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タグ:ルイス・フロイス ( 11 ) タグの人気記事

 

近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>

「その1」で紹介した坂本城址公園から150mほど北上したところに、かつて坂本城本丸があったとされます。

現在、その場所には、「坂本城本丸跡」と刻まれた石碑があります。


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近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20371967.jpg


石碑の説明文は読みにくいですが、こうあります。


坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。

天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20434486.jpg


ここは以前、企業の研修所があったようですが、ここを訪れた平成30年(2018年)8月現在、企業さんが手放されたのか、看板が撤去された無人の建物だけになっていました。

「その1」にあった案内MAPによると、この本丸跡の湖岸に坂本城の石垣があるといいます。

行ってみましょう。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20461679.jpg


湖岸にやってきました。

たしかに石垣があります。


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これがそうでしょうか?


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確かに石垣の遺構のようにも見えますが、後世のもののようにも思えますが、あとで調べてみると、石垣の遺構は琵琶湖が渇水して水位が下がったときのみ姿を表すそうなので、これは違うようです。

まぎらわしいですね。


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ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』には、坂本城についてこう記されています。


「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」


フロイスの個人的な感想ではありますが、彼の目には安土城に勝るとも劣らない豪壮華麗な城に見えたようです。


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本丸跡から見た琵琶湖北東の対岸です。

たぶん、写真左端に見える山々の一角が、安土城だと思うのですが・・・。


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さて、本丸を制覇したので、二ノ丸、三ノ丸に向かいます。

「その3」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-21 00:24 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

麒麟がくる 第5話「伊平次を探せ」 ~鉄砲伝来と細川藤孝との出会い~

 今回は、斎藤利政(のちの道三)の命を受けた明智光秀が、将軍家が鉄砲を大量に必要としているかを探るべく、近江国、そしてを訪れる話。もちろんフィクションです。鉄砲がはじめて日本に伝わったのは、天文12年(1543年)のこととされていますから(異説あり)、ドラマのこの当時は、まだ4、5年しか経っておらず、それほど世に出回っていない時代です。ドラマでは「鉄砲」という言葉が使われていますが、「鉄砲」という言葉が既にあったかどうかはわかりませんが、この当時の火縄銃の名称は、伝来した場所からとって「種子島」と呼ばれていたはずです。革新的な製品が誕生したとき、その生産者や生産地の名称がそのまま製品名になるというのは、今も昔もよくある話ですね。わたしが社会人になった30年ほど前、上司たちはコピーを取ることを「ゼロックスする」といっていましたが、あれと同じでしょうか? 若い人は知らないでしょうね(笑)。ちなみに、わたしの部下は、いまも紅茶のことを「リプトン」と呼んでいますが、あれは彼だけです(笑)。


鉄砲を種子島に持ち込んだのは、中国船に乗っていたポルトガル人のフランシスコキリシタダモッタの2人とされています。このフランシスコを、かの宣教師フランシスコ・ザビエルと混同して覚えている人がよくいますが、別人です。ザビエルが日本に来たのは鉄砲伝来より四半世紀のちの天文18年(1569年)のことで、上陸したのも種子島ではなく鹿児島。持ち込んだのも鉄砲ではなくキリスト教でした(献上品のなかには鉄砲もあったかもしれませんが)。


 種子島の島主・種子島時堯は、鉄砲を2丁買い求め、1丁は家宝とし、もう1丁を刀鍛冶八板金兵衛清定に命じて分解させ、研究させます。当時の日本にはネジというものがなく悪戦苦闘が続いたようですが、やがて国産の火縄銃、その名も「種子島」が金兵衛らによって完成すると、瞬く間に各地に生産が広まり、和泉国の、紀伊国の根来、そしてドラマに登場した近江国の国友、同じく近江国の日野などが代表的な産地となります。他にも、「鉄砲町」という地名がいまも全国各地に残っていますが、それらはすべて、鉄砲鍛冶が住む町でした。ドラマに出てきた鉄炮鍛冶の伊平次は架空の人物だと思いますが、上述した八板金兵衛清定も元は刀鍛冶だったことを思えば、的外れな設定ではないでしょうね。鉄砲も刀も武器で、しかもを材料としているという点で、刀鍛冶がそのまま鉄砲鍛冶になったという例が多かったんじゃないでしょうか。


その後、生産ラインが充実すると、戦場における新兵器として、戦国大名たちは挙って鉄砲を買い求めはじめ、やがてこれが、日本の天下統一を左右していくことになるんですね。ちなみに、戦国時代末期には、日本は50万丁以上の鉄砲を所持していたともいわれ、この当時、世界最大の銃保有国となるに至ります。話はそれますが、幕末、黒船艦隊の脅威から明治維新を迎え、わずか半世紀ほどで世界一二を争う海軍を保有するに至る日本。第二次世界大戦後の焼け野原から、わずか半世紀ほどで世界一二を争う経済大国となった日本。その是非は別として、戦国時代も現代も、わが国の適応能力の高さには目をみはるものがあります。


麒麟がくる 第5話「伊平次を探せ」 ~鉄砲伝来と細川藤孝との出会い~_e0158128_16193644.jpg のちに光秀のマブダチとなる細川藤孝(のちの幽斎)が出てきましたね。言うまでもなく細川護熙元総理ご先祖様です。光秀の盟友といえば、まず最初にこの人が思い浮かぶと思いますが、光秀と藤孝が、いつ、どのように出会ったかは史料がなく、詳しいことはわかっていません。司馬遼太郎『国盗り物語』では、斎藤道三の命により美濃を落ち延びた光秀が、諸国を流浪中に藤孝と出会い、その縁で足利将軍家の知己を得るという展開でしたが、イエズス会宣教師ルイス・フロイス『日本史』によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったが、その能力を買われ、信長の重用されていったと記されています。今回のドラマでは、いきなり刀を交えるという出会いでしたが、今後、どのように描かれるのでしょうね。


 その二人の斬り合いを制止したのが、室町幕府第13代将軍・足利義輝でしたが、たしかに義輝は「剣豪将軍」と呼ばれるほどの剣の使い手だったといわれる将軍ですが(異説あり)、無粋なことを言うようですが、ドラマの設定時はまだ数え13歳、現在でいえば小学校6年生です。向井理さん、無理がありますね(笑)。まあ、光秀にしても、一般的に通説となっている享禄元年(1528年)生まれ説でいえば、このときはまだ21歳。鷹揚に観ましょう(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2020-02-17 16:24 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その10 <摠見寺跡~百々橋口道>

「その9」の続きです。

安土城跡をほぼ攻略したので、下山します。

下山道は大手道ではなく、旧摠見寺跡ルートを選びました。


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「その5」で紹介した「伝織田信忠邸址」まで戻ると、その前が大手道と摠見寺跡ルートの分岐点となっています。

摠見寺跡ルートは、かつては百々橋口道と呼ばれ、安土城の通用口でした。


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長い石段を登りきったところに、巨大な石垣が現れます。

かつてここには摠見寺裏門が建っていましたが、明治13年(1880年)に近くの超光寺移設されました。

現在も超光寺の表門として現存しています。


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裏門の石段を登ると、そこが旧摠見寺跡です。

摠見寺は安土城の築城時に織田信長によって建立された寺院です。

天主城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。


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本能寺の変によって天主付近が炎上しましたが、摠見寺は類焼をまぬがれました。

しかし、江戸時代末期の嘉永7年(1854年)に起きた火災によって、本堂など主要な建物のほとんどを焼失してしまいました。

その後、昭和7年(1832年)に「その4」で紹介した大手道脇の「伝徳川家康邸跡」に寺地を移し、現在に至っています。


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現在、旧摠見寺跡には本堂跡と見られる石垣や礎石の跡のみが残されています。


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それにしても、一向宗浄土真宗本願寺勢力などとの長い戦いや、比叡山焼き討ちなどの行為から見るに、宗教、特に仏教勢力をことのほか憎んでいたと思われる信長が、なぜ、自らの居城の敷地内に寺院を建立したのでしょう?

その理由について、イエズス会宣教師ルイス・フロイス『日本史』によると、次のように記述されています。


天正7年5月11日(1579年6月15日)、信長は安土城で自らを神とする儀式を行い、摠見寺で信長の誕生日を祝祭日と定め、参詣する者には現世利益がかなうとした。


つまり、自らを神格化しようとしていたというんですね。

このフロイスのいう信長の自己神格化については、日本側の史料で記述したものはまったく存在せず、フロイスの記述を信用するかどうかについては研究者間で争いがあり、いまも決着はついていません。

ただ、安土城の登城ルートは大手道よりこちらの百々橋口道がメインだったといわれ、また、大手道のように随所に曲輪もなく、ここ摠見寺までは誰でも登ってこれたといいます。

ここに立派な寺院があり、その向こうに寺院を見下ろすように安土城天守がそびえ、そこに信長がいる。

それを見た当時の人々の目には、まるで信長が仏様をも超越した「神」のように思えたかもしれません。


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敷地内には、享徳3年(1454年)の建立と伝わる三重塔があるのですが(安土築城時にここへ移設)、この日は改修工事中だったようで、ネットが覆われていました。

残念。


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発掘調査によると、本堂跡の奥には庫裏書院などがあったとされていますが、現在は埋め戻され展望台となっています。


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その展望台からの西側の眺望です。

眼下に広がるのは、琵琶湖に通じる西の湖


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旧摠見寺跡をあとにして、長い石段を降ります。


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石段の途中にある旧摠見寺の正門、仁王門

当時の現存建物です。


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棟木に「元亀二年(1571年)七月甲賀武士山中俊好建立」と記されており、信長の安土城築城時に近江国甲賀郡柏木神社よりここに移築されたと考えられています。


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金剛力士像も当時のものです。


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往時の参道はそのまま百々橋口に繋がっていたのですが、現在、百々橋口は封鎖されており、道は途中で迂回して「その3」で紹介した「伝羽柴秀吉邸址」に繋がっています。

現在、安土山には入山料がいるため、入り口を1ヶ所するためなんでしょうね。


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さて、これで安土城をすべて攻略しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。

次回、「番外編」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-15 00:17 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その8 <天守台>

「その7」の続きです。

いよいよ、近代城郭の礎となった安土城天守台に登りたいと思いますが、その前に、守台石垣を見てみましょう。


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上の写真は天主台東南部の出隅石垣です。

隅が鈍角に曲がる「しのぎ積み」という工法が用いられています。

これは、比較的古い時代の工法です。


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安土城天守台は不等辺八角形となっており、そのせいで出隅がすべて鈍角に曲がる「しのぎ積み」となっています。

これは、天然の山の形状をそのまま利用して築かれたからと考えられます。

前稿で紹介した本丸が一面の広場にならず、複数の小郭に分裂している構造も、同じ理由からでしょう。


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こうした構造は、中世から織豊期の山城、平山城に多く見られる構造ですが、関ヶ原の戦い以降になると、地形の削り方が大掛かりになり、郭の隅部は櫓を建てやすくするために直角に築造され、尾根を削り谷を埋めて広い一面の本丸が築かれるようになります。



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「その6」でもふれましたが、これまで見てきた安土城の石垣は、ほとんどが昭和になってから積み直されたものですが、ここ天守台石垣伝二ノ丸下の石垣は、当時のまま、つまり、積み直されていない天正の石垣なんだそうです。


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伝本丸跡から天守台に登る石段です。

伝天主取付台と呼ばれています。


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石段は昭和初期の発掘調査の際に積み直されたものだそうです。


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いよいよ天守台の上、という場所に、「天守閣址」と刻まれた石碑があります。


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天守台上です。

礎石が整然と並んでいます。


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安土城の天主は、完成してからわずか3年の天正10年(1582年)6月に焼失してしまったため、その実像をうかがい知ることはできません。

現在に伝わる安土城天守の様相は、当時、実際に城を観覧したポルトガル宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』や、太田牛一『信長公記』の写本の1つである『安土日記』によるところが大となっています。


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フロイスは記述には、天主に関して次のように記しています。


信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。

事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモを超える―それを上回るものも多かった―石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。

それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。


大絶賛ですよね。

フロイスはよほどこの天守に魅せられたのでしょう。


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さらにフロイスは続けます。


その中心には、彼らがテンシュと呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である。

この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。

事実、内部にあっては、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。

外部は、これらの階層ごとに色が分かれている。

あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。

ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。

このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。

それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。

屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。

このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。


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天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって廃城となると、その後、訪れる人もなく、永い年月の間に瓦礫草木の下に埋もれてしまっていました。

ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和15年(1940年)のことでした。

調査の結果、往時そのままの礎石が見事に現れました。

このとき、石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっているそうです。


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現在の天守台上部は地下1階部分だそうですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく2倍半近くあったそうです。

現在石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。


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天守台からの西側の眺望です。

遠くに琵琶湖が見えます。

眼下に田園風景が広がっていますが、かつてはあそこも琵琶湖の入江でした。

織田信長が見たここからの眺めは、一面湖だったようです。


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こちらは北側、彦根方面の眺望です。


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さて、天守まで攻略しましたが、まだまだシリーズは続きます。

つづきは「その9」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-08 00:31 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その10 <ライトアップ>

「その9」の続きです。

令和元年(2019年)6月1日から築城400年事業の一環として、本丸の櫓がライトアップされるという情報を知り、その初日、昼間に続いて再び明石城にやってきました。


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写真は明石公園南入口にあたる太鼓門

「その2」でも紹介しましたが、昼間とはまたぜんぜん雰囲気が違いますね。


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で、公園内三ノ丸の芝生広場にやってきました。


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左が坤櫓、右が巽櫓です。


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ライトアップが始まりました。


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三脚も立てずに撮影していますので、手ブレ、ご容赦ください。


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七色に七変化です。


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今風にいえば「城ナリエ」ですね。

ちょっと違うか。


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城のライトアップというのは各地で行われていますが、日本で最初の城のライトアップは、今から約440年前の天正9年(1581年)7月15日、織田信長による安土城のライトアップというのはあまりにも有名ですよね。

もちろん、電飾などない時代ですから、照明はすべて松明提灯でした。

『信長公記』によると、安土城の天主および惣見寺にたくさんの提灯を吊るさせ、また、お馬廻り衆を新道に配置し、または入り江にを浮かべさせて、それぞれに松明を灯させたと伝えられます。

また、ルイス・フロイス『日本史』には、安土城周辺の家臣の屋敷はすべて火をたくことを禁じ、色とりどりの豪華な美しい提灯で上の天守を飾らせたとあります。

そのライトアップされた城が琵琶湖の水面に映り、言いようもなく美しかったと。

当時の人々にとっては、見たこともない幻想的な光景だったでしょうね。


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現代のそれは、LEDによって色とりどりに演出されています。

でも、安土城を見た当時の人々のような感動はないかなぁ・・・。


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坤櫓です。


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巽櫓です。


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今年で築城400年を迎えた明石城ですが、実は、約400年前の元和年間(1615~1624年)は、空前の築城ブームだったので、令和元年(2019年)の今現在、築城400年を迎えようとしている城、城跡は全国にたくさんあるんですね。

なので、いろんな場所でこれから数年間に築城400年事業が計画されているようです。

これを機に、築城400年めぐりをしてみるのもいいかもしれません。


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さて、これで本当にシリーズを終わります。

最後に、この日に押したものではありませんが、日本100名城のスタンプを載せます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-09-07 01:30 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

日本最古の現存天守、丸岡城を訪ねて。 その2 <天守・内部>

「その1」の続きです。

丸岡城天守東面の石段を上って、天守内に入ります。


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石段には手すりがないので、お年寄りや小さな子どもはひとりで上るのは危ないかもしれません。


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上から見たらこんな感じ。

     ↓↓↓


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ちょっと、怖いですよね。


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天守は2重3層なので、外観は2階建に見えますが、なかは3階建になっています。

まずは1階


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1階は外周に「入側」と呼ばれる廊下で囲われています。

別名「武者走」ともいうそうで、一間(約1.8m)あります。


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その入側にある鉄砲穴の「狭間」

もっとも原始的なかたちの箱型が特徴です。

箱型なので、前にしか撃てません。

下に向けて撃たないと意味がないと思うのですが、この狭間、役に立つんでしょうか?


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こちらは、武者窓と呼ばれる格子窓で、開け閉めは棒を使って突き上げるという古いタイプの窓です。


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そして、こちらは「格子出窓」

前稿で、外側から見た写真も紹介しています。

この格子出窓は、3方への攻撃が可能であると共に、石落としの機能もあります。


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入側に囲まれた室内を「身舎(母屋)」といいます。

松岡城1階の身舎は約20坪の長方形で、構造的には4部屋の形ですが、敷居も鴨居も引き戸も入っていません。


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丸岡城天守の最も特徴的なところは、いわゆる大黒柱といえる通し柱がなく、身舎の中央を東西に走る6本の太い柱が、天守の全重量を支えています。

この6本の柱が上の太い梁を支え、その梁に2階の2本の柱が乗るかたちです。


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6本の柱のなかでも最も古いと見られるのが、この柱だそうで、天正4年(1576年)に柴田勝豊築城した当時からの柱だと考えられているそうです。


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角が削れていますが、これは、鉋ではなく手斧で削ったものだそうです。

柱の角の面取りの工法などから、その時代が想定できるそうです。


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丸岡城の階段は現存天守12城のなかで最も急で、傾斜角約65度、一段あたりの段差27cm、踏面も最小で12.5cmしかありません。

そのため、このようにロープが設置されていましが、わたしが訪れたこの日も、お年寄りが上るのを断念していました。


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2階は1階の約3分の1の12坪で、入側はありません。

中央の2本の柱は、1階の6本の柱が支える梁の上に乗っています。

東西には一階屋根の破風を利用した狭い部屋(破風部屋)があり、南北には古風な切妻屋根の出部屋があります。


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これが出部屋。


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そしてこちらが破風部屋です。

破風部屋の窓からは、屋根瓦が覗けます。


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丸岡城の屋根瓦は、全国的にも珍しい笏谷石製の石瓦が使用されています。

ここと同時進行で築かれた柴田勝家北ノ庄城も、石瓦が使用されていたとルイス・フロイスの記録に残されています。

これは、寒冷地という気候事情からくるものなんだとか。

石瓦は約6000枚あるそうで、1枚が約20~60kg、屋根全体で120トンになるそうです。


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2階から3階の階段は更に急です。

階段というより、ほとんど梯子ですね。


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3階の広さは2階と同じで、入側はありませんが、窓から360度見渡せます。


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こちらは西の眺望。

15kmほど向こうが海で、有名な東尋坊があります。


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こちらは

手前に見える小学校の校庭あたりに、かつて二の丸御殿があったそうです。


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そして

正面に見える山に、丸岡城築城前に柴田勝豊が築いたと伝わる豊原城がありました。


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最後にの眺望。

福井市の方面です。

勝豊の時代には北ノ庄城が、江戸時代には福井城が見えたのでしょうね。


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さて、天守を制覇しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-08 17:28 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

真田丸  第26話「瓜売」 ~文禄の役と瓜畑遊び~

 天正19年(1591年)8月5日に愛児・鶴丸を失った豊臣秀吉は、すぐさま、来春に「唐入り」(朝鮮出兵)を決行することを全国に布告します。世に言う「文禄・慶長の役」の始まりですね。ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの記した『日本史』によれば、支那征服への思いはかつて織田信長も抱いていたといいますから、秀吉はその思想を引き継いだのかもしれません。秀吉の構想は信長のそれより壮大なもので、のみならず台湾フィリピン、さらにはインド南蛮への進出も視野に入れた「アジア帝国」を夢想していたともいわれます。

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「朝鮮と民を従えて、わしは大王になるぞ!」

 本当に、こんな台詞を言ったかもしれませんね。

 「唐入り」を布告した秀吉は、同じ年の10月、その準備として肥前国に名護屋城の築城を開始します。工事は加藤清正、小西行長らを中心に突貫作業で進められ、わずか半年で竣工しました。さらに、その名護屋城の周りには全国の諸大名の陣屋が建ち並び、わずか数ヶ月の間に人口は20万人に膨れ上がり、戦時だけとはいえ大坂に次ぐ大都市となりました。集結した諸大名たちは、秀吉による天下統一の世を、改めて肌で感じたことでしょう。

 年が明けた文禄元年(1592年)4月、豊臣軍(あえて日本軍とは言いません)は総勢15万8千の大兵団を率いて朝鮮半島へ侵攻を開始します。総大将は豊臣家一門扱いとなっていた宇喜多秀家。朝鮮半島に上陸した豊臣軍は、わずか数時間で釜山城を制圧。その後も連戦連勝を重ね、わずか20日間で首都の漢城を占領しますが、その快進撃もそこまで。その後、からの援軍が登場し、さらに、海上では朝鮮水軍の前に苦戦を強いられ、戦況は膠着状態に陥ります。

そんななか、秀吉は名護屋城のそばにある瓜畑に諸大名を集め、「瓜畑遊び」なるイベントを催します。「瓜畑遊び」とは、現代でいうところのコスプレパーティ。この話は、江戸時代に刊行された『絵本太閤記』などの書物に登場するエピソードです。それによると、前田利家高野聖蒲生氏郷茶商人織田有楽斎は旅の老僧、そして堅物の徳川家康までもが、あじか売りを演じて周囲を大いに笑わせました。そして秀吉が演じたのは、今話のタイトルの瓜売り。菅笠に腰蓑姿で籠を担ぎ、「味よしの瓜めせめせ」と、調子に乗せて声を張り上げる姿は、もともと卑賤の出である秀吉らしく堂に入ったものだったと伝わります。

 なぜ、秀吉はこのようなイベントを企画したのか。戦況が膠着状態のなか、中だるみしていた士気を鼓舞する意図だったかもしれませんし、あるいは、ただ単に名護屋城での生活が退屈だっただけかもしれません。まあ、現代でもそうですが、上に立つものがこういった無礼講の席を持つということは、チームワークを高める意味では効果が期待できます。このあたりは「人たらし」と言われた秀吉らしい演出で、数々の悪政を行いながらも、秀吉が後世に愛される理由は、こういった明るさにあるのでしょうね。

このイベントに真田昌幸が参加していたかどうかは定かではなく、もちろん、秀吉と出し物がかぶったという話は、ドラマのオリジナルです。それにしても、「瓜売り」の出し物をめぐって右往左往する様子は笑えましたね。

信繁「えらいことになりました!・・・そしてまずいことに、明らかに父上の方がお上手なのです。」

昌幸「なんたることじゃ!」

且元「これはいかん!太閤殿下に恥をかかせるだけだ。安房守殿、申し訳ないがもっと下手にできませぬか?」

信幸「父上はこの日のために血のにじむような稽古をしてまいりました!」

家康「そんなに安房守の瓜売りはよく出来ておるのか?」

信繁「身内が言うのもなんですが大したものです!なんとか徳川様から太閤殿下に出し物を変えるよう、それとなく勧めてはもらえませぬか?」

家康「力になりたいのはやまやまだが、今更それは申せまい。残念だが、ここは安房守に折れてもらうしかないな。」

信繁「思い切って瓜売り勝負と致しましょう。父上のあとに太閤殿下が演じられると見劣りしますゆえ太閤殿下が先でそのあとに父上が・・・あ~!それもよくないな!う~ん・・・。」

昌幸「もうよい!・・・真田安房守、本日急な病にて参れません。」

盛清「それがよかろう・・・。」

たかが余興ネタの話が、ほとんど政治問題でしたね(笑)。皆の真剣ぶりが滑稽で笑えましたが、考えてみれば、現代でも無礼講の席とはいえ上司やクライアントに花を持たせる気遣いは当然のことで、当人にとってみれば重大問題。くだらない話のようですが、的を射ているといえます。秀吉が企画したイベントですが、参加者たちは、きっと秀吉にいい気分になってもらうよう気を揉んだでしょうからね。

 さて、そんな「瓜畑遊び」の前か後か、ちょうど同じ頃、淀殿の2度目の懐妊が発覚、そして文禄2年(1593年)8月3日、待望の男児が生まれました。名は「拾」。のちの豊臣秀頼ですね。秀吉はこれを機に名護屋城から大坂城に戻り、それが影響してか、明・朝鮮連合軍と戦いは講和に舵が切られはじめます。もともと鶴松死去と共に始まった「唐入り」でしたから、再び男児が生まれたことで、秀吉の大陸に対する情熱は、多少は薄らいだかもしれませんね。ただ、この男児出産の報せでいちばん動揺したのは、前年12月に秀吉から関白職を譲り受けていた甥の豊臣秀次だったであろうことは、想像に難くありません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-04 20:43 | 真田丸 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第28話「本能寺の変」 その1 ~信長の最期と光秀の動機~

 時は天正10年(1582年)6月2日・・・・といえば、言わずと知れた「本能寺の変」ですね。天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、最も信頼していた家臣のひとりである明智光秀の謀反によって落命します。享年49歳。日本の歴史が大きく変わった瞬間です。

 「本能寺の変」はほとんどの人が知っている事件だと思いますので、細かい説明は省きます。事件に至る動きは、過去の拙稿『江~姫たちの戦国~第5話「本能寺の変」』でふれていますので、よろしければ一読ください。いままで数々の映画やドラマで描かれてきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じような演出ですよね。本能寺を包囲した明智軍が鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というもの。これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

 まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

 「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

 有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。また、同史料によると、

 「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


 信長は初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。ほぼドラマのとおりですね。『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

 また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

 「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

 『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

 明智光秀の謀反に至る動機については様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。そんななか、これまで小説やドラマなどの物語では、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることがほとんどだったと思います。その根拠は、領地を召し上げられたことや、徳川家康の饗応の役を突如解任され、秀吉の援軍を命じられたこと、大勢の前で足蹴にされたことなどなど、どれもありそうなエピソードですね。ただ、このたびのドラマは、そういった理不尽な仕打ちに耐えしのぐ光秀の姿はあまり描かれず、これまでの大河とは違った動機でした。

 「日の本に王はふたりもいらん!」

 つまり、皇位簒奪という意味ですね。信長は天皇を廃して自らが日本の王になろうとしていたのではないかという説です。そのため、朝廷を敬う光秀は決起に至った、あるいは、朝廷に促されて起たざるを得なくなった・・・と。これ、よくNHKがやりましたね。もちろんこれはドラマのオリジナル解釈ではなく、近年、学者さんたちの間でも採られている説のひとつです。たしかに、信長の行動を見ると、朝廷が信長に対してあらゆる官位を授けようと打診しても、信長はこれを固辞し、逆に京のまちで馬揃え(軍事パレード)をして朝廷を威嚇するなど、朝廷ならびに天皇家軽視したかの行動が目立ちますし、何より、比叡山焼き討ち石山本願寺との戦いなど、古い権威を徹底的に排除しようというきらいが伺えます。その意味では、じゅうぶんに考えられる動機ですよね。

 ただ、もし本当に信長が皇位簒奪を目指していたならば、光秀の謀反は帝に対する逆賊の成敗として大いに正当化され、もっと味方を得られたんじゃないかとも思います。ところが、結果は歴史の示すとおりですね。この皇位簒奪説は、考えられなくはないものの、少し深読みし過ぎのような気がします。ドラマとしては面白かったですけどね。「日の本に☓☓☓☓☓☓☓☓」と声を消し、それを聞いた光秀が青ざめて諫めるシーンなどは、上手い演出だなあと思いました。

 あと、信長の正室・濃姫について少し。本能寺のシーンでは自ら刀を振って戦っていた勇ましい妻でしたが、実際の濃姫は、いつ結婚していつ死んだかもわからない、ほぼ謎の女性といっていい存在です。織田家に嫁いですぐに死んだという説や、子どもが出来ずに離縁したという説などさまざまで、斎藤道三の娘と言われていますが、それすら定かではなく、一説には、実在したかどうかすら疑問視する声もあります。本能寺で信長とともに長刀を振るって戦ったという演出は、司馬遼太郎『国盗り物語』からきたものですね。本能寺の戦死者の中に、「お能の方」という女性がいたという説もありますが、それが濃姫だったかどうかはわかりません。

 さて、このときの黒田官兵衛のエピソードまで行きたかったのですが、今回めちゃめちゃ長文になっちゃったので、後日、「その2」につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-14 22:56 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

豊臣秀吉は6本指で、ひとつの眼球にふたつの瞳があった?

 豊臣秀吉6本指だった、という逸話があるのはご存知だろうか。これは、よくある偉人の超人的伝承とはちがって(たとえば、聖徳太子が一度に複数の人の話を聞き分けた・・・とか)、それなりの根拠をもった逸話である。この説の起こりは、織田信長時代にキリスト教布教活動のため来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスが編纂した『日本史』によるもので、その中に次のような記述がある。

 ルイス・フロイス『日本史』豊臣秀吉編 I 第16章
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。」


 これ以降、海外では、この「6本指説」が広く信じられてきたが、日本では、フロイス以外にこの点にふれる史料がないことや、フロイスの記述には多分に私怨が含まれているという理由から否定的な意見が多く、“邪説”とされてきた。

豊臣秀吉は6本指で、ひとつの眼球にふたつの瞳があった?_e0158128_03078.jpg しかし、私はこの説を信じている。たしかにフロイスの記述をみれば酷い言いようで、彼が秀吉に好感を持っていなかったことがわかるが、だからといって、6本指を作り話とする理由にはならないように思う。フロイスの残した安土城の記述などを読めば、彼は自分の目で見たことを執拗なまでに詳細に記しており、秀吉の6本指も、フロイスには強烈なインパクトとして映り、記録に残したものと考えられる。
(← 6本あるようには見えないが・・・。)

 そのフロイスの記述を裏付ける史料として、秀吉の旧友、前田利家が記した回想録が、近年になって見つかっている。その内容は次のとおり。

 前田利家『国祖遺言』
「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候然時蒲生飛 生飛弾殿肥前様金森法印御三人しゆらく(聚楽)にて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御 咄候其時上様ほとの御人成か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ左なく事ニ候信長公大こう様ヲ異名に六ツめかな とゝ御意候由御物語共候色々御物語然之事」


 この利家の談話からわかるのは、秀吉は右手の親指が1本多かったということ。要訳すると、「上様(秀吉)ほどのお人ならば、若いときに6本目の指をお切りなればよかったのに、そうされないので信長公は“六ツめ”と異名されていた。」と語っているもので、この談話を信じれば、フロイスの記述が“邪説”でないということになる。

 生まれつき手足の指が多い人のことを「多指症」というそうだが、これはそれほど珍しいことではないらしい。主にアフリカやヨーロッパに多いそうだが、東アジアでも1000人に1人ぐらいの割合で生まれるそうだ。ということは、戦国時代(織豊時代)の我が国の人口は約1200万人と言われるから、単純計算で1万人程度は「多指症」の人がいたということになる。ただ、戦国時代でも現代でも多指症に生まれた場合、幼児の間に切断して5本指にするのが一般的で(通常6本目の指は役に立たない場合が多いらしい)、その意味では、秀吉のように6本指のまま大人になった例は、当時としても珍しかったのかもしれない。

 では何故、秀吉は6本指のままだったのか・・・。ここからは私の想像だが、6本目の指を幼い頃に切り落とす慣習は、武士階級や、ある程度の身分の者に限られていたのではないだろうか。農民の家に生まれた秀吉は6本指のまま成長し、その後、武士となったことから、武家社会では珍しい存在となった。成長してから切り落とすことも出来たかもしれないが、彼はあえてそれをせず、周囲から奇異な目で見られることを逆に反骨心にして、天下人への出世街道を上っていったのではないだろうか・・・と。

豊臣秀吉は6本指で、ひとつの眼球にふたつの瞳があった?_e0158128_0351879.jpg しかし、天下人となってからの秀吉は、肖像画を右手の親指を隠す姿で描かせたり、どうも、6本指の事実を歴史上の記録から抹消しようとしたきらいがある。
(たしかに、この肖像画の右手の描き方も、少々不自然な気がしないでもない。 →)
“猿”“禿げ鼠”とあだ名されたことが、これほどまで後世に伝わっているのに対し、利家の談話にある“六ツめ”というあだ名は、現在でもあまり知られていない。これを逆に考えると、秀吉が“六ツめ”というあだ名を歴史の記録から削除するために、あえて、 “猿”“禿げ鼠”というあだ名が後世に伝わるように操作した・・・と考えるのは、穿ち過ぎだろうか。(あえて猿顔に肖像画を描かせた、なんてことはないと思うが。)秀吉にとって一番のコンプレックスは、卑賤の出自でも醜悪な容貌でもなく、6本指だったのでは・・・と。

 作家・司馬遼太郎氏が、小学校の教科書向けに書いた文章『洪庵のたいまつ』の中で、生まれつき病弱だった緒方洪庵について、こう述べている。
 「人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。」
 たしかにそのとおりで、たとえば野口英世は、1歳のときの火傷で左手の5本の指がくっついてしまい、その後13歳のときに指を切り離す手術を受けるも、生涯、左手の指は自由に動かなかった、という話は有名。発明王のトーマス・エジソンは生まれつきの難聴障害に苦しんだというし、ヘレン・ケラーにいたっては視力・聴力ともに失った人。そうしたハンデキャップを克服して名を成した偉人というのは歴史上たくさんいて、子供向けの伝記などでは、そんな逸話が大いにクローズアップされるものである。

 しかし、秀吉の「6本指説」にふれた伝記は少ない。近年まで邪説とされてきたこともあり、しかも6本指にまつわるエピソードや史料が少ないことを考えれば、これまでは当然だったかもしれないが、現在では真説と考える歴史家も多く、もっとスポットを当てていいのではないだろうか。6本指のコンプレックスをバネにして、天下人になった豊臣秀吉・・・と。

 ちなみに、秀吉にはもうひとつ、一つの眼球に二つの瞳があった(重瞳)という説もある。もっとも、これについての信憑性はきわめて薄く、まともに論じられることはめったにない。重瞳については、古代中国の伝説上の聖王であるが重瞳であったという伝承があり、日本においても重瞳は貴人の相と考えられていたらしく、おそらく秀吉のそれは、天下人となったあとの権威付けのためか、もしくは後の世に作られた伝承と考えてよさそうである。

 6本指にしても重瞳にしても、事実であれ虚像であれ、そんな常人とは異なった身体的特徴の伝承が残っていること自体が、豊臣秀吉という人物の歴史上の存在感の大きさといえるだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-19 00:53 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(12)  

江~姫たちの戦国~ 第22話「父母の肖像」

 若い頃から多くの美女を閨に侍らせたといわれる豊臣秀吉だが、子宝に恵まれず、最晩年になってようやく淀殿(お茶々)との間に鶴松秀頼を授かった・・・と、多くの物語で描かれている。しかし、実はこれより20年ほど前の長浜城時代に、側室・南殿との間に一男一女がいたという説もある。女児の名は不明だが、男児の名は秀勝。秀勝といっても、その後、お江の2番目の夫となる秀勝(小吉)とは当然違い、織田信長の実子を養子に貰い受けた秀勝(於次丸)とも当然違う。その由来は、琵琶湖上の竹生島にある宝厳寺に伝わる古書「竹生島奉加帳」に、石松丸という男児の名と南殿の記載があり、この石松丸が秀吉の子である秀勝であり、南殿がその生母だと推定されている。ただし、南殿と秀勝(石松丸)の存在が取り沙汰されたのは近代に入ってからのことで、南殿の経歴については全く不明である。その秀勝(石松丸)は、天正四年(1576)に7歳で病没し、長浜城下の妙法寺に埋葬されたと伝わる。

 その話が実話だとしても、その後20年もの間、秀吉は多くの側室を置きながらも実子に恵まれなかったことも事実で、にもかかわらず、淀殿ひとりが二度も妊娠し、長男・鶴松、次男・秀頼の二児を出産したという事実を、訝しいと考えるのも不思議ではない。実際に、この当時にも淀殿の懐妊は秀吉の子種ではないのではないか・・・という噂は存在していたようで、当時キリスト教布教活動のため来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスがのちに執筆した『日本史』の中にもそういった記述がある。そして、鶴松出産の3ヵ月前には、聚楽第の南鉄門に、こんな落首が貼りだされた。

 大仏の功徳もあれや槍かたな 釘かすがいは 子宝めぐむ
 ささ絶えて茶々生い茂る内野原 今日は傾城 香をきそいける


 つまり、子種がなかったはずの秀吉が、大仏の功徳で子宝に恵まれた・・・と。これに激怒した秀吉は、門番の17人を処刑し、他にも本願寺に逃げた者を捕らえ、関わった者の居宅も焼き払い、総計113人を処罰したと伝わる。門番17人の処刑は、まず鼻をそぎ落とし、翌日には耳をそぎ落とし、さらに翌日には逆さに磔して処刑という、残忍極まりないものだったという。このあたりから、晩年のトチ狂った秀吉の人格が現れはじめたようだ。

 第二子・秀頼についても、巷では「秀頼の実父は秀吉ではない」という噂が蔓延っていたようで、たとえば、山城伏見城外に幽閉されていた李氏朝鮮の文人・姜沆なども、その噂を耳にしたと語っている。つまり、若い淀殿が空閨に耐えられず不倫した結果、生まれたのが鶴松、秀頼だと・・・。今回のドラマの淀殿は、とてもそんな“ふしだら”な女性ではなさそうだが(笑)、多くの物語で描かれているような“悪女”のイメージの淀殿であれば、ない話でもなさそうだ。その真偽はともかく、淀殿の浮気相手と名指しされてきたのは、大野治長木村重成名護屋山三郎という、いずれも戦国時代を代表する美男子3人である。秀吉が生前にこの3人の噂を知っていたかどうかはわからないが、猿顔の、しかも50歳を超えた秀吉にとって、この美男子3人との不倫の噂は、たとえそれが紛れもない嘘であっても、きっと穏やかではいられなかったのではないだろうか。

 今話のタイトルの「父母の肖像」は、高野山の持明院に現在でも残されている。このうち、母・お市の方の肖像は大変素晴らしい仕上がりだとか。絵画作品に添えられた説明文のことを“賛”というが、父・浅井長政の肖像の賛には、この肖像画が「有人(あるひと)」の発意によって制作され、持明院に寄進されたと記されている。確証はないが、この「有人」は淀殿であるとみる説が、今日では有力のようである。秀吉の側室となったのちも、父母の供養に熱心だった淀殿。上記の不倫疑惑でみるような、“悪女”の淀殿とは違った、親思いの心優しい長女・お茶々の姿が、そこには見えるようである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-13 01:32 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(6)