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タグ:井伊直弼 ( 14 ) タグの人気記事

 

江戸城を歩く。 その3 「桜田門」

「その2」の続きです。

皇居正門から二重橋濠沿いに南へ歩きます。

打込み接ぎの高い石垣が続きます。


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濠が直角に西へ曲がったところに、渡櫓門が見えます。

皇居から霞が関エリアに抜ける「桜田門」です。


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桜田門といえば、なんと言っても思い出されるのは、幕末に起きた「桜田門外の変」でしょう。

安政7年3月3日(1860年3月24日)、ここ江戸城桜田門外水戸藩脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老・井伊直弼暗殺した事件です。


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安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政6年(1859年)が暮れて、大老・井伊直弼独裁専制志士弾圧に反発する空気はいよいよ緊迫し、「除奸」すなわち奸物・井伊を暗殺しようという計画が、水戸藩士と薩摩藩士のあいだで進められました。

過激派の中心人物だった水戸藩士の高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。


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この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。

雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の浪士たちの手によってさんざんに斬りつけられます。

駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。

襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。

享年46。

幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。


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この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。

水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。

この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。

その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。


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作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。


「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」


この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは事実でしょうね。


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写真は桜田門外側の高麗門です。

この高麗門と上の渡櫓門枡形構造になっています。


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説明板によると、この門の正式名称は「外桜田門」というそうで、「その1」で紹介した桔梗門「内桜田門」といったそうです。


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「桜田門外の変」と呼ばれるくらいですから、この高麗門の外で起きたのでしょうね。


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桜田門前の交差点です。

このあたりで事件が起きたのかもしれません。


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桜田門西側の桜田濠


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桜田門東側の凱旋濠です。


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桜田門だけでずいぶん長くなっちゃいました。

次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-06 23:47 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」

前稿で紹介した詩仙堂から200mほど南下したところにある金福寺は、幕末の女スパイ・村山たかが晩年を過ごした隠棲地と伝えられます。


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金福寺は貞観6年(864年)に慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建したと伝えられる古いお寺です。

その後、荒廃していましたが、元禄年間(1688年~1704年)に圓光寺鉄舟によって再興されました。

その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされたため、のちに芭蕉庵と名付けられたそうですが、その後、荒廃していたため、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門が安永5年(1776年)に再興しました。


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幕末、幕府大老・井伊直弼スパイとして働いた村山たかが尼として入寺し、ここで生涯を閉じました。

山門横には、たかが創建したとされる弁天堂があります。


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20歳で祇園の芸妓となったたかは、男児を出産するもシングルマザーとなり、子供を連れて生まれ故郷の彦根に帰りますが、そこで、当時、部屋住みとして過ごしていた井伊直弼と出会って男女の関係となります。

直弼は彦根藩第14代藩主・井伊直中十四男で、本来は藩主の座に就く可能性はほとんどゼロに近い境遇でした。

だから、芸者崩れと情交を結んでも、誰も咎めたりはしなかったのでしょうね。


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ところが、直弼はその後、数奇な運命によって藩主の座に就き、さらに、幕末の混乱した政局のなか、幕府大老職に就任します。

たかは捨てられました。


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しかし、その後、たかは直弼のブレーンだった長野主膳に保護され(一説には男女の仲となり)、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとして暗躍します。

彼女が主膳に送ったタレコミの手紙が何通も残っているそうです。

たかは日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在となります。


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安政7年3月3日(1860年3月24日)に起きた桜田門外の変で直弼が暗殺されると、文久2年(1862年)にたかも尊攘派の志士たちに捕らえられ、三条河原に3日3晩生き晒しにされましたが、女性ということで殺害は免れます。

しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに土佐藩の岡田以蔵らによって斬殺され、首を晒されました。


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その後、たかは出家してここ金福寺に入り、明治9年(1876年)に67歳で亡くなるまでの14年間を尼僧としてここで過ごします。


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本堂内には、たかにまつわる品々が展示されています。

上の写真は、「たか女晒し者の図」


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こちらは、たかが59歳のときに刺繍した壇引だそうです。


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たかの筆跡だそうです。


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こちらは、長野主膳の妻・多起に宛てた書状だそうです。


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境内の裏山には、たかの参り墓があります。

彼女の本墓は圓光寺にありますが、ここ金福寺にも、彼女の菩提を弔うための本墓の土を埋め、彼女の筆跡を刻んで参り墓としたそうです。


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たかは、舟橋聖一の小説『花の生涯』ヒロインとして、昭和になってその名を広く知られるようになりました。

『花の生涯』は、NHK大河ドラマの第1作目となった作品でもあります。

自称大河フリークのわたしですが、さすがにこの作品は生まれる前なので知りません。


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金福寺には、芭蕉庵や与謝蕪村の墓などもありますが、幕末シリーズとは関係ないので、また別の機会に紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-25 00:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(5)  

幕末京都逍遥 その89 「若州小浜藩邸跡」

二条城南門から100mほど南下したあたりに、「若州小浜藩邸跡」と刻まれた石碑があります。

このあたりには、かつて若狭小浜藩の京屋敷がありました。


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小浜藩主の酒井家は、江戸時代、京都所司代を3代が務めた譜代大名家でした。

特に、幕末の最後の14代当主・酒井忠義は、天保14年(1843年)から嘉永3年(1850年)の8年間と、安政5年(1858年)から文久2年(1862年)の4年間の計12年間の長きに渡って京都所司代を務めました。

2回目の京都所司代に着任した忠義は、大老・井伊直弼の腹心として安政の大獄を指揮します。

かつて若狭小浜藩の家臣だった梅田雲浜を逮捕したのも、この忠義でした。

そのため忠義は尊王攘夷派に恨まれ、寺田屋事件では標的にされています。


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また、この屋敷は、将軍後見職だった一橋慶喜が、上洛後の文久3年(1863)12月から、最後の将軍・徳川慶喜として二条城に入る慶応3年(1867)9月までの3年10ヶ月を過ごした場所でもあります。

慶喜はここで、京都守護職や老中、所司代らと協議を重ね、大政奉還の構想を練ったと言われています。


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石碑の後ろに建てられていた説明板によると、その敷地は東西220m、神泉苑町通から智恵光院通まで南北260m、御池通から三条通まで、その他、家臣の屋敷が西側につづき、これらを含めると約2万坪の広大な藩邸だったそうです。


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石碑所は、「開陽堂」という刀剣・古美術を扱うお店の前に建てられています。

店頭には、幕末京洛の図や刀剣が掲げられています。

いかにも京都らしいお店です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-07 05:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その45 「梅田雲浜邸跡」

京都市営地下鉄「烏丸御池駅」を地上に上がって100mほど北上したオフィス街の歩道に、「梅田雲浜邸址」と刻まれた石碑があります。

大正6年(1917年)に建てられたもののようです。


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「その12」の稿でも紹介しましたが、梅田雲浜は小浜藩出身の儒学者で、幕末初期の攘夷運動を牽引した思想家でした。

しかし、幕府大老・井伊直弼の進めた「安政の大獄」による逮捕者第1号となり、激しい拷問を受けたすえ、獄中死してしまいます。


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雲浜が幕府に捕えられたとき、この地にあった自宅にいました。

幕吏が「御上意」と叫んで屋敷内に踏み込もうとすると、雲浜は「少々御猶予を願いたい」と言い、着物を着替えて髪を結い直し、身なりを整えたといいます。

そして、を引き寄せて次の2首の歌を詠みました。


契りにし そのあらましも 今はただ おもひ絶えよと 秋風ぞ吹く

君が代を 思ふ心の 一筋に 吾身ありとも 思はざりけり


最初の歌には、身を殺して、できる限りのことを全てやり尽くし、後は全て天命に委ねるという清々しい気持ちが詠われています。


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幕吏は雲浜を駕籠で連行しようとしますが、雲浜は「俯仰天地に恥じることはない。」と言って駕籠を拒否し、縄付のまま堂々と奉行所まで闊歩したといいます。

さすがは、吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」と呼ばれた人物といえるエピソードです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-02 00:04 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第16話「斉彬の遺言」 ~戊午の密勅~

e0158128_13034480.jpg 西郷吉之助(隆盛)が主君・島津斉彬急死を知ったのは、安政5年7月27日(1858年9月4日)頃、場所はおそらく京都の西郷たちの定宿・鍵直旅館だったと思われます。その報せは、まさに青天の霹靂、西郷にとっては人生最大の衝撃だったであろうことは想像に難しくありません。作家・海音寺潮五郎の言葉を借りると、西郷にとって斉彬は主君であり、恩師であり、慈父であり、でした。報せを受けた西郷は、すぐさま殉死を決意したといいます。それを思い止まらせたのが、清水寺塔頭・成就院の住職・月照でした。


 月照は嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、京や大阪で熱心に尊王攘夷の必要性を説いてまわっていたことから、尊王僧という異名を持っていたほどの尊王論者でした。また、先の将軍継嗣問題では、一橋派に与しており、西郷たちの政治活動にも、一方ならぬ協力をしてきた人物でもあります。当然、大老・井伊直弼の独断での日米修好通商条約調印に対しては、激しく反発します。


 一方、江戸では井伊の専横に対して一橋派の怒りは沸点に達します。そして、その急先鋒である水戸藩主の徳川斉昭、その息子の一橋慶喜、越前藩主の松平春嶽らは、安政5年(1858年)6月24日、カンカンに怒って江戸城に登城し、直弼に面会して激しくクレームをつけまくりました。これを受けた井伊は、ドラマでは「恐れ入りたてまつります。」ひょうひょうといなしていましたが、実際の井伊は、「呼びもしないのに無断で城内に上がってきて文句をいうなどけしからん!」と、斉昭は謹慎、慶喜は登城差し控え、春嶽と尾張藩主の徳川慶勝には隠居謹慎の処分を命じます。相手が親藩大藩の殿様であってもやりたい放題でした。


政敵を一掃した直弼の権力はいっそう高まり、ほとんど独裁状態となりますが、そうなると、当然、それを叩き潰そうという動きがはじまります。このとき最も働いたのが、梅田雲浜頼三樹三郎梁川星巌ら尊王派の学者たち、そして西郷でした。そんな彼らの働きによって、井伊大老を降ろせという幕府改革の勅諚が、孝明天皇(第121代天皇)より水戸藩へ下ります(異説あり)。これを、後世に「戊午(ぼご)の密勅」といいます。「密勅」とは、読んで字のごとく秘密の勅諚ですね。勅諚とは、天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。


e0158128_20590455.jpg この情報を知った直弼は「これは反乱である!」大激怒し、水戸藩にその「勅書を返せ!」と迫り、そして朝廷に対して「なぜそんなものを出したのか!」と、猛烈に抗議します。朝廷に幕府の弾圧がかかるとなると、これまた前代未聞のこと。そこで朝廷を守るため、薩摩藩や越前藩が兵を挙げて京都に向かっている、といったが広まります。こうなると直弼は、その噂が本当なのかデマなのかを確認することなく、力には力で対抗する構えを見せ、徹底的な大弾圧を開始しました。その対象は、将軍継嗣問題で一橋派に与した者たち、梅田雲浜密勅問題で動いた者たちすべてひっ捕まえて裁判にかける。こうして、安政の大獄がはじまります。


 幕府方の追求は、西郷や月照にも及びます。西郷は同じく一橋派の公卿・近衛忠煕から月照の身柄の保護を依頼され、国元の薩摩藩に月照を亡命させる計画を立てます。ところが、その矢先に斉彬の訃報に接するんですね。そして、冒頭で紹介した月照が殉死しようとしていた西郷を諭したという逸話に繋がります。月照の助言によって殉死を思いとどまった西郷は、ともかくも月照を逃がすべく薩摩に向かいます。しかし、斉彬亡きあとの薩摩藩は、月照の身柄を受け入れられるほどの包容力はありませんでした。斉彬の死で大きな後ろ盾を失った西郷は、ここでまた、人生最大のピンチに立たされることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-01 01:09 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(0)  

西郷どん 第15話「殿の死」 ~井伊直弼の大老就任と島津斉彬の死~

e0158128_20590455.jpg 安政5年4月23日(1858年6月4日)、彦根藩主の井伊直弼が幕府大老職に就任します。そのきかっけは、孝明天皇(第121代天皇)からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が4月21日に江戸に戻り、第14代将軍・徳川家定に報告した際、堀田は松平春嶽を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定は「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」と言ったため、急遽、話が決まったといいます。


大老に就任した井伊は、6月19日に孝明天皇の勅許を得られぬまま日米修好通商条約調印します。この条約締結は周囲の反対を押し切っての井伊の専横のように思われがちですが、実は、井伊自身は熱心な尊王家で、ギリギリまで天皇の承認を得て条約を締結すべきだと訴えていました。しかし、情勢がそれを許さず、やむなく調印を認めるに至ります。尊王家としての思想を大老職としての立場が遮ったわけです。


 また、家定の将軍継嗣問題では、6月25日に紀州和歌山藩主の徳川慶福(のちの徳川家茂)を後継とする最終決定を下します。この問題ついては、井伊は予てから血筋が現将軍の家定に近い慶福を推す立場を取ってきましたが、これも、井伊の専横で決まったわけではなく、何より家定の意志に基づく決定でした。ドラマ中では、病床の家定の言葉をうまく利用して側近たちにガセ情報を流したように描かれていましたが、あれはドラマの創作ですね。井伊はそんな姑息な陰謀家ではなかったでしょう。ただ、井伊の基本的な考え方は、臣下が将軍継嗣などの問題には本来口を挟むべきではなく、あくまで将軍の意思に基づかねばならない、というものでした。その将軍・家定が慶福を強く推しているのだから、井伊にすれば、これは当然至極の決定だったわけです。


e0158128_18082794.jpg しかし、将軍・家定の岳父であり一橋派の急先鋒だった島津斉彬にとっては、この井伊の決定は許しがたいものでした。そこで斉彬は、形成逆転のプランを画策します。そのプランとは、斉彬自身が兵を率いて京都に乗り込み、勅命を奉じて幕政を改革し、公武合体を実現するというものでした。ドラマ中では、西郷吉之助(隆盛)の進言によって斉彬が上洛を決意していましたが、もちろんドラマの創作です。ここでいう「公武」とは、一般的な解釈の「朝廷」「幕府」だけを指すものではなく、この場合の「武」は、幕府と諸藩を意味しています。つまり、朝廷、幕府、諸藩三者が一体となった体制、すなわち挙国一致体制の国家構想でした。そして、その下準備のために、西郷は一足先に上洛していました。しかし、そこで西郷は、思いもしなかった報せを受けることになります。斉彬の死です。


 7月8日、斉彬は居城の鶴丸城下にあった調練場で軍事演習を敢行します。ところが、炎天下で操練を見守っていたせいか、極度の疲労状態となり、10日、11日になると高熱下痢に襲われ、16日に没します。享年50。あまりにも突然の死でした。


 その死因については、当初はコレラと診断されたそうですが、当時はまだ薩摩でコレラは流行っていなかったとして、のちに「細菌性赤痢」によるものと改められました。一方で、かつてのお由羅騒動の記憶が抜けない斉彬派の薩摩藩士たちのあいだでは、久光派による毒殺に違いないといったが当時から囁かれており、斉彬と親交のあったオランダ医・ポンペもその噂を耳にしたといいますが、当然ながら毒殺の証拠は見つかっていません。現在では学説的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 『人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。』


 毒殺かどうかはともかく、斉彬の死によって薩摩藩の舵取りは大きく変化し、西郷の運命にも大きな影響を与えることになります。歴史の「もしも」はナンセンスですが、もしも斉彬があと10年生きていれば、西郷は一介の薩摩藩士として終わったかもしれません。「お前はわしになれ!」と言ったかどうかはわかりませんが、斉彬の遺志を継いだことが、後世の大西郷の原点であったことは、間違いないでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-23 21:04 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その12 「東山霊山護国神社・安祥院~梅田雲浜の墓」

東山霊山の北角に、梅田雲浜の墓碑が他の墓碑とは少し距離をおいて特別扱いのように祀られています。

小浜藩士で儒学者の雲浜は、幕末初期の攘夷運動を牽引した思想家でした。

雲浜は8歳にして藩校・順造館に入り、その英明さは大いに期待されましたが、頭脳が切れすぎたせいか、立場をわきまえずにものを言うところがあり、藩主への建言が幕府批判と取られ、藩籍を剥奪されてしまいます。

黒船来航以前に公然と幕府を批判したのは、雲浜だけだったんじゃないでしょうか。


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その翌年にペリー艦隊が来航すると、尊皇攘夷を求める志士たちの急先鋒となり、幕府を激しく批判しました。

これが、幕府大老・井伊直弼の知るところとなり、梁川星巌、頼三樹三郎、池内大学と共に悪謀四天王のひとりとされ、「安政の大獄」による逮捕者第1号となります。

逮捕の最高責任者である京都所司代の役に就いていたのは、雲浜を小浜藩から放逐した旧藩主・酒井忠義だったというのも、皮肉な話です。


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雲浜はその取り調べにおいても、激しい拷問を受けても一切口を割らず、最期は刑死ではなく、獄中での病死だったといいます。


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梅田雲浜の墓は、ここ東山霊山のすぐ近くの安祥院にもあります。

正確には、安祥院あるのが墓で、東山霊山にあるのは慰霊碑のようですね。


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実は、わたしはここ安祥院に墓があることを知らなかったのですが、この日、東山から五条に向かって坂を下っていたところ、たまたま安祥院の門横に建てられた「梅田雲浜先生墓」と刻まれた石碑を見つけ、ここを訪れました。

ほんと偶然の発見です。


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墓は他の墓石のなかに同じように立ち並んでいて、特別扱いはされていません。

墓の前も狭く、のけぞって撮影したのが上の写真です。

橋本左内吉田松陰などと同じく、幕末の動乱の導火線に火をつけた梅田雲浜。

かれら思想家の命を賭けた叫びが、やがて坂本龍馬西郷隆盛ら活動家に引き継がれていきます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-10 11:35 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第18話「龍馬!登場」 ~桜田門外の変と航海遠略策~

 意外にもあっさり終わった「桜田門外の変」でしたね。過去の幕末作品においても、同事件を描かなかった例はないことはないのですが、今回の作品での井伊直弼は、前半の主役ともいうべき吉田松陰を死に追いやった張本人であり、しかも演じている俳優さんもビッグネームの高橋英樹さんですから、もっとフィーチャーされると思っていました。銃声一発だけの演出とは驚きましたね。物語の舞台である萩からは遠く離れた江戸での事件で、主役のとは直接関わりのない出来事ですが、「安政の大獄」をあれだけ引っ張ったんだから、その結末である「桜田門外の変」も、しっかり描いて欲しかった気がします。

 吉田松陰の死から4か月余りが過ぎた安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変が起こります。この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。享年46歳。幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

 この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れません。作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。

 「暗殺という政治行為は、史上前進的な結果を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」

 この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは間違いないでしょうね。

 長州藩重役・長井雅楽が提唱した『航海遠略策』とは、急速に広まりつつあった攘夷思想をけん制した内容で、それによれば、
「積極的に通商を展開して国力を高め、その上で諸外国と対抗していこう」
というもので、目先の「小攘夷」ではなく、将来を見据えた上での「大攘夷」という思想でした。しかし、この建白書の内容を知った久坂玄瑞をはじめとする松下村塾系の書生たちは、激しく反発します。後世の目から見れば、長井の主張は至極もっともな意見であり、この数年後には実際にその方向に進んでいくのですが、この段階では、長井の考えは進みすぎていたんですね。この建白書のせいで、やがて長井は命を狙われる立場となります。正論を掲げるにもTPOがあるんですね。

 坂本龍馬武市半平太の使者として萩を訪れたのは、文久2年(1862年)1月のことでした(ドラマでは、松陰が死んで間もない感じで描かれていましたが、実は2年以上も経っています)。このとき、龍馬と玄瑞のあいだでどのような会話があったかは記録が残っていませんが、龍馬が玄瑞から預かった武市宛ての書状には、
 「竟に諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず。草莽志士糾合義挙の他にはとても策これ無き事」
などと、松陰の「草莽崛起論」に影響を受けた内容が記されており、おそらく、龍馬にも同様の話をしたでしょうね。龍馬が脱藩するのはこの2か月後のことですから、あるいは、玄瑞との会談が龍馬の脱藩に大きく関わっていたかもしれません。

 あと、ドラマで龍馬が言っていた「フレーヘード」とは、松陰が佐久間象山に宛てた書状のなかに記されていた言葉で、オランダ語のようです。ただ、少し無粋なことをいえば、龍馬が何度も口にしていた「自由」という言葉は(前話で松陰も使っていましたが)、のちに福沢諭吉が英語の「Freedom」を訳して作った言葉で、この時期には、まだなかった日本語です。まあ、それを言い出せば時代劇なんて矛盾だらけなんでしょうが、ああも連呼されると、ちょっと違和感を覚えますね。「自由」という言葉がなかったくらい、人々に自由がなかった時代ですから。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-04 02:32 | 花燃ゆ | Trackback(5) | Comments(7)  

花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その2 ~吉田松陰刑死~

 吉田松蔭の取り調べは、その後、安政6年(1859年)9月5日、10月5日と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。しかし、10月16日の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。これに松蔭は激しく異をとなえます。もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。

 「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」
 (全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


 この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。その話によると、10月5日の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。その刑を下したのは、大老・井伊直弼自身だったと。ドラマでは、「遠島」の上から紙を貼って「死罪」と訂正していましたが、たぶん、このエピソードを元にした演出だと思われます。

 死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。その冒頭の句が、あの有名な句です。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 (この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


 この言葉が、その後松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。

 『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。そして駕籠にて伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。享年30歳。このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。

 「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」

 こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。
 そして、もうひとつ。

 「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
 (子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の知らせを父母が知ったら、なんと思うだろう)


 有名な辞世の句ですね。哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-28 21:24 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第14話「さらば青春」 ~安政の大獄と間部老中暗殺計画~

 今回は、ドラマで省かれていた「安政の大獄」までの経緯を簡単に解説します。
 大老就任早々、独断で日米修好通商条約に調印した井伊直弼は、さらにその実権をフルに発揮し、将軍継嗣は紀伊の徳川慶福(のちの家茂)に決定したと大々的に発表します。不意をつかれた格好となった水戸藩主の徳川斉昭、その息子の一橋慶喜、越前藩主の松平春嶽一橋派は、安政5年(1858年)6月24日、カンカンに怒って江戸城に登城し、直弼に面会して激しくクレームをつけまくります。ところが、これを受けた直弼は、「呼びもしないのに無断で城内に上がってきて文句をいうなどけしからん!」と、斉昭は謹慎、慶喜は登城差し控え、春嶽と尾張藩主の徳川慶勝には隠居謹慎の処分を命じます。親藩や大藩の殿様相手にやりたい放題ですね。

 政敵を一掃した直弼の権力はいっそう高まり、ほとんど独裁状態となりますが、そうなると、当然、それを叩き潰そうという動きがはじまります。このとき最も働いたのが、今話で捉えられた梅田雲浜や、頼三樹三郎梁川星巌ら尊王派の学者たちで、彼らの働きによって、井伊大老を降ろせという幕府改革の勅諚が、孝明天皇(第121代天皇)より水戸藩へ下ります(異説あり)。これを、後世に「戊午(ぼご)の密勅」といいます。「密勅」とは、読んで字のごとく秘密の勅諚ですね。勅諚とは、天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。

 この情報を知った直弼は「これは反乱である!」大激怒し、水戸藩にその「勅書を返せ!」と迫り、そして朝廷に対して「なぜそんなものを出したのか!」と、猛烈に抗議します。朝廷に幕府の弾圧がかかるとなると、これまた前代未聞のこと。そこで朝廷を守るため、薩摩藩や越前藩が兵を挙げて京都に向かっている、といったが広まります。こうなると直弼は、その噂が本当なのかデマなのかを確認することなく、力には力で対抗する構えを見せ、徹底的な大弾圧を開始しました。その対象は、将軍継嗣問題で一橋派に与した者たち、梅田雲浜ら密勅問題で動いた者たちすべてひっ捕まえて裁判にかける。こうして、安政の大獄がはじまります。

 江戸や京都の動きを知った吉田松陰は、こうしてはいられないとばかりに、同年11月、京都での攘夷派や一橋派の弾圧を指揮していた幕府老中・間部詮勝の暗殺を企てます。そして、松蔭は藩の重臣・前田孫右衛門に計画を記した書状を送り、藩から武器を借りたいと依頼しました。同時に、門人を中心に同志の連判を募り、自分がこれらを率いて上洛し、事を起こすと公言したそうです。暗殺の企画書を役所に提出するなど聞いたこともありません(笑)。公然と発表する暗殺を暗殺といえるかどうかは疑問ですが、つまるところ、松蔭はこの暗殺計画を、藩をあげて実行しようとしていたわけですね。松蔭にしてみれば、この計画に一点の曇もなかったのでしょう。

 ところが、藩当局にしてみれば、そんな無謀な計画を公言する松蔭をそのままにしておけるわけがありません。バカ正直というか何というか、結局、藩当局はふたたび松蔭を野山獄へ収監します。しかし、これで松蔭がおとなしくなったかというと、更に過激になっていくんですね。その過激さに、松下村塾の門弟たちも、やがて距離を置くようになっていきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-06 20:55 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(2)