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幕末京都逍遥 その148 「伏見口の戦い激戦地跡」

「その137」 「その138」で紹介した寺田屋のすぐ西側にある京橋の傍に、「伏見口の戦い激戦地跡」と刻まれた石碑があります。


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京橋は宇治川に注ぐ川に架かる橋です。

江戸時代、京橋周辺は船着場として栄えました。

寺田屋がその船着場の旅館として幕末ににぎわっていたという話は、以前の稿でお話ししたかと思います。


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鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られる前日の慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船でここに上陸しました。

その際、会津軍の進軍を阻止すべく立ちはだかった薩摩軍小競り合いになり、やがて銃撃戦となります。

鳥羽伏見の戦いの前哨戦ですね。

その中には、「その147」で紹介した伏見奉行所から駆け付けた新選組の面々もいました。


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翌日も小競り合いは続き、そうこうしているうちに鳥羽方面から砲声が聞こえ、鳥羽・伏見の戦いが始まります。


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石碑の建つ京橋から川を見下ろします。

現在、雁木などが復元され、当時を思わせる景観が楽しめます。


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観光客を乗せた十石舟が走っています。


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戦いは薩長軍の勝利に終わり、退却する会津軍、新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けたそうです。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-12 00:48 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その147 「伏見奉行所跡」

「その146」で紹介した御香宮神社から200mほど南下したところに、かつて伏見奉行所がありました。

現在、その跡地には石碑が建てられ、往時を思わせるが演出されています。


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慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が下されると、4日後の12月13日に会津藩の命を受けた新選組は、伏見方面の治安維持の名目で伏見奉行所へ駐屯することとなります。

そして16日には、近藤勇を隊長に総勢150名が伏見奉行所に入りました。


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ところが、その2日後に近藤勇は、伏見奉行所へ帰る途中に伏見街道の墨染で狙撃され、肩を撃たれて重傷を負ってしまいます。

その後、新選組の指揮は副長の土方歳三が執ることとなります。


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年が明けた慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られると、伏見奉行所の兵は大手筋を挟んで目と鼻の先にある御香宮神社に陣を布く薩摩軍と激戦を交わします。

しかし、火力に歴然とした差があり、やがて伏見奉行所は炎上、土方率いる旧幕府軍は、撤退を余儀なくされます。

このときの戦いで、土方はもはや剣の時代が終わったことを悟ったといいます。


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維新後、伏見奉行所の跡地は陸軍の土地となり、工兵隊の基地になりました。

伏見奉行所の石碑の向かい側には、「伏見工兵第十六大隊跡」と刻まれた石碑があります。

基地は第二次世界大戦後に米軍に接収され、その後、米軍から返還されると、市営住宅が建てられ、現在は桃楼団地という団地街になっています。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-11 01:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その146 「御香宮神社(薩摩軍本営跡)」

伏見にある御香宮神社を訪れました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩の本営が置かれていた場所です。


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御香宮神社の創建の由緒は不詳ですが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録があるほど古い神社です。


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現地説明板によると、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が下されますが、その2日前の12月7日、ここ御香宮神社の表門に「徳川氏陣営」と書いた大きな木礼が掲げられました。

ところが、その翌日に薩摩藩士の吉井幸輔(のちの友実)がその札を外し、ここに部隊を置いたのが最初だそうです。


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やがて年が明けた慶応4年1月2日1868年1月26日)、徳川慶喜は大軍を率いて大阪より進軍し、その先鋒が翌3日の午後に伏見京橋に着きます。

そこで薩摩藩士との間に小ぜり合いがおこり、そうこうしていると鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに、御香宮神社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(のちの巌)の指揮により、御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対して砲撃を開始します。

敵方の陣営より少し高い位置にあったこの地は、砲撃にはもってこいの場所だったようです。


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これに対して土方歳三の率いる新選組は、砲撃の火蓋切って応戦しますが、やがて薩摩軍の放った砲弾が奉行所を炎上させ、新選組をはじめとした旧幕府軍は徹底を余儀なくされ、市街戦へと持ち込まれました。


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新選組二番組隊長である永倉新八は、島田魁、伊藤鉄五郎など10名の配下とともに重い甲冑を脱いで身軽となり、「決死隊」と称して御香宮神社の薩摩本営に向けて斬り込んできますが、戦局を変えることができぬまま圧倒的な火力の前に撤退させられています。


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本殿です。

激戦のなか、奇跡的に戦火を免れました。


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境内には、「明治維新伏見の戦跡」と刻まれた石碑があります。


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明治100年を記念して建てられたもののようで、揮毫は当時の内閣総理大臣佐藤栄作によるものだそうです。


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その横には、説明版が。


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説明板の最期には、こうあります。

「かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上、否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。」


見事な薩長史観ですね。

このような戦争賛美の文面を内閣総理大臣の名が記された看板でうたうのは、いかがなものでしょう?


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ここからは私見ですが、わたしは、鳥羽伏見の戦いを含む戊辰戦争は、する必要はなかった戦争だと思っています。

幕府はすでに政権を朝廷に返上しており、王政復古の大号令の名のもと、新時代のイニシアティブは薩長にありました。

もちろん、旧幕臣たちの不満の火種が各地で燻ってはいましたが、そのトップである徳川慶喜が恭順を示していたのだから、本来、戦をする理由はなかったのです。

ところが、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、薩長は無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

そうしてできたのちの明治政府が、この戦いを「義戦」と位置付けるんですね。

戦争に「義戦」なんてものはありません。

戦争は単なる「勢力争い」です。

戊辰戦争は、薩長の新政権が、いったんは白旗を挙げている旧政権に対して、無理やりけしかけて兵を挙げさせ、再び息を吹き返さないように息の根を止めた戦争です。

明治維新から150年が過ぎて平成も終わろうとしている今、そろそろ薩長史観から脱却せねばなりません。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-09 21:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その145 「伏見土佐藩邸跡」

前稿伏見長州藩邸跡前々稿伏見薩摩藩邸跡を見て回ったので、となれば、次は土佐藩邸跡に行かないわけにはいきません。


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土佐藩邸跡の石碑は、長州藩邸から300mほど東に建てられています。


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慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、土佐藩兵は警備についてはいましたが、前藩主山内容堂は、この戦いは薩摩・長州会津・桑名私闘と考え、戦いに参加しないように藩士たちに命じていました。

前年に薩摩藩と同盟を結んでいた土佐藩でしたが、土佐藩は薩長と少し事情が違っていました。

関ヶ原の戦いで徳川家に楯突いた島津家、毛利家と違い、山内家は関ヶ原の戦いの戦功で土佐国24万石を与えられた歴史を持つ徳川家恩顧の大名でした。

なので、容堂としては、できるだけ徳川家と敵対したくなかったんですね。


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しかし、藩大目付の板垣退助が、戦いが起こったときには薩摩藩に味方するように藩士たちに言い含めていたため、一部の兵が容堂の命令に背いて薩摩藩に加わり戦いました。

板垣はもとより武力倒幕論の持ち主で、薩長に遅れまいと水面下で動いていたんですね。

その甲斐あって、のちの明治政府では土佐藩が薩長土肥3番手の座に座ることとなります。

しかし、1、2番手と3番手の差は、あまりにも大きかったのですが。


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伏見薩摩藩邸跡の石碑には坂本龍馬の名が刻まれていましたが、こちらには石碑にも説明板にもまったくその名がありません。

寺田屋には頻繁に出入りしていた龍馬でしたが、ここ土佐藩邸には寄り付くことはほとんどなかったようです。

脱藩浪士という立場ですから、当然ですが。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-06 15:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その144 「伏見長州藩邸跡」

前稿伏見薩摩藩邸跡を紹介したので、続いて伏見長州藩邸跡を訪れないわけにはいきません。

薩摩藩邸跡より800mほど南下した寺田屋の近くに、長州屋敷がありました。


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現地説明板によると、長州藩邸がこの地に置かれたのは江戸時代中期ごろと考えられているそうです。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」の際、長州軍は嵯峨天龍寺山崎天王山、そして、ここ伏見長州藩邸の3ヶ所に陣を布き、進軍を開始しました。

嵯峨天龍寺に来島又兵衛が、山崎天王山には久坂玄瑞や久留米藩士の真木和泉が、そして、ここ伏見には家老の福原越後(元僴)が宿営していました。

変当日、福原越後率いる500の兵は、竹田街道から北上すべく進軍しましたが、途中で会津、桑名、大垣藩と遭遇して衝突。

しかし、多勢に無勢で敗走し、一度藩邸に戻ったうえで体制を整えようとするも、京橋から彦根藩の砲撃を受け、ここ伏見藩邸も焼失してしまいました。

結局、戦いは1日で決し、長州軍の大敗北で幕を閉じます。


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その後、福岡は帰国しますが、第一次長州征伐の戦後処理に際して、交渉に来た薩摩藩の西郷隆盛の要求によって、福原越後は他の二家老とともに切腹の沙汰を受けました。

享年50。


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伏見の藩邸を失った長州藩は、以後、鳥羽・伏見の戦いまで京都に足を踏み入れることができなくなります。

もっとも、水面下では他藩士に扮して多くの長州藩士が紛れ込んでいたようですけどね。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-05 01:49 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)