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「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その6 <美玉三平・中島太郎兵衛終焉の地(美国神社)>

「その5」のつづきです。

「その1」で紹介した生野代官所跡から直線距離で南西に25kmほど離れた宍粟市山崎町木ノ谷で、生野の変の挙兵メンバーの美玉三平中島太郎兵衛が落命しました。

現在、その近くにある美国神社に、ふたりのがあります。


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美玉三平は薩摩藩出身の脱藩浪士、中島太郎兵衛は地元但馬国の豪農でした。

彼らは早くから地元の農兵組織化に奔走しており、平野國臣らと計画段階から密議を交わして生野挙兵を具体化した、いわば生野の変の首謀者メンバーでした。


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美国神社入口の石碑には、「勤皇志士之碑」と刻まれています。


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その横の小さな石碑には「生野義挙志士最期の地」と刻まれ、その両側面には、その説明文が刻まれています。

何度も言いますが、わたしは生野の変を「義挙」だとは思っていません。

「暴挙」です。


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境内です。


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境内の片隅に、ふたりのがあります。


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文久3年10月13日(1863年11月23日)夜の生野破陣後、美玉三平は中島太郎兵衛と弟の黒田興一郎とともに逃走します。

翌14日の午後4時ごろ、ここ播磨国山崎の木之谷に入りますが、そのとき、後方から500人近い農兵は押し寄せ、発砲してきました。

怒った美玉は抜刀して追い払おうとしますが、やがて銃弾が胸を貫き、しばらく息があったものの、その後、絶命します。

中島太郎兵衛と弟の興一郎は神社そばの民家に逃げ込みますが、兄・太郎兵衛の傷は深く、弟の介錯によって自刃します。

太郎兵衛はその死の直前、手持ちの270両を弟に渡し、これを持って逃げろと説得したといいます。

しかし、兄を介錯した興一郎はそのあと自ら縛につき、京都六角獄舎に送られ、慶応2年2月9日(1866年3月25日)に獄中死します。


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墓の建立者のなかには、生野挙兵メンバーの生き残りで維新後には京都府知事貴族院議員を務めた北垣国道の名があります。

北垣国道は中島らと同じ但馬出身ですから、同郷のよしみだったのでしょう。

また、その横には、蘭方医・松本良順の実弟で元幕臣の林董の名もあります。

その理由がよくわかりませんが、林董は一時期、兵庫県知事を務めており、おそらく、その縁で建立者に加わったのではないでしょうか。

だとすれば、おそらく、この墓石は林が県知事を務めていた明治23年(1890年)から翌24年の間に建てられたのでしょう。


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境内には、彼らの顛末を説明した石板があります。

それを読むと、明治21年(1888年)9月に美玉三平が、同24年(1891年)9月に中島太郎兵衛と黒田興一郎兄弟が、それぞれ靖国神社に合祀され、美玉と中島に従四位、黒田に正五位が贈られたとあります。

靖国合祀については色々と言いたいことがありますが、ここではひとまずそれは置いといて、おそらく靖国合祀に合わせてここに墓碑が建てられたのではないでしょうか。


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石板の文末には、黒田興一郎が獄中で兄の中島太郎兵衛と美玉三平を悼んだが刻まれています。


もののふの 名はいつまでも 木の谷の そのかんばしき 楠のもと


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せっかくなので、美国神社にも参拝して帰りましょう。


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社殿です。


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社殿から見下ろすと、ふたりの墓石が見えます。

青のプリウスαはわたしの愛車です(笑)。


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さっきの石板の説明によると、ここの元の名称は「山神社」でしたが、美玉、中島、黒田の3人の霊を併せ祀り、通称を「美国神社」としたのも、国に殉じた美徳を称えるためとあります。

美談にしちゃいけないんですけどね。

彼らのやったことは、単なるテロリズムですから。

「その7」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-29 21:39 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その5 <大川藤蔵(小河吉三郎)捕縛地>

「その4」のつづきです。

「その3」で紹介した山口護国神社から5kmほど北上した兵庫県朝来市山内の一角に、「勤皇志士 大川藤蔵殉難之地」と刻まれた石碑があります。

大川藤蔵は水戸藩士・小河吉三郎の変名で、生野の変挙兵メンバーのひとりでした。


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万延元年(1861年)、小河吉三郎は同じく水戸藩士の林忠左衛門らとともに江戸の薩摩藩邸で攘夷の実行をうったえますが、聞き入れられず、水戸に送還されて禁固処分となります。

釈放後、京都にて同志と交わり、文久3年(1863年)2月に長州へ入り、同年10月、生野での挙兵メンバーに加わりました。


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文久3年10月13日(1863年11月23日)の夜に総帥の澤宣嘉解散派とともに本陣から脱出してしまったことを知った小河は、河上弥市(南八郎)少壮派のいる妙見山本陣に向かい、その事実を伝えます。

そこで河上らが決死の覚悟を固めていることを知ると、同じく水戸藩士で挙兵メンバー最年長の川又左一郎とともに解散するよう説得しますが、河上らはこれを聞き入れません。

やむなく説得を諦めた小河と川又は、因州の大村辰之助、丹波国氷上郡黒井村の庄屋出身の木村愛之助(片山九市)らとともに沢宣嘉を探して丹波路に向かいました。

しかに、追ってきた農兵に囲まれ、窮地に陥った小河は、山内村サケジ谷切腹して果てます。

享年27。


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小河の介錯をした川又は自ら縄に就き、大村は腹を切ったが死にきれず、片山もその場で取り押さえられました。

3人は出石藩に引き渡れ、川又は、11月23日、出石の獄で自ら首をくくって自殺し、大村と片山は京都の六角獄舎に送られ、片山は獄中で病死、大村は翌年の7月20日、平野國臣、横田友次郎、本多素行らとともに、禁門の変における大火災の混乱のなか判決が出ていない状態のまま斬首されます。

参照:六角獄舎跡(勤王志士平野國臣外十数名終焉之地)

彼らの遺骸は、13年後の明治10年(1877年)、京都の竹林寺に埋葬されました。

参照:平野國臣以下三十七士之墓(竹林寺)


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小河が切腹したサケジ谷は、この石碑の建つ場所より1kmほど先に行った山中にあるそうです。


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いまは長閑な田園風景が広がる山内村。

水戸藩出身の小河が、縁もゆかりもない但馬国の村で腹を切ることになろうとは、さぞかし無念だったでしょうね。


志士は溝壑に在るを忘れず。

勇士は其の元を喪うを忘れず。


「その6」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-28 00:17 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その4 <山田顕義終焉之地>

「その3」のつづきです。

生野の変ゆかりの地とは少し違うかもしれませんが、JR生野駅の駅前広場に、「山田顕義終焉之地」と刻まれた石碑があります。

山田顕義は元長州藩士で、明治新政府軍の参謀や政府の要職を務めた人物ですが、前稿で紹介した生野の変の強硬派の中心人物として自刃した河上弥市(南八郎)再従兄にあたります。


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山田顕義はあの吉田松陰松下村塾の門下生で、入門当時は15歳。

松蔭にとっては最年少の門下生でした。

文久2年(1862年)12月には、高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、品川弥二郎らとともに御楯組血判書にも名を連ね、その後、幕末の数々の戦いに参戦しました。

文久3年8月18日(1863年9月30日)の八月十八日の政変では、三条実美澤宣嘉らの長州亡命に同行しますが、途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻って潜伏します。

なので、生野の変には参加していません。

もし、そのまま七卿落ちに同行していたら、河上や澤らと共に生野の挙兵に加わっていたかもしれません。


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その後、禁門の変、馬関戦争、功山寺挙兵など長州藩士が関わるほとんどの内乱に参戦し、戊辰戦争では陸軍参謀兼海陸軍参謀として倒幕戦に尽力し、明治維新後は佐賀の乱西南戦争に征討軍の将として参加し、その戦術は「用兵の妙、神の如し」と評されるほどでした。


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明治新政府では、あの岩倉使節団の一員として欧米を視察したのち、東京鎮台司令長官、司法大輔、陸軍中将、参議、工部・内務・司法の各卿などを歴任。

明治18年(1885年)には初代の司法大臣として入閣し、明治24年(1891年)に病気療養を理由に辞職するまで、伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義と4代の内閣で司法大臣を務めます。

また、教育を重視し、明治22年(1889年)には日本大学の前身である日本法律学校を創設し、翌年には國學院(現在の國學院大学)を設立に尽力しました。


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そんな山田の終焉の地がなぜ生野にあるかというと、明治25年(1892年)11月、郷里の山口県から東京へ戻る途中、生野の変で自刃した再従兄河上弥市(南八郎)の菩提を弔うため、「その3」で紹介した山口護国神社を訪れました。

そのあと生野銀山を視察中に倒れ、そのまま立つことができず薨去します。

享年49。


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生野は兵庫県のちょうど真ん中あたりにあり、山口から東京へのついでで立ち寄れるようなところではありません。

当時なら、おそらく姫路から汽車で1日近く掛かったんじゃないでしょうか?
(そもそも汽車などまだつながっていなかったかも)

あるいは、ひとつ間違えれば河上とともに生野の挙兵に参加し、29年前にこの地で落命していたかもしれなかった山田顕義。

そんな思いが、病身をおしてでもこんな遠くまで足を運ばせたのかもしれませんね。

まさか、そこで29年越しに命を落とすとは・・・。

河上が呼び寄せたのかもしれません。

合掌。

「その5」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-27 01:04 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第44話「ぼくたちの失敗」 ~政界の寝業師・川島正次郎~

 昭和37年(1962年)にインドネシアジャカルタで行われた第4回アジア競技大会においての国際問題は前話の稿で説明しましたが、この大会に参加するか否かの決断を迫られた日本は、そのすべて判断を現地役員に一任します。この局面において組織委員会会長の津島寿一は、当初、参加に消極的な態度をみせますが、大会役員ナンバー2の立場にあったマーちゃんこと田畑政治は、参加を主張します。その理由は、インドネシアの対日感情の悪化を危惧したためというのが表向きの主張でしたが、やはり、その根本は、「政治とスポーツは別もの」という嘉納治五郎から受け継いだ理念があったに違いありません。今風にいうところのアスリートファーストです。


結局日本は、競技自体が中止になったウエイトリフティングを除く13競技に参加し、金メダル74個、銀メダル57個、銅メダル24個という大きな成果を残しました。しかし、その活躍とは裏腹に、この大会中、日本ではマスコミが大会出場に踏み切った判断を大きく非難。その戦犯として血祭りに上がったのが、津島と田畑でした。そして、帰国後、この騒動で田畑と津島がその責任を取らされることになります。すなわち、津島は東京オリンピック組織委員会会長の職を、田畑は同事務総長の職を、それぞれ辞任することとなります。事実上の解任ですね。その陰には、ドラマのように、「政界の寝業師」の異名をとった川島正次郎の画策があったといわれます。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第44話「ぼくたちの失敗」 ~政界の寝業師・川島正次郎~_e0158128_17585936.jpg 川島正次郎は、岸信介政権時代は自民党幹事長を、池田勇人政権、佐藤栄作政権の時代には長く自民党副総裁を務めました。総理、総裁のイスも決して手の届かない位置ではありませんでしたが、あえて主役に固執することなく、時の権力の間を巧みに泳ぎ、ナンバー2のポジションに君臨し続けた人物です。たしかに、ナンバー1になってしまうと、政局の風向き次第では一気に転落する危険が伴います。その点、その風向きを読みながらうまくナンバー2でいると、ナンバー1ほどの大きな責任を問われることもなく、そのほうがかえって長生きできるといえるかもしれません。いわゆる「名脇役」ってやつですね。当時の川島の語録にこんな言葉があります。


「脇役に徹する中で大事なことは、あくまで本流の中の脇役であることだ。傍流はダメだ。本流にピッタリ寄り添っていけば、間違いなく“長生き”できる。勝ち馬は誰か、それを見分ける能力が問われる」


「政界の寝業師」と呼ばれた例をあげると、岸内閣総辞職後の総裁選において、党人派から大野伴睦石井光次郎が名乗りを上げ、官僚派からは池田勇人が名乗りをあげていたのですが、当時、川島派といえる10人ほどのグループを率いていた川島は、大野支持に向かう様子をにおわせたうえで、大野に対して「党人派が二分されると官僚派の池田に勝てないので、党人派は石井一本にまとめたほうがいい」と進言し、大野に総裁選を辞退させました。すると、手のひらを返したように川島は、「大野を支援しようと思ったが、大野が辞退したので池田を支持する」と表明して池田支持に乗り換え、池田が政権に就くと、見事に副総裁のポストを射止めます。大野はまんまと騙されたってやつですね。川島のライバルだった河野一郎は、このときの川島についてこんな言葉を吐いたといいます。


 「川島は、密かに大野陣営の名簿を池田に渡していた。これでは大野は鏡を背にして麻雀をやっているようなもんで、手の内は丸見えだった。あの男は人を5階まで案内しておいてハシゴを外す男、相当な悪党だ」と。


 そんな川島ですから、スポーツしか知らない田畑を陥れるなんて朝飯前だったでしょうね。純粋にアスリートファースト東京オリンピックを目指していたマーちゃんでしたが、政治家にとっては、その純粋な正論はときに目障りだったかもしれません。「政治とスポーツは別もの」という嘉納治五郎の理念は、やはり、現実離れした理想論にすぎないのかもしれませんね。印象的だったのは、「どこで間違えた」自問自答するマーちゃんが、やがてその原点を思い出すシーン。


「先生方も、スポーツを政治に利用すればいいんですよ」

「金も出して、口も出したらいかがですか?」


「・・・あの時だ!」

 かつて自らが撒いた種だったんですね。田畑が国からオリンピック予算を得るために、高橋是清を口説いた言葉でした。あのときのマーちゃんは、スポーツ発展のために政治を利用しようとした。しかし、今では、逆に政治に利用されるようになってしまった。そして、最終的には政治に負けたんですね。


 田畑が高橋是清を口説いた話も、田畑が政治的理由で失脚したのも、どちらも史実です。その史実の伏線を史実で張っていたというのは、さすがはクドカン、お見事ですね。唸らされました。あとは、川島の政治介入をどう着地させるのか。実在の、しかも近代の政治家を描いているのですから、このまま酷い悪役で終わらせることはないでしょう。今後の展開が楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-25 18:03 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その3 <山口護国神社(生野義挙志士殉難之地)>

「その2」のつづきです。

「その1」で紹介した生野代官所跡から6kmほど北上したところに鎮座する山口護国神社は、「生野の変」を起こした尊王攘夷派志士たちが自刃した場所と伝えられます。


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参道の入り口には、「生野義挙史跡」と刻まれた石碑が建てられています。

何度も言いますが、わたしは彼らの行動は「義挙」ではなく「暴挙」だと思っています。


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文久3年10月12日(1863年11月22日)に生野代官所を占拠した彼らは、総帥・澤宣嘉の名で諭告文を発表して農兵を募り、たちまち2000人以上の農兵が集まりました。

しかし、天誅組の変の直後とあって幕府側の動きは早く、報せを受けた豊岡藩、出石藩、姫路藩はただちに兵を動かし、翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動します。


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この諸藩の素早い動きに対して、浪士たちはまた解散か強硬かの両論に分かれましたが、平野國臣河上弥市らの強硬論に押され、いったん解散は立ち消えになります。

ところが、13日夜、肝心の総帥である澤宣嘉が解散派とともに本陣から脱出してしまいます。

元出石藩士の多田弥太郎、入江八千兵衛らから情勢の不利を説かれたからといいますが、生野本陣を去るにあたって、澤は机の上に和歌を一首残していったそうです。


頼みもし 恨みもしつる 宵の間の うつつは今朝の 夢にてありぬる


これを読んだ残党は、「ハァ~?」と声をあげたでしょうね。

尊攘派といっても、所詮、公卿は公卿です。

まあ、武士でも、鳥羽・伏見の戦いの真っ只中に江戸に逃げ帰った将軍もいましたが・・・。


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澤脱出の事実が知れ渡ると、もともと烏合の衆と農兵の集まりだった挙兵ですから、たちまち統制がとれなくなり、翌14日朝には、農兵たちが「騙された」と怒って一党を偽浪士と罵り、逆に攻撃し始めました。

こうなると、もはや万事休す

川上ら13人は妙見山麓のこの地に集まり、8人は切腹、残り5人も附近で討死しました。


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その説明板です。

ここでも「義挙」という言葉が使われています。

説明文に出てくる南八郎という名は、河上弥市の変名です。


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境内には、この地で落命した13名の慰霊碑が建てられています。


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中央の墓碑に刻まれた「殉節忠士之墓」は、明治の元老・西園寺公望の揮毫だそうです。

慶応4年(1868年)2月、西園寺公望が山陰道鎮撫総督として但馬入りしたときに揮亳し、建立されたものだそうです。


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左隣に建つ墓誌名の碑は、同じく参謀の折田年秀によるものだそうです。

右隣の石碑は、何が書いているのかよくわかりませんでした。


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こちらの石碑は、「正義十七士之神霊」と刻まれています。


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そして、その奥には、「正義十三士自盡之址」と刻まれた石碑と、苔生した巨岩があります。


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この地に集まった河上弥市(南八郎)以下13人は、この山伏岩「今月今日討死」

血書し、8人はこの場にて切腹、残り5人もこの付近で討死したと伝えられます。


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反対側から見た山伏岩です。

「南無阿弥陀佛」の文字が刻まれています。

彼ら13人の首は生野代官所に届けられ、打ち捨てられていた首なしの遺骸は、付近の住民によってこの岩の裏に埋められたそうです。

その後、他の場所で死んだ4人の首を加えた17人の首が、この岩の裏に埋められたそうです。


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こちらは、大正5年(1916年)に建てられた招魂碑です。


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この石碑は、河上弥市(南八郎)の辞世が刻まれた歌碑です。


奉献 議論より実を行へ なまけ武士 国の大事を余所に見る馬鹿 皇国草莽臣 南八郎


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こちらの石灯籠には、平野國臣の歌が刻まれています。


我たまは 但馬の国の神となり 大君思う人を助けん 


でも、平野はここには祀られていないんですけどね。


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この地で死んだ13人は、全員、長州藩の奇兵隊士でした。

奇兵隊の創設者である高杉晋作は、天誅組と生野の挙兵の失敗を知り、こう言って悼んだといいます。


「予、知己天下に多し、而して能く我心を知る者は、土州の吉村寅太郎、我藩の河上弥市也、弥市節に但馬に死し、寅太郎節に大和に死す。二士之名頗る近時に冠たり、而して寅太郎は張巡に類し、弥市は霽雲に類す。然して、二士之節義は固より巡雲の及ぶ所に非ざる也。」


天誅組の変も生野の変も、義挙ではなく暴挙だったと思いますが、国を思うピュアな精神は、偽りではなかったでしょう。


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長くなっちゃいましたが、もう少し「生野の変」シリーズにお付き合いください。

「その4」に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-23 00:22 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その2 <延應寺>

「その1」で紹介した生野代官所が占拠される前日の文久3年10月11日(1863年11月21日)午後2時ごろ、澤宣嘉を中心とした尊王攘夷派浪士たちは、生野街道を北上して森垣村の延應寺に到着しました。

現在、JR生野駅から南西に歩いて5分ほどのところに延應寺はあります。


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参道を登ります。


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道中、生野の変の説明板がありました。


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境内です。


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彼ら浪士たちがここに陣を布いたのは、浪士のひとり、本多素行延應寺法印とが懇意だったため、生野に到着の際にはここを一時の休息所として利用するという手筈はついてはいたそうですが、浪士たちのいでたちを見て、寺の住持は仰天したといいます。

この時点で大和の天誅組は壊滅しており、ここでもう一度、挙兵中止すべきではないかとの議論が起こりますが、天誅組の復讐をすべしとの河上弥市(南八郎)らの強硬論に押され、挙兵は決行されることになります。


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境内には、樹齢1000年以上といわれる欅の巨樹がそびえます。


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幹周8.6m、樹高30mだそうです。


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大きく傾いた主幹を鉄骨が支えています。


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主幹が地上10mほどのところで切られており、蓋がされています。


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樹齢1000年以上というのが本当ならば、生野の変が起きたときもすでにかなりの巨樹だったでしょう。

血気にはやる浪士たちの暴挙を、この欅は雄大に見下ろしていたはずですね。


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「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その2 <延應寺>_e0158128_17022841.jpg


欅の前には、生野の変の由来が記された石碑が建てられています。

昭和14年(1939年)に建てられたもののようです。


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本堂です。


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境内から見た生野のまちです。

浪士たちもこの景色を見たでしょうか。


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向こうに見える山の頂上には、中世から戦国時代にかけて生野城がありました。


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山頂にズーム。

以前、生野城跡に登ったときの稿がありますので、よければ一読ください。

2015夏休み但馬路紀行 その3 「生野城跡」


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彼らがここに入山してから約1時間後、生野代官所に対して澤宣嘉名義(変名の姉小路五郎丸)の代官所借用の書状を送りつけ、午後8時ごろ、猪野々町の丹後屋次郎左衛門方に移ります。

彼らがここに滞在していたのは、約6時間ほどでした。

「その3」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-21 21:11 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その1 <生野代官所跡>

先週まで、幕末に起きた「天誅組の変」ゆかりの地めぐりのシリーズを起稿してきましたが、同じ頃、但馬国でも同じような事件が起きました。

「生野の変」です。

「天誅組の変」は、尊王攘夷派の志士たちが大和国五条代官所を襲撃して占領し、倒幕の兵を挙げた事件でしたが、「生野の変」は、同じく尊攘派の志士たちが但馬国の生野代官所占拠した事件です。

現在、生野代官所の跡地には、事変を後世に伝える石碑が建てられています。


「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その1 <生野代官所跡>_e0158128_16370079.jpg


文久3年8月17日(1863年9月29日)に大和国五条で天誅組が挙兵すると、その過激な行動を危惧した公卿の三条実美は、暴発を制止すべく福岡脱藩浪士の平野國臣を五条に送ります。

しかし、その直後に京で八月十八日の政変が起こり、情勢は一変。

三条実美ら攘夷派公卿7人は長州藩士たちとともに京を追われます。

世にいう「七卿落ち」ですね。

天誅組の説得のために五条入りした平野國臣でしたが、天誅組首脳と意気投合してしまい、その直後に京の政変のことを知ると、巻き返しを図るべく大和国を去ります。

まさに、ミイラ取りがミイラになるってやつですね。

平野は天誅組に呼応すべく但馬国の志士・北垣晋太郎と連携し、幕府直轄領であった生野での挙兵を画策します。


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天誅組の総帥は公家の中山忠光を頂いていましたが、生野の挙兵にもそれなりの人物総帥に頂く必要があると考えた平野は、長州に赴き、周防三田尻に滞在していた七卿の一人、澤宣嘉を説得します。

そして奇兵隊を中心とした27名の志士たちを伴い、10月2日に三田尻を出航し、9日に飾磨港に上陸しますが、そこで、天誅組の壊滅の事実を知ります。

報に接した彼らは、挙兵の中止と決行の両論に分かれましたが、主戦論に押され、11日に生野に到着。

翌12日未明、彼らは生野代官所を無血占拠します。


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生野代官所跡にあるバカでかい石碑です。

皇紀2600年を記念して昭和15年(1940年)に建てられたもので、高さ5m、幅2.5m、厚さ60cmの花崗岩だそうです。

石碑には「生野義挙趾」と刻まれています。


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天誅組史跡の稿でも再三発言してきましたが、わたしは、この「義挙」という言葉がどうも気に食わない。

生野の挙兵では天誅組のように代官を殺してはいませんが、彼らがやったことは所詮はテロリズム

義挙ではなく暴挙だったとわたしは思います。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。

皇国史観の戦前に建てられた石碑は仕方がないにしても、説明板や朝来市のホームページなどでも、「義挙」「維新の魁」などと紹介しているのは、どうかと思いますね。

薩長が自分たちの起こした政争を正当化するために作った虚構に、今なお踊らされているように思えてなりません。


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石碑裏面には、事変を伝える碑文が刻まれています。


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石碑の説明板です。


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「生野義挙碑」と刻まれた新しい石碑もあります。


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観光用の案内板も。


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代官所の説明板です。

生野代官所は、この近くの生野銀山経営を管理するために置かれた代官所で、古くは織田信長、豊臣秀吉の時代から重要視され、江戸時代250年に渡って幕府直轄領でした。

生野銀山については、以前の拙稿<2015夏休み但馬路紀行 その2「生野銀山」>で紹介しておりますので、よければ一読ください。


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話を歴史に戻して、生野代官所を占拠した彼らは、澤宣嘉の名で諭告文を発表して農兵を募りました。

農兵は続々と集まり、その数は即日2000人を越えたといいます。

しかし、結果はわずか4日間で壊滅してしまうんですね。

「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-20 17:25 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第43話「ヘルプ!」 ~第4回アジア競技大会~

第18回東京オリンピックの2年前、昭和37年(1962年)にインドネシアジャカルタ第4回アジア競技大会が行われました。この大会は2年後に控えた東京オリンピックの前哨戦ともいうべき重要な大会だったのですが、ここで大きな政治問題が発生します。


 当時、インドネシア政府は親中国および親アラブ諸国の政策をとっていました。そのため、彼らが国として認めていなかったチャイニーズ・タイペイ(台湾)イスラエルに対して選手団の入国身分証明書を発行せず、事実上両国の参加拒否という姿勢を示します。これは、大会の開催権を握るアジア競技連盟の意向に反する行為でした。両国には国際オリンピック委員会(IOC)国際陸上競技連盟(IAAF)も参加資格を認めており、IOCからは、「両国の参加を認めないのであれば、この大会を支持しない」との発表があり、また、国際陸上競技連盟からも、「両国を参加させない限り、国際陸連としては大会を認めることはできない。この大会に参加した国は国際陸連から除名する。」という電報が届きます。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第43話「ヘルプ!」 ~第4回アジア競技大会~_e0158128_17574863.jpg 日本はこの大会に選手209人役員43人計252人を派遣していました。まーちゃんこと田畑政治はその本部役員として、JOC会長で組織委員会会長の津島寿一に次ぐナンバー2のポジションにありました。いや、実質ナンバー1だったかもしれませんね。そういう立場ですから、たちまちこの政治問題に巻き込まれて対応に苦慮することになります。日本は参加するか否か。その判断は現地に一任されます。アスリートファーストで考えれば、ここまで来てボイコットなどあり得ない。しかし、政治的な観点でいえば、ここで強行してIOCや各国際競技連盟からの反感を買い、東京オリンピックに支障をきたすことになれば元も子もない。まさに、「進むも地獄退くも地獄」の決断でした。


 このとき会長の津島は、東京オリンピックへの支障を危惧し、「ボイコットすべきだ」と主張したといいます。しかし、田畑の主張はその逆でした。「もし、ここで最も参加選手を多く派遣している日本がボイコットすれば、大会が大混乱に陥り、選手や在留邦人に危害がおよぶ可能性も決して否定できない」と主張し、参加に踏み切ります。


 いだてん~東京オリムピック噺~ 第43話「ヘルプ!」 ~第4回アジア競技大会~_e0158128_17585936.jpg結局日本は、競技自体が中止になったウエイトリフティングを除く13競技に参加し、金メダル74個、銀メダル57個、銅メダル24個という大きな成果を残しました。しかし、帰国後、この騒動で田畑と津島がその責任を取らされることになります。その陰には、「政界の寝業師」の異名をとった川島正次郎の画策があったといわれます。そのあたりは次回、描かれるようですね。


 ちなみに、このときのインドネシアの国家元首はスカルノ大統領。あのデヴィ婦人の旦那さんですね。このアジア競技大会が行われた同じ年、デヴィ婦人はスカルノと正式に結婚し、4人の夫人のうちの第3夫人になっています。日本は第二次世界大戦中よりスカルノと親密な関係を持っており、戦後も経済面を中心にその関係は続いていました。デヴィ婦人をスカルノに紹介したのも日本の商社です。ドラマで、田畑が川島に対して「大統領とズブズブな関係」と罵っていましたが、たしかに、日本政府は政府で、そう簡単にインドネシアを裏切れない理由があったんですね。IOCにもインドネシアにも両方に顔が立つ結論を作るには、だれか個人にその罪をかぶらせなければならない。なるほど、さすがは「政界の寝業師」です。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-18 18:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その31 「天誅組終焉之地_吉村寅太郎の墓」

シリーズ最後です。

足を負傷したために一行から遅れていた吉村寅太郎は、傷が悪化して歩行困難となり、駕籠に乗せられて運ばれていましたが、文久3年9月27日(1863年11月8日)、津藩兵に発見されて射殺されました。

吉村の死によって、他の兵たちも相次いで戦死するか捕縛され、ここに天誅組は壊滅しました。


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現在、吉村が討死した鷲家谷には、「天誅組終焉之地」と刻まれた大きな石碑が建てられています。


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ここを訪れたのは、平成30年(2018年)11月18日。

このシリーズを始めて、ここだけはどうしても彼らが死んだときと同じ紅葉の季節に来たいと思い、気候を見ながら満を持して訪れました。


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でも、真っ赤という状態ではなかったですね。

紅葉はその年の気温の変化などで変わるそうですから、この年は真っ赤に染まる条件ではなかったのかもしれません。


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石碑の背後には鷲家川があり、向こう岸にわたる橋があります。

この橋の向こうに、吉村寅太郎原瘞處があります。

「原瘞(げんえい)」とは最初に埋めたお墓という意味です。


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鷲家川です。


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橋を渡ると、説明板があります。

その向こうに、広い空間が見えます。


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ここが吉村の原瘞處です。

説明板によると、吉村はこの大きな岩の裏手の下流30m左岸の山際にあった薪小屋に潜んでいたところを、津藩兵の金屋健吉によって銃殺されたといいます。


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吉村寅太郎は土佐勤皇党出身で、その後、党を離脱して脱藩し、福岡藩士の平野国臣、久留米藩士の真木和泉、庄内藩士の清河八郎など、他藩の過激な尊攘派と深く親交します。

文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)の際には、それに連座して捉えられ、土佐に引き渡されて8ヶ月間投獄されますが、やがて政情が尊攘派に有利になると釈放され、藩から自費遊学の許可を得て京へ上ります。

同年8月、孝明天皇大和行幸に合わせて天誅組を結成し、公家の中山忠光を連れ出して五條へ向かうんですね。

しかし、ほどなく政情が尊攘派に不利になると、一転して逆賊となったわけです。


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吉村の遺体は村人の手によってこの岩の根元に埋葬され、土方直行筆によって墓碑が建てられましたが、明治29年(1896年)に「その26」で紹介した明治谷墓所改葬されたあとは、この碑は原瘞の碑として吉村を偲ぶ記念碑となっています。


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吉野山 風に乱るる もみじ葉は 

わが打つ太刀の 血煙と見よ


吉村の辞世です。

わたしは、幕末の志士たちの辞世の句のなかで、この吉村の歌がいちばん心に響きます。

なんという凄まじい辞世でしょう。

この歌の情景を知りたくて、わたしは紅葉の季節にここを訪れたかったんです。


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吉村の太刀の血煙です。


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天誅組のメンバーに吉村をはじめ土佐藩出身の志士たちが最も多かったのは、そのお国事情にあったといっていいでしょう。

幕末の土佐藩の事情は複雑でした。

いわゆる「郷士」と呼ばれる下級武士たちは熱心な尊皇攘夷運動の奔走しながらも、藩そのものは佐幕でした。

そのあたりが、長州藩の松下村塾系の若者や、薩摩藩の誠忠組の面々たちとは決定的に違ったところだったでしょう。

そんななか、あくまで一藩勤皇を目指した土佐勤皇党の首魁・武市半平太(瑞山)らは、結局は藩によって処刑され、藩に頼らず脱藩して奔走した吉村ら浪士たちも、そのほとんどが維新を見ることなく非業の死を遂げます。

彼ら土佐系の脱藩浪士たちが志を訴えるには、このような過激な道しか思いつかなかったのでしょうね。


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とはいえ、彼らがやったことは、どう考えても義挙とは言えず、単なるテロリズムでした。

義挙ではなく暴挙だったとわたしは思います。

妄信的に尊皇攘夷を唱え、幕府の役人というだけで何の罪もない代官を殺害して首を晒し、五條や吉野の民衆をも巻き込み、やがて自滅していった。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

天誅組をして「維新の魁」などと言う人がいますが、わたしは賛同できませんね。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。


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幕末の一流の志士たちのとっては、「尊皇攘夷」富国強兵の術であり、倒幕の手段にすぎませんでした。

だから、明治維新が成立するや否や新政府は「攘夷」を捨て、「尊皇」は、新政府の公約だったため一応は形だけ残しましたが、後年の帝国主義の天皇制とは違って、多分に形式的なお飾りでした。

天皇は尊ぶべき存在ではあっても担ぐべき存在ではないことを、一流の志士たちはちゃんとわかっていたんですね。

ところが、二流以下の志士たちは、これをほとんど宗教のように信じ、狂気と化していった。

司馬遼太郎さんは海音寺潮五郎さんとの対談形式の著書のなかで、そんな尊攘志士たちを神道的な国粋主義者と定義し、次のように述べています。


「国粋主義者というのは、つきつめてしまえばロマンティシズムであり、それに多少の評価を与えるとすれば、これは美学であって、とてもとても政治の救済にはならないし、その方策もなにも持っていない。もっていないだけにその信奉者の心情は常に悲痛で、発するところ、必ず暴発といった行動になる。」


まさしく、天誅組のこと評しているかの記述です。


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また、同じく海音寺さんとの対談のなかで、司馬さんはこうも述べています。


「幕末維新の諸事件の中で、天誅組がいちばんおろかしい感じがします。」


手厳しいですが、わたしもそう思います。


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天誅組の変は、幕府が倒れて明治に元号が変わる5年前の出来事でした。

もう少し大局を観て待っていれば、もっと違った歴史上の役割が彼らにもあったかもしれませんが、一見、犬死にのように思える彼らの屍のひとつひとつの積み重ねの上に維新が成立したとするならば、彼らがここで死んだことも、歴史上のひとつの役割だったのかもしれません。

その意味では、天誅組の暴挙は、歴史の必然だったのかもしれませんね。


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気がつけば「その31」まで続きました。

この稿にて、「天誅組の足跡を訪ねて。」のシリーズを終わります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-16 00:38 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その30 「龍泉寺(天誅組菩提寺)」

鷲家にある禅寺・龍泉寺は、天誅組の菩提寺となっています。

「その25」で紹介した鷲家口の宝泉寺も天誅組の菩提寺でしたが、あちらは「その26」で紹介した明治谷墓所に眠る天誅組隊士9名の菩提寺で、ここ龍泉寺は「その29」で紹介した湯ノ谷墓所に眠る6名の天誅組隊士の菩提寺です。


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石碑には、「天誅組志士菩提寺」と刻まれています。


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ここを訪れたのは、平成30年(2018年)11月18日。

天誅組隊士が死んでいったときと同じ紅葉の季節でした。


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こちらには、天誅組総裁のひとり・藤本鉄石辞世が刻まれた石碑があります。


雲をふみ 岩をさくみし もののふの

よろひの袖に 紅葉かつちる


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血に染まったように赤い紅葉です。


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境内です。


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龍泉寺は元亀元年(1558年)に開創された曹洞宗のお寺で、本尊の聖観音は野見観音

呼ばれ、首から上の病にご利益があるといわれています。


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ここ龍泉寺の墓地には、藤本鉄石に討たれた紀州藩銃撃隊の的場喜一郎の墓があるそうですが、どこにあるかわかりませんでした。

宝泉寺にも、天誅組隊士とともに敵方の彦根藩士の戦死者も弔っていましたが、ここも同じく討った藤本鉄石と討たれた的場喜一郎の両方の菩提を弔っています。

仏さんに敵も味方もない、ということでしょうね。


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彼らも、この美しい紅葉を見ながら死んでいったのでしょう。

次回、シリーズ最後です。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-14 23:55 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)