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タグ:三好長慶 ( 6 ) タグの人気記事

 

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その4 ~北出丸・南出丸~

「その3」で主郭まで攻略しましたが、続いて、主郭北西にある曲輪に向かいます。


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主郭北西にある細い道を下ります。


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主郭北側の一段下がったところにも、曲輪跡と見られる削平地があります。


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その周囲は、立派な土塁跡で囲われています。


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更にその北西にある曲輪に向かいます。

細い喰違虎口となっています。


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虎口を抜けて下ったところに、堀切土橋があります。


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土橋です。


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そして堀切です。


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土橋を渡ると、東西に長い削平地に出ます。


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縄張り図によると、「西郭」とか「北出丸」とか名称は様々ですが、要は主郭北西にある曲輪です。


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反対側(北西側)からみた北出丸です。


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で、一旦主郭に戻って、今度は主郭南西の曲輪に向かいます。


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ここが、南西にある曲輪。


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表示板には「田ノ丸」と書かれていますが、縄張り図には、「南郭」とか「南出丸」といった名称で紹介されています。


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ここは、北出丸のように樹木が伐採されていないため、それほど広さを感じませんが、縄張り図によると、北出丸と同じぐらいの広さがあるようです。


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さて、だいたいの曲輪は攻略したので、「その3」で紹介した主郭曲輪群と第2曲輪の間の分岐点に戻り、そこから今度は大手筋で下山することにしました。


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50mほど下山したところに、石垣の遺構が残っています。


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残念ながら中央が崩れてしまって両端のみかろうじてその姿を残していますが、かつては一列につながった立派な石垣の壁だったのでしょうね。


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崩れた部分の下には、石垣に使用されていたのであろう巨石が散乱しています。


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「その2」でもふれたとおり、この石垣は三好長慶の時代の石垣と考えられています。

日本の城郭建築に本格的に石垣が使用されるようになるのは、近世城郭に先駆けとなった織田信長安土城の築城以降と言われていますから、三好長慶の時代のものとすれば、当時とすれば、たいへん珍しいものだったに違いありません。


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大手筋を登ってきたら、目の前にドーンと石垣の城壁が現れる。

当時の近隣の武士たちは、この石垣に圧倒され、三好長慶に屈していったのかもしれません。


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その石垣の前の高い木が、軒並み大きく撓ってお辞儀していました。


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これも、おそらく平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号による被害でしょうね。

これほどの大樹が弓のように撓っている姿は、なかなか異様な光景でした。


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さて、石垣を後にして下山しましょう。


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天文22年(1553年)から7年間に渡って、ここ芥川山城を本拠としていた三好長慶でしたが、永禄3年(1560年)に近くの河内飯盛山城(参照:飯盛山城)に居を移し、芥川山城には嫡男の三好義興を据えました。

しかし、3年後の永禄6年(1563年)に義興は22歳の若さで急逝

すると、あとを追うように長慶も永禄7年(1564年)に飯盛山城で没します。


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その後、芥川山城はしばらく歴史の記録から姿を消しますが、永禄11年(1568年)に織田信長が摂津に侵攻すると、この城に立て籠もった三好長逸らを追い落とし、信長配下の和田惟政を入城させます。

しかし、その和田惟政も翌年には高槻城(参照:高槻城)に移り、代わって重臣の高山友照が城主となりますが、天正元年(1573年)に高山友照の子・高山右近が和田氏を追放して高槻城主となったため、このとき、芥川山城は廃城になったのではないかと考えられています。


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と、歴史の話をしている間に、大手筋の登り口まで降りてきました。

石垣がありますが、これは明治以降の築かれたものだそうで、城跡とは関係ありません。


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麓から三好山を見上げます。

三好長慶によって畿内の覇者となった三好氏でしたが、長慶の死後は衰退の一途を辿ります。

栄枯盛衰は世の習い。

最後に、続日本100名城のスタンプを載せます。

スタンプを押したのは、この日より1年近く前でした。

大手石垣が描かれていますね。


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by sakanoueno-kumo | 2019-07-06 11:28 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その3 ~主郭~

「その2」の続きです。

二之郭の北の細い道を西に進むと、急に視界が開けた場所に出ます。


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そこには、芥川山城跡ではなく「城山城跡」と刻まれた小さな石碑があります。


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石碑の脇には、南へ下る道があります。

どうやらこの道が大手道のようです。

ここが、大手筋ルート塚脇ルートの交差点になっているようです。


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石碑を過ぎると、主郭と二之郭を結ぶ細長い帯曲輪となっています。


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主郭虎口

細い喰違虎口となっています。


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主郭部に登ってきました。

主郭は三段構造になっており、それぞれの名称はわかりませんが、一番下の段の曲輪を主郭南展望曲輪とでも呼びましょうか。


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展望曲輪からの南側の眺望です。


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遠くにあべのハルカスが見えます。


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こちらは、三好長慶が永禄3年(1560年)に芥川山城から移り住んだ河内飯盛山城のある飯盛山(参照:河内飯盛山城跡)。

ここ芥川山城跡とともに続日本100名城に選ばれています。


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展望曲輪から北を振り返ると、主郭が見えます。


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展望曲輪から主郭に登る虎口。

ここも喰違虎口となっています。


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登ってきました。

ここは主郭下段とでも名付けましょう。


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「桜広場」と書かれた看板があります。

ここを訪れたのは令和になる少し前の平成31年(2019年)3月9日。

桜の季節には少し早かった。


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主郭下段の北側には、いよいよ主郭があります。


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で、主郭に登ってきたのですが、いきなり視界に飛び込んできたのは、傾いた巨木


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そして、根こそぎ横倒しになった巨木もあります。


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「その2」の二之郭でもふれましたが、前年の平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号で、大阪は各地でたいへんな被害を受けたのですが、おそらく、これはそのときの被害だと思われます。


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それにしても酷い。


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横にある祠は三好長慶を祀ったものだそうです。


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芥川山城の始まりは、戦国時代の永正年間(1504~1523年)に室町幕府の管領・細川高国が築いたとされています。

『瓦林政頼記』によると、「芥川ノ北ニ当リ、可然大山ノ有ケルヲ城郭ニソ構ヘ」と伝え、その普請は、「昼夜朝暮五百人、三百人ノ人夫、普請更ニ止時ナシ」と記されています。

かなり大規模な工事だったことがわかります。


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細川高国は室町幕府の政治をほしいままにしていた人物ですが、しかし、大永6年(1526年)に細川晴元高国打倒の兵を挙げると、享禄4年(1531年)に滅ぼされ、その後、天文2年(1533年)には代わって細川晴元が入城。

管領に就任して政権を掌握しました。


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しかし、それも長くは続かず、天文8年(1539年)には家臣の三好長慶によって晴元は京を追われ、以降、長慶は畿内で勢力を伸ばし、天文16年(1547年)には芥川山城も長慶の手に落ちました。


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長慶ははじめ、従兄弟の芥川孫十郎を城主にしますが、天文22年(1553年)、孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は、孫十郎を退去させ、その後、自身が入城。

この城を畿内統治の本拠とすると、摂津を中心として山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨にまで勢力圏を拡大していきます。

畿内一円を支配した長慶による政権を、その拠点となったここ芥川山城にちなんで、「芥川政権」と呼ぶこともあります。


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山麓にあったものと同じ推定復元図の看板があります。

主郭には御殿が描かれていますが、発掘調査礎石等が発見されたそうで、御殿のような立派な建物があったことは確認されているそうです。


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主郭からの南の眺望です。


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標高183mの主郭での昼食はコンビニ弁当です(笑)。


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さて、主郭まで攻めてきましたが、まだ、全て攻略できていません。

「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-05 00:10 | 大阪の史跡・観光 | Comments(2)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その2 ~第2曲輪・東出丸~

「その1」の続きです。

芥川山城を登り始めて約30分、切通し虎口があります。

縄張り図によると、ここを抜けると第2曲輪となっています。


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「切通し」とは、丘などの土を掘削して造った道のこと。


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石垣の名残でしょうか?

虎口の脇には大きな石がゴロゴロ散在しています。


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虎口を過ぎると、左側(南側)が一段高くなっています。

縄張り図によると、「第2曲輪」「二之郭」「東出丸」などの名称で書かれていますが、まあ、とにかく登ってみましょう。


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曲輪の上に登ってきました。

登城前にネットで予習してきた際には、広い削平地だったはずなんですが、来てみると、大木が何本も根こそぎ倒れていて、散々に荒れ果てていました。


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わたしがここを訪れたのは、令和になる少し前の平成31年(2019年)3月9日。

この前年の平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号で、大阪は各地でたいへんな被害を受けたのですが、おそらく、これはそのときの被害だと思われます。


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それにしても、酷いですね。

こんな大木が根っこから倒れるって、いったいどんだけ強い風だったのでしょう。


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九州や沖縄の方々と違って、関西はあまり大きな台風が上陸することはありませんでしたから、実際わたしも、あのときは初めて台風が怖いと思いました。


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曲輪の周囲は土塁で囲われています。


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その土塁のどこかの一角から降りたところに石垣の遺構があるはずなんですが、大木が倒れて視界が遮られている上に足元も悪く、なかなか見つけられません。


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下へ降りていけそうな土塁の切れ目をみつけました。

降りてみましょう。


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ありました。

見事な石垣の遺構です。


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苦労して見つけただけに、感動もひとしおです。


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芥川山城の始まりは、戦国時代の永正年間(1504~1523年)に室町幕府の管領・細川高国が築いたとされていますが、この石垣の遺構は、おそらく天正22年(1553年)に入城した三好長慶の時代のものと思われます。

しかし、それも定かではなく、専門家の見方では、この石垣は戦国時代の技術ではあり得ない組み方をしているそうで、現在でも議論になっているそうです。

ただ、三好長慶が永禄3年(1560年)にこの城から移り住んだ近くの河内飯盛山城でも同じ技術の石垣があるそうで(参照:河内飯盛山城)、そう考えれば、やはり三好長慶の時代の石垣と考えていいのかもしれません。


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日本で最初の石垣の城は近江の観音寺城(参照:観音寺城)と言われていますが、本格的に石垣の城が普及するのは、天正4年(1576年)に築かれた織田信長安土城からと言われています。

その20年近く前に、実は三好長慶がここに石垣の城を築いていた・・・。

そう考えながらこの石垣を見ると、なんだかロマンを感じます。


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さて、石垣を堪能したので、主郭に向かって進みましょう。

「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-04 11:54 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その1 ~登城道~

今回は大阪府下最大の規模を誇る芥川山城を攻めます。

芥川山城は阿波徳島から攻め上ってきた三好長慶が管領・細川晴元を追い落として入城し、畿内統治の本拠としていた城です。


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登城口近くの「塚脇」というバス停に、芥川山城の案内板や説明板が並んで設置されています。


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こちらの説明板では、「三好長慶が細川晴元を擁して入城」と書かれていますね。

わたしが知るところでは、晴元は長慶に攻められて追い落とされたはずなんですが・・・。


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説明板には、縄張り図が記載されています。


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こちらは「芥川山城復元推定図」とあります。

これはわかりやすい。


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その下には、登城ルートの案内が。

登城ルートは2つあって、大手筋ルート塚脇ルートがありますが、この日は塚脇ルートから登り、大手筋ルートで下山するコースを選択しました。

ちなみに、芥川山城の山は現在、「三好山」と呼ばれています。

その由来が三好長慶であることは、言うまでもないでしょう。


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こちらは摂津峡の案内板。

このあたりは摂津峡と呼ばれる渓谷があり、桜や紅葉の名所として知られています。

この日は桜のシーズンより少し前の平成31年(2019年)3月9日。

桜のシーズンには花見客で賑わう摂津峡公園の駐車場に車を停めて城跡を目指します。


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その摂津峡公園の東側にある売店の横に、登山口につながる道があります。


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ここにも、バス停にあったものと同じ芥川山城復元推定図の看板が。


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売店の横を抜けて細い道を進みます。


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摂津峡の芥川です。


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この木橋を渡ります。

けっこう怖いです。


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3月なのでまだ緑が少ないですが、陽射しは春の陽気で心地いい日でした。


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で、しばらく集落の中を歩いて、城跡南東部の登城口にたどり着きました。

ここが、上述した塚脇ルートの登城口です。


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「三好山へ40分」とあります。


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登山道の脇には、まるで城跡の遺構のような石垣の段が広がりますが、これは、棚田の石垣です。


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古井戸のようです。


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古井戸を過ぎたあたりの登山道に立派な石垣が現れますが、これも、明治以降に築かれたもののようで、城跡の遺構ではありません。


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しばらく進むと、「池・曲輪群」と書かれた看板があります。


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その誘導に従って道脇に足を踏み入れると、たしかに曲輪跡と見られる削平地がいくつもあります。


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削平地には、古い墓石が複数並んでいますが、城とは関係ないのかな?


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池らしき場所がみあたりません。


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さらに進むと、「竪土塁」と書かれた案内板が。


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たしかに、これは立派な竪土塁です。


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竪土塁をすぎると、大きな堀切土橋が現れます。


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城跡らしくなってきました。


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土橋を渡ると、明らかな虎口跡があります。

ここから本格的な城郭の縄張りに突入するのですが、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-29 08:38 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

太平記を歩く。 その164 「飯盛山城跡」 大阪府大東市

前稿で紹介した四條畷神社の裏山にあたる、標高315.9m飯盛山山頂に、飯盛山城跡があるのですが、ここも、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日に起きた「四條畷の戦い」の戦場となったと伝えられます。


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神社南側にある石碑です。

石碑は大正8年(1919年)、記念碑は大正13年(1924年)に建てられたもののようです。

ここから飯盛山に登ります。


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登山道はハイキングコースになっているので、歩きづらいこともなく、道に迷うこともありません。

ただ、勾配は結構きつく、ハードです。


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30分以上登ると、ようやく最初の曲輪、二の丸史蹟碑郭にたどり着きました。

この日は12月3日だったのですが、この時点で汗だくです。


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こちらも麓にあった記念碑と同じく大正13年に建てられた「飯盛山史蹟の碑」です。


碑文

標高三一八米 地質花崗岩

建武年中北條氏の餘黨此に據り楠木正成之を討ちたりと傳ふ正平三年一月四條畷の戦に方り高師直の軍此を占む楠氏没落後畠山氏河内を領するに及び天文年中其臣木澤長政をして城郭を構へしむ永禄のころ三好長慶威を近畿に振ふに至りこれを略取して数修築を加ふ其規模頗る宏大三好氏十有餘年間軍事庶政の本據たりしが後織田信長の近畿一統に至りて城廢せらる現存せる城址は実に當年のものなり

大正十三年一月廿六日  大阪府立四條畷中學校校友會


簡単にまとめると、建武の頃に楠木正成がここで北条氏残党を討ち、その後、四條畷の戦いで高師直軍がここを占領して楠木正行討死

その後は畠山氏が河内を領し、家臣の木沢長政が天文年間にこの地に築城するも、永禄年間に三好長慶が奪取して城を拡張。

しかし、その後、織田信長の近畿統一により廃城となります。


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同じく、二ノ丸郭にある立て札です。

実は、四條畷の戦いの頃の飯盛山城は、臨戦的な陣城で、恒久的な城ではなかったといわれています。

現在残る城址遺構のほとんどは、戦国時代、三好長慶の頃のものです。


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二ノ丸郭の景色を眺めたあと、再び山頂に向かって登ります。


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青空に紅葉が映えます。


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二の丸御体塚郭です。

戦国時代、ここの城主だった三好長慶の死後、ここ御体塚郭に遺骸を3年間、仮埋葬していたのだとか。


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御体塚郭の斜面には、石垣跡が綺麗な状態で残っています。


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見事ですね。


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この石段を登ると、山頂のようです。


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山頂が見えました。


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山頂の高櫓郭には、「飯盛城址」の石碑と楠木正行の像が建っています。


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本丸に着いたのは正午前、北向きに建っているので、逆光で上手く撮影できません。


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この像は、はじめ昭和12年(1937年)に建立されたそうですが、第二次世界大戦中の昭和18年(1943年)に出された金属供出の命令により、台座を残して上の銅像の部分を供出されたそうです。

現在の像は昭和47年(1972年)に再建されたものだそうです。


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斜め後ろ姿です。


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本丸跡に設置された城の縄張り図です。

たいへんわかりやすい。


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本丸展望台からの西の眺望です。


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本丸斜面にも、石垣跡がきれいに残っています。


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こちらも石垣跡ですね。


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まだまだ、曲輪跡やら土塁跡などたくさん写真があるのですが、ずいぶん長くなっちゃったので割愛します。
せっかくなので紅葉の写真を数枚。


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『太平記』には、「懸下野守、その勢五千余旗飯盛山に打ちあがりて」と記されています。

懸下野守とは、楠木八臣のひとり恩地左近満一のことで、恩地軍5000の兵がこの城に立て籠ったようです。

しかし、そのほとんどが戦下に散りました。

最後に、下山してから飯盛山を見上げます。


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追記
2018年4月6日より族・日本100名城スタンプラリーが始まりました。

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「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-09 09:40 | 太平記を歩く | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~

大阪府四條畷市に忍陵神社というところがあるのですが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際、徳川秀忠がこの地に本陣を布いたと伝えられます。

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ここは忍陵古墳という4世紀中頃の古墳でもあり、大坂の陣当時には神社はなく、当時、飯盛山城を居城としていた三好長慶が、その支城としてこの丘陵地に岡山城を築いたと伝えられます。

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現地説明看板によると、大阪夏の陣で秀忠がこの地に本陣を布いて徳川方が勝利したため、縁起がいいところとして「御勝山」と称された、とあります。
ん?・・・どっかで聞いたことある話ですよね。

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そう、「その7」で紹介した岡山と、まったく同じ話です。
岡山、御勝山・・・出来すぎですね。
これって、どちらかの話が間違いなんじゃないですか?
秀忠がここに陣を布いたというのは事実なんでしょうけど、御勝山の伝承は、ふたつの話が混同しちゃってるような気がします。

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まあ、この手の話というのは、すべて後世になって語られたものでしょうから、あるいは、どちらも作り話かもしれません。

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でも、古墳であり城跡であり、そして本陣跡の伝承ありと、悠久の歴史を持つ場所であることは間違いありません。
伝承が実話かどうかなんて、無粋な詮索ですね。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-08 19:53 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)