人気ブログランキング |

タグ:井伊直弼 ( 17 ) タグの人気記事

 

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>

「その8」のつづきです。

彦根城東側の玄宮園の南にある桜橋駐車場の横の金亀児童公園に、幕末の幕府大老・井伊直弼が建てられています。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19550656.jpg


井伊直弼は文化12年(1815年)に、彦根藩第13代藩主・井伊直中14男として彦根城二ノ丸の下屋敷(槻御殿)に生まれます。

幼い頃から和歌や槍術などを学び、文武両道に優れた聡明な子どもだったといいますが、兄が13人もいて、しかも側室の子であったため、養子のもらい手もなく、ましてや藩主の座が回ってくることなど考えられず、天保2年(1831年)に父の直中が亡くなると、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間300俵の部屋住みとして過ごします。

その邸宅を、直弼は自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けました。

この不遇の時代に、直弼は国学、禅、茶道、歌道、絵画、能楽、兵学、居合、槍術等をとことんまで修めたそうで、この頃、茶道の「ちゃ」、歌道の「か」、鼓を打った時の音の「ぽん」をとって、「ちゃかぽん」とあだ名されたそうです。

ところが、弘化3年(1846年)に兄の第14代藩主・井伊直亮の世子であった井伊直元(直中の11男で、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定し、嘉永3年(1850年)、直亮の死去にともない、家督を継いで藩主となります。

なるはずのなかった藩主の座がまわってきたんですね。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19550973.jpg


藩主となった直弼は、もともと聡明な人物だったわけですから、その能力を発揮し、名君とうたわれました。

その直弼が幕府内で頭角を現したのは、嘉永7年(1854年)の2度目の黒船来航のときでした。

当時、有力藩主が集まって幕政に関与する溜間詰(たまりのまづめ)大名という集いがあり、直弼はその筆頭という立場でした。

ペリー艦隊来航に際して直弼は、溜間詰大名筆頭として開国を主張し、鎖国の維持と攘夷を主張する前水戸藩藩主・徳川斉昭激しく対立します。

結局、幕府は米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印を、朝廷の勅許を受けるということで事態の打開を図ろうとします。
また、折から幕府内では、将軍継嗣問題よる対立も深まっていました。

幕政改革を求める雄藩藩主らは、斉昭の子で英明と噂されていた一橋慶喜(のちの第15代将軍・徳川慶喜)を支持し、一橋派と呼ばれていました。

これに対して、系統重視の幕府主流派は紀伊藩主・徳川慶福(のちの第14代将軍・徳川家茂)を推し、南紀派と呼ばれます。

一橋派は、斉昭を中心に福井藩主・松平慶永(春嶽)や薩摩藩主・島津斉彬らで形成され、一方の南紀派は、直弼をはじめ、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤ら溜間詰大名が中心でした。

両者の対立は条約調印問題と将軍継嗣問題という2つの政治的対立によりさらに深まっていきますが、そんななか、安政5年(1858年)4月、直弼は大老職に電撃就任します。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19551240.jpg


大老となった直弼は、その権限を遺憾なく発揮して、かなり強引な政務を執り行います。

孝明天皇(第121代天皇)の勅許が得られずに止まっていた日米修好通商条約は、「国家存亡のときにあってやむなし」という直弼の判断により、勅許のないまま調印が行われました。

そして、その直後には、自らが推していた徳川慶福を次期将軍に決定します。

当然のごとく、この強引な手法には大きな反発がありましたが、直弼はその反発に対して、反対勢力を徹底的に処罰するというさらに強引な手法で答えます。

その強引さたるや、抵抗勢力に刺客を送った小泉純一郎元首相の比ではなく、幕臣、大名はもちろん、市井の学者や志士に至るまで、あらゆる抵抗勢力の一切排除を断行しました。

そのなかに、政敵である斉昭がいたのは言うまでもありません。

斉昭は国許永蟄居の処分となり、政治生命を断たれました。

世に言う、「安政の大獄」です。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19551625.jpg


政敵の弾圧に成功した直弼は、さらに水戸藩に圧迫を加えます。

幕府は水戸藩を威嚇して、安政6年(1859年)に朝廷より同藩に下った勅諚(条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っているということが記された書状)の返上を迫りました。

「勅諚」とは天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。

ときの帝・孝明天皇(第121代天皇)は元来、異国人の入国を病的なまでに嫌い、直弼が勅許を得ずに調印した日米修好通商条約締結を知って激怒しました。

そんな天皇の意志を利用し、薩摩の西郷吉之助(隆盛)や水戸藩士など先の将軍継嗣問題において失脚した一橋派の志士たちは、公卿への工作を行い、直弼の大老職の免職、徳川斉昭の処罰の撤回などを呼びかけ、形成の挽回をはかろうとします。

その工作により天皇を動かして出されたのが、この勅諚でした。

これが幕府にとって面白くないことであったのは言うまでもありません。

この勅諚は「戊午(ぼご)の密勅」と呼ばれ、直弼をはじめ幕府首脳部に強い危機感をもたらし、安政の大獄の引き金になったとも言われています。

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19552139.jpg

幕府の水戸藩に対する勅諚返上命令を受けて、水戸藩内では大紛争が巻き起こり、幕府の指令に忠実に従おうとする鎮派と、断固として返上反対を訴える激派とに二分します。鎮派は主に藩首脳陣で、激派の者たちは主として下級の藩士層でした。

藩内の対立が激化するなか、激派の中心人物だった高橋多一郎金子孫二郎関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。
この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。

雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。

駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。

襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。

享年46。

幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19552433.jpg

この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。

水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。

この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。

その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_19535250.jpg


作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。


「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」


この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは事実でしょうね。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_20001317.jpg


彦根城佐和口門の近くには、直弼の歌碑があります。


国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_20001846.jpg


井伊直弼に対する後世の評価は真二つにわかれます。

ひとつは、現実味のない攘夷論に与せず、客観的な視野を持って開国にふみきった開明的な政治家という評価と、もうひとつは、外圧に屈して違勅調印を行い、安政の大獄を起こして有能な人材を殺した極悪非道の政治家という批判です。

はたしてどちらが正しい評価でしょうか。

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_20002282.jpg

私は、そのどちらでもないと思います。

開国にふみきった経緯で言えば、彼は決して積極的に通商条約に調印したわけではなく、外圧におされてやむなく調印したのであり、その証拠に、条約はいわゆる不平等条約でした。

彼が行った開国は、決して先見の明といえるものではなかったでしょう。

一方で、勤王の志士たちを殺した悪逆無道の政治家という評価は、これもまた、客観性を欠いた批判といえるでしょう。

幕府大老として幕権を守ろうとするのは当然のことで、違勅調印に対する批判にしても、のちの王政復古史観皇国史観の立場からの見方で、天皇の意志を絶対視する考えの上からの批判といえます。

幕閣である直弼の立場では、天皇の意思よりも幕府を重んじるのは当然のことでした。

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>_e0158128_20002614.jpg

私は、井伊直弼批判の声をもっとも大きくしたのは、安政の大獄で吉田松陰を殺したことだと思います。

松蔭の教育を受けた者たちが、やがて明治の世の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、彼らの恩師である松蔭を殺した井伊直弼という人物は、極悪人というレッテルを貼られ、それに対する異論は封じられたのでしょう。

その意味では、直弼の最大の失策は、松蔭の処刑だったように思います。

もし、島流しぐらいにしておけば、後世にそれほど避難されることはなく、現代の小説やドラマでも、違った描かれ方をしていたかもしれません。


あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな


この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしているといわれます。

この歌を詠んだ2ヶ月後、直弼は凶刃に倒れました。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-22 23:55 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>

「その5」のつづきです。

今回は彦根城内堀の東側の外にある庭園、楽々園玄宮園を歩きます。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19291715.jpg


写真は楽々園に通じる黒御門跡です。

ここから、また別の入稿券が必要です。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19304531.jpg


門を入ってすぐに架かる橋の上から見た内堀です。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19333014.jpg


楽々園に入ってすぐに、「井伊直弼生誕地」という石碑と、槻御殿の説明板があったのですが、肝心の槻御殿は修復工事中で見れませんでした。

残念。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19343355.jpg


楽々園は、彦根藩第4代藩主・井伊直興によって建立された彦根藩の二の丸御殿で、槻御殿と呼ばれていました。

槻御殿は延宝5年(1677年)に着工し、同7年に完成した下屋敷で、その木材はすべてを使用していたことから、そう呼ばれたそうです。

第15代藩主・井伊直弼もここで生まれました。

第12代藩主・井伊直亮が文化年間(1804年~1817年)に楽々の間を増築して以来、槻御殿という名称よりも楽々園の名のほうが有名になったそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19361452.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19370303.jpg


楽々園御書院の玄関です。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19511501.jpg


こちらは南東側から見た御書院


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19511905.jpg


左が地震の間、右が楽々の間です。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_19530610.jpg


庭園です。

現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20030916.jpg


こちらは八景亭(臨池閣)


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20044463.jpg


こちらは、玄宮園内にある鳳翔台

鳳凰が大空に向かって舞い上がる場所という意味で名付けられたと伝わる高台で、江戸時代に描かれた「玄宮園図」玄宮園十景の1つとして描かれているそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20093692.jpg


そして、広大な玄宮園です。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20121255.jpg


玄宮園は、江戸時代には「槻之御庭」と呼ばれていました。

玄宮園の名は、古代中国の宮廷の名によって命名されたと考えられているそうです。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20121565.jpg


玄宮園は、広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20062868.jpg


西に天守が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20135287.jpg


ズームします。

ここを訪れた昨年の平成30年(2018年)7月1日、天守は改修工事中で足場がかけられていました。

ちょっと残念。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20135901.jpg


いろんな角度から天守と庭園を見てみましょう。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20165291.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20165858.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20170383.jpg


正直なところ、わたしは城跡は大好きで少しばかり詳しいつもりでいますが、日本庭園にはそれほど興味はなく、ここでウンチクを語るだけの知識がありません。


国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20192148.jpg
国宝・彦根城を歩く。 その6 <楽々園~玄宮園>_e0158128_20192807.jpg


井伊家のお殿さんの隠居場ということで、とりあえずひと通り歩きました。

「その7」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-16 00:24 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>

「その3」のつづきです。

本丸をひと通り見て回ったので、いよいよ天守に向かいます。

彦根城天守は周知のとおり現存12天守のなかのひとつで、国宝5天守のひとつでもあります。

外観は三重、内部は三階地下一階という構造で、国宝5天守のなかでは最も小規模な天守です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17043637.jpg


ここを訪れた昨年の平成30年(2018年)7月1日、天守は改修工事中で足場がかけられていました。

ちょっと残念。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17043932.jpg


初重の大入母屋の上に二重の望楼部を乗せた形式で、梁行(東西面)に対して桁行(南北面)が2倍近くもある長方形のため、外観は東西面と南北面ではまったく異なります。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17044149.jpg


屋根は切妻破風、入母屋破風、唐破風を多様に配しており、2階と3階には花頭窓、3階には高欄付きの廻縁を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい天守です。

さすがは徳川譜代大名の筆頭である井伊家の居城という感じですね。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17044479.jpg


彦根藩の歴史を記した『井伊年譜』によると、彦根城天守は京極高次が城主を務めた大津城からの移築とあり、実際に昭和の解体修によって、大津城の四重天守を三重に改修して移築したことが判明しました。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17095351.jpg


そして、三階隅木に残る文字から、天守は慶長11年(1606年)から翌年の完成と推定されています。

彦根城は関ケ原の戦い後に石田三成の居城だった佐和山城に入った井伊直政が、すぐ近くに新しい城を築く計画して築城を開始したものですが、しかし、直政は戦の傷が癒えずに間もなく死去し、その計画は家督を継いだ井伊直継に引き継がれました。

したがって、この天守を直政は見ていません。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17095550.jpg


こちらの面は足場に覆われてよく見れません。

残念。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17115199.jpg


その裏側は、付櫓続櫓(多聞櫓)が連結しています。

彦根城天守には出入口が2ヶ所、写真右側の続櫓(多聞櫓)を経由して付櫓の中から入るルートと、玄関口から天守台石垣内に設けられた地下室を経て一階へと入るルートがあります。

現在の見学ルートは前記が入口、後記が出口となっています。

それでは、中に入りましょう。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17141407.jpg


続櫓から入って付櫓の中です。

入隅(消化器の置いてある隅)が鈍角になっています。

曲がった梁が個性的です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17150961.jpg


付櫓から天守内に入る階段です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17185249.jpg


天守1階の入側です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17185518.jpg


入側の壁には矢狭間があります。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17185822.jpg


こちらの入側の隅に、誰かの像があります。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17190104.jpg


井伊直弼の像でした。

井伊家といえば、中興の祖にして彦根藩初代藩主の井伊直政か、幕末の第15代藩主にして幕府大老を務めたこの井伊直弼となりますね。

もっとも、最近は大河ドラマの影響で井伊直虎という声もありますが。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17203994.jpg


そして入側をぐるっと1周。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17222782.jpg


入側を1周したので、その中の身舎に入ります。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17245704.jpg


身舎にある急な階段を上って2階に上がります。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17264271.jpg


2階の身舎です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17282645.jpg


身舎は1階と2階はほぼ同規模なので、外側が小さくなった分だけ2階の入側の幅は狭くなっています。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17264535.jpg


3階に上がる階段です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17282901.jpg


急です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17340864.jpg


3階です。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17341010.jpg


3階も中央に身舎、周囲に入側が巡る構造は同じです。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17341351.jpg


入側の足元にある小さな引違い板戸です。

この中は切妻破風の屋根裏の空間を利用して小部屋がひとつ設けられており、隠狭間が2つあるそうです。

現在、中には入れません。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17363564.jpg


天守最上階からの西側の眺望です

琵琶湖が望めます。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17364909.jpg


北東には石田三成佐和山城跡が見えます。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17364183.jpg


佐和山城跡にズーム。

「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」

とうたわれるほどの名城だったとか。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17384705.jpg


最上階には、国宝指定書が展示されていました。

スミマセン。

わたしが写り込んじゃっています。


国宝・彦根城を歩く。 その4 <国宝天守>_e0158128_17401381.jpg


さて、天守をすべて攻略しました。

「その5」に続きます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-01-14 03:09 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その3 「桜田門」

「その2」の続きです。

皇居正門から二重橋濠沿いに南へ歩きます。

打込み接ぎの高い石垣が続きます。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_16504163.jpg


濠が直角に西へ曲がったところに、渡櫓門が見えます。

皇居から霞が関エリアに抜ける「桜田門」です。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_16523842.jpg


桜田門といえば、なんと言っても思い出されるのは、幕末に起きた「桜田門外の変」でしょう。

安政7年3月3日(1860年3月24日)、ここ江戸城桜田門外水戸藩脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老・井伊直弼暗殺した事件です。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_16581723.jpg


安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政6年(1859年)が暮れて、大老・井伊直弼独裁専制志士弾圧に反発する空気はいよいよ緊迫し、「除奸」すなわち奸物・井伊を暗殺しようという計画が、水戸藩士と薩摩藩士のあいだで進められました。

過激派の中心人物だった水戸藩士の高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_16582106.jpg


この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。

雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の浪士たちの手によってさんざんに斬りつけられます。

駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。

襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。

享年46。

幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_16582460.jpg


この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。

水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。

この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。

その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_16582726.jpg


作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。


「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」


この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは事実でしょうね。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_17032679.jpg


写真は桜田門外側の高麗門です。

この高麗門と上の渡櫓門枡形構造になっています。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_17033273.jpg


説明板によると、この門の正式名称は「外桜田門」というそうで、「その1」で紹介した桔梗門「内桜田門」といったそうです。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_17033687.jpg


「桜田門外の変」と呼ばれるくらいですから、この高麗門の外で起きたのでしょうね。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_17052592.jpg
江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_17052814.jpg


桜田門前の交差点です。

このあたりで事件が起きたのかもしれません。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_17081377.jpg


桜田門西側の桜田濠


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_17081731.jpg


桜田門東側の凱旋濠です。


江戸城を歩く。 その3 「桜田門」_e0158128_17095646.jpg


桜田門だけでずいぶん長くなっちゃいました。

次稿に続きます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-06 23:47 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」

前稿で紹介した詩仙堂から200mほど南下したところにある金福寺は、幕末の女スパイ・村山たかが晩年を過ごした隠棲地と伝えられます。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_13475602.jpg


金福寺は貞観6年(864年)に慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建したと伝えられる古いお寺です。

その後、荒廃していましたが、元禄年間(1688年~1704年)に圓光寺鉄舟によって再興されました。

その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされたため、のちに芭蕉庵と名付けられたそうですが、その後、荒廃していたため、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門が安永5年(1776年)に再興しました。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_13534760.jpg


幕末、幕府大老・井伊直弼スパイとして働いた村山たかが尼として入寺し、ここで生涯を閉じました。

山門横には、たかが創建したとされる弁天堂があります。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_13535144.jpg


20歳で祇園の芸妓となったたかは、男児を出産するもシングルマザーとなり、子供を連れて生まれ故郷の彦根に帰りますが、そこで、当時、部屋住みとして過ごしていた井伊直弼と出会って男女の関係となります。

直弼は彦根藩第14代藩主・井伊直中十四男で、本来は藩主の座に就く可能性はほとんどゼロに近い境遇でした。

だから、芸者崩れと情交を結んでも、誰も咎めたりはしなかったのでしょうね。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_13535544.jpg


ところが、直弼はその後、数奇な運命によって藩主の座に就き、さらに、幕末の混乱した政局のなか、幕府大老職に就任します。

たかは捨てられました。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_13535826.jpg


しかし、その後、たかは直弼のブレーンだった長野主膳に保護され(一説には男女の仲となり)、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとして暗躍します。

彼女が主膳に送ったタレコミの手紙が何通も残っているそうです。

たかは日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在となります。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_13573095.jpg


安政7年3月3日(1860年3月24日)に起きた桜田門外の変で直弼が暗殺されると、文久2年(1862年)にたかも尊攘派の志士たちに捕らえられ、三条河原に3日3晩生き晒しにされましたが、女性ということで殺害は免れます。

しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに土佐藩の岡田以蔵らによって斬殺され、首を晒されました。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_14004950.jpg


その後、たかは出家してここ金福寺に入り、明治9年(1876年)に67歳で亡くなるまでの14年間を尼僧としてここで過ごします。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_14005249.jpg


本堂内には、たかにまつわる品々が展示されています。

上の写真は、「たか女晒し者の図」


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_14041905.jpg


こちらは、たかが59歳のときに刺繍した壇引だそうです。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_14043029.jpg


たかの筆跡だそうです。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_14044165.jpg


こちらは、長野主膳の妻・多起に宛てた書状だそうです。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_14072309.jpg


境内の裏山には、たかの参り墓があります。

彼女の本墓は圓光寺にありますが、ここ金福寺にも、彼女の菩提を弔うための本墓の土を埋め、彼女の筆跡を刻んで参り墓としたそうです。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_14072659.jpg


たかは、舟橋聖一の小説『花の生涯』ヒロインとして、昭和になってその名を広く知られるようになりました。

『花の生涯』は、NHK大河ドラマの第1作目となった作品でもあります。

自称大河フリークのわたしですが、さすがにこの作品は生まれる前なので知りません。


幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」_e0158128_14073142.jpg


金福寺には、芭蕉庵や与謝蕪村の墓などもありますが、幕末シリーズとは関係ないので、また別の機会に紹介します。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-08-25 00:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(5)  

幕末京都逍遥 その89 「若州小浜藩邸跡」

二条城南門から100mほど南下したあたりに、「若州小浜藩邸跡」と刻まれた石碑があります。

このあたりには、かつて若狭小浜藩の京屋敷がありました。


幕末京都逍遥 その89 「若州小浜藩邸跡」_e0158128_20133722.jpg


小浜藩主の酒井家は、江戸時代、京都所司代を3代が務めた譜代大名家でした。

特に、幕末の最後の14代当主・酒井忠義は、天保14年(1843年)から嘉永3年(1850年)の8年間と、安政5年(1858年)から文久2年(1862年)の4年間の計12年間の長きに渡って京都所司代を務めました。

2回目の京都所司代に着任した忠義は、大老・井伊直弼の腹心として安政の大獄を指揮します。

かつて若狭小浜藩の家臣だった梅田雲浜を逮捕したのも、この忠義でした。

そのため忠義は尊王攘夷派に恨まれ、寺田屋事件では標的にされています。


幕末京都逍遥 その89 「若州小浜藩邸跡」_e0158128_20134180.jpg


また、この屋敷は、将軍後見職だった一橋慶喜が、上洛後の文久3年(1863)12月から、最後の将軍・徳川慶喜として二条城に入る慶応3年(1867)9月までの3年10ヶ月を過ごした場所でもあります。

慶喜はここで、京都守護職や老中、所司代らと協議を重ね、大政奉還の構想を練ったと言われています。


幕末京都逍遥 その89 「若州小浜藩邸跡」_e0158128_20134419.jpg


石碑の後ろに建てられていた説明板によると、その敷地は東西220m、神泉苑町通から智恵光院通まで南北260m、御池通から三条通まで、その他、家臣の屋敷が西側につづき、これらを含めると約2万坪の広大な藩邸だったそうです。


幕末京都逍遥 その89 「若州小浜藩邸跡」_e0158128_20134868.jpg


石碑所は、「開陽堂」という刀剣・古美術を扱うお店の前に建てられています。

店頭には、幕末京洛の図や刀剣が掲げられています。

いかにも京都らしいお店です。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-07-07 05:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その45 「梅田雲浜邸跡」

京都市営地下鉄「烏丸御池駅」を地上に上がって100mほど北上したオフィス街の歩道に、「梅田雲浜邸址」と刻まれた石碑があります。

大正6年(1917年)に建てられたもののようです。


幕末京都逍遥 その45 「梅田雲浜邸跡」_e0158128_19582244.jpg


「その12」の稿でも紹介しましたが、梅田雲浜は小浜藩出身の儒学者で、幕末初期の攘夷運動を牽引した思想家でした。

しかし、幕府大老・井伊直弼の進めた「安政の大獄」による逮捕者第1号となり、激しい拷問を受けたすえ、獄中死してしまいます。


幕末京都逍遥 その45 「梅田雲浜邸跡」_e0158128_19582807.jpg


雲浜が幕府に捕えられたとき、この地にあった自宅にいました。

幕吏が「御上意」と叫んで屋敷内に踏み込もうとすると、雲浜は「少々御猶予を願いたい」と言い、着物を着替えて髪を結い直し、身なりを整えたといいます。

そして、を引き寄せて次の2首の歌を詠みました。


契りにし そのあらましも 今はただ おもひ絶えよと 秋風ぞ吹く

君が代を 思ふ心の 一筋に 吾身ありとも 思はざりけり


最初の歌には、身を殺して、できる限りのことを全てやり尽くし、後は全て天命に委ねるという清々しい気持ちが詠われています。


幕末京都逍遥 その45 「梅田雲浜邸跡」_e0158128_19583291.jpg


幕吏は雲浜を駕籠で連行しようとしますが、雲浜は「俯仰天地に恥じることはない。」と言って駕籠を拒否し、縄付のまま堂々と奉行所まで闊歩したといいます。

さすがは、吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」と呼ばれた人物といえるエピソードです。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-05-02 00:04 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第16話「斉彬の遺言」 ~戊午の密勅~

西郷どん 第16話「斉彬の遺言」 ~戊午の密勅~_e0158128_13034480.jpg 西郷吉之助(隆盛)が主君・島津斉彬急死を知ったのは、安政5年7月27日(1858年9月4日)頃、場所はおそらく京都の西郷たちの定宿・鍵直旅館だったと思われます。その報せは、まさに青天の霹靂、西郷にとっては人生最大の衝撃だったであろうことは想像に難しくありません。作家・海音寺潮五郎の言葉を借りると、西郷にとって斉彬は主君であり、恩師であり、慈父であり、でした。報せを受けた西郷は、すぐさま殉死を決意したといいます。それを思い止まらせたのが、清水寺塔頭・成就院の住職・月照でした。


 月照は嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、京や大阪で熱心に尊王攘夷の必要性を説いてまわっていたことから、尊王僧という異名を持っていたほどの尊王論者でした。また、先の将軍継嗣問題では、一橋派に与しており、西郷たちの政治活動にも、一方ならぬ協力をしてきた人物でもあります。当然、大老・井伊直弼の独断での日米修好通商条約調印に対しては、激しく反発します。


 一方、江戸では井伊の専横に対して一橋派の怒りは沸点に達します。そして、その急先鋒である水戸藩主の徳川斉昭、その息子の一橋慶喜、越前藩主の松平春嶽らは、安政5年(1858年)6月24日、カンカンに怒って江戸城に登城し、直弼に面会して激しくクレームをつけまくりました。これを受けた井伊は、ドラマでは「恐れ入りたてまつります。」ひょうひょうといなしていましたが、実際の井伊は、「呼びもしないのに無断で城内に上がってきて文句をいうなどけしからん!」と、斉昭は謹慎、慶喜は登城差し控え、春嶽と尾張藩主の徳川慶勝には隠居謹慎の処分を命じます。相手が親藩大藩の殿様であってもやりたい放題でした。


政敵を一掃した直弼の権力はいっそう高まり、ほとんど独裁状態となりますが、そうなると、当然、それを叩き潰そうという動きがはじまります。このとき最も働いたのが、梅田雲浜頼三樹三郎梁川星巌ら尊王派の学者たち、そして西郷でした。そんな彼らの働きによって、井伊大老を降ろせという幕府改革の勅諚が、孝明天皇(第121代天皇)より水戸藩へ下ります(異説あり)。これを、後世に「戊午(ぼご)の密勅」といいます。「密勅」とは、読んで字のごとく秘密の勅諚ですね。勅諚とは、天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。


西郷どん 第16話「斉彬の遺言」 ~戊午の密勅~_e0158128_20590455.jpg この情報を知った直弼は「これは反乱である!」大激怒し、水戸藩にその「勅書を返せ!」と迫り、そして朝廷に対して「なぜそんなものを出したのか!」と、猛烈に抗議します。朝廷に幕府の弾圧がかかるとなると、これまた前代未聞のこと。そこで朝廷を守るため、薩摩藩や越前藩が兵を挙げて京都に向かっている、といったが広まります。こうなると直弼は、その噂が本当なのかデマなのかを確認することなく、力には力で対抗する構えを見せ、徹底的な大弾圧を開始しました。その対象は、将軍継嗣問題で一橋派に与した者たち、梅田雲浜密勅問題で動いた者たちすべてひっ捕まえて裁判にかける。こうして、安政の大獄がはじまります。


 幕府方の追求は、西郷や月照にも及びます。西郷は同じく一橋派の公卿・近衛忠煕から月照の身柄の保護を依頼され、国元の薩摩藩に月照を亡命させる計画を立てます。ところが、その矢先に斉彬の訃報に接するんですね。そして、冒頭で紹介した月照が殉死しようとしていた西郷を諭したという逸話に繋がります。月照の助言によって殉死を思いとどまった西郷は、ともかくも月照を逃がすべく薩摩に向かいます。しかし、斉彬亡きあとの薩摩藩は、月照の身柄を受け入れられるほどの包容力はありませんでした。斉彬の死で大きな後ろ盾を失った西郷は、ここでまた、人生最大のピンチに立たされることになります。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-05-01 01:09 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(0)  

西郷どん 第15話「殿の死」 ~井伊直弼の大老就任と島津斉彬の死~

西郷どん 第15話「殿の死」 ~井伊直弼の大老就任と島津斉彬の死~_e0158128_20590455.jpg 安政5年4月23日(1858年6月4日)、彦根藩主の井伊直弼が幕府大老職に就任します。そのきかっけは、孝明天皇(第121代天皇)からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が4月21日に江戸に戻り、第14代将軍・徳川家定に報告した際、堀田は松平春嶽を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定は「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」と言ったため、急遽、話が決まったといいます。


大老に就任した井伊は、6月19日に孝明天皇の勅許を得られぬまま日米修好通商条約調印します。この条約締結は周囲の反対を押し切っての井伊の専横のように思われがちですが、実は、井伊自身は熱心な尊王家で、ギリギリまで天皇の承認を得て条約を締結すべきだと訴えていました。しかし、情勢がそれを許さず、やむなく調印を認めるに至ります。尊王家としての思想を大老職としての立場が遮ったわけです。


 また、家定の将軍継嗣問題では、6月25日に紀州和歌山藩主の徳川慶福(のちの徳川家茂)を後継とする最終決定を下します。この問題ついては、井伊は予てから血筋が現将軍の家定に近い慶福を推す立場を取ってきましたが、これも、井伊の専横で決まったわけではなく、何より家定の意志に基づく決定でした。ドラマ中では、病床の家定の言葉をうまく利用して側近たちにガセ情報を流したように描かれていましたが、あれはドラマの創作ですね。井伊はそんな姑息な陰謀家ではなかったでしょう。ただ、井伊の基本的な考え方は、臣下が将軍継嗣などの問題には本来口を挟むべきではなく、あくまで将軍の意思に基づかねばならない、というものでした。その将軍・家定が慶福を強く推しているのだから、井伊にすれば、これは当然至極の決定だったわけです。


西郷どん 第15話「殿の死」 ~井伊直弼の大老就任と島津斉彬の死~_e0158128_18082794.jpg しかし、将軍・家定の岳父であり一橋派の急先鋒だった島津斉彬にとっては、この井伊の決定は許しがたいものでした。そこで斉彬は、形成逆転のプランを画策します。そのプランとは、斉彬自身が兵を率いて京都に乗り込み、勅命を奉じて幕政を改革し、公武合体を実現するというものでした。ドラマ中では、西郷吉之助(隆盛)の進言によって斉彬が上洛を決意していましたが、もちろんドラマの創作です。ここでいう「公武」とは、一般的な解釈の「朝廷」「幕府」だけを指すものではなく、この場合の「武」は、幕府と諸藩を意味しています。つまり、朝廷、幕府、諸藩三者が一体となった体制、すなわち挙国一致体制の国家構想でした。そして、その下準備のために、西郷は一足先に上洛していました。しかし、そこで西郷は、思いもしなかった報せを受けることになります。斉彬の死です。


 7月8日、斉彬は居城の鶴丸城下にあった調練場で軍事演習を敢行します。ところが、炎天下で操練を見守っていたせいか、極度の疲労状態となり、10日、11日になると高熱下痢に襲われ、16日に没します。享年50。あまりにも突然の死でした。


 その死因については、当初はコレラと診断されたそうですが、当時はまだ薩摩でコレラは流行っていなかったとして、のちに「細菌性赤痢」によるものと改められました。一方で、かつてのお由羅騒動の記憶が抜けない斉彬派の薩摩藩士たちのあいだでは、久光派による毒殺に違いないといったが当時から囁かれており、斉彬と親交のあったオランダ医・ポンペもその噂を耳にしたといいますが、当然ながら毒殺の証拠は見つかっていません。現在では学説的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 『人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。』


 毒殺かどうかはともかく、斉彬の死によって薩摩藩の舵取りは大きく変化し、西郷の運命にも大きな影響を与えることになります。歴史の「もしも」はナンセンスですが、もしも斉彬があと10年生きていれば、西郷は一介の薩摩藩士として終わったかもしれません。「お前はわしになれ!」と言ったかどうかはわかりませんが、斉彬の遺志を継いだことが、後世の大西郷の原点であったことは、間違いないでしょう。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-04-23 21:04 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その12 「東山霊山護国神社・安祥院~梅田雲浜の墓」

東山霊山の北角に、梅田雲浜の墓碑が他の墓碑とは少し距離をおいて特別扱いのように祀られています。

小浜藩士で儒学者の雲浜は、幕末初期の攘夷運動を牽引した思想家でした。

雲浜は8歳にして藩校・順造館に入り、その英明さは大いに期待されましたが、頭脳が切れすぎたせいか、立場をわきまえずにものを言うところがあり、藩主への建言が幕府批判と取られ、藩籍を剥奪されてしまいます。

黒船来航以前に公然と幕府を批判したのは、雲浜だけだったんじゃないでしょうか。


幕末京都逍遥 その12 「東山霊山護国神社・安祥院~梅田雲浜の墓」_e0158128_21253618.jpg

その翌年にペリー艦隊が来航すると、尊皇攘夷を求める志士たちの急先鋒となり、幕府を激しく批判しました。

これが、幕府大老・井伊直弼の知るところとなり、梁川星巌、頼三樹三郎、池内大学と共に悪謀四天王のひとりとされ、「安政の大獄」による逮捕者第1号となります。

逮捕の最高責任者である京都所司代の役に就いていたのは、雲浜を小浜藩から放逐した旧藩主・酒井忠義だったというのも、皮肉な話です。


幕末京都逍遥 その12 「東山霊山護国神社・安祥院~梅田雲浜の墓」_e0158128_21254260.jpg

雲浜はその取り調べにおいても、激しい拷問を受けても一切口を割らず、最期は刑死ではなく、獄中での病死だったといいます。


幕末京都逍遥 その12 「東山霊山護国神社・安祥院~梅田雲浜の墓」_e0158128_21281574.jpg

梅田雲浜の墓は、ここ東山霊山のすぐ近くの安祥院にもあります。

正確には、安祥院あるのが墓で、東山霊山にあるのは慰霊碑のようですね。


幕末京都逍遥 その12 「東山霊山護国神社・安祥院~梅田雲浜の墓」_e0158128_21281971.jpg

実は、わたしはここ安祥院に墓があることを知らなかったのですが、この日、東山から五条に向かって坂を下っていたところ、たまたま安祥院の門横に建てられた「梅田雲浜先生墓」と刻まれた石碑を見つけ、ここを訪れました。

ほんと偶然の発見です。


幕末京都逍遥 その12 「東山霊山護国神社・安祥院~梅田雲浜の墓」_e0158128_21282225.jpg

墓は他の墓石のなかに同じように立ち並んでいて、特別扱いはされていません。

墓の前も狭く、のけぞって撮影したのが上の写真です。

橋本左内吉田松陰などと同じく、幕末の動乱の導火線に火をつけた梅田雲浜。

かれら思想家の命を賭けた叫びが、やがて坂本龍馬西郷隆盛ら活動家に引き継がれていきます。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-03-10 11:35 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)