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西郷どん 第1話「薩摩のやっせんぼ」 ~郷中教育~

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 明治31年(1898年)、東京・上野公園に建てられた西郷隆盛銅像除幕式から物語はスタートです。このとき、その銅像を初めて見た西郷の三番目の妻・糸子が、「わたしの夫はこんな人ではなかった・・・」と薩摩弁でつぶやいたという話は有名で、その逸話から、銅像は生前の西郷には似てないというのが定説となっていますが、「こんな人ではなかった」という言葉の意味は、こんな顔ではなかったという意味だったかどうかはわかりません。あるいは、このような格好(着流し)で出歩くような人ではなかった、という意味かもしれず、また、あるいは、このような表情をする人ではなかた、という意味かもしれません。その真意は定かではありませんが、オープニングに没後21年の場面を持ってきたのは、この糸子の台詞に、この物語の何らかの意味が込められているのかもしれませんね。

これより遡ること21年前の明治10年(1877年)、反政府軍の首領として戦場に散った西郷ですが、賊軍の将の銅像が、死後わずか21年で敵対した政府によって建てられたなんて例は、世界中探しても見当たらないそうです。そんな稀代の英雄・西郷隆盛の物語が始まりました。


 西郷隆盛の生家は鹿児島城下の下加治屋町という貧乏士族が多く住む地域で、父の西郷吉兵衛は、御小姓与勘定方小頭でした。薩摩藩の士分の家格は、大きく城下士(上士)外城士(郷士)に分けられますが、西郷家は、一応、城下士に属しました。城の近くに住めない外城士に比べて格上でしたが、城下士の中では与力についで下から二番目の低い家格でした。薩摩藩は他藩に比べて人口に対する武士の比率が際立って高く、そのため、下級武士たちの生活は貧窮を極めました。当然、西郷家もその例外ではなく、さらに、父・吉兵衛とその妻・マサ夫妻は四男三女の子宝に恵まれており、西郷家は使用人も含めて二十人近い大所帯だったといいますから、その貧窮ぶりは想像に絶するものだったに違いありません。そんな環境で西郷は育ちました。


 西郷をはじめ、薩摩人を語るに知っておかねばならないのが、薩摩藩独特の子弟教育制度である郷中教育でしょう。このシステムは16世紀末期から始まったとされ、城下士の住む地区を6つに分け、その地区ごとに「郷中(ごちゅう)」という組織を形成し、武家の男子は6、7歳になると皆、この組織に入ります。そして、6、7歳から12、3歳までを「稚児(ちご)」と称し、14、5歳から23、4歳で妻帯するまでを「二才(にせ)」と称します。郷中に入った子供たちは毎日そこに通い、互いに競うように文武の修行をしました。稚児は二才に従い、二才は稚児の世話をする。そんな生活を毎日朝から日が暮れるまで続けていたわけですから、同じ郷中の者はほとんど兄弟同様で、必然的にその団結力は強固なものとなります。この教育システムが、後年の薩摩士族の団結力に繋がっていると言われます。


 少年時代の西郷の逸話で、必ずふれなければならないのが、ドラマで描かれていた右腕の負傷です。その伝承によると、天保10年(1839年)、妙円寺参りの帰りに友人がある人物から難癖をつけられ(西郷自身という説も)、はじめ西郷はそれを制止しようとしますが、相手は鞘に差したままの刀で西郷を叩き始め、やがて、はずみで鞘が割れ、刃が西郷の右腕内側の筋を切ってしまいます。この傷は相当深かったらしく、西郷は数日間痛みと高熱に苛まれ、なんとか一命はとりとめたものの、その右腕は十分に動かすことが出来なくなってしまいました。ずっと後年、西郷とはじめて会ったイギリス公使館付通訳のアーネスト・サトウが、西郷の片腕に刀傷があることにすぐ気がついたというエピソードが残るくらいですから、よほどの深傷を負ったのでしょうね。この怪我によって西郷は剣術の修行を断念し、学問で身を立てるべく勉学に没頭するようになったと伝えられます。


この事件が、その後の西郷の人格形成進路に大きな影響を及ぼしたといっても過言ではないでしょう。少年・西郷にとっては不幸な出来事でしたが、日本の歴史にとっては、必要な出来事だったといえるかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-08 01:57 | 西郷どん | Trackback(2) | Comments(2)  

花燃ゆ 第39話「新しい日本人」 ~廃藩置県~

 明治4年(1871年)7月14日、明治政府によって廃藩置県の詔が発令され、すべての藩が廃止されます。同時に、知藩事に任命されていた旧藩主たちすべても解任されて東京に集められ、代わって政府が選んだ適任者が、県令(現在の県知事)として配置されました。これにより、美和が務める奥御殿も、否応なく閉じられることになりました。ようやく、何が描きたかったのかよくわからない奥御殿編が終わりです。

 ここで、版籍奉還から廃藩置県の流れについてふれておきます。明治政府は、幕藩体制下の封建制から近代的な中央集権国家をつくるため、支配していた土地(版)人(籍)を天皇に返還させたのが版籍奉還でしたが、しかし、代わりに旧藩主を旧領地の知藩事に任命し、その下には、縮小されたとはいえ相変わらず武士団が存在し、年貢の取り立ても、知藩事が行っていました。結局のところ、便宜上、版籍を奉還したものの、かたちとしてはあまり変わっておらず、明治政府の力は依然として弱いものでした。このままでは、いつクーデターを起こされるかわからない。政府は、もっと地方の力が弱まる政策を必要としていました。

 この頃、旧天領や旗本支配地などは、政府の直轄地として「府」「県」が置かれ、政府から知事が派遣されていました。東京府、大阪府、京都府の3府と、現在まで名称が残っている県としては、兵庫県、長崎県などがそれにあたります(現在の区画とは大きく異なります)。この制度を全国に統一させようというのが「廃藩置県」でした。イメージ的に、廃藩置県によって初めて府や県ができたように思いがちですが、実は、「府」「県」「藩」が同時にあった時期があるんですね。これを「府藩県三治制」といいます。中央集権と地方自治が入り混じった複雑な時期だったんですね。

 政府としては、一刻もはやく廃藩置県を発令したかったのですが、それには、まず、直轄の軍隊をつくる必要がありました。廃藩置県の荒療治を断行するには、それ相応の反作用が予想されるわけで、それを抑えつけるだけの軍事力が不可欠。それには、徴兵制が必要だと唱えたのが、大村益次郎でした。この案に政府参議の木戸孝允は賛同しますが、同じく参議の大久保利通らは、いきなりそんな強引なことをすれば、たちまち戦になるとして、反対の立場をとります。その後、両派は連日激論を交わしますが、結局、大久保らの主張する慎重論に収まり、薩摩・長州、土佐三藩による御親兵の設置が決まりました。このときの心境を木戸は日記にこう綴っています。

 「わが見とは異なるといえども、皇国の前途のこと、漸ならずんば行うべからざることあり」

 自分の意見とは違うが、すこしずつ前進させていかなければならない、ということですね。我慢強い木戸らしい述懐です。

 その後、大久保による政府内の構造改革を経て、洋行帰りの山県有朋を兵部少輔にすえて御親兵を設置。廃藩置県を断行するお膳立ては整いましたが、さらにこの政策を強固なものにするために、大久保は鹿児島に引っ込んでいた西郷隆盛に中央政府への出仕を求めます。人望のある西郷を押し立てて、その威光を借りて改革を断行しようと考えたんですね。このあたりが、大久保の政治家としてのスゴイところです。この頃の大久保の言葉が残っています。

 「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」

 何もせずに失敗するよりも、大勝負を打って失敗したほうが、よっぽどいいじゃないか!・・・ってことですね。さすが、決断力と行動力の人です。

 こうして水面下で準備が整えられ、明治4年(1871年)7月14日、ほとんどクーデターの如く廃藩令が下され、藩が消滅しました。懸念された暴動のようなものは、ほとんど起こりませんでした。何の前触れもなく電撃的に行われたため、呆気にとられた感じだったのかもしれません。それと、諸藩側の事情としても、戊辰戦争以来の財政難に行き詰まっていた藩が多く、廃藩は渡りに船といった感もあったようです。政府は、藩をなくす代わりに、諸藩の抱える負債を引き継ぐかたちとなりました。いろんな意味で、絶妙のタイミングでの革命だったのかもしれません。

 この革命を知った英国の駐日公使ハリー・パークスの感想が、アーネスト・サトウの日記に残っているそうです。

 「欧州でこんな大改革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」

 こうして261藩は解体され、1使3府302県となり、同じ年の11月には1使3府72県に改編されます。パークスが大絶賛した無血革命でしたが、武士すべてが失業という荒療治の反動は、この後ジワジワと押し寄せてくることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-28 20:51 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(2)  

八重の桜 第17話「長崎からの贈り物」 〜孝明天皇の死〜

 慶応2年(1866年)12月25日、孝明天皇(第121代天皇)が36歳という若さで崩御しました。その5ヶ月前には、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂も急逝しており、奇しくも慶応2年後半期に、公武の最高位にある天皇将軍が相次いでこの世を去ることとなりました。政局が混沌としていたこの年、将軍家茂が死んだときにも暗殺の風説が流れたといいますが、孝明天皇の死については、暗殺説がかなり流布していたようです。現代の学者さんたちの中にも、孝明天皇暗殺説を支持する方もいます。はたして真相はどうだったのでしょう。

 従来の定説となっている病状を見ると、亡くなる半月ほど前の12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、その翌日からひどく発熱します。12日、13日と熱は下がらず、14日に診察した医師によると、「痘瘡(天然痘)か陰症疫の疑いあり」と診断されます。睡眠も食事も満足にとれず、うわ言を発し、16日になると全身に発疹があらわれ、17日正式に痘瘡と公表されました。そこで七社七寺への祈祷が命じられ、将軍以下、京都守護職の松平容保らも見舞いに参内したようです。ドラマでは、天皇の急逝の報を受けて、「青天の霹靂」といった感じの容保でしたが、実際には、まったく予期せぬ出来事というわけではなかったようです。

 ただ、18日以降、少しずつ病状は回復に向かっており、その意味では寝耳に水だったかもしれません。病状が急変したのは24日夜からで、翌25日の公卿・中山忠能の日記に「何共恐れ入り候御様子」と書かれるほどの病状となります。嘔気をもよおし、痰は多く、しだいに体力を失い、脈も弱まり、25日亥の刻(午後11時ごろ)に、ついに崩御となりました。

 このような病状の急変が、さまざまな風説を生む原因となったようです。なかでも多くささやかれたのが毒殺説。私は医学については門外漢ですので、このような病状の急変についての知識はありませんが、専門家によると、何かに中毒したことによる急死の症状に酷似しているらしく、毒を盛られた可能性は否定出来ないとのことです。もっとも、当然のことながらそれを立証できる証拠はなにもなく、全ては憶測に過ぎません。

 ただ、当時このような風説が流布される客観的な条件はじゅうぶんそろっていました。この当時、政局は混沌としており、公武のトップである天皇と将軍の死は、佐幕派倒幕派ともに大きな政治的意味があったことはいうまでもありません。当時、日本に駐在していたイギリスの外交官・アーネスト・サトウが後年に書いた日記でこう述べています。

 「当時の噂では、帝の崩御は天然痘によるものだと聞いていたが、しかし数年後、その間の消息によく通じているある日本人が、わたしに確言したところによれば、帝は毒殺されたのだという。この帝は所信をもって、外国人に対していかなる譲歩にも断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなることを予見した人々によって、殺されたというのだ。この保守的な帝がいたのでは、戦争を引き起こすような事態以外のなにものも期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、東洋諸国ではごくありふれたことであり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋のために毒殺されたという噂が流布した。しかし当時は、帝についてそのような噂は聞かなかった。帝が、ようやく15、6歳になったばかりの少年(睦仁親王)を継承者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役だったであろうことは否定できない」

 これによると、倒幕派が攘夷論者である孝明天皇を毒殺したということになりますね。攘夷論では朝廷が外国と関係を持つようになっては大障害になるという観点からの毒殺説ですが、イマイチ理由としては弱い気がします。それよりも、佐幕派の天皇では、倒幕を遂行するにはどうにも邪魔である、というほうがまだ説得力がある気がしますね。事実、岩倉具視がこれを画策したという風説があります。岩倉具視の義妹である堀河紀子が宮中女官として入っており、その紀子を操って痘瘡の薬のなかに毒物を混入させた・・・と。もちろん風説であって、岩倉にしてみれば迷惑千万なはなしかもしれませんが、岩倉の場合それ以前の和宮降嫁問題のときにも、天皇毒殺をはかったという評判がたったことがあった人物で、疑惑の目で見られたのも無理はなかったかもしれません。

 薩摩藩士・大久保利通は、「玉(天皇)をわが方に抱えることが、千載の一事で、もし幕府に奪われては藩の滅亡」としていました。天皇を味方につけた方が勝つということですね。しかし、ときの天皇である孝明天皇は、はっきりとした政治的発言をおこない、しかもそれは佐幕説でした。倒幕派にとっては、孝明天皇は邪魔な存在で、その死が倒幕派にとって有利なことであったのは明らかでした。だからこそ毒殺説が生まれたのでしょう。実際に毒殺が行なわれたのか、あるいは本当に痘瘡による病死だったのか、今となっては真相は闇の中ですが、いずれにせよ、孝明天皇の死が倒幕派を大きく勢いづかせたことは間違いありません。古代・中世はさておき、孝明天皇は日本の近世以降の天皇のなかで、珍しく政治的行動・発言をおこなった、ただひとりの天皇といえるかもしれません。そのため、36歳の若さでこの世を去ることとなってしまった・・・かどうかは定かではありませんが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-02 23:26 | 八重の桜 | Trackback | Comments(2)