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天誅組の足跡を訪ねて。 その31 「天誅組終焉之地_吉村寅太郎の墓」

シリーズ最後です。

足を負傷したために一行から遅れていた吉村寅太郎は、傷が悪化して歩行困難となり、駕籠に乗せられて運ばれていましたが、文久3年9月27日(1863年11月8日)、津藩兵に発見されて射殺されました。

吉村の死によって、他の兵たちも相次いで戦死するか捕縛され、ここに天誅組は壊滅しました。


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現在、吉村が討死した鷲家谷には、「天誅組終焉之地」と刻まれた大きな石碑が建てられています。


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ここを訪れたのは、平成30年(2018年)11月18日。

このシリーズを始めて、ここだけはどうしても彼らが死んだときと同じ紅葉の季節に来たいと思い、気候を見ながら満を持して訪れました。


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でも、真っ赤という状態ではなかったですね。

紅葉はその年の気温の変化などで変わるそうですから、この年は真っ赤に染まる条件ではなかったのかもしれません。


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石碑の背後には鷲家川があり、向こう岸にわたる橋があります。

この橋の向こうに、吉村寅太郎原瘞處があります。

「原瘞(げんえい)」とは最初に埋めたお墓という意味です。


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鷲家川です。


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橋を渡ると、説明板があります。

その向こうに、広い空間が見えます。


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ここが吉村の原瘞處です。

説明板によると、吉村はこの大きな岩の裏手の下流30m左岸の山際にあった薪小屋に潜んでいたところを、津藩兵の金屋健吉によって銃殺されたといいます。


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吉村寅太郎は土佐勤皇党出身で、その後、党を離脱して脱藩し、福岡藩士の平野国臣、久留米藩士の真木和泉、庄内藩士の清河八郎など、他藩の過激な尊攘派と深く親交します。

文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)の際には、それに連座して捉えられ、土佐に引き渡されて8ヶ月間投獄されますが、やがて政情が尊攘派に有利になると釈放され、藩から自費遊学の許可を得て京へ上ります。

同年8月、孝明天皇大和行幸に合わせて天誅組を結成し、公家の中山忠光を連れ出して五條へ向かうんですね。

しかし、ほどなく政情が尊攘派に不利になると、一転して逆賊となったわけです。


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吉村の遺体は村人の手によってこの岩の根元に埋葬され、土方直行筆によって墓碑が建てられましたが、明治29年(1896年)に「その26」で紹介した明治谷墓所改葬されたあとは、この碑は原瘞の碑として吉村を偲ぶ記念碑となっています。


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吉野山 風に乱るる もみじ葉は 

わが打つ太刀の 血煙と見よ


吉村の辞世です。

わたしは、幕末の志士たちの辞世の句のなかで、この吉村の歌がいちばん心に響きます。

なんという凄まじい辞世でしょう。

この歌の情景を知りたくて、わたしは紅葉の季節にここを訪れたかったんです。


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吉村の太刀の血煙です。


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天誅組のメンバーに吉村をはじめ土佐藩出身の志士たちが最も多かったのは、そのお国事情にあったといっていいでしょう。

幕末の土佐藩の事情は複雑でした。

いわゆる「郷士」と呼ばれる下級武士たちは熱心な尊皇攘夷運動の奔走しながらも、藩そのものは佐幕でした。

そのあたりが、長州藩の松下村塾系の若者や、薩摩藩の誠忠組の面々たちとは決定的に違ったところだったでしょう。

そんななか、あくまで一藩勤皇を目指した土佐勤皇党の首魁・武市半平太(瑞山)らは、結局は藩によって処刑され、藩に頼らず脱藩して奔走した吉村ら浪士たちも、そのほとんどが維新を見ることなく非業の死を遂げます。

彼ら土佐系の脱藩浪士たちが志を訴えるには、このような過激な道しか思いつかなかったのでしょうね。


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とはいえ、彼らがやったことは、どう考えても義挙とは言えず、単なるテロリズムでした。

義挙ではなく暴挙だったとわたしは思います。

妄信的に尊皇攘夷を唱え、幕府の役人というだけで何の罪もない代官を殺害して首を晒し、五條や吉野の民衆をも巻き込み、やがて自滅していった。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

天誅組をして「維新の魁」などと言う人がいますが、わたしは賛同できませんね。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。


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幕末の一流の志士たちのとっては、「尊皇攘夷」富国強兵の術であり、倒幕の手段にすぎませんでした。

だから、明治維新が成立するや否や新政府は「攘夷」を捨て、「尊皇」は、新政府の公約だったため一応は形だけ残しましたが、後年の帝国主義の天皇制とは違って、多分に形式的なお飾りでした。

天皇は尊ぶべき存在ではあっても担ぐべき存在ではないことを、一流の志士たちはちゃんとわかっていたんですね。

ところが、二流以下の志士たちは、これをほとんど宗教のように信じ、狂気と化していった。

司馬遼太郎さんは海音寺潮五郎さんとの対談形式の著書のなかで、そんな尊攘志士たちを神道的な国粋主義者と定義し、次のように述べています。


「国粋主義者というのは、つきつめてしまえばロマンティシズムであり、それに多少の評価を与えるとすれば、これは美学であって、とてもとても政治の救済にはならないし、その方策もなにも持っていない。もっていないだけにその信奉者の心情は常に悲痛で、発するところ、必ず暴発といった行動になる。」


まさしく、天誅組のこと評しているかの記述です。


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また、同じく海音寺さんとの対談のなかで、司馬さんはこうも述べています。


「幕末維新の諸事件の中で、天誅組がいちばんおろかしい感じがします。」


手厳しいですが、わたしもそう思います。


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天誅組の変は、幕府が倒れて明治に元号が変わる5年前の出来事でした。

もう少し大局を観て待っていれば、もっと違った歴史上の役割が彼らにもあったかもしれませんが、一見、犬死にのように思える彼らの屍のひとつひとつの積み重ねの上に維新が成立したとするならば、彼らがここで死んだことも、歴史上のひとつの役割だったのかもしれません。

その意味では、天誅組の暴挙は、歴史の必然だったのかもしれませんね。


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気がつけば「その31」まで続きました。

この稿にて、「天誅組の足跡を訪ねて。」のシリーズを終わります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-16 00:38 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その30 「龍泉寺(天誅組菩提寺)」

鷲家にある禅寺・龍泉寺は、天誅組の菩提寺となっています。

「その25」で紹介した鷲家口の宝泉寺も天誅組の菩提寺でしたが、あちらは「その26」で紹介した明治谷墓所に眠る天誅組隊士9名の菩提寺で、ここ龍泉寺は「その29」で紹介した湯ノ谷墓所に眠る6名の天誅組隊士の菩提寺です。


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石碑には、「天誅組志士菩提寺」と刻まれています。


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ここを訪れたのは、平成30年(2018年)11月18日。

天誅組隊士が死んでいったときと同じ紅葉の季節でした。


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こちらには、天誅組総裁のひとり・藤本鉄石辞世が刻まれた石碑があります。


雲をふみ 岩をさくみし もののふの

よろひの袖に 紅葉かつちる


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血に染まったように赤い紅葉です。


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境内です。


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龍泉寺は元亀元年(1558年)に開創された曹洞宗のお寺で、本尊の聖観音は野見観音

呼ばれ、首から上の病にご利益があるといわれています。


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ここ龍泉寺の墓地には、藤本鉄石に討たれた紀州藩銃撃隊の的場喜一郎の墓があるそうですが、どこにあるかわかりませんでした。

宝泉寺にも、天誅組隊士とともに敵方の彦根藩士の戦死者も弔っていましたが、ここも同じく討った藤本鉄石と討たれた的場喜一郎の両方の菩提を弔っています。

仏さんに敵も味方もない、ということでしょうね。


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彼らも、この美しい紅葉を見ながら死んでいったのでしょう。

次回、シリーズ最後です。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-14 23:55 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その29 「天誅義士湯ノ谷墓所」

鷲家には「天誅義士湯ノ谷墓所」があります。

ここも、「その26」で紹介した明治谷墓所と同じく天誅組隊士たちが葬られています。


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伊勢街道沿いに「天誅義士墓所」と刻まれた石碑が建てられています。


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この石碑は比較的新しいもののようです。


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柵を開けてなかに入ると、このあたりの集落の墓地があり、墓地内に「天誅義士湯ノ谷墓所」と書かれた案内板が。


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墓地のいちばん奥の一角に、特別な場所といった雰囲気の古い玉垣に囲われたスペースが見えます。


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手前の石灯籠は、天誅義士百二十年祭のときに作られたもののようです。


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錆びた古い看板、読めません。


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明治谷墓所には、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で討死した隊士が葬られていましたが、ここ湯ノ谷墓所は、その翌日以降に落命した隊士が眠っています。


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ここに眠っているのは、松本奎堂、村上萬吉、藤本鉄石、福浦元吉、森下幾馬、森下儀之助の6名。

もっとも、そのうち森下儀之助は翌年の京都六角獄舎にて刑死したため、遺骸はここに葬られてはいないのですが、弟の幾馬がこの墓地に眠っているので、地元の人々の気持ちで兄の墓石も建てられたそうです。


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なので、こちらの案内板には、儀之助の名前が載っていません。


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左から、「その24」で紹介した森下儀之助、森下幾馬「その28」で落命した松本奎堂「その27」で討死した藤本鉄石の墓石です。


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こちらは、一番右がひとつ前の写真と同じ森下儀之助で、その横が藤本鉄石とともに討ち死にした福浦元吉、いちばん左が松本奎堂とともに落命した村上萬吉ですが、その右側の「藤本眞金君墓」という墓石が、誰のことかわかりませんでした。

上の看板にも載ってなかったですし、隊士なんでしょうか?


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玉垣の外には「天誅組烈士ノ碑」と刻まれた小さな石碑もあります。


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こちらは漢詩の石碑です。


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ここ湯ノ谷墓所も、明治谷墓所と同じく明治27年(1894年)に整備されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-13 23:59 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その28 「松本奎堂戦死之地」

「その27」の最後に紹介した藤本鉄石が紀州藩撃ち方の的場喜一郎を討ち取ったという場所は、現在、天誅組史跡公園となっており、藤本とともに天誅組三総裁のひとりだった松本奎堂戦死の地を示す石碑が建てられています。


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文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で、決死隊が囮となって壮絶な死を遂げていた隙きに、松本奎堂は藤本鉄石堂とともに敵中突破に成功し、丹生川上神社から高見川に沿って木津川、伊豆尾笠松に上り、夜半、庄屋の松本清兵衛宅で休息をとります。

松本奎堂はもともと隻眼だったのですが、天誅組の挙兵後、十津川の陣中で両眼を失明してしまい、そのため、駕篭での移動を余儀なくされていました。

翌25日昼過ぎ清兵衛の案内で出発し、萩原の御殿越峠の頂上まで来たとき、紀州兵の銃声が聞こえ、驚いた駕篭かきが逃げ出してしまい、駕篭もろとも放置された奎堂は、発見されて銃殺されたといいます。


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道路沿いに「天誅義士戦死の地」と刻まれた大きな石碑があります。


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「至従是 天誅義士 松本奎堂先生戦死之地」と刻まれています。


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その横にある小さな石碑には、「松本奎堂先生従者 天誅組志士 村上萬吉戦死之地」と刻まれています。

従者の村上萬吉も、松本奎堂とともに銃撃されました。


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漢文の石板です。


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説明板です。


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その横にある石碑には、「松本奎堂先生墓所これより900m」と刻まれています。

ええ?

ここじゃないの?


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この日は小雨の降る天気だったので迷ったのですが、意を決して1kmの登山に挑みました。


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ガッツリ登山です。


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残り1000mの標識が。

増えてるし!


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残り800m。


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しばらくすると、道がなくなってどうにも進める状況ではなくなりました。

どうも、山道がちゃんと整備されていないようです。

天気も悪いし足元もぬかるんでるし、登山はここで断念


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なんとか車で頂上まで行けないものかと検索してみると、車道に誘導看板があったのでしばらく走らせてみると、それらしき看板が現れました。


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でも、その横には、やはり「松本奎堂先生墓所これより900m」の石碑が。

どうやら山の反対側に来ただけだったみたいです。


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ここからは、こんな道になり、軽自動車だったらあるいは行けたかもしれませんが、わたしの愛車プリウスαでは、とても無理な道幅でした。

このあたりに車を停めるスペースもなく、結局断念することにしました。


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松本奎堂は三河国刈谷藩出身の人物で、「その22」で討死した宍戸弥四郎とは竹馬の友だったといいます。

刈谷藩は小藩ながら譜代大名で、宍戸と松本は、譜代藩出身の勤皇志士という異色の経歴の持ち主でした。

特に松本は、藩より選ばれて昌平坂学問所に学び、舎長(塾頭)まで勤めたエリートであり、そのまま藩にいれば将来は安泰だったはずで、そういった意味でも、他の天誅組志士たちの経歴と比べて異質な存在でした。

あるいは、いちばん志の高い人物だったかもしれません。


辞世

「君が為め みまかりにきと 世の人に 語りつきてよ 峰の松風」





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by sakanoueno-kumo | 2019-11-12 23:43 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第42話「東京流れ者」 ~代々木ワシントンハイツ返還~

 昭和39年(1964年)の東京オリンピックメインスタジアムは昭和33年(1958年)にアジア大会が開催された国立霞ヶ丘陸上競技場に決まり、スタンドを増設するなどの改修工事が進められようとしていました。皇居北の丸に柔道競技場となる日本武道館の建設が決定したのも、ちょうどこの頃でした。その他の競技施設の建設や道路の整備など、着々と開発が進められ始めていた東京でしたが、そんななか、最も難航していたのが選手村の候補地でした。


e0158128_17574863.jpg 当初、選手村は埼玉県朝霞にあった米軍基地のキャンプ・ドレイク(現在の陸上自衛隊朝霞駐屯地)をアメリカから返還してもらい、そこに選手村を建設する計画でした。ところが、これに反発したのがまーちゃんこと田畑政治でした。理由はいたって明瞭、朝霞では都心にある各競技場までの距離が遠すぎるということ。そこで候補地として田畑が目をつけたのが、代々木のワシントンハイツでした。ワシントンハイツは明治神宮に隣接する92.4万平米の広大な敷地で、そこに在日米軍の兵舎をはじめ、米兵の家族住宅、学校、教会、劇場まである居留地で、いわば「日本の中のアメリカ」といった場所でした。戦前は日本陸軍の練兵場だったところで、昭和15年(1940年)の幻の東京オリンピックの際にも、施設建設地として候補にあがっていた場所でした。都心部でこれだけ広い面積を確保できる場所は他にはなく、メインスタジアムにも徒歩で行ける距離。これほど好条件の場所は他にない、というのが田畑の意見でした。


 もっとも、田畑に言われるまでもなく、ワシントンハイツが最良の場所であることぐらいは誰もがわかっていました。しかし、候補地にあがらなかったのは、アメリカが簡単に手放すはずがないと思い込んでいたからだったようです。ところが、まーちゃんは諦めなかったんですね。その根気が功を奏したのか、突如アメリカ側が軟化し、ワシントンハイツの返還を条件付きで了承します。その条件とは、移転費用(60億円とも80億円とも)はすべて日本政府が負担し、移転先も日本政府が用意するというものでした。この条件に難色を示す池田勇人首相を田畑は説得し(その説得の材料が、ドラマで描かれていたようにNHK放送局の建設とカラーテレビの普及による経済効果だったかどうかはわかりませんが)、昭和36年(1961年)10月、ワシントンハイツへの選手村建設が決定します。


 ドラマでは、平沢和重日米安全保障条約が日本国民の反感を買っていることを利用し、ワシントンハイツ返還のメリットを突きつけて交渉を進めましたが、実際、アメリカが返還に応じた背景には、前年に盛り上がった日米安保闘争があったと見て良さそうです。岸信介総理が新安保条約締結を機に、また日本を戦争に導いていくのではないかと、若者を中心に反政府感情が高ぶっていたこの時期。そんな機運のなか、日本のGHQ統治は昭和27年(1952年)にとっくに終わっているのに、未だ東京の中心部に高い塀で囲われた「日本の中のアメリカ」が存在することに、国民の反感は増長していました。アメリカとしては、できればその反米感情を鎮めたい。それには、ワシントンハイツ返還は格好の手段だったのでしょうね。やはり、オリンピックは政治とは切っても切り離せません。ともあれ、そのおかげで代々木が日本に戻ってきたのだから、結果オーライだったんじゃないでしょうか。


 ちなみに、タクシー運転手の森西栄一「聖火リレーコース踏査隊」となった話、実話だそうですね。たまたま森西のタクシーに丹下健三亀倉雄策が乗り合わせ、そこで聖火リレーコース踏査隊の話を聞き、その役目を自分にやらせてくれとアピールしたというのも本当の話だそうです。てっきりドラマのオリジナルだと思って観ていました。世の中、面白い人がいるもんです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-11 20:22 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その27 「鷲家古戦場~藤本鉄石 福浦元吉 戦死之地」

鷲家口の激戦地から3kmほど北上した鷲家にも、天誅組史跡が残されています。

まずは、幕府より命を受けて追討軍として出陣した津藩の陣所跡です。


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古い家屋の2階部分に看板が見えます。


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「天誅組史跡(油屋) 藤堂藩陣所跡」と記されています。

藤堂藩とは津藩のこと。

津藩の追討軍は、かつてここにあった油屋に陣を布き、天誅組の行く手を阻みました。


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家屋の横の植え込みには、「藤堂藩本陣跡」と刻まれた石碑が。


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そのすぐ側には、文政11年(1828年)建立と記された伊勢街道の道標があり、その上には常夜灯が設置されています。

ここ鷲家村は、江戸時代は紀州藩領で、伊勢南街道と佐倉峠を通って宇陀に出る道の交差点にあたり、かつては交通の要所として宿屋や店がいくつか軒を並べ賑わう場所だったそうです。

つまり、この道標は、天誅組の変のときもあったということですね。


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道路を挟んでその斜め向かいの郵便局の前には、「紀州藩本陣跡」と刻まれた石碑看板があります。


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石碑です。


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看板には、「大庄屋辻四郎三郎屋敷 紀州藩家老 天誅組追討軍総督山高左近 本陣跡」とあります。


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その近くには、「紀州藩軍役方頭取 金沢弥右衛門 陣所跡」と書かれた看板があり、その下には、「藤本鉄石 福浦元吉 戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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藤本鉄石天誅組三総裁のひとり、福浦元吉はその従者でした。


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文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で、決死隊が囮となって壮絶な死を遂げていた隙きに、藤本はもうひとりの総裁・松本奎堂とともに敵中突破に成功します。

しかし、翌日の25日に松本とはぐれ、ここ鷲家の中心部から東へ約1kmの岩本谷という所に出ました。

そこで、紀州藩銃撃隊の的場喜一郎狙撃を受けますが、命中せず、肉迫して的場を討ち取りました。

しかし、そこで、もはや逃げられないと観念したのか、あるいは、仲間を残して自身だけ逃げるのを潔しとしなかったのか、伊勢街道を東へ逃れる計画を断念し、西の敵陣まで引き返し、ここ紀州藩の陣所に猛烈に斬り込みました。

不意をつかれた紀州藩軍は大混乱に陥りましたが、数十人いたという紀州兵に対して、こちらは藤本と福浦の2名

結局は多勢に無勢で壮絶な討死を遂げます。


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ここから東へ約1kmの岩本谷には、的場喜一郎を討ち取ったことを説明する看板がありました。


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藤本は死の前日、昼食のもてなしを受けた武木の庄屋大西家で、その好意に謝意を込めた辞世ともとれる和歌三首を短冊に記しました。


大君の 御たゝむきさす あむ置きて あきつはなきか 秋のみ空に

八咫(やた)からす 導けよかし 大君の 事しいそしむ 御軍(みいくさ)のため

雲をふみ 岩をさくみし もののふの よろひの袖に 紅葉かつちる



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-09 23:49 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その26 「天誅義士明治谷墓所」

「その25」で紹介した宝泉寺から南東に200mほど歩いたところにある墓地に、宝泉寺で菩提を弔われていた天誅組隊士たちの墓があります。


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墓所入口には、「天誅義士墓所」と刻まれた石碑が建てられています。

その横には石灯籠と「天誅義士明治谷墓所」と書かれた看板が。


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石碑です。


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天誅組隊士の墓所は何か所かありますが、ここに葬られている天誅組隊士の名簿です。

吉村寅太郎以外は、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で最期を遂げた隊士たちですね。


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この階段を上ったところに墓所があります。

なかなかハードです。


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この石碑は古そうです。


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途中、歌碑のようなものがあったのですが、古くて読解できません。


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たどり着きました。

石垣が城跡のようです。


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墓所です。


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鉄柵の門扉と玉垣で守られています。


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向かって左から、「その20」で討死した西田仁兵衛の墓です。


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同じく「その20」で討死した天保高殿の墓です。


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こちらは「その21」で討死した山下佐吉(安田鉄蔵)の墓。


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同じく「その21」で討死した植村定七の墓。

墓石には「定七郎」と刻まれています。


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こちらは「その23」で討死した林豹吉郎の墓。

贈正五位」とあります。


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「その24」で討ち死にした鍋島米之助の墓。

こちらも贈正五位」とあります。


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「その22」で紹介した宍戸弥四郎の墓。

ひとつ位階が上がって贈従四位」とあります。


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こちらは「その19」で討死した決死隊隊長の那須信吾の墓。

宍戸と同じく贈従四位」とあります。


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そして、いちばん右端には天誅組総裁吉村寅太郎の墓が。

総裁ということもあって、贈正四位」とあります。

この中で吉村だけは鳥ヶ峰の戦いで負傷していたため本隊と逸れ、鷲家口の決戦には参戦できませんでした。

吉村はその3日後に鷲家谷付近で落命します。

その場所にも吉村の墓がありますが、明治29年(1896年)にここへ改葬されたそうです。


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全員、現在の墓石の裏側に旧墓石があったのですが、吉村の旧墓石だけ、外から見える場所に設置されていました。

この碑は吉村の死後、間もなく建てられたものだそうですが、参拝をしてお願いをすればたいへん御利益があるという噂が広まり、一時は大勢の人々でにぎわったそうです。

ところが、この話が鈴木源内の後任の五条代官・中村官兵衛の耳に入り、「賊徒の墓に参拝するとはけしからん」と、この碑を川の下へ投げ落としたそうです。

墓碑の角が取れてこのように丸くなっているのは、このときのことだそうです。

このことは、古文書で次のように記されています。


「此にて天誅組の内、主たる人、吉村寅太郎様戦死。土民浪士の石碑を刻み其の土地に葬りけり。然るにその後、近村近国より参詣人多数、追々益々群集致し、天誅組吉村大神儀として、様々の立願相込め、御利益之存り候より、誠に追々参詣人群集致し候故、其の御支配御役所より差し止め候処、なかなか百姓共、聞き入れ申さず、益々参詣人弥増、不思議なる次第、可恐々」


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その横には、「夫仲吉村内分」と刻まれた墓碑があります。

ネットで調べてみると、建碑者不明の墓碑だそうですが、吉村寅太郎の妻が世を憚って変名彫刻したものであろうと伝えられているそうです。


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こちらの古い碑は、「天誅義士那須信吾・・・」と書かれているように見えますが、後半が読解不能です。


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明治22年(1889)に那須信吾の息子、那須重宗が墓参に訪れ、信吾の墓碑を建碑したそうです。

その後、明治27年(1894年)に全員の墓碑が新しく建碑され、大正元年(1912年)に石柵が設置されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-08 23:14 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その25 「宝泉寺(天誅組菩提寺)・天誅義士記念碑」

東吉野村の丘の上にある宝泉寺は、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦における戦死者の菩提寺です。


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宝泉寺は「その19」で紹介した出店坂の上にあります。

那須信吾決死隊は、この前を通って出店坂を駆け下り、彦根藩脇本陣碇屋に斬り込みました。


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ここで菩提を弔われている戦死者たちです。

吉村寅太郎以外は、「その19」から「その24」までで紹介した鷲家口の決戦で最期を遂げた隊士たちですが、注目すべきは、敵方である彦根藩士大館孫左衛門伊藤弥左衛門の二人も祀られているということ。

お寺にとっては、敵も味方もなく、この地で落命した侍たちを分け隔てなく手厚く葬り、弔ったということですね。

宗教のあるべき姿だと思います。

毎年、大臣が公式参拝するやしないやで物議を醸す有名な神社のように、どちらか一方だけを「忠臣」とか「英霊」とか聞こえの良い美談にすり替えて祀っているのとは、えらい違いです。


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本堂です。


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本堂には、「天誅義士 彦野藩士 菩提祠堂・・・」と書かれた木札が掲げられています(後半が消えかけてて、なんて描いてあるかわかりませんでした)。


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ここ宝泉寺は、鷲家口の決戦のとき、天誅組を迎え撃つ彦根勢が篝火の代わりに寺を焼こうとしたのを、当時の和尚が阻止したという逸話が残されています。

どのように抵抗したのでしょうね。


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寺の門前には、「天誅義士記念碑」が建てられています。


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この記念碑は大正2年(1913年)に作られましたが、しかし、寄付金を募って記念碑の建立や墓地の整備を行ったため、この地に建立までに歳月を要し、記念碑の除幕式は、大正9年(1919年)11月5日に行われました。

揮毫は伯爵・土方久元

土方は土佐勤皇党出身で、あの坂本龍馬中岡慎太郎とともに薩長同盟の締結に尽力した人ですね。

おそらく、吉村寅太郎とも面識があったでしょう。


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宝泉寺では、いまも毎年11月5日に天誅祭が法要されているそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-07 16:38 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その24 「鷲家口古戦場~鍋島米之助・森下幾馬戦死の地・島村省吾捕縛地」

鷲家口古戦場から伊勢街道を1kmほど北上したところに、「天誅義士 鍋島米之助先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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鍋島米之助は、文久3年9月24日(1863年11月5日)、那須信吾を隊長とした決死隊6名のうちのひとりです。

彼らは中山忠光率いる天誅組本隊を逃がすための捨て石として、彦根藩陣所に斬り込みました。


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説明板によると、敵弾を受けて負傷した鍋島は敵陣を突破してこのあたり「一ノ谷」まで進み、農家の納屋に潜んでいたところを翌朝発見されて密告され、駆けつけた藤堂藩の銃撃隊狙撃されてあえない最期を遂げたといいます。


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鍋島は土佐藩出身の郷士でした。

文久2年(1862)、脱藩して京都に入り、諸藩の志士と交わって尊皇攘夷運動に奔走し、やがて天誅組に加わります。

若い土佐藩の志士たちにとって、吉村寅太郎那須信吾ら歴戦の志士たちは憧れだったのでしょうね。


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鍋島米之助戦死の地碑のすぐ側には、別の説明板と誘導板がありました。

まず、説明板を見てみます。


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文久3年9月26日(1863年11月7日)、天誅組の森下儀之助、森下幾馬、山下佐吉、山崎吉之助の4名は、負傷して本隊と逸れていた吉村寅太郎の命を受けて、中山忠光率いる本隊のその後の様子を確認するため鷲家口までやってきますが、そのうち森下兄弟がこの谷を登り、頂上近くの紀伊街道(赤谷口)についたとき、なぜか兄の儀之助はに進み、弟の幾馬はに進みました。

左に進んだ兄は無事脱出できましたが、右を進んだ弟は、折から山狩中だった藤堂藩士西荘源左衛門の隊に遭遇し、その銃弾で戦死しました。


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その横にある誘導板は、島村省吾捕縛地に向かう標識です。

島村は土佐藩士で、天誅組では最年少の19歳でした。

鷲家口の決戦において、中山忠光の本隊とともに鷲家口を切り抜けましたが、かなりの深傷を負っていたため、このあたり「一ノ谷」の柴小屋で傷の養生をしていましたが、25日昼過ぎ紀州藩に捕えられました。

そのとき省吾は刀一本一両のほかは何も持っていなかったといいます。

のちに京都に送られ、文久4年2月16日(1864年3月23日)、京都の六角獄舎斬首されました。


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捕縛地はここから歩いて20分ほどと書かれていましたが、こんな山道を歩かなければならず、この日は天気も悪く時間もなかったため、断念しました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-06 20:12 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第41話「おれについてこい!」 ~大松博文監督と回転レシーブ~

 まず、チュートリアル徳井義実さんの例の問題で、大松博文監督シーンをどうするかが注目されていましたが、すでにクランクアップ済でセットも壊しているため撮り直しは不可能という理由で、番組冒頭で「編集などでできるだけ配慮をして放送いたします。」とのテロップを流し、ドラマ全体の流れを損なわないよう再編集した内容で放送されました。ひとまずホッとしましたね。物語前半のピエール瀧さんのときも物議を醸しましたが、「作品には罪はない」という論点から言えば、私はすでに撮り終わっているものまでお蔵入りさせる必要はないと思っています。もちろん、彼のやったことは悪質極まりないことで、これからの彼のタレント活動には大きなペナルティを与えられて然りだと思いますが、その一人のために作品すべてが世に出せなくなってしまうというのは、その作品に関わったすべての人たちの立場に立って考えると、どうにもやりきれない。何より、観ているわたしたち側からしても、勿体ないの一言につきます。今回、どの程度徳井さんのシーンがカットされたかは知りませんが、わたしは、建前上あのようなテロップを流さざるを得なかったとしても、ほとんどカットする必要はなかったんじゃないかと思います。このような事態になったとき、ほとんどの場合が個々の制作サイドの自主判断に任されているようですが、そうすると、批判を恐れて出したくとも出せなくなるというのが実情でしょう。その意味で、今回のNHKの決断をわたしは支持したいと思います。これを機に、こういった場合に作品を守るためのルールを作る必要があるんじゃないでしょうか。


e0158128_13414469.jpg 話をドラマに移して、その大松博文監督といえば、「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレー東京オリンピック金メダルに導いた名監督として知られます。その指導方法は超スパルタで、たとえ女子であっても容赦なしの厳しさから「鬼の大松」と呼ばれました。ときには体罰もあったとか。ドラマでヤカンが映っていましたが、あれで水をぶっかけられることもしばしばだったとか。女子なのでさすがにゲンコツはなかったようですが、選手全員一列に並んで平手打ちというのは日常茶飯事。あと、遠征先で突然腹痛を起こさないように、病院と水面下で連携して選手には何も説明しないまま強制的に盲腸手術をさせていたとか。今なら大問題ですよね。


大松監督は先の戦時中は中隊指揮官だったそうで、あの過酷な戦場として知られるインパール作戦の数少ない生き残りだそうですから、その厳しさは軍隊で培ったものだったのかもしれません。この時代の指導者というのは、似たようなタイプの人が多かったんじゃないでしょうか。ただ、昨今の体罰教師パワハラ問題と違うのは、それでも大松監督は選手たちから慕われていたということでしょう。きっと、この時代と今とでは、何かが違うんでしょうね。体罰をする側も、される側も。


 ドラマでもあったように、あの有名な回転レシーブは柔道の受け身をヒントにした技だったそうです。肩から前に倒れながらボールを受け、身体を1回転させて立つ。素早く体勢を立てなおすことができる技です。漫画『アタックNo.1』にも出来きてましたよね。今では普通のプレーですが、最初にこれを見た外国の選手たちは、日本の選手の機敏さに驚いたんじゃないでしょうか。単なる根性論のみで厳しいだけじゃなく、技の考案などの理にかなった指導ができる監督さんだったからこそ、どれだけ厳しくとも選手たちがついてきたんでしょうね。「だけど涙が出ちゃう 女の子だもん」と言っていたかもしれませんが(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2019-11-05 13:43 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)