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幕末京都逍遥 その91 「武信稲荷神社」

前稿で紹介した六角獄舎跡のすぐ北西向かいにある「武信稲荷神社」を訪れました。

「武信」というと武田信玄を連想しますが、一切関係なく、平安時代初期、右大臣・藤原良相が藤原氏の医療施設「延命院」の守護神として創建し、その後、藤原武信によって厚く信仰されたことで、「武信稲荷神社」と称されるようになったそうです。


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創建した藤原良相が藤原氏の長として一族の名付けをされていたことから、名付け・命名にご利益がある神社として信仰を集めています。


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手水舎です。

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舞殿です。


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そして本殿です。


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本殿の南側に、推定樹齢850年といわれる榎の巨木があります。

平安時代末期、平清盛の嫡男・平重盛が、安芸の厳島から苗木を移したものと伝えられます。


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こちらがその榎。

前稿で紹介した六角獄舎での平野國臣ら37名の処刑のとき、この榎の木の上に子供たちが登って、処刑現場を目撃したと伝えられます。


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獄舎は本来、処刑場ではありません。

江戸時代の京の刑場といえば、九条山の西のふもと、東海道の出入口とされる粟田口にありました。

しかし、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)の際における火災によって急遽、斬首された平野らは、処刑場に送られることなくこの地で首を落とされたのです。

この榎は高さ23mあり、当時はこの木に登ればかなり遠くまで見渡せたことでしょう。

木に登っていた子供たちは、市中の延焼状況をうかがっているうちに、偶然に処刑シーンを見てしまったのかもしれませんね。


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また、この榎には、もうひとつ坂本龍馬お龍にまつわる伝承があります。

お龍の父である楢崎将作は、青蓮院宮に仕える侍医で、また、熱心な勤王家だったといわれ、将作が仕えた青蓮院宮尊融法親王(のちの中川宮朝彦親王)「安政の大獄」によって蟄居を命じられると、将作もそれに連座して捕らえられ、六角獄舎に投獄されていたようです。

説明板によると、お龍は父の身を案じて龍馬と共に何度か獄舎を訪れますが、当時女性が牢獄へ面会できることもなく、龍馬自身も追われる身であり面会はかなわなかったため、この木によじ登って獄舎のなかの様子を探ったといわれるそうです。

その後、命を狙われる龍馬はお龍と別れて身を隠すことになりますが、お龍がここ武信稲荷神社を訪れると、龍馬独特の字で『龍』の字が榎に彫られていたそうで、これが、龍馬からお龍に宛てた無事だというメッセージだったと伝えられるそうです。


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ここまで読んでふと思ったのは、お龍の父・楢崎将作が死んだのは文久2年(1862年)だったと言われ、龍馬とお龍が出会ったのは元治元年(1864年)頃だったといわれます。

また、龍馬が命を狙われるほど名を轟かせるのは慶応に入ってからのこと。

う~ん・・・この伝承、時系列的に無理がなくない?


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その矛盾に対して、武信稲荷神社のサイトではこう説明しています。

龍馬とお龍の出合いに関しては諸説あって定説はなく、将作は生前、勤皇の志士を厚く支援していたため楢崎家には志士たちがたえず出入りしており、龍馬もそんな将作と親交ができ、その長女であるお龍と出会ったと。

まあ、ない話ではないかもしれませんが、そうすっと、龍馬が将作と知り合ったのは安政の大獄前ということになりますが、当時の龍馬はまだ土佐にいて、土佐勤王党もまだ結成されておらず、当時の若者らしく尊皇攘夷の志は持っていたかもしれませんが、それほど目立った活動はしていません。

ましてや、京都にもほとんど縁がなかったのではないでしょうか(江戸に剣術修行に行く道中に立ち寄るぐらいのことはあったかもしれませんが)。

・・・とまあ、揚げ足取りのような詮索をするのは無粋かもしれませんね。

歴史はロマンですから。


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榎の折れて落下した枝を使ってチェンソーアートの世界チャンピオン城所ケイジ氏によって作られた龍だそうです。


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龍馬おみくじがありました。


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そして、龍馬ファンとして思わずお土産に買ってしまった龍馬とお龍のお守りです。


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龍馬や平重盛や平野國臣の伝承がどこまで信じられるかはわかりませんが、推定樹齢850年の巨木ですから、数々の歴史を目撃してきた木であることは間違いないでしょう。

そんな歴史の生き証人(証木?)のこの榎そのものがロマンといえるかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-09 23:13 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その52 「金蔵寺跡(坂本龍馬・お龍内祝言の地跡)」

前稿で紹介した土佐藩士たちの隠れ家で、元治元年(1864年)5月頃に出会った坂本龍馬お龍は、同年8月初旬に青蓮院塔頭金蔵寺祝言を挙げます。

現在、金蔵寺のあった場所には、「坂本龍馬 お龍 結婚式場跡」と刻まれた石碑が建ちます。


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後年のお龍の回顧録によると、2人の出会いは、龍馬の一目惚れにはじまったそうです。

そして、龍馬はお龍の母・にお龍を妻にしたいと申し入れ、出会って3ヵ月のスピード結婚となりました。

さすがは龍馬、行動力一級品です。

ただ、龍馬とお龍の祝言は「内祝言」、すなわち内々の結婚式でした。

このときの龍馬は神戸海軍操練所を拠点に江戸や京都や福井を行ったり来たりで、しかも、命を狙われる身でもあり、結婚を公にすることはお龍を身の危険に晒すことになると考えたからでしょう。

祝言を終えた龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍を伏見寺田屋に託します。

結婚後、いきなりの別居生活だったわけです。


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ドラマや小説などでは、慶応2年1月23日(1866年3月9日)伏見寺田屋遭難でお龍が裸で龍馬を助けたあと、避難した薩摩藩邸で西郷隆盛の媒酌のもとに2人は夫婦の契りを結んだように描かれることが多いですが、実はその説は根拠が薄く、お龍の回顧談を信じるべきでしょう。

2人の結婚はごく限られた者しか知らなかったため、そのような説が出たのでしょうね。

となれば、日本最初の新婚旅行として知られる霧島山の旅は、実はすでに新婚ではなかったことになりますね。


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2人が青蓮院塔頭金蔵寺で祝言を挙げたのは、おそらくお龍の亡き父が青蓮院で侍医を務めていた縁からだったのでしょう。

2人の結婚は今でいう恋愛スピード結婚で、どこか現代的ですね。

いかにも坂本龍馬とお龍らしいといえるでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-11 00:18 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その51 「土佐志士寓居跡」

東山の三十三間堂南大門の南に、かつて土佐藩出身の尊攘派志士が隠れ家としていた邸がありました。

現在、塩小路通に「この付近 坂本龍馬 北添佶摩など土佐志士寓居跡」と刻まれた石碑が建ちます。


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土佐藩士たちが隠れ家とした家は、河原屋五兵衛という人物の隠居所だったそうです。

河原屋五兵衛という人について調べかつかなかったのですが、説明板には、「瓦屋の五郎兵衛の意か」と書かれていたので、おそらく武士ではないのでしょう。

この当時、豪商たちが志士のパトロンとして援助するといった話は、よくあることでした。

ここに、石碑に刻まれた坂本龍馬北添佶摩をはじめ、中岡慎太郎望月亀弥太などが隠れ住んでいたといいます。

ここで、龍馬の妻となるお龍の母・と妹の君江が賄いとして働いていたんですね。

その縁で、龍馬とお龍が出会います。

まさに、ここが2人の出会いの場だったんですね。

時は元治元年(1864年)、 お龍24歳、龍馬30歳でした。

2人の出会いについて、お龍は回顧録で次のように語っています。


「名前は、聞かれ、『お龍』 と答えると 『わしと同じじゃ』 と二人はすぐに打ち解けました。お互いの身の上話で大いに盛り上がりました」(『千里駒後日譚』より)


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現地説明板によると、ここが土佐藩士たちの隠れ家だったことが、お龍の晩年の回想録「反魂香」に記録されているそうです。

それによると、「大仏南の門今熊の(野)道」の河原屋五兵衛の隠居所を借りて、「中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶磨)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山岡甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」と同居していたといいます。

これが事実かどうか、ながくわからなかったのですが、これを裏付けたのが、お龍の回想にも出てくる北添佶磨の書簡(元治元年(1864年)5月2日母宛)でした。

そこには、「私儀は此節は、洛東東山近辺瓦屋町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮し居候」と記されており、ここの南向いの地名はいまも「本瓦町」で、北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいないということになったそうです。


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北添の書簡から約1ヶ月後の元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件の際、ここも京都守護職などの役人に踏み込まれました。

龍馬らは不在でしたが、貞や君江などが連行されたそうです(まもなく釈放)。

ちなみに北添は池田屋事件で落命します。

その後、8月初旬、龍馬とお龍は青蓮院塔頭金蔵寺祝言を挙げることとなります。

次稿では、その祝言の地を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-10 01:23 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その50 「お龍 独身時代寓居跡」

父・楢崎将作の死によって経済的に困窮したお龍とその家族は、前稿で紹介した柳馬場三条下ル付近にあったとされる家を離れ、「木屋町」もしくは「四条、うら通りの借家」に移住したとされます。

現在、木屋町通にあるビルの入口に、「此付近 坂本龍馬妻お龍 独身時代 寓居跡」と刻まれた石碑が建てられています。


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こののち一家は離散し、お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、お龍の母・は、方広寺大仏殿近くの土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家賄いをするようになるのですが、その直前まで住んでいたといわれるのが、このあたりだったようです。

日々の生活に困窮していた家族は、家具や衣類を売ってなんとか食いつないでいましたが、あるとき、母が悪者に騙されて、妹の起美が島原の舞妓に、同じく妹の光枝が大坂の女郎に売られそうになります。

これを知ったお龍は、着物を売って金をつくると単身大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で男2人を相手に「殺せ、殺せ、殺されにはるばる大坂に来たんだ。これは面白い殺せ!」啖呵を切って妹を取り返したという有名なエピソードがありますが、この出来事があったのが、ここで暮らしていた時期のことだったようです。

この話は、のちに坂本龍馬が姉・乙女に宛てた手紙のなかで語っている話なので、おそらく実話だったと思われます(多少話を盛ってるかもしれませんが)。


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それにしても、このエピソードからわかるのは、お龍という女性は相当気の強い自立した女性だったということで、でありながら、とても妹弟思いのお姉さんだったということですね。

普通なら、誰か腕っ節の強い男に助けを求めるのがこの時代の女性だったでしょう。

相当肝の座った女性だったのでしょうね。

のちに坂本龍馬からお龍を紹介された土佐藩大監察の佐々木高行は、お龍について「有名ナル美人」と日記に書いています。

美人で気が強くて妹弟思いだったお龍。

龍馬が惹かれたもわかる気がします。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-09 10:08 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その49 「お龍の実家跡」

前稿で紹介した「西川耕蔵邸址」碑から少し南下した柳馬場三条下ルにある居酒屋の入口前に、坂本龍馬の妻・お龍の実家跡の石碑が建てられています。

石碑には「この付近 坂本龍馬 妻 お龍の実家 楢崎家跡」と刻まれています。


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お龍は、青蓮院宮に仕える侍医・楢崎将作の長女として天保12年(1841年)に富小路六角付近で生まれたといわれ、しばらくしてしばらくしてこの地に移り住んだそうです。

お龍には4人の弟妹いましたが、父が侍医ということもあって比較的裕福な家だったようで、家事などを任されることもなく、生け花、香道、茶の湯などを嗜むお嬢様育ちだったようです。

ところが、お龍の父は勤王家だったようで、「安政の大獄」で捕らえられてしまいます。

お龍の父が仕えた青蓮院宮尊融法親王(のちの中川宮朝彦親王)蟄居を命じられていますから、その処分に連座した逮捕だったのでしょう。

その後、大老・井伊直弼の死によって赦免されますが、文久2年(1862年)に病死してしまいます。

そこから、残されたお龍たち家族の生活は一変し、困窮を極めることになります。


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その後、お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、お龍の母・は、方広寺大仏殿近くの土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家賄いをするようになるのですが、そこで、お龍は龍馬と出会うことになるんですね。


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ここ柳馬場三条下ルに暮らしていた頃のお龍は、裕福な家のお嬢様でした。

龍馬も、下士の身分とはいえ裕福な家庭育ちのおぼっちゃんです。

龍馬が姉・乙女に宛てた手紙のなかで、お龍のことを「まことにおもしろき女」と紹介しているエピソードは有名ですが、きっと、お嬢様おぼっちゃんだからこそ、フィーリングが合ったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-06 00:07 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

龍馬伝 第45話「龍馬の休日」

 前話の「英艦イカルス号事件」に一応の決着を見た坂本龍馬は、慶応3年(1867年)9月18日、芸州藩汽船・震天丸を借用して長崎を出航した。今話で登場した佐々木高行(三四郎)と相談して購入したライフル銃1000挺を土佐に届けるためだった。同月20日、震天丸は下関に寄港する。滞在は2日間、22日には下関を出帆して土佐へ向う。これが、お龍との永訣となった。

 このときより7ヵ月ほど遡った慶応3年(1867年)2月10日、龍馬はお龍を連れて下関を訪れ、豪商・伊藤助太夫の家の一室を借り受け、そこを「自然堂(じねんどう)」と名付け、夫婦の生活の場とした。「自然堂」とは龍馬の号。号とは文人などの雅名のことで、今風に言うとペンネーム。慶応元年(1865年)以来親交があったとされる伊藤助太夫は、このときしばしば龍馬夫妻を歌会へ誘ったと伝えられており、「自然堂」の号はその際に使用していたものと思われるが、現存する龍馬の書簡では、龍馬暗殺の1ヵ月前に陸奥宗光に宛てた手紙で使用されているだけである。
自然堂・・・いかにも自然体なイメージの龍馬らしい号だ。

 龍馬は2月27日から病気になり、「いろは丸事件」が起こる少し前の3月下旬まで自然堂でお龍と2人の時間を過ごした。前年の幕長戦争以降、休む間もなく働き通しだった龍馬にとっては、夫婦水入らずの、ひとときの安らぎの期間だった。

 伊藤家で催された春の歌会で、龍馬が詠んで第2位となった歌。
 「こころから のどけくもあるか 野辺ハ猶 雪げながらの 春風ぞ吹く」
 そして、お龍の歌。
 「薄墨の 雲と見る間に 筆の山 門司の浦はに そそぐ夕立」
 楽しい時間だったことが感じられる。この歌会には三吉慎蔵も参加していたらしい。龍馬、お龍、三吉・・・このときより約1年前、寺田屋の修羅場で生死を共にしたこの3人が、1年後にこうしてのどかに歌会に参加している姿など、事件当夜にはまさか想像だにしなかっただろう。

 ドラマにあった、龍馬の朝帰りのエピソードもこのときである。ある日、龍馬は稲荷町の遊郭で遊び朝帰りをした。お龍は怒って責め立てた。ピストルを突き付けたかどうかはわからないが・・・。その現場をたまたま訪ねてきた長府藩士・梶山鼎介に目撃されてしまう。よほどバツが悪かったのか、龍馬は三味線を爪弾きながら即興で俚謡を歌った。
 「こい(恋)わ 志はん(思案)の ほかとやら あなと(穴戸・長門)のせとの いなりまち(稲荷町)ねこ(猫)も しゃくし(杓子)も おもしろふ あそぶ くるわ(廓)の はるげしき こゝに ひとりの さるまハし たぬきいっぴき ふりすてゝ ぎ利(義理)も なさけも なきなみだ(涙)ほかにこゝろハ あるまいと かけてちかいし山の神 うちにいるのに こゝろのやみぢ(闇路)さぐりさぐりて いでゝ行」
 歌詞に出てくる「猿回し」とは龍馬自身のこと。「たぬき」はお龍。自分の心はいつもお龍にある・・・としながらも、でもたまには遊びたい・・・といった意味の歌で、この歌を聞いてさすがのお龍も破顔して許してくれたという。龍馬自筆の俚謡は梶山鼎介がその場で貰い、現在は長府博物館にあるそうだ。私も朝帰りした際、ギターを弾いて歌ってみたら、妻は許してくれるだろうか・・・。おそらく逆効果になるに違いない(笑)。この対処法は、薩長同盟と同じく龍馬にしかできない芸当だ(笑)。

 思えば二人が夫婦として一緒に時を過ごしたのは、「寺田屋事件」後の闘病生活から薩摩旅行のときと、この自然堂での1ヵ月半ほどの間だけだった。伊藤家での生活は、龍馬の死後40年も生きたお龍にとって、忘れ難い思い出の地となったことだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-09 01:37 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(0)  

龍馬伝 第38話「霧島の誓い」

 慶応2年(1866年)3月10日、坂本龍馬と新妻・お龍の二人は西郷隆盛らに同行して薩摩の地に降り立った。「日本初の新婚旅行」といわれる旅である。この新婚旅行のいわれは、明治16年刊行の坂崎紫瀾著「汗血千里駒」の中で、「ホネー、ムーン」と紹介されたことによるもののようだが、本来の目的は、寺田屋事件で受けた手傷の湯治と、同事件でより厳しくなった幕府の監視から身を隠すため、と考えるのが正しいようだ。

 この旅の日程や詳細は、龍馬が姉・乙女に宛てた手紙や、龍馬自筆の手帳に書き残されており、こと細かな足取りが追跡できる。3月10日鹿児島着。鹿児島より海路、浜ノ市港に入り、日当山温泉に一泊。17日より塩浸温泉に11連泊。霧島に向かい、硫黄谷温泉にて小松帯刀と面談し1泊。29日、霧島山に登り霧島神社で1泊。30日、硫黄谷温泉に戻り1連泊。その後また塩浸温泉で連泊して4月11日鹿児島に帰着。特に長く滞在した塩浸温泉でのひとときは、龍馬にとってまさに心洗われる時間だったようで、
「げに、この世の外かと思われるほどのめずらしきところなり。ここに十日ばかりも止まりあそび、谷川の流れにてうおをつり、ピストルをもちて鳥をうつなど、実におもしろかり」
と、乙女に宛てた手紙の中で、子どもが親に語るように無邪気に伝えている。

 霧島山高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾」を引き抜いたという有名なエピソード。ドラマでは、龍馬の決意の行動という、えらく大袈裟な設定になっていたが、実際には龍馬とお龍のお茶目な「いたずら」だったようだ。乙女に宛てた手紙では、
「是ハたしかに天狗の面ナリ。両方共ニ其顔がつくり付てある、からかね也。やれやれとこしおたたいて、はるバるのぼりしニ、かよふなるおもいもよらぬ天狗の面、げにおかしきかおつきにて天狗の面があり、大ニ二人りが笑たり。」
と述べ、さらに、
「此サカホコハ、少シうごかして見たれバよくうごくものから、又あまりニも両方へはなが高く候まゝ、両人が両方より、はなおさへて、エイヤと引ぬき候得バ、わづか四五尺計のもの二て候間、又々本の通りおさめたり。からかねにてこしらへたものなり。」
とある。つまり、神の逆鉾といっても簡単にひっこ抜ける、まやかしものだと言っているに等しい。

 この「天の逆鉾」は、天照大御神の孫、邇邇芸命(ににぎのみこと)が突き立てたという伝説のもので、「神のましますしるし」だった。その逆鉾をいたずらで引き抜く行為など、龍馬の盟友・武市半平太を代表とする、皇国観念に酔った志士たちすべてにとって、とてもできることではなかっただろう。この行動から見ても、龍馬がこの当時のいわゆる尊王の志士たちと違う考えを持っていたことがわかる。龍馬は何かのシンボルに頼ることなく、常に現実主義で、自分の力のみを信じていた男だったのだろう。 「信仰」はもちろん「倫理」にも「道徳」にも彼はしばられなかった。そんな龍馬の人間像がうかがえるエピソードである。

 龍馬が薩摩に滞在したのは88日間。この旅に出る前、京の薩摩藩邸で療養していた期間を合わせれば、寺田屋事件から約5ヵ月近くもの間、世の流れから距離を置くこととなった。念願の薩長同盟を締結させ、これから・・・というときのこの療養期間は、龍馬にとっては歯がゆい日々だったに違いない。加えてこの間の5月2日、長州からの兵糧米を薩摩に廻送するユニオン号に同行した、亀山社中唯一の持船・ワイルウェフ号が暴風のため沈没し、同志・池内蔵太黒木小太郎ほか水夫10名が水死するという事故が起こった。自由の利かない自身の身体に加えて、船と同志を一度に失い、この時期の龍馬はやりきれない思いだっただろう。6月、龍馬はユニオン号から名をあらためた桜島丸(乙丑丸)に乗って鹿児島を発ち馬関に向かったが、その際ワイルウェフ号の沈没地点に近い五島にまわり、碑を建てて弔ったという。

 次週から第4部。いよいよ時勢は「倒幕」へと進んでいく。そして龍馬と岩崎弥太郎が深く関わることになるのも、これからである。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-21 01:17 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(2)  

龍馬伝 第37話「龍馬の妻」

 寺田屋で幕府捕方に襲われ、絶体絶命のピンチをからくも逃げのびた坂本龍馬三吉慎蔵は、伏見薩摩屋敷に庇護された。このとき京の薩摩屋敷にいた西郷隆盛は翌朝この知らせをうけ、彼を知るまわりの者たちも生涯見たことがないほどの怒気を発したという。そしておそらく伏見奉行所が龍馬たちの引き渡しを要求に来るであろうと見た西郷は、兵力に訴えてでも拒否するという方針を明示し、薩摩藩自慢の英国式一個小隊をつけ、薩摩藩士・吉井幸輔に指揮官を命じ、伏見薩摩屋敷の警護にあたらせた。さらに龍馬の負傷を聞いて、藩医・木原泰雲も同行させた。このときの薩摩の行動に対して、「実に此仕向けの厚き、言語に尽す能はず。」と、三吉慎蔵の日記「三吉慎蔵日記抄録」に書いている。

 伏見薩摩屋敷に1週間ほど匿われた龍馬たちだったが、奉行所の監視が執拗なこと、伏見では十分な医療が受けられないという理由から、2月1日、京の薩摩藩邸に移った。その際、既に事件直後から警備にあたっていた一個小隊に加え、更にもう一個小隊、そして大砲まで用意された。もはやそれは一種の軍事行動だった。たかが一介の脱藩浪士を京に護送するのに、日本最強の英国式歩兵隊と大砲が動くのである。「薩長同盟」成立直後のこの時期、いかに西郷が坂本龍馬という人間の価値を認めていたががうかがえる。龍馬、三吉、お龍を乗せた三艇の籠を中心に、前衛に一個小隊、後衛に一個小隊と大砲が進んだ。これでは奉行所も見廻組も手の出しようがなかった。

 第36話「寺田屋騒動」の稿で紹介した龍馬の手紙に、「私の傷は少々なれども、動脈とやらにて、あくる日も血が走り止めず、三日計り小便に行くも目がまひました。」とあるように、龍馬の傷は思った以上に深かったようで、しばらくは床に伏した生活だった。そのとき龍馬を献身的に看病したのが、お龍だった。医師の父・楢崎将作のもとに育ったお龍は病人や怪我人の看護は馴れていたかもしれない。寺田屋事件の際も、お龍の機転のきいた行動で九死に一生を得た龍馬。そのときのことを龍馬は、姉・乙女に宛てた手紙に、「正月廿三日夜のなんにあいし時も此龍女がおれバこそ龍馬の命ハたすかりたり」と書いているが、その後も龍馬はお龍の看病を受ける日々を過ごすこととなり、事件後もお龍は龍馬にとって命の恩人となった。おそらくはこのとき、龍馬はお龍を妻とする決意をしたのだろう。

 男にとって、病に伏したときほど心細くなるときはない。健康時、仕事に情熱を燃やしていた男ならなおさらだ。そんなとき、自分の手となり足となって看護してくれる女性が傍にいれば、これはもう、惚れないでいるほうが難しい。私も数年前、入院した経験があるが、そのときの担当の看護婦さんが天使に見えた(ちょっと意味合いが違うかな・・・笑)。幕吏に追われ、いつ命を落とすかもしれない身となったこの時期の龍馬が、妻を娶る気になるということ自体が不思議とも思えるが、病に伏し気弱になった龍馬が、命の恩人でありなおも看病をしてくれているお龍に、ずっと傍にいてほしいと思ったのも無理はないだろう。龍馬とお龍は、西郷隆盛、小松帯刀の立ち会いのもと祝言をあげ、正式に夫婦となった。

 長崎の亀山社中に立ち寄ったのはドラマオリジナルのフィクション。龍馬とお龍は西郷のすすめもあって、幕吏の捜査からしばらく身を隠すため、湯治を兼ねた薩摩旅行に向かう。世にいう「日本初の新婚旅行」である。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-13 02:18 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(8)  

龍馬伝 第36話「寺田屋騒動」

 慶応2年(1866年)1月22日に「薩長同盟」を締結させた坂本龍馬は、翌23日夜、この時期龍馬の護衛として行動を共にしていた長州藩士・三吉慎蔵の待つ伏見寺田屋へと帰着した。そしてその夜、伏見奉行所配下の捕方らに襲撃されるという、いわゆる「寺田屋事件」が起こる。この事件については、以前、寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)新史料が見つかる。の稿でも紹介した、三吉慎蔵の日記「三吉慎蔵日記抄録」などに詳しいが、しかし事件当日の様子においてもっとも詳細な資料としては、龍馬が土佐にいた実兄・坂本権平に宛てた手紙に勝るものはないだろう。描写が実に細やかで面白く、今話は私の駄文で説明するよりも、その龍馬の手紙の文章を紹介することにしたい。

上に申す伏見の難は、去正月廿三日夜八つ時半頃なりしが、一人のつれ三吉慎蔵と咄して、風呂より上り、もふ寝やうと致し候所に、ふしぎなるかな(此時二階に居り申候)人の足音のしのびしのびにに階下を歩くと思ひしに、ひとしく六尺棒の音からからと聞ゆ。折から兼てお聞に入れし婦人(名は龍、今は妻といたし居り候)走せ来り云よふ、
「御用心なさるべし、敵の襲ひ来りしなり。槍持ちたる人数、梯子段を上りし也」
と、夫より私も立ちあがり、袴着んと思ひしに次の間に置候。その儘、大小差し、六発込の手筒をとりて後なる腰かけに凭る。つれなる三吉慎蔵は袴を着て大小とりはき、是も腰掛にかゝる隙もなく、一人の男、障子細目にあけ内を窺ふ。見れば大小さし込みなれば、
「何者なるや」
と問ひしに、つかつかと入来れば、直ぐ此方も身構へなしたれば、又引き取りたり。
早次の間にみしみしと物音すれば、龍に下知して次の間のうしろの唐紙とりはづさして見れば、早二十人計も槍もて立ならびたり。其時暫く睨み合ふ所に、私より
「如何なれば、薩州の士に無礼はするぞ」
と申したれば、敵人口々に
「上意なるぞ。坐れ々々」
と罵りつゝ進み来る。此方も一人は槍を中断に持つて私の左に立たりける。私思ふやう私の左に槍を持て立てば、横を打たると思ふ故、私が立替り、其左の方に立ちたり。其時銃は打金をあげ、敵の十人計も槍持ちたる一番右の方を初めとして、一つ打たりと思ふに其敵は退きたり。此間、敵は槍を投突きにし、又は火鉢を打ちこみ色々して戦ふ。私の方には又槍もて防ぐ。実に家の中の戦ひ、誠にやかましくて堪り申さず。又一人を打ちしが、中(あた)りしやわからず。
其敵一人は、果して障子のかげより進み来り、脇差をもて、私の右の大指のもとをそぎ、左の大指のふしを切りわり、左の人さし指の本の骨ぼしをきりたり。前の敵猶迫り来る故、又一発放せしに、中りしや分らず、私の筒は六丸込みなれど、其時は五丸込みてあれば、実にあと一発限りとなり、是大事と前を見るに、今の一戦にて少し沈みたり。一人のもの、黒き頭巾着てたちつけ穿き、槍を平青眼のやうに構へ、近く寄りて壁に沿うて立ちし男あり。夫を見るより又打金あげ、私のつれの、槍もて立ちしに、其敵は丸に中りしと見えて、唯ねむりたほれるやうに、前に腹這ふやうに斃れたり。
此時も又、敵の方はドンドン障子を打ち破るやら、からかみを踏み破るやらの物音すざましく、然れども一向手許には参らず。此時、筒の玉込めんとて六発銃の(れんこん型の絵あり)此のうやうの物を取り外し、二丸までは込みたれども、左の指は切られてあり、右の手も傷めて居り、手元思ふやうに成らず、つひ、手よりれんこん玉室取り落としたり。下を探したれども元より布団は引さがし、火鉢やら何やら何かなげ入れしものと交り、どこや知れず、此時は敵はとんとん計りにて此方に向ふものなし。其れより筒を捨て、私のつれ三吉慎蔵に
「筒は捨てたぞ」
と云えば、三吉曰く
「夫なれば猶敵中につき入り、戦ふべし」と云う。けれども私曰く
「此間に引取り申さん」
と云えば、三吉もとりたる槍を投げ捨て、後の梯子段を降りて見れば、敵は唯、家の見世の方ばかり守りて進むものなし。
夫より家のうしろのやそひを潜り、後の家の雨戸を打破りて這入りたれば、実に其家は寝呆けて出たか、ねやが延いてあり、気の毒にありけれど、其家の建具も何も引きはづし、うしろの町に出んと心掛けしに、其家も随分大きなる家にて中々破れ兼ね、右両人して散々に破り、足もて踏破りたり。夫より町に出でゝ見れば、人は一人もなし、是れ幸と五町計り走りしに、私は病気のあがりなりければ、どうも息切れあゆまれ申さず。
此時思ひしに、男子はすねより下に長きものはすべからずと、此時は風呂より上りしままなれば、ゆかたを下に着て、其上に綿入れを着て袴なしなり。着物は足にもつれ、ぐづゝしよれば敵が追ひつく。横町にそれ込みて、お国の新堀と言う様な所に行きて、町の水門よりずび込み、其家の裏より材木の棚の上にあがりて寝たるに、折あしく犬が実に吠えて困り入りたり。そこに両人とも居りしが、ついに三吉は先づ屋敷(伏見薩摩屋敷のこと)に行くべしとて立出でゝ屋敷に入り、又屋敷の人も共に迎ひに来て私も帰りたり。私の傷は少々なれども、動脈とやらにて、あくる日も血が走り止めず、三日計り小便に行くも目がまひました。此夜彼龍女も同時に戦場を引きとり、すぐざま屋敷に此由を告げしめ、後に共々京の屋敷に引取る。


 まるで実況中継のようなこの手紙は、当夜の様子を実に詳細に伝えてくれる。九死に一生を得るという大事件にもかかわらず、この手紙ではその恐怖などはまったく記述されておらず、むしろコミカルな印象さえ感じられる。負傷した指でピストルの玉込めを替えようとして落としてしまい、それを探し回る龍馬の姿を想像すると、壮絶な場面にもかかわらずつい吹き出してしまいそうになる。近隣の家の雨戸を破って入るとその家の人は寝呆けていたとか、材木屋の屋根の上で寝ていると犬が吠えて困ったとか、龍馬の人生最大のピンチだった悲壮感は微塵にも感じられない。龍馬ならではの文章だ。

 龍馬の指の傷は動脈まで達しており、出血が止まらず走れなくなった龍馬は、材木屋の棚の上に身を潜めた。龍馬の手紙には書かれていないが、「三吉慎蔵日記抄録」の中に書かれているもので私の大好きなエピソードがある。材木屋の棚の上に隠れていた際、もはや助かる道はなしと覚悟した三吉は龍馬に、ここで武士らしく切腹して果てようと進言する。しかしそれを聞いた龍馬は、
「死ハ覚悟ノ事ナレバ、君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ。若シ途ニシテ敵人ニ逢ハゝ必死夫レ迄ナリ僕モ亦タ與所ニテ死センノミト」
 現代語に直すと、「死ぬ覚悟ができているのならば、君はこれより伏見薩摩藩邸へ走ってくれ。もし、その途中で敵に会えばそれまでだ。僕もまた、この場所で死ぬまでだ。」ということ。生き死には天にまかせろ。切腹して果てるのも、敵に首を討たれるのも、死ぬことに変わりはない。ならば体の動く限り生きることを考えろという。この龍馬の言葉が、彼をあと1年10カ月の間生かすこととなり、三吉慎蔵にいたっては明治34年まで生かすことになる。龍馬にとって三吉は命の恩人であることは間違いないが、三吉にとっても龍馬は命の恩人といえるだろう。

 そしてもう一人の命の恩人、お龍。彼女が捕方の来襲を龍馬たちに伝えるシーンは、多くの男性視聴者の期待どおり・・・とはいかなかった(笑)。入浴中だったお龍が一糸まとわぬ姿で階段をかけ上がり、その報告を受けた二人は襲撃に備えることが出来たという有名なエピソードだが、この「一糸まとわぬ」というのは実際のところはわからないようだ。明治32年のお龍自身の回想録「千里駒後日譚」では、「濡れ肌に袷を一枚引っかけ」と語っており、また、当ブログで度々紹介している坂崎紫瀾著の「汗血千里駒」では、浴衣をうちかけたとある。しかし、三吉慎蔵が後年自身の活躍をまとめた記録「毛利家乗抄録」では、「龍馬の妾全マ浴室ニ在リ、変ヲ見テ裸体馳セ報ズ」とあり、「裸体」という記述が見られるが、同じく三吉の日記「三吉慎蔵日記抄録」には「坂本の妾二階下ヨリ走リ上リ」とあるのみで、お龍の姿については書かれていない。ドラマでのお龍の姿は、彼女自身の談話の姿を採用したものだろう。

 兎にも角にも、龍馬は絶体絶命のピンチを脱し、九死に一生を得た。そしてこの修羅場をきっかけに、お龍と龍馬の関係が一層深まったことはいうまでもない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-06 03:07 | 龍馬伝 | Trackback(1) | Comments(5)  

龍馬伝 第25話「寺田屋の母」

 伏見寺田屋は、代々、京阪往復舟客取扱いと旅宿業を営む船宿。女将のお登勢は18歳で寺田屋六代目伊助に嫁ぎ、一男二女をもうけるが、夫が病弱だったため、寺田屋の家事一切を取り仕切っていた。女将としての手腕に長け、いたって評判が良かったそうだ。この寺田屋では、文久2年(1862年)4月23日に薩摩藩士同士で起こした内訌事件があって以後、毎月の命日に薩摩藩邸の人々を招き、殉難者の弔祭を行い続けたという。その行いによって寺田屋は薩摩藩との関係が一層深まり、格別の信頼をおかれていたという。

 坂本龍馬がこの寺田屋に出入りし始めたのは、薩摩藩の紹介によってという見方が強いようだ。慶応元年(1865年)9月の姉・乙女に宛てた手紙に「伏見ニておやしき(薩摩藩邸のこと)のそばニ宝来橋と申へんに船宿ニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申すものあり、これハはたごやニて候」と紹介している。お登勢は、寺田屋を定宿にしていた龍馬を大そう手厚く接待していたようで、後にお登勢の息子・七代目伊助が「亡母ヲ座敷ニ呼ビ何事カ密ニ談ゼラレ」と語っており、龍馬がお登勢に親密に心を許していたことがうかがえる。先に紹介した乙女宛ての手紙にも、「ちよふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおるよふなこゝろもちニており候」と、龍馬の一番上の姉・千鶴の嫁ぎ先の高松家での快適さにたとえ、「あちら(高松家)よりもおゝいにかわいがりくれ候」と紹介しており、よほど懇意な関係だったことを知ることができる。

 また、慶応2年(1866年)に兄・権平に宛てた手紙ではお登勢のことを、「学文も十人並の男子程の事ハいたし居り候もの」と評価している。面倒見がよく、学問もそなえ、情に厚いお登勢の存在は、龍馬にとってまさに「寺田屋の母」といってもよく、常識に少し欠けた面を持つお龍を託すのにこれほど安心できる人物と場所はなかっただろう。禁門の変(蛤御門の変)で焼け野原となった京の町に龍馬が入ったのは、事変から10日ほどが過ぎた8月1日。お龍の身の危険を案じた彼は、母を杉坂の尼寺へ、妹を海舟のもとへ、弟たちは金蔵寺へとあずけ、お龍を寺田屋にあずけた。突然見ず知らずの娘の擁護を託されたお登勢だが、それも快く引き受け、お龍の眉を剃って人妻風にしたて、名もお春と変えさせてかくまったという。何故そこまで龍馬はお龍家族の世話を焼いたのか。既にこの頃の龍馬は、お龍に対して特別な感情を抱いていたのかもしれない。その特別な女性を託したお登勢の存在というのは、この時期の龍馬にとってもっとも信頼できる人物だったのだろうと想像する。

 お龍の寺田屋での生活は半年余りに過ぎなかったが、龍馬は終生お登勢を信頼し、以後、土佐の坂本家からの送金や手紙はすべてこの寺田屋を窓口としており、また、お登勢自身にも手紙を送り続けている。まさに母のような存在だったのだろう。

 今話で閉鎖になった神戸海軍操練所の史跡巡りを先日しました。よければ一読ください。
 坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その1
 坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その2
 坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その3
 坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その4


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by sakanoueno-kumo | 2010-06-21 00:24 | 龍馬伝 | Trackback(6) | Comments(0)