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西郷どん 第38話「傷だらけの維新」その2 ~東京遷都~

 昨日の続きです。本稿では、ドラマで描かれなかった京都での動きについてです。

江戸無血開城から上野戦争、北越戦争、会津戦争と東日本で軍事が繰り広げられていた同じ頃、京都に残っていた大久保利通新政府の基礎づくりに精力を注いでいました。そのひとつが、「遷都」でした。


e0158128_17375658.jpg 慶応4年1月19日(1868年2月12日)、大久保は総裁の有栖川熾仁親王と議定の三条実美に対して、天皇が大坂へ行幸して、そのまま滞在すべきであるという内容の建白書を提出します。そのなかで大久保は、遷都を機に、政治の一新を実現すべきだと強調していましたが、もうひとつの狙いは、数百年の古いしきたり慣例に凝り固まっている朝廷を改革することで、また、そのような朝廷から若き天皇を引き離し、ヨーロッパの皇帝のような、新しい天皇像を育てることを考えていました。その具体策としては、天皇が表の御座所に親臨して、万機を親裁すること、ただし、表には女官の出入りを厳禁とすること、毎日、総裁以下政府首脳にお目見えすること、侍読を置き、内外の形勢について勉強すること、馬術の訓練をすること等々。当時の天皇は女官に囲まれて後宮で1日のほとんどを過ごす生活で、大久保はそういった旧体制から天皇を遮断し、天皇の日常そのものを改革して、新国家建設のシンボルとなるような天皇親政の体制を築き上げようとしていました。これが、大久保の遷都案の骨子だったわけです。


 しかし、この時点では遷都に否定的な意見が多く、この建白書は1月23日の太政官会議否決されます。千年の都を移すわけですから、そう簡単には事は運びません。


 3月14日、天皇は五箇条の御誓文を誓い、諸臣は誓約に署名してこれに答えました。これは、新政府の成立宣言であり、その儀式でした。そして、このあと、大久保の希望であった天皇の大坂行幸が3月21日から閏4月8日までの間で実現します。


 4月9日、本願寺別院の行在所で、大久保ははじめて天皇に拝謁します。無位無官の者が公的な場で天皇に面会したのは、近世以降の歴史ではこれが最初のことだったでしょう。大久保はこの日の日記に、「身に余る仕合わせ」と記しています。


 4月11日に江戸城開城され、5月15日の上野戦争で江戸の街が新政府軍によって制圧されると、大久保、三条、木戸孝允、大村益次郎らの間で、天皇の関東行幸が計画されます。江戸の街を手に入れたとはいえ、まだまだ旧幕府の色が残る関東を、天皇の威光によって掌握しようという狙いでした。そして7月17日、「自今、江戸を称して東京とせん」という詔書が発令されます。すなわち、江戸を東の京=東京として、西京=京都と同等扱いにするという声明でした。


e0158128_17024408.jpg 8月4日、西の都の京都から東の都の東京へ天皇が行幸することが発表され、元号が「明治」改元された9月20日に京都を発ちます。3000人余り供奉を従えて東海道を進む天皇の行列は、新政府誕生のデモンストレーションとしては十分過ぎるほどの効果があったでしょう。沿道の民衆たちは、はじめて見る天皇という存在に、新しい時代の到来を感じたに違いありません。そして10月13日に天皇の行列は東京に着き、半年前まで徳川家の居城だった江戸城に入り、これを「東京城」と改めました。そして同じ日、新政府軍が東北から凱旋してきました。巧みな演出といえます。


 大久保たちの狙いは東京に政府を移すことにありましたが、この時点ではまだ遷都とはいわず、あくまで行幸でした。朝廷内には遷都反対派が多数おり、それらの目を配慮してのことでした。そして、これがあくまで行幸であることを示すかのように、天皇はこの年の暮れに一旦京都に還幸します。この還幸は、遷都反対派を安心させるための大久保の政治だったのでしょうね。そして年が明けた明治2年3月28日(1869年5月9日)、天皇は再び東京に行幸し、この日、政府は東京城を「皇城」とすると布告し、その後、天皇が京都に還幸することはありませんでした。以後、東京が日本の首都となり、現在に至ります。ただ、結局、新政府は一度も遷都を宣言することなく政府機能を東京に移しており、そのことから、現在でも、天皇は東京に行幸しているだけで、日本の都は京都だと主張する京都人の方がときどきおられますね。まあ、屁理屈といえばそうですが、間違っていないといえばそうともいえます。いつか突然、還幸されるかもしれませんよ。ただ、京都御所は観光地になっちゃってますが。



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by sakanoueno-kumo | 2018-10-16 23:53 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その132 「小倉山二尊院(三条家・鷹司家等墓所)」

嵯峨野の小倉山山麓にある二尊院を訪れました。

二尊院は御所と繫がりが深く、二条家、三条家、四条家、鷹司家など公家の墓所があります。


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二尊院は紅葉の名所としても有名です。

わたしがここを訪れたのは10月上旬。

紅葉にはちょっと早かったですね。


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境内をアーケードのように覆っているのは、すべて楓の木です。

紅葉シーズンは綺麗でしょうね。


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境内の案内図です。

墓地はいちばん奥の高い場所にあります。


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まず紹介するのは、三条家の墓。


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こちらは、明治の元勲となった三条実美の墓です。

実美の墓は東京護国寺にあるので、正確には、こちらは遺髪塚です。

墓碑には、「内大臣正一位大勲位三條公瘞髪塔」と刻まれています。


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その隣には、「贈右大臣従一位藤原忠成公墓」と刻まれた墓碑があります。

忠成公とは、三条実万の諡号です。

三条実万は実美のお父さんですね。


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こちらは三条公美の瘞髪塔。

実美の息子です。


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次に、鷹司家の墓所です。


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こちらは、鷹司政通の墓です。

黒船来航から日米和親条約の時代の関白です。

安政の大獄に連座して落飾し、出家しました。


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こちらは、鷹司政通の孫・鷹司輔政の墓です。

19歳で早逝しました。


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こちらは、壬生基修の墓。

いわゆる「七卿」のひとりです。

維新後は越後府知事、東京府知事、山形県権令などを歴任します。

墓碑には、「従一位勲一等伯爵壬生基修之墓」と刻まれています。


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他にも幕末のお公家さんの墓が何基かあったはずなんですが、探しきれず、ここを訪れたのがすでに夕方日暮れ近い時間で、山門が閉まってしまうため、やむなく後にしました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-15 01:10 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その122 「忠成公(三条実万)隠棲地碑(薬師堂)」

前稿で紹介した葉山観音から西へ300mほど歩いたところある薬師堂に、「忠成公隠棲地」と刻まれた大きな石碑があります。

忠成公とは、幕末の公卿・三条実万の諡号。

あの明治の元勲・三条実美のお父さんです。


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清華家の三条家に生まれた実万は、光格天皇(第119代天皇)・仁孝天皇(第120代天皇)・孝明天皇(第121代天皇)に仕え、議奏、武家伝奏、内大臣などを歴任しますが、久邇宮朝彦親王(青蓮院宮・中川宮)近衛忠凞と親しく、安政5年(1858年)の日米修好通商条約調印には強く反対の立場をとります。


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また、将軍継嗣問題では一橋派に与して関白・九条尚忠と対立し、さらに、いわゆる戊午の密勅の降下にも参画したとして、幕府大老・井伊直弼による安政の大獄で失脚。

落飾、謹慎を命じられ、洛南上津屋村に隠棲したのち、安政6年3月27日(1859年4月29日)、一乗村のこの地に移ってきました。

しかし、ほどなく病に倒れ、約半年後の安政6年10月6日(1859年10月31日)に薨去します。

毒殺説なんかもあったりしますが、享年58ですから、当時の寿命を考えると、普通に病没だったんじゃないでしょうか。


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志半ばでこの世を去った実万でしたが、その遺志は息子の実美に受け継がれ、明治の元勲となります。

息子の栄達は、父の無念があったからこそだったでしょう。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)3月31日、桜が綺麗でした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-30 23:45 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その117 「妙法院(七卿西竄紀念碑)」

前稿で紹介した智積院のすぐ北隣にある妙法院に、七卿西竄紀念碑があります。

「七卿」とは、八月十八日の政変で京を追われた追われた尊王攘夷派の公卿7人のことです。

世にいう「七卿落ち」ですね。


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写真は山門です。


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上の写真は国宝に指定されている庫裏です。

桃山時代に作られた国内最大級の建物だそうで、豊臣秀吉方広寺大仏殿「千僧供養」を行った際に、台所として使用されたと伝えられています。


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こちらは唐門です。


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そして大玄関


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庭園内にある七卿西竄紀念碑です。


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文久3年8月18日(1863年9月30日)に公武合体派が起こしたクーデター、世にいう「八月十八日の政変」で、長州藩士と尊王攘夷派の公卿が京から追放されますが、その際、一旦ここ妙法院に入り、今後どうすべきかを話し合ったといいます。


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七卿のメンバーは、三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、澤宣嘉の7人で、いずれも尊王攘夷派の公家でしたが、このうち公卿の列にあるのは三条実美と三条西季知の2人だけで、二卿五朝臣といった言い方をされる場合もあります。


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この石碑は、有栖川宮威仁親王篆額を得て大正元年(1929年)9月に建立されたものだそうです。


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石碑の斜め向かいにある宸殿です。

妙法院に入った七卿は、この宸殿で密議を行ったと伝わります。

話し合いの結果、いったん長州藩に落ち延びることに決定し、19日早朝、久坂玄瑞に率いられて出発しました。

雨が降っていたといいます。


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その後、七卿のなかの錦小路頼徳は元治元年(1864年)に病没し、澤宣嘉は生野の変で挙兵したのちに脱出して四国伊予小松藩周辺に匿われ、その後、長州に脱出、あとの五卿は第一次長州征伐の後に筑前国太宰府に移されます。

やがて王政復古の大号令によって赦免されると、三条実美は太政大臣内大臣、澤宣嘉は外務卿、三条西季知は参与神宮祭主、東久世道禧は枢密院副議長貴族院副議長となるなど、それぞれ明治政府の要職に就きました。

そんな七卿の原点が、ここ妙法院だったわけです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-22 23:19 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その66 「梨木神社」

京都御苑東の清和院門を出てすぐの場所にある梨木神社を訪れました。

ここは、幕末維新に活躍した公家・三条実万、三条実美を祭神として明治18年(1885年)に創建された神社で、入口の鳥居の横には、「別格官幣社」と刻まれた石碑があります。


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「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。

つまり、政治的な背景を持つ神社ということです。


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大鳥居の向こうには、どう見ても近代的なマンションのような建物が見えます。

これが社殿????・・・のはずはなく、よく見ると、参道の石畳が左に直角に折れています。

どうやら、参道にマンションが建っちゃって、迂回参道になっちゃったようですね。


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マンションの外周を辿って参道を進みます。


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また鳥居がありました。

こちらの扁額は新しそうです。

ここからは、まっすぐ社殿まで参道が伸びています。


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梨木神社が建つこの場所は、かつて三条家の屋敷があった場所だそうで、ここの地名が「梨木町」だったことから、梨木神社と名付けられたそうです。

創建当初は、久邇宮朝彦親王の令旨によって父の実万だけが祀られていたそうですが、その後、大正4年(1915年)、大正天皇(第123代天皇)即位を記念して、息子の実美を合祀したそうです。

まあ、創建された明治18年(1885年)は、実美はまだ生きていましたからね。


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正門です。


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拝殿です。


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本殿です。


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境内の井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、京都三名水のひとつとされています。

京都三名水(醒ヶ井・県井・染井)のうち、現存するのはここだけだそうです。

この日も、多くの人がペットボトルに水を入れて持ち帰っていました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-01 23:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第23話「夫の告白」 ~八月十八日の政変~

 攘夷決行報復戦でコテンパンにやっつけられた長州藩は、その名誉挽回とばかりに、朝廷内の攘夷派公家たちと手を組んで、あからさまな工作を行います。その中心となって京で動いていたのが、久坂玄瑞でした。玄瑞らは孝明天皇(第121代天皇)を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。しかし、これに震え上がったのは当の孝明天皇。自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない。討幕の先頭に立つなど滅相もない、と。

 一方、京の政局では、水面下で薩摩藩会津藩の提携が画策されていました。京都守護職として御所を警護する会津藩士が約1000人。ここに、近々交代制の藩士が会津から1000人くる予定で、そこに薩摩藩の兵約800人を加えれば、ざっと3000人近くになる。この機会に会津と薩摩が同盟して、いい気になっている長州藩を朝廷から追いだそう、というクーデター計画があがっていました。そんななか、大和行幸計画に怯えた孝明天皇からSOSが会津藩主・松平容保の元に届きます。会津、薩摩にすればチャンス到来「いつやるの?今でしょ!」と言わんばかりにクーデターに踏み切ります。

 文久3年(1863年)8月18日早朝、会津兵と薩摩兵は御所の門という門をすべて固め、登城してきた三条実美を始めとする攘夷派の公卿7人の入門を遮りました。また、長州藩の持ち場である堺町御門も、薩会の兵によって封鎖され、追い払われてしまいます。怒った長州藩士たちは、兵を率いて堺町御門に押しかけますが、あまりにも兵の数が違いすぎることを悟り、ここは残念ながらひとまず退却し、再起を期して落ち延びるしかない、という結論に至ります。まさに、おごる平家は久しからず。昨日までの栄華から一気に奈落の底に突き落とされた長州藩士と7人の公卿たちは、翌日、降りしきる雨のなか、長州に向かって京を離れます。いわゆる「七卿落ち」ですね。薩会のクーデターは成功しました。

 クーデター成功の原因のもっとも大きなポイントは、薩会および公武合体派の公家たちが天皇を手中に収めたことでしょう。のちに天皇は討幕派から「玉(ぎょく)」と呼ばれましたが、この「玉」を手にすれば天皇の名で命令を出すことができ、これに反抗することは、とくに「尊王」攘夷派であるかぎり不可能でした。天皇を尊び、天皇のために命をも賭けた尊攘派たちは、天皇の意志によって「朝敵」にされたという、なんとも皮肉な話といえます。孝明天皇にしてみれば、過激なラブコールを贈る尊攘派、ことに長州藩士たちは、ある種、ストーカーのような怖さがあったのかもしれません。

 ドラマでは、七卿落ちに随行して長州に戻ってきていた久坂玄瑞でしたが、実際には、玄瑞は政変後も京に残り、政務座役としてしばらく京で活動します。玄瑞がに宛てた手紙は数多く残っていますが、ちょうどこの時期に書いた手紙に、義兄である小田村伊之助の次男・久米次郎養子に迎えたいと書いています。つまり、この時期、玄瑞は死を覚悟したということですね。自分が死んでも久坂家が絶えないよう取り計らったわけですが、しかし、玄瑞の死後、久米次郎が久坂家を継ぐことはありませんでした。というのは・・・と、このあとはドラマの今後に譲ることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-08 20:07 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(0)  

八重の桜 第9話「八月の動乱」 〜八月十八日の政変〜

 文久3年(1863年)8月18日、朝廷内にクーデターが起きました。世に言う「八月十八日の政変」です。長い日本史のなかには、古くは「大化の改新」から近代では不成功に終わった「二・二六事件」まで数多くクーデターが起きましたが、幕末にも2回のクーデターが行われ、いずれも成功しています。そのひとつは、これより4年後となる慶応3年(1867年)12月の尊王討幕派による「王政復古」のクーデターで、もうひとつが、今話の「八月十八日の政変」です。

 この8・18クーデターとはどのようなものだったのかというと、一口にいえば、京都を制圧しているかのように見えた尊皇攘夷派勢力に対し、公武合体派が巻き返しを行い、尊攘派を京都から一掃し、政局の主導権を奪取したというものです。同年5月10日の攘夷決行(下関戦争)によって朝廷から褒勅の沙汰を享けた長州藩でしたが、以後、朝廷の政に何かにつけ口を出すようになり、暴徒の激しさも増していきます。しかし、あまりにも過激な長州藩の行動を持て余した公武合体派の中川宮朝彦親王近衛忠熙近衛忠房らが、この当時御所の警備を任されていた薩摩藩・会津藩と手を結び、攘夷派の三条実美をはじめとする7人の公卿を朝廷から一掃(七卿落ち)、長州藩の軍勢たちも公卿を守って京から落ちていったというものです。

 孝明天皇(第121代天皇)は強烈な攘夷論者でしたが、政治体制の変革などは望んではいませんでした。天皇の考えは、あくまで幕府を中心に公武合体で行う攘夷だったわけです。一方の尊攘派は、天皇の意志が攘夷にあるからと、その「攘夷」をたてにとって行動してきました。攘夷さえ行えば天皇の意志を尊重することになると考え、天誅で猛威をふるい、やがてはそれが討幕論にまで及びはじめます。しかし、当の孝明天皇はそんな尊攘派に恐怖すら感じていたようで、次第に彼らを疎んじるようになっていくんですね。孝明天皇にしてみれば、過激なラブコールを贈る尊攘派は、ある種、ストーカーのような怖さがあったのかもしれません。

 クーデターは成功に終わり、公武合体派は朝廷での主導権を完全に掌握しました。クーデター成功の原因のもっとも大きなポイントは、公武合体派が天皇を手中に収めたことでしょう。のちに天皇は尊攘派などから「玉(ぎょく)」と呼ばれましたが、この「玉」を手にすれば天皇の名で命令を出すことができ、これに反抗することは、とくに「尊王」攘夷派であるかぎり不可能でした。天皇を尊び、天皇のために命をも賭けた尊攘派たちは、天皇の意志によって「朝敵」にされるという、なんとも皮肉な話といえます。

 この政変をいたく満足した孝明天皇は、8月28日に京都守護職・松平容保や京都所司代・稲葉正邦ら在京の諸藩主らが参内した際、次のような宸翰(しんかん)を発布しました。

 「是迄、彼是、真偽不分明之義有之候へ共、去る十八日以後申出候義は、朕が真実の存意に候。此辺、諸藩一同心得違無之様之事」
 (意訳:これまでは、かれこれ真偽不明分の儀があったけれども、去る18日以後に申し出ることが、朕の真実の存意であるから、このあたり諸藩一同、心得違いのないように)


 つまり、これまで言ってきたことは全部インチキで、18日の政変以降にいったことが本心だよ・・・と。政変で失脚した尊攘派にしてみれば、ふんだり蹴ったりのお言葉ですね。とくに、松平容保に対する孝明天皇の信頼は厚く、ドラマにもあったように、ご宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と御製(ぎょせい:天皇の和歌)を下賜されます。

 「堂上以下、疎暴の論、不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也  文久三年十月九日」 
 (意訳:堂上以下が、乱暴な意見を連ねて、不正の行いも増え、心の痛みに耐えがたい。内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い私の思っていることを貫いてくれた。全くその方の忠誠に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり)


 文中にある「一箱」とは御製の入ったもので、次の2種の和歌が記されていました。

 たやすからざる世に 武士(もののふ)の忠誠の心をよろこびてよめる
 「和らくも たけき心も相生の まつの落葉の あらす栄へむ」
 「武士(もののふ)と こころあはして いはほをも 貫きてまし 世々の思ひて」

 (意訳:難しき世に武士(容保のこと)の忠誠の心を喜びて詠む
 「世にやすらぎを求める心も、敵に立ち向かう猛々しい心も相生の松のように根は一つ。松の葉が落葉しないように共に栄えようではないか。」
 「もののふと心を合わせて岩(困難)をも貫き通すことを私(朝廷)は末永く願う。」


 しかしその容保も、5年後の戊辰戦争では逆に朝敵第一とされたのも、歴史の皮肉といえるでしょうか。容保は終生、このご宸翰と御製を肌身離さなかったといいます。


 「八月十八日の政変」については以前の稿でも書いていますので、よければ一読ください。
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 「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。
 

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by sakanoueno-kumo | 2013-03-08 23:08 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。

 文久3年(1863年)8月18日、朝廷内にクーデターが起きた。同年5月10日の攘夷決行(下関戦争)によって朝廷から褒勅の沙汰を享けた長州藩は、以後、朝廷の政に何かにつけ口を出すようになり、暴徒の激しさも増していった。しかし、あまりにも過激な長州藩の行動を持て余した「公武合体派」中川宮朝彦親王(平井収二郎が取り入った人物)や近衛忠熙近衛忠房らが、この当時御所の警備を任されていた薩摩藩・会津藩と手を結び、「攘夷派」三条実美をはじめとする7人の公卿を朝廷から一掃(七卿落ち)、長州藩の軍勢たちも公卿を守って京から落ちていった。いわゆる「八月十八日の政変」である。

 皮肉にも、この政変を最も望んでいたのは、先の攘夷決行の勅許を出した孝明天皇だった。孝明天皇が望んだのはあくまで幕府による攘夷で、過激な長州藩の行動には恐怖すら感じていた。帝を尊び、帝の為に命をも惜しまなかった長州志士たちは、帝の意向によって朝敵にされた。京から長州藩が一掃されると、孝明天皇は本心を明らかにする宸翰(しんかん)を発布する。
 「是迄、彼是、真偽不分明之義有之候へ共、去る十八日以後申出候義は、朕が真実の存意に候。此辺、諸藩一同心得違無之様之事。」
 今までの「勅」は全部インチキだというのだ。長州藩にとっては全く寝耳に水であっただろう。そもそも彼らが藩をあげて戦ったのは、天皇の「勅」を奉じて幕府が5月10日を攘夷決行の日と諸藩に通達した結果ではなかったか。諸藩の中で最も純粋に天皇の「勅」を重んじた長州藩が、実は天皇から最も疎んじられる結果となった。孝明天皇にとって過激なラブコールを贈る長州藩はストーカーのような怖さがあったのかもしれない。これ以後、長州藩は幕末の最終局面で坂本龍馬の力を得るまで、辛苦の時代を過ごすこととなる。

 「攘夷は倒幕のための手段」というすり替え論は、この長州藩に限っては当てはまらなかっただろう。彼らは本気で攘夷が可能だと信じていた。作家・司馬遼太郎氏は、その著書「竜馬がゆく」の中でこう述べている。
 「幕末における長州藩の暴走というのは、一藩発狂したかとおもわれるほどのもので、よくいえば壮烈、わるくいえば無謀というほかない。国内的な、または国際的な諸条件が万位一つの僥倖をもたらし、いうなればこの長州藩の暴走がいわばダイナマイトになって徳川体制の厚い壁を破る結果になり、明治維新に行きついた。・・・(中略)・・・当時の長州藩は、正気で文明世界と決戦しうると考えていた。攘夷戦争という気分はもうこの藩にあっては宗教戦争といっていいようなもので、勝敗、利害の判断をこえていた。長州藩過激分子の状態は、フライパンにのせられた生きたアヒルに似ている。いたずらに狂躁している。この狂躁は、当然、列強の日本侵略の口実になりうるもので、かれらはやろうと思えばやれたであろう。が、列強間での相互牽制と列強それぞれが日本と戦争できない国内事情にあったことが、さいわいした。さらにいえば、当時のアジア諸国とはちがった、この長州藩の攘夷活動のすさまじさが欧米人をして、日本との戦争の前途に荷厄介さを感じさせた、ということはいえる。・・・(中略)・・・いずれにせよ、長州藩は幕末における現状打破のダイナマイトであった。この暴走は偶然右の理由で拾いものの成功をしたが、・・・これでいける。という無知な自信をその後の日本人の子孫にあたえた。とくに長州藩がその基礎をつくった陸軍軍閥にその考え方が、濃厚に遺伝した。昭和初期の陸軍軍人は、この暴走型の幕末志士を気取り、テロをおこし、内政、外交を壟断し、ついには大東亜戦争をひきおこした。かれらは長州藩の暴走による成功が、万に一つの僥倖であったことを見抜くほどの智恵をもたなかった。」
 後半の大東亜戦争云々はここではおいておくとして、幕末の長州藩の姿がとてもよくわかる見解だ。他にも司馬氏は同作品の中でこんな表現をしている。
 「長州藩は火薬庫のようなものだ。過激藩士が、火薬庫の中で、松明をふりまわして乱舞している。あぶない、どころではない。」
 ダイナマイトや火薬庫に比喩されるほど過激なこの長州藩の存在がなければ、後の明治維新はまた違ったものになっていたかもしれない。が、この時期の長州藩はまだ無意味に暴発する危なっかしさだけであった。ダイナマイトも使い方次第である。後に歴史はその使い手に坂本龍馬を選ぶ。龍馬はその導火線に火をつけることなくその威力を発揮させ、やがて幕府を倒すに至るのである。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-26 00:14 | 歴史考察 | Trackback(2) | Comments(2)