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いだてん~東京オリムピック噺~ 第38話「長いお別れ」 ~東京オリンピック中止と第二次世界大戦~

e0158128_19143177.jpg 嘉納治五郎が命をかけて死守した昭和15年(1940年)の東京オリンピック開催でしたが、その嘉納が急逝すると、たちまちオリンピック開催反対論が息を吹き返します。日中戦争が激化するなか、昭和13年(1938年)4月に公布された国家総動員法によって、すべての物資が軍の統制下に置かれ、競技場並びに関連施設の建設がさらに難しい状況になります。また、諸外国からの日本に対する風当たりもますます強くなり、アメリカをはじめヨーロッパ各国から東京オリンピックボイコットの声が高まり始めました。こうなると、これまで東京開催を支持していたIOC会長ラトゥールも、ついに反対論に押され、日本に開催辞退を求めるようになります。これを受けて日本は、7月15日、正式に東京オリンピック中止を閣議決定し、翌日、組織委員会によって発表されました。嘉納の死からわずか2ヶ月後のことでした。


 「オリンピックの開催は、政治的な状況などの影響を受けるべきではない」


 嘉納が最後のIOC総会で訴えたオリンピック理念ですが、その理想は間違っていないにしても、それを実行するのは実質的には不可能で、それは、21世紀の現代でも変わっていません。国家規模で行われるイベントである以上、国はそれをガッツリ政治利用しようとします。百歩譲って平和親善のための政治利用はやむを得ないとしても、その逆は(たとえばボイコットとか)、やはりやるせないですね。何よりいちばん気の毒なのは、4年に一度の舞台にかけるアスリートたちです。


 その後、辞退した東京に代わってフィンランドヘルシンキ代替開催地となりますが、その翌年の昭和14年(1939年)9月3日、ドイツがポーランドに侵攻したことにより、イギリス、フランス両国が宣戦を布告。ここに第二次世界大戦が始まります。その煽りを受けて代替開催地のフィンランドにもソ連軍が侵攻する事態となり、結局、IOCは第12回オリンピック開催を断念します。欧米諸国もアジアも、世界中がスポーツどころじゃなくなっていました。


 そして国際的に孤立する日本は、東京オリンピックが開催されるはずだった昭和15年(1940年)、ドイツとの関係を強化するため、イタリアも加えた日独伊三国同盟を結びます。これにより、アメリカ、イギリスとの対立は決定的となり、翌年の対米戦開戦につながっていくんですね。それにしても、東京オリンピック招致のために立候補取り下げを談判したムッソリーニと、東京オリンピック招致を後押しした(とされる)ヒトラーとここに来て手を結ぶに至るとは、やはり、オリンピック招致運動は政治だということですね。


 ドラマでは第二次世界大戦はほとんど描かれないようで、一気に年月が過ぎていきました。まあ、物語の主題はオリンピックですから、それでいいんじゃないでしょうか。そして描かれたのは、昭和18年(1943年)10月の学徒出陣。戦局はいよいよ悪化し、その兵力不足を補うために在学中の高校生や大学生も徴兵されることになったわけですが、そのなかには、平時であればオリンピック代表選手になっていたであろう有名アスリートたちが多く含まれ、戦地へ送られました。そして、その出陣学徒壮行会が行われたのが、皮肉にも東京オリンピックが開催されるはずだった明治神宮外苑競技場だったんですね。ドラマの金栗四三の愛弟子・小松勝は架空の人物のようですが(たぶん、誰かモデルとなる人がいるのでしょうね)、彼のように、東京オリンピックに出るはずだった若者が、軍服を着てここを行進し、そして帰らぬ人となったケースがたくさんあったのでしょう。嘉納治五郎が平和の祭典を開催するために全精力を注いで建てた競技場が、一転してアスリートを死地に送り込む舞台となってしまった。これ以上の皮肉があるでしょうか。嘉納の無念極まりない嘆きが聞こえてきそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-07 21:27 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第35話「民族の祭典」 ~東京五輪招致の成功とベルリン五輪~

 二・二六事件から五ヵ月後の昭和11年(1936年)7月29日、ベルリンIOC総会が開催されました。前年の総会で日本がムッソリーニに交渉してローマを辞退させたことにより、IOCの反感を買って決定が先送りになった昭和15年(1940年)の第12回オリンピック大会の開催国を決定するための総会です。前年の政治的な運動の責任をとって杉村陽太郎がIOC委員を辞任したため、日本からの出席は嘉納治五郎副島道正の2人。嘉納はIOC委員としては最古参で、副島は初めての総会出席でした。


 候補地は東京ヘルシンキ一騎打ちでした。東京の最大の不利は、極東の遠い国ということ。これまでの11回のオリンピックは、全て欧米で開催されてきました。飛行機が発達していないこの当時、ヨーロッパから日本に来るには、船でアフリカ、インド洋を経て日本に向かうか、あるいは北米回りの航路か、はたまたシベリア鉄道でソ連を横断して日本に入るかのいずれかのコースしかありませんでした。いずれも20日間近い日数を要します。東京開催に難色を示すIOC委員の共通の理由は、渡航日数が長く旅費がかかりすぎるということでした。


e0158128_19143177.jpg しかし、これに嘉納は真っ向から反発します。


 「日本はその極東から、1912年以来二十余年、毎年多くの選手を派遣している。日本が遠いということは理由にならない。むしろ、東京で開催することによって、オリンピックはようやく欧米のものから世界的な文化になる。オリンピックは当然日本に来るべきだと思われるにもかかわらず、もし来ないのであれば、それは正当な理由が斥けられたということに他ならない。それならば、日本からヨーロッパへの参加また遠距離であるから、出場するには及ばないということになる。そのときは日本は更に大きな世界的な大会を開催してもいいと思っている」


 この嘉納の半分脅しともとれる強気の熱弁が功を奏したのか、投票の結果、36票対27票東京が勝利しました。アジアではじめてのオリンピック開催が決定。満州事変以降、日本は国際連盟を脱退するなど世界的に孤立して数年が経過していたこの時代に、せかいスポーツの国際大会を東京で行うことの支持を取り付けた。これは一にも二にも嘉納の功績といって大過はないでしょう。まさに、スポーツと政治は別ものという理想を体現してみせました。まったく、すごいじいさんですね。しかし、実際のアジアでのはじめてのオリンピック開催は、20年以上先になることは周知のところです。やはり、スポーツと政治は切り離せなかったんですね。それは、これから描かれていくのでしょう。


e0158128_00002262.jpg 同じ年、第11回オリンピックベルリン大会が開催されました。第一次世界大戦によって第6回オリンピックベルリン大会が中止されてから20年。ドイツ国民にとっては悲願のオリンピック開催だったでしょう。もっとも、この20年の間にドイツは様変わりしていました。昭和8年(1933年)にドイツの政権を掌握したアドルフ・ヒトラーは、昭和10年(1985年)に「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(ニュルンベルク法)に制定し、アーリア民族至上主義のもとに国内のユダヤ人を迫害していました。この当時、第一次世界大戦の過酷な戦後措置に対して深い遺恨を抱いていたドイツ国民が、このヒトラーの思想に同調し、多くの支持を寄せるようになります。そんななか、ヒトラーは当初、オリンピックは「ユダヤ人の祭典」だとしてベルリン開催に難色を示していましたが、しかし、側近から「大きなプロパガンダ効果が期待できる」との説得を受けて、開催することに同意したといいます。ヒトラーはオリンピックを通じて国威を見せつけるべく、膨大な国家予算を投じて10万人以上を収容する巨大なメインスタジアムを建設するなど、大いに政治利用しました。やはり、スポーツと政治は切り離せなかったんですね。


 ちなみに、アテネからランナーが聖火をリレーして開催地に運ぶという、いわゆる聖火リレーが初めて行われたのが、このベルリン大会だったそうです。実はこれも、彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想から生まれたプロパガンダだったそうですが、当初の思惑はさておき、いまなお続いている聖火リレーを考案したのは、唯一、ヒトラーの後世に残した功績といえるかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-16 00:00 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)