繁久彌だったそうです。森繁さんといえば、昭和を代表する大俳優で、たしか大河ドラマにも出演していたと思いますが、令和となったいま、もはや大河ドラマに出てくる歴史上の人物になっちゃいましたね。


 8月8日、ソ連が日ソ中立条約破棄して日本に宣戦布告し、満州に攻め込んできました。終戦の1週間前です。日本がポツダム宣言の受諾をもう少し早く決断していれば、のちの北方領土問題はなかったのに・・・といってもあとの祭り。愚かにも日ソ中立条約を根拠にソ連の仲介による和平工作を模索していた日本は、梯子を外されて四面楚歌となり、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を国民へ表明し、終戦を迎えました。志ん生たちが玉音放送を聞いたのは、大連だったそうです。その1週間後の8月22日にソ連軍が大連に進駐してくることになり、その前日、現地の日本人たちがお別れの会を開き、志ん生と圓生は頼まれて一席ずつ演じたそうです。ドラマでは皆、笑っていましたが、実際には、誰もくすりとも笑いはしなかったとか。まあ、そりゃそうでしょうね。


 ドラマでは志ん生らとともに行動していた小松勝がソ連の進駐軍に射殺されていましたが、実際、満州におけるソ連の進駐軍は日本本土のアメリカ進駐軍と違ってたちが悪く、歯向かう日本人は容赦なく殺され、降伏した日本人は捕虜としてシベリアや中央アジアなどの強制収容所に送られ、過酷な強制労働を強いられました。このシベリア抑留によって65万人以上の男性が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされ、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれます。ドラマで、若い女はみんな青酸カリで自殺したと言っていましたが、「敦化事件」のことでしょう。8月27日、ソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた工場の日本人女性社員が、青酸カリを飲んで集団自決した事件です。また、中華民国政府に協力した日本人約3000人が中国共産党に虐殺された「通化事件」も発生しました。


「沖ソ連軍が本格的に来てからはひでえもんだったよ。沖縄で米兵が・・・、もっと言やあ、日本人が中国でさんざっぱらやってきたことだが。」


 ビートたけしさん演じる晩年の志ん生が語った台詞ですが、まさしく、そのとおりでした。というと、また「売国奴」とか言って騒ぎ出す恥ずかしいやつらがいますが、戦争ってそんなものでしょう。悪いのは日本人でもロシア人でもアメリカ人でも中国人でもなく、戦争なんです。戦争が人を狂気にするんです。


 志ん生が大連でウォッカをあおって意識を失ったという話は実話だそうですね。ついにソ連軍が進駐してきたとき、志ん生は安く分けてもらったウォッカを6本も飲み干し、ぶっ倒れたそうです。後年、志ん生は「このとき自殺するつもりだった」と語っていたそうですが、志ん生を介抱した圓生は、「なあに嘘ですよ。(中略)ありゃあね、自殺するような、そんなヤワな人間じゃないですよ」と否定していたそうです。


 今回、主人公の金栗四三田畑政治がほとんど出てきませんでしたね。私はこれまで当ブログにおいて、主人公が出ない回かあってもいいんじゃないか、と度々発言してきました。主人公を無理やり歴史上の出来事に絡めて出そうとするから、話が嘘くさくなって面白くなくなる。大河ドラマが歴史ドラマである以上、その流れのなかで主人公が出てこない回があってもいいと思うし、そうすることで、物語により厚みが出るとわたしは思います。今回、それを見事にやってのけていて、それがまた素晴らしい出来映えでした。聞くところによると、もともと脚本家の宮藤官九郎さんが「満州の古今亭志ん生と戦争」を書きたくて着想したのがこの物語で、オリンピック噺は後付けだったとか。なるほど、だから志ん生が語り部だったんですね。その意味では、今回が志ん生の物語の着地点壮大な伏線の集大成の回だったといえるでしょう。まさに「神回」でした。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-14 18:32 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その12 「乾十郎宅跡・顕彰碑・墓所」

「その11」で紹介した櫻井寺の南側に、五條出身の天誅組隊士・乾十郎の住居がありました。

現在、その跡地には石碑が建てられています。


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乾十郎は4歳にして孟子を諳んじるほどの秀才だったといい、同じく五條出身の森田節斎儒学を、その弟の仁庵医学を、そして京に出て梅田雲浜国学を学びます。


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大坂に出て町医を開業した後、再び五條に戻って医者をする傍ら、吉野川に放流する材木に課せられる材木税不当として紀州藩に撤廃を談じ込み成功させたり、容認はされなかったものの、吉野川の水を大和平野に疎通させて灌漑設備を整えようと上書したりしています。


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現在は櫻井寺の南の大通りより一筋南の細い路地に石碑が建ちますが、当時は、櫻井寺の門前に住居があったそうで、挙兵前は五條代官所に近いこの地で代官所の様子を探り、挙兵後は櫻井寺に本陣を布く手筈を整えたといいます。


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近くには、乾十郎顕彰碑が建てられています。


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贈正五位乾十郎先生顕彰碑」と刻まれています。

乾は明治24年(1891年)に靖国に合祀され、明治31年(1898年)に正五位を贈られました。

天誅組隊士のほとんどが、明治に入って名誉回復となり、位階が贈られています。

でも、彼らのやったことは、所詮はテロリズム

幕府の役人というだけで何の罪のない代官を殺害し、それを「義挙」と言っているわけですからおかしな話です。

殺された鈴木正信(源内)たちのことを思えば、釈然としないものがあります。

明治政府の贈った位階というのは、自分たちが作った新政府を正当化するための道具に過ぎなかったというのが、よくわかりますね。


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顕彰碑裏面には、「獄中歌」と題して次の詩が刻まれています。


いましめの 縄は血汐に染まるとも あかき心は などかはるべき


いわゆる辞世の句ですね。

乾十郎の兄・乾竹次郎の孫である乾材三の揮毫で、碑は昭和12年(1939年)に建てられました。


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顕彰碑の前の石碑には、坂本龍馬勝海舟とも親交があったと書かれています。

これはあまり知られていませんが、いくつかの文献に出てくる話です。

文久3年6月2日(1863年7月17日)、土佐藩士で神戸海軍操練所の塾生だった廣井磐之助仇討を龍馬が助けますが、このとき見物人のなかに乾がいて、「助勢の士一同凱歌を唱。山号谷応じ、凄々愴々」と、その模様を伝えています。

また、同月11日、龍馬は勝海舟の使いとして乾のもとを訪ねていますが、伝わるところによると、陸奥陽之助(宗光)が水戸藩士兜惣助らに狙われている乾を救助してくれるよう龍馬に頼み、龍馬は乾を助けたといいます。

五條代官所襲撃2ヶ月前のこと。

せっかく龍馬に救ってもらった命を無駄に使っちゃいましたね。


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五條市岡口一丁目には、乾十郎の墓があります。


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司馬遼太郎の短編『五条陣屋』では、代官所の手代になり損ねて恨みを持っている狂人として描いています。

あるいは、多少そういう要素があったのかもしれません。


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天誅組壊滅のあと、乾は大阪に逃亡して潜伏していましたが、やがて捕縛されて京の六角獄(別稿:幕末京都逍遥 その90 「六角獄舎跡」)に投獄されます。

そして元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)によって起きた大火災によって京都の町は火の海となり、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙が、判決が出ていない状態のまま独断で囚人37名の処刑を断行しました。

そのなかには、乾を含む天誅組隊士16名が含まれていました。

獄舎で斬首された乾らの遺体は、西の京刑場にまとめて埋められ、その後、幕末のドサクサのなか忘れ去られていましたが、それから13年後の明治10年(1877年)、化芥所(ごみ処理施設)となっていた西の京刑場跡から姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された乾らの遺骨であることがわかり、あらためて京都の竹林寺に移葬されました(別稿:幕末京都逍遥 その92 「竹林寺」)。


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この墓がいつ建てられたものなのか、京都の竹林寺から分骨されたのか、そのへんの情報はわかりませんでした。

まあ、他の天誅組隊士たちも、複数の墓が存在する場合が多いですからね。

乾の墓は大阪市天王寺区の正念寺にもあるそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-12 00:46 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その11 「櫻井寺(天誅組本陣跡)」

文久3年8月17日(1863年9月29日)、天誅組隊士はいっせいに挙兵し、五條代官所を襲って代官の鈴木正信(源内)を殺害すると、ここ櫻井寺を本陣として五條新政府を号し、討幕の旗をあげました。


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現在、櫻井寺の入口には、「天誅組本陣跡」と刻まれた石碑が建てられています。


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明治100年を記念して建てられたもののようです。


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彼ら天誅組が五條で旗揚げしたのは、攘夷を望まれる孝明天皇大和行幸先鋒となり、御親兵として戦うためでした。

ところが、これに震え上がったのは当の孝明天皇。

自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない、討幕の先頭に立つなど滅相もない、と、京都守護職松平容保SOSを求めます。

そうして起こったのが、京の尊皇攘夷派が一掃された「八月十八日の政変」でした。


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彼らがここで旗揚げした翌日に京の政局は一変し、天皇の大和行幸の計画は頓挫します。

これにより天誅組は皇軍御先鋒の大義名分を失い、梯子を外されたかたちとなります。

つまり、天誅組は皇軍として旗揚げした翌日に「暴徒」となったんですね。


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境内には、代官・鈴木源内を殺害した後に首を洗ったと伝えられる水盤があります。


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さらに、本堂の下に置かれたこんなものを見つけました。


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旧本堂の柱だそうです。


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「天誅組 槍尻之傷跡」と書かれています。

追討軍との戦闘時の傷ということでしょうか?


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確かに、言われてみればそのようにも見えます。


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天誅組がここで立ち上げた五條新政府は、わずか3日間の命でしたが、このとき五條新政府は、この年の年貢を半減することを宣言したそうです。

高速道路無料化とか高校無償化など、財源を無視して民衆に耳あたりの良い公約を掲げて一時的に政権を担ったどこかの党と似ていますね。

結局は絵に描いた餅、政府と名乗るには稚拙な集団だったということでしょう。

そうか!平成の世間交代は、天誅組の変だったのか!!!

どうりで短命に終わったはずです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-11 07:29 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(2)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その10 「五條代官 鈴木源内墓所」

天誅組五條代官所襲撃によって殺害された代官・鈴木正信(源内)墓所が、五條代官所跡の石碑から北東200mほどのところにあります。


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墓は地元の人たちの墓地のなかにひっそりとあります。

その参道には、「鈴木源内外五士之墓」と刻まれた石碑があります。


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こちらがその墓です。


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文久3年8月17日(1863年9月29日)の五條代官所襲撃で殺されたのは、代官の鈴木源内をはじめ、役人の、長谷川岱祐、伊東敬吾、黒澤儀助、そして不運にもそこに居合わせた按摩師の嘉吉も巻き沿いになります。

また、後日、同じく役人の木村祐次郎、高橋勇蔵も落命します。

墓石は5基ですが、葬られているのは鈴木、長谷川、高橋、木村の4基と、伊東と黒澤が合祀された1基です。

嘉吉はここには葬られていません。


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代官の鈴木源内は700石の旗本で、前年に江戸から赴任してきたばかりでした。

温厚篤実な人物で、長寿の老人を表彰するなどして領民から慕われていたと伝わります。

幕府は、天領に対しては儒教風な善政主義をとり、代官を選任するときは、直参のなかから学識温で無欲な者を選びました。

由来、天領は大名への模範となる清廉な人物を任用したので、代官の中から汚職などの貪官汚吏が発生したことはほとんどなかったといいます。

いわゆる「悪代官」というのは、幕府直轄地にはほとんどいなかったようですね。

鈴木代官は、そういう幕府の考えを絵に描いたような代官で、善政への意欲が強く、殺される理由などどこにもありませんでした。


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中央のいちばん大きな墓石が鈴木源内の墓です。


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その左横が高橋勇蔵の墓。


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右横が長谷川泰助の墓。


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左出前が黒崎儀助伊東敬吾が合祀された墓。


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そして右手前が木村祐次郎の墓。

木村は、司馬遼太郎の短編『五条陣屋』で主人公のひとりとして描かれた人物です。

彼ら6人の首は、五条の須恵の道端に晒され、捨て札が立てられました。

捨て札に書かれた罰文は、司馬氏の『五条陣屋』のものを引用します。


「この者ども、近来違勅の幕府の意を受け、もっぱら有志(志士)の者を押えつけ、幕府を朝廷同様に心得、わずか三百年来の恩義を唱え、開闢以来の天恩を忘却し、これがため皇国を辱かしめ、夷荻の助けと成り侯事もわきまえず、かつ収斂の筋もすくなからず、罪重大、よって天誅を加える者也」


上記は司馬さんの創作ですが、おそらく似たようなものだったでしょう。

皇国を辱かしめたのは、どっちでしょうね。


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これらの墓は事件終息後、地元の人々が資金を出し合って建立したそうです。

幕府直轄地の役人だったという、ただそれだけで殺された5人。

維新後、天誅組の面々にことごとく位階が贈られ、靖国神社に祀られたのに対して、ひっそりと五條の領民たちとともに眠る6人。

いかに靖国神社というところが、維新後の薩長史観によって利用された偏った政治的神社であるかがわかりますね。

あんまり言うと炎上するので、このへんにしておきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-10 01:29 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第38話「長いお別れ」 ~東京オリンピック中止と第二次世界大戦~

e0158128_19143177.jpg 嘉納治五郎が命をかけて死守した昭和15年(1940年)の東京オリンピック開催でしたが、その嘉納が急逝すると、たちまちオリンピック開催反対論が息を吹き返します。日中戦争が激化するなか、昭和13年(1938年)4月に公布された国家総動員法によって、すべての物資が軍の統制下に置かれ、競技場並びに関連施設の建設がさらに難しい状況になります。また、諸外国からの日本に対する風当たりもますます強くなり、アメリカをはじめヨーロッパ各国から東京オリンピックボイコットの声が高まり始めました。こうなると、これまで東京開催を支持していたIOC会長ラトゥールも、ついに反対論に押され、日本に開催辞退を求めるようになります。これを受けて日本は、7月15日、正式に東京オリンピック中止を閣議決定し、翌日、組織委員会によって発表されました。嘉納の死からわずか2ヶ月後のことでした。


 「オリンピックの開催は、政治的な状況などの影響を受けるべきではない」


 嘉納が最後のIOC総会で訴えたオリンピック理念ですが、その理想は間違っていないにしても、それを実行するのは実質的には不可能で、それは、21世紀の現代でも変わっていません。国家規模で行われるイベントである以上、国はそれをガッツリ政治利用しようとします。百歩譲って平和親善のための政治利用はやむを得ないとしても、その逆は(たとえばボイコットとか)、やはりやるせないですね。何よりいちばん気の毒なのは、4年に一度の舞台にかけるアスリートたちです。


 その後、辞退した東京に代わってフィンランドヘルシンキ代替開催地となりますが、その翌年の昭和14年(1939年)9月3日、ドイツがポーランドに侵攻したことにより、イギリス、フランス両国が宣戦を布告。ここに第二次世界大戦が始まります。その煽りを受けて代替開催地のフィンランドにもソ連軍が侵攻する事態となり、結局、IOCは第12回オリンピック開催を断念します。欧米諸国もアジアも、世界中がスポーツどころじゃなくなっていました。


 そして国際的に孤立する日本は、東京オリンピックが開催されるはずだった昭和15年(1940年)、ドイツとの関係を強化するため、イタリアも加えた日独伊三国同盟を結びます。これにより、アメリカ、イギリスとの対立は決定的となり、翌年の対米戦開戦につながっていくんですね。それにしても、東京オリンピック招致のために立候補取り下げを談判したムッソリーニと、東京オリンピック招致を後押しした(とされる)ヒトラーとここに来て手を結ぶに至るとは、やはり、オリンピック招致運動は政治だということですね。


 ドラマでは第二次世界大戦はほとんど描かれないようで、一気に年月が過ぎていきました。まあ、物語の主題はオリンピックですから、それでいいんじゃないでしょうか。そして描かれたのは、昭和18年(1943年)10月の学徒出陣。戦局はいよいよ悪化し、その兵力不足を補うために在学中の高校生や大学生も徴兵されることになったわけですが、そのなかには、平時であればオリンピック代表選手になっていたであろう有名アスリートたちが多く含まれ、戦地へ送られました。そして、その出陣学徒壮行会が行われたのが、皮肉にも東京オリンピックが開催されるはずだった明治神宮外苑競技場だったんですね。ドラマの金栗四三の愛弟子・小松勝は架空の人物のようですが(たぶん、誰かモデルとなる人がいるのでしょうね)、彼のように、東京オリンピックに出るはずだった若者が、軍服を着てここを行進し、そして帰らぬ人となったケースがたくさんあったのでしょう。嘉納治五郎が平和の祭典を開催するために全精力を注いで建てた競技場が、一転してアスリートを死地に送り込む舞台となってしまった。これ以上の皮肉があるでしょうか。嘉納の無念極まりない嘆きが聞こえてきそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-07 21:27 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その9 「民俗資料館(五條代官所長屋門)」

「その8」で紹介した五條代官所跡のすぐ近くに、天誅組の史跡公園があります。

ここには、五條代官所の長屋門があり、民俗資料館として天誅組の史料などが展示されています。


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公園の入口には、「明治維新発祥の地」と書かれた大きな看板塔があります。

「発祥の地」とはちょっと言い過ぎの感はありますが、まあ、天誅組が倒幕の導火線にはなったかもしれません。


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ここにも、「さきがけの地」と書かれた説明駒札が。


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こちらの石碑にも、「明治維新発祥地」と刻まれた銘板が埋め込まれています。

どうしても、天誅組の変があったから明治維新が成ったということにしたいみたいです。


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石碑の裏側には、「明治100年記念事業として、旧代官所跡(現史跡公園)に建立」と記されています。


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公園内です。

向こうに見えるのが五條代官所の長屋門です。


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こちらの石碑は「天誅組一五〇年記念碑」とありますから、つい最近建てられたもののようですね。

手前の石板には、乾十郎、井澤宜庵、橋本若狭という五條出身の天誅義士3人の名が刻まれています。


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文久3年8月17日(1863年9月29日)に天誅組に襲撃されて焼き討ちされた五條代官所に代わり、翌年の元治元年(1864年)10月、この地に幕府が新たな代官所を立て直しました。

明治3年(1870年)、代官所は五條県発足の折りに五條県庁となり、その後、警察大屯所中学校などに利用されていたそうですが、明治10年(1877年)に五條区裁判所となり、現在に至っています。

裁判所の改築の際、正門である長屋門と広場を五條市が譲り受け、広場を史跡公園、長屋門を民俗資料館として整備されたそうです。


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つまり、この長屋門は天誅組襲撃時のときのものではないということですね。

天誅組義挙の翌年に建てられたものということです。


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長屋門は全長40mで、門脇に戸をつけ、その横に見張りのための出格子の窓をつけた番所がありました。


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長屋門の中は、天誅組資料館として古文書などの史料や天誅組史跡の写真パネルなどが展示されています。


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せっかくなので、吉村寅太郎のマグカップを購入しました。

坂本龍馬西郷隆盛などのグッズはいろんな観光地で売っていますが、吉村のマグカップは、ちょっとレアでしょう?(笑)

他にも藤本鉄石、松本奎堂のマグカップもありましたが、さすがにマニアックすぎて手が出ませんでした(笑)。

800円です。


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こちらは、長屋門下の石垣です。

なんか、城跡っぽくていいですね。


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現在はこうして五條市の観光誘致の顔となっている天誅組ですが、当時の五條の民衆にとっては、天誅組義挙というのはどのような事件だったのでしょうね。

観光案内の紹介文などでは、民衆は天誅組に協力的だったように書かれていましたが、果たしてそうだったでしょうか?

当時の幕府直轄地の民衆は、わりと恵まれた暮らしだったといいます。

五條の人たちにとっては、平穏な暮らしに突然襲いかかった暴徒でしかなかったんじゃないかと思うんですけどね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-04 02:03 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その8 「五条代官所跡」

文久3年8月17日(1863年9月29日)に五條に入った天誅組は、五條代官所を襲撃します。

現在、代官所のあった場所は五條市役所になっています。


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庁舎前の噴水池付近小庭園に、「五條代官所跡」と刻まれた石碑説明板があります。


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午後4時頃、代官所を包囲した天誅組は、代官の鈴木正信(源内)に降伏を要求。

ゲベール銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村寅太郎が率いる槍隊が裏門から突入しました。

突然の出来事に驚いた代官がこれを拒否するや、天誅組はすかさず武力で代官所を制圧。

代官所の人数は30人程で、意気軒昂な天誅組になす術もなく代官所方は敗北し、鈴木源内以下、5名が殺害されました。

その後、天誅組は代官所を焼き払います。


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なぜ天誅組が五條で旗揚げしたのかというと、天皇の行幸予定地である奈良に近かったことはもちろんですが、五條は幕府の直轄地であり、代官所の警備も手薄であったこと、古くから勤皇で知られた十津川郷が近く、いざというときには連携できるという思惑があったからでした。


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彼らがやったことは、どう考えても天誅とは言えず、単なるテロリズムでした。

妄信的尊皇攘夷を唱え、幕府の役人というだけで代官を殺害して首を晒し、やがて自滅していきます。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

天誅組をして「維新の魁」などと言う人がいますが、わたしは賛同できませんね。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-03 01:38 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その7 「岡八幡宮」

文久3年8月17日(1863年9月29日)、国境の千早峠を越えて大和国に入った天誅組一行は、昼過ぎ、五條北方にある岡八幡宮で休息しました。


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このとき天誅組は100人以上に膨れ上がっていたといいます。


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鳥居の横には、天誅組を紹介する看板が設置されていました。

馬上は主将の中山忠光

このとき若干19歳です。

この人の姉が明治天皇の生母なので、明治天皇の叔父にあたります。

薄化粧を施し、緋絨の鎧に鍬形を打った兜をつけ、馬に乗った忠光の姿を見た何も知らない地元民たちは、役者の顔見世かと思ったという伝承が残っているそうです。


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鳥居の奥には割拝殿があります。


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割拝殿の奥にも鳥居があり、その向こうに本殿があります。


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中央に祀られているのが品陀和気命、右が天照大神、左が春日大神です。

かなり傷んでいます。


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境内には、かつてあった御神木の切り株が屋根に守られて鎮座しています。


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説明板によると、御神木は本能寺の変があった天正10年(1582年)に植えられものと想定されていたそうですが、枯れてきたために昭和49年(1974年)に伐採したそうです。

かつては幹の直径が約2m、高さは30mに及ぶ巨木で、4m上で二又に別れ、地元では夫婦杉と称されてその威容を誇っていたそうです。

天誅組一行も、この巨木を見上げて勝利を誓ったかもしれません。


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切り株の根本に建てられた駒札にも、天誅組の説明が。


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こちらにも説明板があります。


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境内東側の広場です。

ここに一行が集結したのでしょうか?

天誅組の面々はここで隣の窪田家から湯茶の接待を受けたといわれています。


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北を見れば、金剛山が聳えます。

一行はあの千早峠を超えてやってきました。


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南には、五條の街が見下ろせます。

ひとときの休息を終えた天誅組一行は、陣形を整え、午後3時頃に代官所をめざして丘を駆け下って行きました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-02 00:13 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(2)