元和6年(1620年)6月18日、秀忠・お江夫妻の五女である和子(まさこ)ことのちの東福門院は、京都御所の内裏に女御として入内し、元和9年(1623年)には第108代・後水尾天皇との間に興子内親王(第109代・明正天皇/女帝)をもうけた。これにより、徳川家は天皇家の外戚という地位を手に入れ、徳川家の権威は一層増すこととなった。しかし、明正天皇は女帝であったためその後の天皇にその血が繋がることはなく、徳川家が天皇の外戚となったのもこの明正天皇のときだけだった。
秀忠が女中のお静の方を寵愛して産ませたという幸松丸。お静の方は江戸郊外の領民、もしくは大工の娘であったといわれ、大奥の中ではもっとも下のクラスの女中であった。通常、侍妾の選定には正室の許可が必要で、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であったにもかかわらず、お静の方の場合にはそうした手続きを取ることを秀忠が怠ったため、江戸城外での出産となり、その後も正式に側室となることはなく、幸松丸は譜代大名の保科正光の養子・保科正之として育てられた。ドラマでは、隠し子の存在を知ったお江が幸松丸を呼び出して面会していたが、実際には、秀忠はお江の生前に公式の場で正之を実子と認めることはなかったという。秀忠が正之と面会したのはお江の死後で、正之が秀忠の子であることを公式に発表したのは、秀忠の死後、徳川家光の代になってからのことである。家光は正之を重用し、家光の死後はその遺命により、第4代将軍となった徳川家綱の補佐役となり、幕政の安定に寄与していくこととなる。
紆余曲折の末、秀忠の後継者には長男の家光が据えられ、元和9年(1623年)7月27日、秀忠が隠居し、将軍職と徳川家当主の座を家光に譲り、同じ年の12月には公卿の鷹司信房の娘・孝子を正室に迎えた。徳川三代将軍家光の時代が始まる。一方の弟・徳川忠長は、元和2年(1616年)あるいは元和4年(1618年)に甲府藩23万8千石を拝領し、甲府藩主となる(しかし、元服前で幼少の忠長が実際に入甲することはなく、多分に形式上の藩主だった。ただ、このことによって、秀忠の後継者争いが家光に決定したのがこの時期であったことを窺うことができる)。その後、家光の将軍宣下に際して駿河国と遠江国の一部を加増され、駿遠甲の計55万石を領有し、将軍の弟として強い権力を有した。しかし、寛永3年(1626年)の母・お江の病没を境に、秀忠・家光父子の忠長に対する処遇が変わり始め、寛永8年(1631年)には不行跡を理由に蟄居を命じられ、翌寛永9年(1632年)の秀忠の死後、除封処分となり、最終的には切腹に追い込まれる。享年28歳。忠長を溺愛し、秀忠の後継者に忠長を推していたといわれるお江。まるで母に守られていたかの如く、彼女の生前と死後で立場が一変してしまった忠長。このあたりに、お江の実子は忠長だけで、家光の実母はお江ではなかった・・・という説が生まれた背景がある。事実はどうだったか・・・、今となっては憶測の域を出ない。
さて、晩年のお江について。ドラマでは、大奥制度の計画を秀忠から任されていたお江だったが、実際にはお江が関わっていたという記録は残っていない。大奥制度を作ったのは、ほかならぬ秀忠であった。秀忠は元和4年(1618年)、女中以外の出入りを原則として禁止するなど、6カ条の法度を大奥に発し、さらに元和9年(1623年)には8カ条からなる「大奥法度」を定めた。そこに、正室であるお江の意向が取り入れられていたとしても何ら不自然ではないが、その翌年の寛永元年(1624年)には、秀忠の隠居に伴いお江も西の丸に移っていたと思われ、これと入れ違いに三代将軍となっていた家光が本丸に移り、このとき春日局も本丸の大奥に入ったと思われるため、よくドラマの「大奥シリーズ」などで描かれているような、大奥の運営方法をめぐってお江と春日局との間で熾烈な女の闘いがあったといったエピソードは、実際には存在しなかった可能性が高い。やがて、本丸の大奥のすべての女中を指揮下に置いた春日局は、「大奥法度」に基づいて大奥を運営した。大奥制度は、秀忠が立ち上げて春日局が軌道に乗せたもので、お江は、直接的には深く関わっていないようである。
お江がその波乱に満ちた生涯に幕を下ろしたのは、寛永3年(1626年)9月15日、秀忠・家光ともに上洛中で、江戸城を不在にしていたときだった。徳川幕府の正史である『徳川実紀』には、このときの上洛行列の規模や上洛中の行動はこと細かく記されているものの、大御所や将軍が不在の江戸城内の出来事については、極めて簡単な記述しか見出せないため、お江の病臥についても記載されておらず、死因についても詳しくはわかっていない。上洛中の秀忠たちのもとに、お江危篤の知らせが届いたのは9月11日。しかし、秀忠・家光父子は動くことなく上洛の日程をこなし、忠長だけが江戸城に向かった。忠長は側近が落伍するほどの猛スピードで江戸城を目指したが、結局は臨終に立ち会うことはできなかった。享年54歳。
お江は、徳川家の歴代将軍と御台所の中では、唯一例外的に荼毘(火葬)に付されている。この時代、疫病などで死んだ場合をのぞいて土葬が主流で、とくに身分の高い人は土葬が常識だった。お江が荼毘(火葬)に付された理由は今もって謎で、それに加えて、その死が突然だったこと、死去の際、秀忠・家光が不在中だったこと、危篤の報に接して駆けつけたのが忠長だけだったことなどから、毒殺説などの諸説を生む要因となっている。しかし、そのどれもが憶測の域を出ず、いずれも「歴史ミステリー」的な発想に過ぎない。晩年のお江が、殺されるほどの重要な存在であったかどうかを考えれば、答えは簡単な気がする。
浅井三姉妹の三女・お江という女性を中心とした、姫たちの戦国物語が終わった。実父を叔父に殺され、実母をのちの養父に殺され、実姉と甥が夫に殺されるという、それが戦国の慣らいとはいえ大変な運命に翻弄されたお江。その波乱に満ちた生涯を強いられた浅井三姉妹の中で、末妹の彼女だけが、後世にその血脈を残した。徳川将軍家に引き継がれたお江の血筋は、残念ながら第7代将軍・徳川家継がわずか6歳で夭逝したため途絶えてしまったが、お江の二度目の夫・豊臣秀勝との間に生まれた完子が公家の九条家に嫁ぎ、その子孫は代々関白を歴任し、大正天皇の正妻となる貞明皇后に続いている。貞明皇后は言うまでもなく昭和天皇の母君であり、つまり、今上天皇ならびに親王・内親王など現在の皇室の方々はすべて、お江の子孫ということになる。織田家、浅井家の血を引き、徳川家、豊臣家の子を産み、現在の天皇にも繋がるお江。彼女の物語を観終えて、あらためてお江という女性の歴史上の存在感の大きさを感じずにはいられない。
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▲ by sakanoueno-kumo | 2011-11-28 23:44 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)