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<   2020年 01月 ( 17 )   > この月の画像一覧

 

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その4 <伝徳川家康邸跡~大手道~七曲り>

「その3」の続きです。

大手道にもどります。


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ようやく太陽が照ってきたので、もう一度大手道石段の写真です。


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前稿で紹介した「伝羽柴秀吉邸址」上の段の虎口から大手道を挟んで斜め向かい側(東側)に、現在の摠見寺仮本堂があるのですが、観光パンフレットの説明によると、ここは「伝徳川家康邸址」となっています。

いやいやいやいや、それはいくらなんでも、ないっしょ!

徳川家康織田信長の家臣だったように思っている人もいるかもしれませんが、あくまで同盟関係であって主従関係ではありません。

まあ、同盟関係といってもパワーバランスが歴然とした関係ではありましたが。

いわば現在の日本とアメリカのようなもので・・・。

どちらが日本でどちらがアメリカかは、あえて言いませんが。


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この日は摠見寺の公開日ではなかったので、境内の写真は門扉からのみ。

パンフレットによると、元の摠見寺はこの少し西にありましたが、嘉永7年(1864年)の火災焼失し、その後、昭和7年(1832年)にここ伝徳川家康邸址に建てられて現在に至るそうです。

でも、しつこいようですが、家康と信長は主従関係ではなく、本能寺の変の直前に初めて安土城に招かれ、その饗応役だった明智光秀の料理に怒った信長が光秀を足蹴にしたため、それが本能寺の変の引き金なった(かもしれない)という逸話は有名ですよね。

そんな家康の邸がここにあったはずがありません。

「その2」「その3」の前田利家羽柴秀吉の邸跡も眉唾ものですが、さすがに家康は無理がありすぎるんじゃないでしょうか。

どうせなら、いわゆる織田四天王と言われた柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の邸跡と言われたほうが、まだ想像できたかもしれません。


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さて、気を取り直して大手道を進みます。

約180mの直線の石段を登りきると、大手道は左カーブになっています。


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そのあとも、道はジグザグに屈曲しながら続いています。


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後ろを振り返ると、麓に田畑が広がっています。

往時は、あそこは琵琶湖の入江でした。


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「右、天守、本丸跡」と刻まれた石碑が。


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ジグザグの石段に、何かの説明板が埋まっています。


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どうやら石仏の転用石のようです。


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その説明板。


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わかりづらいですが、たしかに石仏のようです。

銘板の横には賽銭入れのサントリーウイスキーの灰皿が。

まったく同じ灰皿が、昔、我が家にもありました(笑)。

たしか、学生時代、どこかの喫茶店から拝借してきた思い出が・・・。

もう時効ですよね(苦笑)?


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石仏の転用石は、他にも各所で見られました。

墓石石仏地蔵などを石垣に転用している例は他の城郭でもよく見られることで、珍しいことではありません。

ただ、石垣ではなく石段に転用するというのは、あまり気持ちのいいものではなかったのではないでしょうか?

足で踏むわけですからね。


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ジグザグの石段はさらに続きます。

縄張り図によると、このあたりの石段を七曲りと呼んでいるようです。

本当に7回曲がったかは数えていません。


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このあたりは山腹部分で、傾斜が最も急なところです。


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まだまだ登城道は続きますが、今回はこのあたりで。

「その5」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-30 23:28 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その3 <伝羽柴秀吉邸跡>

「その2」の続きです。

伝前田利家邸跡から大手道を挟んで向かい側(西側)に、ひときわ大きな郭跡があります。


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その入口には、「伝羽柴秀吉邸址」と刻まれた石碑が。

ここは織田信長の家臣時代の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の屋敷があったとされる郭です。


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ただ、伝前田利家邸跡と同じく、これは安土城廃城後100年ほど経った貞享年間(1684~88年)に描かれた絵図に記されたもので、信憑性はありません。

あくまで「伝」です。


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虎口食違い形状になっており、石段があります。

往時はここに壮大な櫓門が建っていたと考えられています。


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眼の前に見事な石垣群がそびえます。

大手道に面したこの屋敷は、上下2段に分かれた郭で構成されています。

ここはその下の段。


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この下段郭には、馬6頭を飼うことのできるが建っていたと考えられています。

下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場となっていたようです。


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その説明板です。


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それにしても見事な石垣群です。


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いろんな角度から見てみましょう。


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石垣裾に設けられた幅2m程の石段は、上段郭の裏手に通じています。


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石垣の城壁には武者走りがあります。


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伝羽柴秀吉邸跡の上の段に登ってきました。

地面には礎石跡が整然と並んでいます。


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上の段にはこの屋敷の主人(伝承では秀吉)が居住する主殿があったとされます。

主殿の手前には式台遠侍があり、奥に内台所が接続された複雑な構成だったそうです。


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その説明板。


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建物復元図です。

これはたいそう立派な屋敷ですね。

これだけでも普通なら大名御殿になりそうです。


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上の段から見下ろした下の段です。


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大手道に面した上の段入口側からのロケーションです。

復元図や平面図によると、入口には高麗門が、その左(写真では石碑の建っている場所)には隅櫓が、写真手前の一段下がったところに台所が、そして向こうの一段上がった説明板のあるところに主殿があったとされています。


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上の段入口にも石碑が建てられています。

下の段の石碑は「伝羽柴秀吉邸址」でしたが、上の段の石碑は「伝豊臣秀吉邸址」となっています。

ここに本当に秀吉が住んでいたとするならば、羽柴姓のときでしょうから、「伝羽柴秀吉邸址」でいいんじゃないでしょうか?


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ちなみに、安土城が築城された当時、秀吉は長浜城主となっていまし、その後は播磨国、但馬国、因幡国を転戦、本能寺の変当時は中国攻めの真っ最中でしたから、とてもここに居住していたとは思えません。

秀吉自身、安土城には数えるほどしか来たことなかったんじゃないでしょうか?

なんて、無粋なことを言うのはこれぐらいにしておきます。

「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-29 14:42 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

麒麟がくる 第2話「道三の罠」 ~加納口の戦いと土岐頼純の暗殺~

 第2話はガッツリ戦の回でしたね。『信長公記』によれば、この戦いを「加納口の戦い」といいますが、戦いの話の前に、まずはこの戦いに至る経緯を簡単に解説しましょう。


麒麟がくる 第2話「道三の罠」 ~加納口の戦いと土岐頼純の暗殺~_e0158128_19245940.jpg 美濃国守護の土岐氏では、長いあいだ土岐頼武頼芸の兄弟による家督争いが続いていました。この兄弟の確執は、二人の父である土岐政房が、嫡男である頼武より末弟の頼芸を偏愛して家督を継がせようとしたことがそもそもの始まりですが、政房の死後、いったんは家督を継いだ頼武でしたが、大永5年(1525年)に起きた内乱で頼芸が勝利し、頼武は妻の実家である越前国の朝倉氏を頼って落ち延びます。このとき頼芸をバックアップしたのが、斎藤利政(のちの道三)でした。


 その後、美濃国守護となった頼芸を道三が補佐して国を治めていくことになるのですが、その後、頼武の名前は史料に見られなくなるものの、嫡子の土岐頼純(もしくは頼充)が、天文4年(1535年)頃から朝倉氏、六角氏に支援されて美濃国に侵攻します。このあと両者は和睦となり、頼純は大桑城主として美濃に帰還を果たしますが、天文12年(1543年)に再び道三に攻められて敗走します。このとき頼純は越前国に亡命しますが、翌天文13年(1544年)9月、頼純は越前国の朝倉孝景と尾張国の織田信秀の支援を得て、再び美濃に向かって進撃しました。この頃には道三と頼芸の関係も不和となっていたようで、実質、道三が美濃国の支配者でした。そんな道三に対して、朝倉氏も織田氏も、「主君筋である土岐家を蔑ろにする美濃のマムシを討伐する」という大義名分が立ち、あわよくば、これを契機に美濃国を分捕ろうという思惑だったのでしょう。こうして起きたのが「加納口の戦い」です。


 『信長公記』によれば、織田信秀は9月3日に国中の兵を結集し、村々に火を放ちながら美濃へ侵攻。9月22日には道三の居城である稲葉山城の城下に入り、村々を焼き払いました。迎え討つ道三は早々に兵を引き、籠城の構えを見せます。籠城戦となると、稲葉山城は堅城であり、いたずらに城を攻めて兵を失うことを嫌った信秀は、夕方4時頃、いったん退却をはじめます。そして半分の兵が引き上げたところ、それを待っていたかのごとく稲葉山城から斎藤軍の軍勢が一気に押し寄せます。退却中だった織田軍はパニックとなり、大敗を喫しました。『信長公記』によると、織田軍は5000の戦死者を出したといい、その中には、弟の織田信康もいました。連れションの途中に討死したとは記されていませんが。


 「城に帰って寝るか!」


 ドラマの信秀のあの割り切り、いいですね。さすがは織田信長の父親です。道三の家老である長井九兵衛の書状によると、信秀は6、7人を連れただけで逃げ帰ったといいます。


 この「加納口の戦い」は天文13年(1544年)説天文16年(1547年)説があり、『定光寺年代記』は天文13年としており、『甫庵信長記』『享禄以来年代記』は天文16年説、『信長公記』に至っては年代が記されていません。上述した解説では天文13年説をベースに解説しましたが、ドラマでは、頼純と帰蝶が結婚している設定であることから、天文16年説を採っているようです。


麒麟がくる 第2話「道三の罠」 ~加納口の戦いと土岐頼純の暗殺~_e0158128_20252945.jpg その頼純ですが、天文15年(1546年)秋に頼芸・道三との間で和議が成立し、再び大桑城へ入城したといいます。その際、和議の条件として、頼芸の隠退と頼純の美濃守護職就任があったといいますが、たしかな史料はありません。次期守護職就任の約束を交わしただけで、実際に守護職に就くことはなかったとみる歴史家さんもいますが、ドラマでは、道三との会談で「守護の座に押し上げた」という台詞がありましたから、この時点で守護職に就いている設定だったようですね。また、このときの和議の証として、道三の娘が頼純に輿入れしたとされています。この娘というのが、のちに織田信長の正妻となる帰蝶(濃姫)ではないかという説があり、ドラマでもその説を採っていますが、これも、たしかな史料は存在しません。


 かくして美濃国守護となった頼純ですが、その1年後の天文16年(1547年)11月17日、頼純は突然、謎の死を遂げます。享年24。これもたしかな史料はないものの、おそらくは道三の手にかかって殺害されたのであろうと考えられています。ドラマでは、道三自らが点てたお茶に毒を盛っていましたね。あれって、伊右衛門?(笑) サントリーから抗議されるんじゃないですか?(笑)


 この時代の土岐氏っていうのは、史料が乏しくわからないことが多いんですよね。道三と頼芸に追放された頼武も、その後どうなったかはっきりしないし、頼芸も、道三といつまで蜜月な関係だったのか、道三にいつ追放されたのか、史料によって様々です。頼純に至っては、その名前すら色々あって定かではありません。土岐氏自体が、歴史のなかで、なんかフワッとした存在なんですよね。次週はようやく頼芸が出てくるようです。道三との絡み、楽しみですね。



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by sakanoueno-kumo | 2020-01-27 20:29 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その2 <大手道~伝前田利家邸跡>

「その1」の続きです。

大手道を進んで安土城の登城スタートです。


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ここからは入城料500円掛かります。


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大手道の案内板と縄張り図。


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真っ直ぐに伸びる大手道石段です。

安土城の顔と言っていいロケーションです。


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大手門から山腹まで約180mにわたって直線的に延びた部分の道幅は約6mと広く、その両側に幅1~1.2m石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれています。

道の東西には、複数の曲輪雛壇状に配し、家臣たちの屋敷が並んでいました。

この造りこそが、それまでの山城になかった新しい城郭の設計で、近世城郭の原点と言えるスタイル。

天才・織田信長の真骨頂といえます。


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大手道を登り始めて最初にある左側の曲輪を見てみましょう。

ここは、「伝前田利家邸跡」ということになっていますが、これは安土城廃城後100年ほど経った貞享年間(1684~88年)に描かれた絵図に記されたもので、信憑性はありません。

あくまで、「伝」です。


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案内板です。


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発掘調査によると、ここには大きな屋敷が建っていたと考えられています。

大手道に面し、しかも石段を登り始めて最初にある屋敷ですから、大手道正面の守りを固める重要な位置を占めていたであろうことが想像できます。


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急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっています。

説明板によると、敷地の西南隅には大手道を防御する隅櫓が建っていたと思われていますが、後世に大きく破壊されたため詳細は不明です。

隅櫓の北には大手道に面してが建てられていましたが、礎石が失われその形式は分かりません。


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斜面に幾重にも重なる石垣

見事ですね。


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こちらは虎口の説明板。

伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に桝形の空間を造った「内桝形」と呼ばれるものです。

発掘調査の結果、入口は南側の石塁及び門の礎石ともに後世に破壊されていて、その間口は定かではありませんが、櫓門が存在していたと推定されます。


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正面と左手の石階段は、この屋敷地で最も広い中段郭に上るものです。


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ここを登ったところに、木樋を備えた排水施設が見つかっています。


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この多門櫓の石垣の下から、木樋が見つかったそうです。


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その説明板。


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本当に前田利家が住んでいたかどうかはわかりませんが、そこは想像をかきたてられていいですね。

重要な人物がいたであろうことは間違いないでしょうから。

「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-25 11:22 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その1 <大手口>

戦国時代の覇王といえば、織田信長

その信長が天下統一を目前にした天正7年(1579年)に天下布武の象徴として琵琶湖湖畔に築いた天下無比の城が、安土城です。


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安土城公園の入口には、「安土城址」と刻まれた大きな石碑があります。


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安土山を見上げます。

ここに来る直前まで太陽が照っていたのですが、着くやいなや雲に隠れてしまいました。

残念。


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現在では、安土城の城山の周囲は田畑などが広がりますが、昭和の戦前までは、琵琶湖からの入江に山裾の大半が接近していたそうです。

なので、湖に浮かぶ水城のようなロケーションだったようです。


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麓の大手口付近は低い石垣が整然と並んでいますが、これらはすべて復元です。

通常の城では、大手口は1ヵ所ですが、安土城には3ヵ所の大手口があったと考えられています。

これは、信長が正親町天皇(第106代天皇)の行幸を計画していたことから、城の正面を京都の内裏と同じ三門にしたのではないかと言われているそうです。


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こちらは東側の大手三門

石垣が低いのは、見やすいように復元したもので、往時はもっと高い石垣があったはずです。


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その説明板です。

このあたりの石塁の石は八幡山城彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾により大半が消失したそうです。


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こちらは大手三門の一段上にある、東側石塁北上段郭虎口です。


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その説明板です。

虎口は、間口約5.0m、奥行き約5.5m以上で、石段で上がるようになっています。石段は下段4段上段3段で、中間に奥行き2.5mの踊り場が造られていました。


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踊り場には東西側壁寄りに門の袖柱を受ける礎石が残っていたそうで、門の主柱を受ける礎石が残っていないため門の規模は不明ですが、残存する2基の小礎石から薬医門唐門であったと考えられているそうです。


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上段郭の内部です。

遺構が残っていなかったため定かではありませんが、虎口の門の形態や郭の広さから、立派な建物があったと想定できます。

東虎口から入った賓客をこの虎口から上段郭にある建物へ招き入れたのではないかと考えられます。


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こちらは、大手口西側の石塁と虎口です。

大手口から西に延びる石塁には2箇所の虎口があります。


天下布武の象徴、安土城攻城記。 その1 <大手口>_e0158128_13423134.jpg


こちらはその最も西端に設けられた虎口。

二度折れして入る桝形虎口の構造です。


天下布武の象徴、安土城攻城記。 その1 <大手口>_e0158128_13423485.jpg


その東側に造られた虎口は、平入り虎口と呼ばれる構造で、入るとすぐに城内に行き着くものです。


天下布武の象徴、安土城攻城記。 その1 <大手口>_e0158128_13440800.jpg


その説明板。

虎口や石積みの構造が細かく解説されていますが、なぜ1つの郭に2つの虎口が存在しているのかという解説がありません。


天下布武の象徴、安土城攻城記。 その1 <大手口>_e0158128_13455401.jpg


この郭は広いのですが、建物が存在したかどうかは定かではありません。


天下布武の象徴、安土城攻城記。 その1 <大手口>_e0158128_13465032.jpg


こちらは、西側上段郭の虎口です。

発掘調査によると、周囲より一段低い空間があらわれ、北側は石垣、西側は屏風折れ状の石組、南側は両脇に石類を持つ間口約6mの虎口で限られていることが分かりました。

そして、北側の石垣沿いには、井戸洗い場とみられる敷石が見つかったそうです。


天下布武の象徴、安土城攻城記。 その1 <大手口>_e0158128_13481056.jpg


また、この一段低い空間には、建物の柱を支える礎石が4基見つかったそうで、何らかの建物があったと考えられています。


天下布武の象徴、安土城攻城記。 その1 <大手口>_e0158128_13492767.jpg


さらに、この郭の西側から、数基の竈跡と炭や焼け土の入った皿状の凹地が見つかったそうです。


天下布武の象徴、安土城攻城記。 その1 <大手口>_e0158128_13504989.jpg


その説明板です。


天下布武の象徴、安土城攻城記。 その1 <大手口>_e0158128_13515417.jpg


さて、中央に戻って、大手道を進みます。

・・・が、長くなっちゃったので、つづきは「その2」にて。

このシリーズは長引きそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-24 00:07 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>

「その8」のつづきです。

彦根城東側の玄宮園の南にある桜橋駐車場の横の金亀児童公園に、幕末の幕府大老・井伊直弼が建てられています。


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井伊直弼は文化12年(1815年)に、彦根藩第13代藩主・井伊直中14男として彦根城二ノ丸の下屋敷(槻御殿)に生まれます。

幼い頃から和歌や槍術などを学び、文武両道に優れた聡明な子どもだったといいますが、兄が13人もいて、しかも側室の子であったため、養子のもらい手もなく、ましてや藩主の座が回ってくることなど考えられず、天保2年(1831年)に父の直中が亡くなると、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間300俵の部屋住みとして過ごします。

その邸宅を、直弼は自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けました。

この不遇の時代に、直弼は国学、禅、茶道、歌道、絵画、能楽、兵学、居合、槍術等をとことんまで修めたそうで、この頃、茶道の「ちゃ」、歌道の「か」、鼓を打った時の音の「ぽん」をとって、「ちゃかぽん」とあだ名されたそうです。

ところが、弘化3年(1846年)に兄の第14代藩主・井伊直亮の世子であった井伊直元(直中の11男で、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定し、嘉永3年(1850年)、直亮の死去にともない、家督を継いで藩主となります。

なるはずのなかった藩主の座がまわってきたんですね。


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藩主となった直弼は、もともと聡明な人物だったわけですから、その能力を発揮し、名君とうたわれました。

その直弼が幕府内で頭角を現したのは、嘉永7年(1854年)の2度目の黒船来航のときでした。

当時、有力藩主が集まって幕政に関与する溜間詰(たまりのまづめ)大名という集いがあり、直弼はその筆頭という立場でした。

ペリー艦隊来航に際して直弼は、溜間詰大名筆頭として開国を主張し、鎖国の維持と攘夷を主張する前水戸藩藩主・徳川斉昭激しく対立します。

結局、幕府は米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印を、朝廷の勅許を受けるということで事態の打開を図ろうとします。
また、折から幕府内では、将軍継嗣問題よる対立も深まっていました。

幕政改革を求める雄藩藩主らは、斉昭の子で英明と噂されていた一橋慶喜(のちの第15代将軍・徳川慶喜)を支持し、一橋派と呼ばれていました。

これに対して、系統重視の幕府主流派は紀伊藩主・徳川慶福(のちの第14代将軍・徳川家茂)を推し、南紀派と呼ばれます。

一橋派は、斉昭を中心に福井藩主・松平慶永(春嶽)や薩摩藩主・島津斉彬らで形成され、一方の南紀派は、直弼をはじめ、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤ら溜間詰大名が中心でした。

両者の対立は条約調印問題と将軍継嗣問題という2つの政治的対立によりさらに深まっていきますが、そんななか、安政5年(1858年)4月、直弼は大老職に電撃就任します。


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大老となった直弼は、その権限を遺憾なく発揮して、かなり強引な政務を執り行います。

孝明天皇(第121代天皇)の勅許が得られずに止まっていた日米修好通商条約は、「国家存亡のときにあってやむなし」という直弼の判断により、勅許のないまま調印が行われました。

そして、その直後には、自らが推していた徳川慶福を次期将軍に決定します。

当然のごとく、この強引な手法には大きな反発がありましたが、直弼はその反発に対して、反対勢力を徹底的に処罰するというさらに強引な手法で答えます。

その強引さたるや、抵抗勢力に刺客を送った小泉純一郎元首相の比ではなく、幕臣、大名はもちろん、市井の学者や志士に至るまで、あらゆる抵抗勢力の一切排除を断行しました。

そのなかに、政敵である斉昭がいたのは言うまでもありません。

斉昭は国許永蟄居の処分となり、政治生命を断たれました。

世に言う、「安政の大獄」です。


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政敵の弾圧に成功した直弼は、さらに水戸藩に圧迫を加えます。

幕府は水戸藩を威嚇して、安政6年(1859年)に朝廷より同藩に下った勅諚(条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っているということが記された書状)の返上を迫りました。

「勅諚」とは天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。

ときの帝・孝明天皇(第121代天皇)は元来、異国人の入国を病的なまでに嫌い、直弼が勅許を得ずに調印した日米修好通商条約締結を知って激怒しました。

そんな天皇の意志を利用し、薩摩の西郷吉之助(隆盛)や水戸藩士など先の将軍継嗣問題において失脚した一橋派の志士たちは、公卿への工作を行い、直弼の大老職の免職、徳川斉昭の処罰の撤回などを呼びかけ、形成の挽回をはかろうとします。

その工作により天皇を動かして出されたのが、この勅諚でした。

これが幕府にとって面白くないことであったのは言うまでもありません。

この勅諚は「戊午(ぼご)の密勅」と呼ばれ、直弼をはじめ幕府首脳部に強い危機感をもたらし、安政の大獄の引き金になったとも言われています。

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幕府の水戸藩に対する勅諚返上命令を受けて、水戸藩内では大紛争が巻き起こり、幕府の指令に忠実に従おうとする鎮派と、断固として返上反対を訴える激派とに二分します。鎮派は主に藩首脳陣で、激派の者たちは主として下級の藩士層でした。

藩内の対立が激化するなか、激派の中心人物だった高橋多一郎金子孫二郎関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。
この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。

雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。

駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。

襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。

享年46。

幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

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この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。

水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。

この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。

その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。


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作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。


「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」


この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは事実でしょうね。


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彦根城佐和口門の近くには、直弼の歌碑があります。


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井伊直弼に対する後世の評価は真二つにわかれます。

ひとつは、現実味のない攘夷論に与せず、客観的な視野を持って開国にふみきった開明的な政治家という評価と、もうひとつは、外圧に屈して違勅調印を行い、安政の大獄を起こして有能な人材を殺した極悪非道の政治家という批判です。

はたしてどちらが正しい評価でしょうか。

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私は、そのどちらでもないと思います。

開国にふみきった経緯で言えば、彼は決して積極的に通商条約に調印したわけではなく、外圧におされてやむなく調印したのであり、その証拠に、条約はいわゆる不平等条約でした。

彼が行った開国は、決して先見の明といえるものではなかったでしょう。

一方で、勤王の志士たちを殺した悪逆無道の政治家という評価は、これもまた、客観性を欠いた批判といえるでしょう。

幕府大老として幕権を守ろうとするのは当然のことで、違勅調印に対する批判にしても、のちの王政復古史観皇国史観の立場からの見方で、天皇の意志を絶対視する考えの上からの批判といえます。

幕閣である直弼の立場では、天皇の意思よりも幕府を重んじるのは当然のことでした。

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私は、井伊直弼批判の声をもっとも大きくしたのは、安政の大獄で吉田松陰を殺したことだと思います。

松蔭の教育を受けた者たちが、やがて明治の世の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、彼らの恩師である松蔭を殺した井伊直弼という人物は、極悪人というレッテルを貼られ、それに対する異論は封じられたのでしょう。

その意味では、直弼の最大の失策は、松蔭の処刑だったように思います。

もし、島流しぐらいにしておけば、後世にそれほど避難されることはなく、現代の小説やドラマでも、違った描かれ方をしていたかもしれません。


あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな


この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしているといわれます。

この歌を詠んだ2ヶ月後、直弼は凶刃に倒れました。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-22 23:55 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

麒麟がくる 第1話「光秀、西へ」 ~明智光秀の出自~

さて、2週遅れで令和2年(2020年)の大河ドラマ『麒麟がくる』が始まりました。いろいろありましたが、まずは初回放送に間に合わせてくれとことを感謝します。役者さんもさることながら、セットの再建や再編集など、スタッフさんの撮り直しにかかる労力はたいへんなものだったろうと想像します。昨今の働き方改革の影響で、テレビ局の制作などへの規制も厳しく制限されるようになったと聞きますしね(かつては、大河ドラマの現場スタッフは不眠不休が当たり前だったと聞きますが、今はそれができないとか)。第1話が撮り直し前と同じに仕上がったのか、あるいは、少し構成が変わってしまったのかはわかりませんが、とにかく、第1話を観ることができて安堵しています。


麒麟がくる 第1話「光秀、西へ」 ~明智光秀の出自~_e0158128_19245426.jpg さて、明智光秀を主人公とする物語ですが、その冒頭は、美濃国明智荘から始まります。現在でいえば岐阜県可児市瀬田にあたりますが、実は、明智光秀の出自については諸説あって定かではありません。ひとつは上述した岐阜県可児市瀬田で、ここにはいまは「明智」という地名は残っていませんが、かつては明智荘という荘園がありました。もうひとつの説は、現在も「明智」という地名が残る岐阜県恵那市明智町で、ここには現在も光秀ゆかりと伝わる史跡が数多くあります。また、別の説では、岐阜県山県市美山町説や、近江国の佐目の里(滋賀県犬上郡多賀町佐目)説もあります。そのなかで、いろんな根拠から最も多くの歴史家さんに支持されているのが可児市の明智荘説で、ドラマでもその説が採られていました。


 また、ドラマ中、光秀と母・お牧との会話のなかで、明智家は土岐源氏の一族であることがふれられていましたが、実は、これも諸説あるなかのひとつで、詳らかではありません。一般的には、土岐源氏の支流である明智氏の当主という認識が通説となっていますが、この説の出典は後世に書かれた『明智軍記』によるもので、同書は良質な史料とはいえず、この説を鵜呑みにすることはできません。土岐明智氏とはまったく無縁の地侍だったという説や、土岐明智氏の支流ではあるものの、よくいわれるような明智城主の子というような身分ではなく、もっと低い身分の明智氏だったという説もあります。となると、土岐氏に代わって美濃国主となった斎藤道三に仕えたという説も、これまた定かではありません。つまり、光秀の前半生というのは、ほとんどなんですね。


 そんな謎の男・光秀の物語ですから、その前半はほとんどフィクションになります。したがって、今話で京、堺を旅したという話も当然フィクション。ただ、何の脈略ない作り話というわけでもなく、そこにはちゃんと逸話が散りばめられていましたね。まずは鉄砲。光秀は鉄砲術の名手だったといわれ、後年、その技術と知識を織田信長から大いに重宝されたといいます。その鉄砲術をどこで身につけたのか。のちに光秀が身を寄せることになる福井県の称念寺の伝承によると、「堺で鉄砲を学んだ」と記されています。また、斎藤道三が鉄砲に興味を持ち、光秀に習熟するよう命じたという説も。ドラマでは逆に光秀が自己アピールしていましたが、ない話でもないのかなと。


麒麟がくる 第1話「光秀、西へ」 ~明智光秀の出自~_e0158128_19245940.jpg その鉄砲を買い付けに行った先で松永久秀に出会いましたね。のちに織田信長に仕え、同じく反旗を翻すことになるふたりが早くも顔合わせです。ここに荒木村重が加われば三者揃い踏みだったんですけどね(笑)。その久秀が光秀に対して、自分は光秀の主君である斎藤利政を尊敬しているといい、「一介の油売りから立身した父の代から、わずか二代で成り上がった天下一の人物」と絶賛します。ここで注目すべきは、「父子二代」というところ。かつては道三一代で一介の油売りから美濃国主まで成り上がったといわれ、司馬遼太郎『国盗り物語』をはじめ多くの物語でそのように描かれてきた道三でしたが、近年見つかった新史料により、油売りから美濃の侍になったのが道三の父で、その後、下剋上で国主となったのが道三という親子二代にわたっての国盗り物語が主流となっています。たった1枚の書状で通説は覆りました。今回のドラマでは、その新説に基づいて描かれるようですね。


 あと、最後に出てきた道三の娘・帰蝶こと濃姫ですが、勇ましく馬に乗って現れ、戦支度をする父・道三に対して「御陣に加えて欲しい」という帰蝶に対し、道三は「嫁に出した娘に加勢を頼むほど落ちぶれてはおらん!」と一蹴します。まあ、当然の応対ですが、ここで聞き逃してはならないのは、「嫁に出した娘」という台詞。のちに織田信長の正妻となる帰蝶ですが、あまり知られてはいませんが、帰蝶は信長と結婚する前に、美濃国守護・土岐頼芸の甥の土岐頼純輿入れしたという説があります。道三から見れば主筋となる土岐家への輿入れであることから、妾ではなく正妻の娘を輿入れさせたとみるべきで、この場合、正妻の小見の方を母とする帰蝶が輿入れしたのではないか、とする説です。とすれば、帰蝶は信長に嫁ぐときはバツイチだったということになりますね。この帰蝶バツイチ説は、これまでのドラマなどではあまり採られていません。ただ、帰蝶という女性については、光秀以上にが多く、その生年も死も、その名前すら定かではありません。今回の帰蝶は勇ましい女性のようですね。


 とにもかくにも、第1話はプロローグの回といってよく、物語は始まったばかりです。第1話を観た感じでは、久々に王道の大河ドラマが観れそうな予感。今後の展開が楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2020-01-20 19:28 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(6)  

国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>

「その7」のつづきです。

彦根城最北端の山崎曲輪の外側から、中堀に沿って歩きます。


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上の写真はその山崎曲輪の高石垣


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その西側には前稿で紹介した山崎御門の冠木門が見えます。


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中堀北側にあるマンションの3階から撮影しました。

向こうに西の丸三重櫓が見えます。


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ズーム。


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さらに中堀に沿って西に歩きます。

ここからも角度を変えた西の丸三重櫓が。


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中堀の内側の石垣の上は、かつて武家屋敷がありました。

現在は彦根市立西中学校となっています。


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その中学校から中堀を挟んで北側に、「日下部鳴鶴屋敷跡」と刻まれた石碑がありました。

日下部鳴鶴は幕末から明治にかけての書家で、「日本近代書道の父」と呼ばれる人です。

鳴鶴の書いた石碑の文字が現在も日本全国に300基以上残っているそうで、なかでも、あの大久保利通の墓所にある大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれています。


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中堀北西の角に来ました。

ここから中堀は南に向かって90度曲がります。


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南に伸びる中堀です。


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中堀北西にある舟町口です。

舟町口は、南の京橋口、東の佐和口、北の長橋口とともに彦根城の4つの門のひとつです。

ここにも立派な櫓門があったであろう石垣があります。


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ここから中堀の内側を南に向かって歩きます。


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この辺一体も、往時は武家屋敷がありました。


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「家老岡本黄石屋敷跡」と刻まれた石碑があります。

「黄石」は号で、本名は岡本半介

幕末の彦根藩の家老で、尊皇攘夷派であったため、保守派の井伊直弼と対立して罷免されますが、直弼が桜田門外の変暗殺された後は、直弼時代の寵臣・長野主膳粛清するなど、政情の変化に対応して藩政を牽引しました。

しかし、徳川慶喜に過度に依存した結果、第二次征長戦争に出兵して大損害を蒙り、藩の評判をさらに失墜させ、最後は家老の座を追われます。


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東を見上げると、左に西の丸三重櫓が、右に天守が見えます。


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国宝・彦根城を歩く。 その8 <中堀~武家屋敷跡~京橋口>_e0158128_18064580.jpg


天守は修復工事中だったため、足場が。


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さらに南に下ります。

左側の堀は内堀です。


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このあたりの内堀は、前稿で紹介した南側の内堀と違って、腰巻石垣の上に土塁が築かれているだけで、鉢巻石垣はありません。


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前稿で紹介した大手門橋まで戻ってきました。


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そこから更に南下した場所にある、家老・脇屋屋敷跡です。


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その近くには、馬屋があります。

その名称のとおり、藩主の馬をつないでいた建物で、国の重要文化財となっています。


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そして、こちらは、中堀最南端の京橋口近くにある家老の旧西郷屋敷長屋門跡です。


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西郷家3500石の家老で、現在、彦根に残されている武家屋敷の中では最大の門です。


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その旧西郷屋敷長屋門跡をすぎると、大きな枡形虎口があります。


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その横には立派な雁木があります。

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ここは彦根城中堀南西の京橋口で、南の京橋口、東の佐和口、北の長橋口、西の舟町口とともに彦根城の4つの門のひとつですが、その中でも、大手門に向かうメインゲートでした。


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なので、中堀に面して高麗門があり、その内側を鉤の手に曲げて櫓門が築かれていました。


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その説明板です。


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京橋口に架かる木橋です。

この石垣の上に櫓門があり、門の上には二重櫓が乗り、その両側には多聞櫓が伸びていました。

門の形式としては最強の枡形虎口です。


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中堀の南側を歩きます。

石垣の下に犬走りがあります。


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南側の中堀。


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こちらは中堀南側に面した鈴木屋敷長屋門

このあたりは中級武士の屋敷があったゾーンで、この屋敷に住んでいた鈴木権十郎禄高350石大津蔵奉行を務めていた人物だったそうです。


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さて、ここを東に歩けば、「その1」で紹介した最初の南東の中堀に繋がります。

歩き始めたのが正午ごろで、現在17時半。

5時間以上もじっくり歩きました。

最後に日本100名城のスタンプを掲載します。


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これで彦根城をすべて制覇しましたが、あと1回だけ、番外編にお付き合いください。

「その9」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-18 00:27 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>

「その6」のつづきです。

今回は内堀の西側を南から北に向かって歩きます。


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南側の内堀です。

彦根城の石垣の特徴的な見どころのひとつで、土手の上部に鉢巻石垣、土手の下部に腰巻石垣が築かれています。


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向こうに見えるのは大手門に渡る木橋

「その1」で紹介した南東の表御門に架かる橋から、南西の大手門までの間の内堀の内側に、この鉢巻石垣と腰巻石垣が築かれています。

なぜこのような石垣を築いたかは、はっきりした理由はわからないそうです。


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大手門橋です。


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この橋を渡ると大手門です。


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橋から見た北側の石垣。

高石垣の下に犬走りがあります。


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橋を渡ると枡形虎口になっています。


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櫓台跡と見られるでっかい石垣台があります。

たぶん、ここに枡形の一ノ門があったのでしょう。


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大手門といえば、通常は城の正面玄関にあたりますが、彦根城にはもうひとつ、「その1」で紹介した表御門があります。

どちらが正面玄関かというと、もともとは大坂城の方角にあたる南西に大手門が築かれたそうですが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣豊臣家が滅亡すると、江戸城の方角にあたる表御門が実質の正面玄関になったのだとか。

でも、裏を返していえば、それまでは豊臣家に敬意を払っていたということになります。

本当でしょうか?


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ここが二ノ門跡です。


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横を見上げると、彦根城の特徴のひとつ、登り石垣があります。


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このまま山上には登らず、内堀に沿って北に向かいます。


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このあたりに米蔵があったそうです。


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内堀に出る水門です。


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内堀北西部まで来ました。


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ここにも登り石垣があります。

この登り石垣を上ると、「その5」で紹介した西の丸三重櫓の下の堀切に続いています。


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北側の土塁に上って内堀を見下ろします。

遠く向こうに見える高石垣は、最北端の山崎曲輪です。


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行ってみましょう。


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山崎曲輪に入る手前に山崎御門跡があります。


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北側の内堀に面した門ですが、現在は橋も架かっておらず、冠木門も塞がれて使用されていません。


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そして山崎曲輪です。


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山崎曲輪は彦根城最北端に構えられた郭で、往時は琵琶湖の内湖に突き出していたそうです。


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ここに家老の木俣土佐守守勝の屋敷があったといわれます。

木俣守勝は、井伊直政佐和山城に入る前に居城としていた高崎城城代家老を勤めていた人物でした。

元々は徳川家康の直臣で、一時は出奔して明智光秀に支えたときもありました。

本能寺の変のあとで織田信長の領地だった甲斐を占領した家康は、信長によって滅ぼされた武田家の家臣団を集めて井伊家に託します。

この時、守勝を武田家臣団の大将とするように命じた家康が、守勝を直政に与力として預けました。

つまり、家老といえども、元は直政とおなじ家康の家臣で、元同僚だったわけです。


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直政の死後、家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、彦根城の築城を取り仕切ったのは守勝でした。

その意味では、彦根城の実質の築城主と言えるかもしれません。


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曲輪内には建物のあった名残と見られる石垣の遺構がたくさん残っています。


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西隅には三重櫓が築かれていましたが、明治のはじめに解体されたそうです。

彦根城には三階建ての建物が3棟あり、そのひとつは天守、もうひとつは西の丸三重櫓、そしてあとひとつがここ山崎曲輪にあった櫓だそうです。

その場所に木俣守勝の屋敷があったわけですから、やはり、よほどの特別待遇だったことがわかりますね。


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三重櫓台の上に上って、北側の内堀を見下ろします。


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こちらは、西側の内堀。


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向こうに見えるのは、山崎御門の外側にある長橋口跡

東の佐和口、南の京橋口、西の舟町口とともに彦根城の4つの門のひとつですが、現在は使われていません。

石垣が一部崩れているようです。


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内堀の外側から見た山崎曲輪の高石垣です。


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出隅は算木積みになっています。


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向こうに天守が見えます。


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さて、本稿もだいぶ長くなっちゃいました。

「その8」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-17 01:27 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>

「その5」のつづきです。

今回は彦根城内堀の東側の外にある庭園、楽々園玄宮園を歩きます。


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写真は楽々園に通じる黒御門跡です。

ここから、また別の入稿券が必要です。


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門を入ってすぐに架かる橋の上から見た内堀です。


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楽々園に入ってすぐに、「井伊直弼生誕地」という石碑と、槻御殿の説明板があったのですが、肝心の槻御殿は修復工事中で見れませんでした。

残念。


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楽々園は、彦根藩第4代藩主・井伊直興によって建立された彦根藩の二の丸御殿で、槻御殿と呼ばれていました。

槻御殿は延宝5年(1677年)に着工し、同7年に完成した下屋敷で、その木材はすべてを使用していたことから、そう呼ばれたそうです。

第15代藩主・井伊直弼もここで生まれました。

第12代藩主・井伊直亮が文化年間(1804年~1817年)に楽々の間を増築して以来、槻御殿という名称よりも楽々園の名のほうが有名になったそうです。


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楽々園御書院の玄関です。


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こちらは南東側から見た御書院


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左が地震の間、右が楽々の間です。


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庭園です。

現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。


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こちらは八景亭(臨池閣)


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こちらは、玄宮園内にある鳳翔台

鳳凰が大空に向かって舞い上がる場所という意味で名付けられたと伝わる高台で、江戸時代に描かれた「玄宮園図」玄宮園十景の1つとして描かれているそうです。


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そして、広大な玄宮園です。


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玄宮園は、江戸時代には「槻之御庭」と呼ばれていました。

玄宮園の名は、古代中国の宮廷の名によって命名されたと考えられているそうです。


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玄宮園は、広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。


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西に天守が見えます。


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ズームします。

ここを訪れた昨年の平成30年(2018年)7月1日、天守は改修工事中で足場がかけられていました。

ちょっと残念。


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いろんな角度から天守と庭園を見てみましょう。


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正直なところ、わたしは城跡は大好きで少しばかり詳しいつもりでいますが、日本庭園にはそれほど興味はなく、ここでウンチクを語るだけの知識がありません。


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井伊家のお殿さんの隠居場ということで、とりあえずひと通り歩きました。

「その7」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-16 00:24 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)