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一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その1 「下城戸跡~武家屋敷跡」

福井県福井市の市街地から東南に10kmほどのところある一乗谷朝倉氏遺跡を訪れました。

ここは、文明3年(1471年)から天正元年(1573年)までの103年間、戦国大名の朝倉氏が領国支配の拠点とした場所で、一乗谷城を中心とする城下町の跡が、そのままそっくり埋もれていたものを、昭和42年(1967年)から進められた発掘調査によって、広大な遺跡が地上に出現したという貴重な遺跡です。


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一乗谷は東、西、南を山に囲まれた谷で、南北の谷幅が最も狭まった場所に城戸を設けて防御を固め、その間の長さ約1.7km「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された城下町が形成されていました。

上の写真は、その最北部の「下城戸跡」に建てられた石碑です。


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遺跡案内図です。

下部の「現在地」表記の場所が、下城戸跡です。


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下城戸跡にある幅18m、高さ5m、長さ20mの土塁跡です。

かつては長さ50mほどあったと推定されているそうです。


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土塁の横の入口部分は、枡形虎口のかたちをした門跡があります。


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積まれている石は重さ10t超の巨石ばかりで、なかには40tを超えるものもあるとか。


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下城戸跡から1.5kmほど南下したところにある駐車場に車を停めて、遺跡をめぐります。

上の写真はその案内図です。


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有料区域の遺跡です。

写真右側に見える土塀は、復元街並の区画です。


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遺跡はとにかく広大で、広大すぎるため写真では伝わりづらいですね。


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朝倉氏はかつて但馬国を拠点としていた豪族でしたが、南北朝時代に朝倉広景が足利一族の斯波高経に従って越前国に入国しました。

その後、7代当主の朝倉孝景のとき、応仁の乱での活躍をきかっけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前国を平定しました。

以後、孝景、氏景、貞景、孝景、義景5代103年間にわたって、この地が越前国の中心として栄えます。


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この103年間の繁栄はたいへんなものだったようで、雪国でありながら京や奈良の貴族や僧侶などが大勢下向し、「北陸の小京都」と呼ばれていたといいます。

ところが、天正元年(1573年)の刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き討ちにあって灰燼に帰します。


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このあたりは武家屋敷が立ち並ぶ地区だったようです。


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礎石跡が規則正しく並んでおり、かつて建物があったということが確認できます。


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井戸跡ですね。


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とにかく広大すぎて、写真で見ただけじゃただの空き地ですね(笑)。

この遺蹟の素晴らしさはドローンでもなけりゃ伝わらないですね。

「その2」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-03-14 09:49 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

日本最古の現存天守、丸岡城を訪ねて。 その3 <本丸>

「その2」丸岡城天守を制覇しましたが、本稿は天守周辺を歩いてみます。

残念ながら本丸を囲んでいた堀は埋め立てられていて、天守の建つ丘の上以外はその遺構を見ることはできません。


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本丸南側には、立派な食い違い虎口のかたちをした石垣と石段が残ります。

かつてはここに櫓門のようなものがあったのでしょう。


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その横には、木造の建物で覆われた井戸があります。

説明板によると、織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝豊がこの地に築城しますが、一向一揆の残党が攻撃を仕掛けてくることがしばしばあったそうで、しかし、その都度、この井戸より大蛇が現れ、城に「かすみ」をかけて危機から救った・・・という伝説があるそうです。

この伝説から、丸岡城を別名「霞ヶ城」と呼ぶようになった、と。

現在でも、春先などに「かすみ」に覆われた「霞ヶ城」を見ることができるそうです。

大蛇は現れないと思いますが(笑)。


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丸岡城の石垣はすべて野面積みですが、そのなかでも、大小さまざまな石が使用されている「野面乱積(みだれづみ)」という工法だそうです。


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角が鈍角に積まれた様式は「しのぎ積み」と呼ばれ、古い積み方です。


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本丸の丘の上には、古い石の祠があり、その横には「お静慰霊碑」と刻まれた比較的新しい石碑があります。

以下、説明板の文章をそのまま引用します。


伝説「人柱お静」


これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正四年(一五七六)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので人柱を入れるように進言するものがあった。

そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮しをしていた片目のお静であった。

お静は一人の子を侍に取りたててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。

それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。

しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。

お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は、“お静の涙雨”と呼び小さな墓をたて霊をなぐさめた。

「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。


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この種の人柱伝説は、各地の城に伝わっています。

それだけ多く伝わっているということは、「霊」云々は別にして、「人柱」という無慈悲な慣わしが各地で本当に行われていたことを意味しています。

実際、現在の皇居(かつての江戸城)から、大正関東大震災の際に倒壊した櫓の石垣のなかから、頭の上に古銭が1枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されて大騒ぎになったという事実もあります。

そういう時代だったといえばそれまでですが、惨い歴史ですね。


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初代城主・柴田勝豊の陣幕毛氈床几3点セットです。

毛氈はたぶん、元はだったんでしょうが、紫外線で色が飛んじゃってます。


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そして、同じ本丸公園内には、あずまやのなかに不気味な石棺が。


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これは「牛ケ島石棺」と呼ばれる古墳時代の棺で、丸岡町牛ケ島の東方にあった古墳(御野山古墳)から出土したと伝えられるものだそうです。

丸岡城とは関係ありませんが、おなじ丸岡町の史跡としてここに展示しているんでしょうね。


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丸岡城の城主は柴田勝豊のあと、柴田勝家の家臣・安井家清に代わりますが、勝家が羽柴(豊臣)秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、その家臣の青山宗勝を城主とします。

しかし、その子・青山忠元のときに関ヶ原の戦い西軍に与したため改易

越前国には徳川家康の次男・結城秀康が入封して北ノ庄城(のちの福井城)を築城し、ここ丸岡城には秀康の家臣・今村盛次2万6千石を与えられ入城しました。

ところが、その今村盛次は越前騒動に連座して失脚

幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重4万3千石で新たな城主となり、その後、福井藩より独立して丸岡藩となり、本多家は大名となります。

ところがところが、その本多家もお家騒動により4代で改易

代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城し、以後、幕末に至るまで8代続きました。


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現存天守12城のひとつに数えられる丸岡城ですが、天守以外の遺構はほとんど残っておらず、堀も埋め立てられ、公園の丘の上に天守だけがあるといった感じでした。

城好きにとっては、天守だけじゃなく縄張りの遺構に魅力を覚えますから、少々、残念な城跡って感じでしたね。

とはいえ、全国に12ヵ所しかない天守を持つ城跡ですから、今後も大切に維持管理していってほしいものです。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


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# by sakanoueno-kumo | 2019-03-13 00:28 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第10話「真夏の夜の夢」 ~大森兵蔵の病と三島弥彦の気おくれ~

ストックホルムに着いて数日が経ち、現地での生活に慣れてくると、金栗四三三島弥彦の両選手は、練習を開始しました。宿舎のホテルから練習用のサブグラウンドはそれほど遠くなく、二人は毎日歩いてそこに通ったそうです。そのときのことを、金栗はこう語っています。


 「私は三島選手の手伝いをしてから、マラソンコースを一人で練習した。初めのうちは、気温も低く、外人選手も少なく、楽な気分で走っていたが、六月下旬から暑くなり、外人選手も多くなると、これら外人選手と一緒の練習による緊張と疲れとで、誰が鞭撻してくれる人がほしいと思った」(『日本体育協会五十年史』日本体育協会編)


 日本選手団といってもわずか2人。そしてコーチもいません。本来であれば、監督の大森兵蔵がその任にあたるところだったでしょうが、大森は日本を発つ前から患っていた肺病の病状が悪化し、とても選手たちの指導にあたれる状態にありませんでした。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第10話「真夏の夜の夢」 ~大森兵蔵の病と三島弥彦の気おくれ~_e0158128_19124304.jpg 大森兵蔵は明治9年(1876年)生まれで、このとき36歳同志社、東京高等商業学校(現・一橋大学)に学び、カリフォルニアのスタンフォード大学経済学部を経て、マサチューセッツ州スプリングフィールドにある国際YMCAトレーニングスクールを卒業。在米中に結婚したアニー夫人(日本に帰化したのち、大森安仁子と改名)を連れて明治41年(1908年)に帰国し、日本に初めてバスケットボールバレーボールを紹介しました。アメリカの選手制度練習法を日本に伝えたのも彼で、競技会の創設を説いたのも彼。嘉納治五郎とともに大日本体育協会の設立にも尽力し、その専務理事にも就きました。日本初のオリンピック選手団の監督としては、うってつけの人物だったといえるでしょう。


 ただ、大森はこのときすでに肺の病に侵されていました。いまで言う肺結核ですね。なぜ、そのような身体で監督の任を引き受けたのかはわかりませんが、日本を発つ前はそれほど酷くはなかったのか、あるいはスポーツマンだけに自分の体力を過信していたのか、いずれにせよ、大森の病状は長旅の途中で悪化、シベリア鉄道での移動中に喀血し、その後は横になっている日々が続くようになります。ストックホルムに着いてからも、選手たちの練習を見るどころではなく、金栗と三島は、自分たちだけで何とかするしかありませんでした。上述した金栗の言葉にも、「誰が鞭撻してくれる人がほしいと思った」とあるように、監督を頼れずに外国人選手たちの中で気おくれしている様子が窺えます。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第10話「真夏の夜の夢」 ~大森兵蔵の病と三島弥彦の気おくれ~_e0158128_16513466.jpg 「気おくれ」という点では、金栗より三島のほうが大きかったようです。三島は当時の日本人としては長身の174cmだったそうですが、日本では周りを見下ろす環境だったでしょうが、こちらに来てみると周囲は偉丈夫だらけで、むしろ見上げるほうが多い。一緒に練習をしていても、100m走で自分より1秒以上も速い選手がずらりといる。日本ではスポーツで向かうところ敵なしのスーパーアスリートだっただけに、こちらに来て初めて経験する劣等感に打ちひしがれていたようで、「恥ずかしくて、とても練習なんかしていられない」と泣き言をいい、ノイローゼ気味だったといいます。ドラマでもそうでしたね。100mと1秒というと、10m近い差があります。あるいは、練習中に外国人選手から嘲笑されたりしたこともあったのかもしれません。オリンピックは参加することに意義があるといっても、あまりに力の差が歴然としているようでは、やはり、モチベーションは保てませんよね。『黎明の鐘』となるのも大変です。


 ちなみに、大森兵蔵・安仁子夫妻の話に戻りますが、ドラマではシャーロット・ケイト・フォックスさんが演じるチャーミングな安仁子ですが、実際には、安仁子は兵蔵より20歳年上の姉さん女房です。結婚したとき兵蔵30歳、安仁子50歳。ストックホルムに来たこのときは56歳でした。なかなかなおばさんです(笑)。でも、30歳の兵蔵が結婚したいと思ったわけですから、きっと、よほど魅力的な50歳だったのでしょうね。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-03-11 19:15 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

日本最古の現存天守、丸岡城を訪ねて。 その2 <天守・内部>

「その1」の続きです。

丸岡城天守東面の石段を上って、天守内に入ります。


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石段には手すりがないので、お年寄りや小さな子どもはひとりで上るのは危ないかもしれません。


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上から見たらこんな感じ。

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ちょっと、怖いですよね。


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天守は2重3層なので、外観は2階建に見えますが、なかは3階建になっています。

まずは1階


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1階は外周に「入側」と呼ばれる廊下で囲われています。

別名「武者走」ともいうそうで、一間(約1.8m)あります。


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その入側にある鉄砲穴の「狭間」

もっとも原始的なかたちの箱型が特徴です。

箱型なので、前にしか撃てません。

下に向けて撃たないと意味がないと思うのですが、この狭間、役に立つんでしょうか?


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こちらは、武者窓と呼ばれる格子窓で、開け閉めは棒を使って突き上げるという古いタイプの窓です。


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そして、こちらは「格子出窓」

前稿で、外側から見た写真も紹介しています。

この格子出窓は、3方への攻撃が可能であると共に、石落としの機能もあります。


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入側に囲まれた室内を「身舎(母屋)」といいます。

松岡城1階の身舎は約20坪の長方形で、構造的には4部屋の形ですが、敷居も鴨居も引き戸も入っていません。


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丸岡城天守の最も特徴的なところは、いわゆる大黒柱といえる通し柱がなく、身舎の中央を東西に走る6本の太い柱が、天守の全重量を支えています。

この6本の柱が上の太い梁を支え、その梁に2階の2本の柱が乗るかたちです。


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6本の柱のなかでも最も古いと見られるのが、この柱だそうで、天正4年(1576年)に柴田勝豊築城した当時からの柱だと考えられているそうです。


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角が削れていますが、これは、鉋ではなく手斧で削ったものだそうです。

柱の角の面取りの工法などから、その時代が想定できるそうです。


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丸岡城の階段は現存天守12城のなかで最も急で、傾斜角約65度、一段あたりの段差27cm、踏面も最小で12.5cmしかありません。

そのため、このようにロープが設置されていましが、わたしが訪れたこの日も、お年寄りが上るのを断念していました。


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2階は1階の約3分の1の12坪で、入側はありません。

中央の2本の柱は、1階の6本の柱が支える梁の上に乗っています。

東西には一階屋根の破風を利用した狭い部屋(破風部屋)があり、南北には古風な切妻屋根の出部屋があります。


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これが出部屋。


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そしてこちらが破風部屋です。

破風部屋の窓からは、屋根瓦が覗けます。


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丸岡城の屋根瓦は、全国的にも珍しい笏谷石製の石瓦が使用されています。

ここと同時進行で築かれた柴田勝家北ノ庄城も、石瓦が使用されていたとルイス・フロイスの記録に残されています。

これは、寒冷地という気候事情からくるものなんだとか。

石瓦は約6000枚あるそうで、1枚が約20~60kg、屋根全体で120トンになるそうです。


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2階から3階の階段は更に急です。

階段というより、ほとんど梯子ですね。


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3階の広さは2階と同じで、入側はありませんが、窓から360度見渡せます。


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こちらは西の眺望。

15kmほど向こうが海で、有名な東尋坊があります。


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こちらは

手前に見える小学校の校庭あたりに、かつて二の丸御殿があったそうです。


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そして

正面に見える山に、丸岡城築城前に柴田勝豊が築いたと伝わる豊原城がありました。


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最後にの眺望。

福井市の方面です。

勝豊の時代には北ノ庄城が、江戸時代には福井城が見えたのでしょうね。


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さて、天守を制覇しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-03-08 17:28 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

日本最古の現存天守、丸岡城を訪ねて。 その1 <天守・外観>

福井城跡北ノ庄城跡をめぐったあと、約10km余り北上した福井県坂井市にある丸岡城を訪れました。

ここは現存天守12城のひとつとして知られ、そのなかでも、最古の天守とされています。


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丸岡城は天正4年(1576年)に柴田勝家の甥・柴田勝豊によって築かれたと伝わります。

勝家の北ノ庄城が天正3年(1575年)の着工とされていますから、ここ丸岡城とほぼ同時進行で工事が進められたと思われます。

つまり、北ノ庄城の支城として築かれた城でした。


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こちらが、その天守です。

領主の居館としての機能をもった2重3層の初期望楼型独立式です。

同時進行で築かれた北ノ庄城は九重の巨大城だったといいますから、それに比べるとずいぶんコンパクトですね。


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天正3年(1575年)織田信長は朝倉氏滅亡後に越前国を支配していた一向一揆を平定すべく、当時、ここ丸岡の東方約4km余りの山中にあった豊原寺を攻略しました。

その恩賞として、信長は勝家に越前一国を与えて守護職とし、北ノ庄城の築城を命じます。

勝家は、その養子となっていた甥の勝豊を豊原に派遣して宮城を構えさせますが、交通の利便性などから、翌年に丸岡に移って築城を開始しました。

それが、ここ丸岡城です。


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ただ、築城時期については諸説あって、定かではではありません。

古式の形状を踏襲したフォルムと、掘立柱を用いていることにより現存最古の天守とされていますが、建築史の観点では、慶長期の特徴を多く見ることができるとして、慶長元年(1596年)以降の築造もしくは、改修による姿ではないかという説もあり、それが事実ならば、日本最古の現存天守は国宝・犬山城となります。


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現地では、「丸岡城を国宝に!」といったスローガンの看板を掲げていましたが、平成27年(2015年)に国宝指定された松江城も、その決め手となったのは築城時期を証明する御札が見つかったことでした。

丸岡城も、明確な築城時期が証明できない限り、国宝指定は難しいでしょうね。


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ちなみに、厳密にいうと、天守は昭和23年(1948年)6月28日の福井大地震で一度倒壊したそうで、現在の天守は、可能な限り元の材料を使って復元されたものだそうです。


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丸岡城は、全国的にも珍しい石瓦が使用されています。

先端には、石の鬼瓦が見えます。


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天守南側2階部分にある格子出窓です。

突き出ているので3方への攻撃ができ、また、下部への石落としの機能もあります。


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その両サイドには狭間があります。


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その上には、切妻屋根の出部屋が見えます。


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石垣はすべて野面積み

この石垣を見れば、慶長説より天正4年説を信用したくなるのですが、のちに建物を建て替えたといわれれば、そうかもしれませんね。


日本最古の現存天守、丸岡城を訪ねて。 その1 <天守・外観>_e0158128_19460706.jpg


さて、「その2」では、天守の中に入ります。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-03-07 00:45 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)