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いだてん~東京オリムピック噺~ 第37話「最後の晩餐」 ~嘉納治五郎の死~

 昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致に成功した日本でしたが、その開催準備に入ると、すぐさま様々な問題が浮き彫りになります。まず、最も大事なメインスタジアムの計画が、いきなり暗礁に乗り上げてしまいます。当初、メインスタジアムは神宮外苑陸上競技場12万人収容できるものに改修し、その周辺にある代々木練兵場の一部を利用して各競技場を建設する予定でしたが、陸軍がこれに難色を示し、この計画は頓挫してしまいます。その後、代替案をめぐって東京オリンピック組織委員会は迷走し、スケジュールは大幅に遅延することになります。


 また、昭和12年(1937年)7月7日に起きた盧溝橋事件に端を発し、日本と中国は交戦状態となっていました。現在ではこれを「日中戦争」と呼びますが、当時は「支那事変」と呼ばれていました。その理由は、両国ともに宣戦布告がないまま戦闘状態に突入したので、国際法上は「戦争」ではなく「事変」にあたるということだったようですが、現在では、事実上の戦争状態だったという見解から、「日中戦争」と呼ばれることがほとんどになっています。実際に宣戦布告が行われたのは、真珠湾攻撃の翌日の昭和16年(1941年)12月9日に蒋介石側から日本側に布告され、日中間が正式に戦争状態になったのは、そこからという見方もあります。まあ、呼び方はどうあれ、日中間は交戦状態にあったわけです。


そんななか、国内外から東京オリンピック返上論が叫ばれはじめます。日中戦争の長期化によって鉄材の統制が厳しくなり、スタジアムの建設に必要な鉄材が確保できず、また、働き盛りの人々が多く徴兵されているため作業員も集まらず、工事は遅れるばかり。各国のIOC委員もこれを不安視するようになり、「交戦国での開催は前例がない」と、準備の遅れを危ぶむ声が大きくなっていきます。また、ドラマにもあったように、政友会河野一郎議員が衆議院予算総会で東京オリンピック反対論を声高に演説し、さらに、陸軍大臣杉山元が議会において開催中止を進言するなど、東京オリンピック開催に否定的な空気が国内で広まっていきます。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第37話「最後の晩餐」 ~嘉納治五郎の死~_e0158128_19143177.jpg そんな状況下の昭和13年(1938年)3月、エジプトのカイロでIOC総会が開かれます。その中心議題はもちろん、東京オリンピック開催をどうするか・・・でした。開催地を他国に変更するとしても、ギリギリのリミットでした。しかし、日本を代表して会議に出席した嘉納治五郎は、あくまで東京開催を主張します。その論旨は、「オリンピックの開催は、政治的な状況などの影響を受けるべきではない」というものでした。この主張に対し、各国のIOC委員のなかで異を唱える者はなかったといいます。19日までの会議で東京オリンピック開催が再確認され、同時に札幌での冬季大会開催も決定し、20日、ラジオ演説で嘉納自身が改めてこのことを故国に伝えました。


 なぜ嘉納はそこまで東京開催に固執したのでしょう。ドラマ中、田畑政治が嘉納に対して「今の日本は、あなたが世界に見せたい日本ですか?」と諫言していましたが、嘉納ほどの人物なら、いまの日本では情勢的にも物理的にも不可能であることは理解できたはずです。「政治とスポーツは別」という理想をあくまで貫きたかったのか、あるいは、自身の晩年のすべてを費やした東京招致をここでご破算にしたくないという意地だったのか。今となってはその心中は想像するしかありませんが、ただ、このような状況下でIOC委員を説得できたのは、一にも二にも嘉納の人徳以外にはなかったでしょう。どう考えても、東京開催を支持する理由が他にないですからね。彼がIOC委員の最古参ということもあったでしょうが、よほど各国の委員から一目置かれる存在だったのでしょうね。


 かくして東京オリンピック開催中止を阻止した嘉納治五郎でしたが、彼はそれを見ることなく、その帰国途中の船上で急死してしまいます。IOC総会後、22日にカイロからアテネに入り、26日にクーベルタン男爵慰霊祭に参列したのち、ヨーロッパ各国、さらにアメリカに渡ってIOC委員たちを訪問し、礼を述べてまわったそうです。そして4月23日、カナダのバンクーバーから氷川丸に乗船して帰国の途につきますが、その船上で風邪をこじらせて急性肺炎を併発し、5月4日、帰らぬ人となりました。享年77。横浜帰着のわずか2日前のことでした。


 嘉納逝去の報は、日本のみならずアメリカでも大きく報じられ、各国から追悼文が寄せられました。幕末に生まれ、講道館柔道の創始者となり、明治、大正、昭和という激動の時代に世界を股にかけてスポーツの発展に力を尽くした嘉納。今やグローバルスタンダードとなった柔道を通して、「逆らわずして勝つ」という彼の精神は世界中に広まりました。あるいは、世界に輸出した最初のサムライスピリッツだったかもしれませんね。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-09-30 19:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その6 「千早峠」

文久3年8月17日(1863年9月29日)午前に観心寺に集まった天誅組一行は、大和国五條に向かうべく千早峠を東に進みました。

峠越えは急峻なため、千早村で三日市からの駕籠人足を返し、新たに千早村に100人の人足と駕籠10挺を徴発しようとしたそうですが、しかし、村では要求された駕籠と人数が整わず、三日市の人足18人を雇い、駕籠6挺を借りて、ようやく人足97人と駕籠を揃えて一行に差し出したといいます。

また、新たに木綿三反を購入し、菊の紋の旗を掲げました。


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当時の千早峠超えのコースとは少し違うようですが、現在、千早峠越えの街道は国道310号線となっています。

その頂上付近のトンネルの中が大阪府と奈良県の県境になっていて、そのトンネルを抜けると、奈良県五條市が一望できます。


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幕末の頃の五條は幕府の直轄地でした。

当時は「天領」と呼ばれていたはずです。

天領には殿様はおらず、幕府から代わる代わる代官が派遣されます。

代官は代官所にて政務を行いますが、幕藩体制が確立していた江戸時代においては、代官所の規模は諸藩と比べて規模が小さく警備も手薄でした。

幕末の五条代官所では、南大和7万石に対して代官1人、幕臣の手付3人、お抱えの手代10人(士分)しかいなかったといいます(他に下働きの足軽、中間はいました)。

7万石をわずか十数人の役人で統治していたわけですから、襲うのも容易なことだったでしょう。

そこに天誅組が目をつけたんですね。

そのあたりの内部事情は、五条出身の天誅組隊士だった乾十郎から、中山忠光吉村寅太郎ら幹部に筒抜けだったようです。


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標高700mを超える千早峠の頂上から見る五條の景色は、吸い込まれそうで少し足が竦みました。

中山、吉村ら天誅組の面々は、きっとこの景色を眺めて武者震いをしていたんじゃないでしょうか?

まだこのときは、孝明天皇大和行幸は行われると信じていたでしょうから。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-09-28 01:46 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その5 「観心寺」

三日市の宿場を早朝に発った天誅組一行は、河内の観心寺に立ち寄りました。

観心寺には、彼ら勤王の志士たちの精神的支柱である楠木正成首塚や、第97代天皇にして南朝第2代天皇の後村上天皇陵があります。


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山門横の大楠公騎馬像です。


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観心寺の寺伝によると、大宝元年(702年)に役小角によって開かれ、当初は雲心寺と称したとされますが、天長4年(827年)に空海がこの地を訪れ、「観心寺」の寺号を与え、その一番弟子の実恵が実質的な開祖となった寺院です。


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国宝金堂です。


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そして、こちらが正成の首塚


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天誅組一行は、この首塚前に勢ぞろいして戦勝祈願をしたといいます。

結成当初は38人だった天誅組も、ここに詣でたときには100人を超えていました。

彼らが尊敬してやまない大楠公の首塚を前に、士気は大いに高まったといいます。


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首塚前の広場を挟んで向かい側には、「天誅組讃蹟碑」があります。


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石碑の高さが260cm、幅が115cm厚さ19cm、台石の高さが45cmというどデカい石碑です。


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文章は漢文なので、わたしでは読解できません。


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観心寺では、地元の吉年米蔵という人物が握飯草鞋を100人分準備して待っていました。

米蔵は、ここで帰ろうとしましたが、中山忠光が許さず次の千早村まで同行したそうです。

また、軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流したのも、ここ観心寺でした。


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石碑と首塚の間の広場です。

100人ぐらい余裕で集えます。


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おそらく、このロケーションは天誅組の面々が目にした光景とさほど変わっていないでしょう。

ここで士気を高めた天誅組は、いよいよ大和国に向けて出発します。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-09-26 21:07 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その4 「油屋本陣蹟」

文久3年8月16日(1863年9月28日)の夜に狭山を出発した天誅組一行は、翌17日未明、高野街道の三日市宿で休息を取ります。

このとき主将の中山忠光が泊まったと伝わる旅籠・油屋の跡地には、現在、「油屋本陣天誅組史跡」と刻まれた石碑と、門構えを演出したモニュメントが設置されています。


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三日市町は大阪高野山のちょうど中間地点に位置します。

昔の旅人は1日に8里(約32km)ほど歩いたといいますが、大阪から高野山の間がおよそ16里で、その中間地点の三日市が、朝、大阪を出発して夕方頃に着く場所だったため、古くから宿場町として栄えました。


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なかでも「油屋」は、江戸時代、本業は菜種油の製造・販売を営みながら、高野詣の本陣格の旅籠として有名だったそうです。


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ここが天誅組の宿場となったのは、天誅組河内勢のリーダーで天誅組小荷駄奉行となった水郡善之祐が、油屋の主人、油屋庄兵衛と親交があったためと伝わります。

ここ油屋に中山忠光をはじめ幹部たちが泊まり、残りの浪士や人足たちは、脇陣の菊屋鍋屋などで休息をとりました。


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モニュメントの説明書きによると、このとき当主の油屋庄兵衛は、三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配などの世話をしたと伝えられているそうです。


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油屋本陣跡前の旧高野街道沿いには、いまも当時を偲ばせる古い家屋がいくつか建ち並びます。


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「三田市宿」再生しましょう・・・だそうです。


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三日市駅前には、石碑や説明板などが設置されています。


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その一角には、今年(2018年)に設置されたばかりの楠木正成像が。

石像は、当時は多聞丸という名だった少年・正成に兵学を教える大江時親の姿です。

彼ら天誅組がこのコースを選んだのは、勤王の志士たちの精神的支柱である楠木正成ゆかりの地を通って士気を高める狙いだったといいます。

夜が明けて三日市を発った一行は、楠木正成ゆかりの観心寺に向かいます。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-09-25 00:34 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第36話「前畑がんばれ」 ~伝説の名実況~

アドルフ・ヒトラー率いるナチス体制下のプロパガンダとして開催された第11回ベルリンオリンピックでしたが、日本選手団は4年前のロサンゼルス大会より多い179人。メダルも金、銀、銅あわせて4年前と同じ18個を獲得しました。そのうち11個が競泳で獲得したものでしたから、競泳王国ニッポンの面目躍如といったところだったでしょうか。その中でも、最も主役といっていいのが、競泳の前畑秀子だったでしょう。「前畑ガンバレ!ガンバレ!」の実況は、あまりにも有名ですね。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第36話「前畑がんばれ」 ~伝説の名実況~_e0158128_15562366.jpg 前畑秀子は大正3年(1914年)生まれで、このとき22歳。実家は和歌山の豆腐屋で、泳ぎは紀の川で覚えたといいます。小学校時代からその才能を発揮した彼女でしたが、当初は小学校卒業後は水泳をやめて豆腐屋を手伝うはずでした。ところが彼女の才能を惜しんだ学校長など関係者が両親を説得し、名古屋の高等女学校に編入して水泳を続けることになります。親元を離れて単身名古屋で寮生活。当時の15、6歳は今の子たちより精神年齢はずいぶん大人だったと思いますが、それでも、やはり不安だったでしょう。ところが、彼女が17歳のときに両親が相次いで病死してしまいます。そんな深い悲しみのなか、翌年にロサンゼルスオリンピックに出場したんですね。結果は0.1秒差で惜敗。銀メダルでした。このとき彼女は家庭の事情もあって引退を考えていたそうですが、祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎から、「なぜ君は金メダルを獲らなかったのか。わずか0.1秒差ではないか。たったひと掻きの差だよ。」というデリカシーのない言葉を浴びせられ、この永田市長の言葉に奮起して現役続行を決意したといいます。この話は第32話「独裁者」の稿でもふれましたね。


 そして向かえたベルリンオリンピックで、彼女は4年前に0.1秒差で金メダルを逃した200m平泳ぎに出場。地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げ、1秒差で見事勝利を収めました。このときNHKの河西三省アナウンサーの伝説の実況は、のちにレコードにもなりました。


「あと25、あと25、あと25。わずかにリード、わずかにリード。わずかにリード。前畑、前畑ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ。ゲネンゲルが出てきます。ゲネンゲルが出ています。ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ。前畑、前畑リード、前畑リード、前畑リードしております。前畑リード、前畑ガンバレ、前畑ガンバレ、前、前、リード、リード。あと5メーター、あと5メーター、あと5メーター、5メーター、5メーター、前っ、前畑リード。勝った勝った勝った、勝った勝った、勝った、前畑勝った、勝った勝った、勝った、勝った勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑の優勝です。前畑優勝です」


 実に「前畑ガンバレ!ガンバレ!」23回「勝った!勝った!前畑勝った!」12回連呼しています。実況というより、ただの応援ですね(笑)。でも、その興奮は十分に伝わってきます。実況というのは、その描写を正確に伝えるということも必要かもしれませんが、スポーツ実況の場合、その場の熱気や臨場感を伝えることがいちばんなのかもしれません。その意味では、やはりこれは後世に伝説となるほど名実況といえるのかもしれません。


 ドラマでは、「ガンバレ」の言葉に押しつぶされそうになる前畑のプレッシャーとの戦いが描かれていましたね。後世の私たちは、この「前畑ガンバレ!」の実況と、日本人初の女性金メダリストという偉業しか知りませんが、たしかに、彼女にとってレース前の「前畑ガンバレ!」は、プレッシャーでしかなかったかもしれません。この56年後のバルセロナオリンピックの同種目で金メダリストとなった岩崎恭子選手は、それほど注目されていないなかでの金メダル獲得だったので、比較的ノンプレッシャーで臨んだ結果だったといえます。その後、注目されるようになってからは、そのプレッシャーから思うような結果が出せなくなったそうです。また、過去には、長崎宏子選手や千葉すず選手など、オリンピックメダル候補として注目された選手は他にもいましたが、残念ながらオリンピックでは思うような結果が残せていません。やはり、日の丸を背負うというプレッシャーは、たいへんなものなんでしょうね。そんななか、前畑秀子は日本中の期待を一身に受け、そのプレッシャーのなかで金メダルを獲得したわけです。これは、まさに正真正銘のスーパーアスリートといえるでしょう。


 ちなみに、前畑の獲得した金メダルは、のちに空襲で焼失してしまったそうです。残念な話ですが、金メダルはそのであって、それがなくなっても、彼女が日本人初の女性金メダリストであるという事実は永遠に残り続けますからね。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-09-23 22:05 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)