人気ブログランキング |

タグ:三島弥彦 ( 5 ) タグの人気記事

 

いだてん~東京オリムピック噺~ 第11話「百年の孤独」 ~開会式と三島弥彦選手の挑戦~

明治45年(1912年)7月6日、第5回ストックホルムオリンピック開会式が行われました。それは、現在のように大会初日ではなく、大会期間中で最も多くの選手が集まりやすい日に行われたようです。というのも、この頃のオリンピックの開催期間は現在のオリンピックのように半月ほどの日程ではなく、5月5日から7月27日までの約3か月半以上の長丁場だったそうです。当時の交通機関の移動手段などを考えれば、それぐらい必要だったのでしょうね。開会式というより、お披露目式といった趣旨の入場行進だったのでしょう。


e0158128_00133933.jpg


 日本の入場はイタリアの次でした。白い半袖半ズボンのユニフォームの胸には、日の丸が付いていて、三島弥彦選手は白いシューズ、金栗四三選手は黒い足袋での入場行進でした。三島選手が日の丸を掲げ、金栗選手がプラカードを持ちました。そこに記された国名は、JAPANではなくNIPPON。この表記にこだわったのが金栗選手だったかどうかはわかりませんが、たしかに、当時の日本人にとってJAPANなんて単語は、あまり馴染みはなかったでしょうね。そもそも、国名や地名は固有名詞なわけですから、東京はTOKYO、大阪はOSAKAであるように、日本はNIPPONであるべきなんですね。JAPANの語源は諸説ありますが、マルコ・ポーロ東方見聞録に登場する「黄金の国・ジパング (ZIPANG)から来たという説が有力となっています。そんな16世紀の西洋人がつけた呼称が世界公用語だと言われても、日本人としては納得いきませんよね。そう考えれば、日本人が日本人のことを「エキゾチック・ジャパン」なんて歌っちゃだめです(笑)。


 ちなみに、5つの大陸を表したという青、黄、黒、緑、赤の五輪マークは、この時点ではまだ存在せず、この2年後のパリでの会議でピエール・ド・クーベルタン男爵が初めて提案します。おそらく、このストックホルムオリンピックに日本や南アフリカが参加したことで、ようやくオリンピックで五大陸が輪でつながったという意味だったのでしょうね。


e0158128_21444997.jpg かくして日本人初のオリンピック選手2人の戦いが始まりますが、最初に世界と戦ったのは、短距離走の三島選手でした。入場行進当日の7月6日、三島は100m走の予選に出ますが、結果は11秒8で予選落ち。優勝したアメリカのラルフ・クレイグ選手のタイムが10秒8だったといいますから、1秒差の惨敗です。1秒といえば、およそ10m差ですからね。まったく歯が立たなかったといっていいでしょう。7月10日には200m走に挑戦した三島選手でしたが、ここでも最下位。その2日後の7月12日に行われた400m走では、エントリー選手5人のうち3人が棄権したため2人のレースとなり、予選2位以上が決勝進出という条件から三島は決勝進出の権利を得ますが、ここで三島は棄権しました。自分には決勝で走る力はないと悟ったのでしょうね。


「敵はタイムのみ。一緒に走る選手のことはライバルではなく、タイムという同じ敵に立ち向かう同志と思いたまえ」


 ドラマでプレッシャーに押しつぶされそうになっていた三島選手にかけた大森兵蔵監督の台詞ですが、いい言葉ですね。わたしは数年前まで少年野球の指導者を長くやらせてもらっていましたが、よく子供たちに言い聞かせていたのは、「他人と比べて上手い下手を気にするのではなく、昨日の自分より今日の自分が上手くなれるよう頑張れ!」という言葉でした。スポーツのみならずですが、いちばんの敵は自分自。自分との戦いに勝ってこそ、人は成長していくものだと思います。


 とはいえ、このときの三島選手の400mのタイムは56秒2。羽田での国内予選大会のときのタイムが59秒6だったことを思えば、昨日の自分より格段に速い記録を打ち立てているのですが、このとき優勝したアメリカのリードパス選手のタイムが48秒2だったといいますから、日本国内で無敵を誇った三島選手にして、世界の舞台ではまったく相手にならないどころか、初めから競技の土台にも立っていない状況だったといえそうです。


 「日本人に短距離走は無理です。100年掛かっても無理です。」


 ドラマ中、100m、200m、400m走の3種目を走り終えた三島選手が言った言葉ですが、いだてん紀行で紹介されていたように、三島から96年後に行われた2008年の北京オリンピックにおいて、塚原直貴、末続慎吾、高平慎士、朝原宣治K(4×100mリレー)日本人初のメダルを獲得しました(当初は銅メダルでしたが、のちにジャマイカの「金」はく奪のため、銀メダルに格上げ)。しかし、水を差すようですが、あれとて、アメリカ等の強豪国がバトンパスのミスや引き継ぎ違反で決勝に進めなかったことが日本にとってラッキーだったためで、本当の意味で世界に通用したとは言えないと思います。それで言うなら、2017年に桐生祥秀選手が日本人初の9秒台をマークした9秒98のタイム。これはとんでもなくスゴイことで、2019年3月の現時点で100m走9秒台の選は全世界で136人いますが、そのなかで非ネグロイド(黒人以外)の選手は8人しかいません。そこにようやく日本人選手が名を連ねた。三島選手のストックホルムから実に105年後のことで、まさしく三島選手の言葉どおり100年以上掛かったわけですが、それでも、桐生選手のタイムは世界順位でいえば106位で、非ネグロイド8人のなかでも7位です。ようやく世界と戦える入口に立ったという段階といっていいでしょうね。短距離走における日本人の挑戦は、まだまだ先は長そうです。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2019-03-18 00:15 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(2)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第10話「真夏の夜の夢」 ~大森兵蔵の病と三島弥彦の気おくれ~

ストックホルムに着いて数日が経ち、現地での生活に慣れてくると、金栗四三三島弥彦の両選手は、練習を開始しました。宿舎のホテルから練習用のサブグラウンドはそれほど遠くなく、二人は毎日歩いてそこに通ったそうです。そのときのことを、金栗はこう語っています。


 「私は三島選手の手伝いをしてから、マラソンコースを一人で練習した。初めのうちは、気温も低く、外人選手も少なく、楽な気分で走っていたが、六月下旬から暑くなり、外人選手も多くなると、これら外人選手と一緒の練習による緊張と疲れとで、誰が鞭撻してくれる人がほしいと思った」(『日本体育協会五十年史』日本体育協会編)


 日本選手団といってもわずか2人。そしてコーチもいません。本来であれば、監督の大森兵蔵がその任にあたるところだったでしょうが、大森は日本を発つ前から患っていた肺病の病状が悪化し、とても選手たちの指導にあたれる状態にありませんでした。


e0158128_19124304.jpg 大森兵蔵は明治9年(1876年)生まれで、このとき36歳同志社、東京高等商業学校(現・一橋大学)に学び、カリフォルニアのスタンフォード大学経済学部を経て、マサチューセッツ州スプリングフィールドにある国際YMCAトレーニングスクールを卒業。在米中に結婚したアニー夫人(日本に帰化したのち、大森安仁子と改名)を連れて明治41年(1908年)に帰国し、日本に初めてバスケットボールバレーボールを紹介しました。アメリカの選手制度練習法を日本に伝えたのも彼で、競技会の創設を説いたのも彼。嘉納治五郎とともに大日本体育協会の設立にも尽力し、その専務理事にも就きました。日本初のオリンピック選手団の監督としては、うってつけの人物だったといえるでしょう。


 ただ、大森はこのときすでに肺の病に侵されていました。いまで言う肺結核ですね。なぜ、そのような身体で監督の任を引き受けたのかはわかりませんが、日本を発つ前はそれほど酷くはなかったのか、あるいはスポーツマンだけに自分の体力を過信していたのか、いずれにせよ、大森の病状は長旅の途中で悪化、シベリア鉄道での移動中に喀血し、その後は横になっている日々が続くようになります。ストックホルムに着いてからも、選手たちの練習を見るどころではなく、金栗と三島は、自分たちだけで何とかするしかありませんでした。上述した金栗の言葉にも、「誰が鞭撻してくれる人がほしいと思った」とあるように、監督を頼れずに外国人選手たちの中で気おくれしている様子が窺えます。


e0158128_16513466.jpg 「気おくれ」という点では、金栗より三島のほうが大きかったようです。三島は当時の日本人としては長身の174cmだったそうですが、日本では周りを見下ろす環境だったでしょうが、こちらに来てみると周囲は偉丈夫だらけで、むしろ見上げるほうが多い。一緒に練習をしていても、100m走で自分より1秒以上も速い選手がずらりといる。日本ではスポーツで向かうところ敵なしのスーパーアスリートだっただけに、こちらに来て初めて経験する劣等感に打ちひしがれていたようで、「恥ずかしくて、とても練習なんかしていられない」と泣き言をいい、ノイローゼ気味だったといいます。ドラマでもそうでしたね。100mと1秒というと、10m近い差があります。あるいは、練習中に外国人選手から嘲笑されたりしたこともあったのかもしれません。オリンピックは参加することに意義があるといっても、あまりに力の差が歴然としているようでは、やはり、モチベーションは保てませんよね。『黎明の鐘』となるのも大変です。


 ちなみに、大森兵蔵・安仁子夫妻の話に戻りますが、ドラマではシャーロット・ケイト・フォックスさんが演じるチャーミングな安仁子ですが、実際には、安仁子は兵蔵より20歳年上の姉さん女房です。結婚したとき兵蔵30歳、安仁子50歳。ストックホルムに来たこのときは56歳でした。なかなかなおばさんです(笑)。でも、30歳の兵蔵が結婚したいと思ったわけですから、きっと、よほど魅力的な50歳だったのでしょうね。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2019-03-11 19:15 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第8話「敵は幾万」 ~ストックホルムへ~

 かくして日本初のオリンピック選手に選ばれた金栗四三三島弥彦でしたが、問題はその旅費でした。当時、嘉納治五郎が会長を務める大日本体育協会は発足したばかりで、財政の余裕があるはずがありません。そこで嘉納は、国費による援助を文部省に求めますが、まだオリンピックという祭典の認知度が低かったこの時代、遊びのようなものに国費を使うなどあるまじきこととして門前払いでした。当時、日露戦争で使った莫大な戦費により日本は借金まみれで、緊縮財政により財布のひもが固かったんですね。日露戦争は、勝利とは多分に表面上のことで、ポーツマス条約において日本はロシアから賠償金はまったくとれず、財政はたちまち困窮を極めており、国内各地で政府に対する不満が爆発して暴動が起きていました。


e0158128_19143806.jpg そんな情勢のなか、日本初のオリンピック選手の渡航費、滞在費は、すべて自腹ということになります。その費用を試算してみると、およそ1800円から2000円ほどかかるといいます。当時、教師の初任給が18円から20円ほどだったといいますから、ほぼ10年分の収入に相当する金額です。今の価値でいえば、4000万円近い金額でしょうか。子爵の家柄の三島弥彦はともかく、かつては地元の名家だったとはいえ、いまは熊本の田舎で農業を営む金栗家にとっては、容易に出せる額ではありません。金栗は、一時は参加を辞退しようかとも考えていたといいますが、そんな彼の背中を押したのが、兄の応援だったといいます。ドラマで描かれていたとおり、兄は、「たとえ田畑を売ってでも渡航費を捻出するから、思いっきり走ってこい」と、弟の四三を励ましたそうです。昔の長兄って、弟妹のためなら身を削ってでも尽力を惜しまない人が多かったと聞きます。現代の希薄な兄弟関係とはぜんぜん違いますね。兄は弟妹を慈しみ、弟妹は兄を敬う。いつからなくなったんでしょうね、そういう兄弟の絆


 また、これもドラマで描かれていたとおり、学友や後援会など多くの人々からの寄付金も集まり、その金額は1500円ほどに達したといいます。「国威発揚」がスローガンだったこの時代。当時の人々にとっては、金栗と三島の渡航は、兵隊さんを戦地に送り出す心境だったのかもしれません。


e0158128_16513466.jpg 明治45年(1912年)5月15日、東京高等師範学校講堂において、大日本体育協会主催の歓送会が開かれました。このとき、金栗、三島両選手に、日の丸の大国旗が送られました。この日の丸を掲げて、ふたりはストックホルムの入場式を行進することになります。そして、翌日の5月16日、彼らはストックホルムに向けて旅立ちました。当時、今の赤煉瓦の東京駅はまだ建設中で、出発は新橋駅から。新橋駅には、金栗の学友たち百数十名が集まったそうです。三島は紺の洋服にカンカン帽という出で立ちで到着。同行する大森兵蔵監督と、その夫人・安仁子も揃って、駅前は大いに賑わったといいます。ドラマでは汽車に乗り遅れていた嘉納治五郎団長でしたが、実際には、当初から一行とは遅れて6月6日に出発し、アメリカを視察したのちにストックホルムに入る予定でした。金栗、三島両選手を乗せた汽車が動き出すと、学生たちは、今話のサブタイトルになっている軍歌『敵は幾万』を歌って見送ったといいます。そして万歳三唱。このときの2人の心境は、このように語ったと伝えられます。


 「日本運動界の全責任を帯びて出場することであれば、自分等は斃れて後止むの大決心で臨み、決して国体を辱めざることを期す」(『大日本体育協会史』大日本体育協会編)


 ドラマでは、女性記者に無理やりそう語らされていましたが、まさに国威発揚の時代。日の丸を背負う重圧は、現代の比ではなかったでしょうね。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2019-02-25 00:20 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第7話「おかしな二人」 ~華麗なる一族・三島家~

 今話はオリンピック代表となった2人の話。オリンピックに行きたくてもお金の工面がつかない金栗四三と、お金はあってもオリンピック出場には難色を示す三島弥彦。2人の両極端な境遇の対比が面白かったですね。


e0158128_16513466.jpg金栗とともにオリンピック代表となった三島弥彦は、当時のスポーツ界のスーパースターでした。東京帝国大学の法科生で、当時の成人男性の平均身長が155cm前後だった時代に170cmを超える長身で、東京帝大に行く前の学習院の学生時代には、野球部エースにして主将ボート部でも活躍し、東京帝大入学後は柔道二段乗馬もたしなみ相撲も強く、スキー、スケートにも長けていたとか。まさにスポーツ万能を絵に描いたようなスーパーアスリート百獣の王、霊長類最強男子だったようです。


三島弥彦が生まれた三島家は元薩摩藩士で、父の三島通庸は、あの西郷隆盛大久保利通が結成した精忠組の一員でした。その後、西郷に見出され鳥羽・伏見の戦いなどで活躍し、維新後は大久保に取り立てられて明治政府に出仕し、複数の県令(いまで言う県知事)を経て警視総監を務め、子爵を授けられた家柄でした。その父は弥彦が2歳のときに亡くなりますが、弥彦の兄・三島彌太郎日銀総裁になり、父と同じく子爵を授けられます。彌太郎は徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルと言われていますね。彌太郎の最初の妻は大山巌の娘で、二人目の妻は四条隆謌侯爵の娘です。


 弥彦のもうひとりの兄・豊沢弥二の妻・のお姉さんの夏子の孫にあたるのが、作家で割腹自殺したあの三島由紀夫です。また、その夏子の養祖父にあたるのが、幕末の徳川幕府大目付だった永井尚志。永井は幕臣として榎本武揚土方歳三とともに五稜郭の戦いで最後まで薩長軍に抗った人ですね。あの坂本龍馬暗殺される前日に永井と会っており、龍馬暗殺の黒幕説のひとりでもあります。


 また、弥彦の姉・峰子は、大久保利通の次男・牧野伸顕に嫁いでおり、その娘婿が昭和の名総理・吉田茂。その孫が、元総理で現財務大臣の麻生太郎氏です。また、その麻生太郎氏の妹が、皇室の寛仁親王妃信子さま。先ごろ亡くなられたヒゲ殿下こと三笠宮殿下お妃さまです。さらに、弥彦の妻となる文子の祖父は、幕末の名君・佐賀藩主の鍋島閑叟です。こうして見ても、弥彦の生まれた三島家というのは、まさに華麗なる一族だったんですね。


 そんな名家に生まれた貴公子の弥彦は、オリンピック出場要請を受けた当初、「たかが駆けっくらをやりに外国くんだりまで出かけるのは、東京帝大の学生にとってどれほどの価値があるのでしょうか?」と、東京帝大総長に相談したといいます。その帝大総長の励ましに後押しされ、卒業試験延期をも決して、オリンピック出場の意を固めたそうです。こうして、日本初のオリンピック選手2人が出揃いました。いよいよ日本のオリンピック史の幕開けです。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2019-02-18 01:32 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第5話「雨ニモマケズ」 ~国内予選競技会~

e0158128_19143177.jpg 明治42年(1909年)にアジア人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員 となった嘉納治五郎は、明治44年(1911年)に自らが会長を務める大日本体育協会を立ち上げ、翌年に行われる予定の第5回ストックホルムオリンピックに日本人選手を初参加させるために動き始めます。協会の主要メンバーは、東京帝国大学(現・東京大学)や早稲田大学、慶応大学、明治大学、そして自身が校長を務める東京高等師範学校(現在の筑波大学)など、大学関係者で占められていました。この当時、スポーツなどに親しんでいた日本人は、高学歴の高校生や大学生くらいのもので、当然、参加選手の選考も学生が中心となります。協会はオリンピック参加競技を陸上競技一本に絞り、明治44年(1911年)11月18日、羽田競技場において国内予選競技会を開催しました。


 競技種目は、100m、200m、400m、800m、1500m、5000m、10000m、そしてマラソンがありました。あと、走り高跳び走り幅跳びなどもあったようです。ほぼ、現在の陸上競技の種目と同じですね。最終的にストックホルム五輪には短距離走とマラソンだけ参加することになりますが、はじめからそう決めていたわけではなかったようですね。


 e0158128_19143806.jpg当時、東京高等師範学校2年生だった金栗四三は、マラソンに挑戦しました。出場選手は全部で12名。その全員が、10里(約40km)を走るのははじめてのことでした。当時のマラソンはまだ距離が定まっておらず、だいたい40km前後というアバウトなものだったそうです。現在の42.195kmに定められるのは、大正13年(1924年)の第8回パリオリンピック以降のことです。いずれにせよ、当時の日本に40kmを超える距離を走った経験のある選手など一人もおらず、未知の領域でした。出場選手全員が初心者で、しかもわずか12人の中からオリンピック代表が選ばれたんですね。


 ドラマで描かれていたとおり、競技はのなか行われました。マラソンのコースは、羽田競技場から東海道を通り、東神奈川で折り返して競技場まで帰ってくるというもの。当時の道はまだほとんどが舗装されておらず、ぬかるみでは足を取られて滑りまくります。加えてドラマで描かれていたように、履物は足袋わらじ。そんな悪条件が重なり棄権者も出るなか、金栗は競技場近くでトップに立ち、あとは独走状態で優勝します。記録は2時間32分45秒。なんと、当時の世界記録を27分も上回る驚異的なタイムを打ち出します。これには関係者が挙って狂喜したようで、「金栗選手、世界記録を破る」と書かれた号外を出した新聞もあったそうです。


 ただ、冷静になって考えてみると、このタイムはどう見ても眉唾ものですよね。いくら40km前後というアバウトな距離だったとはいえ、27分というと、当時のスピードでも8kmぐらいは走れます。それほどの誤差は許容範囲ではなかったでしょう。しかも、2位、3位の選手のタイムも世界記録を上回っていました。雨で足元のぬかるむなか、足袋やわらじを履いて、しかも金栗は途中で足袋が擦り切れて半分以上を裸足で走っています。その条件下で世界記録を27分も更新するなど、普通に考えてもあり得ないですよね。そんな疑問は当時もあったようで、「距離の計算が間違っていたのではないか?」といった疑いも浮上していたようです。これについて、当時、嘉納治五郎がこう語っています。


 「里程の測定は、当然測定機をもって実地に測定するのが本当であるけれども、それにしてはあまりに金と日時がかかるので、京浜電気会社の中沢工学士に相談して、参謀本部の2万分の1の地図においてコンパスをもって精密に測量した。わたしもまず実際に25マイルあるものと信ずるほかない。ところで、かくのごとく3人までもが世界記録を破った理由は不明だが、日本人は戦争などでは驚くべき忍耐力を発揮するのは隠れもない事実で、それゆえに今日の成績はそれに類するものと見ればよかろう。」


 やっぱ、あやしいですね。おそらく、30kmぐらいしかなかったんじゃないでしょうか? それでも、この悪条件からすれば、遅くはありません。


e0158128_16513466.jpg 金栗とともに注目されたのは、短距離走でほぼ一人勝ちした三島弥彦でした。彼はもともと出場する予定ではなく、審判委員として来場していたのですが、元来スポーツ好きだったことからじっとしていられなくなり、飛び入り参加したところ、100m、400m、800mで優勝。200mが2位という華々しい結果でした。その記録は以下のとおり。


100m走 12秒0

400m走 59秒6

800m走 2分19秒2


当日は雨で足元が悪かったため普段より悪い記録だったといいますが、現代でいえば、中学生の陸上部レベルです。これなら頷けますね。トラックの計測は正確だったようです。


 かくして、日本初のオリンピック選手候補が決定しましたが、ことはそうスンナリとは運ばなかったようですね。続きは次週にて。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2019-02-04 16:54 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)