終戦記念日ドラマ、「歸國(きこく)」を観て。

 終戦記念日の特別ドラマ「歸國」を観た。物語の内容は、六十余年前に戦死した兵士たちが数時間だけ現代の日本に帰国し、その英霊たちの視点で現代社会を考えるというもの。国のために死んだ者にとって、今の日本は正しいのか、彼らが願った平和とはこのようなものだったのかといったテーマで、毎年この時期に制作される“反戦”をテーマとしたドラマとは趣を異にする内容だった。

 率直な感想から言うと、設定は面白かったが取り立てて何かを考えさせられるというものではなかった。そもそも戦前戦中の日本と、現代の日本のどちらが正しいかなどと比べること自体ナンセンスなこと。昔は昔の良いところ悪いところがあり、現代もまた同じ。「豊かさと引き換えに大切なものを失った。」などといった論調は使い古されたテーマで、そんなことは改めてドラマで伝えてもらうまでもなく、現代人は皆、大なり小なりそれを感じながら今を精一杯生きている。何かを得たら何かを捨てなければならないのは常で、問題を解決すれば、また新たな苦労や苦悩が生まれるのもまた常だ。昔の価値観で今を批判することも、また今の価値観で過去の罪を問うことも私は共感できない。終戦記念日にはこういったテーマのものよりも、例年どおり戦争を直視するような作品をつくり、それを観た個々がそれぞれに何かを感じることのほうが、戦争を風化させないということになるのでは、と私は思う。

 そんな中でも、いくつか印象に残るシーンがあった。8月15日の早朝、政府閣僚の靖国神社参拝に向けてマスコミが大勢集まって来ているのを見た英霊たちのの会話。
「国としての公式参拝が認められていないのか?」 
「この戦争の指導者が合祀されているから駄目だという人もいます。」
「国のために死んだ俺たちを、国の責任者が参拝するのは当然の義務なんじゃないのか!」 
「報道はどっちの味方だ?参拝するべきと思っているのか、するなと思っているのか?」
 
「どっちでもありません。奴らは要するにそんな国の要人の姿を世界に報道したいんでしょう。奴らに愛国心はないみたいですよ。」
 物語の本筋とは直接関係がなく、脚本家の意見を英霊たちの口を借りて述べた観がアリアリのシーンだが、確かに英霊たちにこれを言われるほど説得力のあることはない。そしてこのシーンを作っているのが“奴ら”呼ばわりされているマスコミだというのもまた面白いところだ。さらに、奇しくも今年の終戦記念日、この30年で初めて閣僚が一人も公式参拝しなかったという事実も加わって、よくぞ言ってくれた観あり。おそらく菅さんはドラマは観ていないだろうが・・・。

 もうひとつ印象に残ったシーン。ドラマ終盤で生瀬勝久さん扮する報道官の霊が言った言葉。
「人間は二度死ぬ。一度目は肉体的に滅んだとき。二度目は完全に忘れられたとき。」
 英霊であれ普通の霊であれ、この世に“霊魂”というものがあるとするならば、それは残された人の心の中にあるもの・・・だと私も思う。亡くなったその人を思い出してくれる人が生きているかぎり、その心の中に故人の霊も生き続ける。その心を持った人が全てこの世からいなくなったとき、霊魂も消えるときだと・・・。その論でいえば、もうすぐ戦死者たちを思い出すことのできる人たちがこの世からいなくなるわけで、英霊たちも英霊ではなくなるということ・・・。そうなったときの日本が、過去の戦争をどのように認識しているかは私にはわからない。

 こういった話題になると、私はいつも思うことがある。私たち戦後生まれの者には、戦前責任も戦中責任もない。しかし、未来に起こるかもしれない戦前責任は、私たちにもある・・・と。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-08-17 21:28 | その他ドラマ | Trackback | Comments(8)  

龍馬伝 第33話「亀山社中の大仕事」

 一度レールを外れてしまった「薩長和解」への道を、再び軌道修正することは至難の技だっただろう。ここから歴史は坂本龍馬を必要とする。薩摩と長州の和解・提携の仲介として奔走しはじめたのは、実は龍馬よりも中岡慎太郎・土方楠左衛門の二人の方が先だった。龍馬がこれに加わったのは、慶応元年(1865年)4月、土方と京で面談した際にこの企てを聞き、同調し関わっていったと考えるのが正しいようだ。言ってみれば、龍馬は慎太郎たちの推進する仕事の「お手伝い」をしていたにすぎなかったのかもしれない。西郷隆盛桂小五郎の下関会談の失敗までは・・・。

 龍馬は薩の側から、慎太郎は長の側から西郷を説いた。特に龍馬より長く両藩和解のために尽力してきた慎太郎は、薩長が手を結ぶことの必要性を激しく説いたという。しかし断交状態にある二つの雄藩のそれぞれの事情は、「道理」では容易に動けなかった。そこで龍馬が考案したとされるのが、前話で言った手みやげ話、薩摩名義で武器や船舶を購入し、長州へ回送するというプランだった。これは慎太郎には考え及ばない、亀山社中という組織を持つ龍馬だからこその発想だった。要は道理ではなく、「実利」なのだ。この着想が、坂本龍馬と亀山社中を歴史の表舞台へ一気に押し上げることとなる。

 幕府は諸藩に長崎で直接外国から武器を購入することを禁じていた。しかし、第二次長州征伐を控えて、幕府に味方する諸藩の貿易は黙認されていた。薩摩名義で武器を購入するということは、つまり長州を攻めるための武器ということ。その武器が実は長州の手に渡るというのだから、薩摩にとっては幕府に対してとんでもない反逆行為となる。西郷が慎重になるのは無理もないことだった。一方で壊滅寸前の長州にとっては喉から手が出るほど欲しいもので、これほどの誠意はない。この「実利」によって、薩長和解のステップを一歩進んだわけだが、このままでは一方的な薩の援助になってしまうと懸念した龍馬は、次に、長から薩への援助のプランを提案する。薩摩藩士が上洛し、征長戦を阻止するために必要な兵糧米が不足しているため、下関で米を売ってはもらえぬかというものだった。長州は快諾した。しかし結局この兵糧米の受け取りを西郷は「長州国難」を理由に辞退する。それが西郷の誠意だった。こうして互いの「実利」というステップを踏みながら、薩長二藩は次第に接近していった。やはり、前回の下関会談は少々事を急ぎ過ぎていた。両藩の同盟締結までには、まずはこうした「和解」のための下準備が必要だったのだ。その「実利」という下準備の着想は、坂本龍馬が歴史に残した最初の奇跡だと私は思う。

 ドラマ中、英国商人・トーマス・ブレーク・グラバーと龍馬の密談シーンは実に面白かった。実際に龍馬がどのようにしてこの武器購入の話を持ち掛けたかはわからない。一説には、この「実利」のアイデア自体、実はグラバーが龍馬に入れ知恵したものという説もあるらしい。実際グラバーは後年の回想談で、「薩長の間にあった壁を壊したのが、自分の最大の手柄」であり、「徳川政府の謀反人の中では、自分が最大の反逆人であった。」と語っていることから、この説もまったく否定できないかもしれない。私は以前、第30話「龍馬の秘策」の稿で、龍馬たちの後ろ盾となったのは商人たちだった、と述べたが、その意味では、この後龍馬の最も力になったのは、このグラバーだった。龍馬とグラバー。この二人の出会いも、龍馬と勝海舟の出会いと同じぐらい、運命の出会いだったと私は思う。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-08-16 01:31 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(0)  

明治は遠くなりにけり。 100歳以上の高齢者所在不明問題に思う。

 全国で100歳以上の高齢者の所在不明が相次いで明らかになっている問題が、先日より世間を騒がしています。なかでも、私の住む神戸市ではとりわけひどく、同市内に住民登録されている100歳以上の高齢者847人のうち、1割を超える105人の所在が確認できていないそうです。全国で所在不明者が100人を超えた自治体は神戸市が初めてだとか。また、国内最高齢者といわれた、東大阪市に住む119歳の女性の所在不明も判明していましたが、神戸市では、それを超える125歳の女性の住民登録が東灘区で確認され、しかも所在がわからないそうです。神戸市は阪神淡路大震災以降、市の人口の約3分の1が入れ替わっていると聞きます。そんなことも影響しているのかもしれませんね。とはいえ、神戸市民としては不名誉なことです。

 「崩れゆく"長寿国"ニッポン」などと題してマスコミでは報じられていますが、そのこと自体は私はさしたる問題ではないと思っていますが、この騒ぎで一番に思ったことは、所在不明の人たちにも年金は支給され続けているのでしょうか? であれば、なかには年金を不正受給するために、あえて死亡届を出していない、なんてケースもあるんじゃないでしょうかね。そのあたり、もっとしっかり調べてほしいところです。

 今回の報道で、100歳以上の高齢者が全国で約4万人ほどおられるということを知り、思った以上に多くて驚きました。で、平成22年現在、ちょうど100歳の方が生まれた1910年を調べてみると、明治43年なんですね。ということは、2年後には大正元年生まれの方が100歳になるわけです。私が子どもの頃は、お年寄りといえば「明治生まれ」という印象だったんですが、考えてみれば昭和一桁生まれの方は今で言う「後期高齢者」なわけで、明治生まれの方は今では希少な方々なんだと今更気が付きました。いつの頃からか、生年月日を記入する書類の欄から「M」の記載がないものが増えました。あと20年・・・いや15年もしたら、世の中から明治生まれの方はいなくなっちゃうんですね。明治という時代が、本当の意味で歴史になろうとしている・・・そんなことを、この度の騒動とは関係なく、ふと感じました。

 明治後半に生まれ、大正、昭和、平成と生きてこられた方々は、日本の歴史の中でも特に激動の時代を生きてこられた方々だと思います。「元お侍さん」なんて人がまだ多く生きていた時代に生まれ、二つの世界大戦を経験され、戦後の焼け野原から高度成長期を支え、人類が月に降り立つなんて科学の進歩を横目で見ながら、経済大国ニッポンになるまでの一部始終を見てきた方々なんですよね。これだけ激動の時代を生きた日本人は、他のどの時代にもいないでしょう。例えば、戦国時代、信長、秀吉、家康の全ての時代を生きた侍でも、この方々にはかないません。昭和42年生まれの私などは、四十余年生きてきましたが、生まれたときからテレビも冷蔵庫も洗濯機もあって、分野分野では目まぐるしい発展を遂げたものもありますが、相対的に見れば、大きくは変わっていません。おそらくあと半世紀生きても、そう変わり映えしない世の中でしょう。もっとも、変わり映えは望んでいませんけどね(笑)。明治という時代に生まれた方々は、自分がその時代に生まれたことをどう思っているのでしょうかね。聞いてみたい気がしますが、そう思ったとき、私の身辺の明治生まれの人は皆、この世にはもういません。

 現在、所在不明になっている方々は、ただ単に長生きしたというだけではなく、後の世の多くの歴史家たちが研究するであろう歴史を生きてこられた方々なんですね。そんな歴史的価値のある人生がいつ終わったかわからないなんて、方々に対して失礼だと思いませんか。もし年金の不正受給のダシに使われているなんて人がいれば、とんでもない話です。きっと草葉の陰で激怒していることでしょう。 「私の生きた証をちゃんと残してくれ!」と・・・。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-08-11 22:43 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(4)  

龍馬伝 第32話「狙われた龍馬」

 慶応元年(1865年)閏5月、下関での西郷隆盛桂小五郎の会見計画に失敗した坂本龍馬中岡慎太郎は、その10日後、西郷を追いかけるように下関から京に向かってたった。無論、西郷をもう一度説得するためだった。西郷がなぜ、一旦は決めたはずの下関行きをドタキャンしたのかは歴史の謎である。ドラマでは幕府の隠密が船に忍び込んでいたという設定だったが、他の物語などでは、大久保利通から緊急の書簡を受け取ったためというものや、長州との和解はこの時期まだ西郷ひとりの意見で、薩摩藩内では反対意見が多く迷っていたとするものなど、理由は様々だ。私が思うには、前話の第31話「西郷はまだか」でも述べたように、この時期の薩摩側が期待していたのはあくまで「和解」であったのに対し、長州側や龍馬、慎太郎たちが求めていたのはその先の「提携」であり、ことが近づくにつれその「温度差」を感じた西郷は、土壇場になって消極的になった・・・といったところではないかと思っている。この「温度差」があったからこそ、この翌年に行われる両藩の最終会談の場に至ってもこじれ合うこととなり、結局は龍馬の出馬を必要とするに至るわけだが、それは後の話に譲ることにしよう。

 ドラマ中、寺田屋で新選組局長・近藤勇と遭遇した坂本龍馬。龍馬と近藤に面識があったという記録は残っていないが、これ以後も頻繁に京の地に足を踏み入れていた龍馬が、新選組とまったく関わりがなかったと考えるのも無理があるだろう。一度や二度は、剣を交わしたこともあったかもしれない。

 興味深い話がある。司馬遼太郎著の「竜馬がゆく」の中で、巡察中の新選組と龍馬が路上で出くわすという場面がある。殺気立つ新選組隊士を目の前にして、龍馬は突然路傍の子猫を抱き上げ、頬ずりしながら悠々と敵の隊列の中を通り抜けてしまったというエピソード。敵の気を抜くという大胆な戦法なのだが、この痛快なエピソードがなんと実話だったという。大正3年(1914年)に刊行された千頭清臣著「坂本龍馬」の中にその元となった記述がある。
 「慶応元年四月五日(略)、龍馬は同志高松太郎、千屋寅之助等を従へて嵐山に遊び、帰途偶々会藩主の武装して巡羅するに会ふ。龍馬、高松を顧みて曰く、君果して之を横断するの勇ありやと。高松瞠目して一語なし。龍馬突如として路傍の子犬を抱き、余念なげに之に頬擦しつつ歩を会士の中央に運ぶ。会士喫驚して覚えず途を開く。龍馬悠々として之を横ぎり、高松、千屋等辛じて龍馬に次げり。」
 同書は龍馬の伝記としては評価の高いものである。その序文には、龍馬の死後、明治まで生きた海援隊士の直話をもとにしたものと書かれていて、文中に登場する高松太郎千屋寅之助(菅野覚兵衛)はいずれも明治中期まで生きた人物である。子猫ではなく子犬、また新選組ではなく会津藩の巡察隊となっているが、会津藩支配下の新選組は広い意味では会津藩の巡察隊には違いなく、当時の記録には両者を混同してしまっているものも多いらしい。このエピソードからわかるのは、新選組と遭遇しても動じない龍馬の姿。そんな彼だったからこそ、四方八方敵だらけの京に何度も足を踏み入れ、身の危険を顧みず大仕事が成し得たのだろう。そんな龍馬像がうかがえる痛快なエピソードだ。

 本稿では、今話とはあまり関係ない話をさせてもらった。今話で龍馬と慎太郎が西郷を動かした件については、次週の第33話「亀山社中の大仕事」に譲りたいと思ったからだ。龍馬の本当の活躍はこれからである。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-08-09 01:41 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(0)  

第92回全国高校野球選手権大会 直前

 さて、今年も7日(土)から高校球児の熱い日々、夏の高校野球甲子園大会が始まる。今年から我が愚息も高校球児となり(地区予選で早々に散ったが・・・)、例年以上に高校野球を身近に感じている。先日抽選会が行われ、組み合わせは下記に決まった。↓↓↓
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 センバツ優勝の興南(沖縄)は、4日目第4試合で鳴門(徳島)との対戦となった。興南の左腕・島袋洋奨投手の快投が楽しみだ。優勝すれば史上6校目の春夏連覇となるが、同ブロックには明徳義塾(高知)や仙台育英(宮城)など強豪が揃っていて、そう容易くはなさそうだ。一方で、センバツ準優勝だった日大三(東京)は今回出場を果たせなかった。日大三のような名門校でも、春夏連続出場というのは容易ではないということだろう。

 センバツで注目されながらも1回戦で甲子園を去った、東海大相模(神奈川)の右腕・一二三慎太投手が、春の雪辱を果たすべく、また甲子園にやってきた。184センチの長身から投げ下ろす角度のある速球はMAX149キロ。不完全燃焼で終わった春以来、一時は制球難で苦しんでいたそうだが、ここに来てまた調子を取り戻したらしい。春じっくり見れなかったので、今大会では勝ち上がってその実力を見せてほしいところだ。

 私の注目選手は、我が兵庫県代表の報徳学園(兵庫)の1年生右腕・田村伊知郎投手。背番号は二桁だが、1年生ながら名門・報徳学園のベンチ入りを果たし、準々決勝の市神港戦では6回を無安打ピッチング、準決勝ではセンバツ出場校の神戸国際大付を相手に8回を2失点に抑えた。まさにスーパー15歳の出現だが、驚くことに彼の中学校時代は普通の公立中学の軟式野球部出身。硬球をさわりだしてまだ4ヶ月ほどということだ。まだまだ伸び代を感じる田村投手を今後も注目していきたい。(私の息子も同じ兵庫県の1年生なのだが・・・)

 あと、ここでは名前は出さないが、私が毎週末に指導している少年野球チームの卒団生が、実は今大会に出場している。これは私が指導者をやりだしてから初めてのことで、非常に興奮している。是非頑張ってほしい。

 先日、センバツ優勝校の興南が沖縄代表に決まった後に練習試合を行ったということで、大会本部から注意処分を受けたという報道があった。理由は大会規定に、公平性を期すため地方大会開始後は全国選手権(甲子園)も含め、参加チームが敗退するまで対外試合ができないという決まりがあるらしい。規則である以上、守らなかった興南の指導者は注意を受けて然るべきかもしれないが、しかし、この規定はどういう意図のものだろう。「公平性」という理由で考えれば、そもそも地区によって不公平はある。大阪や神奈川、兵庫といった激戦区は、つい先日まで地区予選を戦っているのに対し、沖縄は47都道府県の中で一番早く代表が決定する。大阪代表が8月1日に決定したのに対して、沖縄代表が決定したのは7月18日で、約2週間もの差があるのだ。甲子園大会までとなると3週間、試合勘という観点で考えれば、これは明らかに不利なことだ。調整試合を行いたくなるのも無理もないこと。公平性というならば、本大会開催何日前というような規定に変えるべきではないだろうか・・・。

 とにもかくにも、今年もまた球児たちの熱い夏が始まる。
 いざ、熱闘甲子園!


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# by sakanoueno-kumo | 2010-08-05 21:51 | 高校野球 | Trackback | Comments(4)  

龍馬伝 第31話「西郷はまだか」

 慶応元年(1865年)閏5月頃、坂本龍馬は長崎において海運、貿易を業とする「商社」とでもいうべき団体を組織する。その名は「亀山社中」。本拠を亀山においたことからそう名付けられたといわれるが、実はこの名称は当時の史料には一切出てこないらしい。確認できる同時代の史料には「社中」とだけ記されていて、「亀山」という地名がついたものは残っていないそうだ。社中のメンバー・近藤長次郎の書簡や、後に土佐商会主任・長崎留守居役となった岩崎弥太郎の日記などにも「社中」としか記されていない。単に省略されただけとも解釈できるが、後の海援隊士・関義臣が明治になって語った回顧談に、「初めは唯、社中々々と称ったのを、土州藩に付属して後、海援隊と名づけた」という談が残っており、やはりどうやら当時は「社中」とだけ称していたようだ。「亀山社中」という名は、後世の史家によって名付けられたものだろう。

 坂本龍馬が大宰府を訪れたのは、慶応元年(1865年)5月23日、翌日24日には、この2年前の「八月十八日の政変」で京を逃れ長州に落ち、翌年の「第一次長州征伐」によってこの大宰府で幽閉生活を送っていた三条実美に謁し、その翌日には同じく幽閉生活中の東久世通禧に謁した。龍馬の目的は彼らに「薩長同盟」の趣旨の理解を得、長州と連絡をつけることにあった。龍馬と会談した東久世の日記には「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」と記されている。そう、この時点では、龍馬の説くところはまだ「奇説」でしかなかった。

 ようやく登場した盟友・中岡慎太郎武市半平太が投獄された文久3年(1863年)に脱藩した彼は、以後長州藩士と行動を共にし、「禁門の変」においても長州側として薩摩と戦っていた。言ってみれば、長州人と同じく「薩賊憎し」の立場にあるはずだった。一説には、薩摩藩国父・島津久光の暗殺を企てたこともあったという。そんな慎太郎が言う。
 「実はのう龍馬。わしもおまんと同じ考えを持っとったがじゃ。長州を助けるためには薩摩と手を組む以外にない。」
 ドラマ中、慎太郎が龍馬に言った言葉だが、まさしくそのとおりのようで、むしろ慎太郎の方が先に着想し行動していたといってもいい。この時期より3ヵ月程前の2月8日、中岡慎太郎と同じく土佐藩士・土方楠左衛門の二人は、下関の豪商・白石正一郎邸にて、薩摩の吉井幸輔、長州の三好内蔵助を加えて薩長和解を協議していた。その後上京した慎太郎と土方は常に薩摩屋敷に泊まり、同藩士の護衛をうけている。すでに二人は薩長間を奔走していた。そして幕府の「長州再征」にあたっていよいよ薩長和解の必要を痛感した彼らは、西郷隆盛が上京する際、何としても下関に立ち寄らせようと考え、慎太郎は直接薩摩へ、土方は長州へそれぞれ二手にわかれて薩長を説きに向かった。龍馬が大宰府に訪れたのはそんなときだった。そして閏5月15日、白石正一郎屋敷で龍馬と土方が会うのだった。

 龍馬と土方は桂小五郎を説得した。しかし桂は薩摩への恨みを拭いきれないでいる。無理もない。長州が今瀕死の状態にあるのも、薩摩が土壇場で会津と組んだからだ。桂自身もそれ以来、京で、但馬で潜伏生活を8ヵ月も送っている。聡明な彼のことだから、龍馬と土方の説くところの必要性は十分に理解出来ただろう。しかしそれにも勝る恨みがあった。龍馬は説きに説いた。ようやく納得した桂は、下関で西郷を待つと約束し、龍馬とともに閏5月21日まで待った。

 しかし、薩摩へ西郷を説きに行った中岡慎太郎は、茫然とひとりでやってきた。西郷は来なかったのである。彼は確かに慎太郎の説くところを了承し下関へ向かったのだが、閏5月18日、佐賀まで来たとき、「幕府征長に反対する朝議を固めるのが先決」と称して中岡を佐賀に下ろし、京へ直行してしまった。桂は怒った。当然だった。

 薩摩と長州が手を結ぶには、まだ時間が必要だった。慎太郎や土方、そして龍馬も、少し事を急ぎ過ぎた。薩摩と長州はまだ「和解」もしていなかったのである。その「和解」を飛び越え、いきなり「提携」すなわち「同盟」に進もうとした。これが失敗だった。

 ここまでの働きは、龍馬よりもむしろ中岡慎太郎と土方楠左衛門の働きが大きかった。ここからが龍馬と「亀山社中」の出番である。彼らが「和解」のための材料を用意し、やがては「同盟」に結びつけるまで、まだあと8ヵ月ほどの時間が必要だった。


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# by sakanoueno-kumo | 2010-08-03 03:02 | 龍馬伝 | Trackback(6) | Comments(0)  

桑田佳祐が食道がん!

サザンオールスターズ桑田佳祐さんに、初期の食道がんが判明したそうです。
幸い早期発見により、初期段階での治療で済む状態とのことでした。
私は桑田キチガイと言っていいほど彼の音楽が大好きで、この報道にはぶっ飛んでしまいましたが、大事に至らなさそうで胸を撫で下ろしています。
しばらくは休養して治療に専念してほしいですね。

数ある名曲の中から、桑田佳祐ソロナンバーを1曲。
     ↓↓↓


サザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」で衝撃的なデビューをしたのは私が小学校6年生のとき、それ以来32年、ずっと彼の音楽を聴き続けてきました。
デビュー当時はコミックバンドのように思っている人が多かったのですが、そう思っていなかった私はそれがとても腹立たしく、その後3曲目のシングル「いとしのエリー」がヒットして世間の評価が変わったときには、自分のことのように嬉しく思ったものです。
まあ、実際コメディアンのようなことをしてましたけどね。
ドリフターズのいかりや長介さんが、どうせ「勝手にシンドバッド」の一発屋だろうと判断して、ドリフのメンバーにスカウトするため桑田佳祐さんのもとに訪れたというエピソードは有名です。

その後10代、20代、30代と、自分の人生を振り返ると、いつもそこに彼の曲があります。
高校時代、洋楽にかぶれていた時期も、邦楽で唯一彼の曲だけは聴き続けました。
車の免許を取ってからは、彼の全アルバムのカセットテープ(ふ・・・古っ)を常に車に置き、ともに走りました。
結婚してからも子どもが生まれるまでは、毎年家内とLIVEにも足を運びました。
そして今では、携帯電話に何百曲も入れて、通勤時に楽しんでいます。

最近では、高校生の息子が聴いてたりします。
これってスゴイことですよね。
私が高校生の頃、私の親の世代の人と話が合う音楽なんてありませんでした。
30年以上、常に一線で支持され続けている桑田サウンドだからこそあり得ることでしょうね。
好き嫌いは別にして、日本一のミュージシャンと言っていいのではないでしょうか。

昨年、私たちの世代では桑田佳祐さんと人気を二分した忌野清志郎さんが、同じくがんで58歳という若さでこの世を去りました。
名曲「いとしのエリー」のモデルと言われる桑田さんの実姉・えり子さんも、一昨年がんで亡くなられています。
早期発見とはいえ、がんは恐ろしい病気です。
焦らずしっかりと治療して、またいい歌を聴かせてほしいと思います。


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下記、記事本文引用
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サザンの桑田さんが初期食道がん 全国ツアーは中止
 人気バンド、サザンオールスターズの桑田佳祐さん(54)が初期の食道がんと分かり、手術と治療に専念するため、10月からの全国ツアーを中止すると、所属事務所のアミューズが28日発表した。休養期間は少なくとも今後半年間になる見通しという。事務所によると、今月中旬に受けた検査でがんと判明。8月にも手術を受けるという。10月20日に予定していた新作アルバムも発売を延期する。

# by sakanoueno-kumo | 2010-07-28 16:11 | 芸能 | Trackback(1) | Comments(8)  

龍馬伝 第30話「龍馬の秘策」

 「世の中の仕組みを変えようと思うとる。」
 一脱藩浪士に過ぎない坂本龍馬たちのこの理想に、最初に反応し耳を傾けたのは商人たちだった。出島商人として財を築いた長崎の豪商・小曽根乾堂もそのひとりである。乾堂と龍馬の最初の出会いは、元治元年(1864年)2月、龍馬が勝海舟に同行して長崎を訪れたときだといわれている。乾堂は海舟とも親交が深かった。海舟と長崎妻・お久の間に生まれた子の世話も乾堂はしていたという。余談だが、海舟とお久の間には一男一女が生まれ、男児の名は梅太郎という。後に幕府のお尋ね者となった龍馬が、頻繁に使用した変名「才谷梅太郎」は、この男児の名にあやかったものだといわれている。

 小曽根乾堂は龍馬たちを心物ともに援助した。龍馬たちが設立した「亀山社中」は、小曽根邸宅に隣接する、乾堂の「亀山焼」という陶芸工場跡地を事務所とした。龍馬が慶応2年(1866年)8月に書いた手紙の中に、「長崎に出た浪士は小曽根家を隠れ家にしており、既に私たちもそうしている」という記述がある。後に龍馬の妻となるお龍は8ヵ月もここに預けられており、ここで月琴を習ったという。そのとき使った月琴は今も小曽根家に伝わっている。また、饅頭屋・近藤長次郎が悲しい死を遂げたのもこの場所で、長次郎の墓は小曽根家墓地にある。長崎に活動の拠点を置いた龍馬たちにとってこの場所はベースキャンプであり、小曽根乾堂は「社中の父」のような存在だった。さらに後、社中が「海援隊」になると、乾堂の弟・英四郎は龍馬たちと行動を共にし、「いろは丸沈没事件」の際には会計官として同船に乗船していた。

 もうひとり、龍馬たちを援助したと伝わる商人、お慶こと大浦慶。龍馬の人生は、実姉・乙女や寺田屋の女将・お登勢など女性の支援によるところが大きいが、乙女やお登勢が心情的な支えになっていたのに対し、このお慶は経済的支援、つまりパトロンとして龍馬を支えたという。彼女は、代々豪商だった上記小曽根乾堂とは違い、女手ひとつで財を成した商人。油商家に生まれた彼女だったが、父は若くして亡くなり、さらにお慶16歳のときに火災に遭って油とともに旧家も消失。17歳で婿を迎え家業の再興に着手するものの、その婿に商才がないとみるや手切金を払って離縁、以後単身で家業の再興をはかる。ペリー来航があった嘉永6年(1853年)、お慶は嬉野茶の輸出に着眼し、この成功によって巨財を手に入れる。想像するに、かなりの女傑だったようだ。

 この大浦慶が坂本龍馬を支援したという話は、実は言い伝えによるもののみで史料として残るものはない。小説などでは、後に社中が船を購入する際にその代金を肩代わりしたり、さらに陸奥宗光と恋仲になったりもする。油屋町の広壮な「お慶屋敷」は、龍馬ら社中の者たちの「秘密の拠点」だったともいわれ、志士のあいだでも「大浦のお慶さん」と親しまれたと伝えられるが、これも言い伝えに過ぎず、龍馬とお慶がどれほどの関係だったかはわからない。しかし近年、お慶の親族にあたる家に保管されていた龍馬の写真が、複写ではなく原物写真だということが分かったらしい。龍馬とお慶の関係を近づける貴重な史料として、歴史研究者たちに注目されているそうだ。言い伝えどおりかどうかはわからないが、何らかの関係があったと考えていいのではないだろうか。

 得体のしれない一脱藩浪士たちの声に、最初に耳を傾けたのは商人たちだった。幕府独占の交易体制に兼ねてから不満を持っていた彼らには、龍馬たちのいう「世の中の仕組みを変える」という思いは、共通の利害だった。きっと絵空事とは思えなかったのだろう。



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# by sakanoueno-kumo | 2010-07-26 01:08 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(4)  

土佐勤王党と山内容堂 (後編)

 土佐藩の政変から京における土佐勤王党の台頭までの流れを、江戸で謹慎中の山内容堂はどんな思いで見ていたのだろうか。彼ら勤王党は、自身が信頼を厚くしていた吉田東洋を殺した憎き集団であり、しかし、「君辱かしめを受る時は臣死す」と容堂に忠誠を誓っている集団でもあった。容堂にとって土佐勤王党は、物語などで描かれるような、不快な存在でしかなかったのだろうか。

 約8年ぶりに謹慎が解かれ藩政に復活した山内容堂は、ちょうど時を同じく京で政変が起き、攘夷派が一掃されたことも相俟って、公然と土佐勤王党弾圧に乗り出した。これより勤王党は一変して衰退の道を辿ることになる。手始めは平井収二郎間崎哲馬弘瀬健太の3名が切腹。そして文久3年(1863年)9月21日、武市半平太が投獄されたことにより、土佐勤王党は壊滅する。結局、彼ら勤王党が活躍したのは、文久2年(1862年)4月8日に吉田東洋が暗殺されてから、わずか1年半足らずの間に過ぎなかった。

 武市半平太の投獄生活は1年8ヶ月にも及んだ。他の軽格党員たちは過酷な拷問を受けたが、半平太は同年1月に白札から留守居組という上士格に昇格していたため拷問は受けなかった。党員たちは厳しい拷問に耐え、吉田東洋暗殺を否認し続けた。中には拷問に屈することを恐れ、服毒自殺した者もいた。結局、東洋暗殺の罪状を立証出来ぬまま、「君主に対する不敬行為」という罪目で半平太は切腹を命ぜられ、慶応元年(1865年)5月11日、「三文字の割腹」の法という壮絶な最後を遂げる。

 ここで少し疑問に思うことがある。それは、武市半平太の投獄から切腹までになぜ1年8ヵ月もの年月を費やしたのかだ。容堂にとって半平太が、嫌悪の対象でしかなかったのであれば、すぐにでも処罰できたはずだ。東洋暗殺の罪を暴くためといっても、結局は立証できず、「君主に対する不敬行為」という曖昧な罪状で切腹に至っている。その気になれば、罪状なんてどうでも良かったはずだ。実際、平井収二郎たち3名は、投獄後間もなく処刑されているし、土佐の独眼竜・清岡道之助と、野根山23士の悲劇。の稿で紹介した清岡道之助たち23名などは、一度も取調べを受ける事もなく首を落とされている。半平太は上士格だったということが理由ならば、即刻降格させればいい。もともと彼の昇格は容堂の隠居中のことであり、容堂の認めるところではなかったのだから。もっと言えば、隠居中の身であっても藩政にまったく口を差し挟めなかったわけではなく、勤王党の台頭を阻むこともできたはずだ。しかし彼はそれをせず、彼らが江戸に下った際には逆に力になったりしている。容堂にとって半平太は、本当に不快な存在でしかなかったのだろうか。

 ここで私見を述べさせてもらうと、容堂は迷っていたのではないだろうか。「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と揶揄された山内容堂。「錦旗ひるがへるの日」と誓ったのも彼の本心で、しかし関ヶ原以来の徳川恩顧を重んじるのもまた彼の本心だった。「開国やむなし」と考え至ったのも彼の本心で、しかし「帝の御心に添いたい」と思うのもまた彼の本心だった。参政としての吉田東洋の行政能力には絶大な信頼を置いていたものの、「婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか」といった東洋の考えと容堂は違っていた。下士の分際で藩政を掌握した土佐勤王党には不快感を抱くものの、自身が出来なかった「錦旗ひるがへるの日は、列藩、親藩を問はず、その不臣はこれを討ち、王事に勤めん。」の言葉どおりに行動した勤王党に対して、半ば痛快に思えたときもあったのではないだろうか。そして「君辱かしめを受る時は臣死す」と容堂に忠誠を誓った武市半平太を、殺すに憚られる思いがあったのではないだろうか。半平太投獄から切腹までの1年8ヵ月、容堂は半平太を生かす道を模索していたのではないだろうか。

 結果的に山内容堂は「秩序」を選んだ。藩を治める立場の者の判断としては当然だったのかもしれない。しかし、このとき多くの有為な人材を失ったことによって、維新に際して土佐藩は完全に薩長の後塵を拝することになる。維新後、木戸孝允(桂小五郎)が酒席で容堂に向かって「殿はなぜ武市を斬りました?」と責めた際、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたという。明治5年(1872年)脳卒中で倒れ病床に伏した容堂は、「半平太、許せ。半平太、許せ。」と何度もうわごとを繰り返したといわれている。容堂の本心はどこにあったのか、彼自身にしかわからない。

 幕末の一時代を猛スピードで駆け抜けた土佐勤王党。彼らは新しい日本が生まれるための「陣痛」のような存在だった。「産みの苦しみ」がなければ、新しい命は生まれない。その苦しみが大きければ大きいほど、生まれてくる命は強いものとなる。彼らの存在がなければ、後の坂本龍馬中岡慎太郎の活躍もなかったかもしれない。新国家誕生の産みの苦しみ。彼ら土佐勤王党は、歴史に大きな役割を果たしたといえよう。

土佐勤王党と山内容堂 (前編)
土佐勤王党と山内容堂 (中編)


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# by sakanoueno-kumo | 2010-07-24 00:37 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

土佐勤王党と山内容堂 (中編)

 土佐勤王党の掲げる「一藩勤王」を実現するには、どうしても邪魔な存在、それが吉田東洋だった。武市半平太は何度も東洋と会見し、その重要性を説くも、東洋は一向に理解を示さない。事態は思うように好転せず、武市半平太は行き詰っていた。しかし彼らにとって有利だったのは、東洋に敵が多かったことである。まずは民衆だった。彼の推し進める改革によって藩の出費がかさみ、税が厳しくなっていた。それに商人たちは、東洋が作った専売制によって、利益の大部分を藩に吸い上げられ、恨んでいた。そして東洋は下僚には節約を命じていながら参政の職分は別格だとし、豪放な暮らしを平気で行っていた。

 官僚内にも敵が多かった。急激な藩政改革を推し進めていた東洋に対して、それを不満とする保守派グループが形成されていた。これまで世襲が決まっていた、軍学、弓術、槍、剣、居合、馬術、砲術、儒者、医者、などの家格を廃し、家筋によらず能力によってその役を任ずるといった東洋の改革によって、「芸家」の当主たちは当然失職のおそれが出てきた。必然、東洋の失脚を願う者たちが出来た。行き詰まった土佐勤王党と藩内保守派の共通の政敵。思わぬ利害の一致がそこに生じた。

 土佐勤王党と藩内保守派の、そのどちらが先に歩み寄ったのか、また、どちらが先にその計画を打ち出したのかはわからないが、彼らの共通の敵が排除された。吉田東洋暗殺である。実行犯は勤王党と考えてほぼ間違いないだろう。東洋は江戸で謹慎中の山内容堂から全面的信頼を受けている。その東洋を殺すことに、武市半平太に迷いはなかったのだろうか。そこで半平太の背中を押したのは、「錦旗ひるがへるの日」と誓った容堂のあの言葉だったのではないだろうか。容堂が東洋を信頼しているのは、その実情を知らないからだ。東洋は君側の奸なのだ。「その不臣はこれを討ち、王事に勤めん」。この言葉が、東洋暗殺の追い風になったのではないだろうか。

 東洋の死後、土佐勤王党は隆盛を極めた。元々無能が故東洋に退けられていた保守派の藩政復活によって、武市半平太は身分こそ軽格であったが実質影の首相と言ってもよかった。彼らの掲げた「一藩勤王」は、ここに実現した。そして、藩主・山内豊範を奉じて京に上った彼らは、京における尊皇攘夷運動の中心的存在となり、半平太は朝廷の直参のような扱いを受けた。幕府に対する攘夷催促と御親兵設置を要求する勅使として三条実美姉小路公知が江戸に下った際には、警固役に勤王党の者が選ばれ、半平太は姉小路の雑掌となり江戸へ随行した。その際、隠居中の山内容堂も力添えをしている。土佐一藩に留まらず、日本をも動かしつつあったこの時期は、まさに土佐勤王党最盛期だった。一方で、「暗殺集団」としての色も増していった。岡田以蔵を刺客として開国派の人物を次々と殺していったのもこの時期である。彼らはこの暗殺を「天誅」と言った。これもまた、「その不臣はこれを討ち、王事に勤めん」という容堂の言葉に後押しされたものだったのかもしれない。

土佐勤王党と山内容堂 (前編)
土佐勤王党と山内容堂 (後編)

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# by sakanoueno-kumo | 2010-07-23 00:00 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)