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タグ:中岡慎太郎 ( 20 ) タグの人気記事

 

幕末京都逍遥 その131 「土佐四天王像」

前稿天龍寺塔頭の松厳寺にある坂本龍馬像を紹介しましたが、嵯峨野にはもうひとつ龍馬の像があります。

それがこれ。


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天龍寺から竹林を北に抜けて田園風景が広がるなかに、「無動庵」というカフェがあるのですが、その前にあります。

像は龍馬だけでなく、武市半平太、中岡慎太郎、吉村寅太郎と共にあります。

彼ら4人を「土佐四天王」と言うんだとか。

そんな呼称あったっけ?


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説明板によると、「風雲急を告げる幕末の京洛に於いて元治元年(1864)坂本龍馬は中岡慎太郎と長州本陣天龍寺に長州藩士の来島又兵衛、久坂玄瑞を訪ねるために立ち寄ったという口碑を伝えている。」とあります。

これ、前稿の説明書きと同じですね。

繰り返すようですが、これは伝承であって史実ではありません。


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仮にその伝承に基づいたとしても、龍馬と中岡はともかく、武市と吉村は関係ありません。

ではなぜ、ここに4人の像があるのか・・・。


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実は、もともとこの像は「その25」で紹介した四条河原町の高瀬川沿いの旧土佐藩邸役宅址にあったそうで、現地の再開発に伴って撤去され、行き場を失ってここに移されたそうです。

なるほど、土佐藩邸前なら、この4人の像があっても不思議ではありませんね。

もっとも、武市以外の3人は、脱藩して藩邸には寄り付かなかった人物ではありますが・・・。


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せっかくなので、4人のアップを載せておきます。

まずは坂本龍馬


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そして中岡慎太郎


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吉村寅太郎


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最後に瑞山こと武市半平太


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「土佐四天王」という呼称はあまり耳にしたことがありませんが、この4人が全て死んじゃったことで、土佐は大した人物が明治まで生き残っておらず、薩長の後塵を拝することになったのは間違いありません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-14 01:10 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その130 「松厳寺(坂本龍馬像)」

前稿前々稿天龍寺の塔頭シリーズが続いていますが、同じく塔頭の松厳寺坂本龍馬像があります。


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正確には、松厳寺の境内ではなく、その隣の墓地に龍馬像あります。

こちらがその像です。


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この像は、昭和49年(1974年)10月14日に除幕されたものです。

傍らには「時代之先覚者坂本龍馬先生遺徳之像」と刻まれた石碑があります。


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像はそれほど大きくなく、等身大くらいの印象でした。

黒光りしていて、よく手入れが行き届いています。


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でも、なぜ天龍寺の塔頭に龍馬像が?・・・て思いますよね。


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説明板によると、「風雲急を告げる京洛に於いて長州本陣天龍寺を訪れ、来島又兵衛、久坂玄瑞、中岡慎太郎と倒幕の密議を交わし」とあります。

う~ん・・・。


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たしかに、中岡慎太郎が長州藩士と共に禁門の変時にここ天龍寺にいたのは事実です。

ですが、龍馬はこの時期、神戸海軍操練所の塾長として、政局とは無縁の毎日を送っていました。

この当時、勝海舟が京と神戸を行き来していましたから、その勝を訪ねて京に来ることはあったと思いますが、嵯峨野を訪れる余裕なんてなかったんじゃないかと。

仮に中岡を訪ねて天龍寺に来たことがあったとしても、倒幕の密議なんて段階ではなかったと思います。

当時の龍馬なら、「神戸海軍操練所に入らんかえ?」勧誘していたんじゃないでしょうか?(笑)

でも、そんなこと言ったら、幕臣の奸物・勝麟太郎の手下の開国論者とみなされ、来島又兵衛に斬られていたんじゃないでしょうか?(笑)

どう考えても、この話は無理がありますね。


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とはいえ、ネットで調べてみると、たしかにこのような伝承が嵯峨野に残っていたそうです。

伝承っていうのは、当てにならないものですね。


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像の側には、船中八策宣言碑と書かれた錨のかたちの碑と、船中八策の内容が刻まれた石盤がありました。

いずれも、坂本龍馬会によって建てられたものだそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-12 23:58 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

西郷どん 第31話「龍馬との約束」その2 ~西郷すっぽかし事件~

 昨日の続きです。

 このとき西郷吉之助(隆盛)坂本龍馬を同行して鹿児島に帰国したのは、幕府からの征長出兵命令を拒否する藩論をまとめるためでした。この少し前に西郷が国元に宛てた報告書のなかに、つぎのような文章があります。


「いつ迄も共和政治をやり通し申さず候ては、相済みまじく候間、能々(よくよく)御勘考下さるべく候。若(もし)、此策を御用ひこれなく候はゞ、断然と割拠の色を顕はし、国を富すの策に出でず候はでは相済申すまじき候義と存じ奉り候。」


 文中、「割拠」という言葉が使われています。「割拠」とは、戦国時代で言うところの群雄割拠のようなもので、つまり、幕府から独立して藩単位での独立国家化の方針のようなものと考えていいでしょう。「倒幕」といった過激な言葉はまだ出てきませんが、明らかに幕府を見限り始めていたことがわかりますね。そして、もう一藩、幕府を見限って「割拠」しようとしていた藩がありました。長州藩です。長州藩の場合、すでに事実上「割拠状態」といっても良かったでしょう。となると、「割拠」を藩論としていた薩摩と長州が手を結べば・・・という機運が高まり始めるんですね。のちの薩長同盟締結が、坂本龍馬と中岡慎太郎がやってのけたアクロバット的な芸当のように描かれることが多いですが、実はそうではなく、誰もが着想できた自然な流れだったといえるでしょう。彼らは、単にその橋渡し役として歴史に選ばれたに過ぎなかったわけです。


e0158128_17092730.jpg 薩長の手を結ばせるために奔走し始めた中岡たちは、西郷が上京する際、何としても下関に立ち寄らせようと考え、中岡が鹿児島に赴いて西郷を説得し、龍馬と土佐藩士の土方楠左衛門(久元)の二人は下関で桂小五郎(木戸孝允)を説得します。しかし、桂は容易に受け入れません。当然のことでした。そもそも、長州が瀕死の状態にあるのは、薩摩が土壇場で会津と組んだからで、長州人からすれば、薩摩人は恨んでも恨みきれない相手だったからです。前年の禁門の変以来、長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたとされ、その遺恨は藩全体に浸透していました。そんな中、薩摩と手を組むことを承諾したとなれば、長州藩内で桂が命を狙われかねません。しかし、このまま何も手を打たなければ長州藩は立ち行かなくなるということも、桂は十分にわかっていました。そんな桂だからこそ、龍馬は説きに説き、ようやく納得した桂は、下関で西郷を待つと約束し、龍馬とともに慶応元年(1865年)閏5月21日まで待ちます。


ところが、下関に姿を表したのは、顔面蒼白となった中岡ひとりでした。西郷は来なかったんですね。ドラマでは、中岡の要請を鹿児島にいた時点で丁重に断り、その名代として有村俊斎(海江田信義)に書状を託して下関に向かわせていましたが、史実は違います。西郷は確かに中岡の説くところを了承して下関へ向かったのですが、閏5月18日、佐賀まで来たとき、急に「幕府征長に反対する朝議を固めるのが先決」と言い出し、中岡がいくら説得しても断固として動かず、中岡を佐賀に下ろし、京へ直行してしまいました。有名な西郷のすっぽかし事件です。なんでドラマでは変えちゃったんでしょうね。


e0158128_15131310.jpg 西郷がすっぽかした理由については、明快な史料が残っておらず、ことの真相は謎のままです。たしかにこの時期、幕府14代将軍・徳川家茂が大軍勢を率いいて上洛しており、長州再征をめぐる動きが緊迫していたのは事実でした。しかし、歴史家さんなどの見解によれば、ぐさま西郷が上洛しなければならないほど急を告げる情勢でもなかったと説きます。では、なぜ西郷は突然すっぽかしたのか。龍馬とともに桂を説得した土方の回顧談によると、このとき西郷の説得にあたっていた中岡は、西郷を「ようやく納得させて」下関に向かわせたといいます。この「ようやく」というのが事実なら、この時点では、西郷は長州と手を結ぶことにそれほど積極的ではなかったということになります。長州と手を結ぶとなると、藩主父子の承諾も取り付けなければなりません。きっとそれは、容易ならざることだっただろうと想像できます。そんなこんなで、一旦は押し切られて承諾したものの、途中で煩わしくなったのかもしれませんね。まあ、わかるような気がしないでもないです。


 ただ、結果として下関で待っていた桂と龍馬は、文字通り「待ちぼうけ」を食らってしまいました。桂が激怒したのはいうまでもありません。この西郷すっぽかし事件によって、薩長同盟計画は振り出しに戻ります。


 薩摩と長州が手を結ぶには、もう少し時間が必要だったのでしょうね。これまでの歴史を鑑みると、中岡や龍馬も、少し事を急ぎ過ぎたのかもしれません。薩摩と長州はまだ「和解」もしていなかったわけですからね。その「和解」を飛び越え、いきなり「提携」すなわち「同盟」に進もうとしたわけで、これが失敗だったといえるかもしれません。薩長が手を結ぶまでには、まだあと8ヵ月ほどの時間が必要でした。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-21 23:45 | 西郷どん | Comments(6)  

幕末京都逍遥 その77 「陸援隊屯所跡」

中岡慎太郎が組織した陸援隊屯所があったとされる場所にやってきました。

現在その場所は京都大学の農学部や理学部がある北部構内の敷地になっています。

先日、京都大学の学生が交差点でこたつに座って逮捕されるという意味不明な事件がありましたが、あのすぐ近くです。


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残念ながら石碑などは建てられていません。

写真は大学の校門周りの風景で、当時を偲ぶようなものは何も残っていません。


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陸援隊は中岡の同志・坂本龍馬が組織した海援隊に呼応するかたちで発足し、中岡を隊長として総員70人ほどだったといいます。

ただ、龍馬の海援隊は海軍という顔と商社という側面を持っていたのに対し、中岡の陸援隊は、あくまで討幕を見据えた軍隊でした。

なので、海援隊のように団体としての収入があったわけではありません。

元々この場所は、河原町の土佐藩邸手狭になったために第二藩邸として建てられた場所で、慶応3年(1867年)6月、ここに陸援隊を駐屯させ、いざというときの遊軍として備えました。

食事は河原町の土佐藩邸から支給されていたそうです。

でも、河原町の藩邸からは4kmほど距離があります。

いざというときの部隊としては、いささか離れすぎだったんじゃないでしょうか。

龍馬と中岡が近江屋で襲撃されたとき、第一発見者の峯吉は、ここまで裸馬に乗って報せにきたといいますが、近くに土佐藩邸があったのに、なぜ、こんな遠くまで来なければならなかったのかがわかりません。


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キャンパスの一角にある地蔵堂です。

これは、大正10年ごろにここに大学の地質学教室を建てる工事中、地中から、高さ30cmぐらいの石地蔵50体以上も掘り出されたそうで、その後、ここに祀られたそうです。

陸援隊の屯所だったときは、地中に眠っていた地蔵ということですね。


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中岡の死後、陸援隊は田中光顕、谷干城らが指導し、官軍挙兵後は高野山で紀州藩兵を牽制するなどの働きをしますが、明治維新後は御親兵に吸収されました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-17 01:07 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その24 「中岡慎太郎寓居跡(書林菊屋跡)」

坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡の石碑から河原町通りを挟んで斜め向かい側に、「中岡慎太郎寓居之地」と刻まれた石碑があります。

ここは、土佐藩御用達の書林菊屋(鹿野安兵衛宅)があった場所で、そこに慎太郎は身を寄せていました。

以前、ここを訪れたときは、あぶらとり紙のお店だったのですが、今回訪れたときには、人気キャラクター「ぐでたま」のショップになっていました。

見てくだい、この石碑と「ぐでたま」のミスマッチを(笑)。


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龍馬と慎太郎が近江屋で暗殺された当日、龍馬に鶏肉を買ってくるように言付けられたために難を逃れた峯吉という少年がいますが、その峯吉はここ菊屋の息子です。

その峯吉が事件発生後の第一発見者となり、その後、土佐藩の田中光顕、谷干城らが現場に駆けつけるのですが、この峯吉の証言というのが、矛盾点が多くてめいています。

何より不可思議なのは、龍馬たちの死を知った峯吉は、すぐさま裸馬に飛び乗って陸援隊屯所まで報告に行ったという点です。

陸援隊屯所は近江屋から4kmほど北にありました。

なぜ、目と鼻の先に土佐藩邸があったのに、わざわざそんな遠くまで報せに行ったのでしょう?


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龍馬暗殺の実行犯とされる今井信郎の供述では、「襲撃現場に書生がいた」との証言があり、また、同じく実行犯とされる渡辺篤の証言にも、「現場に13、4歳くらいの少年がいたが、机の下に首を突っ込んで怯えており、子供だったのでそのまま見逃した」とあります。

これらの史料から、歴史家・菊池明氏はその著書のなかで、実は峯吉は襲撃の際、現場にいたのではないか、という大胆な推理をされています。

その上で、なにか大きな秘密を知ってしまったのではないか・・・と。

現在伝わる龍馬と慎太郎の襲撃時の話は、事件発生後に現場に駆けつけた田中光顕や谷干城らが、意識のあった慎太郎から聞いた話しだと言われていますが、自らも襲われて瀕死の重症を負っていた慎太郎としては、あまりにも克明過ぎる証言をしています。

龍馬はまず初太刀で横なぎに斬られて、床の間に置いていた刀を取ろうとした際に背中を斬られ、刀を手にしてごと相手の太刀を受け止めるも、そのまま額に太刀を受け、これが致命傷となって死んだ・・と。

自分も襲われているのに、そんなに詳しく観察できるものでしょうか?

本当に慎太郎が語った話しなんでしょうかね。

実は、証言したのは峯吉だっだとか?


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維新後、峯吉は明治10年(1877年)の西南戦争で、当時、熊本鎮台司令長官だった谷干城のはからいで、会計軍夫として従軍しています。

一介の本屋の息子が、10年後には政府軍の会計軍夫です。

なんか、匂いませんか?


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近江屋側から見た中岡慎太郎寓居跡です。

当時の河原町通りはこんなに広くなかったでしょうから、ほんと、近江屋の目と鼻の先だったわけです。

行列が出来ているのは、「ぐでたま」ショップに並んでいる人たち。

あの人たちは、ここが慎太郎の寓居跡だなんて知らないでしょうね。

あの行列の前で石碑の写真を撮るのは、結構恥ずかしかったです(笑)。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-31 20:57 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その22 「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)」

京都東山から西へ500mほど離れて、木屋町、河原町周辺にやってきました。

この辺りは京都市内一の繁華街で、史跡といえる遺構はほとんど残っていませんが、当時の歴史的事象がたくさん起きた場所でもあり、いまも随所に石碑などが残されています。

その代表的場所がここ。

坂本龍馬中岡慎太郎暗殺された近江屋跡です。


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慶応3年11月15日(1867年12月9日)、龍馬と慎太郎はここ近江屋の母屋の2階に潜んでいたところを、何者かの手によって襲撃され、龍馬はほぼ即死

慎太郎は蘇生して2日間生き延びますが、その後、容体が悪化して死去しました。

龍馬33歳、慎太郎30歳でした。


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襲撃当日の様子については、昨年の龍馬の命日の稿「坂本龍馬没後150年。」で詳細に触れていますし、また、暗殺犯の諸説についても、「坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。その1」 「その2」 「その3」 「その4」で起稿していますので、よければ一読ください。


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ここは何度も訪れていて、過去にも当ブログで何度か紹介したことがあるのですが、初めてここを訪れたときは旅行会社の事務所で、次にコンビニになり、現在は回転ずしの店になっています。


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旅行会社のときは石碑だけだったのですが、コンビニのときに後ろの説明立札が設置され、回転ずしになったときに、横の龍馬の肖像画が加わりました。

少しずつバージョンアップしているようですが、とはいえ、日本史上人気ナンバーワンの英雄の最期の地としては、寂しい限りですね。


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ここは龍馬ファンにとっては聖地のひとつであるものの、繁華街に埋もれてしまっていて、気づかずに通り過ぎて行く人がほとんどです。

わたしが写真撮影をしている姿を見て、ようやく気が付いたほかの観光客が、石碑に目をやってスマホで写真を撮っていくって感じでした。

殺された地ってだけで近江屋の建物が残っているわけでもないのですが、もうちょっと何とかならないものかと・・・。

だって、東京の大久保利通遭難の地には、でっかい石碑が建っていますし、鹿児島の西郷隆盛終焉の地なんて、史跡公園になってますからね。

これが、維新の元勲となった人物と、維新目前で命を落とした人物との格差なんですかね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-29 07:19 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その16 「円山公園 坂本龍馬・中岡慎太郎像」

東山霊山から北へ300mほど上がったところにある円山公園に、坂本龍馬中岡慎太郎の像があります。

ここは桜の名所として有名な場所ですが、わたしがここを訪れたのは4月23日、新緑の季節でした。


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立ち姿で遠くを見つめる龍馬と、左手に刀を握って片膝をついている慎太郎。

これと同じ姿のミニチュア像が、「その2」で紹介した東山霊山の二人の墓所の横にもありました。

たぶん、ここ円山公園の像がオリジナルだと思います。


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碑文が刻まれた台座は高さ約3mあり、その上の龍馬像は約3.6m、座り姿の慎太郎像は約1.5mだそうです。

この像は、最初、昭和11年(1936年)に建立されたそうですが、第二次世界大戦中の金属供出によって撤去され、現在の像は、昭和37年(1962年)に再建されたものだそうです。


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でも、なぜここ円山公園に龍馬像なんでしょう?

ネット上で調べていたところ、とあるブログ(円山公園坂本龍馬・中岡慎太郎像)でその理由が説明されていたので、以下、参考にさせていただきながら紹介します。


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昭和9年(1934年)、高知出身の元海軍大臣だった吉松茂太郎が、日本海軍の祖として尊敬していた坂本龍馬と同陸援隊の中岡慎太郎の像を縁の地である京都に立てようと発起し、その場所として公的許可が下ったのが、ここ円山公園の一角だったそうです。

立ち姿の龍馬と立て膝をついた慎太郎というこの構図は、長身の龍馬と小柄な慎太郎の身長差を隠すためだったんだとか。

有名なこのポージングには、そんな配慮があったんですね。

龍馬の身長は当時としてはかなり長身の172cmほどといわれ、一方の慎太郎は当時の一般男性の平均身長だった150cm強だったとされています。

たしかに、二人とも立ち姿だと、慎太郎が小者に見えたかもしれません。


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その後、上述したように戦時中の金属供出で撤去され、現在の像は昭和37年(1962年)に高知県人会の初代会長だった川本直水氏によって私財を以って再建されたものだそうですが、戦前に建てられた像は、昭和5年(1930)年に高知県の桂浜に建てられた像と同じ彫刻師の作品だったそうですが、再建された現在の像は、別の方の作品となったため、桂浜の像とは表情が異なっているそうです。

戦前の像も見てみたかったですね。


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この2代目像は、いまも高知県人会の方々によって丹念に清掃され、管理されているとのことです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-17 00:05 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その14 「霊明神社」

前稿で紹介した「幕末志士葬送の道」を上ったところにある霊明神社を訪れました。

ここは、かつては霊明社といい、幕末の勤皇の志士たちを祀った神社でした。


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あの坂本龍馬中岡慎太郎の棺も、ここへ運ばれてから埋葬祭祀されました。


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一見、普通の民家の玄関に鳥居があるような小さな神社で、とてもそんな歴史がある場所には思えません。


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案内板によると、文化6年(1809年)に地下(六位以下の貴族)の村上都愷が、神道信仰素志貫徹を図るために創建したと伝わります。

当時、徳川幕府の宗教政策によって原則すべての国民が仏教徒とされていましたが、そんな中で、ここでは神道による葬式(神葬祭)を始めたそうです。

幕末に入り、神葬祭を進める長州毛利家などと縁ができ、長州藩をはじめ殉難志士を霊山に埋葬祭祀することになっていったそうです。

幕末の勤皇の志士たちは、天皇家と同じく神道を信じる傾向にあったんですね。

そして文久2年(1862年)からは、安政の大獄以降の殉難志士の「報国忠死の霊魂祭」

が営まれるようになります。


「死して護国の神となる」

「霊山の村上にて皇国の手振りにて葬らることを如何に楽しとせし事ぞ」


と、当時の志士たちは死後、ここ霊明神社に葬られ、神霊として祀られることを無上の名誉と思うようになったそうです。

これが、招魂社ならびに靖国神社創建の起源をなすものとなった・・・と。


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維新後は、明治新政府の方針で、霊明社・村上氏の所有地の大半が没収(上知)され、創建まもない東山招魂社に譲られてしまいました(霊明神社文書)。

現在、龍馬らの墳墓がその後身である霊山護国神社の所有・管理とされているのはそのためだそうで、かつては、ここ霊明社の墓地だったんですね。

この日、霊山護国神社や龍馬たちの墓のお参り客はたくさんいましたが、ここを参拝していたのは、わたしが見る限りわたししかいませんでした。

東山霊山に来たら、龍馬らの墓参(霊山護国神社の参拝)とあわせてここも参拝するべきでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-15 00:55 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その13 「幕末志士葬送の道」

「その1」で紹介した維新の道の一筋南に、同じく東山霊山に通じる坂道があります。

ここは、「幕末志士葬送の道」と呼ばれ、坂本龍馬中岡慎太郎をはじめ、東山霊山に葬られた多くの志士たちの棺が運ばれたルートと伝わります。


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高台寺から清水寺に向かう有名な二年坂の途中を東に折れて進むと、「幕末志士葬送の道」と書かれた看板が目に入ります。


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そこからもうちょっと坂を上ると、石碑と説明板が。


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説明板によると、この道は、当地の東突当たりにある霊鷲山正法寺の参道で、「霊山正法寺道」ともいうそうです。

その正法寺の境内に、文化6年(1809年)霊明社(現在の霊明神社)が創建され、そこで神道による葬式が行われていたそうです。

江戸時代は徳川幕府の宗教政策によって原則すべての国民が仏教徒とされていましたが、幕末に入り、勤皇の志士たちは天皇家と同じく神道を信じる傾向にあったんですね。

それで、幕末の動乱で命を落とした勤皇の志士たちは、この道を通って霊明社に運ばれ、霊明社で神道によって埋葬祭祀されたというわけです。


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説明板の記載をそのまま引用すると、文久3年7月29日(1863年9月11日)、長州系志士である土佐の吉村太郎が、前日に亡くなった友人宮地宜蔵の埋葬祭祀を依頼したり(同日付村上都平宛吉村虎太郎書翰)、元治元年3月4日(1864年4月9日)、長州の久坂義助(玄瑞)が、先祖の永代供養を任せたほか(同年3月25日付妻宛書翰)、同年6月7日(1864年7月10日)、池田屋事件で亡くなった吉田稔麿らの遺体を長州屋敷が埋葬したそうですが、これらはほんの一例ですだそうです(同年6月13日付里村文左衛門ほか宛塩屋兵助ほか書翰)。


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「幕末志士葬送の道」の半分は階段です。

わたしが訪れた平成29年(2017年)8月は、道の北側が工事されていて、養生壁に囲われていました。

景観としては、少し残念。


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この日も二年坂は観光客でいっぱいでしたが、少し脇道にそれたこの道を通っていたのは、地元の人以外は私だけだった気がします。

ここを龍馬や慎太郎たちの遺体が通ったんですよ。

もうちょっと訪れる人がいてもいいですよね。

坂の上から見下ろすとこんな感じ。


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さて、次稿では「幕末志士葬送の道」を上ったところにある霊明神社を紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-14 00:25 | 幕末京都逍遥 | Comments(4)  

幕末京都逍遥 その2 「東山霊山護国神社~坂本龍馬・中岡慎太郎の墓」

東山霊山護国神社に眠る幕末の志士たちのなかで、もっとも墓参客が多い墓は、いうまでもなく坂本龍馬中岡慎太郎の墓です。

霊山までの道のりでも、いたるところに「坂本龍馬の墓」と記された案内看板がありましたから、霊山の目玉コーナー(?)といえるでしょう。


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霊山の階段を上がっていくと、「贈正四位 坂本龍馬先生 中岡慎太郎先生之墓道」と刻まれた石碑があります。

かなり古いもののようですが、両人に「正四位」が贈られたのは明治24年(1891年)のことなので、おそらく、それ以降に建てられたものでしょう。


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左が龍馬、右が慎太郎です。


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墓碑は木戸孝允(桂小五郎)が揮毫したそうです。


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二人の墓の横には、同じ時に落命した下僕・藤吉の墓もあります。

墓参に訪れる人はあまり藤吉のことを知らないのか、こちらに手を合わせる人が少ないんですよね。

いわば藤吉は二人の巻き添えをくって殺されたようなもので、気の毒な最期でした。

ここを訪れた方は、ぜひ藤吉にも手を合わせてほしいものです。


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墓参客用の説明板です。

修理してほしいですね。


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墓石の横には、両人のがあります。


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2人は暗殺された後、同じく東山にある霊明神社に葬られたそうですが、明治維新後、霊山護国神社が建立された際に霊明神社の敷地を譲り受け、現在に至るそうです。


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龍馬たちの墓は、霊山の中でもいちばん見晴らしのいい場所にあります。

下の写真は、龍馬の墓所から見た眺望。


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幕末の志士のなかではダントツ一番人気の坂本龍馬ですが、龍馬の功績に対してネガティブな意見を持つ人たちは、坂本龍馬を日本史上のスターにしたのは司馬遼太郎大罪で、実際の龍馬は、とくに大きな功績を残したわけでもなく、当時はそれほど重要視される人物ではなかった・・・といいます。

そう思う方は、一度この地に来てみてください。

ここには、幕末維新に殉じたそうそうたるメンバーの墓や慰霊碑が並んでいますが、その中で、龍馬と慎太郎の墓は、いちばん見晴らしのいい場所に、特別扱いのように葬られています。

もし、当時の坂本龍馬が、とるに足らない人物だったのであれば、こんな墓の扱いではなかったのではないでしょうか?

ここへ来ると、いつもそう思います。


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昨年、平成29年(2017年)は、龍馬と慎太郎没後150年にあたる年でした。

その命日に書いた当ブログでの拙稿がありますので、よければ一読ください。

    ↓↓↓

坂本龍馬 没後150年の命日に思う。

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その1

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その2

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その3

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その4


さて、上述したとおり、ここ東山霊山には龍馬たちのほかにも多くの幕末の志士が葬られていますが、墓参客の多くが、龍馬の墓だけを参って下山していきます。

そこで、次回からは、他の志士たちの墓所、慰霊碑を追ってみます。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

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by sakanoueno-kumo | 2018-02-21 22:57 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)