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麒麟がくる 第11話「将軍の涙」 ~農兵制と兵農分離~

 織田信広松平竹千代(のちの徳川家康)の人質交換によって三河での勢力を盤石にした今川義元は、翌天文19年(1550年)8月、大軍を率いて尾張の知多半島に攻め寄せ、織田方の領地を次々と攻略していきます。これにより、織田信秀はその非力ぶりを露呈することとなり、いよいよ崖っぷちに立たされていきます。


 このとき織田方から美濃の斎藤道三援軍要請があったかどうかはわかりませんが、美濃から援軍を送ったという記録は残っていません。ドラマでは、稲刈りどきに他国のために兵を送るなど出来ないと国衆から猛反対を受けていた道三でしたが、たしかに、時期的に見てそれはあったかもしれません。この時代はまだ兵農分離が確立されておらず、百姓も貴重な兵力でした。この時代の兵士のほとんどは、普段は農業に従事し、召集がかかると武装して参戦する半農半士の者たちだったんですね。だから、領主たちは戦を仕掛けるにも、農繁期を避けて農閑期を選ばねばなりませんでした。つまり、経済面からも軍事面からも民百姓の数は国力であり、容易に貸し出せるようなものではありません。もっとも、金銭で兵を雇う傭兵制度は当時もありました。しかし、それも農閑期に限ったようです。


麒麟がくる 第11話「将軍の涙」 ~農兵制と兵農分離~_e0158128_21004698.jpg その最も顕著な例が、武田信玄上杉謙信の間で5回に渡って繰り広げられた「川中島の戦い」です。あれほど何度も対峙しながら、結局はっきりとした決着をつけられなかったのは、まさしく、両軍ともに農兵が中心だったからでしょう。農兵制である限り、長期戦は不可能だったんですね。ところが、その軍制を見直し、兵農分離を積極的に取り入れて常備軍を作り上げたのが織田信長でした。この軍制改革が信長を天下人たらしめたといえます(もちろん、それだけではありませんが)。逆に言えば、よく、武田信玄も上杉謙信も、もし、もう少し長生きしていれば天下を獲っていただろうという人がいますが、わたしは、上記の理由からそれはなかっただろうと思っています。信玄も謙信も、信長に比べれば所詮はローカルレベルでの英雄だっただろうと。


その意味で、わたしは信長が天下人の階段を上っていったのは歴史の必然だったと思うのですが、しかし、上り詰める寸前で引きずり降ろされたのもまた歴史の必然。天才信長には違う意味での欠陥があったんですね。


 話が大きく脱線しちゃいましたが、このとき、今川と織田の間に将軍・足利義輝から和睦要請があったのは史実です。もっとも、それを明智光秀が促したというのは、もちろんドラマの創作ですが。天文20年(1551年)6月28日、義輝は織田方との和睦を今川氏に求めるよう前関白の近衛稙家に依頼しています。これを受けた近衛稙家は、将軍義輝の御内書を今川義元や太原雪斎らに送りました。この調停によって両軍は休戦状態となりますが、その和睦交渉は遅々として進まず、おそらくは翌年の信秀の死によって沙汰止みになったと思われます。



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by sakanoueno-kumo | 2020-03-30 20:03 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)  

丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>

「その2」のつづきです。

登山をはじめて約40分、ようやく黒井城本城の東曲輪に到着しました。

パンフレットによると、東曲輪の広さは20m×15mだそうです。


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見事な野面積み石垣の遺構に圧倒されます。


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縄張図によると、三ノ丸櫓台石垣のようです。


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その縄張図です。


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三ノ丸に上がって来ました。

広さは28m×23mあります。


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縄張図を見てもわかるように、本丸、二ノ丸は直線上にあるのに対して、三ノ丸と東曲輪は「くの字」型をしており、矢掛りがかかるように配置しています。


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三ノ丸からの270度パノラマビューです。


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この山が、黒井城攻城戦のときに明智光秀軍が陣城を築いたとされる茶臼山です。


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こちらも、明智軍が攻め城として改修した朝日城跡


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北丹波を一望といった感じですね。

「丹波の赤鬼」と呼ばれたた赤井(荻野)悪右衛門直正は、ここから丹波一円に睨みを効かせていたのでしょう。


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三ノ丸の北西端にある二ノ丸櫓台石垣です。


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三ノ丸櫓台より幅が広いですが、高さは低いようです。

あるいは、もとはもっと高く積まれていたのでしょうか?


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二ノ丸、本丸に上がる前に、その周りを取り巻く帯曲輪を歩いてみましょう。


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南側の帯曲輪です。

向こうに石垣、そしてその上にが見えます。

ここを訪れたのは元号が「令和」に変わる少し前の平成31年(2019年)4月13日。

平成最後の桜です。


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縄張図にある、帯曲輪と帯曲輪にせり出した曲輪の石垣です。

出隅は算木積みっぽい兆候が見られます。


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これらの石垣は、赤井氏の時代ではなく、明智光秀の丹波平定後に入城した重臣・斎藤利三時代のものと考えられています。

斎藤利三は、あの春日局の実父です。


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見上げると桜の木が。

本丸、二ノ丸と帯曲輪の高低差は5mほどです。


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反対側から見た石垣。


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そして最西端にある西曲輪にやってきました。


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西曲輪から見た本丸です。


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そして北側の帯曲輪です。


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こちらも南側の帯曲輪と同じく、本丸、二ノ丸との高低差は5mほどありますが、石垣は残っていません。


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一周して三ノ丸に戻ってきました。

二ノ丸、本丸は「その3」にて。

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by sakanoueno-kumo | 2020-03-28 08:58 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>

「その1」のつづきです。

黒井城跡登山口にやってきました。


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ここに車を停めて、ここから登山です。


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駐車場には、明智光秀赤井(荻野)悪右衛門直正の戦いを紹介した説明板があります。


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登山口の石碑。

「保月城趾」と刻まれています。

黒井城の別名です。


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これはヤマザクラでしょうか?


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登山道は「急坂コース」「なだらかコース」がありますが、迷わず後者を選択。


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防獣柵を開けて、登山道に入ります。


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たしかに緩やかです。


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でも、やはりシンドイ。


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しばらく登ると、なだらかコースの途中にも、また「急坂コース」「ゆるやかコース」の分かれ道が。


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迷いましたが、今度は急坂コースを選びました。


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登り初めて25分ほど、赤く塗られた門のようなものが見えてきました。

寺院の山門のようにも見えますが、左右に仁王像はなく、説明板のようなものもなかったので、詳細がわかりません。


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門をくぐると、曲輪のような削平地となっていました。

立て札には「石踏の段跡」と書かれています。

これも説明板がなく、パンフレットにも説明がないのでよくわかりませんが、たぶん、曲輪跡だと思われます。


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赤門から南を見ます。


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南側の眺望です。


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石踏の段跡に、墓石のような石碑が建てられています。


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「故緇井邑主赤井公招魂碑」と刻まれています。

「赤井公」とは、おそらく赤井直正のことでしょうね。


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赤井直正は丹波国氷上郡を中心に勢力を誇った赤井氏の生まれで、叔父の荻野秋清を宴の席で刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って城主となったという豪傑で、通称の「悪右衛門」はこの事件からついたといわれています(諸説あり)。

黒井城主となった直正は、黒井城の改修に手を付けて防御を固めるとともに、その勢威を丹波一円に広げ、さらに但馬にも進出して、その勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と呼ばれました。

当時の名将十三人の1人にも数えられます。


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もしかして、石踏の段の「石踏(いしぶみ)」は、この「碑(いしぶみ)」の当て字でしょうか?


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さて、石踏の段跡でしばし休憩したあと、山頂を目指します。


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本丸まで200m


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ここでまた、防獣柵があります。

麓の防獣柵は動物が街に降りてこないように防ぐための柵ですが、これは、おそらく頂上の城跡を動物に荒らされないようにするための柵でしょうね。

史跡を守ろうという取り組み、いいですね。


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本丸まで100m

もうすぐ山頂ですが、長くなっちゃったので、「その3」に続きます。

黒井城の全体図も載せます。


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by sakanoueno-kumo | 2020-03-26 23:20 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>

兵庫県丹波市にあった黒井城は、戦国時代、豪勇をうたわれた赤井(荻野)悪右衛門直正の居城として知られています。

天下統一を目指していた織田信長丹波攻めの際、二度に渡って明智光秀の攻撃を支え、苦しめた城です。

平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城に選定されました。


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上の写真は南側の麓から見た黒井城跡です。

中央の猪ノ口山本城で、そこから尾根伝いに写真左端に見える小さな頂が丈寺砦です。


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本城は標高356mだそうですが、山頂部分が150mほど削平されていて、麓から見ても、いかにも人工的に作られた遺構ってことがわかりますね。


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その山頂をズームします。

ここを訪れたのは元号が「令和」に変わる少し前の平成31年(2019年)4月13日。

山頂に石垣、そしてが見えます。

いまから、あそこに登ります。


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大きな誘導看板があります。


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登山前に、黒井城のパンフレットをもらうべく、丹波市春日庁舎を訪れました。

ここの敷地内にある春日民族歴史資料館でパンフレットがもらえます。


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このパンフレットがめっちゃいい出来で、城の全体図もわかりやすく、黒井城跡に登るには必ずゲットすべきでしょうね。


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庁舎には、大河ドラマ『麒麟がくる』に向けてのPR懸垂幕が。


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こちらの幟も「明智光秀ゆかりの地」とあります。

ここを訪れたのは大河ドラマが始まる8ヶ月ほど前だったので、まだそれほど巷では話題になっていなかったのですが、観光誘致は始まっていました。


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庁舎の前から見た黒井城跡。

桜が綺麗です。


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猪ノ口山山頂にズーム。


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登山の前に、麓を流れる黒井川で桜見物。

平成最後の桜です。


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さて、麓だけで長くなっちゃいました。

「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-25 23:32 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

ドラマ『テセウスの船』鑑賞備忘録。

ドラマ『テセウスの船』が終わっちゃいましたね。

この2ヶ月余り、大河ドラマのあとにこのドラマを観るというのが日曜の夜の定番になっていました。

いやあ、引き込まれましたね。

わたしが民放のドラマにここまでハマっちゃったのは久しぶりのことです。

で、最終回を観終わったいま、思いついたことを場当たり的に書き残しておこうと思います。


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わたしは東元俊哉さんの原作漫画を読んでいないので、原作との違いとかはよくわからないのですが、物語全体を通していえば、たいへん面白かったと思います。

ただ、こういう伏線をいっぱい散りばめた物語は、その回収作業がいかに上手く出来ているかで、観ている側はカタルシスを得られると思うのですが、その意味では、伏線を全部回収しきれずに散らかしっぱなしに終わった感があり、ちょっと消化不良でした。


まず、いちばん気になったままなのは、確か第3話あたりで金丸茂雄刑事田村心と学校の校門で別れたあと、車を停めて「よう!」と声をかけたのは誰だったのか?

その人物と金丸刑事を崖から突き落とした犯人は同一人物なのか?

ドラマの結末から言えば、突き落としたのは田中正志だったってことですかね?

でも、正志が金丸刑事から「よう!」と声を掛けられるような気安い仲だったとは思えないのですが・・・。

あそこが重要なポイントだと思って観ていただけに、なんかスッキリしません。


また、心の運転免許証が塗りつぶされていたのは何だったのか?

あの気持ち悪い絵を描いていたのは加藤みきおだったのでしょうが、ワープロの文章は田中正志?

佐野家の庭に青酸カリを埋めたのは正志?それともみきお?

長谷川翼を殺したのはみきお?

だとすれば、その理由は? その方法は?

徳本卓也井沢健次が穴を掘っていたのは何のため?

なんか、中途半端にわからないことだらけです。


それから、心が一度未来に戻ったとき、木村さつき音臼小事件の犯人がみきおだってことを知っているようでしたね。

でも、過去のさつき先生は、純粋にみきおを信じていたようでした。

じゃあ、いつ知ったのでしょう?

知った上でみきおの養母となったのでしょうか?

未来のさつき先生が、あれほどまで佐野文に罪をかぶらせようとしていた理由は?

単にみきおを守るため?

これも、なんかスッキリしませんね。


あと、加藤みきおについて。

みきおの目的は佐野鈴手に入れることだったわけですよね。

それだけの目的で多くの人の命を奪ったわけで、何とも狂気に満ちた少年だったわけですが、そんなサイコパスといえるみきおが、なぜ急に吾を助ける行動に出たのでしょう?

正志に裏切られたから?

鈴が悲しむから?

そんなことで、ああも簡単に心を入れ替えることができるのであれば、そもそも、あんな凶悪な事件を起こさないのでは?

みきおには最後まで狂気の沙汰でいてほしかったですね。

ちょっと肩透かしでした。


で、最後に、物語の結末について。

最終回前の制作サイドのコメントでは、「原作に沿った“ハッピーエンド”を考えています。」とのことでしたが、これってハッピーエンドなんでしょうか?

物語のタイトルでありテーマでもある「テセウスの船」

ナレーションはこう語ります。


ギリシャ神話に「テセウスの船」というエピソードがある。

その昔、戦に勝利してクレタ島から帰還した英雄・テセウスの船を後世に残すため、朽ちた木材は次々と交換され、やがて全ての部品が新しいものに取り換えられた。

さて、ここで矛盾(パラドックス)が生じる。

この船は最初の船と同じと言えるだろうか?


連続殺人事件を起こした凶悪犯人の息子として育った田村心が、30年前の事件直前にタイムスリップし、父の冤罪を晴らすために奔走。

音臼小事件そのものを未然に食い止め、父は凶悪犯の疑いを掛けられずにすみました。

その結果、その後、襲われるはずだった佐野家の不幸はなくなり、生まれてきた心は「佐野心」として人並みに幸せな人生を歩むことになります。

さて、ここで矛盾(パラドックス)が生じます。

田村心佐野心は同じと言えるのでしょうか?


この場合、佐野心の幸福は田村心の不幸の上に成り立っています。

佐野家を守った心優しい田村心は、その不幸な生い立ちによって形成された人間性だとすれば、その苦労を知らない佐野心は、田村心と同じような心を持った青年にはきっと育っていないでしょうし、田村家の不幸があったから佐野家に幸せが訪れたとすれば、何がハッピーエンドなのかはわからないですよね。

テセウスの船の矛盾(パラドックス)、奥が深いです。

まあ、所詮はファンタジーですから、真剣に考える必要はないのでしょうが。


とにもかくにも、最終回は少し消化不良でしたが、たいていのドラマは、最終回前までの物語の完成度が高いほど、最後は消化不良で終わることが多いものです。

本作はまだマシだったほうじゃないでしょうか。

いずれにせよ、しばらくテセウスロスになりそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2020-03-24 00:45 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

麒麟がくる 第10話「ひとりぼっちの若君」 ~織田信広と竹千代の人質交換~

 前話に続いて今回もほとんどが創作の回だったので、織田信長の庶兄・織田信広についての話を少し。信広は織田信秀長男と伝わりますが、母が身分の低い側室であったため、家督相続権は弟の信長にありました。生年は不詳ですが、信長とは年が離れていたと推測されています。


 弟の信長があまりにも英雄となったために愚鈍な兄に見られがちな信広ですが、決してそうではなかったようで、戦の際には父・信秀から軍事的にも重要な役割を任されており、天文17年(1548年)3月に起きた第二次小豆坂の戦いでは、先鋒を務めています。しかし、その戦いで織田軍は大敗を喫してしまい、安祥城へと敗走を余儀なくされました。その後、その安祥城の守備を任されたのが信広でした。三河攻略を目指していた織田にとって安祥城はその拠点となる砦で、そこを任されていた信広は、決して凡将ではなかったといえるでしょう。


 麒麟がくる 第10話「ひとりぼっちの若君」 ~織田信広と竹千代の人質交換~_e0158128_15331497.jpg天文18年(1549年)3月、今川義元の配下の太原雪斎率いる今川・松平連合軍2万の軍勢が安祥城に攻めかけます。このときは今川軍の攻撃のマズさによって撃退に成功しますが、同年11月、再度、雪斎に城を攻められた際には、平手政秀などが援軍に遣わされるも耐え切れず、安祥城は陥落。この戦で信広は今川方に生け捕りにされてしまいます。今川方は最初から信広を生け捕りにするのが目的の戦いでした。その理由は、人質交換の駒にするため。その相手は、2年前から織田家の人質となっていた竹千代(のちの徳川家康)でした。竹千代の父・松平広忠は、実質、今川氏の傘下となっていましたが、その広忠亡きあと(ドラマでは信長が殺した設定)その跡取りである竹千代は、三河を支配する上で重要な駒だったんですね。


 「竹千代は三河の主となる若君。それを今川に渡すなど、尾張の命運にも関わります。兄上は戦下手ゆえ捕らえられた。自業自得ではありませぬか。捕らえられる前に腹を切るべきであった!」


 劇中、今川氏からの人質交換の要求に苦慮する信秀に対して言い放った信長の台詞。庶兄とはいえ実兄に対して何とも血も涙もない物言いですが、正論ではあります。戦に負けても捕虜にさえならなければ、竹千代を今川氏に渡すことはないですからね。


「信秀は、我が子を見殺しにいたしましょうか?」

「見殺しにできるようならば、信秀殿はまだ見どころがある。」


 信広生け捕りの報を知った斎藤利政(道三)明智光秀の会話ですが、しかし、信秀は息子を見殺しにはせず、人質交換に応じます。信秀からすれば、息子可愛さの親心だったのか、あるいは、それほど信広が見殺しにし難い優秀な人材だったのか、いずれにせよ、この人質交換によって三河はほぼ今川氏の支配下に入ることとなり、織田氏の三河侵攻は失敗に終わりました。


 ちなみに、劇中、将棋を打つなど心を通わせていた信長と竹千代でしたが、この人質期間中に2人が知り合っていたという史料は残っていません。また、この時期に信長と光秀が会ったという記録も当然なく、2人が知り合うのはもっとずっと先のことです。まあ、史料に残っていないというだけで、完全否定する材料にはなりませんし、少なくとも、信長と家康は、何らかの接点があったとしてもおかしくはないでしょう。でも、光秀と信長は、ちょっと無理があるでしょうね。そもそも帰蝶(濃姫)従兄妹関係だったという説も定かではないですし、それがもし事実だったとしても、そう簡単に会えるものでもなかったでしょうし。


 さて、物語は第10話まで進みましたが、それにしても、時代が進みませんねぇ。この10話でまだ2年ほどしか経っていません。残り37話で30年以上の歴史を描かねばならず、その後半になればなるほど、光秀の事績は濃くなっていくはず。大丈夫でしょうか?特にここ4話はほとんど創作話ばかりで、ドラマである以上、創作が悪いとは言いませんが、本来、光秀の事績は信長の配下に入ってからが重要だと思うのですが、このペースで行くと、後半がかなり駆け足になりそうで心配です。駒ちゃんの恋バナもいいですが、そんな箸休めに時間を費やしすぎて、本題の光秀の歴史が粗雑な描き方になるようであれば、本末転倒かな、と。最初の3話ほどがたいへん面白かっただけに、ここへ来てちょっと心配になってきました。期待はずれにならなければいいのですが・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2020-03-23 15:34 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(2)  

『麒麟がくる』京都大河ドラマ館

丹波亀山城跡を訪れた際、近くにNHK大河ドラマ『麒麟がくる』のテーマ館、京都大河ドラマ館がオープンしていると知り、訪れました。

毎週、大河ドラマのレビューをブログにて起稿しておきながら、恥ずかしながら、京都大河ドラマ館のことを知りませんでした。

岐阜県に大河ドラマ館がオープンしたって情報は得ていたんですが。


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場所はJR亀岡駅のすぐ北側に新しく出来た京都府立京都スタジアム内の特設会場。


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別名、サンガスタジアム by KYOCERA

京都に本拠地を構えるJリーグチームの京都サンガF.C.の新たなホームグラウンドとなるそうで、令和2年(2020年)1月11日に竣工式を終えたばかりのスタジアムです。

わたしがここを訪れたのは2月2日。

竣工ホヤホヤです。


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です。

これと同じ幟が亀山城跡にもあって、それで、ここの存在を知りました。


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光秀大河物産館

お土産屋さんですね。


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右のキャラクターは、戦国系のゲームのキャラかなんかだと思っていたのですが、あとから調べてみたら、「戦国VTuber明智光秀」という亀岡PR特別大使なんだそうです。

バーチャルユーチューバーが公式観光大使って、おじさんはもう着いていけません。


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こちらは長谷川博己さんの明智光秀

これは着いていけます。


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外壁のガラス面も全面グラフィックを貼っていて、結構お金かけていましたね。


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入口です。

キャッチコピーは「光秀は、何者か。」

光秀の実像というのは、多くの学者さんをもってしても、いまだ解明されていません。

有名なわりには、その前半生はほとんど謎の人物といっていいでしょう。

光秀は、何者か。

無粋なことを言うようですが、テーマ館の展示レベルで、その謎が解き明かされることはありません(笑)。


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入ってすぐのVPです。

ここからはチケットを購入しなければ入れません。


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館内には撮影に使われたものと同じ衣装甲冑小道具の展示や、ドラマオープニングのメイキング映像の上映、ストーリーやキャストの紹介パネルなどが展示されていました。

たぶん、ここでも、帰蝶の紹介パネルは急遽差し替えられたのでしょうね。

わたしも、似たような仕事をしているので、関係者の皆さんのご苦労はお察しします。

帰蝶の等身大パネルは、間に合わなかったのか、ありませんでした。


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館内はほとんどが撮影禁止だったのですが、一部、撮影オッケーの場所があったので、紹介します。

写真は、「光秀は、何者か。」をテーマにしたパネル展示ですが、やはり、光秀が何者かはわかりませんでした(笑)。


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天正3年(1575年)から天正7年(1679年)にかけての明智光秀の丹波攻略マップですね。

実際には、明智光秀が攻め落とした丹波の城の数は30城以上あると言われています。

その全部とはいきませんが、ほとんどを、去年から今年にかけて、わたし、攻めてます(笑)。

また、随時アップしていきますね。


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で、こちらは、先日の稿で紹介した亀山城跡の外堀沿いにある南郷公園に建てられた光秀像のレプリカ

カーボン製だそうです。


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肖像画に似ているといえば似ているし、似ていないといえば似ていない(笑)。


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写真は江戸時代後期に刊行された豊臣秀吉の伝記『絵本太閤記』のなかの「光秀連歌の図」

天正10年(1582年年)5月24日(あるいは28日)に行われたとされる愛宕百韻のときの絵ですね。

有名な「ときは今 あめが下しる 五月かな」の発句で始まった連歌の会です。


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そして、こちらは明治元年(1868年)に一魁斎月岡(月岡芳年)によって描かれた「本能寺合戦」浮世絵

中央に安田宅兵衛(安田国継)と戦う森蘭丸が描かれています。


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展示を一通り見終わって、外に出ました。

北側の景色です。

正面の山の奥の山に愛宕百韻が詠まれた愛宕神社があります。

天正10年(1582年年)5月27日、愛宕神社に参拝した光秀は、何度も何度もおみくじを引いたと伝えられます。


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最後に、光秀大河物産館に立ち寄ってTシャツマグカップを買いました。

「てきは本能寺にあり」

今年の夏、これ来て京都を歩こうかな(笑)。


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展示内容はドラマが進むごとに、バージョンアップする予定だそう。

物語後半に、もう一回来てもいいかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-21 08:30 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>

「その1」のつづきです。

前稿で紹介した丹波亀山城跡大本・天恩郷を訪れたのは平成30年(2018年)6月2日だったのですが、その翌年の令和元年(2019年)5月3日、北側の南郷公園明智光秀の像が建立されたというニュースを見ました。

で、更にその翌年の令和2年(2020年)2月2日、再び亀岡の地を訪れました。


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こちらが、その光秀像

左右に亀山城の鯱瓦像もあります。


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土台は亀山城の石垣をイメージしているのでしょうか。


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ここを訪れたのは夕方だったので、逆光で顔がわかりづらいのが残念。


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いろんな角度から。


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肖像画に似ているといえば似ているかも。


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少なくとも、坂本城跡に建てられていた安っぽい石像よりは、数段いい出来ですね。


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こちらは、光秀像建立にあたっての説明板。

令和元年(2019年)は明治2年(1869年)に「亀山」という地名を「亀岡」に改名して150年という節目の年にあたることと、令和2年(2020年)のNHK大河ドラマが光秀を主役にした『麒麟がくる』に決定したことが、光秀像建立につながったのだとか。

その資金には、ふるさと納税による寄付金が充てられたそうです。

さすがは大河ドラマ、地方行政をも動かします。


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鯱瓦像です。


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その説明書きの真鍮板。


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反対側の鯱瓦像の土台には、城づくりの名手といして名高い藤堂高虎が普請したという亀山城天守の図が刻まれた真鍮板があります。


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近くには、「明智光秀公築城亀山城趾」と刻まれた石碑が。


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光秀像の背後には、南郷池が横たわります。

「その1」でも紹介したとおり、この池はかつての亀山城の外堀の名残です。


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前稿での南郷池は夏のロケーション、今回は冬のロケーションです。


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南郷池の説明板。


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南郷公園はJR亀岡駅のすぐ南側にあります。

これから、この光秀像が亀岡市の顔になっていくのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-20 00:29 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>

かつて口丹波にある亀岡盆地の中心にあった亀山城は、織田信長の命を受けて丹波攻略中だった明智光秀が、その拠点とすべく築城した城です。

本能寺の変の際、光秀はこの亀山城から本能寺に向かいました。


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写真はかつての外堀跡

現在は南郷池と呼ばれ、池の畔は公園整備されています。


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丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19274551.jpg


池の東側に架かる橋には、「保津門跡」と書かれた駒札が立てられていました。


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そこから南に進むと、説明書きの駒札が立てられています。

「大本・天恩郷(丹波・亀山城)」と書かれています。

亀山城は、明治維新以降、廃城処分となり、所有者が転々としていましたが、大正8年(1919年)に新興宗教団体「大本」が購入し、荒廃していた石垣を積み直すなど整備し、以後、宗教施設として現在に至ります。

説明書きの末尾に、「受付申込みで城址の一部が見学できます」とあります。

行ってみましょう。


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施設外周の石垣は、城跡のものを積み直したものか、あるいは後世のものか・・・。

新しいものではなさそうですが・・・。


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ここが宗教施設の正門

なんとなく入りづらい。


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誰も歩いていないし・・・。


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施設内にある案内板です。

城跡の説明書きはありませんが、中央上部に石垣の絵があります。

あそこが城跡の遺構かもしれません。

行ってみましょう。


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施設中央にある万祥池

かつての内堀跡だそうです。


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この辺の石垣も、城跡を感じさせてくれます。


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戦前、ここを拠点として急激に拡大した大本に脅威に感じた大日本帝国政府は、徹底的な弾圧を加えはじめ、昭和11年(1936年)に施設内の神殿などを1500発のダイナマイトで徹底的に破壊したそうで、この一連の弾圧事件は、「大本事件」として昭和史に刻まれています。

このとき、亀山城の遺構の多くも破壊されてしまったそうで、現在残る石垣のほとんどは、戦後、信徒の方々の手によって積み直されたものだそうです。


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この橋を渡ったところにある万祥殿で、城跡見学の申込みができます。

城跡は聖域にあるということで、見学前に大麻(おおぬさ)お祓いをしていただき、その後、立ち入りが許可されます。


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万祥殿横の小さな門をくぐって聖域に入ります。


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いきなり石垣が目に入ります。

きれいに積み直されています。


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その道中に、高さ20mを超える大きなイチョウの木があります。


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説明板によると、かつてここに光秀の手植えと伝えられたイチョウの木があり、その木は江戸時代中期の台風で倒れ、若木を植え替えたものが現在の大イチョウだそうです。

光秀手植えというのは眉唾ものとしても、ここにそれだけの樹齢の大樹があったというのは本当の話でしょう。


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そして、眼前にみごとな高石垣が現れます。


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どうやら、天守台石垣のようです。


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しかし、残念ながら天守台の上は、宗教上の理由で立入禁止となっていました。


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積み直しとはいえ、みごとな復元です。

出隅はちゃんと算木積み、扇の勾配になっています。


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明智光秀がここ亀山城を築城したのは、天正5年(1577年)から同6年(1578年)頃と考えられています。

しかし、正確な史料に乏しく、光秀時代の城の全容はわかっていません。

天正8年(1580年)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2年後に本能寺の変が起こり、その後の山崎の戦いで落命します。


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その後は天下を統一した豊臣秀吉の支配下となり、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、秀吉の死後は徳川家康の譜代大名である岡部長盛が入城。

天下普請によって城は大改修され、近世城郭として生まれ変わりました。

このときの築城にあたっては、城づくりの名手といして名高い藤堂高虎縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。

この天守台石垣も、そのときのものと思われます。


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天守台の反対側にやってきましたが、やはり立入禁止でした。

まあ、当然でしょうが。


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光秀の時代の遺構は残っていませんが、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、ここから明智光秀率いる軍勢が本能寺に向けて出陣したのは間違いありません。

「敵は本能寺にあり

は、あるいはこの城内で発せられたかもしれませんね。

歴史の大きなターニングポイントの舞台となった亀山城です。

「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-18 23:05 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

麒麟がくる 第9回「信長の失敗」 ~大うつけ信長と松平広忠の死~

 尾張国と美濃国の同盟の証として結婚した織田信長帰蝶(濃姫)。ドラマでは、祝言をすっぽかして平手政秀ら家臣たちを困らせていた信長でしたが、司馬遼太郎『国盗り物語』では、とりあえず婚儀の席には座ったものの、その窮屈さに堪えかねて何度も脱走を試み、その都度、平手政秀につかまって連れ戻されるというヤンチャな信長の姿が描かれていました。もちろん、どちらも物語上の創作ですが、信長の型にはまることを嫌う破天荒ぶりを強調した創作でしょう。


麒麟がくる 第9回「信長の失敗」 ~大うつけ信長と松平広忠の死~_e0158128_21004698.jpg そんな若き日の信長が「大うつけ」と呼ばれていたことは有名ですね。『信長公記』が伝える信長のうつけぶりは、湯帷子の袖をはずし、半袴を着て、その腰には帯代わりの縄を巻いて火打袋瓢箪などいろいろぶら下げ、髪は茶筅の形にして紅の糸や萌黄の糸で巻き立て、朱鞘の大刀を差していたといいます。その異常な身なりで人目をはばからずにをかぶりながら町を歩き、立ちながら餅を食べ、人によりかかり、「人の肩につらさがりて」歩いたというから、いまでいえば、ヤンキーチンピラですね。また、信長は卑賎の若者たちとも頓着せずに戯れていたようで、これは、いかに秩序の乱れた戦国時代といえども、あり得ないことでした。これらすべてが、のちの既成概念にとらわれない奇才ぶりや、身分にとらわれない人材登用の片鱗といえるのでしょうが、当時の人々の目には「大うつけ」としか見えなかったでしょうね。


麒麟がくる 第9回「信長の失敗」 ~大うつけ信長と松平広忠の死~_e0158128_19245940.jpg そんな「大うつけ」に斎藤道三は娘を輿入れさせたわけですが、後年、道三は信長と会見し、信長の非凡な能力を見抜いたという話は有名ですが、この時点では、やはり巷のうつけ評を信じるしかなかったでしょう。それを承知の上で帰蝶を嫁にやったのは、もちろん尾張との戦を回避するためというのが一番の理由だったでしょうが、もし信長が噂どおりの大うつけならば、父の織田信秀の死後、棚ぼたで尾張が手に入るという魂胆だったのかもしれません。実際、この約2年後に信秀は病没してしまいますし、道三も信秀の健康状態が芳しくないという情報を得ていて、あえてうつけに娘をやったのかな、と。ところが、それはとんだ見当違いだったんですね。


 ちなみに、ドラマで信長が祝言をすっぽかした理由としていた怪物が出る池の話は、『信長公記』が伝える「あまが池」の逸話がベースでしょう。あまが池に大蛇が出るという噂を耳にした若き日の信長は、家臣や付近の農民たちに池の水を全部かい出せと命じ、4時間ばかり続けて7割ほど水をかい出したところで、業を煮やした信長は自ら脇差を咥えて池に潜り、大蛇を探したといいます。ところが、結局、大蛇は見つからず、「蛇など、おらぬ」と言い残して清州に帰った、と。この逸話は、物事の真実を突き詰めなければ気がすまない信長の性格を物語ったエピソードとして知られていますが、ドラマでは、化け物に怯える領民の不安を解消するため、自ら池に入ったという領民思いの信長として描かれていました。う~ん・・・ちょっと違うよなあ。


 あと、織田家の人質となっていた竹千代(後の徳川家康)の父・松平広忠についてですが、諸説あって定かではありません。江戸幕府の正史『徳川実記』大久保忠教が著した『三河物語』では病死とされていますが、これは、二代続けて当主が不慮の死を遂げたということを隠蔽したものだともいわれています(広忠の父・松平清康は若くして家臣に裏切られて殺害されています)。昭和58年(1983年)の大河ドラマ『徳川家康』では、岩松八弥に殺害されるという展開でしたが、これは、江戸時代中期に編纂された『岡崎領主古記』によるもので、山岡荘八の原作小説どおりでした。


今回は信長が広忠を討たせたという設定でしたね。広忠殺害に織田家が関与していたという説は『岡崎市史』に見られるそうで、それによると、「廣忠公、天文十八年三月鷹狩ノ節、岡崎領分渡利村ノ一揆生害ナシ奉ル。尾州織田弾正忠武略・・・」とあるそうです。ここでいう織田弾正忠とは、信長の父・信秀のことですね。信秀が渡利村の一揆を扇動して鷹狩に出ていた広忠を討たせた、というもの。若干16歳の信長がこれに関与していたというのは考えづらいですが、今回の設定は、まったく荒唐無稽の作り話というわけではないようです。もっとも、これがもし本当なら、家康は父と息子と妻を織田家に殺されたことになりますね(息子と妻の死についても諸説ありますが)。それでも律儀に織田家との同盟関係を貫いた家康の心中は、現代の私たちには想像もつきません。


 殺害された広忠の脇差を届けてその死を報せたのは、菊丸でしたね。ただの農民ではなく、物語の狂言回し的役割を担っているのだろうとは思っていましたが、松平家に仕える忍びだったんですね。伊賀者でしょうか? 竹千代を守るべく託された菊丸が、この先、明智光秀にどう絡んでくるのか楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2020-03-16 14:33 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(4)