幕末京都逍遥 その23 「坂本龍馬寓居之跡(酢屋)」

坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡の石碑から北へ300mほど上って東に入ったところに、「坂本龍馬寓居之趾」と刻まれた石碑があります。

ここは酢屋嘉兵衛という享保6年(1721年)から現在まで290年続く材木商で、今なお営業されています。


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慶応3年(1867)6月、龍馬は「船中八策」を発案したとされる長崎からの船旅後、ここ酢屋に身を寄せたと伝わります。

以後、同年10月まで龍馬はここを定宿とし、ここを拠点に大政奉還に向けて策を練り、政治活動に奔走しました。


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6月24日には、故郷の乙女姉に宛てた手紙のなかで、ここ酢屋に投宿している旨を伝えています。

記録では、10月にここから暗殺された近江屋に移ったとされていますが、10月13日の大政奉還が成立したとする後藤象二郎からの報せは、あるいはここ酢屋で受け取ったかもしれません。


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龍馬は、酢屋の家の人たちから「才谷さん」と呼ばれ、2階の表西側の部屋で寝泊まりしていたそうです。

当時、龍馬は2階の出格子から向かいの舟入に向けてピストルの試し撃ちをしていたというエピソードも残っています。

そんな派手なことやってるから、居場所をすぐにつきとめられるんですよね。

現在、その2階には龍馬の部屋が再現されて「ギャラリー龍馬」となっていますが、撮影禁止だったため、写真で紹介することはできません。


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龍馬はここに滞在期間、この家を海援隊京都本部とし、陸奥陽之助(宗光)長岡謙吉などの隊士たちが、ここ酢屋に投宿していました。

龍馬が暗殺された直後、陸奥らは龍馬暗殺の黒幕「いろは丸事件」で恨みを買った紀州藩だと思い込み、その仇討ちとして紀州藩士三浦休太郎を襲撃した「天満屋事件」を起こしますが、その打ち合わせが行われたもの、ここ酢屋の2階だったといいます。

維新後、陸奥はこの家を訪れるたびに、当時を偲んで感慨にむせんだと言われています。


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龍馬の死から66年経った昭和8年(1933年)8代目酢屋嘉兵衛が店改築工事を行った際に、屋根裏の梁の上から「海援隊日記」「異国船渡来日記」などが発見されました。

海援隊日記には、龍馬が暗殺された慶応3年11月15日(1867年12月9日)から慎太郎が死去した17日までの記録が記され、また、龍馬暗殺の犯人に関する情報集めに隊士たちが奔走する様子が細かく書かれており、後世の貴重な史料となっています。

このとき91歳で存命だった元陸援隊副隊長田中光顕伯爵は、この日誌を「涙痕帳」と名付けました。

田中光顕は、龍馬たちが襲撃されたとき、その現場に駆けつけて重傷の慎太郎から経緯を聞いた人です。


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2階の部屋はギャラリーとしてきれいに改装されていましたが、天井を見上げると、だけは当時のままでした。

その梁を見ながら、龍馬もこの部屋に寝転び、あの梁を見ながら新政府案を練ったのかもしれないと思い、テンションが上っちゃいました。

写真で伝えられないのが残念。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-30 00:55 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その22 「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)」

京都東山から西へ500mほど離れて、木屋町、河原町周辺にやってきました。

この辺りは京都市内一の繁華街で、史跡といえる遺構はほとんど残っていませんが、当時の歴史的事象がたくさん起きた場所でもあり、いまも随所に石碑などが残されています。

その代表的場所がここ。

坂本龍馬中岡慎太郎暗殺された近江屋跡です。


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慶応3年11月15日(1867年12月9日)、龍馬と慎太郎はここ近江屋の母屋の2階に潜んでいたところを、何者かの手によって襲撃され、龍馬はほぼ即死

慎太郎は蘇生して2日間生き延びますが、その後、容体が悪化して死去しました。

龍馬33歳、慎太郎30歳でした。


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襲撃当日の様子については、昨年の龍馬の命日の稿「坂本龍馬没後150年。」で詳細に触れていますし、また、暗殺犯の諸説についても、「坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。その1」 「その2」 「その3」 「その4」で起稿していますので、よければ一読ください。


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ここは何度も訪れていて、過去にも当ブログで何度か紹介したことがあるのですが、初めてここを訪れたときは旅行会社の事務所で、次にコンビニになり、現在は回転ずしの店になっています。


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旅行会社のときは石碑だけだったのですが、コンビニのときに後ろの説明立札が設置され、回転ずしになったときに、横の龍馬の肖像画が加わりました。

少しずつバージョンアップしているようですが、とはいえ、日本史上人気ナンバーワンの英雄の最期の地としては、寂しい限りですね。


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ここは龍馬ファンにとっては聖地のひとつであるものの、繁華街に埋もれてしまっていて、気づかずに通り過ぎて行く人がほとんどです。

わたしが写真撮影をしている姿を見て、ようやく気が付いたほかの観光客が、石碑に目をやってスマホで写真を撮っていくって感じでした。

殺された地ってだけで近江屋の建物が残っているわけでもないのですが、もうちょっと何とかならないものかと・・・。

だって、東京の大久保利通遭難の地には、でっかい石碑が建っていますし、鹿児島の西郷隆盛終焉の地なんて、史跡公園になってますからね。

これが、維新の元勲となった人物と、維新目前で命を落とした人物との格差なんですかね。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-29 07:19 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その21 「明保野亭」

観光客で賑わう東山の三年坂(産寧坂)に、「明保野亭」という会席料理店があります。

ここは、幕末は旅館を兼ねた料亭で、攘夷派の志士たちの密議の場として多く利用されていたといいます。

特に土佐系の志士たちによく利用され、坂本龍馬の京での定宿のひとつだったともいわれ、司馬遼太郎『竜馬がゆく』でも、たびたび登場する場所です。


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現在の店構えはこんな感じ。

もっとも、当時の明保野亭の場所はここよりやや東北位置にあったといわれています。


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店頭のメニュー板には、龍馬の写真が。

メニューの中には「竜馬御膳」なるものがあります。

「龍馬」とつければ、なんでも商売になるんですね。


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藍色の麻の暖簾が、京都らしい風情を醸し出しています。


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入口の前には古い井戸の跡が。

これは幕末当時からあったものでしょうか?


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せっかくなので、「竜馬御膳」を食しました。

3,500円。

まんまとお店の策略にハマってしまっています(笑)。


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ここ明保野亭は、元治元年6月10日(1864年7月13日)に起きた明保野亭事件の舞台でもあります。

明保野亭事件とは、池田屋事件残党探索を行なっていた新選組に応援として派遣された会津藩士の柴司が、ここ明保野亭に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得て踏み込み、現場にいた土佐藩士・麻田時太郎を長州系浪士と思い込んで襲撃し、負傷させた事件です。

当初は柴の行為は会津藩から正当な職務行為と認定されましたが、その後、負傷した麻田が土佐藩から士道不覚悟として切腹させられたため、土佐藩士の一部が不公平と反発して事態は紛糾、会津藩と土佐藩の衝突になりかねない事態となり、これを重く見た柴は、明保野亭事件の責任を自発的に取るかたちで自決を決意し、2日後の6月12日に、兄の介錯で切腹しました。

享年21。

これにより、会津藩と土佐藩の衝突は回避されました。

柴の葬儀には、会津藩士をはじめ新撰組隊士たちも参列して、その死を惜しんだといいます。

龍馬のメニュー看板を見てこのお店に続々と入ってくるお客さんたちは、明保野亭事件のことはきっと知らないでしょうね。

店内にも、事件を紹介する説明板などはありませんでした。

坂本龍馬は宣伝に使えても、柴司は宣伝にはならないようですね。

少し気の毒な気がしないでもないです。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-27 23:58 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第12話「運の強き姫君」 ~篤姫の輿入れ難航~

 やはり、今回も篤姫の将軍家輿入れは一橋慶喜次期将軍に推すための密使の役目という設定でしたね。第10話の稿でも述べましたが、この縁談は、島津斉彬が慶喜の将軍継嗣を実現するために仕組んだ謀だったとの説があります。病弱で言動も定かではなかったといわれる(一説には、脳性麻痺だったとも)第13代将軍・徳川家定を、篤姫が御台所としてうまく操り、また、御台所の父という立場で斉彬自身も発言力を高め、将軍継嗣問題を有利に運ぼうとしたという推論です。10年前の大河ドラマ『篤姫』でも、この説が採られていましたね。


e0158128_20010581.jpg ところが、現在ではその説はほぼ否定されています。というのも、そもそも篤姫の輿入れの案が出たのは将軍継嗣問題が生じる前のことで、それも、この縁談を持ちかけたのは島津家からではなく、幕府側からだったといいます。その理由は、将軍家の御台所に島津家から輿入れした実績が過去にもあり、しかも、その御台所が健康子沢山に恵まれたことから、これにあやかろうとしたというのが定説となっています。とすれば、幕府も大奥も、健康な正室を迎えて世継ぎの誕生を期待したということになりますから、家定が本当に子供を作ることができない人物だったのかも、疑問となりますよね。10年前の堺家定は、うつけ者を装った賢者でしたが、今回の又吉家定は、どんな設定なのか楽しみですね。


嘉永6年8月21日(1853年9月23日)に鹿児島を発って江戸藩邸入りした篤姫でしたが、およそ3年近くもの長い間、縁談は進みませんでした。理由はいくつか考えられますが、まず、篤姫が鹿児島を発ったのは黒船来航からわずか2ヶ月後のことであり、国内情勢がそれどころではなかったという背景もあったと思われます。また、過去に実績があるとはいえ、外様大名の島津家からの輿入れに異を唱える勢力も少なくはなかったでしょう。とりわけ、将軍継嗣問題で対立する紀州派は、斉彬の発言力が高まるような縁談には激しく抵抗していたに違いありません。


e0158128_21441368.jpg さらに、篤姫の出自の問題もありました。斉彬の養女になったとはいえ、元は分家の出家格が違いすぎました。ここにいちばんこだわったのは、家定の生母である本寿院だったといいます。分家の娘であるなら側室で十分だというんですね。しかし、斉彬としては、側室としての輿入れは到底受け入れられません。そこで、ここからは次週のネタバレになっちゃいますが、朝廷にはたらきかけて篤姫を右大臣・近衛忠煕養女とすることにし、近衛家からの輿入れというで、暗礁に乗り上げていた縁談がようやく整います。近衛家には斉彬の姉・郁姫が嫁いでおり、その縁で成立した養子縁組でした。


 その郁姫付きの上臈として近衛家にいたのが、幾島でした。ドラマでは、篤姫が江戸屋敷に入ったときから教育係として呼び寄せられていましたが、おそらく、幾島が篤姫付きとなったのは、この養子縁組からだったんじゃないでしょうか。このとき、すでに郁姫は亡くなっており、出家して忠煕に仕えながら郁姫の菩提を弔っていましたが、篤姫の輿入れが決まると、名を「幾島」と改めて(郁姫付きのときは「藤田」と名乗っていた)、大奥に入るまでは篤姫の教育係を、そして大奥に入ってからは御年寄として篤姫を支えていくことになるんですね。そして、西郷吉之助(隆盛)とも、少なからず関わりを持つことになります。


「私は不幸になっても構いません」

「お父上のためなら、篤は喜んで不幸になります。この命、ただ幸せになるためだけにあるのではございません」


 この健気さ。切ないですね。斉彬から真実を明かされたときの目、たまんなかったです。ここで終わってれば良かったんですけどね。そのあとの西郷とのラブシーンはいらなかったなぁ。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-26 21:47 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その20 「大西郷月照王政復古謀議舊趾碑(清閑寺)」

清水寺から山路を南へ10分ほど歩いたところに、閑静なたたずまいの清閑寺というお寺があるのですが、ここも、西郷隆盛と清水寺塔頭・成就院の住職・月照ゆかりの地と伝わる場所です。


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清水寺奥の院から山路を5分ほど歩くと、「歌の中山清閑寺」と刻まれた石碑があります。

ここからが清閑寺の参道です。

「歌の中山」というのは清閑寺の山号で、清水寺から清閑寺間の山路に由来しています。

古来この路は、花鳥風月に恵まれ、多くの文人歌人が歌を詠んだ路だそうです。


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参道の途中に高倉天皇後清閑寺陵六条天皇清閑寺陵があり、そこを過ぎると、石段の上に清閑寺の山門が見えます。


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山門です。


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清閑寺は、延暦21年(802年)に紹継が天台宗寺院として創建したのが始まりとされ、一条天皇(第66代天皇)の時代(986~1011年)に勅願寺となると、全盛期には清水寺と変わらぬほどの広大な寺域を誇ったそうですが、応仁の乱によって全て焼失、荒廃し、慶長年間に性盛が再興するも、いまは本堂だけが残る小さなお寺となっています。


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その本堂です。


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本堂の北側にある鐘楼前には、「大西郷月照王政復古謀議舊趾」と刻まれた石碑が建てられています。


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かつてこの鐘楼の裏山には「郭公亭」という茶室があり、ここで、西郷隆盛と月照がしばしば密議を交わしたと伝えられています。


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説明板によると、安政の大獄によって追われる身となった月照を都落ちさせるための計画も、ここ郭公亭で行われたと言われているそうです。


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郭公亭は平成3年(1991年)まで残っていたそうですが、荒廃著しく解体され、現在は門だけが残され、その前に「茶室 郭公亭跡」と刻まれた小さな石碑が建てられています。


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在りし日の郭公亭の写真です。


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それにしても、「大西郷月照王政復古謀議舊趾」とは、ちょっと大袈裟ですよね。

月照が生きていた頃は、まだ「王政復古」などといったスローガンは掲げられていませんでした。

尊皇攘夷運動ははじまっていましたが、「討幕」などといった発想にはまだ及んでおらず、ここで西郷と月照が密議を交わしていた内容は、将軍継嗣問題が主だったと思われます。

ふたりは一橋派に与し、親藩や外様雄藩も幕政に参画する挙国一致の新体制を目指してはいましたが、まだ、幕府の権威は盤石と思われていた時代で、「王政復古」などといった言葉が使われだすのは、まだまだ先のことでした。


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石碑の側面には、「陸軍大将男爵土屋光春書」とあります。


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反対側の側面には、「奇術元祖中村天一建之」と刻まれています。

「奇術元祖」って?

気になって調べてみたら、「日本近代奇術の祖」として明治時代に一世を風靡した初代・松旭斎天一という人物と同一人物かも?・・・との曖昧な情報しか見つかりません。。

初代・松旭斎天一って、明治のMr.マリックのような人?・・・と思いながら調べていると、どうやらもっと大掛かりな奇術だったようで、あの初代・引田天功は、この人の孫弟子にあたるそうです。

「手妻」「放下」「手品」等の総称として「奇術」という用語を定着させたのも、この初代・松旭斎天一なんだとか。

へえ~!・・・ですね。

でも、なぜそんな奇術師がこの石碑を?・・・という疑問の答えには至りませんでした。


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あと、清閑寺は『平家物語』の悲恋話で知られる高倉天皇(第80代天皇)と小督局のゆかり寺でもあるのですが、幕末シリーズとは無関係なので、また別の機会に。


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清閑寺は、境内にある「要石」から見える扇状の京都の街の風景で有名なんですが、それを知らなかったので、こんな写真しかありません。

事前に知ってたら、要石を中心に撮影したのになぁ。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-24 02:15 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その19 「忠僕茶屋(清水寺)」

前稿で紹介した「舌切茶屋」から少し西へ歩いたところに、「忠僕茶屋」という名の茶屋があります。

ここも、安政の大獄によって非業の死を遂げた月照に関係しています。


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月照が住職を務めた清水寺塔頭・成就院下男に、大槻重助という若者がいました。

重助は月照の尊王攘夷運動の手足となって働き、月照が西郷隆盛の導きで薩摩に下った際には、重助も付き従って薩摩に落ちます。

しかし、月照は薩摩の錦江湾にて入水自殺してしまうんですね。


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月照の死後、その遺品を京都に持ち帰った重助は、幕府方に捕えられ、六角牢獄につながれます。

そこで、同じく獄中にあった月照の弟・信海と再会します。

のちに信海は江戸に送られ、伝馬町牢内で病死してしまうのですが、このとき重助は、信海から後事を託されたといいます。


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重助はやがて解放され、一旦は生まれ故郷に帰ったものの、再び清水寺に戻り、境内に茶屋を営むことを許され、生涯、妻とともに月照・信海の墓を守り続けたそうです。


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重要文化財の三重塔を見上げる、こんな場所にあります。


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紅葉が美しい。


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前々稿で紹介した月照、信海、西郷隆盛の歌碑の横には、「忠僕重助碑」と刻まれた石碑があります。

この篆書の彫文字は、西郷隆盛の弟・西郷従道による揮毫だそうです。

西郷の歌碑に刻まれた漢詩は、明治7年(1874年)の月照の十七回忌のときに詠まれたものですが、当時、鹿児島にいた西郷が、この漢詩を託したのが重助だったのだとか。

「忠義」というのは、武士だけの美徳ではなかったんですね。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-23 05:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その18 「舌切茶屋(清水寺)」

清水寺の境内に、「舌切茶屋」という変わった名称の茶屋があります。

ここは、おとぎ話の「舌切り雀」に由来する茶屋・・・ではなく、幕末の安政の大獄に関係した茶屋です。


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前稿で紹介した清水寺塔頭・成就院の住職・月照は、幕府大老の井伊直弼が進めた安政の大獄によって追われる身となり、西郷隆盛とともに薩摩の錦江湾で入水自殺しますが(西郷はのち蘇生)、このとき、月照上人の友で成就院の寺侍であった近藤正慎は、西郷と月照を都落ちさせたことで幕府方に捕らえられ、京都・六角牢獄で月照の行方を問われて拷問をうけます。

しかし正慎は決して口を割らず、最後は自ら舌を噛み切り、牢獄の壁に頭を打ちつけて壮絶な最期を遂げました。

月照と正慎は幼いころからの友人だったといいます。

正慎がどれほど熱心な尊王攘夷家だったかはわかりませんが、拷問に耐えて友人を守り抜いたその生きざまは、まさしく「勤皇の志士」だったといえます。


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残された正慎の妻子を救済するために、清水寺は境内に茶屋を開くことを許しました。

この茶屋が、のちに「舌切茶屋」と名付けられたそうです。

現在もその子孫が経営されているのだとか。


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紅葉が綺麗です。


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前稿で紹介した月照、信海、西郷隆盛の歌碑の片隅には、近藤正慎の碑もあります。

ちなみに、正慎は俳優の近藤正臣さんの曽祖父にあたるそうです。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-22 00:03 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その17 「西郷隆盛・月照・信海 歌碑(清水寺・成就院)」

東山といえば、やはり世界遺産清水寺が最も有名ですが、幕末期、その清水寺塔頭・成就院の住職は、尊皇攘夷の志を持つ月照でした。

月照といえば、西郷隆盛とともに薩摩の錦江湾にて入水自殺を図った僧として、よく知られています。


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成就院は通常非公開ですが、毎年、春と秋には特別公開されます。

その庭園「月の庭」は名勝として知られ、特別公開されていた紅葉のシーズンに訪れたのですが、残念ながら撮影禁止となっており、写真は外観のみです。


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成就院の正面の池も、紅葉でいっぱいでした。


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池の前の坂道を上ると、清水寺本堂に通じます。

坂を上ったところにある北総門の前には、西郷隆盛と月照、そして月照の弟の信海歌碑があります。


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左から、信海、月照、西郷隆盛の歌碑です。


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まずは月照の歌碑。

大君の ためにはなにか お(惜)しからむ 薩摩の迫門(瀬戸)に 身は沈むとも


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月照は尊王攘夷思想に傾倒し、将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされ、安政の大獄では追われる身となります。

月照と深く親交していた西郷隆盛は、月照を匿うべく薩摩に逃れますが、藩当局がその身柄受け入れを拒んだため、安政5年11月16日(1858年12月20日)、絶望した西郷と月照は抱き合ったまま錦江湾に入水します。

その後、西郷は奇跡的に助け出され、命を落としたのは月照だけでした。

享年46。

石碑の歌は、その内容からみて、辞世の句だと思われます。


こちらは月照の弟・信海の歌碑です。

西の海 あずま(東)のそら(空)とか (変)はれども こころ(心)はおなじ 君が代のため


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時を同じくして、兄の後を継いで成就院の住職をつとめていた信海も、攘夷祈祷をおこなったとして捕縛され、江戸で獄死しました。

享年41。


西郷隆盛の歌碑は漢詩です。

たしかに、西郷に和歌というイメージはないですね。


相約投淵無後先

豈圖波上再生緣

囘頭十有餘年夢

空隔幽明哭墓前


読み下しは、

相約して淵に投ず、後先無し。

豈図(あにはか)らんや波上再生の縁。

頭(こうべ)を回らせば十有余年の夢。

空しく幽明(ゆうめい)を隔てて墓前に哭(こく)す。


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月照の十七回忌のときに作られた詩だそうです。

ひとりだけ生き残ってしまった複雑な心境が詠われています。

自殺を図るにあたって、西郷が確実に死ねるを使わずに入水を選んだ理由は、僧侶の身体に刃を向けるのが憚られたからと言われています。

主君・島津斉彬が急死したとき、殉死しようとしていた西郷を思い留まらせたのも、月照だったといいます。

それなのに、自分は月照を助けられなかった。

西郷のその後の人生において、事あるごとに自身の命を投げ出そうとする西郷の死生観は、このときの無念にはじまったとも言われています。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-21 00:54 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第11話「斉彬暗殺」 ~虎寿丸の死去と斉彬毒殺説~

 嘉永7年閏7月24日(1854年9月16日)、島津斉彬の五男・虎寿丸死去します。わずか数えの6歳でした。斉彬には計6男5女の子供がいましたが、10代まで成長したのは三女・四女・五女のみで、長男から四男までの男児はすべて3歳までに早逝しており、ただひとり、虎寿丸だけが6歳まで成長していました。それだけに、虎寿丸の死は斉彬にとって大きなショックだったに違いありません。


e0158128_20010110.jpg 虎寿丸の死については、当時の記録によると、死去する前日までは普通に手習いなどをして過ごしていたのに、突然発熱して下痢が治まらず、翌日の夜に死去したとあります。後世の目で客観的に症状を見れば、死因は当時流行していた疫痢のためだったと考えられますが、当時の斉彬周辺の者たちはそうは思わず、これは斉彬の世子誕生を望まない勢力の呪詛だと思い込みます。かつてのお由羅騒動における藩内の勢力争いは、斉彬が藩主となった今なお続いていました。当時は幼子が亡くなるということは珍しくありませんでしたが、それでも、長男から五男まですべてが相次いで亡くなるという不幸が続くと、さすがにそう思わずにはいられなかったでしょう。斉彬自身もそう思っていたかもしれません。


 そんななか、虎寿丸の死から約1週間後、今度は斉彬が病に倒れます。症状は胃痛だったとも胸痛だったともいいます。おそらく、虎寿丸の死の心労がたたったのでしょうね。たったひとりの息子が亡くなってしまったわけですから、無理もありません。このとき庭方役を務めていた西郷吉之助(隆盛)も、よほど心配だったようで、嘉永7年8月2日(1854年9月23日)付けで鹿児島にいた友人の島矢三太に送った書簡のなかで、虎寿丸の死を報告するとともに、次のように記しています。


「先々月晦日より、太守様俄に御病気、一通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様にて、至極御世話遊ばされ候儀に御座候」


e0158128_15131310.jpg 斉彬の身を案じた西郷は、「西郷どん紀行」で紹介されていたように、目黒不動尊(瀧泉寺)に参詣して斉彬の回復を祈願しました。そして、その怒りの矛先をお由羅たちに向け、同志の有村次左衛門大山格之助(綱良)とともに、お由羅一派の打倒を誓いあったといいます。このときの心境も、同書簡に記されています。


「つらつら思慮仕り候ところ、いづれなり奸女をたおし候ほか、望みなき時と伺い居り申し候。御存のとおり、身命なき下拙に御座候えば、死することは塵埃の如く、明日を頼まぬ儀に御座候間、いづれなり死の妙所を得て、天に飛揚いたし御国家の災難を除き申したき儀と、堪えかね候ところより、あい考えおり候儀に御座候。心中御察し下さるべく候。

実に紙上に向かって、この若殿様の御儀申し述べがたく、筆より先に涙にくれ、細事におよび能わず候。眼前拝み奉り候ゆえ、尚更忍び難き、只今生きてあるうちの難儀さ、却って生を怨み候胸に相成り、憤怒にこがされ申し候。恐惶謹言。」


 お由羅のことを「奸女」と呼び、命に代えてもこれを倒すほかないと、過激な発言をしています。若い頃の西郷は、後年のイメージとは違ってかなりの激情家だったことが窺えますね。それほど、虎寿丸の死と斉彬の病は、西郷にとって大きな衝撃だったのでしょう。西郷は同志とともにお由羅一派の斬奸計画を具体的に進め始めますが、その後、病が回復した斉彬にそのことが知れ、逆鱗常ならざる怒りを受けて、やむなく計画は中止するに至ったと伝えられます。このあたり、ドラマでは少しアレンジして描かれていましたが、概ね伝承にそった展開でした。


 ちなみに、ドラマでは毒殺を疑っていた西郷でしたが、当時の記録では、その疑いは確認できません。あくまで「呪詛」の疑いでした。斉彬の毒殺説が囁かれはじめるのは、斉彬の死後になってからのことです。学問的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。ドラマでは、斉彬の膳の焼魚にヒ素が混入されていたと描かれていましたが、おそらく、これも海音寺氏の著書『西郷隆盛』を参考にしたものでしょう。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 「人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。」


 この推理があたっているかどうかはわかりませんが、十分にあり得る話かもしれません。もっとも、この推理は今回の病のときではなく、この4年後、斉彬が急逝したときのことです。今回のドラマではどのように描かれるのか、楽しみにしましょう。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-19 21:31 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その16 「円山公園 坂本龍馬・中岡慎太郎像」

東山霊山から北へ300mほど上がったところにある円山公園に、坂本龍馬中岡慎太郎の像があります。

ここは桜の名所として有名な場所ですが、わたしがここを訪れたのは4月23日、新緑の季節でした。


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立ち姿で遠くを見つめる龍馬と、左手に刀を握って片膝をついている慎太郎。

これと同じ姿のミニチュア像が、「その2」で紹介した東山霊山の二人の墓所の横にもありました。

たぶん、ここ円山公園の像がオリジナルだと思います。


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碑文が刻まれた台座は高さ約3mあり、その上の龍馬像は約3.6m、座り姿の慎太郎像は約1.5mだそうです。

この像は、最初、昭和11年(1936年)に建立されたそうですが、第二次世界大戦中の金属供出によって撤去され、現在の像は、昭和37年(1962年)に再建されたものだそうです。


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でも、なぜここ円山公園に龍馬像なんでしょう?

ネット上で調べていたところ、とあるブログ(円山公園坂本龍馬・中岡慎太郎像)でその理由が説明されていたので、以下、参考にさせていただきながら紹介します。


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昭和9年(1934年)、高知出身の元海軍大臣だった吉松茂太郎が、日本海軍の祖として尊敬していた坂本龍馬と同陸援隊の中岡慎太郎の像を縁の地である京都に立てようと発起し、その場所として公的許可が下ったのが、ここ円山公園の一角だったそうです。

立ち姿の龍馬と立て膝をついた慎太郎というこの構図は、長身の龍馬と小柄な慎太郎の身長差を隠すためだったんだとか。

有名なこのポージングには、そんな配慮があったんですね。

龍馬の身長は当時としてはかなり長身の172cmほどといわれ、一方の慎太郎は当時の一般男性の平均身長だった150cm強だったとされています。

たしかに、二人とも立ち姿だと、慎太郎が小者に見えたかもしれません。


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その後、上述したように戦時中の金属供出で撤去され、現在の像は昭和37年(1962年)に高知県人会の初代会長だった川本直水氏によって私財を以って再建されたものだそうですが、戦前に建てられた像は、昭和5年(1930)年に高知県の桂浜に建てられた像と同じ彫刻師の作品だったそうですが、再建された現在の像は、別の方の作品となったため、桂浜の像とは表情が異なっているそうです。

戦前の像も見てみたかったですね。


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この2代目像は、いまも高知県人会の方々によって丹念に清掃され、管理されているとのことです。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-03-17 00:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)