人気ブログランキング |

<   2020年 01月 ( 12 )   > この月の画像一覧

 

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>

「その8」のつづきです。

彦根城東側の玄宮園の南にある桜橋駐車場の横の金亀児童公園に、幕末の幕府大老・井伊直弼が建てられています。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19550656.jpg


井伊直弼は文化12年(1815年)に、彦根藩第13代藩主・井伊直中14男として彦根城二ノ丸の下屋敷(槻御殿)に生まれます。

幼い頃から和歌や槍術などを学び、文武両道に優れた聡明な子どもだったといいますが、兄が13人もいて、しかも側室の子であったため、養子のもらい手もなく、ましてや藩主の座が回ってくることなど考えられず、天保2年(1831年)に父の直中が亡くなると、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間300俵の部屋住みとして過ごします。

その邸宅を、直弼は自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けました。

この不遇の時代に、直弼は国学、禅、茶道、歌道、絵画、能楽、兵学、居合、槍術等をとことんまで修めたそうで、この頃、茶道の「ちゃ」、歌道の「か」、鼓を打った時の音の「ぽん」をとって、「ちゃかぽん」とあだ名されたそうです。

ところが、弘化3年(1846年)に兄の第14代藩主・井伊直亮の世子であった井伊直元(直中の11男で、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定し、嘉永3年(1850年)、直亮の死去にともない、家督を継いで藩主となります。

なるはずのなかった藩主の座がまわってきたんですね。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19550973.jpg


藩主となった直弼は、もともと聡明な人物だったわけですから、その能力を発揮し、名君とうたわれました。

その直弼が幕府内で頭角を現したのは、嘉永7年(1854年)の2度目の黒船来航のときでした。

当時、有力藩主が集まって幕政に関与する溜間詰(たまりのまづめ)大名という集いがあり、直弼はその筆頭という立場でした。

ペリー艦隊来航に際して直弼は、溜間詰大名筆頭として開国を主張し、鎖国の維持と攘夷を主張する前水戸藩藩主・徳川斉昭激しく対立します。

結局、幕府は米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印を、朝廷の勅許を受けるということで事態の打開を図ろうとします。
また、折から幕府内では、将軍継嗣問題よる対立も深まっていました。

幕政改革を求める雄藩藩主らは、斉昭の子で英明と噂されていた一橋慶喜(のちの第15代将軍・徳川慶喜)を支持し、一橋派と呼ばれていました。

これに対して、系統重視の幕府主流派は紀伊藩主・徳川慶福(のちの第14代将軍・徳川家茂)を推し、南紀派と呼ばれます。

一橋派は、斉昭を中心に福井藩主・松平慶永(春嶽)や薩摩藩主・島津斉彬らで形成され、一方の南紀派は、直弼をはじめ、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤ら溜間詰大名が中心でした。

両者の対立は条約調印問題と将軍継嗣問題という2つの政治的対立によりさらに深まっていきますが、そんななか、安政5年(1858年)4月、直弼は大老職に電撃就任します。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19551240.jpg


大老となった直弼は、その権限を遺憾なく発揮して、かなり強引な政務を執り行います。

孝明天皇(第121代天皇)の勅許が得られずに止まっていた日米修好通商条約は、「国家存亡のときにあってやむなし」という直弼の判断により、勅許のないまま調印が行われました。

そして、その直後には、自らが推していた徳川慶福を次期将軍に決定します。

当然のごとく、この強引な手法には大きな反発がありましたが、直弼はその反発に対して、反対勢力を徹底的に処罰するというさらに強引な手法で答えます。

その強引さたるや、抵抗勢力に刺客を送った小泉純一郎元首相の比ではなく、幕臣、大名はもちろん、市井の学者や志士に至るまで、あらゆる抵抗勢力の一切排除を断行しました。

そのなかに、政敵である斉昭がいたのは言うまでもありません。

斉昭は国許永蟄居の処分となり、政治生命を断たれました。

世に言う、「安政の大獄」です。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19551625.jpg


政敵の弾圧に成功した直弼は、さらに水戸藩に圧迫を加えます。

幕府は水戸藩を威嚇して、安政6年(1859年)に朝廷より同藩に下った勅諚(条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っているということが記された書状)の返上を迫りました。

「勅諚」とは天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。

ときの帝・孝明天皇(第121代天皇)は元来、異国人の入国を病的なまでに嫌い、直弼が勅許を得ずに調印した日米修好通商条約締結を知って激怒しました。

そんな天皇の意志を利用し、薩摩の西郷吉之助(隆盛)や水戸藩士など先の将軍継嗣問題において失脚した一橋派の志士たちは、公卿への工作を行い、直弼の大老職の免職、徳川斉昭の処罰の撤回などを呼びかけ、形成の挽回をはかろうとします。

その工作により天皇を動かして出されたのが、この勅諚でした。

これが幕府にとって面白くないことであったのは言うまでもありません。

この勅諚は「戊午(ぼご)の密勅」と呼ばれ、直弼をはじめ幕府首脳部に強い危機感をもたらし、安政の大獄の引き金になったとも言われています。

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19552139.jpg

幕府の水戸藩に対する勅諚返上命令を受けて、水戸藩内では大紛争が巻き起こり、幕府の指令に忠実に従おうとする鎮派と、断固として返上反対を訴える激派とに二分します。鎮派は主に藩首脳陣で、激派の者たちは主として下級の藩士層でした。

藩内の対立が激化するなか、激派の中心人物だった高橋多一郎金子孫二郎関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。
この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。

雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。

駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。

襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。

享年46。

幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19552433.jpg

この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。

水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。

この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。

その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19535250.jpg


作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。


「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」


この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは事実でしょうね。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_20001317.jpg


彦根城佐和口門の近くには、直弼の歌碑があります。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_20001846.jpg


井伊直弼に対する後世の評価は真二つにわかれます。

ひとつは、現実味のない攘夷論に与せず、客観的な視野を持って開国にふみきった開明的な政治家という評価と、もうひとつは、外圧に屈して違勅調印を行い、安政の大獄を起こして有能な人材を殺した極悪非道の政治家という批判です。

はたしてどちらが正しい評価でしょうか。

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_20002282.jpg

私は、そのどちらでもないと思います。

開国にふみきった経緯で言えば、彼は決して積極的に通商条約に調印したわけではなく、外圧におされてやむなく調印したのであり、その証拠に、条約はいわゆる不平等条約でした。

彼が行った開国は、決して先見の明といえるものではなかったでしょう。

一方で、勤王の志士たちを殺した悪逆無道の政治家という評価は、これもまた、客観性を欠いた批判といえるでしょう。

幕府大老として幕権を守ろうとするのは当然のことで、違勅調印に対する批判にしても、のちの王政復古史観皇国史観の立場からの見方で、天皇の意志を絶対視する考えの上からの批判といえます。

幕閣である直弼の立場では、天皇の意思よりも幕府を重んじるのは当然のことでした。

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_20002614.jpg

私は、井伊直弼批判の声をもっとも大きくしたのは、安政の大獄で吉田松陰を殺したことだと思います。

松蔭の教育を受けた者たちが、やがて明治の世の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、彼らの恩師である松蔭を殺した井伊直弼という人物は、極悪人というレッテルを貼られ、それに対する異論は封じられたのでしょう。

その意味では、直弼の最大の失策は、松蔭の処刑だったように思います。

もし、島流しぐらいにしておけば、後世にそれほど避難されることはなく、現代の小説やドラマでも、違った描かれ方をしていたかもしれません。


あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな


この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしているといわれます。

この歌を詠んだ2ヶ月後、直弼は凶刃に倒れました。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-22 23:55 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

麒麟がくる 第1話「光秀、西へ」 ~明智光秀の出自~

さて、2週遅れで令和2年(2020年)の大河ドラマ『麒麟がくる』が始まりました。いろいろありましたが、まずは初回放送に間に合わせてくれとことを感謝します。役者さんもさることながら、セットの再建や再編集など、スタッフさんの撮り直しにかかる労力はたいへんなものだったろうと想像します。昨今の働き方改革の影響で、テレビ局の制作などへの規制も厳しく制限されるようになったと聞きますしね(かつては、大河ドラマの現場スタッフは不眠不休が当たり前だったと聞きますが、今はそれができないとか)。第1話が撮り直し前と同じに仕上がったのか、あるいは、少し構成が変わってしまったのかはわかりませんが、とにかく、第1話を観ることができて安堵しています。


麒麟がくる 第1話「光秀、西へ」 ~明智光秀の出自~_e0158128_19245426.jpg さて、明智光秀を主人公とする物語ですが、その冒頭は、美濃国明智荘から始まります。現在でいえば岐阜県可児市瀬田にあたりますが、実は、明智光秀の出自については諸説あって定かではありません。ひとつは上述した岐阜県可児市瀬田で、ここにはいまは「明智」という地名は残っていませんが、かつては明智荘という荘園がありました。もうひとつの説は、現在も「明智」という地名が残る岐阜県恵那市明智町で、ここには現在も光秀ゆかりと伝わる史跡が数多くあります。また、別の説では、岐阜県山県市美山町説や、近江国の佐目の里(滋賀県犬上郡多賀町佐目)説もあります。そのなかで、いろんな根拠から最も多くの歴史家さんに支持されているのが可児市の明智荘説で、ドラマでもその説が採られていました。


 また、ドラマ中、光秀と母・お牧との会話のなかで、明智家は土岐源氏の一族であることがふれられていましたが、実は、これも諸説あるなかのひとつで、詳らかではありません。一般的には、土岐源氏の支流である明智氏の当主という認識が通説となっていますが、この説の出典は後世に書かれた『明智軍記』によるもので、同書は良質な史料とはいえず、この説を鵜呑みにすることはできません。土岐明智氏とはまったく無縁の地侍だったという説や、土岐明智氏の支流ではあるものの、よくいわれるような明智城主の子というような身分ではなく、もっと低い身分の明智氏だったという説もあります。となると、土岐氏に代わって美濃国主となった斎藤道三に仕えたという説も、これまた定かではありません。つまり、光秀の前半生というのは、ほとんどなんですね。


 そんな謎の男・光秀の物語ですから、その前半はほとんどフィクションになります。したがって、今話で京、堺を旅したという話も当然フィクション。ただ、何の脈略ない作り話というわけでもなく、そこにはちゃんと逸話が散りばめられていましたね。まずは鉄砲。光秀は鉄砲術の名手だったといわれ、後年、その技術と知識を織田信長から大いに重宝されたといいます。その鉄砲術をどこで身につけたのか。のちに光秀が身を寄せることになる福井県の称念寺の伝承によると、「堺で鉄砲を学んだ」と記されています。また、斎藤道三が鉄砲に興味を持ち、光秀に習熟するよう命じたという説も。ドラマでは逆に光秀が自己アピールしていましたが、ない話でもないのかなと。


麒麟がくる 第1話「光秀、西へ」 ~明智光秀の出自~_e0158128_19245940.jpg その鉄砲を買い付けに行った先で松永久秀に出会いましたね。のちに織田信長に仕え、同じく反旗を翻すことになるふたりが早くも顔合わせです。ここに荒木村重が加われば三者揃い踏みだったんですけどね(笑)。その久秀が光秀に対して、自分は光秀の主君である斎藤利政を尊敬しているといい、「一介の油売りから立身した父の代から、わずか二代で成り上がった天下一の人物」と絶賛します。ここで注目すべきは、「父子二代」というところ。かつては道三一代で一介の油売りから美濃国主まで成り上がったといわれ、司馬遼太郎『国盗り物語』をはじめ多くの物語でそのように描かれてきた道三でしたが、近年見つかった新史料により、油売りから美濃の侍になったのが道三の父で、その後、下剋上で国主となったのが道三という親子二代にわたっての国盗り物語が主流となっています。たった1枚の書状で通説は覆りました。今回のドラマでは、その新説に基づいて描かれるようですね。


 あと、最後に出てきた道三の娘・帰蝶こと濃姫ですが、勇ましく馬に乗って現れ、戦支度をする父・道三に対して「御陣に加えて欲しい」という帰蝶に対し、道三は「嫁に出した娘に加勢を頼むほど落ちぶれてはおらん!」と一蹴します。まあ、当然の応対ですが、ここで聞き逃してはならないのは、「嫁に出した娘」という台詞。のちに織田信長の正妻となる帰蝶ですが、あまり知られてはいませんが、帰蝶は信長と結婚する前に、美濃国守護・土岐頼芸の甥の土岐頼純輿入れしたという説があります。道三から見れば主筋となる土岐家への輿入れであることから、妾ではなく正妻の娘を輿入れさせたとみるべきで、この場合、正妻の小見の方を母とする帰蝶が輿入れしたのではないか、とする説です。とすれば、帰蝶は信長に嫁ぐときはバツイチだったということになりますね。この帰蝶バツイチ説は、これまでのドラマなどではあまり採られていません。ただ、帰蝶という女性については、光秀以上にが多く、その生年も死も、その名前すら定かではありません。今回の帰蝶は勇ましい女性のようですね。


 とにもかくにも、第1話はプロローグの回といってよく、物語は始まったばかりです。第1話を観た感じでは、久々に王道の大河ドラマが観れそうな予感。今後の展開が楽しみです。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-20 19:28 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(2)  

国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>

「その7」のつづきです。

彦根城最北端の山崎曲輪の外側から、中堀に沿って歩きます。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_17302939.jpg


上の写真はその山崎曲輪の高石垣


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_17312169.jpg


その西側には前稿で紹介した山崎御門の冠木門が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_17321724.jpg


中堀北側にあるマンションの3階から撮影しました。

向こうに西の丸三重櫓が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_17331421.jpg


ズーム。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_17513830.jpg


さらに中堀に沿って西に歩きます。

ここからも角度を変えた西の丸三重櫓が。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_17525925.jpg


中堀の内側の石垣の上は、かつて武家屋敷がありました。

現在は彦根市立西中学校となっています。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_17535254.jpg


その中学校から中堀を挟んで北側に、「日下部鳴鶴屋敷跡」と刻まれた石碑がありました。

日下部鳴鶴は幕末から明治にかけての書家で、「日本近代書道の父」と呼ばれる人です。

鳴鶴の書いた石碑の文字が現在も日本全国に300基以上残っているそうで、なかでも、あの大久保利通の墓所にある大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれています。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_17574146.jpg


中堀北西の角に来ました。

ここから中堀は南に向かって90度曲がります。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_17574582.jpg


南に伸びる中堀です。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_17593962.jpg


中堀北西にある舟町口です。

舟町口は、南の京橋口、東の佐和口、北の長橋口とともに彦根城の4つの門のひとつです。

ここにも立派な櫓門があったであろう石垣があります。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18024123.jpg


ここから中堀の内側を南に向かって歩きます。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18024496.jpg


この辺一体も、往時は武家屋敷がありました。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18041566.jpg


「家老岡本黄石屋敷跡」と刻まれた石碑があります。

「黄石」は号で、本名は岡本半介

幕末の彦根藩の家老で、尊皇攘夷派であったため、保守派の井伊直弼と対立して罷免されますが、直弼が桜田門外の変暗殺された後は、直弼時代の寵臣・長野主膳粛清するなど、政情の変化に対応して藩政を牽引しました。

しかし、徳川慶喜に過度に依存した結果、第二次征長戦争に出兵して大損害を蒙り、藩の評判をさらに失墜させ、最後は家老の座を追われます。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18062820.jpg


東を見上げると、左に西の丸三重櫓が、右に天守が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18064169.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18064580.jpg


天守は修復工事中だったため、足場が。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18082462.jpg


さらに南に下ります。

左側の堀は内堀です。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18082845.jpg


このあたりの内堀は、前稿で紹介した南側の内堀と違って、腰巻石垣の上に土塁が築かれているだけで、鉢巻石垣はありません。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18095377.jpg


前稿で紹介した大手門橋まで戻ってきました。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18124788.jpg


そこから更に南下した場所にある、家老・脇屋屋敷跡です。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18125243.jpg


その近くには、馬屋があります。

その名称のとおり、藩主の馬をつないでいた建物で、国の重要文化財となっています。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18144163.jpg


そして、こちらは、中堀最南端の京橋口近くにある家老の旧西郷屋敷長屋門跡です。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18144582.jpg


西郷家3500石の家老で、現在、彦根に残されている武家屋敷の中では最大の門です。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18155224.jpg


その旧西郷屋敷長屋門跡をすぎると、大きな枡形虎口があります。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18190951.jpg


その横には立派な雁木があります。

国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18191364.jpg



ここは彦根城中堀南西の京橋口で、南の京橋口、東の佐和口、北の長橋口、西の舟町口とともに彦根城の4つの門のひとつですが、その中でも、大手門に向かうメインゲートでした。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18220910.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18221365.jpg


なので、中堀に面して高麗門があり、その内側を鉤の手に曲げて櫓門が築かれていました。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18191627.jpg


その説明板です。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18242737.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18243122.jpg


京橋口に架かる木橋です。

この石垣の上に櫓門があり、門の上には二重櫓が乗り、その両側には多聞櫓が伸びていました。

門の形式としては最強の枡形虎口です。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18262935.jpg


中堀の南側を歩きます。

石垣の下に犬走りがあります。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18273385.jpg


南側の中堀。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18282432.jpg


こちらは中堀南側に面した鈴木屋敷長屋門

このあたりは中級武士の屋敷があったゾーンで、この屋敷に住んでいた鈴木権十郎禄高350石大津蔵奉行を務めていた人物だったそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18293809.jpg


さて、ここを東に歩けば、「その1」で紹介した最初の南東の中堀に繋がります。

歩き始めたのが正午ごろで、現在17時半。

5時間以上もじっくり歩きました。

最後に日本100名城のスタンプを掲載します。


国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18311002.jpg


これで彦根城をすべて制覇しましたが、あと1回だけ、番外編にお付き合いください。

「その9」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-18 00:27 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>

「その6」のつづきです。

今回は内堀の西側を南から北に向かって歩きます。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_20424437.jpg


南側の内堀です。

彦根城の石垣の特徴的な見どころのひとつで、土手の上部に鉢巻石垣、土手の下部に腰巻石垣が築かれています。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_20434573.jpg


向こうに見えるのは大手門に渡る木橋

「その1」で紹介した南東の表御門に架かる橋から、南西の大手門までの間の内堀の内側に、この鉢巻石垣と腰巻石垣が築かれています。

なぜこのような石垣を築いたかは、はっきりした理由はわからないそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_20472909.jpg


大手門橋です。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_20511571.jpg


この橋を渡ると大手門です。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_20521435.jpg


橋から見た北側の石垣。

高石垣の下に犬走りがあります。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_20535784.jpg


橋を渡ると枡形虎口になっています。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_20545338.jpg


櫓台跡と見られるでっかい石垣台があります。

たぶん、ここに枡形の一ノ門があったのでしょう。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_20573696.jpg


大手門といえば、通常は城の正面玄関にあたりますが、彦根城にはもうひとつ、「その1」で紹介した表御門があります。

どちらが正面玄関かというと、もともとは大坂城の方角にあたる南西に大手門が築かれたそうですが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣豊臣家が滅亡すると、江戸城の方角にあたる表御門が実質の正面玄関になったのだとか。

でも、裏を返していえば、それまでは豊臣家に敬意を払っていたということになります。

本当でしょうか?


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_20574072.jpg


ここが二ノ門跡です。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_20575313.jpg


横を見上げると、彦根城の特徴のひとつ、登り石垣があります。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21013271.jpg


このまま山上には登らず、内堀に沿って北に向かいます。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21011186.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21010618.jpg


このあたりに米蔵があったそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21030020.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21030959.jpg


内堀に出る水門です。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21051976.jpg


内堀北西部まで来ました。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21052201.jpg


ここにも登り石垣があります。

この登り石垣を上ると、「その5」で紹介した西の丸三重櫓の下の堀切に続いています。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21075606.jpg


北側の土塁に上って内堀を見下ろします。

遠く向こうに見える高石垣は、最北端の山崎曲輪です。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21081345.jpg


行ってみましょう。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21102100.jpg


山崎曲輪に入る手前に山崎御門跡があります。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21104387.jpg


北側の内堀に面した門ですが、現在は橋も架かっておらず、冠木門も塞がれて使用されていません。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21144691.jpg


そして山崎曲輪です。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21155398.jpg


山崎曲輪は彦根城最北端に構えられた郭で、往時は琵琶湖の内湖に突き出していたそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21163744.jpg


ここに家老の木俣土佐守守勝の屋敷があったといわれます。

木俣守勝は、井伊直政佐和山城に入る前に居城としていた高崎城城代家老を勤めていた人物でした。

元々は徳川家康の直臣で、一時は出奔して明智光秀に支えたときもありました。

本能寺の変のあとで織田信長の領地だった甲斐を占領した家康は、信長によって滅ぼされた武田家の家臣団を集めて井伊家に託します。

この時、守勝を武田家臣団の大将とするように命じた家康が、守勝を直政に与力として預けました。

つまり、家老といえども、元は直政とおなじ家康の家臣で、元同僚だったわけです。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21171149.jpg


直政の死後、家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、彦根城の築城を取り仕切ったのは守勝でした。

その意味では、彦根城の実質の築城主と言えるかもしれません。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21175494.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21182764.jpg


曲輪内には建物のあった名残と見られる石垣の遺構がたくさん残っています。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21204201.jpg


西隅には三重櫓が築かれていましたが、明治のはじめに解体されたそうです。

彦根城には三階建ての建物が3棟あり、そのひとつは天守、もうひとつは西の丸三重櫓、そしてあとひとつがここ山崎曲輪にあった櫓だそうです。

その場所に木俣守勝の屋敷があったわけですから、やはり、よほどの特別待遇だったことがわかりますね。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21224529.jpg


三重櫓台の上に上って、北側の内堀を見下ろします。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21230322.jpg


こちらは、西側の内堀。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21242903.jpg


向こうに見えるのは、山崎御門の外側にある長橋口跡

東の佐和口、南の京橋口、西の舟町口とともに彦根城の4つの門のひとつですが、現在は使われていません。

石垣が一部崩れているようです。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21275616.jpg


内堀の外側から見た山崎曲輪の高石垣です。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21280485.jpg


出隅は算木積みになっています。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21281179.jpg


向こうに天守が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>_e0158128_21281654.jpg


さて、本稿もだいぶ長くなっちゃいました。

「その8」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-17 01:27 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>

「その5」のつづきです。

今回は彦根城内堀の東側の外にある庭園、楽々園玄宮園を歩きます。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19291715.jpg


写真は楽々園に通じる黒御門跡です。

ここから、また別の入稿券が必要です。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19304531.jpg


門を入ってすぐに架かる橋の上から見た内堀です。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19333014.jpg


楽々園に入ってすぐに、「井伊直弼生誕地」という石碑と、槻御殿の説明板があったのですが、肝心の槻御殿は修復工事中で見れませんでした。

残念。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19343355.jpg


楽々園は、彦根藩第4代藩主・井伊直興によって建立された彦根藩の二の丸御殿で、槻御殿と呼ばれていました。

槻御殿は延宝5年(1677年)に着工し、同7年に完成した下屋敷で、その木材はすべてを使用していたことから、そう呼ばれたそうです。

第15代藩主・井伊直弼もここで生まれました。

第12代藩主・井伊直亮が文化年間(1804年~1817年)に楽々の間を増築して以来、槻御殿という名称よりも楽々園の名のほうが有名になったそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19361452.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19370303.jpg


楽々園御書院の玄関です。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19511501.jpg


こちらは南東側から見た御書院


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19511905.jpg


左が地震の間、右が楽々の間です。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19530610.jpg


庭園です。

現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20030916.jpg


こちらは八景亭(臨池閣)


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20044463.jpg


こちらは、玄宮園内にある鳳翔台

鳳凰が大空に向かって舞い上がる場所という意味で名付けられたと伝わる高台で、江戸時代に描かれた「玄宮園図」玄宮園十景の1つとして描かれているそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20093692.jpg


そして、広大な玄宮園です。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20121255.jpg


玄宮園は、江戸時代には「槻之御庭」と呼ばれていました。

玄宮園の名は、古代中国の宮廷の名によって命名されたと考えられているそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20121565.jpg


玄宮園は、広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20062868.jpg


西に天守が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20135287.jpg


ズームします。

ここを訪れた昨年の平成30年(2018年)7月1日、天守は改修工事中で足場がかけられていました。

ちょっと残念。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20135901.jpg


いろんな角度から天守と庭園を見てみましょう。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20165291.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20165858.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20170383.jpg


正直なところ、わたしは城跡は大好きで少しばかり詳しいつもりでいますが、日本庭園にはそれほど興味はなく、ここでウンチクを語るだけの知識がありません。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20192148.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20192807.jpg


井伊家のお殿さんの隠居場ということで、とりあえずひと通り歩きました。

「その7」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-16 00:24 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>

「その4」のつづきです。

天守まで制覇しましたが、彦根城めぐりはまだまだつづきます。

本丸北西の搦手門を出て、西の丸に向かいます。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17444316.jpg


本丸搦手門の石垣です。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17460899.jpg


本丸搦手門から天守を見上げます。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17480308.jpg


そして、こちらが西の丸広場


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17480541.jpg


西の丸は山上部最大の面積を持つ曲輪で、かつてはここに「御文庫」という建物があり、周期に等間隔にが配置されていたようですが、今は広い公園にような空間になっています。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17480952.jpg


天守の表側にあたる本丸広場にはたくさんの観光客がいましたが、天守の裏側にあたる西の丸にはほとんど人がいません。

みんな天守を観たら引き返しちゃうんでしょうね。

天守だけがお城じゃないんですけどね。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17501135.jpg


西の丸の最北西隅には、現存櫓西の丸三重櫓があります。

こちらも、「その1」で紹介した佐和口多聞櫓「その2」で紹介した天秤櫓「その3」で紹介した太鼓門櫓とともに、国の重要文化財に指定されています。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17501361.jpg


西の丸北西の隅に三重櫓があり、その東側と北側にそれぞれ1階の続櫓くの字に付設しています。

彦根城には三重の建物が3棟あったそうで、ひとつは天守、もうひとつは明治初年に取り壊された山崎曲輪の三重櫓、そして、この西の丸三重櫓です。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17514793.jpg


櫓内が見学できます。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17523780.jpg


櫓内です。

天守と同じく天井部の梁が曲がっています。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17560489.jpg


櫓1階2階は攻撃用として城外側だけに窓があります。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17560615.jpg


窓と窓の間には鉄砲狭間があります。

城外側の壁の厚さ防弾効果を得るために30cmを超えるのだとか。

まさに、戦うための櫓といえます。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_17571696.jpg


彦根藩の歴史を記した『井伊年譜』によると、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐守守勝に預けられていたそうで、当時、山崎曲輪に屋敷を与えられていた木俣土佐は、毎月20日ほど、この櫓に出務するのを常としたようです。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18014217.jpg


最上階に上ってきました。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18032079.jpg


最上階には、平成23年(2011年)のNHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』撮影風景の写真が展示されていました。

第1話の1シーンが西の丸で撮影されていたそうです。

写真に写っている紅白のボーダーの着物を着ているのが宮沢りえさんの演じるお茶々淡い緑の着物水川あさみさんの演じるお初、そして馬上の後ろ姿上野樹里さんの演じるお江ですね。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18051239.jpg


そういえば、一説には、この西の丸三重櫓は、浅井長政の居城だった小谷城の天守を移築したものと伝えられてきたそうです。

小谷城は、お茶々、お初、お江の浅井三姉妹の生まれ故郷ですね。

だとしたら、その前で三姉妹の撮影が行われたというのも深い縁を感じますが、ただ、昭和35年(1960年)から昭和37年(1962年)にかけて行われた解体修理のときには、そうした痕跡は確認されなかったそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18065088.jpg


三重櫓最上階から西側を見下ろします。

下に見える石垣は西の丸北西の出曲輪、そして食い違い虎口登り石垣です。

瓦に隠れて見えませんが、この下には大きな堀切があります。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18065392.jpg


その向こうには琵琶湖が広がります。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18091026.jpg


さて、櫓の外に出て、西の丸北西の搦手門から外に出ましょう。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18091560.jpg


ここも枡形虎口になっています。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18105022.jpg


北西の外側から見た西の丸三重櫓と続櫓

その下には立派な高石垣があり、深い堀切があります。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18124433.jpg


その向かいには、出曲輪があります。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18124613.jpg


その説明板です。

『井伊年譜』によると、この出曲輪の石垣は石工集団として知られる穴太衆が築いたと伝えられているそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18143666.jpg


出曲輪を跡にして、北へ向かう坂を下ります。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18153872.jpg


その下り坂から見た西の丸三重櫓と続櫓。


国宝・彦根城を歩く。 その5 <西の丸~出曲輪>_e0158128_18143902.jpg


本稿も長くなっちゃいました。

「その6」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-15 00:28 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>

「その3」のつづきです。

本丸をひと通り見て回ったので、いよいよ天守に向かいます。

彦根城天守は周知のとおり現存12天守のなかのひとつで、国宝5天守のひとつでもあります。

外観は三重、内部は三階地下一階という構造で、国宝5天守のなかでは最も小規模な天守です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17043637.jpg


ここを訪れた昨年の平成30年(2018年)7月1日、天守は改修工事中で足場がかけられていました。

ちょっと残念。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17043932.jpg


初重の大入母屋の上に二重の望楼部を乗せた形式で、梁行(東西面)に対して桁行(南北面)が2倍近くもある長方形のため、外観は東西面と南北面ではまったく異なります。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17044149.jpg


屋根は切妻破風、入母屋破風、唐破風を多様に配しており、2階と3階には花頭窓、3階には高欄付きの廻縁を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい天守です。

さすがは徳川譜代大名の筆頭である井伊家の居城という感じですね。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17044479.jpg


彦根藩の歴史を記した『井伊年譜』によると、彦根城天守は京極高次が城主を務めた大津城からの移築とあり、実際に昭和の解体修によって、大津城の四重天守を三重に改修して移築したことが判明しました。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17095351.jpg


そして、三階隅木に残る文字から、天守は慶長11年(1606年)から翌年の完成と推定されています。

彦根城は関ケ原の戦い後に石田三成の居城だった佐和山城に入った井伊直政が、すぐ近くに新しい城を築く計画して築城を開始したものですが、しかし、直政は戦の傷が癒えずに間もなく死去し、その計画は家督を継いだ井伊直継に引き継がれました。

したがって、この天守を直政は見ていません。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17095550.jpg


こちらの面は足場に覆われてよく見れません。

残念。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17115199.jpg


その裏側は、付櫓続櫓(多聞櫓)が連結しています。

彦根城天守には出入口が2ヶ所、写真右側の続櫓(多聞櫓)を経由して付櫓の中から入るルートと、玄関口から天守台石垣内に設けられた地下室を経て一階へと入るルートがあります。

現在の見学ルートは前記が入口、後記が出口となっています。

それでは、中に入りましょう。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17141407.jpg


続櫓から入って付櫓の中です。

入隅(消化器の置いてある隅)が鈍角になっています。

曲がった梁が個性的です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17150961.jpg


付櫓から天守内に入る階段です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17185249.jpg


天守1階の入側です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17185518.jpg


入側の壁には矢狭間があります。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17185822.jpg


こちらの入側の隅に、誰かの像があります。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17190104.jpg


井伊直弼の像でした。

井伊家といえば、中興の祖にして彦根藩初代藩主の井伊直政か、幕末の第15代藩主にして幕府大老を務めたこの井伊直弼となりますね。

もっとも、最近は大河ドラマの影響で井伊直虎という声もありますが。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17203994.jpg


そして入側をぐるっと1周。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17222782.jpg


入側を1周したので、その中の身舎に入ります。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17245704.jpg


身舎にある急な階段を上って2階に上がります。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17264271.jpg


2階の身舎です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17282645.jpg


身舎は1階と2階はほぼ同規模なので、外側が小さくなった分だけ2階の入側の幅は狭くなっています。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17264535.jpg


3階に上がる階段です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17282901.jpg


急です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17340864.jpg


3階です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17341010.jpg


3階も中央に身舎、周囲に入側が巡る構造は同じです。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17341351.jpg


入側の足元にある小さな引違い板戸です。

この中は切妻破風の屋根裏の空間を利用して小部屋がひとつ設けられており、隠狭間が2つあるそうです。

現在、中には入れません。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17363564.jpg


天守最上階からの西側の眺望です

琵琶湖が望めます。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17364909.jpg


北東には石田三成佐和山城跡が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17364183.jpg


佐和山城跡にズーム。

「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」

とうたわれるほどの名城だったとか。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17384705.jpg


最上階には、国宝指定書が展示されていました。

スミマセン。

わたしが写り込んじゃっています。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17401381.jpg


さて、天守をすべて攻略しました。

「その5」に続きます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-14 03:09 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>

「その2」のつづきです。

天秤櫓の内側は太鼓丸と呼ばれる曲輪です。

太鼓丸は鐘の丸と本丸の間の通路のような曲輪で、平坦なスペースは少なく、緩やかな傾斜の中央に不規則な石段が通っています。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16271323.jpg


例によって、幅の不規則な石段が左ドッグレッグで伸びています。

前稿でも述べたとおり、これは寄せ手の歩調を乱すために意図的に造られたものです。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16244632.jpg


いかにも登りづらそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16284985.jpg


こちらは、太鼓丸の発掘調査の説明板。

その説明によると、石田三成の居城・佐和山城から持ってきたと考えられる瓦破片が一定量出土したそうで、なかには豊臣秀吉が築城した伏見城でしか現在確認されていない軒平瓦が出土しているそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16303840.jpg


石段の上に、櫓が見えてきました。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16302420.jpg


反対側には、鐘楼があります。

太鼓丸なのに、太鼓楼じゃなくて鐘楼?


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16323555.jpg


説明板によると、かつては鐘の丸にあったそうですが、城下の北の隅に届かなかったので、この場所に移したそうです。

なるほど。

この鐘は第12代藩主・井伊直亮の弘化元年(1844年)に鋳造したものだそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16340501.jpg


太鼓丸最上段まで上ってきました。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16340877.jpg


太鼓門櫓と続櫓です。

この櫓も前稿で紹介した天秤櫓と同じく築城時からの現存櫓で、築城時にほかの場所から移築された建物です。

これも重要文化財


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16364142.jpg


太鼓門櫓というくらいですから、この中に太鼓が置かれていたのでしょうね。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16362965.jpg


説明板です。

国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16363216.jpg


太鼓門櫓をくぐると、いよいよ本丸に入ります。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16375773.jpg


太鼓門の中は枡形になっています。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16391452.jpg


本丸です。

なんか天守に足場がかけられています。

どうやら修復工事中のようです。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16410427.jpg


こちらは本丸から見た太鼓門櫓と続櫓。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16410733.jpg


本丸から太鼓門櫓の外側を見下ろします。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16424903.jpg


本丸の説明板です。

本丸には、かつて御広間宝蔵、矢櫓・着見櫓などがあったそうですが、天守以外の建物は明治に入って取り壊されました。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16443552.jpg


天守に行く前に、本丸を歩いてみましょう。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16480948.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16481390.jpg


こちらは本丸東側の着見櫓跡

読みは「つきみやぐら」ですが、「月見櫓」ではなく「着見櫓」なんですね。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16481625.jpg


その説明板です。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16510610.jpg


着見櫓跡からの北側眺望。

琵琶湖が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16511396.jpg


北東には石田三成佐和山城跡が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16511707.jpg


佐和山城跡にズーム。

「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」

とうたわれるほどの名城だったとか。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16540920.jpg


その遥か向こうには、近江国最高峰(標高約1377m)の伊吹山が。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16535938.jpg


南東には、「その1」で紹介した佐和口御門が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16540256.jpg


佐和口御門にズームイン。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16562035.jpg


こちらは別の展望台から見た南西の眺望。

琵琶湖が見えます。

たぶん、写真左側の山のずっと向こうに、安土城跡があります。


国宝・彦根城を歩く。 その3 <太鼓丸~太鼓門櫓~本丸>_e0158128_16574534.jpg


さて、いよいよ国宝の天守に向かいたいと思いますが、長くなっちゃったので、つづきは「その4」にて。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-11 13:45 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>

「その1」のつづきです。

表御殿横で入場券を購入し、本丸に向かう石段を登ります。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_15470414.jpg


石段は見ての通り、登り始めは一段の幅が広いのですが・・・・


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_15470845.jpg


進むにつれてだんだん狭くなっていきます。

これは、攻めてきた寄せ手歩調を乱すために意図的に不規則に作られているものです。

これでは、上の方が詰まって渋滞を起こすでしょうね。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_15501465.jpg


石段を登りきると、高石垣が見えます。

この櫓は「天秤櫓」といい、本丸下の太鼓櫓の虎口に立つ櫓門です。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_15514063.jpg


その天秤櫓に見とれていると、その下には大きな堀切が。

右が天秤櫓、左が鐘の丸です。

ここに入り込んでしまえば、両側から鉄砲と弓矢で蜂の巣ですね。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_15553702.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_15554073.jpg


堀切から天秤櫓を見上げます。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_15555255.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_15555472.jpg


有事の際はこの橋を落として防御する仕組みになっていたのでしょう。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_15591174.jpg


掘切西側から見た天秤櫓です。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_15555845.jpg


天秤櫓は彦根城築城当時からの櫓で、重要文化財です。

また、その下の石垣を見てみると、写真手前(橋の左側)の石垣と、奥(橋の右)の石垣と、色や工法が違っているのがわかります。

橋の向こう側の石垣は打込み接ぎで、おそらく築城当時のもの。

手前のグレーの部分の石垣は切込み接ぎで、幕末の嘉永7年(1854年)の修復だそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16011662.jpg


その説明板があります。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16055206.jpg


堀切から鐘の丸に向かいます。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16055792.jpg


鐘の丸虎口です。

往時は城門番所があり、石垣の上は多聞櫓で厳重に防御されていました。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16053906.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16054240.jpg


その説明板。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16071642.jpg


鐘の丸側から見た天秤櫓です。

天秤櫓が築かれたのは井伊直継の築城当時で、彦根藩主井伊家の歴史書である『井伊年譜』によると、豊臣秀吉が築いた長浜城大手門を移築したものであると記されています。

説明板によると、天秤のような形をしているのでそう呼ばれたのだとか。

どこが天秤のような形なんでしょう?


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16081250.jpg


橋の上から見た櫓の東側。

上述した打込み接ぎの石垣の方ですね。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16094909.jpg


こちらは櫓の西側。

切込み接ぎの石垣の方です。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16095298.jpg


その向こうには、琵琶湖が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16113000.jpg


振り返ると、鐘の丸が見えます。

鐘の丸は公園になっていて、特に遺構はありません。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16122269.jpg


櫓門をくぐりって太鼓丸に入ります。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16133926.jpg


天秤櫓内も見学できるようです。

行ってみましょう。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16134438.jpg


櫓東側から入ります。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16150009.jpg


重要文化財の現存櫓なので、土足厳禁です。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16154747.jpg


入ってすぐに梯子があります。

上れません。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16210701.jpg


櫓内部です。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16211079.jpg


説明板によると、昭和30年代の解体修理の際、移築された建物であることが判明し、「上り藤」「三つ柏」など井伊家の家紋と異なる紋瓦も確認されているそうですが、天秤櫓が『井伊年譜』の記述どおり長浜城大手門の移築と断定するまでには至っていないそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16184031.jpg


天秤櫓のみどころ。

興味をひいたのは、両端の二重櫓は東側が江戸に、西側が京都に正面を向けて作られているのだとか。

徳川家の江戸に向けては当然として、京の都にも配慮がなされているところが興味深いです。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16185152.jpg


井伊家の旗印が展示されています。


国宝・彦根城を歩く。 その2 <天秤櫓>_e0158128_16211244.jpg


さて、ほとんど天秤櫓だけでめっちゃ長くなっちゃいました。

「その3」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-09 23:58 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>

今回は国宝天守を頂く彦根城を歩きます。

関ケ原の戦いの勝利で、徳川家康は西軍の敗将・石田三成の所領、近江18万石を取り上げ、徳川四天王のひとり、井伊直政に与えました。

直政は三成の居城だった佐和山城を取り壊し、すぐ近くに新しい城を築く計画を立てます。

しかし、直政は戦の傷が癒えずに間もなく死去し、その計画は家督を継いだ井伊直継に引き継がれ、元和8年(1622年)に金亀山に城が築かれました。

それが、彦根城です。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_14535062.jpg


駐車場のある城跡南東からスタートします。

上の写真は外堀跡

現在残る彦根城の縄張りは中堀からですが、かつてはその更に外側に外堀が守りを固めていました。

その外堀の遺構が、ここに少しだけ残されています。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_14535523.jpg


外堀の説明板です。

往時の縄張り図があります。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_14572149.jpg


南東の中堀です。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_14572443.jpg


隅櫓台のようですね。

石垣は見事な打込み接ぎです。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_14572933.jpg


縄張り図によると、この南東の内堀の内側には、かつて武家屋敷があったようですが、現在、あの石垣の上には滋賀県立彦根東高校があります。

堀に守られた学校ですね。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_14594530.jpg


南東内堀沿いには、「いろは松」と呼ばれる松の木が並んでいます。

往時はここに47本の松が並び、「いろは47」の頭三文字をとってそう呼ばれたのだとか。

今風にいえば「IRH47」でしょうね(笑)。

説明板によると、人馬の往来の邪魔にならないように、地面に広く根を張らない土佐松を高知から持ってきて植えたそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15025582.jpg


案内図です。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15183801.jpg


中堀南東の入口、佐和口御門です。

佐和口は南の京橋口、西の舟町口、北の長橋口とともに彦根城の4つの門のひとつで、表門に通じる入口として、大手門がある京橋口とともに彦根城の重要な城門のひとつでした。現在の彦根城のメインの入口になっています。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15184329.jpg


この向かって左側の多聞櫓は江戸時代からの現存櫓で、国の重要文化財に指定されています。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15184679.jpg


向かって右側の多門櫓は明治のはじめに解体されてしまい、昭和35年(1960年)に開国百年を記念して復元したコンクリート製です。

中は開国記念館となっており、ここに日本100名城のスタンプがあります。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15204560.jpg


大きな食い違い虎口です。

説明板によると、かつては中堀に面して高麗門があったそうで、最強の枡形虎口だったそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15205193.jpg


内側から見た佐和口御門。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15205352.jpg


現存多聞櫓の内側は、駐車場になっています。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15220353.jpg


駐車場の向かい側には、内堀があります。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15242676.jpg


内堀南東に架かる木橋

この橋を渡ると、表御門です。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15254174.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15254301.jpg


橋の向こうには、櫓台跡と見られる石垣があります。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15264561.jpg


橋の上から見た内堀。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15274499.jpg


橋を渡ると枡形虎口になっています。

往時は櫓で囲われていたのでしょう。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15311017.jpg


枡形内には案内板が設置されています。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15311780.jpg


枡形を90度右に曲がると、また櫓門跡と見られる石垣があります。

橋を渡ったところが一ノ門、ここが二ノ門ですね。

典型的な枡形構造です。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15312175.jpg


こちらは、「登り石垣」の説明板。

彦根城には全国的にも珍しい「登り石垣」が5箇所に築かれているそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15344967.jpg


でも、登り石垣の場所は立入禁止となっていました。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15373039.jpg


表御門を入ると、表御殿があります。

表御殿は彦根藩の藩庁があった場所で、藩の政務や対面、儀式などに使われた「表向き」と、藩主が日常生活を送った「奥向き」で構成されていました。

往時の表御殿は明治維新後に取り壊され、現在の建物は昭和62年(1987年)に復元され、彦根城博物館となっています。


国宝・彦根城を歩く。 その1 <佐和口御門~表御殿>_e0158128_15373366.jpg


ここからは入場券が必要なエリアに入りますが、つづきは「その2」にて。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-08 23:59 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)