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丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>

「その1」のつづきです。

丹後国最大級の城域を誇る五箇城だけに、範囲が広い!

ようやく城域の南側にやってきました。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_18554666.jpg


主郭南の大堀切からさらにその南側の二重堀切


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_18554659.jpg


同じく二重堀切

スケールはわたしです。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_17125518.jpg


ここでもう一度、縄張り図を載せます。

引用・加筆:『京都府中世城館跡調査報告書』

発行所:京都府教育委員会


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_18572678.jpg


さらに南下したところの円形の郭


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_18590760.jpg


円形の郭から南側を見下ろすと、堀切が見えます。

縄張り図で見ると二重堀切になっているようです。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19005932.jpg


堀切に降ります。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19043895.jpg


二重堀切の1条目。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19044191.jpg


そして2条目。

やっぱ写真では伝わりづらい。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19135752.jpg


さらに南に進んで、南側エリアの入口の堀切


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19152003.jpg


南側に落ちる二重竪堀



丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19171365.jpg


Ⅹ郭東側の二重堀切

同行者さんスケール。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19191360.jpg


同じく二重堀切から落ちる竪堀を下から。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19191768.jpg


同じく二重堀切から落ちる竪堀を上から。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19212258.jpg


Ⅹ郭です。

西側が一段高くなっています。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19222732.jpg


Ⅹ郭から西側を見下ろすと、また二重堀切が。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19242053.jpg


Ⅹ郭西側二重堀切を下から。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19253001.jpg


そこから東を見ると、Ⅹ郭北側の畝状竪堀が見えます。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19273056.jpg


同じくⅩ郭北側の畝状竪堀を下から。


丹後国・五箇城。 その2 <南エリア>_e0158128_19285011.jpg


Ⅹ郭南側の横堀


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室町時代の丹後国守護職といえば一色氏ですが、実は一色氏が守護職となったのは、室町幕府が成立してから70年近く経った明徳3年(1392年)、一色満範のときからでした。

それまでは、山名氏が守護でした。


一色氏といえば、室町幕府においては侍所の所司を勤め、足利一門であることから四職の筆頭とされる名門ですが、実は幕府が成立してからしばらくは不遇の時代が続いていて、一時は没落しかけていました。


復活を遂げたのは、三代将軍足利義満が山名氏の反乱を鎮圧した明徳の乱において、一色詮範が武功を挙げ、若狭国今富名を与えられてからでした。

そして、その翌年に息子の満範が丹後国の守護に補任されます。


四職家として幕政に参与するようになったのも、詮範のときからでした。

ただ、四職の筆頭といいながら、ほかの三氏(山名氏・京極氏・赤松氏)に比べて後世に影が薄い気がするのは、わたしだけでしょうか?


実際、詮範と満範の時代が最盛期で、その後は衰退していきます。

応仁の乱では一色義直が西軍に属したため、東軍側にあった将軍足利義政によって丹後と伊勢の守護職を解かれました。


その後、丹後守護職に再任されるものの、以前のような権勢はふるえず、国衆の叛乱が相次ぎます。

丹後一色氏の家系図を見ても、丹後国守護職に任じられた初代・一色満範から6代一色義秀までは実名を明らかにすることができるものの、その後、はっきりしなくなります。

義秀は叛乱を起こした国衆に攻められて自害し、義秀には男児がいなかったことから、曖昧になってしまったようですね。

このあたりからも、影が薄いと感じる理由が見えるような気がします。


時代は下って戦国時代、丹後守護の座をめぐって若狭武田氏との抗争が絶えず、また、丹後国内では反乱や下克上が続発し、一色氏の勢力は更に衰退していきました。

天正7年(1579年)9月、織田信長の命を受けて丹後に侵攻した細川藤孝(幽斎)・忠興父子と明智光秀は、一色氏が籠城する建部山城を攻撃し、落城させます。

『一色軍記』によれば、建部山城主の一色義道は、建部山城から落ち延びて中山城に身を寄せますが、中山城主の沼田幸兵衛が細川方に内通したため、行き場を失った義道は、由良川の畔で自刃したと伝わります。]


義道の子の一色義定(義清、義有、満信、義俊とも)は、父が自害すると一色家の家督を継承し、丹後の弓木城で残党を率いて細川方に抗戦します。

立て籠もった一色義定は抗戦の甲斐なく滅亡したと伝わりますが、別の説では、細川軍は弓木城を攻め落とせずに和睦に持ち込み、義定は細川藤孝(幽斎)の娘を娶り、弓木城を居城として2万石を領したとも言われます。

しかし、本能寺の変後の山崎の戦いで明智光秀方に味方したため、天正10年(1582年)9月8日、細川忠興方の手で謀殺されたといいます。


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# by sakanoueno-kumo | 2025-02-04 20:12 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>

丹後国最大級の城域を誇る五箇城にやってきました。

五箇城は慶徳寺の西背後に聳える標高約130m(比高約80m)の山上に築かれた山城で、南北に続く尾根上に700mに及ぶ城域を誇ります。


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築城時期は定かではありませんが、『丹後国御檀家帳』には、国の御奉行である石川氏の子息、石川小太郎殿が城主と記載されているそうです。

石川氏は丹後国守護職の一色氏の被官として、丹後や伊勢で守護代を務めていた一族です。

つまり、ここの一色グループのお城ってことですね。

また、『縁城寺年代記』には「大谷、新藤五箇城討取」との記事もあるそうです。

ここでふと思い出したのは、同じ丹後の上常吉城主郭にあった「進藤山城守墓」と刻まれた石碑。

あの「進藤」=「新藤」かな?・・・と思ったり・・・。

どうでしょう?


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17125518.jpg


縄張り図

引用・加筆:『京都府中世城館跡調査報告書』

発行所:京都府教育委員会


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17143699.jpg


登り始めて10分程度で削平地に着きました。

ここは主郭東側のⅢ郭です。

本当はⅧ郭に着くつもりが、間違ってⅢ郭に来ちゃいました。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17154949.jpg


Ⅲ郭西側の切岸を登ります。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17180941.jpg


主郭一段下の腰郭

東側から北側に向かって伸びていて、Ⅱ郭に続いています。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17194436.jpg


Ⅱ郭

削平甘めの細長い曲輪です。

主郭と北側のⅤ郭の間の鞍部のような曲輪ですね。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17195764.jpg


Ⅱ郭から見上げたⅤ郭

同行者さんスケール。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17204790.jpg


Ⅴ郭上には、秋葉山大権現のお社があります。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17233922.jpg


Ⅴ郭西側のⅧ郭に降りて、その北側の堀切に降ります。

ド迫力の堀切。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17244473.jpg


堀切から落ちる竪堀を下から。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17255576.jpg


そのまま西にトラバースして、Ⅵ郭南の堀切にやってきました。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17281366.jpg


Ⅵ郭です。

Ⅵ郭も南北に細長い曲輪です。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17292676.jpg


城域北側エリアのⅥ郭とⅦ郭の間の堀切

それほど大きくはありませんが、しっかり尾根を切っています。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17303180.jpg


Ⅶ郭


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17312146.jpg


Ⅶ郭東側の畝状竪堀

写真では伝わりづらいですね。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17324167.jpg


Ⅶ郭からさらに北側伸びる尾根を進むと、城域最北端にブーメラン型に湾曲した堀切があります。

これも写真では伝わりづらいかな?


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17335780.jpg


北西の竪堀


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17344694.jpg


Ⅵ郭に戻って、西側に伸びる段郭を上から。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17372388.jpg


再びⅤ郭に戻って、南側の高~いⅡ郭の切岸を登ります。

同行者さんスケール。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17420987.jpg


Ⅰ郭に登ってきました。

ここがおそらく主郭ですね。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17431951.jpg


謎の穴があります。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17432317.jpg


主郭はこれまでの郭より幅の広い削平地で、南側が一段高くなっています。

ここに櫓があったのかもしれません。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17462751.jpg


主郭東側のⅣ郭にやってきました。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17463736.jpg


主郭東側切岸。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17473008.jpg


切岸は岩盤肌です。。


丹後国・五箇城。 その1 <北エリア>_e0158128_17503229.jpg


Ⅳ郭下の段郭


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主郭南側の大堀切から見上げた主郭切岸

大堀切は写真撮ってなかった(泣)。


城域はめちゃ広いので、まだまだ続きます。

「その2」につづきます。



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# by sakanoueno-kumo | 2025-01-30 17:54 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

丹後国・峰山陣屋跡。

前稿で攻略した吉原山城の麓に、江戸時代の峰山藩の陣屋跡があります。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に細川氏が豊前小倉へ移封となると、関ケ原の功で京極高知丹後国123000で入りました。

高知の死後、次男の高広宮津藩7万8000、三男の高三田辺藩3万5000、養子の高通峰山藩1万3000に分割されました。

高通は吉原山城を廃し、麓のこの地に陣屋を構えます。

高通は、朽木宣綱京極高吉の娘との間に生まれ、京極高知の娘を正室に迎えて高知の養子となった人物です。


丹後国・峰山陣屋跡。_e0158128_18141446.jpg


陣屋の入口。

左上に写っている巨樹は「峰山陣屋跡のエノキ」と呼ばれる推定樹齢300年の天然記念物だそうですが、ちゃんと撮ってなかった。

痛恨です。

樹齢300年というと、陣屋の歴史を見つめてきた老木ですよね。


丹後国・峰山陣屋跡。_e0158128_18184685.jpg


その説明板。

説明板だけ撮って肝心の木を撮っていなかったという不覚(汗)。


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陣屋跡の説明板。


丹後国・峰山陣屋跡。_e0158128_18155999.jpg


吉原山城の説明板もあります。

前稿で載せるべきでした。


丹後国・峰山陣屋跡。_e0158128_18224183.jpg


Ⅰ郭です。

特に何か遺構があるわけでもなく、だだっ広い跡地です。

その向こうにⅡ郭続いています。


丹後国・峰山陣屋跡。_e0158128_18234715.jpg


Ⅲ郭です。

何か石碑があります。


丹後国・峰山陣屋跡。_e0158128_18245599.jpg


城址碑かと思ってみたら、「吉村伊助君紀功碑」とあります。

吉村伊助って誰?・・・と思って調べてみたら、明治時代に丹後ちりめんで財を成し、峰山町の近代化に大きく貢献して「縮緬王」と称された人だそうです。

峰山町長衆議院議員(2期)も務めた人なんだとか。

知らねー!!!

大正15年(大正15年)時点では京都府で4番目の多額納税者だった人だそうですから、当時のアパレル王みないな人だったのかな?


丹後国・峰山陣屋跡。_e0158128_18260734.jpg


Ⅲ郭の段差。


丹後国・峰山陣屋跡。_e0158128_18264943.jpg


縄張り図

引用・加筆:『京都府中世城館跡調査報告書』

発行所:京都府教育委員会


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その後、宮津藩京極家は改易、田辺藩京極家は但馬国豊岡に転封となるなか、峰山藩京極家は高通が吉原山城の麓に陣屋を構えて以降、約250年間、初代京極高通から12京極高陳までの在所として明治維新までつづきました。


令和5年(2023年)108日攻城



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# by sakanoueno-kumo | 2025-01-25 18:30 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

丹後国・吉原山城攻城記。

今回は京丹後市峰山町吉原にある吉原山城です。

吉原山城は標高180m程の吉原山(権現山)に築かれていた山城。

丹後国守護職の一色氏に従っていた有力国人の吉原氏の居城でした。

嘉暦2年(1388年)、山名満幸に攻められて建部山城より追われた一色詮範、満範父子が築城したのが始まりとされ、満範が山名を亡ぼして建部山へ戻ってからも、奥丹後のおさえとしてこの城に支城をおき、代々血族を配して吉原左京太夫と名乗りました。


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登山口には江戸時代の峰山藩の陣屋跡もありますが、スルーしてまずは山頂の山城へ。


丹後国・吉原山城攻城記。_e0158128_22105353.jpg


登り始めて約20分。

高い切岸と大きな堀切が現れました。

ここは城域東のⅦ郭東側の切岸大堀切です。

この大堀切で、東側尾根筋を分断しているようです。


丹後国・吉原山城攻城記。_e0158128_22123559.jpg


南側から見た大堀切

同行者さんスケール。


丹後国・吉原山城攻城記。_e0158128_22124736.jpg


ここで縄張り図を載せます。

引用・加筆:『京都府中世城館跡調査報告書』

発行所:京都府教育委員会


丹後国・吉原山城攻城記。_e0158128_22143446.jpg


切岸を登ってⅦ郭の上から見下ろした大堀切

高い!


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Ⅶ郭は見ての通り、削平が甘い郭です。


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北側の郭

縄張り図には番号が振られていませんが、現地の石碑には「三ノ丸」とありました。

10m×15mほどの規模で、東西北の3方向には10m幅の腰郭があり、南側には主郭とのあいだの空堀があります。


丹後国・吉原山城攻城記。_e0158128_22160359.jpg


腰郭から見た北郭切岸


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北郭とⅠ郭の間の空堀


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Ⅰ郭に入ります。

ここが主郭ですね。


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Ⅰ郭は18m×21mの規模で、現在、権現社が祀られています。


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Ⅰ郭に建てられた石碑。

「開墾本丸址 植櫻楓樹」と刻まれています。

大正12年(1923年)とありますから、100年以上前の石碑ですね。


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北側から見たⅠ郭


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Ⅰ郭から北郭との間の空堀を見下ろします。


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Ⅴ郭


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南側のⅤ郭からⅠ郭切岸を見上げます。


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Ⅱ郭へ向かいます。


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Ⅱ郭です。

東西37m×南北52mの規模があり、この城最大の面積の郭です。

北側が一段高くなっているのがわかるでしょうか?


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城址碑かと思いきや、よく見ると連歌碑のようで、いちばん右の発句の末尾には「紹巴」とあります。

紹巴って、里村紹巴のこと?・・・と思って裏面を見ると・・・


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連歌碑裏面。

「吉原山城二の丸跡」と刻まれた下に、「里村紹巴永禄十二年登城 歌仙興行すと橋立紀行に残す脇句の宗欽は城主なり 峰山の名はこの紀行文に於て初めて出ず」とあります。

永禄12年(1569年)に一色氏の招きで里村紹巴がこの地にきたことが『天橋立紀行』のなかに記されており、そのなかで「嶺山の城にのぼりぬ」とあるのが、峰山の地名の所見だそうです。


発区は紹巴

脇句の宗欽

挙句は心前

とあります。

宗欽は城主とありますが、誰のことでしょう?

一色氏? 吉原氏?

また、挙句の心前って誰?

説明板がないのでわかりません。


丹後国・吉原山城攻城記。_e0158128_22281583.jpg


Ⅱ郭の南の高い切岸を降りてⅧ郭にきました。

Ⅷ郭は東西15m×南北33mの長方形で、南尾根に三段の段郭が続きます。


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Ⅷ郭から南側のⅨ郭を見下ろします。


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北上してⅢ郭に戻ってきました。

Ⅲ郭とⅡ郭の間の堀切


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Ⅲ郭南側の竪堀


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主郭南側のⅤ郭に戻ってきました。

「澤田父子忠烈之碑」と刻まれた大正11年(1922年)建立の石碑がありますが、澤田父子って誰?

調べてみたけどわかりませんでした。


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Ⅴ郭の南のⅩ郭


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Ⅹ郭から30mほどの鞍部を越えたところのⅪ郭

ここは善明砦とも呼ばれます。

東西20m×70mと大規模な郭で、大手道を守備する郭だと思われます。


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天正7年(1579年)、丹後に侵攻した明智光秀細川藤孝(幽斎)は、丹後守護職の一色義道中山城自害させると、吉原西雲が籠もるこの城も落城させました。

一色氏滅亡後、幽斎の次男である細川興元が入城して城を改修しましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に兄の細川忠興が豊前小倉へ移封となり、興元もこれに従ったため、吉原山城は廃城となったようです。


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令和5年(2023年)108日攻城



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# by sakanoueno-kumo | 2025-01-20 22:38 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

丹後国・下常吉城攻城記。

上常吉城から直線距離でにして300mほど北東に、下常吉城があります。

上常吉城の北郭から尾根鞍部を伝って行くことも可能だったようですが、この日は一旦下山して、改めて下常吉城麓から登るルートを選択しました。

移動は車ではなく徒歩で行ける距離です。


丹後国・下常吉城攻城記。_e0158128_11493271.jpg


西側二重堀切

ここが下常吉城のいちばんの見どころです。

圧巻の丹後クオリティ!


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二重堀切の土塁にわたしがスケールで入りました。


丹後国・下常吉城攻城記。_e0158128_11510597.jpg


ちょっと角度を変えてしつこく二重堀切。


丹後国・下常吉城攻城記。_e0158128_11515854.jpg


二重堀切の上にある土橋

西側の尾根に繋がっています。

いい感じのフォルムの土橋です。


丹後国・下常吉城攻城記。_e0158128_11545385.jpg


ここで縄張り図を載せます。

引用・加筆:『京都府中世城館跡調査報告書』

発行所:京都府教育委員会


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こちらは上常吉城との位置関係がわかる縄張り図。


丹後国・下常吉城攻城記。_e0158128_11584469.jpg


二重堀切の下に降りてきました。

下から見上げた二重堀切。


丹後国・下常吉城攻城記。_e0158128_11584921.jpg


主郭です。


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主郭から見下ろした西側堀切


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下常吉城の築城年代は詳らかではありませんが、一色氏の家臣だった石子紀伊守の居城と伝わります。

縄張り図では主郭と思われる曲輪をⅡ郭としていますが、これは、上常吉城の主郭をⅠ郭、下常吉城の主郭をⅡ郭と定義したものです。

つまり、一城別郭のような解釈のようですね。

もっとも、上常吉城の城主は進藤山城守、下常吉城の城主は石子紀伊守と伝わりますから、その説に従えは、別々の城とも考えられます。

石子紀伊守は進藤山城守と共に関ヶ原の戦い石田三成方に与し、旧主の一色氏の仇を討つべく細川氏攻めに参戦。

しかし、西軍の敗北後、行方不明となったようです。



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# by sakanoueno-kumo | 2025-01-15 13:30 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)