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伊賀国・百地丹波城攻城記。 その1 <主郭>

今回は三重県伊賀市の百地丹波城です。

百地砦とか百地城などとも呼ばれますが、戦国時代、藤林氏服部氏と並んで伊賀上忍三家と称された百地氏によって築かれた城と言われています。


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城や城主に関する資料は少なく、『三国地志』には百地丹波堡とあることから、百地丹波が城主だったと考えられています。

百地丹波伊賀忍者の祖と上忍とも言われる人物ですが、その人物は謎に包まれています。


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主郭に入る虎口です。

食い違ったり曲がったりしていない平虎口ですが、両側の土塁は高い!


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虎口両側の土塁です。


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上から見た虎口


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虎口を入った曲輪です。


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石碑と看板があります。


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石碑です。

「伊賀流上忍百地丹波守城址」と刻まれています。

昭和33年建立のようです。


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説明板。


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説明板内に載っていた縄張り図

東西約250m、南北約60の規模で、縄張りの構造は、丘陵尾根を削平して造った4つの郭(A~D)を連ねて配置しています。

その中で、ここ郭C70m×約40と最も大きく、三方を土塁で囲い、南側に空堀、東側に堀切を設けていることから、ここが主郭と考えていいのでしょう。


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主郭を囲う土塁が高い!

さすが伊賀の城です。


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百地氏の祖は百地丹波泰光と伝わります。

伊賀国では丹波の代に天正伊賀の乱があり、『伊乱記』によると、天正7年(1579年)9月の布引鬼瘤峠の戦いには、喰代村から百地丹波やその一党が、織田信雄勢を迎え撃つ伊賀土豪の一人として活躍したと記されています。


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主郭西側の土塁上に上がって西側を見下ろすと、青雲寺があります。

ここもかつてはだったようで、縄張り図でいう郭Dの場所です。

青雲寺は百地氏の菩提寺で、百地氏歴代の墓があります。

あとで行ってみます。


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他にも主郭にはいろいろ看板が設置されていました。


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さて、主郭をひととり見たので、「その2」につづきます。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-12-10 19:13 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

神戸城跡逍遥記。 

今回は三重県鈴鹿市の神戸城です。

神戸城はその名のとおり、中世においては神戸氏の居城で、江戸時代には神戸藩の藩庁が置かれました。

現在、城跡は公園として整備され、本丸の石垣および堀の一部が残っています。


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お決まりの城址碑

向こうに見えるのが、天守台跡の石垣です。


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説明看板。


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説明看板内に載っていた往時の縄張り図です。


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天守台です。

ここに五重天守が築かれたといいますが、詳細は不明です。


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天守台をいろんな角度から。


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神戸氏は、桓武平氏の流れをくむ関氏の子孫で、伊勢河曲郡神戸郷を領した豪族です。

南北朝時代の正平22年/貞治6年(1367年)、関盛政が所領を5人の子に分割し、長男の盛澄が神戸郷を相続して神戸氏を名乗りました。

神戸氏は本家の関氏とともに伊勢国司の北畠氏に臣従していましたが、3代神戸為盛北畠材親の子を養子に迎え、4代具盛(楽三)として家督を継がせると、北伊勢を中心に本家と並ぶ勢力となりました。


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具盛は天文年間(153255年)に神戸城を築城し、本拠をそれまでの沢城から移したとされています。

また、築城時期については、具盛の孫の6代利盛が弘治年間(155558年)に築いたという説もあります。


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その後、利盛の弟で祖父と同名の7代具盛(友盛)の時代になると、北畠氏の勢力は衰え、神戸氏は地理的に近い近江の六角氏に接近しました。

具盛は六角氏の家臣で近江日野城の蒲生定秀の娘と結婚し、関氏とともに六角氏に臣従するようになります。


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出隅は算木積みになっていますね。


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織田信長の三男・信孝は、母が関氏庶流の出自とされ、神戸氏とは遠縁にあたる血筋でした。

永禄10年(1567年)、信長は伊勢侵攻を開始し、翌永禄11年(1568年)、具盛は信孝を養子として受け入れることで和睦します。


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信長は元亀2年(1571年)に具盛を隠居させ、翌年に信孝を神戸城主としました。

信孝は神戸検地と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座、傳馬制を敷くなど領地経営に力を注ぎ、伊勢参宮街道の宿場として神戸は大いに栄えたといいます。

さらに信孝は、天正8年(1580年)から神戸城の大改修に着手し、五重天守を築いて高石垣と金箔瓦をもつ城郭として完成させました。


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天正10年(1582年)の本能寺の変後の清須会議で信孝は岐阜城に移ることとなり、神戸城には小島正次が入りますが、翌年の賤ヶ岳の戦いで信孝は柴田勝家方につき、敗れたのち自害します。


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天守台の上に登ってきました。


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あずまやがあります。


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石碑のには神戸城址天主堂碑とあります。

碑文は漢文なので読解できませんが、明治九年建立という古い碑で、神戸信孝本多忠統の文字があります。


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天守の上から見た出隅石垣


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横から見た石垣。


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上から見下ろした雁木

わたしの影が写ってわかりづらい。


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天守から本丸を見下します。


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本丸外周に、一部土塁が残っています。

石垣ばかり撮影していますが、往時は多くは土塁造りだったようです。


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上の縄張り図で見たように、かつては幅の広い水堀で囲われていました。

本丸の外にはその名残が少しだけ残っています。


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でも、ほとんどが公園整備されて改変されてしまっているようですね。


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信孝の死後、神戸城には林正武が入り、神戸氏の名跡を継ぎます。

その後、神戸城主は水野忠重、滝川雄利などと入れ替わり、雄利時代には天守が伊勢桑名城の隅櫓として移築されたといいます。

しかし、その雄利は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い西軍についたため所領を没収され、翌年に一柳直盛が5万石で入り、神戸藩を立藩します。

ところが、直盛は寛永13年(1636年)に加増されて伊予西条に移り、神戸城は取り壊されます。


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その後はしばらく天領となっていましたが、万治3年(1660年)に石川総長が2万石で神戸藩を再興し、石川氏が3代続いたあと、享保17年(1732年)に本多忠統が1万石で神戸城主となりました。

石川氏時代は神戸藩は陣屋を藩庁としていましたが、忠統は幕府の若年寄という要職にあったため、小藩ながら城を再建を許可されます。

その後、本多氏が7代続いて明治維新を迎えました。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-12-02 18:23 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)

 

伊勢亀山城跡逍遥記。 その3 <二ノ丸帯曲輪~石坂門跡>

「その2」のつづきです。

伊勢亀山城本丸の北西にある二ノ丸帯曲輪跡に向かいます。


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現在、かつての二ノ丸跡には小学校や市役所などがあって改変されてしまっていますが、この二ノ丸北側にあたる帯曲輪だけが残されているようです。


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その説明板。


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こっちには二ノ丸の説明板が。


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このあたりは二ノ丸の北端にあたります。

この一段下に帯曲輪跡があります。


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二ノ丸御殿の礎石だそうです。

説明板によると、小学校の工事前の発掘調査で見つかったそうです。


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二ノ丸から帯曲輪に降りる門跡です。


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埋門の説明板。

半分地下にもぐるような構造なので、埋門と呼びます。

かつて亀山城にあった6か所の帯曲輪に降りる門は、すべて埋門でした。


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二ノ丸北埋門を降ります。


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下から見た二ノ丸北埋門

ここを訪れたのは7月16日。

夏真っ盛りで雑草が生い茂っていてわかりづらいですが、平成15年(2003年)の発掘調査で、通路石垣が発掘されたそうです。

1.8の通路で、埋門の上には二ノ丸北櫓がある櫓門だったようです。


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そして二ノ丸北帯曲輪


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東西43m、南北6.5の細長い曲輪です。

文字通り帯曲輪ですね。

帯曲輪には建物はなく、石を組んだ溝がめぐらされていたことが発掘調査でわかったそうです。

また、石を組んだ大きな水ためが作られていたようで、花畑などに水やりをするための水ためだったと考えられているようです。

戦うための城ではなく、大名の優雅な暮らしがうかがえますね。


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白漆喰の土塀は、もちろん復元です。


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帯曲輪を後にして、次は本丸北側の池に向かいます。


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公園池です。

かつての内堀跡の名残だそうです。


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天正18年(1590年)に伊勢に入った岡本良勝(宗憲)によって築かれた伊勢亀山城でしたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで良勝は西軍に与し、滅亡しました。

その後、江戸時代に入って、伊勢亀山城の城主は固定されず、関氏、松平(奥平)氏、三宅氏と次々に代わっていきます。


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三宅康盛が城主時代の寛永9年(1632年)、とんでもない事件が起きます。

幕府は堀尾忠晴に丹波亀山城の修築命令を出したのですが、忠晴は丹波亀山城伊勢亀山城を取り違え、石垣の修復に邪魔だからと、天守を解体してしまいます。

なんちゅうことするねん!!!ですよね!


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間違いが判明したあとも天守は再建されませんでした。

その理由は、幕府が再建を許さなかったとも、幕府に気遣って再建しなかったともいわれますが、そもそも天守の解体自体が幕府の陰謀だったのではないかとの説もあります。

たしかに、そんな間違いするか~???って気もしますよね。

陰謀、あったかも!


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池から南を見上げると、最初に見た二ノ丸帯曲輪の土塀が見えます。


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寛永13年(1636年)、本多俊次が城主となると、伊勢亀山城の大改修に着手。

現存する本丸多門櫓もそのときに建てられました。

200にわたって築かれた白亜の土塀があり、「粉堞城」とも呼ばれていたそうです。

「粉堞」とは、難しい言葉ですが、白い姫垣を意味するそうです。

まさに、この復元土塀のような感じだったのでしょうか?


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その後も城主は入れ替わりが激しく落ち着きませんでしたが、延享元年(1744年)、城主として石川総慶が入り、以後は石川家が明治維新まで11続いて城主を務めます。


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再び「その1」で見た本丸南側の中学校のグラウンド付近にやってきました。

グラウンドの東側に、往時の水堀を忍ばせる池があります。

かつてこのあたりに石坂門という枡形門があったそうです。


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その門跡に、「石井兄弟亀山敵討遺跡」と刻まれた石碑があります。

元禄14年(1701年)59日に石井源蔵・半蔵兄弟が父の仇、赤堀水之助を討ち取ったことを記念する碑だそう。

この事件は、ここにあった石坂門外で起きました。


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当時、この敵討ちは『元禄曽我兄弟』とよばれ、翌年に起きた赤穂浪士の討ち入りと並び称されたそうです。


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その説明板。


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明治に入ると、廃城令によってほとんどの建物が取り壊され、現在は多門櫓と石垣、堀の一部が残されるだけとなっています。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-11-27 16:48 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

伊勢亀山城跡逍遥記。 その2 <本丸多門櫓内~本丸内>

「その1」のつづきです。

伊勢亀山城本丸多門櫓台石垣を見て歩いたので、そろそろ櫓に入りたいと思います。


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櫓台に登る雁木

これは往時のものなのか、それとも後世のものなのか。


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雁木を登ります。


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登ってきました。

現存の本丸多門櫓です。

三重県内に唯一現存する城郭建造物となっています。


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西側を見ると、前稿で下から見た土居があります。


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多門櫓の中に入りました。


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立派な梁に支えられていますね。


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多門櫓は東西八間(15.8m)南北六間(10.9m)木造平屋建入母屋造で、平面がL字形になっています。

創建年代は諸説ありますが、寛永10年(1633年)に作成された絵図に描かれていることから、それ以前であることは間違いないようです。

その後の修復などの記録は残っていませんが、幕末の嘉永7年(1854年)の大地震で大破したとの言い伝えがあり、その後にかなり手を加えられた可能性が高いと考えられます。


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明治以降、城内の他の建物が取り壊されていくなかで、ここは旧藩士により落札されて失業士族の授産場に使用され、その後は会議室や展示室などに利用されながら幾度かの修復が行われながらも、昭和28年(1953年)に県の史跡に指定されました。


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多門櫓内部は全体を仕切りがない大きな空間で、柱を見せた真壁造とし、小屋組み(屋根を支える骨組み)などがむき出しになっています。


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土壁が波打っているのは、壁の中に貫(横木)が通っているからでしょう。

つい先日、彦根城の佐和口多門櫓の特別公開を見に行きましたが、同じように壁貫で波打っていました。


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足元は本来は土間だったそうですが、現在は遺構保護のために床を仮設しているそうです。


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櫓内はパネル展示がたくさん!


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窓から南を覗くと、中学校のグラウンドが見えます。

縄張り図では、グラウンドのある場所はかつて水堀だったようです。

その向こう側が西ノ丸でした。


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ここでもう一度、「その1」で見た往時の縄張り図を載せます。


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さて、現存櫓を堪能したので、外に出ても本丸内を歩きます。


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この建物は明治天皇行在所

明治13年(1880年)に明治天皇が御巡幸された際に玉座とされた建物の一部が移築保存されているそうです。


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その説明板。


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本丸内にある亀山神社

祭神は複数いますが、伊勢亀山藩主の石川氏の祖で徳川家康の母方の従兄、石川数正の叔父に当たる石川家成が名を連ねています。


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神社内にある宝篋印塔

南北朝時代初期のものだそうです。


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こちらは大久保神官家棟門

穂積忍山宿祢の末孫で、忍山神社・能牟良神社の神官である大久保但馬守の邸宅門

だそうです。


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門をくぐると、亀山演武場と刻まれた石碑と建物があります。


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その説明の駒札

元治2年(1865年)に心形刀流武芸形の道場として建てられたそうですが、昭和60年(1985年)の火災で焼失してしまい、復元された建物だそうです。


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本丸の門にあたる楠門跡には、その心形刀流剣術を亀山に伝えた亀山藩士・山崎雪柳軒の顕彰碑があります。

碑文は西郷従道だそう。

石碑の地中には雪柳軒愛用の短刀が埋められているそうです。


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さて、本丸内を歩きましたが、もう少し公園内を歩いてみます。

「その3」に続きます。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-11-25 17:10 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

伊勢亀山城跡逍遥記。 その1 <本丸多門櫓台石垣>

今回は三重県亀山市にある伊勢亀山城跡を歩きます。

「亀山城」という名称の城は、全国にたくさんありますね。

有名なところでは、明智光秀の築いた丹波亀山城や、奥平氏が築いた三河亀山城(通称:作手城)などがありますが、ここ伊勢亀山城は、伊勢亀山藩主の居城として幕末まで続いた城です。


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現在、伊勢亀山城跡はほとんどが取り壊されて学校や公園となっており、一部の石垣や堀などが残るだけとなっていますが、唯一、本丸多門櫓だけが原位置のまま残っており、これが、三重県内に唯一現存する城郭建造物となっています。


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公園の案内板。


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こちらは説明板。


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説明板の中に往時の縄張り図があります。


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現存の多門櫓に入る前に、その櫓台石垣を見て歩きます。


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本丸多門櫓台石垣の東面です。

このあたりの石垣は、天正18年(1590年)の築城当時のものだそう。


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伊勢亀山城は、文永2年(1265年)に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡に築かれたのが始まりとされています。

当時はここよりも西にある若山に築かれたようで、これを亀山古城と呼びます。

関氏は北伊勢の有力領主として成長していき、300年以上にわたって亀山古城から近世の伊勢亀山城にまたがる城域を拠点とし続けました。

元亀4年(1573年)、関盛信の代に織田信長に敗れ勢力を失い、一度は城から出ましたが、織田信孝四国攻めに際して、信長から復帰を認められました。



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天正18年(1590年)、蒲生氏郷が会津に移る際、関氏も陸奥に移り、伊勢亀山城には代わって岡本良勝(宗憲)が入ります。

このとき、本丸、二ノ丸に大改修の手が加えられ、近世城郭として整備されました。


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下から見上げる多門櫓がいい感じ。


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南側から見た多門櫓台石垣

この南面の石垣も築城当時のものだそうです。


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南側は中学校のグラウンドになっています。

ちょうどグラウンド整備をされていた学校関係者の方がおられたので、お願いして少し入らせてもらって撮影しました。


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今度は、反対側の北側にやってきました。


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現存櫓下の直角に曲がった石垣の入隅です。


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入隅にあった説明板。

東面、南面は築城当時にものですが、北面の石垣は嘉永7年(1854年)の大地震による崩壊後に修復されたものだそうです。


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こちらは平成19年(2007年)に起きた地震で崩落した石垣の説明。

このとき復旧のための調査を行ったところ、震災を受けた部分が、昭和46年(1971年)の大雨で崩落し、その翌年に積み直された石垣だったということがわかったそうです。

さらに発掘調査や江戸時代の図面から、このあたり本来石垣ではなく土居だったことがわかったそうです。

逆にいえば、平成の地震までわかっていなかったってことですよね。

ちょっとびっくりです。

昭和の、それも70年代に入ってからの積み直しなのに、意外に記録が残っていないものなんですね。


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このあたりの土居が、その場所のようですね。

いまは土居復元されています。


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さて、本丸多門櫓石垣を堪能したので、次は現存櫓の中に入ります。

「その2」に続きます。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-11-22 13:55 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)