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丹後国・上常吉城攻城記。

京丹後市大宮町上常吉の経典寺の裏山(標高138m)にある上常吉城を攻めます。

少し前まではあまり知られていなかったマイナー城でしたが、昨今は山城ファンの中ではかなり評判の高い城ですよね。

わたしも予てから行きたい城でした。


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登城口の切通

さすがの丹後クオリティです。

丹後の山城はあまり登らない城が多いので、老体にはありがたいですね。


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内側から見た切通


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主郭西側の堀切

真ん中にこんもりと土塁っぽいのがあって二重堀切っぽく見えるけど、どうなんだろう?


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ここで縄張り図を載せます。

引用・加筆:『京都府中世城館跡調査報告書』

発行所:京都府教育委員会


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主郭南側の段郭


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主郭です。

主郭には、「進藤山城守墓」と刻まれた石碑があります。

進藤山城守といえば、近江守護の佐々木六角氏の家老の進藤氏が思い浮びますが、あの進藤さんでしょうか?

六角さんが没落してから、進藤さんはここに来たってことかな?


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上常吉城の築城年は不明ですが、「経典寺略縁起」によれば、進藤氏は天正期に松永久秀に与して織田信長と戦って敗れるも、その後、羽柴秀吉の推挙によって、わずかに所領を得てここに居城していたと記録されるそうです。

時代は下って関ヶ原の戦いの際、進藤山城守は石田三成に呼応して細川藤孝(幽斎)攻めに参戦。

細川氏の同族である長岡興元が守備していた峰山城を攻め落としたと伝わりますが、その戦いで進藤山城守は討死したといわれます。

もっとも、一次史料にはその記録はなく、すべて伝承レベルではありますが。


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主郭東側の切岸

ブルーの服を着て立っているのがわたしです。


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主郭北側の尾根筋に降りてきました。

写真は主郭北側切岸から北尾根筋の付け根にある二重堀切

縄張り図では大したことないように思えるのですが、見てのとおり圧巻のロケーション

見た瞬間に思わず声が出ました。


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西側から見た二重堀切

わたしが立っている場所は二重堀切が交差するとこのですが、土橋のようにも見えます。

縄張り図ではぜんぜん理解できず。


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その土橋っぽいやつ。


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別の角度から。


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しつこく二重堀切を北側から。


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二重堀切から東へ進んだところの堀切


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主郭東側段郭


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主郭東側段郭の先端の大堀切を上から見下ろします。

切通道かな?

圧巻の深さです。


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堀底に降りてきました。

鋭い切岸

Vというより、Uですね。


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堀底から見上げた東側段郭の高~い切岸


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北側の郭です。

西側だけ微妙に土塁がついています。


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北郭から見下ろした堀切


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上常吉城を制覇したので、次は直線距離でにして300mほど北東にある下常吉城を攻めます。

次回につづきます。



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# by sakanoueno-kumo | 2025-01-10 22:05 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

摂津鷹尾城跡攻城記。 

今回は兵庫県芦屋市の鷹尾城です。

芦屋市といえば高級住宅地として知られていますが、その北側の標高262.1mの城山に、中世の山城跡があります。


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その高級住宅街の坂道を登ると、登山口があります。

ここから登山開始。


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登山道に落ちていた矢穴石

六甲山系には大坂城築城時の採石場が何か所もあり、ここ鷹尾山もそのひとつだったようです。

これらはその落とし物、残念石だったのかな?


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登山道には、こうして巨石が多く見られます。

やはり、採石場だったってことがわかりますね。


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城域に入りました。

南側の副郭です。


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副郭からの眺望。

高級住宅街として名高い芦屋の街を見下ろします。


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副郭の北側にある土橋堀切


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堀切は竪堀につながって落ちています。


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土橋を渡ると、見事な二重空堀が。

鷹尾城の見どころはここに尽きます。


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見てのとおり、見事な遺構です。


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ただ、通常、二重空堀や堀切は尾根を横に分断するのがセオリーだと思うのですが、ここは南北の曲輪を結ぶ尾根に沿って縦に掘られています。

これは、どういう意図なのか。


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昭和の戦時中、ここ鷹尾山には高射砲の観測塔の塹壕が掘られたとも聞きます。

あるいは、これはそのときのもの?

でも、鷹尾山山頂は実はここではなく、このもう少し北の標高271.8m地点です。

山頂の方には、城の遺構は確認できていません。

昭和の改変は山頂あたりと思いたいのですが・・・。


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二重空堀の北側にある主郭です。

現在、主郭にはNHKと地元サンテレビジョンのテレビ塔があります。


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主郭からの眺望。


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鷹尾城跡周辺に散乱する矢穴石たち。


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鷹尾城は、永正8年(1511年)に瓦林政頼により築城されたと伝わります。

当時、摂津国守護は細川高国でしたが、細川家では高国澄元との争いが起こっており、高国に従っていた政頼は、その命によって鷹尾城を築いたようです。


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ところが、築城早々に勃発した芦屋河原の合戦の中心地となり、澄元側についていた赤松義村が大軍を率いて鷹尾城を取り巻いたため、政頼は城を捨てて伊丹城へと逃げ延びました。


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その後、高国が澄元を阿波国に追いやり、赤松勢も播磨へ退いたため、鷹尾城は再び政頼の手に戻りますが、その際、平地に新たな拠点となる越水城を築き、鷹尾城は家臣の鈴木与次郎に守らせ、越水城の支城とします。


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その後の記録は残っていないため、永禄から元亀にかけての三好氏織田氏の侵攻により、越水城と共に落城、廃城となったと考えられています。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-12-24 18:51 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

光る君へ 感想

2024年の大河ドラマ『光る君へ』が終わりましたね。

昨年の『どうする家康』まで15年間、当ブログで大河の解説レビューを素人なりにやってきましたが、今年はとうとう3回ぐらいで挫折してしまいました。

知らないんですよね、紫式部のことも、この時代の歴史も。

なので、今年は無理して毎週レビューすることはやめて、純粋にドラマを観ていましたが、まあ、レビューしなくてよくなったら、気持ちが軽くなって、毎週月曜日が楽なこと(笑)。

元より一銭の得にもならないことを15年もよくやっていたなあと(笑)。


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で、最終回まで観終えた感想ですが、わたし的には面白かったです。

歴史を知らない分、粗探しをすることなく純粋に楽しめました。

一部の視聴者の方々は、これは大河ドラマではなく少女漫画だ!といって批判する声も耳にしましたが、わたしはそうは思いませんでした。

それは、まひろ道長のラブストーリーの一部だけを切り取った評価だとわたしは思います。

まひろこと紫式部のパートがファンタジーっぽくなるのは仕方がないこと。

彼女に関する史料はほとんどありませんからね。


紫式部といえば、いうまでもなく『源氏物語』の作者であり、平安時代を代表する女流作家ということは誰でも知っていますが、じゃあ、紫式部ってどんな人物って聞かれると、よく知らないという人がほとんどじゃないでしょうか。

わたしも同じです。

実は、後世に紫式部が実在したかどうかは、学術的にいえば、藤原実資の記した『小右記』という一次史料に、「藤原為時の女(むすめ)」として登場するという、その1点だけで実在性が確認できるだけの人物です。

同時代でいえば、和泉式部も、藤原道長『御堂関白記』「江式部」として登場することでその実在性が確認できますが、清少納言は、一次史料にはまったく出てこないそうで、実在したかどうかは100%確実とは言い切れないのだとか。

自身が書いたとされる『枕草子』に登場するから実在したというのは、歴史学的には通用しないそうです。

つまり、この時代の女性というのは、それほど確認しづらいってことですね。

紫式部も、実在性こそ確認できるものの、ほぼ謎の人物ってことになります。


そんな人物が主人公の物語ですから、彼女の人生がフィクションになるのは当然のこと。

『光る君へ』における紫式部はいわば狂言回しで、彼女の視点で描く平安貴族の物語だったと考えるべきでしょう。

そう思って見れば、藤原兼家の宮廷での強かな政から始まって、道隆、道兼、道長三兄弟のドロドロの骨肉の争い、道長の天下となったのちは、伊周との因縁など、非常にねちっこく描かれていて引き込まれました。

道長の出世に伴って態度が変わっていく宮廷の貴族たちも、現代のサラリーマン社会のようで面白かったですね。


また、摂関政治時代における円融天皇、花山天皇、一条天皇、三条天皇、後一条天皇という5代の天皇の立場や苦悩なども丁寧に描かれていたと思いますし、その天皇に藤原家から入内した3人の后たち(詮子、定子、彰子)が、この物語の裏主人公だったように思います。

わたしは、このあたりの歴史の経緯をまったく知らなかったので、単に、円融天皇の后が兼家の娘の詮子で、一条天皇の后が道隆の娘の定子と道長の娘の彰子三条天皇の后が道長の娘の妍子で、後一条天皇の后も道長の娘の威子という、藤原摂関家の独占状態にあった・・・という認識でしかなかったのですが、その入内にあたっても、摂関家内でドロドロした人間模様があったんですね。

「一帝二后」というのも、道長の政から生まれたものだったんですね。

まあ、ドラマ向けに脚色された部分もあったとは思いますが、道長と伊周の対立は本当の話ですから、概ね史実と見ていいのでしょう。


定子で思い出しましたが、清少納言『枕草子』は、中宮定子のために書いたという話になっていましたが、あれって事実なのかなぁ。


その清少納言についてですが、『紫式部日記』には「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人(得意顔でひどい人だった)」という有名な悪口が書かれていますから、ファーストサマーウイカさんが配役と知ったとき、もっと高慢な女性で紫式部と火花バチバチに描かれるのかなぁと思いきや、意外に仲良しの関係でしたね。

まあ、そこをフィーチャーしてしまうとフィクション性が強くなってしまうってことだったのかな。

他にも、和泉式部赤染衛門など、小倉百人一首オールスターズが勢ぞろいでしたね。

みんなキャラが個性的で面白かったです。


最後の「嵐が来る」というまひろの台詞。

ネットやSNSでは武士の世の到来を予感したものだと考察されていますが、双寿丸が言っていた東国の戦というのは、おそらく時代的に上総国で起きた平忠常の乱(長元の乱)のことでしょう。

この乱に対して朝廷は討伐軍を派遣するも3年にわたって鎮圧できず、有力武士の源頼信を起用して、ようやく平定しました。

これにより、坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、河内源氏が東国で力をつけていくことになります。

双寿丸は架空の人物ですが、ここにつなげるための伏線だったんですね。

単なる賢子の彼氏枠ではなかったんですね(笑)。


昭和51年(1976年)の『風と雲と虹と』に次いで大河ドラマ史上2番目に古い時代を描く作品となった『光る君へ』。

大河ドラマといえば戦国時代と幕末の作品が最も多く、それ以外の時代を描くと視聴率が振るわないというのがお決まりでしたが、本作はどうだったのかな?

わたしは、面白かったですけどね。

元よりNHKスポンサーに媚びる必要はないわけですから、視聴率など気にせず、いろんな時代の歴史を大河では描いていってほしいと常々思っています。

その意味では、今年の作品はたいへん意味のある意欲作だったと思いますし、来年の『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』も、天下泰平、文化隆盛の江戸時代中期を舞台にした、合戦のない大河ドラマですよね。

骨太の大河ファンにとっては、2年連続で物足りないかもしれませんが、わたしは、今年と同じくまったく知識がない時代なので、楽しみです。


ということで、来年も当ブログで解説は出来ません。

一緒に楽しみましょう。


とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-12-17 17:43 | 光る君へ | Trackback | Comments(2)

 

伊賀国・百地丹波城攻城記。 その3 <青雲寺・丸型池・式部塚>

「その2」のつづきです。

「その1」で主郭西側から見た青雲寺にやってきました。

ここも、かつては百地丹波城の郭だったところです。


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青雲寺です。


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ここで、また縄張り図を載せます。

青雲寺のある場所は郭Dとなっています。

前稿でも述べましたが、城が築かれた当初は郭C郭Dのみで、伊賀地方特有の四方土塁囲みの標準的な館城だったと思われますが、織田氏の進出に備えて城を拡張したと考えられているようです。

ってことは、ここは築城当初からあった郭ってことですね。


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青雲寺は百地氏の菩提寺で、百地氏歴代の墓があります。


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これがその百地氏歴代の墓

いちばん右の墓は、墓碑のみ近年に立て替えられた感じですが、下の台は古いですね。

他の墓は皆古いものばかりですが、この中に百地丹波の墓があるのかどうかはわかりません。

時代的に、丹波の時代は五輪塔か宝篋印塔だったと思うので、この墓石は江戸時代以降のものかな?


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青雲寺の南西にある丸型池

この池はかつての堀跡の名残と思われます。


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城跡を南に抜けるとすぐのところに、式部塚があります。


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「式部塚由来記」によると、南北朝時代、百地氏の祖・百地丹波泰光吉野朝北面の武士とし

て仕えており、その頃、式部の官にある官女と恋愛関係に陥ります。

その後、丹波は任期を終えて伊賀に帰りますが、式部も丹波を追って伊賀にやってきました。

その報せを受けた丹波は、式部を迎えに出向きますが、行き違いになってしまい、式部は丹波の留守中に、ここ丹波の城を訪れます。

美しい式部の来訪に、丹波の妻は嫉妬に狂い、家来と謀って式部を殺害し、邸内の古井戸に投げ込みました。

城に戻ってきた丹波は、式部の愛犬の白犬が邸内にいることを不審に思い、白犬の案内で、式部が井戸に落ちて死んでいるのを発見しました。

丹波は、この井戸を埋め、塚としてその塚の上に樒(しきみ)を植えて菩提を弔いました。

ほどなく丹波は嫡子の中務大輔に家を譲り、自身は出家して高野山に登り、生涯を終えたといいます。


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これが、その塚。


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石碑には「南都女官式部之塚」とあります。


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その横には、たくさんのハサミが供えられています。

いつの頃からか、式部塚にハサミを供えると夫や恋人の悪縁が切れるという、言い伝えができたそうで、今も、人知れず悪縁を断ち切るためにお参りしている人がいて、こうして使い古したようなハサミや剃刀が置かれています。

ってことは、これ全部、夫や恋人と別れたいと思っている女性の怨念が籠っているハサミってことですよね。

なんか、こわっ!

このなかに、わたしの妻が置いたハサミがないことを祈るばかりです。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-12-15 21:37 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

伊賀国・百地丹波城攻城記。 その2 <堀切と郭B・A>

「その1」のつづきです。

百地丹波城主郭である郭Cから、東の郭Bに向かいます。


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写真は主郭の北東虎口

高い土塁をぶち抜いた美しいV型の切通虎口です。


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ここでもう一度、「その1」で見た縄張り図を載せます。


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主郭の郭Cと東の郭Bの間の堀切に降ります。

ここも美しい堀切


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反対(北側)から見た堀切


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堀切を北へ進むと、主郭の北側に向かって落ちる竪堀に繋がっています。


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竪堀を降りて下から。


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さっきの堀切の北側に戻って、今度は郭B側に進みます。


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郭Bの北側は横堀があります。


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東へ進むと藪が深くて、これ以上進めない。


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郭Bに上がってきました。

郭Bは東西55m、南北43の大きさで、土塁がなく削平地のみの曲輪です。

百地丹波によって城が築かれた当初は、主郭青雲寺のある郭Dのみで、伊賀地方特有の四方土塁囲みの標準的な館城だったと思われますが、織田氏の進出に備えて城を拡張したと考えられているようです。

ここ郭Bは、兵の溜まり場だったのかもしれませんね。


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天正9年(1581年)、織田信雄軍に抵抗して柏原城に籠城した伊賀衆の中に喰代の百地丹波の名が見られ、弓矢を取って勇戦したという記述があります。


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郭Bから見下ろした主郭との間の堀切


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土塁に切れ目がありますが、堀切の間に切通を設けるのはおかしいので、あれは後世の破壊道だと思われます。


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郭Bの東側の切岸

あの向こうに、郭Aがあります。


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郭Aに向かいます。


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このあたりが郭Aだと思うのですが・・・。

削平も甘くで、自然地形といった感じでした。

縄張り図にあるようなはっきりした曲輪ではなかったですね。


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一応、縄張り図にある土塁というか土壇のような場所はありました。


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さて、郭Aまで見たところで、「その3」につづきます。


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# by sakanoueno-kumo | 2024-12-12 19:01 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)