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幕末京都逍遥 その141 「坂本龍馬避難の材木小屋跡」

「その138」で紹介した寺田屋で伏見奉行所の捕り方の襲撃を受けた坂本龍馬三吉慎蔵は、からくも脱出に成功しますが、龍馬は数日前から風邪をひいていてがあり、また、襲撃時の戦闘によって負傷した指の傷がかなり深く、出血多量による極度の貧血も重なって動けなくなります。

やむを得ず、川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、身を潜めました。

現在、その材木小屋があったと推定されている場所には、「坂本龍馬、避難の材木小屋跡」と刻まれた石碑が建てられています。

石碑は寺田屋から直線距離にして400mほど北西にある大手橋の傍にあります。

普通に大人の足で歩けば5~6分の距離ですが、そこで力尽きるほど龍馬は弱っていたんですね。


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材木小屋の棚の上に隠れていたふたりでしたが、このとき奉行所が派遣した幕吏50人とも100人とも言われ、負傷した身で見つからずに逃げおおせるのは不可能でした。

もはや助かる道はなしと覚悟した三吉は龍馬に、ここで武士らしく切腹して果てようと進言します。

しかしそれを聞いた龍馬は、こう答えました。


「死ハ覚悟ノ事ナレバ、君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ。若シ途ニシテ敵人ニ逢ハゝ必死夫レ迄ナリ僕モ亦タ與所ニテ死センノミト」


意訳すると、「死ぬ覚悟ができているのならば、君はこれより伏見薩摩藩邸へ走ってくれ。もし、その途中で敵に会えばそれまでだ。僕もまた、この場所で死ぬまでだ。」といったところでしょうか。

「生き死には天にまかせろ。切腹して果てるのも、敵に首を討たれるのも、死ぬことに変わりはない。ならば、体の動く限り生きることを考えろ。」ということですね。

このエピソードは、『三吉慎蔵日記抄録』の中に記されている話で、後年の三吉が語ったものです。

龍馬の死生観を窺えるエピソードですよね。

龍馬にまつわる数々のエピソードのなかで、私の最も好きな話です。


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龍馬に説得された三吉は、川で染血を洗い、わらじを拾って旅人に身を変じ、伏見薩摩藩邸に駆け込んで救援を求めました。

薩摩藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、その留守居役だった大山彦八は、薩摩藩の旗印を掲げたを出して龍馬を救出に向かい、無事助け出しました。

その川が、下の写真です。

石碑のすぐ東に流れています。


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伏見薩摩藩邸はこの川を500mほど北上した場所にありました。

材木小屋のあった場所は、『三吉慎蔵日記抄録』では濠川の左岸南方にあったと伝えており、ここ大手橋付近の説と、もう少し薩摩藩邸に近い土橋付近の説があるそうです。

伏見観光協会などでは、大手橋の説をとってこちらに碑を建てたそうです。


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このとき京の薩摩屋敷にいた西郷隆盛は、翌朝この知らせをうけ、彼を知るまわりの者たちも生涯見たことがないほどの怒気を発したといいます。そして、おそらく伏見奉行所が龍馬たちの引き渡しを要求に来るであろうと見た西郷は、兵力に訴えてでも拒否するという方針を示し、薩摩藩自慢の英国式一個小隊をつけ、吉井幸輔(友実)に指揮官を命じ、伏見薩摩屋敷の警護にあたらせ、さらに、龍馬の負傷を聞いて藩医・木原泰雲も同行させました。このときの薩摩の行動に対して、「実に此仕向けの厚き、言語に尽す能はず。」と、『三吉慎蔵日記抄録』に記されています。

龍馬と三吉のギリギリの「大脱出」物語

このとき龍馬が三吉に言った言葉が、龍馬をあと1年10カ月の間生かすこととなり、三吉慎蔵にいたっては明治34年(1901年)まで生かすことになります。

龍馬にとって三吉は命の恩人であることは間違いないですが、三吉にとっても、龍馬は命の恩人といえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-30 02:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その138 「寺田屋 その2」

「その137」に続いて寺田屋です。

本稿では、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に起きた寺田屋事件、いわゆる坂本龍馬襲撃事件を追います。


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この事件が起きたのは、坂本龍馬が尽力したとされる「薩長同盟」が締結された翌々日のことでした。

この時点では、まだ幕府側には薩長同盟の事実は漏れていませんでしたが、坂本龍馬が長州の桂小五郎(木戸孝允)と組んで何かを企てているというのは察知されており、天下のお尋ね者となっていました。


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22日、京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟の締結を見届けた龍馬は、翌23日の夜、このころ龍馬の護衛として行動を共にしていた長府藩士・三吉慎蔵の待つ寺田屋に戻ってきます。

あるいは、寺田屋に入っていく龍馬の姿を幕吏は確認していたのかもしれません。


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この事件については、三吉慎蔵の日記『三吉慎蔵日記抄録』などにも詳しいのですが、事件当日の様子においての最も詳細な史料としては、龍馬が土佐にいた実兄・坂本権平に宛てた手紙に勝るものはありません。

描写が実に細やかで面白く、ここでは、わたしの駄文で説明するよりも、その龍馬の手紙の文章をそのまま紹介することにしたいと思います。


上に申す伏見の難は、去正月廿三日夜八つ時半頃なりしが、一人のつれ三吉慎蔵と咄して、風呂より上り、もふ寝やうと致し候所に、ふしぎなるかな(此時二階に居り申候)人の足音のしのびしのびにに階下を歩くと思ひしに、ひとしく六尺棒の音からからと聞ゆ。折から兼てお聞に入れし婦人(名は龍、今は妻といたし居り候)走せ来り云よふ、

「御用心なさるべし、敵の襲ひ来りしなり。槍持ちたる人数、梯子段を上りし也」

と、夫より私も立ちあがり、袴着んと思ひしに次の間に置候。その儘、大小差し、六発込の手筒をとりて後なる腰かけに凭る。つれなる三吉慎蔵は袴を着て大小とりはき、是も腰掛にかゝる隙もなく、一人の男、障子細目にあけ内を窺ふ。見れば大小さし込みなれば、

「何者なるや」

と問ひしに、つかつかと入来れば、直ぐ此方も身構へなしたれば、又引き取りたり。

早次の間にみしみしと物音すれば、龍に下知して次の間のうしろの唐紙とりはづさして見れば、早二十人計も槍もて立ならびたり。其時暫く睨み合ふ所に、私より

「如何なれば、薩州の士に無礼はするぞ」

と申したれば、敵人口々に

「上意なるぞ。坐れ々々」

と罵りつゝ進み来る。此方も一人は槍を中断に持つて私の左に立たりける。私思ふやう私の左に槍を持て立てば、横を打たると思ふ故、私が立替り、其左の方に立ちたり。其時銃は打金をあげ、敵の十人計も槍持ちたる一番右の方を初めとして、一つ打たりと思ふに其敵は退きたり。此間、敵は槍を投突きにし、又は火鉢を打ちこみ色々して戦ふ。私の方には又槍もて防ぐ。実に家の中の戦ひ、誠にやかましくて堪り申さず。又一人を打ちしが、中(あた)りしやわからず。

其敵一人は、果して障子のかげより進み来り、脇差をもて、私の右の大指のもとをそぎ、左の大指のふしを切りわり、左の人さし指の本の骨ぼしをきりたり。前の敵猶迫り来る故、又一発放せしに、中りしや分らず、私の筒は六丸込みなれど、其時は五丸込みてあれば、実にあと一発限りとなり、是大事と前を見るに、今の一戦にて少し沈みたり。一人のもの、黒き頭巾着てたちつけ穿き、槍を平青眼のやうに構へ、近く寄りて壁に沿うて立ちし男あり。夫を見るより又打金あげ、私のつれの、槍もて立ちしに、其敵は丸に中りしと見えて、唯ねむりたほれるやうに、前に腹這ふやうに斃れたり。

此時も又、敵の方はドンドン障子を打ち破るやら、からかみを踏み破るやらの物音すざましく、然れども一向手許には参らず。此時、筒の玉込めんとて六発銃の(れんこん型の絵あり)此のうやうの物を取り外し、二丸までは込みたれども、左の指は切られてあり、右の手も傷めて居り、手元思ふやうに成らず、つひ、手よりれんこん玉室取り落としたり。下を探したれども元より布団は引さがし、火鉢やら何やら何かなげ入れしものと交り、どこや知れず、此時は敵はとんとん計りにて此方に向ふものなし。其れより筒を捨て、私のつれ三吉慎蔵に

「筒は捨てたぞ」

と云えば、三吉曰く

「夫なれば猶敵中につき入り、戦ふべし」と云う。けれども私曰く

「此間に引取り申さん」

と云えば、三吉もとりたる槍を投げ捨て、後の梯子段を降りて見れば、敵は唯、家の見世の方ばかり守りて進むものなし。

夫より家のうしろのやそひを潜り、後の家の雨戸を打破りて這入りたれば、実に其家は寝呆けて出たか、ねやが延いてあり、気の毒にありけれど、其家の建具も何も引きはづし、うしろの町に出んと心掛けしに、其家も随分大きなる家にて中々破れ兼ね、右両人して散々に破り、足もて踏破りたり。夫より町に出でゝ見れば、人は一人もなし、是れ幸と五町計り走りしに、私は病気のあがりなりければ、どうも息切れあゆまれ申さず。

此時思ひしに、男子はすねより下に長きものはすべからずと、此時は風呂より上りしままなれば、ゆかたを下に着て、其上に綿入れを着て袴なしなり。着物は足にもつれ、ぐづゝしよれば敵が追ひつく。横町にそれ込みて、お国の新堀と言う様な所に行きて、町の水門よりずび込み、其家の裏より材木の棚の上にあがりて寝たるに、折あしく犬が実に吠えて困り入りたり。そこに両人とも居りしが、ついに三吉は先づ屋敷(伏見薩摩屋敷のこと)に行くべしとて立出でゝ屋敷に入り、又屋敷の人も共に迎ひに来て私も帰りたり。私の傷は少々なれども、動脈とやらにて、あくる日も血が走り止めず、三日計り小便に行くも目がまひました。此夜彼龍女も同時に戦場を引きとり、すぐざま屋敷に此由を告げしめ、後に共々京の屋敷に引取る。


まるで実況中継のようなこの手紙は、当夜の様子を実に詳細に伝えてくれています。

九死に一生を得るという一大事にもかかわらず、この手紙ではその恐怖などはまったく記述されておらず、むしろコミカルな印象さえ感じられます。

負傷した指でピストルの玉込めを替えようとして落としてしまい、それを探し回る龍馬の姿を想像すると、壮絶な場面にもかかわらずつい吹き出してしまいそうになりますよね。

近隣の家の雨戸を破って入るとその家の人は寝呆けていたとか、材木屋の屋根の上で寝ていると犬が吠えて困ったとか、龍馬の人生最大のピンチだったはずの悲壮感は微塵にも感じられません。

龍馬ならではの文章で、後世の愛すべき龍馬像が集約された手紙といっていいでしょう。


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そして、この事件におけるあまりにも有名なエピソードは、のちに龍馬の妻となるお龍が、入浴中に幕吏に包囲されていることに気づき、風呂から一糸まとわぬ姿で2階へ階段をかけ上がり、龍馬に危機を知らせたという話ですね。

写真は、その風呂釜だそうです。


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こちらは、お龍が駆け上がった階段だそうです。


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ところが、この「一糸まとわぬ」というのは、実際のところはわからないようです。

上述した龍馬の手紙には、「裸」とは書かれていませんよね。

明治32年(1899年)のお龍自身の回想録『千里駒後日譚』では、「濡れ肌に袷を一枚引っかけ」と語っており、また、明治16年(1883年)の坂崎紫瀾『汗血千里駒』では、「浴衣をうちかけた」とあります。

「裸」という言葉が確認できるのは、三吉慎蔵が後年自身の活躍をまとめた記録『毛利家乗抄録』に、「龍馬の妾全マ浴室ニ在リ、変ヲ見テ裸体馳セ報ズ」とあり、「裸体」という記述が見られるのですが、同じく三吉の日記『三吉慎蔵日記抄録』には「坂本の妾二階下ヨリ走リ上リ」とあるのみで、お龍の姿については書かれていません。

実際のところはどうだったのでしょうね?・・・て、お龍が裸だったかどうかは、歴史的にどうでもいいことではありますが・・・。

龍馬ファンとしては、実に興味深いところではあります。


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建物内には、龍馬関係の史料が所狭しと展示されています。


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こちらは、戦闘時の刀傷だそう。


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庭にも龍馬の銅像やら石碑やらが数多くあります。


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寺田屋を取り巻いた幕吏は50人とも100人とも言われます。

事件は午前3時頃のことだったといいますが、幸運だったのは龍馬と三吉が薩長同盟の祝杯だったのか、床に入っていなかったこと。

上述したお龍の機転もあって、襲撃までに未然に察知して身を整えることができたため、からくも逃げおおせることが出来ました。

いくら手練のふたりであっても、寝込みを襲われたり不意をつかれていたら、ひとたまりもなかったでしょう。

この幸運が、龍馬をあと1年10カ月の間生かすこととなります。


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龍馬はこの襲撃の際に左手の指に傷を負いました。

この傷はよほど重傷で、こののち負傷した指は自由がきかなかったといいます。

有名な龍馬の立姿の写真は左手を懐に隠していますが、あれは、負傷した左手を隠していたためともいわれます。

この負傷は、最初にあびせられた太刀を左手に持っていた拳銃で受け、その際に負ったものだといいます。

その後も終始拳銃で応戦していて、この北辰一刀流免許皆伝の腕を持つ龍馬が、応戦中一度も刀を抜くことがなかったと、三吉の日記に記されており、このエピソードが、のちの物語などにある、龍馬の刀に対する姿勢のイメージを作ったものでしょう。

でも、このとき龍馬は拳銃で幕吏を2人射殺しています。

決してドラマなどで描かれているような人命尊重の人だったわけではありません。


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ちなみに、この寺田屋の建物ですが、かつては当時の建物がそのまま残されているとされていましたが、最近の調査で、当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の建物は、明治に入ってから再建されたものだったと公式に認められたそうです。

じゃあ、刀傷弾痕、お龍さんの風呂釜は?・・・ということになりますが、無粋な詮索をするのはやめます。

ロマンということで・・・。

ちなみにちなみに、ここ寺田屋は現在でも旅館として営業されており、宿泊できるそうです。

かつては龍馬フリークで知られる武田鉄矢さんが、毎年龍馬の命日にここに泊まられていたそうで、それを知っていた島田紳助さんが、仲間と共に新選組の格好をして襲撃した、なんてエピソードも。

余談中の余談ですが。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-27 00:35 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

龍馬伝 第37話「龍馬の妻」

 寺田屋で幕府捕方に襲われ、絶体絶命のピンチをからくも逃げのびた坂本龍馬三吉慎蔵は、伏見薩摩屋敷に庇護された。このとき京の薩摩屋敷にいた西郷隆盛は翌朝この知らせをうけ、彼を知るまわりの者たちも生涯見たことがないほどの怒気を発したという。そしておそらく伏見奉行所が龍馬たちの引き渡しを要求に来るであろうと見た西郷は、兵力に訴えてでも拒否するという方針を明示し、薩摩藩自慢の英国式一個小隊をつけ、薩摩藩士・吉井幸輔に指揮官を命じ、伏見薩摩屋敷の警護にあたらせた。さらに龍馬の負傷を聞いて、藩医・木原泰雲も同行させた。このときの薩摩の行動に対して、「実に此仕向けの厚き、言語に尽す能はず。」と、三吉慎蔵の日記「三吉慎蔵日記抄録」に書いている。

 伏見薩摩屋敷に1週間ほど匿われた龍馬たちだったが、奉行所の監視が執拗なこと、伏見では十分な医療が受けられないという理由から、2月1日、京の薩摩藩邸に移った。その際、既に事件直後から警備にあたっていた一個小隊に加え、更にもう一個小隊、そして大砲まで用意された。もはやそれは一種の軍事行動だった。たかが一介の脱藩浪士を京に護送するのに、日本最強の英国式歩兵隊と大砲が動くのである。「薩長同盟」成立直後のこの時期、いかに西郷が坂本龍馬という人間の価値を認めていたががうかがえる。龍馬、三吉、お龍を乗せた三艇の籠を中心に、前衛に一個小隊、後衛に一個小隊と大砲が進んだ。これでは奉行所も見廻組も手の出しようがなかった。

 第36話「寺田屋騒動」の稿で紹介した龍馬の手紙に、「私の傷は少々なれども、動脈とやらにて、あくる日も血が走り止めず、三日計り小便に行くも目がまひました。」とあるように、龍馬の傷は思った以上に深かったようで、しばらくは床に伏した生活だった。そのとき龍馬を献身的に看病したのが、お龍だった。医師の父・楢崎将作のもとに育ったお龍は病人や怪我人の看護は馴れていたかもしれない。寺田屋事件の際も、お龍の機転のきいた行動で九死に一生を得た龍馬。そのときのことを龍馬は、姉・乙女に宛てた手紙に、「正月廿三日夜のなんにあいし時も此龍女がおれバこそ龍馬の命ハたすかりたり」と書いているが、その後も龍馬はお龍の看病を受ける日々を過ごすこととなり、事件後もお龍は龍馬にとって命の恩人となった。おそらくはこのとき、龍馬はお龍を妻とする決意をしたのだろう。

 男にとって、病に伏したときほど心細くなるときはない。健康時、仕事に情熱を燃やしていた男ならなおさらだ。そんなとき、自分の手となり足となって看護してくれる女性が傍にいれば、これはもう、惚れないでいるほうが難しい。私も数年前、入院した経験があるが、そのときの担当の看護婦さんが天使に見えた(ちょっと意味合いが違うかな・・・笑)。幕吏に追われ、いつ命を落とすかもしれない身となったこの時期の龍馬が、妻を娶る気になるということ自体が不思議とも思えるが、病に伏し気弱になった龍馬が、命の恩人でありなおも看病をしてくれているお龍に、ずっと傍にいてほしいと思ったのも無理はないだろう。龍馬とお龍は、西郷隆盛、小松帯刀の立ち会いのもと祝言をあげ、正式に夫婦となった。

 長崎の亀山社中に立ち寄ったのはドラマオリジナルのフィクション。龍馬とお龍は西郷のすすめもあって、幕吏の捜査からしばらく身を隠すため、湯治を兼ねた薩摩旅行に向かう。世にいう「日本初の新婚旅行」である。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-13 02:18 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(8)  

龍馬伝 第36話「寺田屋騒動」

 慶応2年(1866年)1月22日に「薩長同盟」を締結させた坂本龍馬は、翌23日夜、この時期龍馬の護衛として行動を共にしていた長州藩士・三吉慎蔵の待つ伏見寺田屋へと帰着した。そしてその夜、伏見奉行所配下の捕方らに襲撃されるという、いわゆる「寺田屋事件」が起こる。この事件については、以前、寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)新史料が見つかる。の稿でも紹介した、三吉慎蔵の日記「三吉慎蔵日記抄録」などに詳しいが、しかし事件当日の様子においてもっとも詳細な資料としては、龍馬が土佐にいた実兄・坂本権平に宛てた手紙に勝るものはないだろう。描写が実に細やかで面白く、今話は私の駄文で説明するよりも、その龍馬の手紙の文章を紹介することにしたい。

上に申す伏見の難は、去正月廿三日夜八つ時半頃なりしが、一人のつれ三吉慎蔵と咄して、風呂より上り、もふ寝やうと致し候所に、ふしぎなるかな(此時二階に居り申候)人の足音のしのびしのびにに階下を歩くと思ひしに、ひとしく六尺棒の音からからと聞ゆ。折から兼てお聞に入れし婦人(名は龍、今は妻といたし居り候)走せ来り云よふ、
「御用心なさるべし、敵の襲ひ来りしなり。槍持ちたる人数、梯子段を上りし也」
と、夫より私も立ちあがり、袴着んと思ひしに次の間に置候。その儘、大小差し、六発込の手筒をとりて後なる腰かけに凭る。つれなる三吉慎蔵は袴を着て大小とりはき、是も腰掛にかゝる隙もなく、一人の男、障子細目にあけ内を窺ふ。見れば大小さし込みなれば、
「何者なるや」
と問ひしに、つかつかと入来れば、直ぐ此方も身構へなしたれば、又引き取りたり。
早次の間にみしみしと物音すれば、龍に下知して次の間のうしろの唐紙とりはづさして見れば、早二十人計も槍もて立ならびたり。其時暫く睨み合ふ所に、私より
「如何なれば、薩州の士に無礼はするぞ」
と申したれば、敵人口々に
「上意なるぞ。坐れ々々」
と罵りつゝ進み来る。此方も一人は槍を中断に持つて私の左に立たりける。私思ふやう私の左に槍を持て立てば、横を打たると思ふ故、私が立替り、其左の方に立ちたり。其時銃は打金をあげ、敵の十人計も槍持ちたる一番右の方を初めとして、一つ打たりと思ふに其敵は退きたり。此間、敵は槍を投突きにし、又は火鉢を打ちこみ色々して戦ふ。私の方には又槍もて防ぐ。実に家の中の戦ひ、誠にやかましくて堪り申さず。又一人を打ちしが、中(あた)りしやわからず。
其敵一人は、果して障子のかげより進み来り、脇差をもて、私の右の大指のもとをそぎ、左の大指のふしを切りわり、左の人さし指の本の骨ぼしをきりたり。前の敵猶迫り来る故、又一発放せしに、中りしや分らず、私の筒は六丸込みなれど、其時は五丸込みてあれば、実にあと一発限りとなり、是大事と前を見るに、今の一戦にて少し沈みたり。一人のもの、黒き頭巾着てたちつけ穿き、槍を平青眼のやうに構へ、近く寄りて壁に沿うて立ちし男あり。夫を見るより又打金あげ、私のつれの、槍もて立ちしに、其敵は丸に中りしと見えて、唯ねむりたほれるやうに、前に腹這ふやうに斃れたり。
此時も又、敵の方はドンドン障子を打ち破るやら、からかみを踏み破るやらの物音すざましく、然れども一向手許には参らず。此時、筒の玉込めんとて六発銃の(れんこん型の絵あり)此のうやうの物を取り外し、二丸までは込みたれども、左の指は切られてあり、右の手も傷めて居り、手元思ふやうに成らず、つひ、手よりれんこん玉室取り落としたり。下を探したれども元より布団は引さがし、火鉢やら何やら何かなげ入れしものと交り、どこや知れず、此時は敵はとんとん計りにて此方に向ふものなし。其れより筒を捨て、私のつれ三吉慎蔵に
「筒は捨てたぞ」
と云えば、三吉曰く
「夫なれば猶敵中につき入り、戦ふべし」と云う。けれども私曰く
「此間に引取り申さん」
と云えば、三吉もとりたる槍を投げ捨て、後の梯子段を降りて見れば、敵は唯、家の見世の方ばかり守りて進むものなし。
夫より家のうしろのやそひを潜り、後の家の雨戸を打破りて這入りたれば、実に其家は寝呆けて出たか、ねやが延いてあり、気の毒にありけれど、其家の建具も何も引きはづし、うしろの町に出んと心掛けしに、其家も随分大きなる家にて中々破れ兼ね、右両人して散々に破り、足もて踏破りたり。夫より町に出でゝ見れば、人は一人もなし、是れ幸と五町計り走りしに、私は病気のあがりなりければ、どうも息切れあゆまれ申さず。
此時思ひしに、男子はすねより下に長きものはすべからずと、此時は風呂より上りしままなれば、ゆかたを下に着て、其上に綿入れを着て袴なしなり。着物は足にもつれ、ぐづゝしよれば敵が追ひつく。横町にそれ込みて、お国の新堀と言う様な所に行きて、町の水門よりずび込み、其家の裏より材木の棚の上にあがりて寝たるに、折あしく犬が実に吠えて困り入りたり。そこに両人とも居りしが、ついに三吉は先づ屋敷(伏見薩摩屋敷のこと)に行くべしとて立出でゝ屋敷に入り、又屋敷の人も共に迎ひに来て私も帰りたり。私の傷は少々なれども、動脈とやらにて、あくる日も血が走り止めず、三日計り小便に行くも目がまひました。此夜彼龍女も同時に戦場を引きとり、すぐざま屋敷に此由を告げしめ、後に共々京の屋敷に引取る。


 まるで実況中継のようなこの手紙は、当夜の様子を実に詳細に伝えてくれる。九死に一生を得るという大事件にもかかわらず、この手紙ではその恐怖などはまったく記述されておらず、むしろコミカルな印象さえ感じられる。負傷した指でピストルの玉込めを替えようとして落としてしまい、それを探し回る龍馬の姿を想像すると、壮絶な場面にもかかわらずつい吹き出してしまいそうになる。近隣の家の雨戸を破って入るとその家の人は寝呆けていたとか、材木屋の屋根の上で寝ていると犬が吠えて困ったとか、龍馬の人生最大のピンチだった悲壮感は微塵にも感じられない。龍馬ならではの文章だ。

 龍馬の指の傷は動脈まで達しており、出血が止まらず走れなくなった龍馬は、材木屋の棚の上に身を潜めた。龍馬の手紙には書かれていないが、「三吉慎蔵日記抄録」の中に書かれているもので私の大好きなエピソードがある。材木屋の棚の上に隠れていた際、もはや助かる道はなしと覚悟した三吉は龍馬に、ここで武士らしく切腹して果てようと進言する。しかしそれを聞いた龍馬は、
「死ハ覚悟ノ事ナレバ、君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ。若シ途ニシテ敵人ニ逢ハゝ必死夫レ迄ナリ僕モ亦タ與所ニテ死センノミト」
 現代語に直すと、「死ぬ覚悟ができているのならば、君はこれより伏見薩摩藩邸へ走ってくれ。もし、その途中で敵に会えばそれまでだ。僕もまた、この場所で死ぬまでだ。」ということ。生き死には天にまかせろ。切腹して果てるのも、敵に首を討たれるのも、死ぬことに変わりはない。ならば体の動く限り生きることを考えろという。この龍馬の言葉が、彼をあと1年10カ月の間生かすこととなり、三吉慎蔵にいたっては明治34年まで生かすことになる。龍馬にとって三吉は命の恩人であることは間違いないが、三吉にとっても龍馬は命の恩人といえるだろう。

 そしてもう一人の命の恩人、お龍。彼女が捕方の来襲を龍馬たちに伝えるシーンは、多くの男性視聴者の期待どおり・・・とはいかなかった(笑)。入浴中だったお龍が一糸まとわぬ姿で階段をかけ上がり、その報告を受けた二人は襲撃に備えることが出来たという有名なエピソードだが、この「一糸まとわぬ」というのは実際のところはわからないようだ。明治32年のお龍自身の回想録「千里駒後日譚」では、「濡れ肌に袷を一枚引っかけ」と語っており、また、当ブログで度々紹介している坂崎紫瀾著の「汗血千里駒」では、浴衣をうちかけたとある。しかし、三吉慎蔵が後年自身の活躍をまとめた記録「毛利家乗抄録」では、「龍馬の妾全マ浴室ニ在リ、変ヲ見テ裸体馳セ報ズ」とあり、「裸体」という記述が見られるが、同じく三吉の日記「三吉慎蔵日記抄録」には「坂本の妾二階下ヨリ走リ上リ」とあるのみで、お龍の姿については書かれていない。ドラマでのお龍の姿は、彼女自身の談話の姿を採用したものだろう。

 兎にも角にも、龍馬は絶体絶命のピンチを脱し、九死に一生を得た。そしてこの修羅場をきっかけに、お龍と龍馬の関係が一層深まったことはいうまでもない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-06 03:07 | 龍馬伝 | Trackback(1) | Comments(5)  

寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件) 新史料が見つかる。

 坂本龍馬が伏見奉行所の捕り方に襲撃された「寺田屋事件」の貴重な資料が見つかったそうである。幕末に言う「寺田屋事件」とは2つあって、ひとつは1862年(文久2年)に起こった、薩摩藩尊王派による決起集結を同じ薩摩藩士が流血をもって鎮撫したという同士討ち事件。そしてもうひとつは今回資料が見つかったという、1866年(慶応2年)に起こった坂本龍馬襲撃事件。のちに龍馬の妻となるお龍が、風呂から裸のまま2階へ階段をかけ上がり、龍馬に危機を知らせたという話は誰もが知るところで、龍馬を主役にした物語では欠かすことの出来ない逸話である。

 これまでこの事件のことは、龍馬自身が姉の乙女に宛てて書いた手紙や、護衛として龍馬と共にこの寺田屋にいて襲撃された、長州藩士・三吉慎蔵の日記などで伝わってきた。今回見つかった資料は、伏見奉行所の報告書で事件後の龍馬の足取りなどが詳細に記されているらしい。幕府側の資料が見つかるのは初めてで、貴重な歴史資料になるだろう。

 この襲撃事件が起こったのは、1866年(慶応2年)1月24日の未明で、龍馬が尽力したとされる「薩長同盟」が締結された翌々日のことである。この時点では、まだ幕府側が薩長同盟の事実を知る由もないが、坂本龍馬が長州の桂小五郎と組んで何かを企てているというのは察知されており、天下のお尋ね者となっていた。22日、京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟の締結を見届けた龍馬は、23日夜、三吉慎蔵の待つ寺田屋に戻ってきた。寺田屋に入っていく龍馬の姿を幕吏は確認していたのかもしれない。

 事件は24日の午前3時頃のことだが、幸運だったのは龍馬と三吉が薩長同盟の祝杯だったのか、床に入っていなかったこと。上記のお龍の機転もあって、襲撃までに未然に察知し身を整えることができた。寺田屋を取り巻いた幕吏は50人とも100人とも言われる。いくら手練の二人であっても、寝込みを襲われたり不意をつかれたらひとたまりもない。この幸運が、龍馬をあと1年10カ月の間生かすこととなる。

 龍馬はこの襲撃の際に左手の指に傷を負った。この傷はよほど重傷で、生涯負傷した指は自由がきかなかったという。この負傷は最初にあびせられた太刀を左手に持っていた拳銃で受け、その際に負ったものだという。その後も終始拳銃で応戦していて、この北辰一刀流免許皆伝の腕を持つ龍馬が、応戦中一度も刀を抜くことがなかったと、三吉の日記に記されている。このエピソードが、のちの物語などにある、龍馬の刀に対する姿勢のイメージを作ったものだろう。

 からくも寺田屋を脱出した二人だったが、龍馬は数日前から風邪をひいていて熱があり、負傷した指の出血多量による極度の貧血も重なって動けなくなった。やむをえず材木小屋に潜んだものの、もはや逃げられないと考えた三吉は、ここで潔く切腹して果てようと龍馬に進言する。しかし龍馬の考えは違った。
 「死ぬ覚悟ができているのならば、君はこれより伏見薩摩藩邸へ走ってくれ。
 もし、その途中で敵に会えばそれまでだ。僕もまた、この場所で死ぬまでだ。」

 生き死には天にまかせろ。切腹して果てるのも、敵に首を討たれるのも、死ぬことに変わりはない。ならば体の動く限り生きることを考えろという。この考え方は、この当時の武士としては奇跡的な考え方で、龍馬にまつわる数々のエピソードの中で、私のもっとも好きな話である。

 龍馬に説得された三吉は、川で染血を洗い、わらじを拾って旅人に身を変じ、伏見薩摩藩邸に駆け込んで救援を求めた。報告を受けた薩摩藩は、薩摩の旗印を押し立てて龍馬の救出に向かい、無事助け出した。龍馬と三吉のギリギリの「大脱出」物語である。

 寺田屋は今でも当時の姿を残したまま現存する。(これについては明治に再建されたという説もある。) 一度行ってみたいと思っているのだが、まだその機会がない。上記の寺田屋事件は「三吉慎蔵日記抄録」に詳しく、司馬遼太郎氏の小説「竜馬がゆく」の叙述もこの史料に則っている。今回見つかった資料で、今までになかった詳細や、これまで定説だったものの裏付けとなることなど、いろんな意味で期待は大きい。


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下記、記事本文引用
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<坂本龍馬>寺田屋事件後の足取り記録 奉行所の報告書発見

 坂本龍馬が伏見奉行所に襲撃され重傷を負った「寺田屋事件」について、事件直後の龍馬の足取りを詳細に記した同奉行所の報告書の写しが見つかり、15日、高知県立坂本龍馬記念館が発表した。同事件に関しては、これまで龍馬の手紙などでしか伝わっていなかったが、幕府側の資料が見つかるのは珍しいという。
 報告書は2通で、京都所司代にあてたもの。手負いの龍馬が薩摩藩邸に向かう途中、「村上町」(現在の京都市伏見区)にある「近江屋三郎兵衛」の「材木納家」に逃げ込んだと記載されており、特定されていない詳細な場所が分かる可能性があるという。材木納屋には血に染まった所持品を残していたとの記載もあった。
 また、龍馬は逃げる際、寺田屋に書類を忘れており、報告書には「坂本龍馬所持至款写取奉差上候」(坂本龍馬が持っていた書類の写しを差し上げます)と記されていた。
 報告書は京都土佐藩邸が集めた1854~66年の資料計574点の中から見つかった。資料を手放そうとしていた京都市の収集家から土佐歴史資料研究会のメンバーがいったん購入し、同県が今月買い取った。
 資料を分析している土佐山内家宝物資料館の渡部淳館長(46)は「単なる回想ではなく、同時代の人が書いたもので臨場感があり、文章が躍っている。これからのドラマや本はもっと細かく描けるようになるだろう」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091215-00000069-san-soci

by sakanoueno-kumo | 2009-12-16 16:43 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(2)