「その1」のつづきです。
丹後国最大級の城域を誇る五箇城だけに、範囲が広い!
ようやく城域の南側にやってきました。

主郭南の大堀切からさらにその南側の二重堀切。

同じく二重堀切。
スケールはわたしです。

ここでもう一度、縄張り図を載せます。
引用・加筆:『京都府中世城館跡調査報告書』
発行所:京都府教育委員会

さらに南下したところの円形の郭。

円形の郭から南側を見下ろすと、堀切が見えます。
縄張り図で見ると二重堀切になっているようです。

堀切に降ります。

二重堀切の1条目。

そして2条目。
やっぱ写真では伝わりづらい。

さらに南に進んで、南側エリアの入口の堀切。

南側に落ちる二重竪堀。

Ⅹ郭東側の二重堀切。
同行者さんスケール。

同じく二重堀切から落ちる竪堀を下から。

同じく二重堀切から落ちる竪堀を上から。

Ⅹ郭です。
西側が一段高くなっています。

Ⅹ郭から西側を見下ろすと、また二重堀切が。

Ⅹ郭西側二重堀切を下から。

そこから東を見ると、Ⅹ郭北側の畝状竪堀が見えます。

同じくⅩ郭北側の畝状竪堀を下から。

Ⅹ郭南側の横堀。

室町時代の丹後国守護職といえば一色氏ですが、実は一色氏が守護職となったのは、室町幕府が成立してから70年近く経った明徳3年(1392年)、一色満範のときからでした。
それまでは、山名氏が守護でした。
一色氏といえば、室町幕府においては侍所の所司を勤め、足利一門であることから四職の筆頭とされる名門ですが、実は幕府が成立してからしばらくは不遇の時代が続いていて、一時は没落しかけていました。
復活を遂げたのは、三代将軍足利義満が山名氏の反乱を鎮圧した明徳の乱において、一色詮範が武功を挙げ、若狭国今富名を与えられてからでした。
そして、その翌年に息子の満範が丹後国の守護に補任されます。
四職家として幕政に参与するようになったのも、詮範のときからでした。
ただ、四職の筆頭といいながら、ほかの三氏(山名氏・京極氏・赤松氏)に比べて後世に影が薄い気がするのは、わたしだけでしょうか?
実際、詮範と満範の時代が最盛期で、その後は衰退していきます。
応仁の乱では一色義直が西軍に属したため、東軍側にあった将軍足利義政によって丹後と伊勢の守護職を解かれました。
その後、丹後守護職に再任されるものの、以前のような権勢はふるえず、国衆の叛乱が相次ぎます。
丹後一色氏の家系図を見ても、丹後国守護職に任じられた初代・一色満範から6代一色義秀までは実名を明らかにすることができるものの、その後、はっきりしなくなります。
義秀は叛乱を起こした国衆に攻められて自害し、義秀には男児がいなかったことから、曖昧になってしまったようですね。
このあたりからも、影が薄いと感じる理由が見えるような気がします。
時代は下って戦国時代、丹後守護の座をめぐって若狭武田氏との抗争が絶えず、また、丹後国内では反乱や下克上が続発し、一色氏の勢力は更に衰退していきました。
天正7年(1579年)9月、織田信長の命を受けて丹後に侵攻した細川藤孝(幽斎)・忠興父子と明智光秀は、一色氏が籠城する建部山城を攻撃し、落城させます。
『一色軍記』によれば、建部山城主の一色義道は、建部山城から落ち延びて中山城に身を寄せますが、中山城主の沼田幸兵衛が細川方に内通したため、行き場を失った義道は、由良川の畔で自刃したと伝わります。]
義道の子の一色義定(義清、義有、満信、義俊とも)は、父が自害すると一色家の家督を継承し、丹後の弓木城で残党を率いて細川方に抗戦します。
立て籠もった一色義定は抗戦の甲斐なく滅亡したと伝わりますが、別の説では、細川軍は弓木城を攻め落とせずに和睦に持ち込み、義定は細川藤孝(幽斎)の娘を娶り、弓木城を居城として2万石を領したとも言われます。
しかし、本能寺の変後の山崎の戦いで明智光秀方に味方したため、天正10年(1582年)9月8日、細川忠興方の手で謀殺されたといいます。
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# by sakanoueno-kumo | 2025-02-04 20:12 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)



























































































