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天誅組の足跡を訪ねて。 その20 「鷲家口古戦場~天保高殿・西田仁兵衛戦死の地」

「その19」で紹介した那須信吾戦死の地のすぐ近くの高見川沿いに、「天保高殿先生戦死之地・西田仁兵衛先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。

天保高殿は水戸藩脱藩浪士、西田仁兵衛は武蔵国出身の人物だったようですが、それ以上のことはよくわかりません。


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石碑は高見川沿いの堤防の上にあります。


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その横に建てられた説明板は、「その18」で紹介した出合橋跡を説明したもので、二人とは関係ありません。


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両士に関しての説明板は、道路を挟んで向かい側に設置されていました。


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説明板によると、これも「その18」で紹介した福屋彦根陣所を一蹴した天誅組の本隊は、直ちに出合橋を渡って鷲家口集落に突入するも、そのとき、主将の中山忠光の側近にいた天保と西田の2名が、この付近で敵弾に散ったと記されています。

中山忠光の側近にいた二人ですから、決して軽い身分の人物ではなかったのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-30 23:04 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その18 「鷲家口古戦場~出合橋」

高取城攻めで大敗を喫し、天ノ辻本陣まで退却した天誅組でしたが、そこで、中山忠光吉村寅太郎らの意見が別れはじめます。

そこへ、幕府の命を受けた紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などによる総勢1万4000の討伐軍が進軍を開始し、さらに文久3年9月1日(1863年10月13日)には、追い打ちをかけるように朝廷からも天誅組追討の勅令が下されました。

つまり、天誅組は幕府、朝廷の両方から暴徒とみなされたわけです。


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もはや孤立無援となった天誅組は、それでも必死の抵抗を見せますが、多勢に無勢はいかんともしがたく、また、もともと戦意の乏しかった十津川郷士たちが離反し、14日には吉村らが守っていた天ノ辻本陣が奪われ、19日、ついに進退窮まった中山は、天誅組の解散を命じました。

天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出を試みますが、やがて重傷を負っていた吉村が一行から脱落し、24日、鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇し、激しい戦いとなります。

鷲家口の激戦地となった奈良県東吉野村には、その場所を示す石碑看板が数多く建てられています。


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村を流れる高見川に架かる出合橋です。

もちろん、当時は木の橋でしたが、ここを中山忠光率いる天誅組本体が進軍したと伝えられます。


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橋の欄干には天誅組のイメージ画を刻んだ鋳物が埋め込まれています。


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「維新のさきがけ天誅組」と書かれたも。


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橋から高見川を見下ろすと、川遊びをする家族連れが楽しそうにはしゃいでいます。

かつての激戦地も、いまは長閑な山里です。


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橋の少し北側には、「出合橋跡」と書かれた看板があります。

どうやら、当時の出合橋は今より少し北側にあったようです。


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出合橋を渡って西側にある東吉野村役場の一角には、「天誅組史跡(福屋)彦根藩 舟橋七郎右衛門陣所跡」と記された銘板があります。

ここに、中山忠光らが攻め込んだと伝えられます。


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鷲家口には他にもたくさんの激戦の跡が残されています。

次稿もその足跡を追います。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-23 21:02 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その7 「岡八幡宮」

文久3年8月17日(1863年9月29日)、国境の千早峠を越えて大和国に入った天誅組一行は、昼過ぎ、五條北方にある岡八幡宮で休息しました。


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このとき天誅組は100人以上に膨れ上がっていたといいます。


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鳥居の横には、天誅組を紹介する看板が設置されていました。

馬上は主将の中山忠光

このとき若干19歳です。

この人の姉が明治天皇の生母なので、明治天皇の叔父にあたります。

薄化粧を施し、緋絨の鎧に鍬形を打った兜をつけ、馬に乗った忠光の姿を見た何も知らない地元民たちは、役者の顔見世かと思ったという伝承が残っているそうです。


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鳥居の奥には割拝殿があります。


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割拝殿の奥にも鳥居があり、その向こうに本殿があります。


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中央に祀られているのが品陀和気命、右が天照大神、左が春日大神です。

かなり傷んでいます。


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境内には、かつてあった御神木の切り株が屋根に守られて鎮座しています。


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説明板によると、御神木は本能寺の変があった天正10年(1582年)に植えられものと想定されていたそうですが、枯れてきたために昭和49年(1974年)に伐採したそうです。

かつては幹の直径が約2m、高さは30mに及ぶ巨木で、4m上で二又に別れ、地元では夫婦杉と称されてその威容を誇っていたそうです。

天誅組一行も、この巨木を見上げて勝利を誓ったかもしれません。


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切り株の根本に建てられた駒札にも、天誅組の説明が。


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こちらにも説明板があります。


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境内東側の広場です。

ここに一行が集結したのでしょうか?

天誅組の面々はここで隣の窪田家から湯茶の接待を受けたといわれています。


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北を見れば、金剛山が聳えます。

一行はあの千早峠を超えてやってきました。


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南には、五條の街が見下ろせます。

ひとときの休息を終えた天誅組一行は、陣形を整え、午後3時頃に代官所をめざして丘を駆け下って行きました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-02 00:13 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(2)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その6 「千早峠」

文久3年8月17日(1863年9月29日)午前に観心寺に集まった天誅組一行は、大和国五條に向かうべく千早峠を東に進みました。

峠越えは急峻なため、千早村で三日市からの駕籠人足を返し、新たに千早村に100人の人足と駕籠10挺を徴発しようとしたそうですが、しかし、村では要求された駕籠と人数が整わず、三日市の人足18人を雇い、駕籠6挺を借りて、ようやく人足97人と駕籠を揃えて一行に差し出したといいます。

また、新たに木綿三反を購入し、菊の紋の旗を掲げました。


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当時の千早峠超えのコースとは少し違うようですが、現在、千早峠越えの街道は国道310号線となっています。

その頂上付近のトンネルの中が大阪府と奈良県の県境になっていて、そのトンネルを抜けると、奈良県五條市が一望できます。


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幕末の頃の五條は幕府の直轄地でした。

当時は「天領」と呼ばれていたはずです。

天領には殿様はおらず、幕府から代わる代わる代官が派遣されます。

代官は代官所にて政務を行いますが、幕藩体制が確立していた江戸時代においては、代官所の規模は諸藩と比べて規模が小さく警備も手薄でした。

幕末の五条代官所では、南大和7万石に対して代官1人、幕臣の手付3人、お抱えの手代10人(士分)しかいなかったといいます(他に下働きの足軽、中間はいました)。

7万石をわずか十数人の役人で統治していたわけですから、襲うのも容易なことだったでしょう。

そこに天誅組が目をつけたんですね。

そのあたりの内部事情は、五条出身の天誅組隊士だった乾十郎から、中山忠光吉村寅太郎ら幹部に筒抜けだったようです。


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標高700mを超える千早峠の頂上から見る五條の景色は、吸い込まれそうで少し足が竦みました。

中山、吉村ら天誅組の面々は、きっとこの景色を眺めて武者震いをしていたんじゃないでしょうか?

まだこのときは、孝明天皇大和行幸は行われると信じていたでしょうから。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-28 01:46 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その4 「油屋本陣蹟」

文久3年8月16日(1863年9月28日)の夜に狭山を出発した天誅組一行は、翌17日未明、高野街道の三日市宿で休息を取ります。

このとき主将の中山忠光が泊まったと伝わる旅籠・油屋の跡地には、現在、「油屋本陣天誅組史跡」と刻まれた石碑と、門構えを演出したモニュメントが設置されています。


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三日市町は大阪高野山のちょうど中間地点に位置します。

昔の旅人は1日に8里(約32km)ほど歩いたといいますが、大阪から高野山の間がおよそ16里で、その中間地点の三日市が、朝、大阪を出発して夕方頃に着く場所だったため、古くから宿場町として栄えました。


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なかでも「油屋」は、江戸時代、本業は菜種油の製造・販売を営みながら、高野詣の本陣格の旅籠として有名だったそうです。


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ここが天誅組の宿場となったのは、天誅組河内勢のリーダーで天誅組小荷駄奉行となった水郡善之祐が、油屋の主人、油屋庄兵衛と親交があったためと伝わります。

ここ油屋に中山忠光をはじめ幹部たちが泊まり、残りの浪士や人足たちは、脇陣の菊屋鍋屋などで休息をとりました。


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モニュメントの説明書きによると、このとき当主の油屋庄兵衛は、三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配などの世話をしたと伝えられているそうです。


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油屋本陣跡前の旧高野街道沿いには、いまも当時を偲ばせる古い家屋がいくつか建ち並びます。


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「三田市宿」再生しましょう・・・だそうです。


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三日市駅前には、石碑や説明板などが設置されています。


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その一角には、今年(2018年)に設置されたばかりの楠木正成像が。

石像は、当時は多聞丸という名だった少年・正成に兵学を教える大江時親の姿です。

彼ら天誅組がこのコースを選んだのは、勤王の志士たちの精神的支柱である楠木正成ゆかりの地を通って士気を高める狙いだったといいます。

夜が明けて三日市を発った一行は、楠木正成ゆかりの観心寺に向かいます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-25 00:34 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その1 「堺旧港」

幕末には、新選組、見廻組、誠忠組、新徴組など、「○○組」と称する団体がいくつかありましたが、その性格は様々で、警備組織もあれば政党もあり、武装集団もあれば思想集団もありました。

そんななか、政党であり思想集団であり武装集団でもあるという複数の性格を持ちながら、最も短命に終わった組織がありました。

天誅組です。

彼らは、幕末史のなかのわずか1ヶ月ほどの短い間に、一瞬の花火のように炸裂して散っていきます。

そんな天誅組の足跡を辿ってみました。


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嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、活発化していった尊皇攘夷運動は、文久3年(1863年)の前半期には最高潮に達し、その急先鋒の長州藩士をはじめとする全国各地から集結した尊皇攘夷派が、京の政局を握っていました。

彼らは孝明天皇(第121代天皇)を大和行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。

これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。

そして、文久3年8月13日(1863年9月25日)、天皇の大和行幸が正式に朝議で決まると、機をうかがっていた討幕急進派の公家の中山忠光、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎、岡山脱藩浪士の藤本鉄石、刈谷脱藩浪士の松本奎堂らが皇軍の先鋒となるため、翌14日に京都を発ち、大和国を目指します。

これが天誅組です。


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天誅組の面々は長州下関へ下る勅使と偽って大坂から海路でへ向かいます。

そして15日、堺港に上陸しました。

現在、その上陸の地を示す石碑が、堺市内に建てられています。


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手前の小さな石碑には、「天誅組義士上陸蹟」と刻まれています。


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後ろには大きな顕彰碑が。

昭和11年(1936年)に建てられたものだそうで、扁額は伯爵・田中光顕の揮毫だそうです。

田中は土佐勤王党出身で、あの坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃された現場に最初に駆けつけた人物です。

天誅組には土佐勤皇党の同志が大勢参加していましたから、田中が揮毫したのでしょうね。

幕末の土佐系の石碑の建立事業には、だいたい田中が関わっています。


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真夜中過ぎに堺港へ到着した天誅組は、旭橋東詰から上陸すると2軒の旅館に分かれて休息し、朝、狭山へ向かって西高野街道を進軍したとあります。


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天誅組上陸地碑の隣には、慶応4年2月15日(1868年3月8日)に起きた堺事件発祥地碑が並んで建ちます。

堺事件とは、この地に上陸したフランス軍艦の兵士11名を、当時、堺の警護にあたっていた土佐藩士が殺傷するという事件で、フランス政府からの要求で、土佐藩士11名が切腹しました。

この話は、また別の機会に触れることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2019-09-18 02:14 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その60 「中山邸跡(明治天皇生誕の地)(京都御苑)」

京都御所の北東にある、「中山邸跡」にやってきました。

ここは、幕末期の公卿、権大納言・中山忠能の邸があった場所です。


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中山忠能は、はじめは攘夷派の公卿として、「その58」で紹介した「廷臣八十八卿列参事件」にも中心人物として加わっていました。

しかし、その後、議奏となってからは公武合体派に身を転じ、孝明天皇(第121代天皇)の妹・和宮降嫁にも尽力しました。

その経緯から、和宮の江戸下向に随行しますが、これが一部の過激な尊皇攘夷派志士からの憤激を生み、議奏を辞職します。


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同じ頃、息子の中山忠光は尊皇攘夷派志士と交わって公武合体派の排除を画策し、天誅組の主将として大和にて挙兵しますが、幕府軍の攻撃によって敗れると、長州へ逃れた後、暗殺されました。


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父・忠能は、その翌年に起きた禁門の変(蛤御門の変)の際には長州藩を支持し、孝明天皇の怒りを買って処罰されます。

しかし、孝明天皇崩御後に復帰し、慶応3年(1867年)には討幕の密勅明治天皇(第122代天皇)から出させることにも尽力し、その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させます。

将軍・徳川慶喜および徳川家の処置を定めた「小御所会議」では、司会も務めました。

中山忠能・忠光父子は、幕末の公卿のなかでは、珍しく気骨ある人物でした。

「安政の大獄」で処刑された福井藩士・橋本左内は、忠能のことを、「卓然たる人物で、学なけれども頗る才略あり」と評しています。


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ちなみに、忠能の娘の慶子孝明天皇(第121代天皇)の典侍となり、孝明天皇の第二皇子・祐宮を産みます。

その子が、のちに明治天皇(第122代天皇)となります。

嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、明治天皇はここ中山邸の敷地内にあった産屋で生まれました。

産屋は、慶子の出産にあたり御産所として新築したものだそうで、現在も残されているそうですが、中山邸跡の敷地内には入れないため、外から眺めるだけです。


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敷地内には、「明治天皇生誕の地」と刻まれた柱が建てられています。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-24 23:47 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)