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丹波国篠山城跡を歩く。 その7 ~河原町妻入商家群~

「その6」の続きです。

篠山城跡の西側城下町にやってきました。


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城下町の南東に位置する河原町は旧商家町で、東西約500mの通りに沿って江戸時代末期から昭和戦前期の土蔵が縦並びます。

一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。


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入口には、「河原町妻入商家群」と記された大きな看板が。


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石碑もあります。


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商家群を歩きましょう。


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こちらは西坂家住宅

屋号は「錦屋」と言って、元は綿花栽培、醤油屋を営んでいたそうです。

主屋は入母屋造妻入の中2階建てで、間口は九間と篠山伝統地区では最も広い規模を有します。


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こちらは川端家住宅

表間口九間半の敷地に経つ入母屋造平入の町家で、主屋などは明治前期ごろ、離れは大正9年(1920年)に建築されたそうです。


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こちらは現在、鳳凰会館と呼ばれる地元公民館の建物ですが、元は明治12年(1879年)頃に建てられた南丹銀行の建物だったそうです。

その後、第百三十七銀行、神戸銀行の河原町支店となり、現在は公民館として利用されています。


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こちらは丹波古陶館

丹波焼を専門に扱う美術館です。


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こちらは能楽資料館


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郵便局も景観に合わせた作りになっています。


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その横には、「平尾竹霞生誕の地」と刻まれた石碑があります。


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平尾竹霞は篠山藩出身の南画家で、明治、大正、昭和初期に活躍した南画界の巨匠です。


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こちらは小林家住宅

屋敷は明治12年(1879年)頃の建築。

妻入、平入建築の組み合わせ。

町医者として昭和40年(1965年)まで開業していたそうです。


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こちらは高田屋住宅

建築年代は江戸時代後期で、商家群のなかでも最も古い建物です。

屋敷は一階東(左)側に通り土間をとおし、西(右)側に店の間、居間、座敷、中庭、離れ、土蔵を並べ、中二階には出格子窓やむし子窓を設けるという河原町妻入商家の典型的な形式となっています。

古くは「あかしや」を屋号として代々油類を中心に薬日用品、化粧品等の卸、販売等を平成15年(2003年)まで行っていたそうです。

その後、平成17年(2005年)に外観をガラス戸から格子に復元したそうです。


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平成30年(2018年)5月12日だったのですが、ちょうど「妻入商家春のれん」というイベント期間中だったようで、各商家の店先は小豆色や辛子色の暖簾で彩られていました。


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さて、全7稿に渡って篠山城とその周辺を歩いてきましたが、本稿でシリーズを終わります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-29 18:59 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その6 ~振徳堂跡・御徒士町武家屋敷群~

「その5」で紹介した南馬出の西隣に、かつての篠山藩の藩校「振徳堂」がありました。

現在、南馬出の土塁横に案内板のみが残っています。


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その案内板です。


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篠山藩9代藩主の青山忠朝は、寛延4年(1751年)に大坂の儒学者・関交平を聘招して藩の有志を学ばせ、その後、藩士の中で学問を志す者が多くなり、明和3年(1767年)に10代藩主の青山忠高がこの地に藩校「振徳堂」を創建し、翌年に教育方針である「學規」を定めました。

その後、「その4」で紹介した12代藩主・青山忠裕のときに学舎を増設して藩内の教育に力を入れるようになりますが、明治に入って廃藩置県後に廃校となりました。

しかし、その教育精神は、同じく「その4」で紹介した青山忠誠によって創設された篠山中年学舎(現在の兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)に引き継がれていきます。


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振徳堂跡の北側には、篠山城西側の外堀が伸びます。


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こちらは西側隅から見た南側の外堀

ここを訪れたのは平成30年(2018年)5月12日。

水辺をマーガレットが彩ります。


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西側の外堀沿いには武家屋敷群が残っています。


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こちらはその説明板。


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篠山城の城下町は慶長14年(1609年)の築城時から10年ほどの歳月をかけて整備され、城を取り囲むように武家町が配置されましたが、その武家町の中でもさらに武士の身分によって住む場所が決められたそうで、西側には「徒士」という身分の武士が住んでいたため、「御徒士町」と呼ばれました。

「徒士」とは、戦の際に馬に乗ることを許されずに徒歩で戦う武士のことで、いわば下級武士でした。

明治になって藩がなくなると、上級武士の多くは東京に移り住んだため武家町は衰退しましたが、御徒士町からの転出は少なかったため、武家屋敷群が残されるに至ったそうです。


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御徒士町武家屋敷群の南にある小林家長屋門


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茅葺きの入母屋造です。


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現地案内板によると、文化年間(1804年)頃、篠山藩12代藩主・青山忠裕がその老女・小林千枝の多年の労に報いるために修築した長屋門と伝えられるそうです。


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木造間口17.3m、奥行3.6mあるそうで、江戸時代後期に建てられた篠山市内に残る数少ない武家長屋建築のひとつとして、兵庫県指定文化財に指定されています。


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こちらは、中村家屋敷


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こちらは、城戸家屋敷


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こちらは、原家屋敷


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こちらは、佐藤家屋敷


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こちらの安間家屋敷は、現在、「武家屋敷安間家資料館」として一般公開されています。


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安間家史料館は天保元年(1830年)以降に建てられた武家屋敷で、平成6年(1994年)10月から翌年3月にかけて全面的な改修が行われ、史料館として一般に公開されたものです。


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安間家は「高12石3人扶持」の禄を得る下級武士だったそうです。


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屋敷内には、安間家に残された古文書や日常に用いられた食器類や家具を始め、その後、寄贈を受けた篠山藩ゆかりの武具や資料などが数多く展示されています。


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幕末の大ベストセラーとなった頼山陽『日本外史』があります。


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母屋は間口6間半(13m)、奥行7間半(15m)の曲屋で、部屋割りは正面に向かって左に玄関、右奥に庭園に面した8畳の座敷があり、玄関の奥には台所、座敷の奥には仏間、居間が続いています。

今の表現でいえば、4LDKでしょうか?

規模としては、篠山藩の標準的な下級武士の住宅だそうですが、けっこう広いですよね。


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母屋西側にある庭園です。

これもけっこう広い。


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庭から見た母屋。


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庭の片隅には土蔵があります。


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こちらは、玄関横の井戸


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さて、武家屋敷群を過ぎて外堀北西隅にやってきました。

これで、城跡をすべて巡りましたが、篠山城周辺の城下町は、「篠山伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

あと1回だけ、城下町を歩きます。

つづきは「その7」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-28 08:17 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その5 ~三の丸、外堀、馬出~

「その4」の続きです。

篠山城二ノ丸を出て、外堀に沿って歩きます。


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「その2」で紹介した北廊下門を出て、北へ歩きます。

振り返ると、石垣と二ノ丸大書院が見えます。


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大手門に架かる土橋の上から見た外堀です。

篠山城の内堀は復元ですが、外堀は往時のものです。

外堀は東西南北約400mあり、幅は約40mあります。


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外堀の北側には、かつて大手馬出がありました。

現在はたんば田園交響ホールとなっていますが、その敷地内の西側に、一部、土塁の痕跡が見られます。


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南に大書院の屋根が見えます。


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北側の外堀に沿って東へ進みます。


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雄大な川のようです。


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外堀北東の東門を出た東側には、東馬出跡が現存しています。


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「馬出」とは、城への通路を複雑にして出入口を守るための曲輪で、ここにあらかじめ兵馬を繰り出しておき、いざというときには馬出の門を開いて討って出るたまり場でもありました。


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篠山城には北、東、南の3ヵ所に馬出が設けられ、そのうち東馬出と南馬出が今も残っています。

これは、全国的にも珍しいそうです。


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案内板です。


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馬出は、戦国時代に主に東国で発達したと言われており、古くは、武田信玄が本拠としていた躑躅ヶ崎館に、その遺構が見られます。

大阪冬の陣真田信繁(幸村)が大阪城の南東に築いたと伝わる「真田丸」も、いわば馬出曲輪の一種です。


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現在、馬出内は整備されていて、何も知らなければただの長閑な公園です。


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東馬出を出て東側外堀を南に下ります。


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外堀の南東まで来ました。

樹木が茂ってわかりづらいですが、あの木の向こうに天守台石垣があります。


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南側外堀に沿って西へ歩きます。


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外堀南東の南門の南に、南馬出跡が現存しています。


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入口には石碑と案内板があります。


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南馬出は東馬出のように公園整備されておらず、遺構がそのまま残っているといった感じです。


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馬出の周囲は高い土塁で囲われています。


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この南馬出は、現存する土塁馬出遺構としては日本唯一の貴重なものといわれています。


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南馬出の北側にある南門です。

外堀に架かる土橋となっています。


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土橋を渡って三ノ丸に向かってみます。


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三ノ丸に出ました。

「その1」で紹介した内堀南西隅の石垣が見えます。


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外堀に沿って北、東、南と歩いてきましたが、西側の外堀沿いには武家屋敷群が残っています。

つづきは「その6」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-27 02:33 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その4 ~本丸・天守台~

「その3」の続きです。

篠山城二ノ丸跡から本丸跡に向かいます。


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写真は二ノ丸東側の本丸石垣です。

見てのとおり、本丸は二ノ丸より少しだけ高くなっているだけで、ほとんど並列のような感じです。


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本丸入口には石鳥居があります。

現在、本丸には青山神社が鎮座しています。


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青山神社は明治15年(1882年)に建立され、最後の篠山藩主・青山氏の遠祖・青山忠俊と、第12代藩主・青山忠裕が祭神として祀られています。

青山氏は譜代大名として幕府の要職を歴任した家柄で、なかでも忠裕は30年余り幕府老中を務め、その功績により篠山藩は5万石から6万石に加増されました。

また、忠裕は藩内の教育にも熱心だったそうで、篠山藩校「振徳堂」の学舎を増やし、学問を勧めたそうです。

そのことから、青山神社は学問の神様として信仰されていました。


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もうひとりの祭神・青山忠俊は、徳川家康の孫に当たる竹千代(のちの三代将軍・徳川家光)の傅役を務めた武将です。

しかし、忠俊はしばしば家光に諫言を繰り返したため、老中を免職されました。


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これ、もとは御神木だったのでしょうね。


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また、本丸内には、青山忠誠の頌徳碑があります。

青山忠誠は最後の藩主・青山忠敏の弟で、明治6年(1873年)に忠敏が死去し、忠敏に男子がいなかったことから、家督を継ぎました。

忠誠は明治9年(1876年)に私財を投じて私立篠山中学年舎をつくり、旧藩士の子弟教育に尽くしたそうです。

同校は明治17年(1884年)の中学校設備規則発布により廃校の方針となりますが、忠誠は基金を募り、翌年に私立鳳鳴義塾として存続をさせました。

また、東京にも進学の為の寄宿舎尚学館をつくり優秀な者は遊学させたそうです。

殿様の家柄で、明治以降にここまで旧家臣たちの教育に尽力した人は他に例を見ないかもしれませんね。

しかし、残念ながら忠誠は明治20年(1887年)に29歳という若さで没し、明治25年(1892年)に正四位を追贈されました。


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こちらは、同じく本丸跡にある青山忠誠公追慕碑

地元ではよほど敬慕されていたのでしょう。


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その説明板です。


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こちらは本丸跡の説明板です。

それによると、築城当初は現在の二ノ丸が本丸と呼ばれ、現在の本丸は、南東の隅に天守台があることから、特に殿守丸と呼ばれていたそうです。


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その天守台に行ってみましょう。


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天守台です。


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本丸から見た天守台はそれほど高さはありませんが、「その1」で見た内堀側の天守台石垣は、高さ17mあります。


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天守台に上がってきました。


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天守台は東西約18m、南北約20mあります。


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この天守台に天守が築かれることはありませんでした。

当初は建てる計画があったそうですが、築城途中に中止となったそうです。

その理由は、城郭が堅固すぎるということだったとか。

西国諸大名に対する抑えの拠点として幕府を守るために築城された篠山城ですが、それでも堅固すぎてはダメなんですね。


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その代わりに、天守台南東隅に二間四方(約3.6m四方)単層の隅櫓を配置し、東西と南北に土塀をめぐらせたそうです。


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その説明板です。


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天守台からの東の眺望です。

富士山のような形をした山が見えますが、あの頂上には、かつて八上城がありました。


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さて、本丸を制覇しましたが、篠山城シリーズをもう少し続けます。

続きは「その5」にて。



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by sakanoueno-kumo | 2019-12-26 00:40 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その3 ~大書院~

「その2」の続きです。

篠山城二ノ丸にあった建物のなかで、ひとつだけ平成12年(2000年)に復元された大書院です。


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写真は南側から見た大書院。


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篠山城大書院は木造住宅建築としては非常に規模が大きく、現存する同様の建物の中では、世界遺産に指定されている京都二条城二の丸御殿遠侍に匹敵する建物だそうです。

たしかに、見た感じも似てますよね(参照:大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その2 ~二ノ丸御殿・二ノ丸庭園)。


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二条城の御殿は徳川将軍が上洛したときの宿所となった第一級の建物ということから考えれば、ここ篠山城の大書院は、一大名の書院としては破格の規模の建物といえるかもしれません。


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大書院入口は北側にあります。

唐破風をつけた車寄となっています。


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大書院は慶長14年(1609年)の築城当時に建てられたと考えられ、その後、約260年間に渡って藩の公式行事などに使用されました。


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篠山城の初代城主は徳川家康に築城を命じられた松平康重

康重は駿河国三枚橋城主・松平康親の長男と言われますが、一説には、家康の落胤とも言われています。

康重は篠山藩政の基礎を固めましたが、その後、和泉国岸和田藩に移封となります。

その後、藤井松平家2代、形原松平家5代、青山家6代が歴代城主を務め、明治を迎えました。


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明治維新を経て廃藩置県後に建物の多くは取り壊されましたが、ただひとつ大書院だけが残され、小学校や女学校の校舎として、その後は公会堂などに利用されていたそうですが、昭和19年(1944年)1月6日の夜、火災によって焼失しました。


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その後、篠山城跡は未整備のままでしたが、保存を望む声が持ち上がり、昭和31年(1956年)に国の史跡に指定されると、それを機に石垣の修理や発掘調査が実施され、平成12年(2000年)3月にこの大書院が復元されるに至ります。


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大書院を復元するにあたっては、古絵図、古写真、発掘などの総合的な学術調査が実施され、その成果に基づいて設計と建築が行われ、総工費約12億円かけたそうです。

復元された建物は平屋建てで北(妻側)を建物正面とします。床面積は739.33㎡、棟高は12.88mあり、屋根は入母屋造 、柿葺きとなっています。


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また、建物内部には襖絵などに囲まれた8つの部屋があり、その周囲に広縁が、さらにその外側には落縁が一段低く設けられています。


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上の写真は上段の間です。

パンフレットの説明書きによると、上段の間は、最も格式の高い部屋であり、幅3.5間(6.9m)の大床、その左手に付書院、右手に違い棚、帳台構が設けられています。

こういった座敷を飾るしつらえが整うのは大書院が創建された慶長頃のことと考えられているそうです。

この上段の間には、往事の雰囲気を再現させるため、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を障壁画として転用しています。


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甲冑具足のレプリカが展示されています。


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構造模型です。


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さて、次稿では大書院を出て本丸を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-25 00:07 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その2 ~二ノ丸~

「その1」の続きです。

篠山城三ノ丸北廊下門から土橋を渡って二ノ丸に向かいます。


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写真は土橋を渡ったところにある表門跡


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両側には櫓台跡があります。

往時はこの上に櫓が渡る櫓門だったのでしょう。


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表門を過ぎると、見ての通り90度に曲がる枡形虎口になっています。


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枡形を曲がったところに、また櫓台跡があります。

ここは中門跡で、ここも櫓門だったのでしょう。


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そして中門を過ぎると、またまた枡形になっています。

ダブル枡形虎口ですね。

これは堅固だ。


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後ろを振り返って見た中門跡です。

表門はもう見えません。


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そして中門から90度曲がったところにある鉄門です。

現在は簡易な冠木門となっていますが、現地の説明板によると、往時は東西の幅約5m、奥行き4.5mの大きさで、東側石垣の高さが4m、西側石垣の高さが4.5mあり、その上に櫓が乗せられた櫓門だったようで、門扉は、その名の通り鉄板が張られていたそうです。


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鉄門を入ると、目の前に平成12年(2000年)に復元された大書院入口があるのですが、ひとまず後回しにして二ノ丸を散策します。


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大書院南側に広がる二ノ丸跡です。


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説明板です。


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往時の二ノ丸は、大書院、小書院、中奥御殿、奥御殿、台所などの建物があり、築山をもつ庭園があったとされます。

それらの御殿群の周囲には、三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟と、それをつなぐように多聞櫓が配置されていました。


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前稿でも述べましたが、篠山城は慶長13年(1608年)に徳川家康松平康重に命じ、縄張り奉行藤堂高虎、そして普請総奉行池田輝政が務めて築城した城ですが、二ノ丸御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり増築されたりしていたようです。

しかし、大書院以外の建物は廃藩置県後に取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年(1944年)に焼失し、すべてなくなってしまっていました。


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平成12年(2000年)に大書院は復元されましたが、それ以外の建物は立体的に復元できる資料がないため、現在発見されている6種類の間取図のなかで最も古い江戸時代中期頃の図面をもとに、地面に平面のみ復元整備しています。


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平面復元された地面には、部屋名を記した御影石が埋め込んでいます。


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南西の隅にある井戸です。


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二ノ丸南側にある埋門です。


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ここから、南側内堀の犬走りに降りられるのですが、今は通行禁止になっています。


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外側から見た埋門。

往時はここも櫓門だったそうですが、今は鉄門と同じく簡易な冠木門となっています。


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犬走りに降りる石段です。


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埋門櫓台石垣に、「三佐ノ内」と刻まれた刻印があります。

これは、普請奉行の池田輝政のものだそうで、池田三左衛門輝政の名を表しているそうです。


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二ノ丸南側の眺望です。


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こちらは二ノ丸西側の眺望。

三ノ丸広場でゲートボールをしています。


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こちらの写真は二ノ丸南側から北側を見たものです。

正面に見える建物が大書院です。


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二ノ丸の北東にやってきました。


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かつてここには、二層櫓があったそうです。


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一段高くなった隅には、その礎石跡のようなものがあります。


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北東隅櫓跡から北側の内堀を見下ろします。


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きれいに整備された犬走りが見えます。


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撮影場所を変えて、こちらが二ノ丸北東隅櫓台石垣

その下は内堀の犬走り。


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西側を見ると、大書院が見えます。

二ノ丸散策だけでめちゃくちゃ長くなっちゃいました。

「その3」では大書院に入ってみましょう。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-24 00:57 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その1 ~内堀~

兵庫県篠山市にある篠山城跡を訪れました。

篠山城は江戸幕府開府後に徳川家康が築いた城で、当時、篠山盆地は大阪や京都から山陰、山陽への街道が通る交通の要衝地でした。


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江戸幕府を開いた徳川家康は、慶長13年(1608年)に松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに、西国諸大名に対する抑えの拠点として新城の築城を命じました。

そして築かれたのが、ここ篠山城です。


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築城工事は西国15カ国20大名によって行われ、縄張り奉行を築城の名人で知られる藤堂高虎が、そして普請総奉行を同じく城づくりの名手として知られる池田輝政が務め、延べ8万人を動員して約半年という突貫工事で完成させたといいます。


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篠山城跡の見どころは何といっても高石垣

まずは内堀に沿って1周してみましょう。


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石垣は基本的に野面積みです。

関ヶ原の戦い後のこの時代は既に打込み接ぎの工法が主流となりつつあったと思うのですが、なぜか篠山城は古い工法の野面積みなんですね。

半年間の短期突貫工事だったからでしょうか?


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北西の出隅です。

算木積みの工法が用いられていますね。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。


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内堀は、昭和の戦後に一度埋め立てられたそうで、その後、復元されたものだそうです。


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南西の出隅です。


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南側の石垣。


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上部に見える門は、二の丸へ通じる埋門

現在は通行禁止です。


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南東に見えるのは、天守台の高石垣。

高さは約17mあるそうです。

石垣下には、犬走りが見られます。

「犬走り」とは、石垣と堀の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分のことで、犬が通れるくらいの幅しかない道という意味合いから、そう呼ばれます。


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こちらは南東から見た天守台石垣。


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出隅は算木積みになっていますね。


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こちらは、北東の石垣です。

ここにも犬走りがあります。

こちらは草が刈られてきれいに整備されています。


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とにかく石垣が見事です。


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表門横の櫓台石垣です。


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櫓台の説明板。


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北側の北廊下門にやってきました。

ここが三ノ丸から二ノ丸に続く大手筋になります。


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土橋前には昭和31年(1956年)に建てられた石碑があります。


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その横には案内板が。


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さて、土橋を渡って二ノ丸へ・・・と言いたいところですが、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-22 00:36 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 総評

 令和元年の大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』の全47話が終わりました。毎年、大河ドラマレビューを起稿してきた当ブログですが、今年は、主人公のふたりについての予備知識がほとんどなく、昨年、関連本を数冊読みかじっただけのにわか知識のみでレビューに臨んだのですが、どうにかこうにか今年も完走できて安堵しています。で、最後に、例年どおり今年の作品についてわたしなりに総括します。


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主人公は、日本人初のオリンピック選手となり、「日本のマラソンの父」と呼ばれた金栗四三と、昭和の東京オリンピック招致に尽力した田畑政治の2人をリレー方式で描く形で、物語の舞台は、日本が初めて夏季オリンピックに参加した明治45年(1912年)のストックホルムオリンピックから、幻となった東京オリンピック開催を決めた昭和11年(1936年)のベルリンオリンピックを挟んで、昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催までの52年間。つまり、日本のオリンピック史を描いたドラマでした。来年の令和2年(2020年)に行われる東京オリンピックに向けて、国民みんなで盛り上がっていきましょうって狙いで企画されたドラマだったのでしょう。


 で、わたしの個人的な感想を言えば、めっちゃ面白かった名作だったと思います。当初はあまり期待していなかったのですが、途中からめちゃくちゃ引き込まれた。知識がない分、先入観なくドラマとして観ることができ、ブログを更新するためにあとから調べてみると、実はかなり史実を忠実に描いていることがわかり、感心させられた話がいくつもありました。近現代史ですから、史実に縛られること大で、そこを忠実に守りながら面白くドラマとして描くのはかなりの腕が必要だと思うのですが、史実のエピソードに創作の伏線をうまく散りばめて、さすがはクドカンといった回がたくさんありました。


 ところが、巷の評価はどうも違ったようで、毎週月曜日に目にする記事は、「視聴率ワースト記録」といった酷評ばかり。残念です。どうも、戦国史、幕末史以外の作品は視聴率が取れないようですね。今回の場合、特に、戦史でも政治史でもなくオリンピック史ということで、放送開始前から「面白くなさそう」「今年はパス」といった声を多く耳にしました。視聴率低迷の1番の理由はそこに尽きるとわたしは思います。というのも、酷評の記事の内容はすべて低視聴率に関するものばかりで、内容を批判したものはほとんどなかった。毎年、脚本を批判する声が飛び交うのが大河ドラマの批評ですが、今年に限っていえば、毎週観ている人は、ほとんど批判の声がなかったんじゃないでしょうか。酷評しているのは、観ていない人ばかり。内容ではなく、「主人公の知名度が低い」とか「人気俳優さんの出演が少ない」とか、内容以外の低視聴率の原因を探って叩いているだけです。全部観てから言えよ、と言いたいですね。


 大河ドラマは歴史ドラマといえどもドラマである以上、大衆娯楽ですから、視聴率をひとつの指標として評価することは間違っていないと思います。ですが、高視聴率=名作低視聴率=駄作というレッテルの貼り方は、いささか短絡的すぎるのではないでしょうか。ただ高視聴率を取るという目的だけなら、無難な戦国史を旬のイケメン俳優さんを主役にして描いたら、それなりの数字にはなるでしょう。でも、じゃあ、それが名作かといえば、そうじゃないですよね。過去の作品を見ても、今年の『いだてん』が塗り替えるまで視聴率のワースト記録を持っていた平成24年(2012年)の『平清盛』は、わたしの中では名作のひとつですし、イケメン俳優さんが主人公だった平成22年(2010年)の『龍馬伝』は、イケメン俳優さんの力で高視聴率でしたが、わたしのなかでは駄作です。今年の『いだてん』でいえば、主人公2人を演じたふたりの俳優さんは、申し訳ないですが視聴率を稼げる旬のイケメン俳優さんではないですし、物語の舞台も、あまり人気のない近現代史。はっきり言って、NHKサイドも放送前から低視聴率は覚悟の上だったと思います。それでも、この時代を描くんだという制作サイドの意気込みが伝わってくる作品でした。それが出来るのが、スポンサーに媚びることなく作品づくりが出来るNHKの良さだと思います。だから、大河ドラマに限っていえば、視聴率が全てではないと思うんですね。


 ただ、こんな意見も耳にします。たしかに『いだてん』は面白かった。でも、これを大河ドラマと言えるかどうか・・・と。大河ドラマでなければ良い作品だったと思うけど、大河ドラマはもっと重厚で骨太な歴史ドラマであるべきだ、と。言いたいことはわからなくはないです。わたしも、実はそういう作品が観たいと思っているひとりです。でも、それも固定観念ですよね。戦史政治史だけが歴史ではありません。オリンピック史も立派な歴史。半世紀以上続く大河ドラマの中で、そういう作品があってもいいんじゃないでしょうか。ましてや、近現代史というのは、とかくデリケートな歴史観がつきまとい、描き方によっては思想的な批判の的になります。ところが、今回、オリンピック史を通して見た明治、大正、昭和だったので、第二次世界大戦の描き方についても、ほとんど思想的な批判はなかったと思います。見事でしたね。最終回の舞台となった昭和39年(1964年)の前年には、すでにNHK大河ドラマは始まっていました。その時代がすでに歴史となって、こうして大河ドラマで描かれている。改めて大河ドラマの歴史を感じます。


 さて、作品の内容についてですが、金栗四三田畑政治のふたりを主人公に描かれた物語でしたが、この物語の真の主人公は、実は嘉納治五郎ではなかったかとわたしは思っています。講道館柔道の創始者であり、「近代柔道の父」として後世に名高い嘉納ですが、今回のドラマを観て、改めて嘉納治五郎という人物の偉大さを知りました。幕末に生まれ、まだ「スポーツ」という言葉すら知られていない時代に、日本人初のIOC委員となり、日本のスポーツの道を開いた。政治家でも財界人でもないただのスポーツマンとして、この時代にこれほどグローバルな活躍をした人がいたということに、大きな感動をおぼえます。この人がいなければ、日本のスポーツの発展はずいぶん遅れていたでしょうし、あるいは昭和39年(1964年)の東京オリンピックもなかったかもしれません。嘉納治五郎といえば、「伝説の柔道家」という印象しか持っていなかった人がたくさんいたと思います。今回の作品では、そんな嘉納の功績がしっかり描かれました。こういう人がいたんだ・・・今回のドラマで初めて知ったという人がたくさんいたんじゃないでしょうか。


 もうひとりの影の主人公は古今亭志ん生でしたね。ドラマが始まった当初は、物語の本筋であるオリンピック噺と古今亭志ん生の生涯とを並行して描く設定の意図がよくわからなかったのですが、その長く壮大な伏線を回収したのが、第39話「懐かしの満州」でした。あれ、神回でしたね。鳥肌が立ちました。聞くところによると、もともと脚本家の宮藤官九郎さんが「満州の古今亭志ん生と戦争」を書きたくて着想したのがこの物語で、オリンピック噺は後付けだったとか。なるほど、だから志ん生が語り部だったんですね。あと、あの回は、主人公の金栗四三と田畑政治がほとんど出てきませんでした。私はこれまで当ブログにおいて、主人公が出ない回かあってもいいんじゃないか、と度々発言してきました。主人公を無理やり歴史上の出来事に絡めて出そうとするから、話が嘘くさくなって面白くなくなる。大河ドラマが歴史ドラマである以上、その流れのなかで主人公が出てこない回があってもいいと思うし、そうすることで、物語により厚みが出るとわたしは思います。今回、それを見事にやってのけていて、それがまた素晴らしい出来でした。


 あと、ふれておかねばならないのは、本作品は俳優さんの不祥事やアクシデントに泣かされた作品でしたね。高橋是清役の萩原健一さんが亡くなられたのは仕方がなかったにしても、ピエール瀧さんと徳井義実さんの不祥事については、残念の一言につきます。たぶん、本当は前半もっと足袋屋のエピソードがあったんじゃないでしょうか。徳井さんのシーンについては、撮り直しは不可能ということで、ドラマ全体の流れを損なわないよう再編集した内容で放送されたとのことですが、どの程度カットされたのかはわかりません。あるいは、建前上そう言っているだけで、実は予定どおりに流していたかもしれませんが、それはそれでいいんじゃないかとわたしは思います。そうしていたとしても誰もわかりませんし。


でも、ピエール瀧さんのシーンに関しては、事件以降はすべて撮り直しとなった。この差は、物理的に撮り直しが可能か不可能かにもよるかと思いますが、ピエール瀧さんは逮捕されて容疑者となりましたが、徳井さんは逮捕はされていない。その差も大きかったんじゃないでしょうか。こういう問題が起きたとき、いつも、賛否両論の意見が飛び交いますが、「作品には罪はない」という論点から言えば、わたしも、すでに撮り終わっているものまでお蔵入りさせる必要はないと思うのですが、それも、その罪の度合いによりますよね。徳井さんの場合、あのまま流しても許されるレベルの罪だった。でも、極端なはなし、じゃあ、出演者が殺人事件を起こしたら・・・? それは絶対放送できませんよね。じゃあ、傷害事件だったら? 麻薬は直接的な被害者がいないからOK? ・・・てな具合で、結局、どこまでがセーフでどこからがアウトかの線引きが難しいですよね。今回はピエールさんも徳井さんもそれほど重要なキャストではありませんでしたが、来年の大河では、準主役ともいうべき女優さんの不祥事で、いま大変なことになってますよね。まずは出演者の身辺調査の強化が最重要課題でしょうね。


 さて、連連とウンチクを垂れてきましたが、今年の大河ドラマを一言で表すならば、「お見事!」という言葉に尽きると思います。「上手い!」と唸らされることが度々だった作品でした。クドカンらしいクドカンの大河作品だったといえるでしょう。いろんな意見があるかと思いますが、わたしのなかでは名作のひとつに数えられる作品です。視聴率は低かったですが、わたしと同じ感想を抱いている人もたくさんいるんじゃないでしょうか。何年か後に評価される作品かもしれません。そう願いたいですね。


 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで私の拙い『いだてん~東京オリムピック噺~』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてお会いした方々、どなたさまも本当にありがとうございました。


●1年間の主要参考図書

『金栗四三と田畑政治 東京オリンピックを実現した男たち』 青山誠

『金栗四三 消えたオリンピック走者』 佐山和夫

『嘉納治五郎 オリンピックを日本に呼んだ国際人』 真田久

『明治大正史』 中村隆英

『昭和史』 半藤一利

『昭和史戦後編』 半藤一利


参考にしたサイト

公益財団法人日本オリンピック委員会



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by sakanoueno-kumo | 2019-12-18 00:03 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(2)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第47話(最終回)「時間よ止まれ」 ~東京オリンピック開催とエピローグ~

 昭和39年(1964年)10月10日、国立競技場において東京オリンピック開会式が行われました。この前日まで、接近していた台風の影響で3日間ほど雨が降ったり曇ったりを繰り返していたそうで、当日の天気が危ぶまれていましたが、蓋を開けてみると、この日は抜けるような青空の秋晴れになりました。


 「世界中の青空を全部持ってきたような、素晴らしい秋日和でございます。」


 歴史的なテレビ中継はNHKの北出清五郎アナウンサーのこの名調子で始まりました。この10月10日という開会式の日程は、過去の統計上、最も晴れが多い日として決定したという話は有名ですね。夏季オリンピックとしては大変遅い開幕でしたが、東京の夏は気温と湿度が高く、10月上旬までは秋雨前線が停滞することなどを考慮し、秋の長雨が終わって晴れやすい時期で、屋外競技を行うのに寒くない時期ということから10月10日が選ばれたそうです。とは言え、あくまで確率の問題であって、晴れる保証などどこにもありません。台風の接近と前日までの天気から思えば、ほぼ奇跡的な晴天だったんじゃないでしょうか。


この2年後の昭和41年(1966年)には、東京オリンピック開会式を記念して10月10日が「体育の日」として祝日になりました。(平成12年にハッピーマンデー制度が導入されたため、「体育の日」は現在では10月第2月曜日となっています。)気象庁の発表によれば、東京で「体育の日」に1mm以上の雨が降った回数は、昭和41年から平成30年までの52年間でわずか9回だそうです。晴れやすい日というのは確かなようですね。


 ちなみに、令和2年(2020年)の東京オリンピックの開会式は7月24日だそうですね。その日の天気の統計がどうかは知りませんが、酷暑のなかの開会式となることは間違いないでしょう。それを考慮して秋に開催したのが昭和の東京オリンピックだったわけですが、じゃあ、今回もそうすれば、札幌ではなく東京でマラソンも開催できたのに・・・と思ってしまうのですが、そうもいかない事情があるようですね。秋は欧米諸国で人気スポーツが佳境を迎える季節で、テレビ放映権スポンサー収益をオリンピックが独占できるのが、7月中旬から8月にかけてだそうです。だから、国際オリンピック委員会(IOC)が、その時期に行うよう開催都市に求めているんですね。アスリートファーストの観点でマラソンを札幌にて行うよう求めてきたIOCでしたが、大人の事情には逆らえないようです。


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 話をドラマに戻して、開会式では平和の象徴として8000羽の鳩が放たれ、東京上空3000mに、陸上自衛隊の5機のブルーインパルスが、青、黄、黒、緑、赤色の5つの輪を描きました。その五輪の端から端まで、東西およそ7kmにわたったとされます。ドラマでは、パイロットの松下治英から五輪を描くことを提案していましたが、あれも実話だそうですね。当初、組織委員会からのリクエストは、5機のジェット機が、それぞれ五輪の5色の煙を出しながら、競技場の上空を飛び去っていくということだったそうですが、それを聞いた松下が、「そんなことは航空自衛隊隊員だったら、誰にでもできる。それではあまりにも芸がない。どうせなら、五輪の輪を描くというのはどうだろう」と言い、そうなったのだとか。でも、実際にやってみたら予想以上に難しくて、「あんなこと言わなければ良かったなぁ」と後悔したそうです。結局、成功したのは当日が初めてだったとか。プロの意地ですね。


 東京オリンピックで日本が獲得したメダルは、金16、銀5、銅8計29個でした。これは、アメリカ、ソビエト、ドイツに次ぐ4位の成績で、金メダルだけでいえば、アメリカ、ソビエトに次いで3位。なんとか開催国の面目を保ちました。国民はソビエトを倒して金メダルに輝いた女子バレーボールに熱狂し、「東洋の魔女」がこの年の流行語にもなりました。マラソンでは、4年前のローマ大会を裸足で走って優勝し、「裸足のアベベ」として世界に名を轟かせたエチオピアのアベベ・ビキラ選手が2連覇(アベベは東京大会では裸足じゃなかったんですけどね)。銅メダルとなった円谷幸吉選手にも喝采が巻き起こりました。この大会で初めて公式種目となった柔道は、無差別級だけが惜しくも銀メダルとなったものの、他の階級はすべて金メダル獲得と、発祥国としての面目を保ちました。何より、アジア初のオリンピック、「有色人種」国家における史上初のオリンピックとして、過去最高の出場国数の開催となったこと。昭和39年(1964年)の東京オリンピックは大成功を収めました。


 東京オリンピックから3年後の昭和42年(1967年)、金栗四三のもとにストックホルムから1通の手紙が届きます。そこには、


 「あなたは1912年7月14日午後1時30分にオリンピック競技場をスタートして以来、一切の届出がなく、いまだにどこかを走り続けているものと思われます。スウェーデンオリンピック委員会は、あなたに第5回オリンピック大会のマラソン競技を完走することを要請いたします。」


 と書かれていました。この年、スウェーデンではストックホルムオリンピックの55周年記念行事が行われる予定で、そこで、マラソン競技中に失踪した日本人ランナーレースを完了してもらおうというイベントが企画されていました。第13話「復活」で描かれていたように、通常、レース中に倒れた選手は運営スタッフがその意志を聞いて「棄権」を確認しますが、金栗の場合、レース中にコースを外れて農家で介抱されていたため、正式に棄権の意思確認はされていないままになっていたんです。つまり、記録上はまだ棄権とはなっておらず、どこかを走り続けているということになるわけですね。そのことに気づいたスウェーデンオリンピック委員会が、この企画を思いついたわけです。なんともなはからいですね。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第47話(最終回)「時間よ止まれ」 ~東京オリンピック開催とエピローグ~_e0158128_18501076.jpg 昭和42年(1967年)3月21日、55年ぶりにストックホルムの競技場を訪れた金栗は、当時と同じく大観衆で埋め尽くされたスタジアムに立ち、分厚いコートに革靴という姿のままゆっくりと走り、ゴールテープを切りました。ゴールと共に場内にアナウンスが響きます。


 「日本の金栗選手、ただいまゴールイン。記録は54年と8ヵ月と6日、5時間32分20秒3。これをもちまして、第5回オリンピック・ストックホルム大会の全日程を終了いたしました。」


 なんとも心憎い演出ですね。スタジアムではわれんばかりの大歓声が起こったそうです。そして、続けて行われたインタビューで、金栗はこう語ります。


 「ここまで長い道のりでした。この間に嫁をめとり、6人の子供と10人の孫に恵まれました。」


 この54年と8ヵ月と6日、5時間32分20秒3という金栗の記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録として、今後も破られることはないだろうといわれています。まあ、そりゃそうでしょうね。


 金栗は晩年も小学校でマラソンの指導をするなど郷土のマラソン普及に尽力し、昭和58年(1983年)11月13日に92歳でその生涯を閉じるまで、走った距離の総合計は25万kmにも及んだといいます。地球を6周以上。まさに「いだてん」でした。


 もうひとりの主人公・田畑政治は、東京オリンピック後は古巣の水泳協会に戻り、東京オリンピックでいい結果を残せなかった競泳陣の立て直しに邁進。その後、JOC会長に就任し、スポーツの振興に尽力しました。そして、金栗の死から1年足らずの昭和59年(1984年)8月25日、85歳でこの世を去ります。その生涯をオリンピックに捧げた田畑の棺は五輪旗で覆われ、その旗とともに荼毘に付されたそうです。


 さて、最終回の稿はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』のレビューは終わりとさせていただきます。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2019-12-16 19:00 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

明治維新を血に染めた堺事件。 その2 「妙國寺・土佐十一烈士之墓」

「その1」で紹介した堺事件発祥の地碑から1kmほど西にある妙國寺で、くじ引きで決められた20人の土佐藩士が切腹することになりました。

現在、その境内には、切腹して果てた土佐藩士と、堺事件死亡したフランス水兵たちの供養塔が建てられています。


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事件から8日後の慶応4年2月23日(1868年3月16日)、ここ妙國寺の本堂庭前でフランス水兵に向けて発砲した土佐藩士の切腹が行われました。

急に降り出したのせいで2時間ほど執行が遅れましたが、居並ぶフランス関係者と日本側の立会いの元、順番に切腹が始まります。


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最初に切腹したのは、六番隊警備隊長の箕浦元章(猪之吉)

箕浦はみごとに横一文字に腹を切り裂くも、介錯人の切り込みが浅く、3度目の刃でようやく首が落とされたといいます。

一説には、箕浦は腹を切り裂いた直後、腹部に手を入れて自らの腸を取り出し、目の前で検分するフランス人に差し出して大喝したという話も残ります。

これが本当なら、介錯人が仕損じた理由もうなずけます。

その後も箕浦に続けとばかりに、深く切り裂いた口から内臓が外に飛び出すなど、凄まじいシーンの連続だったといいます。

そのあまりの凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールが恐れおののき、11人が切腹したところで、切腹に立ち会っていた外国局判事・五代友厚(才助)中止を要請し、ここで打ち切りとなりました。

偶然だったのかどうか、奇しくも事件で死亡したフランス水兵と同じ11人が切腹したことになります。

結果として、喧嘩両成敗、両者痛み分けという着地点になったわけですね。


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こちらが境内にある供養塔です。


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真ん中の碑には「南妙法蓮華経」、左の石碑には「土佐藩十一烈士之英霊」、そして右側の石碑には「佛国遭難将兵慰霊碑」と刻まれています。

これらは事件から50年後の大正5年(1916年)に建てられたものです。


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真ん中の碑の台には、切腹した11人の名前が刻まれています。


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フランス水兵の慰霊碑には、Themonument of the French martyrs(フランスの殉教者の記念碑)」と刻まれています。


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切腹した11人の亡骸は、妙國寺の向かいの宝珠院に葬られています。


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現在、宝珠院は幼稚園を兼ねており、わたしが訪れた土曜日は休日で、中には入れませんでした。

堺市のホームページによると、中に見える巨木の下に、11人の墓石が並んでいるそうです。


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宝珠院の前にある石碑です。


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一方、生き残った9人死ぬ覚悟だっただけに、突然の中止に納得がいかず、「死者の家族に合わす顔がない。この期に及んで死を免じられることは志士の恥じることとなる。」として、潔く腹を切ることを望んだといいます。

しかし、五代友厚は「フランス側がこれ以上の切腹を望まない以上、無駄に死ぬ必要はない」として、これを許しませんでした。

結局9人は、熊本、広島両藩預かりとなったのち、土佐に帰されました。


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その後、11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った9人は「ご命運様」と呼ばれ、死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかったといいます。

周辺に残る石碑や道標が、参拝者が絶えなかった往時の様子をしのばせています。


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先日の稿で紹介した神戸事件と、この堺事件が、世界に日本の「ハラキリ」を広めるきっかけとなりました。

明治新政府最初の外交問題は、血まみれの決着となりました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-14 00:57 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)