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丹波神尾山城(本目城)跡攻城記。 その3 <主郭~東曲輪群>

「その2」のつづきです。

神尾山城主郭跡に登ってきました。


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が、高い雑草が生い茂っていて、その規模がわかりません。


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中央に登山道が設けられていて、かろうじてそこだけ見通しがききます。


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半国山への誘導看板。

ここ神尾山は「丹波富士」とも呼ばれる標高774mの半国山へのハイキングコースとなっているようです。


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八幡平展望台とありますが、どこが展望台やねん!ってツッコんでしまうほど、雑草が生い茂っています。


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写真ではわかりづらいですが、主郭の面積は相当あるようです。

ウィキペディア情報によると、東西約27m、南北約60mだそうです。


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ハイキング道を北に進みます。


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この雑草の高さですからね。

何も見えません。


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主郭中央に土塁跡があり、北側と南側に区切られています。

これもウィキペディア情報によると、土塁は底部5~6m、上部4m、高さ2.5m~3m、長さ7mの規模だそうです。

写真は北側から見た土塁。

今まで歩いて来たのが主郭南側で、これから主郭北側を歩きます。


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主郭北側です。


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北側は南側のような雑草は少なくなりますが、今度は樹木が多く雑木林状態です。


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『総見記』によると、天正3年(1575年)から天正7年(1579年)にかけての明智光秀丹波攻めの際、光秀が八上城攻め中継基地として「本目の城」を使ったと記されています。

この「本目の城」というのが、別名、本目城とも呼ばれる神尾山城ではないかと考えられています。

ただ、前稿でも述べたとおり、この城は元は八上城の波多野稙通の弟・柳本賢治の城だったといいますから、その後も波多野一族の城だった可能性は高く、いつ、どのようにして光秀の手に渡ったのかは定かではありません。

光秀に敗れた波多野秀治は、安土城に送られて織田信長によって処刑されますが、その途中にここに立ち寄ったともいわれます。

元は波多野一族の城だったとすれば、無念だったでしょうね。


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主郭南は雑草、主郭北は雑木林となっていて、その規模も分かりづらければ、遺構なども確認できませんでした。


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主郭南に戻って、今度は主郭の東側にも曲輪があるようなので、そっちに行ってみます。

上の写真は主郭から東郭に降りる虎口跡


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主郭の東側一段下の曲輪です。

便宜上、ここを東郭と名付けます。


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東郭から東の下を覗き込むと、さらに曲輪が続いているようですが、降りると登らなきゃいけなくなるので、ここでパスします。


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南曲輪群の方に戻って下山します。


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その道中、石垣跡を発見。


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「その2」で紹介した第2郭の東側あたりになります。

これは、気づかなかった。

危うく見逃すところでした。


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しっかり残っていますね。


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ここに番所か何かがあったのでしょうか?


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いやあ、主郭では遺構らしきものが見つからなかったのですが、最後にいいものが見れてよかった。

やはり、城跡はくまなく歩かないとだめですね。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-07-03 19:26 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波神尾山城(本目城)跡攻城記。 その2 <南曲輪群>

「その1」のつづきです。

神尾山城跡神尾山金輪寺の背後からすぐ曲輪群がはじまります。


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まずはいちばん南の曲輪

ここは主郭から数えて9段下の曲輪だったので、便宜上、第9郭と名付けます。


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狭い曲輪です。


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続いて、その上の第8郭です。


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大きな岩があります。


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続いて第7郭

雑草が茂っていて、写真ではその広さがイマイチ伝わりづらいですね。


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第6郭へ登る虎口跡です。


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第6郭側から見た虎口跡。


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第6郭です。


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第6郭はかなりの面積があるようですが、高い雑草が生い茂っていて、写真ではその広さを伝えることができません。


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第6郭から見下ろした第7郭です。


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第6郭の西側にも曲輪群があるようですが、ここはパス。

上を目指します。


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第6郭の西側は土塁跡が見られます。


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第6郭から見上げた第5・4・3郭の切岸です。

順番に登って行きましょう。


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第5郭に登ってきました。


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第5郭から見下ろした第6郭です。


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第4郭の切岸です。

高い。


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第4郭に登ってきました。


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第5郭よりは広いスペースです。


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第3郭の切岸を見上げます。

また、登ります。


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第3郭に登ってきました。


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第4郭より、またちょっと広くなっています。


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第3郭から見下ろした第4郭です。


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第2郭の切岸を見上げます。


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第2郭に登りましょう。


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第2郭です。


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神尾山城の築城時期については詳しくはわかっていませんが、史料に見られるのは、大永6年(1526年)頃に八上城の波多野稙通の弟・柳本賢治がこの城に在城したとあるので、少なくともそれ以前には存在していたと考えられます。

その次に史料で見られるのは、天文22年(1553年)9月3日の『言継卿記』で、八木城の内藤国貞が、八上城の波多野秀忠らと戦い、本目城討死にという記載が見受けられます。

この本目城というのが神尾山城と考えられています。

そして、その次に史料として出てくるのが、明智光秀丹波攻めのときですね。


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第2郭から見下ろした第3郭です。


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そして、いよいよ主郭に向かいます。

つづきは「その3」にて。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-07-01 22:14 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波神尾山城(本目城)跡攻城記。 その1 <神尾山金輪寺>

丹波八木城から直線距離で西へ約6m、丹波八上城から東へ約20kmのところにある標高359m神尾山山頂に、かつて神尾山城がありました。

別名、本目城とも呼ばれるこの城は、天正3年(1575年)から天正7年(1579年)にかけての明智光秀丹波攻めの際、八上城攻めの中継基地として光秀に使用されたのではないかといわれています。


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神尾山城跡は神尾山金輪寺の背後の山にあります。

標高359m、比高230mと堅固な山城ですが、金輪寺まで車で登ってこれます。

ただ、距離が長い上に道幅が狭いので、運転に自信がない方は、やめた方がいいでしょう。

金輪寺まで来ると、比高30mほど。

今回は楽ちんな城攻めです。


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愛車のプリウスαです。


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神尾山金輪寺の説明板です。

神尾山城のことも書かれていますね。


「光秀の丹波平定に最も抵抗したのが波多野秀治兄弟でしたが、居城であった八上城を兵糧攻めの末、人質(光秀の母)を差し出すことで和睦が成立し、波多野兄弟が連れて来られたのがここ本目城であったと伝えられます。」


と書かれていますが、八上城の稿でもふれましたが、光秀の母の人質の逸話は、江戸時代に生まれた創作として現在ではほぼ否定されています。

まあ、波多野秀治兄弟は降伏後、安土城に送られて処刑されていますから、連行途中にここに立ち寄ったというのは、あり得るかもしれませんが。


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城跡に行くには金輪寺の境内を通ります。


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境内です。

さっきの説明板によると、創建は8世紀ということでしたから、当然、光秀がこの地に来たときからあった寺院です。


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境内隅にある鐘楼です。

説明板によると、梵鐘は天文3年(1534年)のものだそうで、これも、光秀を見た梵鐘ですね。

光秀が突いたかもしれません(笑)。


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鐘楼の下の石垣が城跡っぽいですね。

金輪寺のすぐ背後から城の曲輪群が続いていますから、あるいは、寺の境内もとなっていたかもしれません。


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本堂は、永禄2年(1559年)に造営されたのではないかと考えられているそうで、となると、これも光秀を知っていることになりますね。


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本堂裏に、樅の木の巨樹があります。

樹齢はわかりませんが、立派な木です。


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その前に「本堂建立柱もみの木」と書かれた立て札があります。

本堂建立時の木ってことでしょうか?

となれば、これも光秀を知っている?

そこまで樹齢があるようには思えませんでしたが。


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その樅の木の背後に登山口があります。


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登山道は整備されていて、登りやすいです。


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登り始めてすぐ削平地に、墓碑が並んでいます。

なんか城跡と関係あるかも。


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金輪寺歴代住職の墓碑でした。


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既に城跡の曲輪群が始まっているようです。

「その2」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-06-29 23:42 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

内藤如安の居城、丹波国八木城攻城記。 その4 <内藤如安顕彰碑>

「その3」の続きです。

丹波八木城跡のある城山麓の田園地帯の一角に、キリシタン武将として知られる内藤如安(ジョアン)を偲ぶ石碑があります。


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「如安」はキリスト教への受洗名「ジョアン」に漢字を当てたもので、本当の諱は「忠俊」

内藤飛騨守忠俊が正式な名前です。

如安は天文19年(1550年)頃に三好氏重臣だった松永久秀の弟・松永長頼の子として生まれました。

その長頼が丹波守護代・内藤国貞の娘を娶って内藤宗勝と名を改め、八木城主となるのですが、その父が永禄8年(1565年)に「丹波の赤鬼」として恐れられた黒井城主・赤井(荻野)悪右衛門直正との戦いで討死すると、内藤家の家督継承について、如安こそ城主とすべき派と、貞勝の擁立を目指す一派とで内紛が起こり、最終的に貞勝が八木城主となり、如安は執政の立場となります。


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内藤如安がキリスト教に入信したのは、その少し前、永禄7年(1564年)にルイス・フロイスによって受洗したといいます。

キリスト教に入信した理由ははっきりしませんが、一説には、山口から逃げてきた洗礼名をカタリナという女性が一族の内藤土佐守と結婚し、そのカタリナが如安と妹の内藤ジュリアをわが子のように可愛がったといい、その影響からキリシタンの道に入っていったといいます。


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その後、ジョアンは八木城に宣教師を迎え、母や妻、子供たち、家臣たちに説教を聞かせるなどの布教活動に力を入れました。

天正元年(1573年)のガスパル・ヴィレラの書簡によると、「パードレ・オルガンチノはロレンソと共に約八日前三箇より当地に着きたり。内藤殿其部下説教を聞かん為め丹波の国に於てロレンソを待ち居れるが故に、彼を迎えに来たる人と共に一昨日当地を出発せり」と記しており、また、その翌年のルイス・フロイスの未刊の書簡では、「時にフロイスは、ロレンソとともに都から丹波の山道をたどった。約二里のところへ内藤ジョアンは家臣とともに出迎えた。城には豪華な祭壇が飾られていた。八日間に七十名の兵が、ついで十四名が受礼した」と記しています。

八木城は丹波国におけるイエズス会布教活動の本拠地となりつつあったようです。


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しかし、やがて、かねてから如安に反感を持っていた一派との軋轢が生じ始め、ジョアンの母は僧侶となっていた叔父たちからキリシタンの信仰を捨てるよう迫られますが、気丈な母はこれを頑なに拒んだため、叔父たちによってされてしまいます。

ルイス・フロイスの『日本史』によると、「母が亡くなってからの内藤ジョアンは城主のことなど一向に気にかけなくなり、戦国の世を渡り歩き、ますます信仰の道に深く入っていた」と記されています。


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天正元年(1573年)に足利義昭織田信長に対して反旗を翻すと、如安もこれに呼応して兵を起こしますが、敗れた如安は内藤家執政の座を失ったらしく、天正4年(1576年)から足利義昭が備後国鞆に居を移すと、これに従いました。

天正13年(1585年)頃からは小西行長に仕えるようになり、文禄・慶長ので出兵して活躍しましが、関ヶ原の戦いで行長が処刑されると、その後は有馬晴信、加藤清正らの元を渡り歩き、やがて、同じくキリシタン高山右近の招きにより加賀の前田家の客将となるも、慶長18年(1613年)、徳川家康からキリシタン追放令が出されると、慶長19年(1614年)9月24日、如安は高山右近や妹のジュリアと共に呂宋(今のフィリピン)のニラへ追放されました。

国を追われた如安でしたが、マニラでは想像もしなかった大歓迎を受け、寛永3年(1626年)に73年の生涯を閉じるまで、穏やかな余生を送ったといいます。

如安の亡骸は、マニラ市郊外の高山右近の墓の隣に埋葬されたと伝えられています。


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この石碑は、サンミゲル近くの聖ビセンテ・デ・パウル教会にある終焉の地の記念の十字架をモチーフにして作られたものだそうです。

如安が縁となり、八木城のあった船井郡旧・八木町とマニラは姉妹都市となり、八木町合併後の南丹市も姉妹都市提携を継続しているそうです。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-06-26 12:36 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

内藤如安の居城、丹波国八木城攻城記。 その3 <曲輪群>

「その2」の続きです。

八木城主郭を攻略したので、その他の曲輪を攻めます。


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こちらは主郭南西部の明らかに虎口跡と見られる遺構です。


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ここにも石垣跡が少し。


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下から見た虎口跡

縄張り図によると、この虎口を出て南へ降りたところが、「金の間」となっています。


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ここが「金の間」です。

なぜ、「金の間」なのか・・・、この曲輪に金蔵でもあったのでしょうか?


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縄張り図によると、金の間から更に南へ尾根伝いに進むと、「内藤土佐」と書かれた曲輪があります。


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「内藤土佐曲輪」です。


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これ以上先は立入禁止となっていたので、主郭に引き返し、今度は西側の曲輪群を攻めます。


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「その1」の最後に通った馬屋曲輪跡を西へ進みます。


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ここが、縄張り図にある二ノ丸


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縄張り図には「内藤和泉」とも書かれています。


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二ノ丸は立派な土塁で囲われています。


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二ノ丸の南側は、深く大きな堀切で尾根が分断されています。


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見事な堀切跡です。


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堀切を越えて更に南に進みます。


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城跡南西にある「八木玄蕃曲輪」です。


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八木玄蕃は、内藤如安の義兄にあたる人物で、家老職を務めたとされています。


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八木玄蕃曲輪を囲う土塁です。


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立派な土塁です。


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八木玄蕃曲輪は中央の高所の曲輪を中心に輪形状段々に構成されています。


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縄張り図によると、八木玄蕃曲輪の更に西側には「内藤法雲曲輪」があるようでしたが、この日はそこまでは足を伸ばしませんでした。


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他にも、「内藤五郎曲輪」「並河重郎曲輪」「大八木但馬曲輪」など、一族、家臣の名がついた曲輪がたくさんあります。

このネーミングについては、どんな根拠があってそう名付けられたのかはわかりませんが、山頂部の主郭を中心に支尾根筋にも多数の曲輪が築かれた大城郭だったことがわかります。

明智光秀もこの城を落とすのに苦心したようで、一時は和議を申し込んだといいますが、籠城方はこれに応じず、そこで、光秀は籠城兵に内通謀反を工作し、城内の本丸、二の丸に火を放たせ、これを合図に攻め寄せ、ようやく攻め落としたと伝わります。

天正7年(1679年)6月27日のことでした。


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さて、馬屋曲輪に戻って、下山しますが、あと1回だけお付き合いください。

「その3」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-06-25 09:50 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)