伏見にある御香宮神社を訪れました。
ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩の本営が置かれていた場所です。
御香宮神社の創建の由緒は不詳ですが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録があるほど古い神社です。
現地説明板によると、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が下されますが、その2日前の12月7日、ここ御香宮神社の表門に「徳川氏陣営」と書いた大きな木礼が掲げられました。
ところが、その翌日に薩摩藩士の吉井幸輔(のちの友実)がその札を外し、ここに部隊を置いたのが最初だそうです。
やがて年が明けた慶応4年1月2日1868年1月26日)、徳川慶喜は大軍を率いて大阪より進軍し、その先鋒が翌3日の午後に伏見京橋に着きます。
そこで薩摩藩士との間に小ぜり合いがおこり、そうこうしていると鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに、御香宮神社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(のちの巌)の指揮により、御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対して砲撃を開始します。
敵方の陣営より少し高い位置にあったこの地は、砲撃にはもってこいの場所だったようです。
これに対して土方歳三の率いる新選組は、砲撃の火蓋切って応戦しますが、やがて薩摩軍の放った砲弾が奉行所を炎上させ、新選組をはじめとした旧幕府軍は徹底を余儀なくされ、市街戦へと持ち込まれました。
新選組二番組隊長である永倉新八は、島田魁、伊藤鉄五郎など10名の配下とともに重い甲冑を脱いで身軽となり、「決死隊」と称して御香宮神社の薩摩本営に向けて斬り込んできますが、戦局を変えることができぬまま圧倒的な火力の前に撤退させられています。
本殿です。
激戦のなか、奇跡的に戦火を免れました。
境内には、「明治維新伏見の戦跡」と刻まれた石碑があります。
明治100年を記念して建てられたもののようで、揮毫は当時の内閣総理大臣・佐藤栄作によるものだそうです。
その横には、説明版が。
説明板の最期には、こうあります。
「かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上、否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。」
見事な薩長史観ですね。
このような戦争賛美の文面を内閣総理大臣の名が記された看板でうたうのは、いかがなものでしょう?
ここからは私見ですが、わたしは、鳥羽伏見の戦いを含む戊辰戦争は、する必要はなかった戦争だと思っています。
幕府はすでに政権を朝廷に返上しており、王政復古の大号令の名のもと、新時代のイニシアティブは薩長にありました。
もちろん、旧幕臣たちの不満の火種が各地で燻ってはいましたが、そのトップである徳川慶喜が恭順を示していたのだから、本来、戦をする理由はなかったのです。
ところが、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、薩長は無理にけしかけて戦争に持ち込みます。
しかも、偽の錦旗まで用意して。
そうしてできたのちの明治政府が、この戦いを「義戦」と位置付けるんですね。
戦争に「義戦」なんてものはありません。
戦争は単なる「勢力争い」です。
戊辰戦争は、薩長の新政権が、いったんは白旗を挙げている旧政権に対して、無理やりけしかけて兵を挙げさせ、再び息を吹き返さないように息の根を止めた戦争です。
明治維新から150年が過ぎて平成も終わろうとしている今、そろそろ薩長史観から脱却せねばなりません。
「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。
↓↓↓
幕末京都逍遥
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓