人気ブログランキング | 話題のタグを見る

紅葉が美しい摂津池田城逍遥

もうすぐ紅葉が見ごろの季節ですね。

そこで、今回は約2年前の令和4年(2022年)1127日に訪れた紅葉が美しい摂津池田城です。

池田城は室町時代から戦国時代にかけて、旧豊島郡(現池田、豊中、箕面市周辺)を支配していた国人・池田氏の居城でした。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22122213.jpg


現在、城跡は池田城跡公園として整備され、市民憩いの場となっています。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22122694.jpg


紅葉が美しい。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22161619.jpg


公園案内板


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22173736.jpg


東側の模擬大手門から公園内に入ります。

模擬大手門の東側にはかつての空堀があり、木橋が架かっています。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22192703.jpg
紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22193227.jpg


木橋から見下ろした空堀跡

下は遊歩道になっているようですね。

あとで行ってみましょう。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22205311.jpg


模擬大手門横にある石碑


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22205780.jpg


模擬大手門です。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22221463.jpg


内側から見た模擬大手門。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22240346.jpg


模擬大手門前に、何かのモニュメントが。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22240706.jpg


石碑には「てるてる坊主の照子さん なかにし礼」とあります。

なかにし礼さんが池田市出身の彼の奥さんである石田ゆりさんの家族をモデルに書いた小説で、NHKの朝ドラにもなっていましたね。

たしか主役はまだ無名だったころの石原さとみさんだったはず。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22343175.jpg


池田城がいつ築かれたのかは、今のところそれを確認できる史料は見つかっていません。

池田城の名が登場する最古の史料としては、建武3年/延元元年(1336年)の「平国茂軍忠状」のなかで、北朝方の芥河岡国茂の軍勢が、「池田城にて数日送」って夜詰めをしたという記述があるそうです。

この記述から、14世紀前半に池田城が存在していたのではないかと言われていますが、確証はありません。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22343442.jpg


池田氏は南北朝時代から力をつけはじめ、14世紀半ばには勝尾寺の檀家衆土豪三十余人のなかの一人に挙げられています。

また、そのころに摂津国守護の赤松氏の家臣になっていたことも確認できます。

その後、どのような過程で成長を遂げたかは不明ですが、80年ほどの間に土豪30数人から10人程度に淘汰され、池田氏はその中に残っていることが、「勝尾寺文書」に記されているそうです。

おそらく、その頃には国人となり、この辺りを支配の拠点として館を構えていたと思われます。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22344761.jpg


15世紀前半には、この地に池田氏の館が築かれたのではないかと推定されます。

応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱のとき、幕府の有力者で摂津国守護の細川氏の家来になっていること、文明元年(1469年)の史料に池田城という名が登場していることなどが、この推定の根拠となっています。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22374403.jpg

天守はいうまでもなく模擬天守です。

実際には、池田城にどのような建物があったかはわかっていません。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22374850.jpg


時代は下って永禄11年(1568年)、織田信長の摂津入国により池田城は落城

当時の城主・池田勝正は信長の家臣に組込まれました。

勝正は信長に摂津三守護1人に任命され、金ヶ崎の退き口では殿(しんがり)を務めるなど活躍しましたが、元亀元年(1570年)に家中の反織田派が織田派の池田四人衆のうち2人を殺害し、勝正を追放します。

その勝正追放を主導したのが、勝正の家臣だった荒木村重だったんですね。

勝正追放に至る村重のエピソードは、昨年、直木賞に選ばれた米澤穂信さんの小説『黒牢城』で少し語られていましたね。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22375388.jpg


その後、村重は池田を支配し、残る摂津三守護の和田惟政、伊丹親興を滅ぼして茨木城高槻城を手中に収め、さらに、敵対していた信長に取り入って室町幕府滅亡に功を挙げ、摂津守に任じられます。

このとき池田勝正の弟・池田知正は将軍・足利義昭に就いたため没落し、池田家を乗っ取った村重の家臣になりました。

その後、伊丹氏を滅ぼして伊丹城を手に入れた村重は、そこを有岡城と改名して居を移したため、池田城は廃城になったといわれています。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22420158.jpg


天正6年(1578年)、村重が信長に反旗を翻すと、信長は村重の配下にあった高槻城、茨木城を無血開城させ、『信長公記』によると「古池田」に陣を布いたとされています。

この「古池田」、すなわち、ここ池田城のことと思われます。

その後、長い有岡城の戦いを経て、村重が没落したことは周知のところですね。

池田城は有岡城が落城した翌年の天正8年(1580年)、信長の命により再び廃城となりました。

その後、池田氏もどうなったかは定かではありません。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22442577.jpg


せっかくなので、模擬天守のなかも見てみましょう。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22440082.jpg


なかには、池田城の説明や写真などが展示されています。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22453851.jpg


2階に上がりましょう。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22463007.jpg


模擬天守2階です。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_22532697.jpg


2階か見下ろした城跡公園


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19440199.jpg
紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19441547.jpg
紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19441970.jpg
紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19442383.jpg
紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19442697.jpg


360度眺望が広がります。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19463146.jpg


公園内には、発掘調査に基づいた遺構が少しだけ復元展示されています。

こちらは排水溝のようです。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19474814.jpg


こちらは「枯山水」とあります。

庭園跡のようですね。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19501397.jpg


こちらは井戸跡


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19502415.jpg


「土塁」とありますが・・・。

石積みは近年のものでしょうね。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19573645.jpg


そして、こちらが南東虎口跡


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19591112.jpg


外桝形になっていたのかな?


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_19591548.jpg


桝形側から見た城門

向こうに模擬天守が見えますね。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20011023.jpg


こちらは西門


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20022462.jpg


外側から見た西門です。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20031785.jpg


そして北門


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20044698.jpg


北門から外に出て、東側の堀底にやってきました。

向こうに見える木橋が、最初に渡った模擬大手門につながる木橋です。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20063909.jpg


堀底ウォーク!


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20104488.jpg


高い!


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20170239.jpg


この空堀は、永禄11年(1568年)に織田信長の攻撃によって落城したあとに掘られたものと考えられているようです。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20195165.jpg


堀底を歩いて南側にやってきました。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20195549.jpg


ここを上がると南門につながります。

公園内に戻って、しばし紅葉狩り


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20450271.jpg
紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20451022.jpg
紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20451455.jpg
紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20451884.jpg


この日の戦利品


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20452328.jpg


最後に御城印を載せます。


紅葉が美しい摂津池田城逍遥_e0158128_20465976.jpg



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


# by sakanoueno-kumo | 2024-11-18 13:43 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>

「その2」のつづきです。

佐土原城中の道登山道を進んで、切通にやってきました。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18123264.jpg


切通です。

これが見たかった。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18170844.jpg


両側は崖のようですね。

お隣の薩摩のお城と同じく、シラス台地特有の切り立った崖のような切岸が特徴ですね。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18170929.jpg


火山灰が堆積してできたシラス台地は、もろくて風化しやすいという特徴があり、また、水に侵食されやすく、ほかの地域の城のようなV字型の堀だと、雨で土砂が流れてしまうそうです。

垂直に近い方が水に対して安定するので、必然的に絶壁にせざるを得ないというのが、南九州のシラス台地に築かれたお城の特徴です。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18185356.jpg


切通を通って反対側から。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18300457.jpg


先へ進みます。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18305498.jpg


誘導看板に従って本丸へ。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18315099.jpg


本丸虎口


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18345432.jpg


説明板です。

桝形虎口の説明です。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18345831.jpg


こっちにも説明板。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18370488.jpg
雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18370426.jpg


虎口を入ります。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18370511.jpg


振り返るとこんな感じ。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18382908.jpg


本丸です。

めっちゃ雨が降ってます。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18403806.jpg


本丸外周には、空堀が回っています。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18403870.jpg


一時勢いを失っていた日向伊東氏でしたが、10伊東義祐は、かつての佐土原城敷地内に鶴亀城を築きました。

これが、現在の佐土原城城の山頂部、つまりこの場所にあたり、日向伊東氏が築いたとされる「伊東48城」の中心の城となります。

義祐は天文15年(1546年)には従三位に叙せられ、永禄11年(1568年)には2万の軍勢を率いて飫肥城の島津氏を討ち取ります。

しかし、このときが日向伊東氏の最盛期でした。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18423461.jpg


元亀3年(1572年)の木崎原の戦い、さらに天正5年(1577年)に島津氏より日向を追われた義祐は、息子の妻の叔父にあたる大友宗麟を頼って豊後へ落ち延びます。

これを「伊東崩れ」と呼び、佐土原城には島津家久が入りました。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18453812.jpg


天正15年(1587年)、豊臣秀吉九州平定により、当時九州の大半を制圧していた島津氏の勢力は大幅に削減され、薩摩と大隅2国と日向の諸県郡に封じられましたが、佐土原城は島津氏のものとして残りました。

その後、一時島津氏の手から離れるも、関ヶ原の戦い後の慶長8年(1603年)、島津氏の分家である島津以久が、徳川家康より日向佐土原3万石を与えられて佐土原城に入ります。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18472874.jpg


本丸の大きさは83m×約120あります。

この北側に天守台があるようだったのですが、見てのとおり、この日は激しい雨で本丸は水田状態

土塁の上を歩いてここまで来ましたが、とても北側の天守台まで行けそうになく、遠くから眺めるだけとなりました。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18472986.jpg


平成8年(1996年)の発掘調査により、天守台は元和の一国一城令で破壊されていたものの、基底部の数段の石垣が残存していたため、東西約10.8m×南北約12.8mの穴蔵造りと判明。

礎石のほとんどは抜き取られていましたが、わずかに残っていた2石から、現存する丸亀城の天守とほぼ同程度の大きさだったことがわかったそうです。

出土瓦から、織豊期の築城がほぼ確実と考えられているそうです。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18485263.jpg


天守の外観ははっきりしませんが、絵図では白漆喰総塗籠の無破風の三重天守として描かれています。

そのほか、平櫓が1基、多門櫓が5基、城門が29基(うち櫓門が5基)、塁線上を土塁が囲み、城の規模からすれば、圧倒的に櫓が少なかったことが判明しているそうです。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18500589.jpg


本丸を後にして、南側にも南の丸松尾丸などの曲輪があったのですが、雨が激しかったのと、夕方の飛行機の時間もあったので、南城はパスして下山を決断。

大手道を通って下山しようと思ったら・・・。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18533323.jpg


崩壊の恐れありで通行止めとなっていました。

超ショック!!!


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18515128.jpg


大手道は、最初に見た切通のような切り立った断崖の切通がずっと続いていると聞いていたので、楽しみにしていたのに・・・・(泣)。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18515175.jpg


超残念(泣)。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18561135.jpg


寛永2年(1625年)に山上の天守などを取り壊し、「その1」で見た麓の二ノ丸に居館を移しました。

以後、島津家佐土原藩3万石は江戸時代を通して世襲され、明治3年(1870年)に城は取壊されます。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_18583045.jpg

その後、麓の城跡は田畑になっていましたが、120年後の平成元年(1989年)に発掘調査が行われ、その成果に基づいて御殿が再建されました。

しかし、中世の本丸であった城山は、大きく手が加えられないまま現在に至っています。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_19005009.jpg


下山して足元を見たら、この通りの状態(汗)。

当然、中の靴下もビチョビチョで、麓の御殿内を見学などできる状態ではありませんでした。


雨の佐土原城攻城記。 その3 <切通道~本丸>_e0158128_19005453.jpg


このまま飛行機には乗れないので、靴下と靴を買いました(笑)。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


# by sakanoueno-kumo | 2024-11-13 17:11 | 宮崎の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>

「その1」のつづきです。

前稿で麓の遺構を歩いたので、佐土原城の山城に登る中の道登山口からのスタートです。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17242349.jpg


登山口に設置されていた説明板。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17273853.jpg


赤色立体図の案内板も。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17242342.jpg


いざ!出陣!


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17310880.jpg


この日はあいにくの、本当は山城を登るようなコンディションではないのですが、宮崎県なんて次にいつ来れるかわからないし、標高72m、比高60mほどの低い山だし、強行することに。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17310905.jpg


写真ではわかりづらいですが、けっこう降っています。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17370357.jpg


階段を滝のように雨水が流れています。

こんな日に登山なんて、アホのすることですね(苦笑)。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17322895.jpg


最初に佐土原城が築かれたとされるのは、鎌倉幕府滅亡直後の建武年間(133438年)と言われます。

その頃の佐土原城は、一般には「田島城」の名で知られ、平安時代に九州へ渡った藤原秀郷の子孫とされる日向伊東氏の一族田島氏が築城したと言われます。

田島氏はここに拠点を構えましたが、やがて主家である日向伊東氏が田島氏を追い、田島城に入りました。

田島城主となった日向伊東氏の分家は「佐土原氏」と称していたため、この頃から城の名も「佐土原城」と呼ばれるようになったようです。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17370827.jpg


文明12年(1480年)、日向伊東氏本家の5代当主・伊東祐堯の子である伊藤祐国が、佐土原氏の養子になりました。

やがて祐堯は病没し、祐国が6代当主となりますが、飫肥城をめぐる島津氏との戦いのなかで討ち死にしてしまいます。・

その後も日向伊東氏の勢力は徐々に衰え、天文6年(1538年)には、佐土原城も焼失してしまいます。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17400195.jpg


階段を上ると、山肌が露わになっている場所が。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17462867.jpg


説明看板によると、崖面にある人工的な穴は、虎口の城門を取り付けた痕跡ではないかと考えられているそうです。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17491621.jpg
雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17491674.jpg


それが、この穴。

たしかに自然の穴ではなさそうですね。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17505571.jpg


先を進みましょう。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17525975.jpg


「曲輪」と書かれた説明板が。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17525934.jpg


どうやらこの上が曲輪のようです。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17542345.jpg


曲輪です。

あずまやがあります。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_17560877.jpg


先に進みます。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_18035103.jpg


城道が三叉路になっている場所にでました。

正面は本丸切岸ですが、本丸に行くには北か南に回り込まないといけない仕組みですね。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_18051405.jpg


北側は雨で水浸しだったので、南側に向かいます。


雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>_e0158128_18051845.jpg


そして、魅力的な遺構が見えてきましたが、「その3」につづきます。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


# by sakanoueno-kumo | 2024-11-07 14:35 | 宮崎の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>

宮崎県日南市の飫肥城を訪れたあと、夕方の飛行機までまだ時間があったので、空港のある宮崎市を通り過ぎて北上し、佐土原城に向かいました。

ここも、飫肥城と同じく島津氏伊東氏の間でシノギを削った城です。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16423275.jpg


佐土原城は標高70mほどの鶴松山と呼ばれる小山を利用した山城で、山頂に本丸、本丸の南方向の尾根に南の丸、さらに続く尾根に松尾丸があり、近世に入ってからは、山麓の平地に二ノ丸、三ノ丸が設けられました。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16440575.jpg


現在、その二ノ丸跡に御殿が再建されています。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16451365.jpg


慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった徳川家康は、島津氏の分家の島津以久に日向佐土原3万石を与え、佐土原城主としました。

御殿は、寛永2年(1625年)に2代藩主の島津忠興が建てたと考えられています。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16472869.jpg


ここにあった御殿は山下屋敷といい、明治期まで存在していたにも関わらず、絵図などが残っておらず、その構造がはっきりしていないそうです。

再建された御殿は、発掘調査の成果と、『佐土原藩職制遺考』に見られる建物名を参考にしているそうです。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16484583.jpg
雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16530151.jpg


それによると、上御門をくぐると正面に大広間、次に書院2棟があったことは確実で、藩主の御座所であった書院には、上段の「金の間」「敷舞台」があり、そのほか「政事之間」「記録所之間」「鶴之間」「虎之間」「大奥之御座所」などが設けられていました。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16501512.jpg


その説明板。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16530131.jpg
雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16530249.jpg
雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16530252.jpg


発掘調査により庭園遺構も確認され、復元されています。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16553863.jpg


その説明板。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16570229.jpg


建物の中にも入れたのですが、飛行機の時間もあり、とりあえず先に本丸を目指して、下山して時間があれば中を見ることに。

御殿の西側には段曲輪のような芝生広場が広がります。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16594188.jpg


こちらの標柱には、「御厩役所跡」とあります。

馬を管理していた場所でしょうね。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_16580678.jpg


こちらの標柱には、「御代官所跡」とあります。

悪代官所跡ではありませんでした(笑)。


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_17004087.jpg


ここは「反米役所跡」とあります。

「反米」ってどういうこと?

反アメリカ?・・・ではないよね!(苦笑)


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_17012843.jpg


「御普請所跡」と書かれた標柱の横に、海鼠塀の建物があったのですが、これは何でしょう?

御普請所の再建?・・・にしては、アルミサッシだし、壁はサイディングボードだし!

海鼠塀だけそれ風にしたって感じなのかな?


雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>_e0158128_17021551.jpg


さて、山城の登山口に着いたところで、「その2」につづきます。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


# by sakanoueno-kumo | 2024-11-05 17:04 | 宮崎の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)

 

雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>

「その3」のつづきです。

飫肥城城跡公園内はひととおり歩いたので、再び大手門を出て歩いてみました。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17351559.jpg


大手門の南側の通りは武家屋敷通りと呼ばれています。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17365853.jpg


この日はずっと土砂降りの雨でしたが、通りの石垣が濡れて、それもまたいい感じ。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17381713.jpg


大手門を少し南下すると、古い薬医門があります。

ここは、豫章館という格式高い屋敷の門で、最後の飫肥藩主となった伊東祐帰が、明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事になり、城内から移り住んだ屋敷だそうです。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17410213.jpg


その説明板。

豫章館の名称は、当時邸内にあった樹齢数100年の大楠にちなんで名付けられたそうです。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17420602.jpg


土砂降りの雨の中、せっかくなので見学に入ってみることに。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17421088.jpg


豫章館主屋

玄関は千鳥破風の屋根を構えて表玄関脇玄関があります。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17433353.jpg


中には入れません。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17433659.jpg


なので、外から中を見学します。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17444535.jpg


主屋は6部屋をL字型に配置しています。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17444639.jpg


縁側がいい感じ。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17465882.jpg


庭園です。

邸内は6500あるそうです。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17472776.jpg


雨が残念。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17473177.jpg


庭園側から見た主屋。

屋根は元は茅葺だったそうですが、昭和初期に瓦葺きにしたそうです。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17482822.jpg


これは裏門かな?


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17494501.jpg


さらに邸内の奥に進むと、御数寄屋という茶室があります。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17494994.jpg


御数寄屋です。

明治41年(1908年)に建てられたそうです。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17520495.jpg


つづいて、豫章館の向かい側にある小村寿太郎記念館に立ち寄りました。

ちょうど今、NHKスペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』の再放送をやっているので、旬の起稿ですね。

言うまでもなく、日露戦争時の外務大臣です。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17520496.jpg


この日、わたしはここを小村寿太郎の生家跡と勘違いしていたのですが、ここは伊東家の邸跡で、寿太郎の生家はもう少し北東になったようです。

痛恨の勘違い。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17543112.jpg


小村寿太郎記念館です。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17562796.jpg


小村寿太郎の功績といえば、やはり日露戦争前に外務大臣として日英同盟を締結させたこと、そして、日露戦争における戦時外交を担当し、戦後のポーツマス会議では日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を締結させたことでしょう。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17563020.jpg


ポーツマス条約の内容を簡単に言うと、朝鮮半島については、ロシアは韓国に対する日本の指導権を認め、また、中国については、ロシアは旅順・大連の租借権、長春以南の東清鉄道とその付属利権を日本に譲りました。

ここまでは日本に有利な内容ですが、一方で、ロシアは日本に対して一切の賠償金を支払わず、領土については、日本軍が占領していたサハリン島のうち南半分を日本の領土とし、ロシアが有していた中国東北部の権益は日本に譲渡される、というものでした。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_17590938.jpg


日本は勝ったはずなのに、賠償金がないなんておかしい・・・と思った人、それは歴史の誤認識です。

日本は日露戦争に勝ったわけではありません。

アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介によって、上手く講和に持ち込んだだけなんです。

つまり、からくも引き分けたってこと。

ここの認識を間違えると、この時代の歴史は見えてきません。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_18013378.jpg

ところが、連戦連勝と聞かされていた国民は、新聞が報道した条約の内容を不満として全権の小村を非難攻撃し、東京では電車の焼き討ちや交番の襲撃などの過激な事件が起こり、小村の家族を脅迫する者や、襲撃しようとしたりする者もいました。

いつの時代も、大局を見ずに過激な行動に走るヤカラはいますね。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_18013398.jpg


司馬遼太郎さんは『坂の上の雲』のなかで、小村の外交をべた褒めしています。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_18013343.jpg


もう一度いいます。

日本は日露戦争に勝ってはいません。

小村寿太郎をはじめとする有能な明治政府の外交によって、「負けなかった」だけです。

ところが、国は国民にその真実を告げず、勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰させ、やがて狂躁の昭和期にはいっていきます。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_18030840.jpg


話が固くなっちゃいました。

小村寿太郎記念館を出て、おび天茶屋に立ち寄りました。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_18051441.jpg


ここは江戸時代に飫肥藩の藩役所の置かれたところで、現在は飫肥の名物・おび天をはじめ、郷土料理を味わえるお店となっています。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_18062140.jpg


これが、そのおび天


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_18064178.jpg


魚肉のすり身と豆腐を混ぜて揚げたものだそうで、見た目はさつま揚げみたいですけど、豆腐が入っているので、ふわっふわの食感でした。

お土産に買って帰りました。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_18075916.jpg


おび天を食べたところで、飫肥城をあとにしましたが、まだ飛行機まで時間があったので、もう一か所城めぐりしました。

次稿につづきます。


雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>_e0158128_16404485.jpg

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


# by sakanoueno-kumo | 2024-10-29 16:41 | 宮崎の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)