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幕末京都逍遥 その135 「離宮八幡宮・大念寺・宝積寺(禁門の変長州軍本陣)」

京都府と大阪府の境に位置する山崎天王山にやってきました。

このあたりは、元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」の際に長州軍の本陣が布かれた地域です。


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前年の八月十八日の政変によって京を追い出されていた長州藩は、名誉回復のチャンスをうかがっていましたが、元治元年6月5日(1864年7月8日)に池田屋事件が起きると、藩内進発派の藩士たちは烈火のごとくいきり立ち、ついに総勢2000の兵を京都に向かわせます。

そのとき、本営となったのが、「その128」で紹介した嵯峨天龍寺伏見長州藩邸、そして、ここ山崎天王山でした。


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山崎に陣取ったのは、長州の久坂玄瑞や久留米の真木和泉守保臣をはじめ300名でした。

彼らは、天王山、離宮八幡宮、大念寺、宝積寺などに布陣します。


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上の写真は天王山を登りはじめてすぐの場所にある大念寺です。


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それほど大きなお寺ではありませんが、ここも、長州の宿営となりました。

そのせいで、戦火に巻き込まれて伽藍は焼失し、再興されたのは明治12年(1879年)になってからだったそうです。


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大念寺からさらに坂を登ると、宝積寺という広い敷地を持つ立派な寺院があります。

ここも、長州軍の宿営となりました。


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ここは大きな寺院なので、大勢の兵が収容できたと思われます。

真木和泉もここにいたようです。


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上の写真は、天王山の麓にある離宮八幡宮です。

貞観元年(859年)創建という古い神社ですが、ここも、長州軍の屯所が置かれ、社殿は戦火に巻き込まれて焼失してしまいました。


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このとき離宮八幡宮と一緒に周辺の商家もことごとく焼失しました。

ほとんど山崎のまち全体が焼き払われたようです。

山崎が火の海と化したのは、変の翌日でした。

つまり、長州藩兵の残党狩りと、長州藩兵を宿営させた寺社に対する処罰で火を放たれたわけです。


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後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さな局地戦みせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。


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山崎天王山といえば、もう一つ、戦国時代の羽柴秀吉明智光秀が激突した山崎合戦の舞台としても知られています。

山崎合戦シリーズも以前起稿していますので、よければ一読ください。

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山崎合戦ゆかりの地


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by sakanoueno-kumo | 2018-09-20 23:59 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その118 「詩仙堂」

洛北の一乗寺地区にやってきました。

まず初めに訪れたのは、詩仙堂

江戸初期の石川丈山が寛永18年(1641年)に造営、隠棲した山荘跡で、国の史跡に指定されています。

ここに、長州藩御楯組のメンバー、久坂玄瑞寺島忠三郎の位牌が安置されています。


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久坂と寺島は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に起きた「禁門の変」(蛤御門の変)で落命しました。

激情型過激派志士が多かった長州藩士のなかで、ギリギリまで慎重論を主張していた久坂は、戦いが始まってもなお、朝廷への嘆願をあきらめずに公卿の鷹司輔煕に篭って孝明天皇への取り次ぎをすがりますが、やがて薩摩・会津軍に包囲され、万策尽きた久坂は、ともに行動していた寺島と刺し違えて自刃します。

玄瑞25歳、忠三郎22歳でした。


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その後、ふたりの遺体は、「その69」で紹介した福井藩の京の菩提寺である上善寺に葬られたという説と、ここ詩仙堂に葬られたという説があり、定かではありません。

ただ、上善寺には伝承しか残っていませんが、ここ詩仙堂にはふたりの位牌があるそうですから、こちらの方が信憑性があるといえるでしょうか。


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明治に入り、太政官布告によって改葬され、今は「その5」「その6」で紹介した京都東山霊山に墓があります。

また、久坂の墓は、地元・山口県にもあります。

もっとも、東山の墓に遺骨が埋葬されているのかはわかりません。


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ふたりの遺体が一時的でもここに埋葬されていたのだとすれば、どのような縁があったのでしょうね。

ここを造営した石川丈山は徳川家康の家臣でしたから、ここは、徳川家に縁の深い寺院でした。

丈山は90歳までこの山荘で悠悠自適の風雅な暮しをしたそうで、その一室の壁に、狩野探幽に描かせた中国の詩仙36人の肖像と詩があることから、いつの頃からか「詩仙堂」と呼ばれるようになったそうです。


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室内は撮影禁止ですが、庭園はOKでした。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)3月31日。

桜の綺麗な季節でした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-24 00:53 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その69 「禁門変戦死長州人八名首塚碑(上善寺)」

相国寺北門から北へ300mほど歩いたところにある上善寺には、元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)で命を落とした長州藩士の首塚がります。

山門の横には、「贈 正四位入江九一外七名首塚」と刻まれた石碑があります。

ここに葬られているのは、石碑に刻まれていた入江九一をはじめ、原道太、半田門吉、奈須俊平、田村育蔵、緒方弥左衛門、小橋友之輔、そして無名藩士1の計8名の長州藩士たちです。


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ここは、長州藩の菩提寺というわけではなく、越前福井藩の菩提寺でした。

「禁門の変」というと、「その55」で紹介した蛤御門前の激戦をいちばんに思い出しますが、「その56」で紹介した堺町御門付近でも、鷹司邸に立て籠もった久坂玄瑞ら長州軍と越前福井藩の軍勢によって激しい交戦を繰り広げられました。

しかし、やがて鷹司邸は火を放たれ、立て籠もった長州藩士は全滅します。

このとき堺町御門警衛隊長だった越前福井藩士の桑山十蔵が、放置されたままになっていた長州藩士の遺骸を見かねて、主君の松平春嶽の許しを得て、その首級を持ち帰り、ここに葬ったそうです。

「その67」で紹介した相国寺内の長州藩士の墓は、薩摩藩邸のすぐ北にあたる場所で、薩摩藩士によって葬られたものだと伝えられます。

つまり、蛤御門で命を落とした長州藩士は薩摩藩士によって相国寺に、堺町御門付近で討死した長州藩士は、越前福井藩士によって、ここ上善寺に葬られたということでしょう。

故あって敵味方となったものの、共に皇国のために死力を尽くした者同士、敬意を表したというわけですね。

武士道の精神ここにありです。


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また、一説には、当初、この首塚に、久坂玄瑞の首も収められていたもいわれます。

ところが、ある日、ひとりの婦人が訪れて塚を掘り返し、久坂の首を持っていってしまったとのこと。

その婦人は、久坂の馴染み芸者で、久坂が死んだときに久坂の子を身籠っていた辰路という女性だったそうです。

この話は、元土佐藩士で陸援隊士だった元老・田中光顕の回顧録にある話だそうで、当時、田中は脱藩して長州藩に身を寄せていましたから、この話も、荒唐無稽とは言えないかもしれません。

実際に、辰路という女性は実在していますし、その生まれた子も、明治維新後に久坂の遺児認知され、久坂家を継いでいます。


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首塚は住職のお住いの抜けなければならない場所にあるようで、わたしがここを訪れたのは8月13日のお盆の真っ只中で、お墓参りの方々が大勢おられたなかで、カメラを首に下げたわたしが墓地に入らせてもらうことが憚られ、首塚に参るのは遠慮しました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-06 23:27 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その57 「鷹司邸跡(京都御苑)」

京都御苑内南端にある「鷹司邸跡」にやってきました。

鷹司家は鎌倉期に藤原氏から分かれた公家で、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれた時代、鷹司政通・輔煕父子が関白を務めていました。


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鷹司政通は、文政6年(1823年)に関白となり、以後、黒船来航から日米和親条約締結後の安政3年(1856年)まで30年以上関白を勤めました。

孝明天皇(第121代天皇)からの信頼も厚く、関白を退いたあとも、異例の太閤の称号を贈られます。

当初は開国論に立って日米和親条約締結を主張する立場をとりますが、開国政策に不安をつのらせた若手の攘夷派公家たちが「廷臣八十八卿列参事件」を起こすと、一転して攘夷派となります。

これが幕府の怒りに触れるところとなり、「安政の大獄」に連座して落飾し、出家します。


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政通の子・輔煕も「安政の大獄」で処分されて出家しますが、その後、赦免されて還俗し、文久3年(1863年)には近衛忠煕の後を受けて関白に就任します。

しかし、同年に起きた「八月十八日の政変」三条実美らの帰京の運動をしたため、12月に免じられます。


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また、翌年に起きた「禁門の変」(蛤御門の変)に際しては、ここ鷹司邸に久坂玄瑞寺島忠三郎ら長州藩兵が立て篭もりました。

ギリギリまで慎重論を主張していた久坂は、戦いが始まってもなお、朝廷への嘆願をあきらめておらず、鷹司邸に入って孝明天皇への取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。

このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた同じ松下村塾同門の寺島忠三郎と邸内で刺し違えて自刃します。

玄瑞は自刃する直前、同じく腹を斬ろうとしていた同門の入江九一を制止し、急ぎ帰国して藩主父子の上洛を阻止するよう依頼しますが、不運にもその九一も、直後に鷹司邸の裏門で待ち伏せていた福井藩兵に槍で顔を突かれ、その衝撃で両眼が飛び出し、見るも無惨な死体となって転がりました。

玄瑞25歳、忠三郎22歳、九一は28歳でした。


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その後、鷹司邸は火を放たれて焼失します。

一説には、「どんどん焼け」と呼ばれる禁門の変時に発生した京都の過半を焼き尽くした火災は、ここ鷹司邸からはじまったとも言われます。

変の翌日に西郷隆盛大久保利通に宛てた書簡には、鷹司邸内へ逃げ込んだ長州兵を砲撃で火攻めにしたところ、堪りかねて敵兵は早々に逃げ去ったと記されています。

それが本当なら、京都まちを焼き尽くしたのは西郷ということになりますね。

まあ、それだけではなかったんでしょうけど。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-18 22:47 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その39 「久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡碑(法雲寺)」

「その33」で紹介した長州藩邸跡ホテルオークラから200mほど北上したところに法雲寺というお寺があるのですが、その入口に、「久坂玄瑞 吉田稔麿等 寓居跡碑」と刻まれた石碑があります。


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長州藩邸がこの近くにあったことから、当時、このあたりには多くの長州藩士が居住しており、法雲寺もそのひとつとして使用されていました。


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文久2年(1862年)7月、久坂玄瑞は同志らと共に公武合体論者の長井雅楽殺害しようと計画しますが、失敗したため家老の浦靭負自首し、同年8月4日、謹慎処分となります。

その謹慎の場所が、ここ法雲寺だったと伝わります。

ともに謹慎となったのは、寺島忠三郎、野村和作(のち靖)、堀真五郎、福原乙之進でした。


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説明板によると、久坂らの謹慎中には、浦の家臣である秋良敦之助やその子息・秋良雄太郎赤祢幹之允(武人)、世良修蔵も慰問したほか、松島剛蔵(小田村伊之助の実兄)らも訪れています。


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また、同年7月17日には、万延元年(1860年)から亡命生活を送っていた吉田栄太郎(のちの稔磨)が、伏見街道で世子毛利定広(元徳)に自首し、ここで謹慎生活を送っています。

そのことは、久坂が萩に住む妻・杉文吉田松陰の妹)に宛てた手紙に書かれています。


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本堂です。

ここ法雲寺の伽藍は禁門の変戦火を免れたそうで、現存の本堂・書院・台所は、当時のものだそうです。

なので、ここに久坂らが居住していたということですね。


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吉田稔麿は同年閏8月13日に謹慎が解かれ、久坂らも同年9月12日に同じく謹慎が解かれ、ここを去りました。

中老の暗殺未遂でも、わずか1ヵ月余りの謹慎で済んじゃうんですね。

この緩さが、幕末の長州藩の若者を過激にしたのかもしれません。



冒頭に紹介した入口の石碑の側面には、「此南 池田屋事件 望月亀弥太終焉伝承地」と刻まれています。

次稿では、その場所を紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-22 00:49 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その6 「東山霊山護国神社~長州藩殉難者の墓②」

昨日の続きです。

残りは下の3名、いずれも説明するまでもない人物ですね。


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来島又兵衛以外は松下村塾の門下生で、高杉晋作以外は元治元年7月19日(1864年8月20日)に起きた禁門の変(蛤御門の変)討死した人物です。


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久坂玄瑞高杉晋作、入江九一、吉田稔麿と並んで「松下村塾四天王」と呼ばれた人物ですが、その中でも、特に鋭敏な頭脳の持ち主で、高杉とともに「松下村塾の双璧、龍虎」などと称されました。

もともと玄瑞の生家は長州藩医でしたが、若くして親兄弟と死別すると、時勢がら医学より兵学を学び、松蔭の死後は長州藩攘夷派の指導的立場になり、やがて士分となります。

禁門の変に際して、玄瑞はギリギリまで兵をすすめることに反対し、意見を主張しますが、結果的に強硬派に押されて挙兵に至り、それでもなお、朝廷への嘆願をあきらめず、惨状のなかをかきわけ、前関白の鷹司輔煕屋敷に入って帝への取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。

このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた寺島忠三郎刺し違えて自刃します。

享年25。


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長州藩きっての武闘派として知られる来島又兵衛は、若年者が多かった幕末の長州藩士のなかでは、長老格でした。

何より猛々しさを重んじる又兵衛は、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物で、藩士からの人望も厚かったようです。

禁門の変に際して、ギリギリまで慎重論を主張する久坂に対して、怒気を飛ばして論破したのがこの又兵衛で、その気質のとおり、彼が強硬派の急先鋒でした。

変当日の又兵衛は、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて会津藩の守る蛤御門に猛然と攻めかけ、一時は会津藩を破り去る寸前までいきますが、薩摩藩の援軍が加わると劣勢となり、壮絶な死を遂げます。

享年47。


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そして最後は、高杉晋作

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と称された幕末の風雲児・高杉晋作ですが、彼は他の志士たちと違ってあまり藩の外に出ることは少なく、藩外での攘夷活動といえば、英国公使館焼き討ち事件ぐらいでした。

したがって、禁門の変にも参加していません。

しかし、藩内においては、百姓町人を起用した奇兵隊創設をはじめ、少数でクーデターを成功させた功山寺挙兵、丙寅丸で幕府艦隊に夜襲をかけて幕府軍を敗走させた四境戦争など、風雲児の名をほしいままにする奇想天外な活躍を見せます。

しかし、倒幕を目の前にした慶応3年4月14日(1867年5月17日)、肺結核を患いこの世を去ります。

享年29。

なぜ、山口で死んだ晋作の墓が東山にあるかというと、ここは言わば幕末の志士たちの合祀場所であり、すべてが納骨されているわけではありません。

晋作の墓は山口県下関市に立派なものがありますし、他の志士たちも、ここ以外に墓がある者が多くいます。

言わば、幕末版靖国神社のようなものですね。


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長州藩士は他にも200人以上の墓碑が並びます。





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by sakanoueno-kumo | 2018-03-01 02:19 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

花燃ゆ 第49話「二人の再婚」 ~楫取素彦と美和子の再婚~

 楫取素彦の年譜よれば、美和子再婚したのは明治16年(1883年)5月3日とされていますが、別の書簡などによれば、その1年半ほど前には既に同居していたことがわかっており、しかも、明治15年(1882年)4月には、湯之沢温泉(現・赤城温泉)にふたりで3泊滞在している記録もあるそうで(ドラマでは、嵐に巻き込まれてやむを得ず1泊という設定でしたが)、ふたりが結婚したのは、その頃だったんじゃないかという見方もあるようです。前妻の寿子が没したのは明治14年(1881年)1月30日のことでしたから、後者の説を採れば、妻に先立たれてから1年余りでの再婚ということになります。現代の感覚で言えば、ちょっと早すぎるんじゃないの?・・・という気がしますが、当時のそれなりの地位の男でいえば、1年以上も後妻を迎えないというのは、むしろ遅いくらいでした。そのうえ、亡き妻の遺言どおりに妹と再婚したわけですから、素彦がいかに寿子のことを思っていたかが窺える気がします。

 一方の美和子は、前夫の久坂玄瑞と死別してから20年近い年月が過ぎていましたが、その間ずっと独り身を通しており、この再婚話にもはじめは乗り気ではなかったといいます。ドラマでは、阿久沢権蔵・せい夫妻から再婚を勧められていましたが、実際には、山口県で存命だった美和の母・杉滝子からの再三の勧めだったようです。しかし、美和子はなかなか首を縦に振りませんでした。というのも、美和子は20年近く経った今なお、玄瑞から送られてきた手紙を後生大事に保管しているほど、亡き夫のことを忘れられずにいました。「貞女二夫まみえず」といった貞操観念も強かったのでしょう。実姉の夫だった人というのも、抵抗があったかもしれません(ドラマでは初恋の人という設定でしたが)。でも、素彦との再婚は亡き姉の遺言でもあったこと、県令としての激務をこなす素彦を間近で見ていたことなどから、最終的には、素彦との再婚を決意したのでしょうね。素彦54歳、美和子39歳のときでした。

 再婚を決意した美和子が、玄瑞からの手紙を燃やしかけて素彦に止められるシーンがありましたが、実際にも、京のまちで政治活動をしていた玄瑞から美和子(当時は)に宛てた書状は21通が現存しているそうです。そこで留意すべきは、その21通が、後夫である素彦関連の書状、著作などを収録している『楫取家文書』に載せられていることです。つまり、妻となった美和子が前夫からの手紙を大切に保管していることを、素彦は許していたということですね。「前の夫のことなど早く忘れろ!」なんて狭量なことは、素彦は言いません。

 そればかりか、素彦は美和子が持参した21通の書状を装丁して3巻にまとめ、『涙袖帖(るいしゅうちょう)』と名付けて大切に保管することを決めました。『涙袖帖』というタイトルは、美和子が玄瑞の自刃後、折にふれてこの書状を読み返し、落涙して袖を濡らしたという意味が込められているのでしょう。妻の前夫に対する思いを十分に理解し、決して忘れないよう手助けをしていた素彦。彼は、ドラマのとおり大きな包容力を持った優しい男だったのでしょうね。それと、素彦自身も、亡き妻・寿子のことを忘れたくないという思いが強かったのかもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-07 16:48 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第40話「二人の母」 ~久坂玄瑞の忘れ形見~

 生前の久坂玄瑞が京都の芸妓・辰路に生ませた息子・秀次郎が主役の回でしたね。玄瑞と文(美和)の間に実子は生まれていませんので、この秀次郎が玄瑞の血を引くただひとりの忘れ形見となります。もっとも、秀次郎が生まれたのは元治元年(1864年)9月と伝えられていますが、玄瑞は同年7月の禁門の変自刃しているため、玄瑞は秀次郎の顔を見ることなくこの世を去っています。あるいは、辰路が妊娠していたことすら知らずに死んでいったかもしれませんね。だとすれば、もし、わが子の誕生を知っていれば、あるいは生きて落ち延びる道を選択したかもしれません。そうすると、子を産んでいない文は離縁されていたかもしれませんね。「嫁して三年子なきは去れ」と言われた時代ですから・・・。となると、このドラマは存在しないわけで・・・(笑)。まあ、すべて「もしも」の話ですが。

 ドラマでは、秀次郎は母親である辰路が京都で育てていましたが、実際には、秀次郎は玄瑞の縁者である酒造家に託され、長州藩の徳佐村という場所で育ったそうです。そして明治2年(1869年)、長州藩は正式に秀次郎を玄瑞の子と認定しました。今話のドラマの設定は、明治5年(1872年)~同6年(1873年)あたりでしたね。だとすれば、秀次郎は満8歳~9歳あたりのはずです。どう見ても5~6歳だったように思うのですが・・・。また、以前、美和が京都を訪れたときに秀次郎と会ったのは、鳥羽伏見の戦いの真最中だったので慶応4年(1868年)のことで、あれから5年の歳月が経っているわけです。秀次郎、ぜんぜん成長してないし・・・(苦笑)。無粋なことを言うようですが、ちょっと設定が雑すぎじゃないですかね。

 秀次郎の存在が正式に認定されると、玄瑞の義兄にあたる楫取素彦杉民治は、秀次郎に久坂家の家督を継がせるかどうかを相談しています。当時はDNA鑑定などありませんから、本当に秀次郎が玄瑞の子であるかどうか確認できませんしね。それに、幕末の功労者である玄瑞の跡継ぎとして相応しいかどうか見定める必要もあったでしょう。結局、秀次郎が正式に久坂家を継いだのは、明治12年(1879年)9月のことでした。その間、秀次郎の養育費を工面していたのは、楫取素彦だったそうです。素彦にしてみれば、一時はわが子を養子に出した久坂家のことですから、放ってはおけなかったのでしょうね。

 秀次郎の母・辰路についてですが、先述したとおり、秀次郎を育ててはいません。自ら秀次郎の養育を放棄したのか、あるいは誰かに無理やり引き裂かれたのかはわかりませんが、実際には、明治3年(1870年)4月に下京の裕福な農家の竹岡甚之助と結婚しているそうです。芸妓としては、金持ちに身請けされて玉の輿に乗るのが一番の幸せであり、そのためには、死んだ田舎侍の忘れ形見など邪魔な存在で、とっとと正妻に押し付けたかったんじゃないでしょうか。それじゃあドラマになりませんけどね。現代でも、育児放棄して男に走る母親がたくさんいるようですが、当時の芸妓さんにとっては、それは生きる術であり、現代の無責任な母親のそれとは少し違うように思います。でも、ドラマではあくまで母子愛を強調し、子どもは実母の手で育てさせるんですね。まあ、あのように描かないと仕方がないのかもしれませんが・・・。

 余談ですが、玄瑞の死後、埋葬された遺骸を玄瑞ゆかりの女性が掘り起こし、頭部だけを持ち去ったという逸話が残っています。この女性を辰路とする説がありますが、その真偽は定かではありません。でも、もしそれが実話だとすれば、辰路の玄瑞に対する思いは相当なものだったといえるでしょうね。だとすれば、その遺児である秀次郎との別れは、断腸の思いだったかもしれません。

 成長した秀次郎は、大倉組(現在のホテルオークラや大成建設などが属していた大倉財閥の企業)に勤務し、昭和7年(1932年)に69歳で死去しています。父の玄瑞はかなりのイケメンだったといいますが、今日よく知られる玄瑞の肖像画は、秀次郎をモデルに描かれたそうです。きっと、父親に似てイケメンで聡明な人物だったのでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-05 21:24 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第27話「妻のたたかい」 ~禁門の変(蛤御門の変) その2~

 元治元年(1864年)7月19日、長州軍は京への進撃を開始します。まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。蛤御門に殺到しました。さすがは武勇の誉れ高き又兵衛、単に勇ましいだけじゃなく、よほどの実戦上手だったことがわかります。

 又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転します。その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助でした。西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。しばらくして又兵衛は胸を撃ち抜かれて落馬。死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。享年48歳。西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。

 久坂玄瑞真木和泉が率いる約500の部隊が御所に着いたときには、すでに又兵衛は討死していました。2日前の軍議で又兵衛と衝突していた玄瑞は、この惨状に及んでもなお朝廷への嘆願をあきらめておらず、前関白の鷹司輔煕屋敷に入ってへの取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた同じ松下村塾同門の寺島忠三郎と刺し違えて自刃します。玄瑞は自刃する直前、同じく腹を斬ろうとしていた同門の入江九一を制止し、急ぎ帰国して藩主父子の上洛を阻止するよう依頼しますが、不運にもその九一も、直後に鷹司屋敷の裏門で待ち伏せていた福井藩兵に槍で顔を突かれ、その衝撃で両眼が飛び出し、見るも無惨な死体となって転がりました。玄瑞25歳、忠三郎22歳、九一は28歳でした。

 前年の雪辱戦とばかりに暴発した長州藩兵は、薩会連合軍の前に潰滅してしまいましたが、その哀れな長州藩士たちに涙する前に、この戦いの巻き添えとなった京の市民たちに目を向けなければなりません。戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。21世紀のいまも変わらない事実です。

 この戦いにより、長州藩は多くの有能な人材を失いました。この発狂したとしか思えない無謀な暴挙によって古い攘夷派は壊滅、激情的な猪突猛進型の攘夷運動は、このときに終わったといえるでしょう。長州藩が目を覚ますには、あまりにも大きな代償でした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-06 16:34 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第26話「夫の約束」 ~禁門の変(蛤御門の変) その1~

 八月十八日の政変によって京を追い出されていた長州藩は、名誉回復のために挙兵して京に向かうべし!・・・とする「進発派」と、それを時期尚早とする「割拠派」に分かれていましたが、一時は割拠派の意見が主流となっていたものの、そこに池田屋事件の知らせを入ると、進発派の藩士たちは烈火のごとくいきり立ち、そして、一度は廃案になっていた上洛案に、ふたたび火がつきます。それでも、慎重論の周布政之助らは懸命に藩論の沈静化に努めますが、ついに抑えきれなくなり、「三条実美ら七卿と藩主父子の冤罪を帝に訴える」ことを名目に、挙兵が決定します。

 この頃、藩の政務座役といなっていた久坂玄瑞は、当初は周布らと同じ慎重論でしたが、この2ヵ月ほど前に京で行われていた参預会議がものわかれに終わると、これを政権奪還のチャンスととらえ、兵の上洛に肯定的な立場をとりはじめていました。しかし、玄瑞のいう上洛とは来島又兵衛らのいう勇ましい進発論ではなく、あくまで名誉回復のための嘆願が目的であり、すぐに武力行使といった考えではありませんでした。

 元治元年(1864年)6月4日、藩当局から進発令が発せられると、玄瑞は来島又兵衛、真木和泉らと共に忠勇隊、集義隊、八幡隊、義勇隊、宜徳隊、尚義隊など諸隊を率いて、6月16日に三田尻を発ちました。そして京都近郊の山崎に着いた玄瑞は、さっそく長州藩の罪の回復を訴えた嘆願書を起草し、6月24日、朝廷に奉ります。これを受けた朝廷内では、当初は長州藩に同情的な考えを持つ公卿も多く、寛大な処置を要望する声もあがっていましたが、7月12日に武装した薩摩藩兵が上洛するとムードは一変。反長州派の勢いが盛り返します。朝廷内部でも、長州勢の駆逐を求める強硬派宥和派が対立していたんですね。ただ、どれだけ宥和派が声をあげても、肝心要の孝明天皇(第121代天皇)は長州掃討を望んでいたわけですから、結果は見えていたかもしれません。孝明帝は長州がよほど嫌いだったんでしょうね。

 そんなこんなで、一触即発の空気が張りつめた7月17日、男山の石清水八幡宮で長州藩幹部が集結した最後の軍議が開かれます。この席でも、来島又兵衛ら強硬派と久坂玄瑞ら慎重派が激しく対立するのですが、その時の会話の記録は克明に残されています。それによると、玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出しますが、又兵衛は
 「進軍を躊躇するとは何たることだ!」
と詰め寄ります。これに対して玄瑞は、
 「今回の件は、もともと君主の冤罪をはらすために、嘆願を重ねる目的だったはずで、こちらから戦闘を仕掛けるのは本来の志ではない。それに、世子君定平公もまだ到着しておらず、それを待った上で進撃の是非を決するべきである。いま進軍したところで、援軍もなく、しかも、わが軍の戦闘準備も整っていない。必勝の見込みの立つまで、しばらく戦機が熟するのを待つべきである。」
と提言します。すると又兵衛は怒気を露わにし、
  「卑怯者!!!」
と一喝。(べつに卑怯者ではないと思うんですけどね。この場合、「臆病者」といったほうがよかったんじゃないかと・・・)
 「医者坊主などに戦争のことがわかるか!! もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余はわが一手をもって悪人を退治する!!」
捨て台詞を吐き、座を去ってしまいました。又兵衛の気迫に圧倒された一同は沈黙。そんななか、最年長で参謀格の真木和泉が、
 「来島くんに同意を表す」
と述べたことにより、進軍が決定しました。玄瑞はその後一言も発することなくその場を立ち去り、天王山の陣に戻ったといいます。そのとき歴史が動いた瞬間ですね。

 人は追い詰められると、過激な意見ほど魅力的に感じるといいます。後世から見れば、玄瑞の意見は至極もっともだと思えるのですが、前年の政変以来いじめられっ子だった長州藩士たちにすれば、玄瑞の冷静な分析よりも、又兵衛の勇ましい侍道の方が輝いて思えたのでしょうね。こうして、世に言う禁門の変(蛤御門の変)は始まりました。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-29 22:39 | 花燃ゆ | Comments(0)