奄美大島で記録的な豪雨。

奄美大島が大変なことになっているようです。
19日、20日、21日と、ニュースで見る限り信じられない量の雨が降っているようで、浸水や土砂崩れなどの被害が相次ぎ、これまでに2人が死亡、1人が行方不明になっています。
奄美市の中心部、名瀬では昨日までの3日間で総雨量が760ミリを超えており、これは平年10月の一ヶ月の3倍の雨量を超えているそうです。
特に昨日、20日の雨量は観測史上最高の648ミリで、「過去に例のない記録的な大雨」となっています。
一ヶ月分の3倍の量の雨が1日や2日で一気に降ったのだから、これは尋常な雨ではないことが容易に想像できます。
単純に考えて、760ミリの雨量ということは76センチの水が奄美大島に溜まったのとおなじことで、当然の如く水は高いところから低いところに流れるわけですから、山が多い奄美大島では、一瞬のうちに数メートルの雨水が溜まったということが想像できます。
実際にニュースなどで、建物内にとり残されてしまった人の話を聞いても、「あっという間の出来事で避難する時間がなかった。」と言っていました。
これは本当に怖いことです。

私にとって奄美大島は、亡き親父の生まれ育ったところで、子供の頃には何度も行ったことのある特別な地です。
昨年夏には家族を連れて、私自身も十数年ぶりに同島を訪れました。
そのときの旅行記です。
   ↓↓↓
奄美大島旅行記 その1
奄美大島旅行記 その2 
奄美大島旅行記 その3
奄美大島旅行記 その4
奄美大島旅行記 その5
奄美大島旅行記 その6
最も浸水の被害が大きいと報道されている住用町は、上記「奄美大島旅行記 その2」で紹介しているマングローブ原生林があるところです。
この度の浸水で、この原生林も何らかの被害を受けているかもしれませんね。
他にも島には手つかずの自然が多く残されており、今回の災害によってその美しい自然が破壊されてしまうのではないかと思うと、残念でなりません。
しかし、自然が自然の力によってかたちを変えるというのは、これもまた自然の摂理といえるでしょうか。
なんとか、軽度の被害に留まってほしいものです。

現在、同島には私の叔父、叔母、従兄弟などが住んでおり、一昨日から電話も携帯もつながらず、メールを送っても返事がありません。
ニュースによれば、被災地は電話も携帯もすべて不通になっているらしく、復旧を待つしかないようで、死傷者などの報道には名前がありませんから、その点は大丈夫だろうと思っているのですが、生活環境がどうなっているのか気がかりです。
同島の4市町村では、1286世帯2669人に対する避難指示や避難勧告が続いているそうです。
奄美大島は沖縄と同じく台風の通り道に位置していますから、島民の人たちは普段から風雨に対する危機管理意識は強いはずなのですが、今回の雨は想定外の豪雨だったのでしょうね。
雨がやんだとしても地盤は相当緩んでいるはずで、二次災害の危険もまだまだ続きますし、また河川の修復や泥の除去、家屋などの修繕と大変なことが山ほど待ち受けています。
これからもまだまだ大変なことが続くであろうことが想像され、気の毒としか言いようがありません。
私も阪神・淡路大震災の経験者ですから、被災後の生活の大変さは身にしみてわかります。
今はただ、島民の方々が一日も早く通常の生活を取り戻せるよう、心から祈るばかりです。


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下記、記事本文引用
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奄美豪雨 停電や断水など復旧の見通しなく
 鹿児島県によると、奄美大島の国道・県道は最大時39カ所で全面通行止めだったが22日午前9時半現在、21カ所に減った。島を縦断する国道58号は緊急車両に限り、市中心部の名瀬地区から被害が最も大きい同市住用町まで通行可能となった。
 九電鹿児島支店によると、島内で最大1万1100戸が停電した。22日午前9時現在、約4600戸で停電している。復旧作業を進めているが、新たに停電する場所もあり、完全復旧の見込みはたたないという。
 NTT西日本鹿児島支店によると、午前9時現在、奄美市住用町の743回線のほか、同市笠利町や瀬戸内町、龍郷町の約6000回線が不通。携帯電話もつながりにくい状態が続いている。同社は21日、避難所の同市住用町の奄美体験交流館に衛星回線を使った公衆電話10台を臨時設置。今後、同市笠利町や龍郷町などにも設置予定。無料で利用できるという。
 また、奄美市水道課によると、住用町では水道管の破損による漏水で全世帯で断水。全面復旧の見通しはたたないという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101022-00000014-maip-soci

# by sakanoueno-kumo | 2010-10-22 16:19 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(2)  

龍馬伝 第42話「いろは丸事件」

 慶応3年(1867年)4月19日、坂本龍馬率いる海援隊は、伊予大州藩の出資によって購入した「いろは丸」に乗って、土佐藩の帰属として初めての航海に出発した。
 「今日をはじめと乗り出す船は 稽古始めのいろは丸」
 こんな舟歌を水夫たちに歌わせながら、いろは丸は積荷を満載にして瀬戸内海を大坂に向かっていた。約1年前に持船・ワイルウェフ号が沈没し、さらにその2ヵ月後にユニオン号を長州藩に返して以来船がなかった彼らにとって、この航海はまさに「水を得た魚」のように心が昂っていたことだろう。しかし、瀬戸内海を東へ進むいろは丸は、同月23日午後11時頃、讃岐沖で紀州藩汽船・明光丸と衝突する。いろは丸は160トン、明光丸は880トン、軽自動車と大型トラックの衝突のようなものだった。

 いろは丸の当夜の当番士官・佐柳高次は明光丸の幻灯に気付き、すぐに左転してこれを避けようとしたが、なおも明光丸は右旋しながら猛進を続け、いろは丸の右舷にふれ機関室を破壊したという。佐柳は船中に事故を伝え、さらに明光丸に向かって救助を求めるも返答がなく、やむなく機関士・腰越次郎が救命船の錨をとって明光丸に投げかけ、素早くよじのぼって明光丸の甲板に上がり、そこで同船の乗組員を詰責したが、お互いにあわてて要領を得ない。そうしているうちに明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退した後、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没した。

 龍馬と明光丸船長・高柳楠之助との合議によって、事故の善後策を決するため同夜のうちに明光丸を備後の鞆の浦に入港させた。翌24日から龍馬は明光丸側と交渉に入り、まずは「事件解決まで明光丸の出港をひかえられたい。」と要求したが、高柳は首を縦にふらない。業を煮やした龍馬は、「もし主用やむを得なければ、われわれの応急の難を救うために1万両貸せ」と持ちかけ、「お申し出のとおり1万両は出すが、返済期限を立てられたい。」という紀州側に対し龍馬は、「弁償金の一部として受け取るので、返済期限を立つべき性質のものではない。」と、はね返したという。結局談判は思うように進まず、龍馬は「この上は長崎において正式の談判にかけ、公論によって正否を決する」ということで物別れに終わった。このとき龍馬の憤激は頂点に達していたようだ。

 龍馬は大藩・紀州藩を相手に、なにがなんでも泣き寝入りするつもりはなかったようだ。ようやく手に入れた船を明らかに相手の過失で失うこととなり、その悔しさは想像するに余りあるものだっただろう。万国公法の引用を考えたのもこのときだった。しかし、そのことによって自身の身の危険も覚悟した龍馬は、万一の場合、自分の死後は妻・お龍を故郷の土佐に送り届けるよう、寺田屋事件で生死を共にした三吉慎蔵に手紙を送っている。
 
 5月15日、長崎での談判が開始された。出席者は海援隊から龍馬をはじめ、長岡謙吉、小谷耕蔵、渡辺剛八、佐柳高次、腰越次郎、土佐藩から森田晋三、橋本麒之助の8名。岩崎弥太郎はいない。ついでにいうと、前話でいろは丸購入に際しても弥太郎の尽力となっていたが、実際にはこの件にも弥太郎は関わっていない。金の工面には協力したかもしれないが・・・。どうしてもドラマでは弥太郎を絡めたいようだ。

 談判の席上、互いに航海日誌を交換し、双方の言い分を検証した結果、ついに紀州側が次の事実を容認した。
 「衝突之際或士官等、彼甲板上に上りし時一人の士官あるを見ず、是一ヶ条。」
 「衝突之後彼自ら船を退事凡五十間計、再前進来つて我船の右艫を衝く。是二ヶ条。」

 ドラマ中、弥太郎が言っていた二ヶ条、すなわち、衝突時に明光丸には見張り役がいなかったこと、一度ならず二度に渡っていろは丸に衝突したことを認めたのである。この証文によって事故の理非曲直がほぼ明確になったわけだが、しかしそれでも紀州側は完全に負けを認めず、幕府御三家の立場をかさに、長崎奉行所を味方につけ海援隊側を威圧する策に出た。しかし龍馬も負けてはいなかった。奇策を用い、巧みに世論操作をしたのだ。
 「♪ 船を沈めてその償いに 金を取らずに国を取る 国を取ったらミカン食う ♪」
 このような歌を作り、長崎丸山の妓楼で歌わせた。これは交渉の結果を歌ったもので、当然その前に、事故の事情も歌同様に広められていたに違いない。この歌はたちまち巷間に流行し、長崎市民の同情はいずれも海援隊に集まった。さすがの紀州藩もこの龍馬の策には閉口しただろう。

 そしてもうひとつの龍馬の策は、交渉の席に後藤象二郎を引っ張り出し、一海運業者対紀州藩の事件を、土佐藩対紀州藩という、同等の立場での、いわば政治的な談判としたことだ。藩同志の談判となれば、紀州側はもはや脅しのような交渉は出来ない。後藤は、「汽船衝突の件は、我が国では準拠すべき判例がないので、現在来航中の英国水師提督に万国の比例を尋ね、然るべき裁定を請う。」と提案し、さらには「貴藩のこれまでの仕打ちは甚だ冷酷だ。向後の出様によってはどのような結果となるかも知れぬ。よく心得ておいてもらいたい。」とまで述べた。もはや勝算なしと見た紀州藩は、薩摩藩士・五代才助に調停を頼み、その裁定で紀州藩は賠償金8万3千両を海援隊に支払うという条件で、ようやくこの「いろは丸沈没事件」は決着がついたのであった。

 龍馬の巧みな世論操作、そして後藤を使って政治問題にすり替えた強かさ、さらには大藩相手に怯まない龍馬の腹の据わったリーダーシップ。どれをとっても、一級品の外交手腕がうかがえる。尖閣諸島沖衝突事件で右往左往している現代の政治家さんたちに見習ってほしいものだ。

 世情は刻々と討幕への道を進めていたこの時期、龍馬にとっては1ヵ月以上もの間、足止めをくうこととなったこの「いろは丸事件」だった。しかし、そんな中でも利益だったのは、長崎で後藤象二郎と語り合う時間が持て、後藤を政治的に教育することが不十分ながらもできたことだった。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-10-18 01:32 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(10)  

龍馬伝にみる、幕末ドラマのキャスティングの難しさ。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」もいよいよ佳境に入りましたね。主要な人物も概ね登場し終わったんじゃないでしょうか。ここまで見終えて、この度のドラマのキャスティングは、皆さんはどうだったでしょうか?幕末物といえば、戦国物などと違い写真などが残っている人物が多いですから、見る側にとっても確固たるイメージがあって、演じる役者さんも難しいでしょうね。それ以前に、キャスティングする際の役者さん選びも、あまりにもイメージと違う人は選べないわけで、ただ単に演技力や人気度だけではキャスティング出来ない難しさがあるでしょう。イメージが強ければ強いほど、悩まされるんじゃないでしょうか。

 ドラマはもうすぐ終わろうとしてるわけですが、ここでちょっと過去の作品なども顧みながら、私好みの手前勝手なキャスティングをしてみたいと思います。

e0158128_2332086.jpg まず初めは坂本龍馬。決して二枚目とはいえない龍馬のイメージですから、今回の福山雅治さんは、最初に発表を聞いたときは少し違和感がありました。で、実際にドラマを見始めてからは、思ったよりも良かったという印象ですが、でもやっぱり福山さんの龍馬はカッコよすぎですね。もっとワイルドな汗臭いイメージが私にはあって、福山龍馬は外見も内面も清潔すぎるような・・・。1968年の大河ドラマ「竜馬がゆく」では北大路欣也さんが演じたそうですが、当時2歳の私が覚えているはずもなく、私が見た中では、1997年にTBSで制作された「竜馬がゆく」での上川隆也さんが一番イメージに近い龍馬でした。でも、私の中で最もイメージしていた役者さんは、江口洋介さんです。おそらく同じように思っている人、多いんじゃないでしょうか。彼が役者として世に出てきたとき、将来大河ドラマで龍馬を演じるのはこの人しかいない・・・と思ったんですけどね。2004年の大河ドラマ「新選組!」で、江口さんが龍馬を演じてましたが、脇役の龍馬ではなく、主役としての江口龍馬を見てみたかったんですけど・・・もう、ちょっと年齢的に無理でしょうね。残念です。

e0158128_06107.jpg 次に、龍馬の盟友・武市半平太。この度の大森南朋さん、結構ハマってましたよね。龍馬とは正反対の、二枚目で聡明で清潔感のあるイメージの半平太なので、福山さんとは逆に美形とはいえない大森さん(ファンの方スミマセン)と半平太のイメージが最初は結びつきませんでしたが、謹厳実直な半平太像を見事に演じておられたと思います。途中から二枚目に見えてきました(笑)。でも、私の中の半平太像は、1989年にTBSで制作された「坂本龍馬」(龍馬役:真田広之)での、三浦友和さんです。このときの武市半平太は私の思っていたとおりの半平太でした。外見も、演じるところの人物像も申し分なかった・・・。以後私は、小説など読んで半平太が登場するといつも三浦さんを思い浮かべ、テレビで三浦さんを見るといつも半平太を思い出します。それぐらい、私の中ではハマり役でした。

e0158128_0312051.jpg 続いて、もう一人の土佐藩を代表する志士・中岡慎太郎。今回、上川隆也さんが演じておられますが、演技は上手な上川さんですが、外見から受けるイメージはちょっと違いますよね。武市半平太と同じくインテリ志士の慎太郎ですが、半平太とは違って武骨な侍のイメージがあります。その点で考えれば、体育会系の爽やかな役者さんが良いと思うのですが、過去、慎太郎を演じた役者さんを思い出しても、この人という方がいません。で、体育会系という観点から私なりに考えたんですが、山本太郎さんなんてどうでしょう? 結構似てると思うんですけどね。ちょっと知的なイメージに欠けるかな?・・・しっ、失礼!

e0158128_0504318.jpg 長州藩に目を移して桂小五郎(木戸孝允)。この度のドラマの谷原章介さん、結構ハマってると思いませんか? 美形で聡明で、しかしどこか陰のイメージがある桂に谷原さんはピッタリだと思います。剣の達人として知られる桂は、すばしっこく小柄で女性的なイメージがあるのですが、実は身長175cmほどの大柄だったようで、その面からも谷原さんはバッチリですね。今後、私の中での桂小五郎は谷原さんになりそうです。過去、あり得ないキャスティングでは、1986年に武田鉄也さんが龍馬を演じた映画「Ronin」の中での桂役・川谷拓三さん。左の写真のどこを見ても、川谷さんと重なるところが見当たりません(笑)。あの配役はヒドかった・・・。

e0158128_1182583.jpg 長州藩のもう一人の英雄・高杉晋作。今回の伊勢谷友介さんは、あまりにもカッコよすぎでしょ。生き方はカッコイイ高杉ですが、外見は右の写真のとおりお世辞にも二枚目とはいえません。過去、私が見た中では、2000年にNHKで制作された「蒼天の夢 松陰と晋作・新世紀への挑戦」での野村萬斎さんが結構良かったですね。高杉の持つ“天才か奇才か”というイメージにも、同じく奇才型と思える野村さんがピッタリでした。でも、右の写真だけで考えると、お笑い芸人のモンキッキー(旧名:おさる)がピッタリだと思うのは私だけでしょうか・・・(笑)。伊勢谷さんとモンキッキーではあまりにも違いすぎますね。

e0158128_1394161.jpg 幕府側に目を転じて、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜。この度のドラマの田中哲司さん、あれはちょっとヒドすぎやしませんか? 英邁で聞こえた慶喜ですが、田中さん演じるところの慶喜は知性の欠片も感じられないばかりか、外見もヒドイものです。左の写真でもわかるように、結構色男ですよね。その点でいえば、1998年の大河ドラマ「徳川慶喜」での本木雅弘さんは良かったんじゃないでしょうか。私が見た中では、上記、三浦友和さんが武市半平太役を演じていたドラマ「坂本龍馬」のときの中条きよしさんがあまりにもソックリで笑っちゃいました。だって、左の写真そのまんまだったんですから・・・(笑)。

e0158128_158131.jpg 次に、幕臣であり龍馬の師匠でもあった勝海舟。小柄な人物だったようで、この度の武田鉄也さんはありなんでしょうけど、ちょっと歳食いすぎてましたね。この時期の海舟は、40歳前だったわけですから・・・。まあ、龍馬の福山さんが41歳ですから、仕方がないといったところでしょうか。1974年の大河ドラマ「勝海舟」では渡哲也さんが演じたそうですけど、私は幼くて覚えていませんが、べらんめぇ口調の渡さんなんてちょっと想像つかないですね。で、いろいろ思い浮かべてみたんですが、橋爪功さんなんてどうでしょう? えっ?・・・橋爪さんも歳食ってるって?じゃあ、堺正章さんでは?・・・やっぱり歳食ってる?・・・結局、海舟の貫録を出そうと思ったら、ある程度年齢を重ねた役者さんでないと無理ということですね。納得。

e0158128_352333.jpg 次に、新選組局長の近藤勇。この度はネプチューンの原田泰造さんですが、初登場のときの無言の近藤はなかなか迫力があって良かったのですが、しゃべるとやっぱ、原田泰造さんでした(笑)。えらの張った顔立ちは似てるんですけどね。でも、2004年の大河ドラマ「新選組!」での香取慎吾さんよりはマシだと思いますよ。あんなソフトでナイーブな近藤はないですよね。えらの張った四角い顔という点では、香取さんもそうなんですけど・・・。近藤といえば、武骨な武闘派のイメージ。そのイメージで選ぶと的場浩二さんなんてどうでしょうか? 迫力ある近藤になると思いません? でも、もっと近藤にそっくりな方を最近見つけました。先のサッカーワールドカップの日本代表のゴールキーパー、川島永嗣選手です。左の写真に似てると思いませんか?・・・(笑)。

e0158128_3275623.jpg 同じく新選組の副長、土方歳三。この度のドラマでは影が薄く、誰が演じているのか知りません。同じく2004年の大河ドラマ「新選組!」では山本耕史さんが演じておられましたね。あの土方は私の中ではお気に入りです。最後の方には土方にしか見えなかったですよ。乗り移ってるって気がしましたね。過去の作品では、1990年にテレビ東京で制作された「燃えよ剣」での役所広司さんが良かったですね。女たらしなところがまたハマり役でした。でも、演じたことがあるかどうか知りませんが、私の中での土方像は、ズバリ、佐藤浩市さんです。クールな色男のイメージが、佐藤さんにピッタリだと思いませんか?

e0158128_342414.jpg そして最後に、幕末の象徴、ミスター幕末維新こと西郷隆盛。おそらくこの人の配役が一番難しいのではないでしょうか。巨漢で雄大な存在感のあるこの人物に見合った役者さんはそうそういるものではありません。この度の高橋克実さんは、存在感ある演技力は認めますが、どうしても外見が見劣りしますよね。2008年の大河ドラマ「篤姫」での小澤征悦さんも良かったですが、迫力には欠けました。1990年の大河ドラマ「翔ぶが如く」での西田敏行さんは素晴らしい演技で、顔だけ見てると西郷どんにしか見えなかったのですが、残念ながら背が低いというのが辛かったですね。他にも、1987年の日本テレビ制作「田原坂」での里見浩太朗さんや、1989年のTBS制作「坂本龍馬」での松方弘樹さんなどもそれなりに良かったのですが、ピッタリのイメージというには至りません。で、私が見た中で一番イメージに近い西郷どんは、2004年の大河ドラマ「新選組!」での宇梶剛士さんでしたね。背が高く、顔の作りも大きく、目が大きく眼光が鋭く迫力もありました。西郷どんといえば肥満体の印象がありますが、肥満したのは明治になってからのことで、この時期島流しから戻ってきたばかりの西郷どんですから、案外、宇梶さんのような体型だったかもしれません。ただ、宇梶さんの西郷どんは、あくまで脇役だったのが残念ですけどね。そしてもう一人、外見だけでいうと西郷どんにピッタリの人物がいます。大相撲元横綱の武蔵丸関です(笑)。ただ、アメリカ人の武蔵丸と幕末の象徴である西郷隆盛が似てるというのは、なんとも複雑な気分ではありますが・・・。だいたい、演じられるわけないか(笑)。

 とまあ、手前勝手な意見を長々と述べさせてもらいましたが、皆さんの思う配役はどんな方々でしょうか? 一度アンケートをとってキャスティングしてみたら、きっと素晴らしいドラマが出来るんじゃないでしょうかね。夢の豪華キャストの幕末ドラマを見てみたいものです。素人が勝手なことを述べましたが、それだけ見る側に確固たるイメージがある幕末の偉人たち・・・キャスティングする制作者も、演じる役者さんも大変なプレッシャーでしょうね。今年の大河ドラマも残すところあと7話。撮影も先日クランクアップしたようです。なんだかんだいっても、毎週、福山龍馬を楽しみにしています。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-10-16 04:28 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(7)  

龍馬伝 第41話「さらば高杉晋作」

 幕末の風雲児・坂本龍馬と、幕末の革命児・高杉晋作。幕末の志士たちの中でもとりわけ人気の高いこの二人だが、実はこの二人に面識があったと立証できる史料はない。長州藩の外交面を担当していた桂小五郎(木戸孝允)は長州を留守にすることが多く、龍馬とも深く関わっていたことがわかる書簡が数多く残っているが、主に藩の内政面を担当していた高杉晋作は長州を出ることが少なく、当然、他藩の志士たちと接する機会も少なかった。唯一、龍馬と高杉の接点をうかがわせるものとして、高杉が龍馬に護身用のピストルを贈ったという有名なエピソードがあるが、これも、龍馬が国許に宛てた手紙に記しているのみで、高杉側の史料にはない。いつ、どこで譲り受けたのか、また、高杉本人から受け取ったのか、人を介して譲り受けたのかもわからないのである。もちろん、だからと言って面識がなかったとするのは安直で、幕長戦争の際には会う機会が十分にあったし、それ以前に面識があったとしても何ら不思議ではない。しかし、多くの物語にあるような二人に友情関係があったかといえば、それは想像の域を出ない。

 では、なぜドラマや小説などではこの二人を結びつけたがるのか。それはおそらく、二人に同じ匂いを感じるからだろう。どちらも既成概念にとらわれない、闊達で天才型の自由人というイメージがある。同時代の他の志士たちには、思想家・政治家としてのイメージが色濃く感じられるが、この二人にはその匂いがまったく感じられない。龍馬については、誰もが感じるところの「商人」としての匂いが、そして高杉については、「幕末ではなく平和な時代に生まれていれば、有名な詩人になっていただろう。」と、作家・司馬遼太郎氏が小説「世に棲む日々」の中で述べているように、「詩人」としての匂いがある。どれほどの知り合いだったかはわからない二人だが、坂本龍馬と高杉晋作の二人の関係がドラマチックに描かれるのは、同じ時代に生きたこの二人の型破りな天才がもし出会っていれば、きっと意気投合して語り合っただろうという、作家さんたちの願望が作りだした二人の友情関係だろう。

 「お龍。人はどうして死んでしまうがじゃろうか・・・。天がおまんの役目はもう終わったと思われちゅうきじゃろうか・・・。」
 ドラマ中、龍馬がお龍に問いかけた言葉だが、その言葉どおり、高杉晋作は「奇兵隊」という封建社会をひっくり返すような革命的軍隊を創設し、更には幕長戦争において幕府軍を倒し、慶応3年4月、その役目を終えたかのようにこの世を去る。享年29歳。辞世の句とされているのは、
 「面白き こともなき世に おもしろく すみなすものは 心なりけり」
 逸話によれば、死の床にあった高杉が辞世の句を詠もうと筆を取り、「面白き こともなき世に おもしろく」と上の句を認めたところでついに力尽き、その様子を見ていた尼僧・野村望東尼「すみなすものは心なりけり」と続けたところ、高杉は「おもしろいのう・・・」と、かすかに言って息を引取ったと伝えられるが、実話かどうかは定かでない。また、死の直前の高杉が、「よしだへ・・・」とうわ言のようにつぶやき、息をひきとったという逸話もあり、この一言故、高杉の遺体は奇兵隊本陣のあった吉田村に埋葬されたが、これも当時、奇兵隊のリーダーだった山縣有朋が、奇兵隊に箔を付けるために創作した作り話だとも言われている。

 辞世の句ではないが、 「東行庵」と言われた療養の小屋で、病床の中詠んだ歌がある。
 「里人の しらぬもむべや 谷間なる ふかき渕瀬に 潜む心を」
 世の中から必要とされなくなった自身の、強烈な悲哀の歌である。高杉自身は、己が世の役割を終えたなどと思っていなかったに違いない。戦場で命を落とす覚悟はあったであろうが、新時代を目の前にして、病に倒れねばならないことは、さぞかし無念の極みであっただろう。

 龍馬の問いかけに、お龍はこう答えた。
 「そうかもしれませんね。そやかて、人の死というものは終わりだけではないと思います。その人の役目を、志を受け継ぐ者にとっては、始まりどすさかい。」
 歴史の役割というのは、その人物の死をもって完結するわけではない。その人物の受け持つパートが終わるだけである。そのバトンは次のパートへと引き継がれ、やがては現代の私たちに繋がっている。高杉の繋いだバトンも、そしてもうすぐ歴史の役目を終える龍馬のバトンも・・・。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-10-11 01:38 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(6)  

心に残る名曲 No.3 『つばさ』 キャンディーズ

 私が人生最初に、女性アイドルというものに熱を上げたのが、キャンディーズでした。小学生の頃です。南海キャンディーズじゃないですよ(笑)。ランちゃん、スーちゃん、ミキちゃんの、いわゆる「普通の女の子に戻りたい!」のキャンディーズです。彼女たちが活躍したのは1973年から78年の4年半ほどで、解散したとき私は小学校5年生でした。今思えばマセガキだったなと・・・。本来、キャンディーズのファン層は私より少し上の人たちで、私の世代は圧倒的にピンクレディー世代なんですが、4歳上の従兄弟の影響もあって私はキャンディーズが大好きでした。特にランちゃんがホント、カワイかったんですよ〜・・・って、小学生のガキがひとまわりも年上の女性に言うことじゃないですけどね。彼女たちから見れば、ずいぶんと「年下の男の子」だったわけで・・・。

 で、今回紹介する曲は、1978年4月4日の解散コンサート、後楽園球場ファイナルカーニバルでの最後の最後の歌、『つばさ』です。
 そう、いわゆる「本当に・・・私たちは・・・幸せでした!」で有名なあの歌です。



 この歌は、先に解散を知った全国キャンディーズ連盟の有志が作った「3つのキャンディー」という歌への返歌として作られたもので、作詞はランちゃんこと伊藤蘭、作曲は元ザ・ワイルドワンズ渡辺茂樹。コンサート時のみの曲として作られたものでしたが、解散後、彼女たちの意向を無視してシングルリリースされたといわれています。当時私は小学生ですから、当然コンサートなどに行けるはずもなく、解散コンサートも何日か後にTV放送された短縮版を観て、のちに発売されたこの解散コンサートの3枚組のLIVEアルバム「キャンディーズファイナルカーニバル」を翌年のお年玉で買い、何度も何度も聞いたものです。今はこうしてネットで簡単に映像を見られるわけですが、当時は家庭用ビデオもない時代ですから、たった1回のTV放送を食い入るように観て、あとはレコードの音声のみだったわけで、それでも今こうして30年前の映像を見てみても、私の脳裏に焼き付いている映像と寸分の違いもありません。ビデオもDVDもない時代の人の脳の録画機能は、きっとブルーレイ以上だったのでしょうね。

 ピンクレディーは何度も再結成をしていますが、キャンディーズは解散後一度も再結成をしていません。当時の芸能界を激震させた解散宣言に始まり、最高の状態で解散したこと、そしてその後は決して安易に再結成しない潔さで、単なる「過去のアイドル」の枠を超えて、30年以上経った現在では半ば伝説化・神格化されつつあります。彼女たちの歌をのちにカバーしたアーチストもたくさんいますよね。最近では、いきものがかり「春一番」をカバーしていたと思います。ここでも、単なるアイドルではなく、その楽曲においても、音楽性が高かったことがわかります。今回紹介した「つばさ」は主にユニゾンの歌ですが、他の歌ではハイレベルのハーモニーを主とした歌がたくさんあるんですね。それはまた、別の機会で紹介することにします。

 今回は、自身の小学生時代に戻ってみました。もう大昔ですね・・・。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-10-06 16:42 | 音楽 | Trackback(1) | Comments(6)  

龍馬伝 第40話「清風亭の対決」

 慶応2年(1866年)6月、幕長戦争に参戦した坂本龍馬は、同年8月以降、ずっと長崎にいて亀山社中の面倒をみていた。この時期、社中は経営難に陥っていた。同年5月に唯一の持船だったワイルウェフ号が暴風のため沈没し、さらにもともと長州の船であるユニオン号も同藩に返し、船を失った彼らは為す術もなかった。水夫たちに給金も払えなくなり、龍馬はこの時期、社中の解散も考えていたという。

 土佐藩参政家老・後藤象二郎が長崎を訪れたのは、慶応2年(1866年)7月のこと。象二郎は同年2月、高知城下に開成館を設立し、勧業、貨殖、捕鯨、軍艦などの分課をおいて藩の財政振興につとめていた。そして長崎には貨殖局出張所として土佐商会を設け、和紙、樟脳、鯨油など土佐産物の輸出業務をつかさどり、戦艦、武器などの買い入れを行っていた。おそらくこのとき、長崎の商人たちから龍馬たち亀山社中の活躍ぶりを耳にしていただろう。そして、出来れば彼らの力を利用したい・・・そう考えたに違いない。

 しかし、ほとんどが土佐脱藩の下士たちで形成されていた亀山社中の面々にとって後藤象二郎は、土佐勤王党弾圧の際に大観察として徹底的な拷問を指示し、多くの同志たちを獄死させ、直接武市半平太に切腹の申しつけを行った憎き仇である。象二郎が長崎に出てきたことを知った社中の者たちは、「後藤こそ武市先生に腹を切らせた仇。出会いしだい叩き斬ってくれる。」と息巻いていた。しかし龍馬は、いきり立つ壮士たちを固く制した。龍馬は同年12月に姉・乙女に宛てた手紙で「人と言ものハ、短気してめつたニ死ぬものでなく、又人おころすものでなし」と述べているように、まだ土佐は変わるかもしれないと思っていた。龍馬もまた、彼らの力を利用したい・・・そう考えたようだ。

 年が明けた慶応3年(1867年)1月12日ごろ、坂本龍馬と後藤象二郎の会見が実現した。場所は長崎の料亭・清風亭で、仲介したのは岩崎弥太郎ではなく、土佐商会要員・松井周助と、若き日の龍馬が江戸へ剣術修行に出たときに同行した溝淵広之丞(ピエール瀧の役)の二人だった。(弥太郎と龍馬が接点を持つのは、前話の第39話「馬関の奇跡」の稿でも述べたとおり、この会見の後のことである。)その席に後藤は、龍馬の馴染みの芸者・お元を呼ぶという心配りをしている。後藤サイドが、この会見をいかに成功させたい思いで臨んでいたかがうかがえる。この段階で、この会談はすでに成功を約束されていたといっていいかもしれない。会談の具体的内容は不明だが、おそらく土佐藩の武器購入の話から時局論まで、腹を割って語り合ったことだろう。亀山社中や土佐商会の今後の運営にまで話は及んだかもしれない。会談を終え社中に帰ってきた龍馬に、社中の者たちは口々に、象二郎の様子や人物を尋ねたという。龍馬の返事は「えらいやつだ。あれを利用するとうまく仕事ができる」と答え、さらに、「後藤とは、承知のとおり仇敵の仲だ。しかるに彼は一言も過去を語らず、ただ前途の大局を話す、人物でなければできない境地である。」と答えた。そして酒席の話をいつも自分が中心になるように配慮していたと、土佐下士の生き残りたちが編纂して大正元年(1912年)に刊行された「維新土佐勤王史」は伝えている。

 龍馬と象二郎が手を結んだことは、地元土佐に残る者たちにとっては、上士・下士に関わらず衝撃的なニュースだったようだ。特に、武市半平太亡きあと龍馬を旗頭と考えていた下士たちは、「龍馬は奸物にだまされた。」と攻撃する声が高まり、また、姉・乙女も龍馬を非難し忠告の手紙を書いていた。その手紙に対する返事と思われる、乙女に宛てた手紙がある。商売に夢中になって、天下国家をお忘れのように見受けられるとか、奸物役人にだまされているのではないか、という忠告はありがたいが・・・と前置きして、龍馬は反論している。利益を求めるのは、社中の50人ほどを養うためであり、後藤象二郎と手を結んだのは、彼を人物と見込んでのことだと。そして龍馬は、自分の心情を書き付けた。
 「私一人ニて五百人や七百人の人お引て、天下の御為するより廿四万石を引て、天下国家の御為致すが甚よろしく、おそれながらそれらの所ニハ、乙様の御心がおよぶまいかと存じ候。」
 数百人の手勢を率いて何かを成すよりも、土佐二十四万石をバックに事を成す方が、はるかに効果的だと龍馬はいう。これは挙藩勤王論だ。数年前まで武市半平太が主張し、最期まで捨てることが出来なかった一藩勤王論を、この時期になって龍馬が説いている。前年には経営難から亀山社中の解散まで考えていた龍馬は、バックを持たない浪人としての限界を感じていたのかもしれない。

 坂本龍馬と後藤象二郎の、そのどちらがどちらを利用したかというと、見方によってどちらにもとれる。しかし、大藩の参政の立場にある象二郎と、同藩脱藩浪人である龍馬が、対等な立場で利用し利用されるという、いわばギブアンドテイクの関係が成立したことは、龍馬ファンにしてみれば痛快だ。いずれにせよ、二人が手を結んだことが、幕末の歴史を大きく変えることになるのはいうまでもない。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-10-04 01:56 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(7)  

阪神タイガース歴代ナンバーワン捕手・矢野燿大選手引退。

 阪神タイガース・矢野燿大選手の引退セレモニーが、甲子園球場で行われました。リーグ優勝に一路の望みを残しているタイガースにとって、今日はどうしても負けられない試合。矢野選手の出番を作るには、早いイニングで勝ちを決めて、余裕のある状況を作らなければなりませんでした。3対1とタイガースの2点リードで迎えた9回表、決してセーフティリードとはいえないものの、おそらく2アウトランナー無しの形を作れば、最後の1人の場面で矢野捕手のマスクという絵は描けてたと思います。が、残念ながら、そうはならなかったばかりか、痛恨の逆転3ランを浴びるという、最悪のシナリオとなってしまいました。打たれたのは守護神・藤川球児投手で、勝ちゲームの最終回のマウンドに彼が立つのは当然の策なわけで、それで負けたのだから誰も責めることは出来ないわけですが、本塁打を打たれる前の2つの四球が、もし、矢野捕手を出場させるために打たれたくないという力みから来たものだったとすれば、それは本末転倒のような気もします。引退試合である矢野捕手の出場はファンの期待するところでしたが、優勝争いをしているタイガースにとっては何より勝利が最優先であるべきだったわけですから・・・。結局、矢野捕手の引退試合を勝利で飾ることが出来なかったばかりか、タイガースのマジックは消滅、逆にドラゴンズにマジック1が点灯するという、なんとも後味の悪い試合となってしまいました。

 矢野燿大選手は、1990年のドラフトで中日ドラゴンズから2位指名を受け入団したものの、当時のドラゴンズには中村武志選手という絶対的な正捕手がいて、控え捕手でしかありませんでした。一時は打撃を買われ外野手に転向したこともあったようです。1997年のオフ、トレードでタイガースに移籍。そこから彼のプロ野球人生が始まったといっても過言ではないかもしれません。移籍後2年目には、野村克也監督との出会いがあり、のちに「いまの僕があるのは、野村監督の教えがあったから。」と彼自身が語っているように、そこで捕手としての頭脳を徹底的に磨かれ、今世紀に入ってからはセ・リーグを代表する捕手となりました。ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞2回、オールスター出場7回、日本シリーズ敢闘賞1回と、その記録を見ても、まぎれもなく、阪神タイガースの歴代ナンバーワン捕手といっていいのではないでしょうか。

 試合後のセレモニーで矢野選手は、「ファンのみなさんに感謝、感謝、感謝です。」と涙を浮かべて語っていました。9月初めの引退発表の記者会見で、「まさかこの年まで野球ができるとは・・・何年でクビになるのかな、というところからスタートして、タイガースでこんないい思いができるとは思いませんでした。」と語っていた彼にとって、この感謝の言葉は本当に心から出た言葉なのでしょうね。今シーズン、城島健司捕手の獲得が決まったとき、今日のこの姿はなんとなく想像できてしまいました。ケガが引退の理由ですが、ケガがなくともこの日は来たかもしれませんね。実力勝負の世界ですから・・・。しかし、田淵幸一捕手が退団して以来、20年以上定まらなかったタイガースの正捕手の座に何年もすわり、2度のリーグ優勝という強いタイガースの復活を牽引したのはまぎれもない事実で、私たちタイガースファンにとっても感謝の気持ちでいっぱいです。「皆さんの前に戻ってこられるように勉強してきたい。いつの日か、この甲子園で会いましょう。」と語っていましたが、その言葉どおり、指導者として、または監督として、縦じまのユニホーム姿を見せてほしいものです。

 矢野燿大選手、本当にお疲れ様でした。


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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100930-00000023-spnavi-base

# by sakanoueno-kumo | 2010-09-30 23:43 | プロ野球 | Trackback | Comments(4)  

福岡ソフトバンクホークスの奇跡の優勝と、競り弱い阪神タイガース。

 プロ野球パ・リーグのペナントレースは、福岡ソフトバンクホークスの奇跡の逆転優勝で幕を閉じました。残り6試合で3.5ゲーム差という絶望的な状況からの逆転優勝は、まさにミラクルといっていいでしょうね。逆にひっくり返された埼玉西武ライオンズは、球史に残る痛恨の2位ですね。まさに勝負は下駄を履くまでわからない・・・西武の選手たちは下駄を見失っていたのかもしれません。勝負事というのは、必ずしもリードしているほうが有利だとは限らないんですね。追う側が勢いにのれば、逆に追われる側は必要以上に気力・体力を消耗するもので・・・。結果、持てる力を発揮することができなかったということはよくあることです。

 さて、セ・リーグに目を移してみると、これまた不思議な現象が起きています。我が愛する阪神タイガースマジック8が点灯しているわけですが、戦況はソフトバンク以上に厳しい状況。マジックが点灯するということは、他のチームの自力優勝が消えたということですから、この場合、タイガースだけが自力優勝の可能性を残しているということで、優勝に一番近いチームのはずなんですが、現状そうではありません。首位の中日ドラゴンズは残りヤクルト戦1試合。その1試合を中日が勝利すれば、タイガースは残り9試合で8勝しなければならず、つまり自力で8つマジックを減らさなければならないという、極めて厳しい自力優勝の可能性です。これはマジックとはいえませんね。まあ、2位のチームにマジックが点灯するというのは珍しいことではありませんが、そのほとんどの場合、マジック2とか3ぐらいの数字で、今年のような例は珍しいと思います。このままドラゴンズが優勝すれば、セ・パ両リーグ共、マジック点灯チームが優勝を逃すという、これまた珍しいシーズンとなりそうです。

 可能性は極めて低いですが、ホークスのミラクル優勝を目の当たりにした今、タイガースもぜひ奇跡にあやかってほしいものですが、競り弱いんですよね・・・タイガースというチームは・・・。私が物心ついてからのタイガースは、1985年、2003年、2005年の3度の優勝しかありませんが、いずれもぶっちぎりの逃げ切り優勝なんですよね。その間、混戦の優勝争いに加わったことも何度かありましたが、競り合いになると、土壇場で浮足立っちゃうんですよね。その例でもっとも有名なのは、1973年、読売ジャイアンツ9連覇達成の年です。タイガースに待望のマジック1が点灯して迎えたシーズン129試合目の中日戦。この試合に勝つか引き分けるかでジャイアンツの9連覇の夢は断たれ、タイガースの9年ぶりの優勝が決まるはずでした。観測としてドラゴンズはジャイアンツよりタイガースに優勝して欲しいはずで(報知新聞と中日スポーツはライバル関係であるため)、もうタイガースの優勝は決まったようなものだと誰しも考えました。ところが優勝へのプレッシャーにコチコチになった阪神が「打たせてやろう」というドラゴンズ星野仙一投手の球に凡打を繰り返し、タイガース江夏豊投手もまた調子が上がらず失点を許し、勝てるはずの試合を落としてしまいます。そんな状態で迎えた甲子園でのジャイアンツとの最終戦は、あまりにも無残な結果に終わり、手中にしていたはずのペナントを逃すこととなりました。

 似たような年がもうひとつ。中村勝弘監督率いる1992年。2年連続最下位という不名誉なチーム状況で迎えたこの年、新庄剛、亀山努といった若返りに成功したタイガースは快進撃をみせ、野村克也監督率いるヤクルトスワローズと一騎打ちの優勝争いをしていました。ところがマジックが点灯すると途端に失速し始め、残り15試合を4勝11敗。結果、シーズン132試合中131試合目で優勝を逃します。この年の129試合目も73年と同じく名古屋球場のドラゴンズ戦。ドラゴンズの星野監督は、このときタイガースに勝たせてやろうと、二戦級の投手から順番にマウンドに立たせるものの、やはりコチコチになったタイガース打線は凡打を繰り返し完封負け。その後甲子園に戻ってのスワローズとの直接対決では、マウンドに送り込まれるタイガースの投手が皆、緊張してストライクが入らないという散々な内容でした。結果はいうまでもありません。

 最近では2006年、首位を走る中日ドラゴンズを、10ゲーム以上離れていたところから猛追したものの、0.5ゲーム差まで詰め寄ったところで直接対決で叩かれ2位。2008年には逆にシーズン序盤から首位を独走していたものの、シーズン終盤に一時は13ゲーム差をつけていたジャイアンツに逆転され優勝を逃すなど、とにかく競り合いに弱いのが阪神タイガースのチームカラーなんですよね。これって関西の地域色でもあるのでしょうか(苦笑)。冒頭で、「勢いにのる」という言葉を使いましたが、タイガースというチームは、ほんと、勢いに乗るのが下手なチームです。

 とはいうものの、可能性がある以上応援します。実際ホークスが奇跡を見せてくれてますからね。セ・パ両リーグとも逆転優勝チーム同士で、ミラクルな日本シリーズが見たいものです。・・・・・あっ、優勝しても日本シリーズが決まるわけじゃないんだ・・・忘れてました(笑)。


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e0158128_2355234.jpg9月28日 23:45追記
本文とは全く関係ありませんが、さっき当ブログにログインしたら、
トータル訪問者数が
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# by sakanoueno-kumo | 2010-09-28 01:32 | プロ野球 | Trackback(1) | Comments(6)  

龍馬伝 第39話「馬関の奇跡」

 おそらく最終章となる第4部のスタート。第1部から3部までと同様、のちに三菱会社社長となった岩崎弥太郎と、そこに取材に訪れた記者・坂崎紫瀾との会話で始まった。弥太郎が不機嫌になっていた新聞小説「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」は、以前「坂本龍馬が日本史のスターになった理由。」の稿でも紹介したとおり、1883年(明治16年)に高知の土陽新聞に連載された坂崎紫瀾著の小説で、当時、歴史に埋もれかけていた坂本龍馬の名を再び世に知らしめた作品である。以後、多くの作家たちによって執筆された「龍馬伝」は、すべてこの作品がベースとなっている。

 土佐藩家老・後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事することになった弥太郎だが、実はそれは今話の設定より半年ほどのちのこと。おそらく次話の、後藤象二郎と坂本龍馬の会見に弥太郎を絡めたいために、前倒しにしたものと思われる。慶応3年(1867年)4月に龍馬の脱藩の罪が許され、亀山社中海援隊として土佐藩の外郭機関となると、弥太郎は藩命によって隊の経理を担当することとなる。ドラマでは龍馬と弥太郎が幼馴染だった設定になっているが、記録上確認出来る弥太郎と龍馬の最初の接点はこの時期である。しかし、このドラマのみならず、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」や、村上元三著「岩崎弥太郎」などの伝記小説でも、この二人に若い頃から接点を持たせている。おそらくそれは、のちに海援隊の商務の部分を継承するかたちとなった弥太郎と、その商才に多分な影響を与えたであろう龍馬との関係を、単に隊長と経理担当としてだけの関係ではなく、多少運命的なものにしたいという作者の思惑からだろう。ちなみに、上記両作品でもドラマと同様、龍馬と弥太郎はそりが合わない。というより、弥太郎が龍馬に対して妬みやっかみの感情を抱く。本当にそのような関係だったかどうかはわからないが、もし違うとすれば、いつも龍馬の引き立て役になる弥太郎はつくづく可哀想な男だ。

 薩摩で3ヵ月ほどの日々を過ごした坂本龍馬は、慶応2年(1866年)6月、ユニオン号改め桜島丸、さらに名を改めた乙丑丸に乗って鹿児島を発ち馬関に向かった。龍馬たちが下関に入港したとき、長州・幕府の間ですでに火ぶたが切られており、防長四境は砲煙に包まれていた。幕府軍は陸では長州勢に勝てないばかりか、農民の一揆におびやかされ、容易に進むことすらできない。かたや長州軍は、「兵を行(い)ること迅速神の如し」といわれた天才・高杉晋作を海軍総督として、この年買い込んだオテント丸と、鹿児島から帰ってきたユニオン号の2隻を主力として、6月17日、海を渡って門司に奇襲をかけて幕府軍を打ち破った。龍馬もこの開戦にユニオン号を指揮して参戦したといわれるが、一説では、船を指揮していたのは亀山社中の菅野覚兵衛で、龍馬は直接参加せずに本陣か小高い山の上から見物していともいわれる。龍馬が実兄・坂本権平に宛てた手紙にその報告が記述されている。
 「頼まれてよんどころなく長州の軍艦を率いて戦争せしに、是は何事もなく、面白き事にてありし。惣て咄しは実とは相違すれど、軍は別して然るもの也。之を筆にし差上げても、実となさずやも知れず。一度やつて見たる人なれば咄しが出来る。・・・(中略)・・・私共、兼ねて戦場と申せば人夥多しく死するものと思ひしに、人の十人と死するほどの戦なれば、余ほど強き軍が出来ることに候」
 この手紙には海峡をスケッチした海戦図も描かれており、やはり船には乗り込まず傍観していたと考える方が正しいのだろうか。いずれにしても、この海峡戦ではオテント丸の活躍がもっともはなやかで、ユニオン号は早めに戦線を退いている。しかしユニオン号の参戦は、長州軍の士気を高めた点では、なみなみならぬものがあったようで、龍馬ものちに人に向かって「これで少しは長州へ恩返しができた」と語ったそうである。

 この長州・幕府戦争で龍馬がもっとも恐れていたのは、幕府が勝海舟を起用し、彼の指揮によって幕府海軍をもって下関海峡を封鎖するのではないかということだったようで、その懸念を木戸孝允(桂小五郎)に宛てた手紙の中でも述べている。実際この6月、海舟は幕府軍艦奉行に復帰していた。あるとき一橋義喜(のちの徳川慶喜)に向かって、「もし真実長州征伐の必要があるなら、諸侯は頼むに足らず、私に軍艦四五艘お貸しくだされば、馬関は暫時のうちに乗りとってご覧に入れましょう。」と言上すると、慶喜は「また勝の大言か」と一笑したというエピソードがある。実話かどうかはわからないが、龍馬の懸念は決して的外れではなかったようだ。結局海舟が指揮に起用されることはなく、長幕戦の停戦交渉という、最期のケツ拭きだけを任される。龍馬も師と一戦を交えることはなく、さぞかし安堵したことだろう。

 海舟が指揮していれば、展開が変わっていたかどうかはわからないが、とにかく幕府は長州に負けた。この敗戦によって、幕府の権威は急速に失墜していったことはいうまでもない。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-09-27 02:41 | 龍馬伝 | Trackback(6) | Comments(4)  

大久保利通の北京談判に見る、尖閣諸島沖漁船衝突事件の弱腰外交。

 沖縄県の尖閣諸島沖で起きた漁船衝突事件で逮捕された船長が釈放されたことを受け、中国政府は日本に対して謝罪と賠償を求める声明を発表したらしい。そもそも政治的理由で釈放すること自体あり得ない話なのだが、その弱腰外交につけ込まれ賠償まで求められる始末では、現政権のいう「友愛外交」が聞いてあきれる。アメリカはアメリカで、これを機に沖縄米軍基地の重要性を日本に再認識させるような発言がみられ、あっちにもこっちにも弱腰な日本は、国家の誇りを失った亡国といってもいいかもしれない。

 外交には、力の裏付けが必要。現状、軍事力を持たない、そして経済力も中国に越されつつある日本は、弱腰にならざるを得ない・・・なんてことはないことを証明した政治家が、かつて日本にもいた。麻生太郎元首相の高祖父、大久保利通である。

 江戸時代、現在の沖縄県である琉球王国日本清国のどちらにも属するという曖昧な立場にあった。明治政府が成立すると、その帰属をめぐり日本と清国の間で政治問題が起きていた。
 
 明治4年(1871年)、琉球王国の御用船が台風による暴風で遭難し、台湾に漂着。船には役人と船頭69名が乗っていた。漂着した船員たちは先住民に助けを求めたが、逆に拉致され、次々に処刑されるという事件が起こった。日本は清国に対して事件の賠償を求めたものの、当時の明治政府は成立してまだ浅く、外交交渉の経験もなければ国際慣習も知らない。事件はその後3年間、放置されることとなってしまった。

 明治6年(1873年)の政変で、事実上日本の首相となった大久保利通は、台湾出兵を企画、翌7年(1874年)5月、前年の政変に破れ、このとき下野していた西郷隆盛の実弟で、当時、陸軍中将だった西郷従道を事務局長に任命して全権を与え、台湾に征討軍3000名を出兵させた。当時の国際慣習を知らない明治政府は出兵に際して清国に通達をせず、清に権益をもつ列強にたいしても根まわしをしなかった。これには、当時清国の保護者(支配者)の立場だったイギリスが大激怒。しかしそれでも強気の姿勢を崩さない日本に屈したイギリス公使トーマス・ウェードの斡旋で、和議の舞台がもうけられ、同年9月、大久保は清国政府との交渉のテーブルにつくために全権弁理大臣として北京におもむいた。

 交渉は困難を極めた。当時は日本も清国も近代国家としては赤子同然、交渉もイギリス外交官を顧問として国際法を教わりながらの協議だった。が、相手は後進国といっても大国清国。国力も軍事力も相手のほうが数段上で、明治維新から数年しかたっていない日本にとっては、小学生が高校生に噛みついているようなものだった。しかしそれでも大久保は、強硬姿勢を崩さない。この大久保の粘りには清国もイギリスも手を焼いた。

 1か月以上の協議を経て交渉は決裂。大久保は帰国の準備をはじめ、北京にいる各国関係者は戦争の覚悟をした。日本にとってもイギリスをまきこんでの開戦は、まぎれもない国家の滅亡を意味する。しかし、土壇場で事態は急変した。清国内に巨大な利権をもっていたイギリスは、争乱が起きてアジアの現秩序が破られることを望んでなかった。大久保の強硬姿勢に泡をくったウェードは、清国政府に日本の要求をのむよう圧力をかけた。その結果、清国は日本の台湾出兵を義挙と認め、賠償金として50万両(テール)の支払いを承諾した。大久保の命を賭けた粘りの外交が勝利した。この賠償金を支払ったことで、事実上清国は、琉球を日本国属民と認めることとなった。そして日本は明治12年(1879年)、琉球藩を廃して沖縄県を設置するに至る。

 「戦を覚悟すれば戦をせずにすむ。」という意味の言葉を、大久保はこの北京談判前の意見書の中で述べている。幕末騒乱を経てきた大久保だからいえる言葉だろう。いうまでもなく彼はのちに暗殺されるわけだが、この時代の政治家にとって「命をかける」というのは決して大袈裟ではない。彼はこの交渉に失敗したら、自分はテロに遭って死ぬだろうことを覚悟していた。その覚悟が、力の裏付けのない弱小国の外交を勝利に導いた所以だろう。

 現代の政治家に「命をかけろ」とまではいわない。しかし、今回のこの弱腰姿勢では、およそ外交とはいえない。外交は大久保利通のように、あくまで強気でなければならない。なぜなら、国際社会においては国際政府世界政府などといった国家の上に位置する機関は存在せず、国家それ自体がパワーの源泉だからだ。無法者がいようと悪辣な国があろうと、彼らを取り締まる国際機構など存在せず、いわば弱肉強食のジャングル状態が国際社会の現状だからだ。強気で臨まなければ、国家を守ることなど出来ない。「友愛」も結構だが、私たち日本国民の生命財産を守ることが最優先なのではないのか。

 まともな外交が出来ない国は、もはや「独立国」とはいえない。アメリカの隷属がいいか、中国の隷属がいいか、そんな選択をする日もそう遠くないかもしれない。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-09-26 00:34 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(12)