幕末京都逍遥 その32 「桂小五郎・幾松寓居跡」

前稿で紹介した大村益次郎遺址のすぐ近くに、木戸孝允とその愛人だった芸姑・幾松が住んでいたとされる場所があります。

現在は、「幾松」という名の料理旅館となっています。


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幾松は、若狭小浜藩士・木崎市兵衛の娘として生まれ、8歳で京都に出てきたのち、三本木の芸妓になりました。

木戸孝允(当時は桂小五郎)と知り合ったのは、文久元年(1861年)頃だと伝わり、以後、彼が命の危険に晒されていた最も困難な時代に彼を庇護し、必死に支えつづけた女性です。

禁門の変で長州人のほとんどが京都のまちから追われたのちも、二条大橋のあたりで乞食の姿となって隠れ潜んでいた小五郎に、幾松は足繁く握り飯を持っていったという逸話は有名ですね。


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石碑には「桂小五郎幾松寓居趾」と刻まれています。

他のほとんどの石碑は「木戸孝允」と記されていますが、ここは「桂小五郎」なんですね。

維新後、木戸孝允と名を改めた小五郎は、幾松を長州藩士・岡部富太郎の養女にした上で、正妻として迎え、名を木戸松子とします。

身分差を超えた初めての正式な婚姻だったと言われています。

幕末のシンデレラですね。


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料理旅館として現在も営業している「幾松」の建物は、国の登録有形文化財に登録されています。

館内には「幾松の部屋」があり、現在も、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井などがり当時に近い状態で保存されているそうです。

入ってみたいのですが、高そうなので入る勇気も甲斐性もありません。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-04-13 01:54 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その31 「大村益次郎遺址」

前稿で紹介した「佐久間象山・大村益次郎遭難之碑」から木屋町通を挟んでほぼ向かい側に、「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」と刻まれた石碑があります。

ここは、大村益次郎が襲撃された宿所があった場所です。


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明治2年(1869年)8月、大村益次郎は軍事施設視察建設予定地の下見のため、京都に出張していました。

そして9月4日、この地にあった旅宿の奥座敷二階において、長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われます。

一緒にいた静間と安達は即死、益次郎は重傷を負いました。

一説には、安達が「俺が大村だ!」と叫んで窓から逃げたため、刺客は安達を追い、そのおかげで益次郎はその場で死に至ることはなかったといいます。

しかし、こめかみや膝など6か所深手を負い、その状態で1階の風呂場の湯船に身をひそめていたため、右膝の傷が化膿してしまい、当初は河原町の長州藩邸で治療を受けていましたが、その後、蘭医ボードウィンの治療を受けるため大阪の病院に移ります。

しかし、膝の傷は思った以上に悪く、足を切断する必要に迫られますが、政府要人だった益次郎の足を切断するという大手術を勝手に進めることができず、勅許を東京の政府に要請しますが、その調整に手間取り、その結果、手遅れとなってしまいました。

果して10月27日に手術を受けるも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し、5日の夜に死去します。

享年46。

もともと医者だった益次郎でしたが、自身の傷は癒せませんでした。


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益次郎襲撃の実行犯は直ちに逮捕されますが、その実行犯たちを操っていた黒幕は、旧薩摩藩士でこのとき京都弾正台大忠を務めていた海江田信義だったというのが定説となっています。

幕末には有村俊斎の名で知られた人物ですね。

海江田は戊辰戦争のときに東海道先鋒総督参謀を務めていましたが、このとき益次郎とことごとく対立し、根深い遺恨を持っていたとされています。

維新後、新政府の軍部の最高位である兵部大輔となった益次郎は、旧式の封建軍隊にかわる洋式の近代兵制の創立を推し進めますが、広く国民から徴兵するという益次郎の国民皆兵論は、士族の特権を脅かすものとして、多くの元武士たちの反感を買っていました。

その不平士族たちの感情を利用して海江田が彼らを扇動し、私怨をはらしたのではないかと言われています。

というのも、実行犯6名は弾正台によって処刑が言い渡されますが、その刑の執行の直前になって、弾正台の長官である海江田によって処刑が差し止められるという事態が起こります。

当時は司法制度が確立されておらず、警察が捕まえて裁くところまで全部行っていた時代ですから、長官の一存で処刑中止もできちゃったわけで・・・。

でも、やはり怪しいですよね。

益次郎と同郷の木戸孝允は、早くから海江田を危険視しており、このときの益次郎の京都出張にも反対していたといいますが、益次郎はそんな木戸の忠告も意に介さず、出張を強行したといいます。

益次郎死去の報を受けた木戸は、「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」と日記に綴っています。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-04-12 01:44 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第13話「変わらない友」 ~篤姫の輿入れと大久保利通の熊本行き~

e0158128_20010581.jpg安政の大地震などによって先送りになっていた篤姫将軍家輿入れがようやく決定したのは安政3年(1856年)2月のことでしたが、このとき、島津斉彬の命で篤姫の嫁入り道具の調達にあたったのが、西郷吉之助(隆盛)でした。その内容は、箪笥長持、挟箱、櫛、髪飾りなど姫君の嫁入り道具全般に及び、文字通り金に糸目を付けない方針で、西郷自身が店の暖簾をくぐって店との交渉も行ったといいます。現在、残っている書状などを読むと、このときの西郷がいかに花嫁道具の調達に腐心していたかが窺えます。その苦労の甲斐あってか、自身は貧乏な家庭に育ちながら、高価な貴重品の鑑識眼を身につけることになったといいます。


 この嫁入り道具調達のエピソードと、後年の江戸城無血開城に至る嘆願書の話の2つが、西郷と篤姫の接点を史料で確認できる数少ない史実です。つまり、それ以外はすべてフィクションということになります。ところが、今回のドラマでは、その2人の関係を濃厚に描いてきていたので(前話ではラブシーンまで)、きっと、この嫁入り道具調達のエピもたっぷり尺をとって描くのかなぁと思っていたのですが、意外にもあっさり流していましたね。まあ、嫁入り道具を買い集める姿を多く描いても物語上意味がないといわれればそうなんですが、西郷と篤姫の関係をここまでフィーチャーしてきたことを思えば、この数少ない史実エピをもう少し丁寧に描いてもよかったのではないかと。


 西郷が調達した豪華絢爛な品々を携えた篤姫の長大な輿入れ行列は、先頭が江戸城内に到着しても最後尾は依然、渋谷の薩摩藩邸にいたといい、すべてが江戸城に入るのに6、7日間ほどもかかったといいますから、驚くよりほかありません。


e0158128_17375658.jpg 翌年の安政4年5月24日(1857年6月15日)、西郷は約3年4ヶ月ぶりに薩摩に帰国しました。しかし、そのわずか半年後の11月1日(12月16日)には、斉彬の命によって再び江戸に向かうことになります。このとき、同志の大久保正助(利通)が熊本まで同行したという話は史実です。物語では、その大久保の熊本行きを斉彬に進言したことで、逆に大久保の自尊心を逆撫でしてしまうという話でしたね。実際には、このときのふたりの役付けは同じなんですが、斉彬の腹心として江戸、京都と国事に奔走していた西郷に対して、大久保はまだ薩摩を一歩も出たことがなく、あるいは、ドラマのように多少の劣等感を抱いていたかもしれません。また、同格といっても、西郷が徒目付に昇進したのは同年10月1日(11月17日)で、大久保が昇進したのはその1ヶ月後の11月1日(12月16日)。まさに、熊本に向けて出発する当日のことでした。あるいは、ドラマのように西郷の口利きがあったのかもしれませんね。


 たしか10年前の大河ドラマ『篤姫』でも、似たようなシーンが描かれていました。熊本を訪れた西郷と大久保が肥後熊本藩家老の長岡監物と面会するのですが、そこで、西郷と監物との間で内密な話が始まると、西郷が大久保に座を外してほしいと頼み、その言葉に大久保は屈辱を味わうというもの。実際にこのようなことがあったかどうかはわかりませんが、ふたりが長岡監物と面会したのは史実で、このときのことを監物は他者に宛てた書簡に記しています。しかし、そこにあるのは西郷の名だけで、大久保の名はまったく出てきません。監物から見れば、まだ無名だった大久保は西郷の付き人程度にしか思えなかったのかもしれません。そういうものは態度に出るでしょうから、このとき大久保は、西郷との大きな差を実感したでしょうね。


 ただ、後年のそれが示すとおり、大久保という人は、逆境を逆境と思わない強靭な精神力と粘り強さを持った人物です。このときの屈辱は、のちの大久保利通を形成する大きなバネになったのではないでしょうか。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-04-10 17:42 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その30 「佐久間象山・大村益次郎遭難之碑」

前稿で紹介した佐久間象山寓居之跡から少し北上した木屋町御池に、「佐久間象山先生遭難之碑・大村益次郎卿遭難之碑」と刻まれた石碑があります。

ここで二人が殺されたのか・・・と思いきや、よく見ると、「北へ約壱丁」とあります。

どうやら、この石碑は道標だったようです。


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道標が示していたとおり、100mほど北上すると、高瀬川に面して二人の遭難之碑がありました。


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左が「大村益次郎卿遭難之碑」、右が「象山先生遭難之碑」です。


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前稿でも紹介しましたが、佐久間象山は、嘉永7年(1854年)、来航したペリー艦隊に乗り込んで密航を企てた門弟の吉田松陰に連座して国元の松代で蟄居生活を送っていましたが、その罪が解かれた元治元年(1864年)3月、一橋慶喜(のちの第十五代将軍・徳川慶喜)に招かれて上洛し、朝廷内に公武合体論開国論を説いてまわっていました。

しかし、当時の京都のまちは、前年の「八月十八日の政変」によって尊攘派は表立った行動ができなくなっていたとはいえ、未だ尊攘派志士たちが数多く潜伏しており、勢力の奪還をはかっていました。

そんななかを、象山は馬上洋装で都大路をさっそうと闊歩していたといいますから、その姿が尊攘派にとって格好のターゲットとなったことは想像に難しくありません。

しかも、共も連れずに移動することもしばしばだったとも。

このあたり、彼の自信過剰な性格を表しているといえるでしょうか。


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必要以上に目立ちすぎた象山は、7月11日午後5時、このあたりの路上で刺客のために非業の最期を遂げました。

享年52.

刺客は、肥後の河上彦斎、隠岐の松浦虎太郎の二人だともいわれていますが、確たる証拠はありません。

象山が殺された現場には、次のような斬奸状が残されていました。


松代藩 佐久間修理
 この者、元来西洋学を唱え、交易開港の説を主張し、枢機の方へ立入り、御国是を謝り候。大罪捨て置き難く候の処、あまつさえ奸賊の会津藩、彦根の二藩に与党し、中川宮と事を謀り、おそれ多くも九重(天皇)御動座、彦根城へ移し奉り候。儀を企て、昨今しきりにその機会窺い候。大逆無道、天地に容るべからざる国賊に付、即ち、今日三条木屋町に於い、て天誅を加え畢りぬ。但し、斬首梟木に懸くべき処、白昼其の儀も能わざる者也。
 元治元年七月二十一日  皇国忠義士


象山の死から5年後の明治2年9月4日(1869年10月8日)、この地の東側にあった旅宿の奥座敷二階において、大村益次郎が刺客の凶刃に襲われ、その傷がもとで、2か月後の11月5日に大阪の病院で歿します。

享年47。


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益次郎は周防国の医者の家に生まれ、蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高め、維新後は明治政府の兵部大輔となります。

そして旧式の封建軍隊にかわる洋式の近代兵制の創立に努めますが、そのため、不平派士族に襲われたと言われています。

象山先生のくだりで長くなっちゃったので、益次郎襲撃の話は次稿にて。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-04-08 19:40 | 幕末京都逍遥 | Trackback(1) | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その29 「佐久間象山寓居之跡」

木屋町通り三条と木屋町御池の間に、佐久間象山寓居之跡があります。

現在はビルとビルの間にある有料駐車場の入口脇に石碑が建つのみとなっています。

写真のとおり、看板と店舗の壁の間にあって、見つけるのに苦労しました。


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文化8年(1811年)、信濃国松代藩士の家に生まれた佐久間象山ですが、後世には松代藩士としてのイメージはあまり知られず、幕末きっての知識人として高名ですよね。

象山は、儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術と称し、この2つの学問の融合をはかり、早くから海防の必要性を説き、開国を論じ、公武合体を説きました。

彼の論じるところは、分裂した国論を統一し、それによって国権の伸長をはかり、五大州をわが手に収め、その盟主となって全世界に号令するという、実に気宇壮大なものでした。

そんな象山の知識を吸収しようと、全国各地の優秀な人材が彼のもとに集いました。

象山の門弟からは、吉田松陰勝海舟をはじめ、橋本左内河井継之助山本覚馬坂本龍馬など、のちの日本を担う人物が数多く輩出されています。

彼がこの時代の先覚者として、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことは紛れもない事実でしょう。


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嘉永7年(1854年)、来航したペリー艦隊に乗り込んで密航を企てた門弟の吉田松陰に連座して、象山も蟄居を命じられます。

その後、約8年間、郷里である松代での蟄居を余儀なくされますが、その罪が解かれた元治元年(1864年)3月、一橋慶喜(のちの第十五代将軍・徳川慶喜)に招かれて上洛し、朝廷内に公武合体論開国論を説いてまわります。

そのとき、この地に居を構えていたようです。

しかし、当時の京都のまちは、前年の「八月十八日の政変」によって尊攘派は表立った行動ができなくなっていたとはいえ、未だ尊攘派志士たちが数多く潜伏しており、勢力の奪還をはかっていました。

そんななかを、象山は馬上洋装で都大路をさっそうと闊歩していたといいますから、殺してくれと言わんばかりの姿ですよね。

案の定、元治元年7月11日(1864年8月12日)、このすぐ近くで肥後の攘夷志士・川上彦斎らに襲撃されて落命します。

暗殺のくだりは、また次稿にて。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-04-06 22:41 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その28 「武市瑞山・吉村寅太郎寓居之跡」

三条木屋町を高瀬川沿いに上がったところにあるビルの前に、2つの石碑が建っています。

そのひとつは「武市瑞山寓居之跡」と刻まれたもので、もうひとつは、「吉村寅太郎寓居之跡」です。


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道路沿いに建てられているのは、武市瑞山の石碑です。

横には「ちりめん洋服発祥の地」と刻まれた石碑がありますが、ここでは関係ないのでスルーしましょう。

ここに、かつて武市瑞山が住んでいた「四国屋丹虎」がありました。


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瑞山というより、武市半平太と言ったほうがよく知られているかもしれません。

坂本龍馬の遠縁にあたり、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では、龍馬の盟友として登場する人物ですね。

土佐藩の郷士ながら、お見えの権利を持つ「白札」という身分を持つ武市は、江戸での剣術修行で鏡心明智流・桃井春蔵の道場の塾頭を勤めるほどの決客でしたが、やがて勤王思想に目覚め、帰郷後は郷士、村役人らを中心とする土佐勤王党を組織し、その首魁となります。

文久2年4月8日(1862年5月6日)、公武合体路線を推進する土佐藩参政・吉田東洋暗殺すると、すかさず土佐藩の人事を尊王派で固めるクーデターを起こし、白札の身分ながら藩政を牛耳り、全藩勤王を実現。

そして満を持して京に上った武市は、この地にあった「四国屋丹虎」を政治活動の拠点にします。

丹虎には各藩の尊王派の志士が集い、武市を中心に毎夜激論を交わしたと伝わります。

武市の手足となって「天誅」と称したテロ活動を行った岡田以蔵も、ここから暗殺現場に向かったといいます。

文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」が起こると、それまで藩政から離れていた山内容堂が復帰し、にわかに状況が悪化した土佐勤王党は大弾圧を加えられます。

そして、吉田東洋殺しや京都における天誅騒ぎの嫌疑により投獄され、在獄1年半のすえ、岡田以蔵の自白によって切腹を命じられます。

享年37。

辞世

「ふたゝひと返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」


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武市の石碑から奥まったとこの植え込みのなかに、吉村寅太郎の石碑があります。

実に見つけにくい場所で、知らなければ目に留まることもない場所です。


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吉村は、はじめは武市の組織した土佐勤皇党に名を連ねていたものの、党の方針に疑問を覚えて間もなく脱藩

同じ時期に坂本龍馬も脱藩しており、龍馬の脱藩に大きな影響を与えた人物ともいわれます。

その後、文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)に連座して捕縛され、国元へ帰され投獄されますが、8ヶ月後に保釈されると、再び京都へ上って、ここ武市がいた丹虎の隣に居を構え、諸藩の志士と交わって国事に奔走します。

そして、文久3年(1863年)8月、天皇の大和行幸を受けて倒幕の兵を大和で挙げることを計画し、尊攘派公卿の中山忠光(明治天皇の叔父)を擁して天誅組を結成しました。

ところが、「八月十八日の政変」で状況が一変し、梯子を外されたかたちで孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。

吉村寅太郎、享年27。


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かれの残した辞世の句、

「吉野山風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」

は、あまりにも有名ですね。

なんという凄まじい辞世でしょうか。


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そんな武市半平太と吉村寅太郎が居を構えたこの地。

短い期間ながら、日本の政局の中心になった場所でした。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-04-05 20:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その27 「本間精一郎遭難之地」

土佐藩邸跡の石碑が立つ場所から木屋町通を挟んで真向かいのあたりに、「本間精一郎遭難之地」と刻まれた石碑があります。

文久2年閏8月20日(1862年10月13日)夜、勤王の志士・本間精一郎はここで斬られたと伝わります。


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本間精一郎は越後の商家に生まれ、江戸に出て勘定奉行・川路聖謨に仕えました。

江戸では清河八郎らと親交を結び、安政の大獄後は清川より先に京都にのぼって尊王攘夷運動に身を投じます。

どの藩にも属さなかったので自由に行動することができた本間は、尊王攘夷思想の急進派とされていました。

しかし、才知がするどく勝気な気性だったため、しばしば同志を見下した態度を見せることがあったといわれ、いつしか同志間で疎まれるようになり、同志の凶刃に倒れます。


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実行犯は土佐藩士の岡田以蔵、薩摩藩士の田中新兵衛らだったと言われます。

いずれも「人斬り以蔵」「人斬り新兵衛」と呼ばれて恐れられた剣客ですね。

他にも、平井収二郎、島村衛吉、松山深蔵、小畑孫三郎、弘瀬健太、田辺豪次郎がいたと言われますが、正確なことはわかりません。

『伊藤家文書』によると、当日、本間は料亭から酔って退出したところを数人の男に取り囲まれて両腕を押さえつけられ、刀と脇差を取り上げられながらも激しく抵抗して格闘し数名を怯ませたものの、わずかな隙にわき腹を刺され、瀕死のところにとどめをさされて斬首されたといいます。

その後、遺体は高瀬川に投げ込まれました。


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これがその高瀬川です。

もちろん、同時はこんな整備された川ではなかったでしょう。


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以蔵や新兵衛らが行った暗殺は、主に佐幕派の要人が対象で、「天誅」と称した政治テロだったのですが、この本間殺しに関しては、いわゆる同志討ちで、他の暗殺とは少し様相が違っています。

以蔵のテロ活動を陰で操っていたのは、土佐勤王党の首魁・武市半平太だったと言われますが、この本間殺しに関しては、武市は関わっていなかったかもしれません。

もっとも、別の説では、本間が幕府と通じているのではないかと疑われたことで「天誅」の裁きを受けたとも言われますが、これも定かではありません。

明治維新後、政府は尊王攘夷派として活動した本間に、従五位の官位を送っています。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-04-04 23:02 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その26 「土佐稲荷岬神社(岬神社)」

土佐藩邸跡の石碑から路地を西へ50mほど歩いたところに、岬神社という小さな神社があるのですが、ここはかつて土佐藩邸内にあった神社で、別名「土佐稲荷」と呼ばれています。


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社伝によると、創建は室町時代初期、鴨川の中州の岬に祠を建てたのが由来とされています。

その後、祠は鴨川の西岸など数度遷され、江戸時代初期、この付近に建てられた土佐藩の京屋敷内に遷されることとなったそうで、一般に「お稲荷さん」の愛称で親しまれる「倉稲魂命」を祀るため、「土佐稲荷」と呼ばれるようになったそうです。


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以降、土佐藩士のみならず、先斗町・木屋町など周辺の町衆からも「産土神(うぶすなのかみ)(地域土着の神)」として熱心な信仰を集め、わざわざ土佐藩邸内に一般人が自由にお参りするための通路を確保したほどだったそうです。

藩士たちの信仰も厚かったそうで、坂本龍馬武市半平太らも詣でたかもしれません。


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境内には、小さな坂本龍馬像が。


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土佐藩というと、どうしても龍馬になっちゃうんですよね。

でも、前稿でも紹介しましたが、龍馬は脱藩が赦されたあとも、土佐藩邸にはあまり寄り付かなかったといいます。

ここ土佐稲荷に詣でたかどうか・・・。

以前、ここに来たときには、龍馬像が何者かによって破壊されていました。

この像は、おそらく最近作り直されたものだと思われます。


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明治維新によって土佐藩邸が売却されると共に神社も移転を余儀なくされ、その後も幾多の変遷を経て、現在地に鎮座。

大正2年(1913年)には近隣の氏子たちによって現在の社殿が建立されたそうです。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-04-03 22:44 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その25 「土佐藩邸跡」

坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡の石碑から河原町通を挟んで真向かいに、土佐藩邸がありました。

現在、石碑と立て札は、河原町通りではなく木屋町通り側の高瀬川沿いに建てられています。


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この高瀬川を渡った西側、西は河原町通にいたる間、元立誠小学校あたりが土佐藩邸でした。

高瀬川に面しても門が開かれ、土佐橋が架かっていたそうです。


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その高瀬川です。


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土佐藩邸の面積は約1万㎡(約3000坪)程だったと言われています。

これだけ聞けば広大な面積に思いますが、同じく雄藩の薩摩藩邸(現・同志社大学)はその倍近い約1万9000㎡(5805坪)あったといいますから、決して広すぎたわけでもなかったようです。


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近江屋跡と土佐藩邸は、ほんと、目と鼻の先でした。

当時の河原町通りは今のように広くありませんでしたから、歩いて十数歩の距離だったんじゃないでしょうか。

なのに、なぜ龍馬や慎太郎は藩邸に寝泊まりしなかったのか、不思議でなりません。

組織に縛られるのが嫌な性分だった・・・といえばカッコイイですが、少なくとも龍馬は、前年の4月に伏見の寺田屋で捕り方に襲われて瀕死の重症を負っており、命を狙われることの恐怖を十分に味わっています。

今なお、自身の命を狙う輩が大勢いることは自覚していたでしょうから、多少窮屈でも、ここ土佐藩邸に投宿するのが最も身の安全を確保できたはずです。

なのに、なぜかあえて危険な酢屋近江屋に投宿していた。

わたしは、何か、土佐藩邸には入りたくない、入っても安全とはいえない理由があったんじゃないかと思っています。

そのあたりに、龍馬暗殺の真相が隠されているんじゃないかと。


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龍馬は脱藩の罪を文久3年(1863年)に勝海舟松平春嶽らのとりなしによって赦免されていますが、そのとき、ここ土佐藩邸で7日間の謹慎処分をくらっています。

その後、再び龍馬は脱藩しますが、暗殺される9ヵ月前の慶応3年(1867年)2月、慎太郎と共にまたもや脱藩の罪を赦されています。

郷士という低い身分の分際で脱藩という重大な罪を2度も犯しながら、2度とも赦されて復帰していた龍馬。

藩邸内では、必ずしも彼らの存在を肯定する人物ばかりではなかったであろうことは、容易に想像がつきますね。

そのあたりの事情も、ふたりが藩邸に入りたがらなかった理由のひとつだったかもしれません。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-04-02 22:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その24 「中岡慎太郎寓居跡(書林菊屋跡)」

坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡の石碑から河原町通りを挟んで斜め向かい側に、「中岡慎太郎寓居之地」と刻まれた石碑があります。

ここは、土佐藩御用達の書林菊屋(鹿野安兵衛宅)があった場所で、そこに慎太郎は身を寄せていました。

以前、ここを訪れたときは、あぶらとり紙のお店だったのですが、今回訪れたときには、人気キャラクター「ぐでたま」のショップになっていました。

見てくだい、この石碑と「ぐでたま」のミスマッチを(笑)。


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龍馬と慎太郎が近江屋で暗殺された当日、龍馬に鶏肉を買ってくるように言付けられたために難を逃れた峯吉という少年がいますが、その峯吉はここ菊屋の息子です。

その峯吉が事件発生後の第一発見者となり、その後、土佐藩の田中光顕、谷干城らが現場に駆けつけるのですが、この峯吉の証言というのが、矛盾点が多くてめいています。

何より不可思議なのは、龍馬たちの死を知った峯吉は、すぐさま裸馬に飛び乗って陸援隊屯所まで報告に行ったという点です。

陸援隊屯所は近江屋から4kmほど北にありました。

なぜ、目と鼻の先に土佐藩邸があったのに、わざわざそんな遠くまで報せに行ったのでしょう?


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龍馬暗殺の実行犯とされる今井信郎の供述では、「襲撃現場に書生がいた」との証言があり、また、同じく実行犯とされる渡辺篤の証言にも、「現場に13、4歳くらいの少年がいたが、机の下に首を突っ込んで怯えており、子供だったのでそのまま見逃した」とあります。

これらの史料から、歴史家・菊池明氏はその著書のなかで、実は峯吉は襲撃の際、現場にいたのではないか、という大胆な推理をされています。

その上で、なにか大きな秘密を知ってしまったのではないか・・・と。

現在伝わる龍馬と慎太郎の襲撃時の話は、事件発生後に現場に駆けつけた田中光顕や谷干城らが、意識のあった慎太郎から聞いた話しだと言われていますが、自らも襲われて瀕死の重症を負っていた慎太郎としては、あまりにも克明過ぎる証言をしています。

龍馬はまず初太刀で横なぎに斬られて、床の間に置いていた刀を取ろうとした際に背中を斬られ、刀を手にしてごと相手の太刀を受け止めるも、そのまま額に太刀を受け、これが致命傷となって死んだ・・と。

自分も襲われているのに、そんなに詳しく観察できるものでしょうか?

本当に慎太郎が語った話しなんでしょうかね。


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維新後、峯吉は明治10年(1877年)の西南戦争で、当時、熊本鎮台司令長官だった谷干城のはからいで、会計軍夫として従軍しています。

一介の本屋の息子が、10年後には政府軍の会計軍夫です。

なんか、匂いませんか?


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近江屋側から見た中岡慎太郎寓居跡です。

当時の河原町通りはこんなに広くなかったでしょうから、ほんと、近江屋の目と鼻の先だったわけです。

行列が出来ているのは、「ぐでたま」ショップに並んでいる人たち。

あの人たちは、ここが慎太郎の寓居跡だなんて知らないでしょうね。

あの行列の前で石碑の写真を撮るのは、結構恥ずかしかったです(笑)。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-31 20:57 | 幕末京都逍遥 | Trackback(1) | Comments(0)