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おんな城主 直虎 総評

 2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』の全50話が終わりました。毎年、ブログで大河ドラマレビューを始めてから10作目にあたる本作でしたが、制作発表があった当初、わたしは井伊直虎という人物のことをほとんど知らず、昨年、関連本を数冊読みかじっただけのにわか知識のみでレビューに臨んだのですが、どうにかこうにか今年も完走できて安堵しています。ときには間違った発言をしていたときもあったかもしれませんが、そこは素人の趣味でやってるブログということで、ご容赦ください。で、最後に、例年どおり今年の作品についてわたしなりに総括します。


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 井伊直虎いう史料に乏しい人物を主人公とした今年の作品でしたが、わたし個人的には、古い大河ファンから挙って酷評されているほど酷い作品だったとは思っていません。少なくとも、女性を主人公にした近年の作品のなかでは、上位の出来だったんじゃないでしょうか? ただ、史料が少ない分フィクションが多く、その創作部分は玉石混交でした。秀逸な創作とそうでない創作の差が激しかった、というのが正直な感想です。


 そのなかでも、最も秀逸だったのは、おそらく多くの方が思っていたであろう小野但馬守政次の扱いですね。『井伊家伝記』の記述では井伊谷を横領した「悪役」として伝わる政次ですが、その『井伊家伝記』は徳川を批判することが許されない江戸時代中期に書かれたもので、小野を悪役に仕立てることで、徳川や井伊の大義名分を確保した可能性が指摘されている史料です。そこに着目してか、今回のドラマでは、奸臣を装いながら、実は誰よりも井伊家のことを考え、そして直虎のことを助けた忠臣として描かれました。フィクションですが、あながち的外れではなかったかもしれません。いつの時代でもそうですが、歴史とは、勝者が勝者の都合によって作るもので、歴史に客観的な正史など存在しません。小野氏の子孫の方にとっては、汚名返上のドラマでしたね。


 しかし、直虎と政次のふたりの関係はバッドエンド。これは史実であり、変えることはできません。ここをどう描くのかが、物語の最大のポイントだったといえます。で、生まれたのが、あの「神回」と言われた第33話「嫌われ政次の一生」でした。政次の処刑を直虎にどう受け止めさせるのかを注目していたのですが、まさか、直虎自身に手を下させようとは・・・。度肝を抜かれました。長年、大河ドラマを観続けているわたしですが、その後、数日間、放心状態となるほどの衝撃を受けたシーンは、はじめてだったかもしれません。


 あと、第31話「虎松の首」も良かったですね。身代わりとなった名も無き少年の首を涙ながらに抱えてをあげる直虎のシーンは、泣かされました。女性が主人公の大河では、血生臭いシーンをあまり描かない作品が多かったと思うのですが、今回は違いましたね。綺麗事だけでは解決できないことがあるということも、しっかり描かれていました。それから、第32話「復活の日」で、政次が家臣たちの前で井伊家再興を目指す演説をするシーンも見応えがありましたよね。とにかく、第30話から第33話あたりは、素晴らしい出来だったと思います。


 ただ、残念なことに、物語の中盤であまりにも大きなクライマックスを作ってしまったため、その後のドラマでそれを越える回がなく、イマイチ盛り上がりに欠けたといった感は否めません。直政シリーズになってからも、松平信康自刃事件の回などは史実と創作を上手く絡めた秀逸な出来だったと思うのですが、第30話から第33話ほど引き込まれることはなかった。本能寺の変から神君伊賀越えも、さほど盛り上がることなく、最終回も淡々と終わったといった感想です。たぶん、わたしの中で、何年か経っても思い出すであろう『おんな城主直虎』のシーンは、「嫌われ政次の一生」に尽きるんじゃないでしょうか。


 それから、龍雲丸という架空の登場人物ですが、あの人いりました? 正直いって、わたしは龍雲丸が出てくるとシラケてました。だって、急に物語がウソっぽくなるんですよね。わたしは、架空の人物そのものを否定する気はありません。歴史小説やドラマには、そういう人物がいると便利ですからね。で、架空の人物のだいたいは、忍者であったり盗賊であったりしますから、今回の龍雲丸=盗賊の頭っていう設定もありだと思います。ただ、あのチャラ男キャラがいただけなかった。それから、直虎とのラブコメ話もいらなかった。第21話から第23話では、3話続けて龍雲丸が主役の話でしたよね。3話も続けて架空の人物が主役の話というのは、歴史ドラマとしては、ちょっとキツかった。あそこで離れていった視聴者も多かったと思います。

龍雲丸の創作話に何話も割くくらいなら、井伊直親をもう数話生かして欲しかったですし、井伊直平中野直由、新野左馬助らの死も描いてほしかったですね。そのほうが、井伊家のおかれた危機的状況が、より伝わったと思います。第32話「復活の火」のワンシーンで、徳川の下で井伊家再興を目指す決意をした直虎が、井伊直盛、直満、直平、直親、中野直由、新野左馬助、奥山朝利らの無念を晴らすべく井戸端でひとり酒坏を掲げるシーンがありましたが、彼ら一人ひとりの死をもっと丁寧に描いていれば、あのシーンの直虎の思いがより伝わったと思います。おそらく、直虎を早く城主にしたかったのだと思いますが、そのために重要な史実を割愛して無意味な創作話を続けるのは、本末転倒なんじゃないかと。


 あと、瀬戸方久のキャラ設定も、イマイチでしたね。瀬戸方久が井伊家と関わりがあったというのは史実ですから、もうちょっと上手く使えたんじゃないでしょうか? 龍雲丸のような架空の登場人物を使わず、瀬戸方久に狂言回し的な役割を与えたほうが、もっと面白い話が出来たような気がします。逆に、物語後半でキャラが生きたのが、今川氏真でした。今までの物語では、今川家の滅亡で姿を消す人物でしたが、今回は、ポイントポイントでいい役目を与えられていましたね。方久にも、ああいう役割を与えてほしかった。


 俳優さん方については、素人のわたしがここで批評するには及ばないでしょう。みなさん、素晴らしい役者さんばかりで、文句のつけようがありません。毎年、大河で活躍した俳優さんのファンになってしまうわたしですが、今年も、柴咲コウさんの大ファンになってしまいました。


 最後に触れておかねばならないのが、今年の主人公・井伊直虎という人物について。戦国乱世のなか、でありながら男名を名乗り、城主となって井伊家滅亡の危機を懸命に守り抜いた女戦国武将の波乱万丈な生涯を描いたのが今回の物語でしたが、ドラマ放送直前の昨年の12月、ドラマのコンセプトの根底を覆す論説が浮上します。いわく、直虎は実は男だったのではないか?・・・と。京都市東山区にある井伊美術館が、直虎は女性ではなく、今川氏家臣・関口氏経の息子であった可能性を示す文書を見つけたと発表。大きな話題となりました。歴史ドラマであってもフィクションは避けられませんが、これが事実なら、ドラマの核となる部分が虚構となってしまいますからね。


 そもそも直虎が女性だったとする説は、ドラマの時代考証担当の歴史学者・小和田哲男氏が、四半世紀ほど前に唱えた学説だそうです。その説によると、『井伊家伝記』に記されている「次郎法師」と名乗って地頭を務めていた女性と、永禄11年(1568年)に発動された徳政令の書状に記された「次郎直虎」という署名が同一人物だとする解釈です。一方で、『井伊家伝記』を含め、次郎法師が「直虎」と名乗ったと記した史料は存在せず、「井伊直虎=次郎法師」と断定するのは難しいという意見は、以前から存在しました。そこに、今回、関口氏経の息子が直虎を名乗っていた(かもしれない)史料が発見されたため、にわかに騒がれたわけです。


 ここで整理しておかねばならないのは、今回の史料発見で否定されたのは、「井伊直虎=次郎法師」という部分であって、『井伊家伝記』に記された次郎法師という女性の存在をも否定されたわけではありません。そこを理解せずに騒いでいる批判をよく見かけましたが、そこは、ちゃんと理解すべきところです。つまり、ドラマのタイトルが『おんな城主 次郎法師』だったら、何の問題もなかったわけです。まあ、その『井伊家伝記』の記述自体が信憑性に乏しいという見解もありますが。でも、それをいえば、今回発見された史料も、直虎の時代より150年後に記された編纂物だそうで、信用に足る史料とはいえません。結局のところ、井伊直虎という人物は「謎の人物」ってことですね。


 井伊家家系図でわかるのは、井伊直親のあとに井伊直政の名が続くだけの歴史です。しかし、直親の死から直政が元服して家督を継ぐまで、約20年の歳月があります。その間にも、記録には残らない井伊家の歴史があったはずです。史実とは、歴史の断片にすぎません。史実だけをつなぎ合わせても、歴史は見えてきません。今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』は、そんな史実と史実をつなぐ記録に残らない歴史の物語だったといえるのではないでしょうか。そう考えれば、直虎が男であっても女であっても、どうでもいい気がしてきました。大切なのは、記録に残らない歴史を懸命に繋いだ井伊直虎という人物がいた、ということで、それが、今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』のテーマだったんじゃないかと。


 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで『おんな城主直虎』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。

●1年間の主要参考書籍

『女城主・井伊直虎』 楠戸義昭

『おんな領主井伊直虎』 渡邊大門

『井伊直虎の真実』 黒田基樹

『おんな城主井伊直虎と井伊直政の真実』 別冊宝島

『日本の歴史12・戦国大名』 杉山博

小説『剣と紅』 高殿円



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-20 00:33 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(10)  

おんな城主 直虎 第50話「石を継ぐ者」 ~最終回~

 本能寺の変から約2ヵ月半が過ぎた天正10年(1582年)8月26日、井伊直虎がこの世を去ります。その死について、『井伊家伝記』では、たった1行だけこう記されています。


 天正十年午八月廿六日御遠行、法名妙雲院殿月船祐円大姉


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 直虎の享年は、誕生年が不明なために明らかではありませんが、許嫁だった井伊直親が生きていれば47歳だったことから考えれば、40歳代半ばから50歳前後だったと思われます。死因も定かではありません。直虎の晩年は、天正3年(1575年)以降、実母の祐椿尼とともに龍潭寺内にある松岳院という庵で過ごしたということ以外、何もわかっていないんですね。ただ、おそらくは井伊谷を出ることはなかったでしょうから、きっと、松岳院で南渓瑞聞和尚らに見守られての穏やかな最期だったのではないでしょうか。

 直虎の亡骸は龍潭寺の井伊家墓地に葬られました。直虎の右隣には祐椿尼が、左隣には直親が眠り、その横には直親の妻、そして末席には万千代こと井伊直政が眠ります。井伊家が最も危機的状況にあった時代を生きたこの5人が、肩を並べるように眠っているというのも、感慨深いですね。


 南渓瑞聞和尚は、直虎が死んだ7年後の天正17年(1589年)まで生きます。享年は不明ですが、直虎の祖父の弟という説が正しければ、かなりの長寿だったと思われます。井伊家の危機がはじまった井伊直満・直義の死から、直盛、直平、直親、小野政直・政次父子、そして直虎の死まで、すべてを弔ってきた南渓瑞聞和尚。最後は、直政が大名となって井伊家を再興させるところまで見届けて、この世を去ります。『井伊家伝記』によると、次郎法師に井伊家当主を継がせたのも、南渓だったといいます。結局のところ、当主不在の井伊家を実質率いていたのは、南渓だったといってもいいかもしれません。

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 直虎の死から3ヵ月後の11月、万千代は元服して井伊直政と名乗ります。22歳でした。通常、武家の子は15歳で元服するのが慣例で、何か特別な理由がない限り、22歳での元服は考えられない遅さでした。直政の場合、15歳で徳川家康に取り立てられ、すでに戦場を何度も経験しており、武功もたて、2万石を有する侍大将だったわけで、元服しない理由が見当たりません。なぜ直政はここまで元服しなかったのか・・・。その理由は判然としませんが、直虎の死の3ヵ月後に元服したという事実を鑑みれば、何か直虎の存在と直政の元服に関係があったと考えるのが自然かもしれません。直政がもし元服すれば、たったひとりの井伊家の男として、家督を継ぐことになるのはわかりきっていました。直虎の目の黒いうちは、それが出来ない、あるいはそれが憚られる何らかの理由があったのではないかと・・・。それが何かはわからないのですが。


 直政の「直」は井伊家の通字で、「政」は小野家の通字というドラマの設定には、思わず目頭が熱くなりました。小野但馬守には「政次」「道好」の2説あるのですが、実は「道好」の方が通説となっています。ところが、今回のドラマでは、俗説の「政次」を採りました。その理由は、これだったんですね。直政の諱には、直親、直虎そして政次が生きている・・・と。そして、3人の魂がこもった石(遺志)を継いだんですね。


 ナレーションにもあったとおり、その後、井伊家は260年に渡って徳川家の屋台骨となります。その礎を築いたのが直政だったわけですが、父の直親が死に、一時は滅亡しかけた井伊家が、直政によって再興されるまでの間にも、記録には残らない歴史があったはずです。その時代を描いたのが、今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』でした。『井伊家伝記』は伝えます。


 次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間


 本稿をもって大河ドラマ『おんな城主直虎』のレビューは終わりとなります。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。


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by sakanoueno-kumo | 2017-12-18 21:22 | おんな城主 直虎 | Trackback(1) | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第36話「井伊家最後の日」 ~虎松の養子入り~

 三河国の鳳来寺に入っていた虎松(のちの井伊直政)が、生母の再婚先である松下清景養子となったのは史実です。ただ、どのタイミングで養子となったかは定かではありません。『寛政重修諸家譜』によると、母の再婚とともに虎松も松下家の養子になったと記されていますが、『井伊家伝記』では、井伊家一族が集まって虎松を徳川家康に出仕させる計画を立て、鳳来寺には黙って家康の臣下である松下家の養子になったと伝えます。鳳来寺からは事情を尋ねるべく使者が何度も訪れますが、南渓瑞聞和尚が、その都度、言いくるめていたとあります。


 ドラマでは、清景の弟・松下常慶が持ち込んだ養子の申し出に対して、「虎松を松下によこせということか?」と困惑する井伊直虎に、「虎松君に松下をさしあげたいということでございます」と常慶が答えていましたが、それは詭弁ですよね。ドラマでも言っていたとおり、清景には継嗣がおらず、養子に迎えるということは、即ちあととりです。松下姓を名乗るということは、松下の家に入るということ。実子のいなかった清景にしてみれば、再婚相手の生んだ子で、しかも筋目的にも申し分ないですから、虎松を松下家のあととりにすべく養子に迎えたのでしょう。『井伊家伝記』でも、松下家の養子になったのは徳川家に士官するための隠れ蓑のようなニュアンスで伝えますが、これも、後世に都合よく脚色された話かと思われます。


 つまり、井伊家は、この時点でいったん潰れたと考えていいでしょう。井伊谷城を追われ、井伊家の血を引く唯一の男子である虎松が養子に行ったわけですからね。その虎松が生きている以上、井伊家再興の可能性はゼロではなかったでしょうが、それは極めて薄い希望だったと思われます。ドラマのとおり、この時点の直虎たちは、井伊家再興をいったん諦めたのかもしれませんね。


 井伊谷城を追われたあとの直虎や家臣たちがどうしていたかについては、史料が乏しく定かではないようです。ただ、のちに井伊家が井伊谷に戻ってきたときには、旧臣たちも戻ってきていますから、おそらく、ドラマのように近藤康用井伊谷三人衆などに士官し、井伊谷周辺にいたんでしょうね。直虎はおそらく龍潭寺尼僧として過ごしていたことでしょう。少なくとも、盗賊からプロポーズされることはなかったかと思います。たぶん。


 ネタバレになりますが、後年、虎松は松下家に入ったことで家康の知遇を得ることとなり、やがて井伊氏に復することを許され、名を井伊万千代と改めて井伊谷に戻ってきます。井伊家再興を諦めて養子に行ったことが、結局はのちの井伊家再興に繋がったわけです。歴史って面白いですね。家康にあととりを取られてしまった清景は、中野直之の次男の松下一定を養子として跡を継がせます。虎松を家康に引き合わせた清景にしてみれば、「そんな~!」だったんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-12 23:08 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第33話「嫌われ政次の一生」 ~小野但馬守政次の最期~

 すごいものを見てしまった・・・というのが今の率直な感想です。今話に限っては、ここでわたしごときが何を語っても安っぽくなるだけで、正直、あまり起稿意欲がわきません。まさに、筆舌に尽くしがたいとはこのことですね。長年大河ドラマを観てきましたが、昔は壮絶な最期惨い処刑シーンは結構あったものの、これほどの衝撃を受けたのははじめてかもしれません。


 『井伊家伝記』にみる小野但馬守政次は、謀略によって井伊直親を死に追いやり、井伊直虎の発布した徳政令に乗じて井伊領を乗っ取った奸臣として伝わります。その最期は、徳川家康の派遣した井伊谷三人衆によって捕らえられ、家康の命によって処刑されます。その罪状は、直親を讒言によって死に追いやったこと、井伊家を乗っ取り、虎松(のちの井伊直政)を亡き者にしようとしたことでした。この通説でいえば、当然、直虎も政次の処刑を望んでいたはずです。


 ところが、今年の大河の基軸は、おとわ、亀之丞、鶴丸の幼馴染3人の友情、愛情物語。政次は直虎を生涯思い続け、直虎も政次を頼り続けます。だから、政次の最期をどう描くのか、政次の処刑を直虎にどう受け止めさせるのか、ここが最も注目の場面でした。ここの描き方次第で、本作は名作にも駄作にもなり得る、と。



 いろいろ考えました。泣き叫びすがる直虎に見送られて死ぬのは、政次の望むところではないだろう・・・これは、大方の視聴者の方々もわかっていたんじゃないでしょうか。ならば、捨て石となるため最期にまた直虎を謀り、あえて憎まれて死んでいくのではないか・・・わたしが想像できたのは、所詮ここまででした。まさか、その意を汲んだ直虎に手を下させようとは・・・。度肝をぬかれました。
 

 「忌み嫌われ井伊の仇となる。恐らく私はこのために生まれてきたのだ。」


 奸臣の汚名を着てでも直虎を守ることが小野の本懐ならば、その本懐を直虎自らの手で遂げさせてやる。壮絶な愛情表現ですね。左胸を突いたのは、苦しむ時間を少しでも短くしてやろうという直虎の情けだったのでしょうか? 通説では、政次には妻子があり、このとき、二人の息子も共に処刑されたと伝えられます。しかし、ドラマの政次は生涯独身でした。それは、直虎を思い続ける政次に妻子は不要、ということもあったのでしょうが、この政次処刑のシーンのためでもあったのかもしれません。だって、直虎に二人の息子まで処刑させるわけにはいかなかったでしょうから。


 「地獄へは俺が行く」


 第31話で政次が言った台詞ですが、直虎は政次をひとりで地獄へ行かせなかったんですね。あとから行くから地獄で待ってろ、と。誰かが言っていましたが、まさに究極のラブシーンです。


 前話の稿でも述べましたが、通説となっている小野政次奸臣説を伝えるのは、江戸時代中期に書かれた『井伊家伝記』のみです。いつの時代でもそうですが、歴史とは、勝者が勝者の都合によって作るもので、歴史に客観的な正史など存在しない。そんな当たり前のことを、あらためて教えてくれた本作だったような気がします。


白黒をつけむと君をひとり待つ 天つたふ日そ楽しからすや 政次


もちろん、小野但馬守政次の辞世は伝わっておらず、ドラマのオリジナルです。でも、見事な辞世ですね。この「嫌われ政次」という人物像を作り上げてくれたすべての関係者の方々に感謝します。


https://youtu.be/v9IdRtzkGQQ

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by sakanoueno-kumo | 2017-08-21 21:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第31話「虎松の首」 ~小野但馬守の井伊谷城乗っ取り~

 永禄11年(1568年)11月19日、井伊直虎は2年間はねつけていた徳政令をとうとう布告しました。これは、単に徳政令の発動ということだけではなく、直虎の政治的敗北を意味していました。駿府の今川氏真はこれを機に直虎を地頭職から罷免し、井伊谷の統治権を奪います。そして、その代わりに城代となったのが、小野但馬守政次でした。このため、一般にこの事実は、政次の井伊谷城乗っ取りと解釈されています。


 ところが、ドラマでは全く違う設定で、政次は誰よりも井伊家のことを考え、直虎を守るために自らを犠牲にする人物として描かれています。自身が裏切り者を演じることによって今川から井伊谷を任され、井伊家のとなる腹積もりなのでしょう。既に今川から疑念を持たれている政次でしたが、百姓の座り込み騒ぎをとっさに利用して関口氏経に取り入り、信頼を得ることに成功。この政次の機転をアイコンタクトで理解して乗っかる直虎。ふたりのコンビネーションは、もはや主と家老の域を超えています。


 『井伊家伝記』によると、今川氏真は政次を井伊谷城の城代に据える条件として、来る武田氏との戦に備えて軍勢を出すこと、そのうえ、井伊虎松(のちの井伊直政殺害するよう命じたといいます。これを事前に察知してか、直虎は虎松を龍潭寺松岳院に逃し、南渓瑞聞和尚の協力を得て三河国の鳳来寺に逃しました。鳳来寺は徳川氏の領内なので、今川の手が及ぶことはありません。そして直虎は実母の祐椿尼とともに松岳院に残り、徳川軍の救援を待つことになります。


 この徳政令をめぐる一連の出来事は、直虎が関口氏経と連署で蜂前神社に奉じた文書と、今川家から瀬戸方久に送られた赦免状以外、実はほとんど何もわかっていません。政次の専横を伝える『井伊家伝記』は後世に記された家伝で、多分に井伊家に都合よく書かれた創作も多く、一次史料としては扱われていません。つまり、2年間はねつけていた徳政令を発布すると同時に井伊家は井伊谷を追われ、政次が代官として井伊谷に入ったということは事実としても、それが乗っ取りだったという確証はどこにもないんですね。だから、今回のドラマのような解釈があってもいいんじゃないかと。ただ、となれば、この先の政次処刑まで物語をどう持っていくかが見ものですが。


 「すべてを含めて、だまされておられるということはございませぬか?」


 この中野直之の台詞が鍵となってくるのでしょうか?


 それにしても、虎松の首あらためのシーンは引き込まれましたね。「虎松君は疱瘡を患っておいででしたので」という台詞で首が虎松のものではないということを伝え、それを聞いた直虎が、涙ながらに首を抱えてを上げる。あの涙は関口の目を欺くための演技ではなく、身代わりとなった名も無き少年に対する哀悼の悲嘆だったのでしょう。そして、井伊家のために政次にここまでさせてしまったという心痛もあったかもしれません。さすがの政次も、この局面を無血では収められませんでした。身代わりとなって死んだ子は助からない病に罹って親に売られた子で、その子にとっても、あとは死ぬだけなのに銭を親に与えられてよかったんだ・・・という龍雲丸の言葉は、本当の話なのか、それとも直虎を慰めるための作り話だったのか・・・。


 「案ずるな。地獄へは俺がゆく」


 おとわを思う政次の心が、あまりにも悲痛です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-07 15:04 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第30話「潰されざる者」 百尺竿頭進一歩、大死一番絶後再蘇

 駿府の今川氏真に呼び出されて、気賀に新しいを作ることを認める代わりに、井伊家を取り潰す手助けをするよう求められた瀬戸方久。三河の徳川家康との戦いに備え、その間に位置する井伊谷を今川の直轄領にしたいというのがその狙いで、具体的には、2年間据え置きになっていた井伊谷に対する徳政令を発布し、井伊家の領国経営を立ち行かなくしてしまおうという筋書きです。その対価として、方久の所有する土地、財産に関しては安堵する・・・と。


 これらはすべてフィクションですが、荒唐無稽な創作ではなく、史実、通説を上手く利用した上手い設定でした。方久が井伊家潰しに加担したという話は創作ですが、氏真から方久が徳政令発布後の安堵状を得ていたのは史実で、堀川城の根小屋に方久が蔵を設けたのも本当です。ただ、歴史家・楠戸義昭氏の著書によれば、方久が安堵状を得たことは方久を支援してきた井伊直虎にとっても望むところで、また、堀川城の蔵は、氏真が方久に命じて作らせたとしています。史実はひとつでも、見方を変えればぜんぜん違う解釈に描けるんですね。


 氏真の命を受けた関口氏経が井伊家を訪れて徳政令を行うよう下知していましたが、これは史実に沿った設定で、このあと、直虎は氏経と連盟で徳政令を布告することになります。百姓たちが氏経の元に押しかけて座り込みをしたという記録はありません(笑)。


 で、小野但馬守政次ですが、いよいよ直虎との関係が大きな山場を迎えそうです。少しネタバレになりますが、通説では、政次はこの徳政令発布から氏真と家康、そして武田信玄らの戦いの混乱に乗じて井伊谷を乗っ取るものの、すぐさま徳川軍によって奪還され、その後、処刑されます。しかし、この物語での政次は、今川の犬の仮面をかぶった直虎の。どう物語を展開していくのか興味深かったですが、どうやら、その方向性が見えてきたようです。


 百尺竿頭に一歩を進む

 大死一番絶後に再び蘇る


 久々に禅語が出ましたね。たとえ頂点に達していても、決して現状に満足することなく、次なる一歩を見出さなければならない。死んだつもりになって挑めば、たとえ失敗しても、必ず再び挽回できる・・・といったところでしょうか?


あえて井伊を潰して今川に領地を差し出し、その後、徳川の協力を得て取り戻す。まさしく、「大死一番絶後に再び蘇る」ですね。直虎がこの時点でそこまでの計算をしたかどうかはわかりませんが、歴史はまさにその道をたどります。ただ、その生贄になるのが、政次なんですね。


 政次「俺を信じろ。信じろ、おとわ。」


 但馬ロスが近づいています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-31 19:30 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第20話「第三の女」 ~井伊直親の隠し子~

 死んだ井伊直親の娘と名乗る高瀬という少女が出現しました。ドラマでは唐突な設定に思えましたが、実はこれは根拠のない話ではなく、直親は11歳から21歳までの約10年間に及んだ信濃国は市田郷での潜伏生活のなかで、身の回りの世話をしていた地元島田村の代官・塩沢氏の娘とのあいだに子をなしたといわれています。


 『寛政重修諸家譜』によると、直親の子どもは二人になっていて、「女子」「直政」とあります。「直政」とは言うまでもなく虎松のことですが、この「女子」は、直政より先に記載されていて、「母は某。家臣川手主水良則が妻」と書かれています。この女子こそ、直親(当時は亀之丞)が市田郷での潜伏生活時代に、塩沢氏の娘に産ませた子ではないかと思われます。たぶん、この「女子」が、ドラマの高瀬なんでしょうね。


 隠し子(というわけではなかったでしょうが)の出現に動揺を隠せない井伊直虎でしたが、正妻のしのは気丈でしたね。自分と結婚する前のことだから、関係ない・・・と。むしろ、裏切られたのは、かつて許嫁だった直虎様ですよ・・・と。あの意外な反応が笑えましたが、たしかにしのの言うとおりで、この時代、正妻を娶る前に側女を作るなんて話はよくあることで、その程度のことで狼狽えていては、武家の妻はつとまりません。ましてや、雲隠れの身だったとはいえ、井伊家の後継者候補だった直親ですから、正妻として迎えるのはそれ相応の身分の女性でなければならなかったわけで、塩沢氏の娘では身分不相応だったのでしょう。


かといって、11歳から21歳という時期を、女性なしで過ごすには無理がありました。この時代、武家の男子には15歳ぐらいで三点セットともいうべき儀式がありました。元服初陣結婚です。直親の場合、潜伏生活のため元服も初陣もおあずけでした。しかし、ひとつだけ可能だったのは結婚。直虎という許嫁がいたため正妻を迎えるわけにはいかなかったでしょうが、側女を迎えて子をなすことはできました。武家の男子にとって、子どもを作るというのは最も大切な仕事でした。そう、仕事だったんですよ。男が妻以外の女性に惹かれるのは、その仕事の習性の名残なんです。決して好色ではありません(笑)。


 井伊家に残る史料では、直親の子どもは直政とこの女子だけですが、しかし、直親の潜伏先だった市田郷では、直親は塩沢氏の娘とのあいだに一男一女をもうけ、女の子は井伊谷につれていったが、男の子は置いていったという伝承がのこっているそうで、いまもその子孫の方が長野県飯田市にご健在だそうです。歴史家・楠戸義昭氏の著書によると、その男子の名は吉直といい、直親が帰国の際に一振の短刀を託したといいます。吉直はこの地に留まり塩沢家で養育されましたが、数代ののち、飯田城下大横町に出て麹屋を創業<推定:延享3年(1746年)>し、そこで旧姓の井伊氏を名乗り、吉右衛門を襲名、代々島田屋を屋号として飯田藩ご用達として栄え、今なお続いているそうです。この家に、直親が息子に託したという短刀が家宝として伝わっているんだそうです。


 その話の真偽はともかく、高瀬のことは井伊家の記録にも残っており、その後、高瀬は井伊家家老となる川手良則の妻となったといいますから、たぶん事実なんでしょうね。一説には、この事実が直虎出家の理由だったとも言われますが、それはどうでしょうね。なんたって直親にとっては仕事だったわけですから(笑)。


 ドラマでは、間者の疑いもあるとして追い出してもかまわないとする小野但馬守政次でしたが、高瀬の鼻歌を聴いた直虎が、直親の娘と認知します。まあ、間者だったらそれぐらいの予備知識は持っていそうですが、DNA鑑定などない時代ですから、疑うも信じるも当人次第だったでしょう。かくして高瀬は井伊家の姫子となって、めでたしめでたし・・・と思っていたら、徳川家康の諜報活動担当の松下常慶が飛び込んでくるや、意味深な眼差し。えっ? やっぱり間者なの? じゃあ、直親は直虎を裏切ってなかった? でも、じゃあ井伊家史料に残る高瀬の存在は? 今後の展開が楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-22 21:11 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第19話「罪と罰」 ~地頭職の司法権~

 今話もまた、おんな地頭職となった井伊直虎国づくりのお話。今川家との外交政策、綿花栽培に着手した経済政策、領民の教育政策、そして種子島(火縄銃)の導入によ軍事政策と、稚拙ながらも試行錯誤しながら領主として成長していく直虎の国づくりを描いてきたここ数話ですが、今話のタイトルは「罪と罰」盗人として捕らえた罪人をどう裁くかという話で、つまり司法政策の回でした。


 盗人は死罪という慣例に従って、罪人・龍雲丸打ち首にすべしと主張する中野直之小野但馬守政次に対して、龍雲丸にはがあるから、死罪は免じてほしいと願う直虎。


政次「知らぬ者なら打ち首、知っておる者ならば見逃すと、そう仰せか?」

政次「あの男を見逃せば、井伊は盗人を打ち首にせぬところと噂が立ちましょう。さすれば次から次へと賊が入ってきましょう。そのうち民は襲われ、さらわれる者も出るやもしれませぬ。」


 まったくもって、政次のいうとおりです。司法、行政、立法の三権において、司法ほど情に左右されてはならない機関はありません。もちろん、三権分立が成されていない時代の話ですから、領主は知事警視総監最高裁判所長官を兼ねているような存在で、現在のアメリカ大統領より権限を持っていたといえ、領主の決断ひとつで判決などどうにでもなったでしょうが、一方で、「武士は二君にまみえず」といった江戸時代の主従関係とは違い、この時代の主従関係は利害関係で成立していましたから、主君は常に家臣たちから力量・器量を試されていました。だから、領主はいかにして家臣たちの心をつかむかを腐心する必要があり、とくに司法においては、すこぶる公明正大でなければならなかったでしょう。自分に捜査が及びそうだからといって、FBI長官を罷免したりしたら、たちまち家臣たちから愛想を尽かされ、辞任に追いやられるでしょうね。司法は常に政治の外に存在しなければなりません。


直虎「戦わぬのが最上!そう、われに教えてくれたではないか! 太刀を交えて殺し合うのではなく、その前に敵に屈させるが最上。さすれば兵も銭も最も失することがない。裏を返せば、命をやり取りしてしか物事を決められぬというのは、決して上等でないということじゃ! 偉そうに説教を垂れたそなたが、なぜちっぽけな盗人一人の命を取ろうとする。」


いやいや、そういうことじゃないんですよ、直虎さん。司法とヒューマニズムごっちゃにしてはいけません。現代でも、凶悪犯罪の判決に対して死刑廃止論をもって語る的外れな評論家がいますが、あれと同じです。いのちの尊厳は否定しませんが、死罪そのものを無くしたいという話は、司法府ではなく立法府の管轄です。現行の刑法極刑死刑ならば、司法はその刑法に則って裁かなければなりません。命のやり取りが外道だというのであれば、まず法を変えないと、直虎さん。まったくもって、頓珍漢にもほどがあります。


 これまで、沈着冷静な政次の意見に対して、稚拙ながらも熱意赤誠をもって凌いできた直虎ですが、今回ばかりは身勝手な主張としか思えず、どう決着をつけるのかと思って観ていましたが、龍雲丸の逃亡という曖昧なかたちで終わらせました。まあ、今回は直虎を勝たせるわけにはいかなかったでしょうからね。かといって、これから物語に関わってくるであろう龍雲丸を死なせるわけにもいかない。まあ、無難な着地点だといえるでしょうか? 今回は、司法が情に左右されてはいけないという直虎のお勉強の回だったのでしょうか? であれば、これが、のちの政次に対する処断に繋がっていくのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-15 15:33 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(4)  

おんな城主 直虎 第15話「おんな城主 対 おんな大名」 ~寿桂尼~

 今話のタイトルは「おんな城主 対 おんな大名」。おんな城主とは、いうまでもなく井伊直虎ですが、おんな大名とは、駿河国、遠江国の守護にして戦国大名でもある今川氏のゴットマザー・寿桂尼のこと。この時代の女性というと、大名の正室といえども史料が少なく、その実在性も含めて不明な場合が多いのですが、この寿桂尼に関しては、歴史にその存在をしっかりと残した数少ない女性といえます。


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 寿桂尼は中御門宣胤という公卿の娘として生まれたと伝えられ、永正5年(1508年)、今川氏親の正室として駿河国に嫁いできました。今川家は、足利将軍家の一族にあたり、守護大名のなかでも名門の家柄だったため、京との関係を深めるために公家の娘を正室に迎え入れたのでしょう。氏親との間には長男の今川氏輝、三男の今川義元を含む7人(4人の息子と3人の娘)の子をもうけており、夫婦仲は良かったと見られています。

 その氏親は晩年、十数年に及ぶ病床生活を送っており、その間、寿桂尼が政務を補佐したと伝わります。その最も有名なものとしては、大永6年(1526年)4月に制定された、今川氏の分国法である『今川仮名目録』。ドラマで徳政令を回避するために直虎が使った法令ですね。この分国法が発布されたのは、氏親の死の2ヵ月前のことで、中風で寝たきりだった氏親がこれを作成したとは考えづらく、また、目録は漢文ではなく女性文字である仮名交じり文であることから、寿桂尼が大きく関わり、氏親の名で発布したと考えられています(異説あり)。


 「戦国大名」の定義は曖昧ですが、幕府と一線を画する独自の法律の制定だとすれば、今川氏は、この『今川仮名目録』の制定から戦国大名に変貌したといえ、すなわち、今川家を戦国大名にしたのは寿桂尼だったと言っても過言ではないかもしれません。それ以後、寿桂尼はわが子、氏輝、義元、そして孫の氏真と、今川家4代に渡って政務を補佐し、「駿河の尼御台」、「女戦国大名」などと称されました。


 実際、桶狭間の戦いで義元が死んだあとも、寿桂尼が存命の間は何とかその大名としての面目を保っていましたが、寿桂尼が死ぬやいなや、武田信玄による駿河侵攻によって今川氏は滅亡します。そのことからも、少なくとも氏真の時代は、寿桂尼あっての今川家だったことがわかりますね。まさしく「おんな大名・寿桂尼」でした。


 ドラマで直虎がやりあったのは、そんな女傑でした。もちろん、今話はすべてフィクションで、ドラマのオリジナルです。ただ、同じく国を統治する女性という立場として、直虎は寿桂尼という偉大な存在を意識していなかったはずはありませんし、寿桂尼も、少なからず直虎という女性を気に留めていたかもしれません。ふたりが面会したという記録はありませんが、もしあったとしたら、あんな感じだったかもしれませんね。


 今話はフォクションといえども、わたしは面白かったと思います。そもそも、この徳政令に関していえば、今川氏真が井伊家の領内に発布した徳政令を、直虎が2年間それを抵抗しつづけたということ以外、何もわかっていません。つまり、次週からも、この徳政の施行を引き伸ばした2年間の話は、ほぼ創作の回となります。もともと史料の少ない人物を主人公にしているわけですから、これは仕方がないことでしょう。今話の主題は、実は直虎を守ろうとしていたという、小野但馬守正次の本意だったんじゃないでしょうか? 今後、このふたりの関係がどのように描かれていくのか楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-17 15:58 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第14話「徳政令の行方」 ~徳政令と逃散~

 今話はそのタイトルどおり、「徳政令」のお話。前話の稿でも述べましたが、「徳政令」とは、債権者・金融業者に対して債権放棄を命じる法令で、簡単にいうと「借金帳消し」の制度です。その始まりは鎌倉時代の元寇の折、御家人の窮状を救うために永仁5年(1297年)に発令された「永仁の徳政令」からとされています。その後、室町時代から戦国時代にかけて、土一揆などの鎮静にたびたび徳政令を発布しています。


 徳政令の対象はその時々によって様々でしたが、井伊直虎のときの井伊谷における徳政は、度重なる戦で疲弊した農民が対象でした。戦によって田畑が荒らされ、凶作が続いた農民たちは、寺や商人たちから借金をして食いつないでいましが、今度はその借金の返済に苦しみ、生活が立ち行かなくなっていました。そんな農民たちを救うには、徳政令を施行して借金をチャラにしてあげることが最良ですが、そうすると、今度は貸した側が被害を受けます。場合によっては貸主が破産することも想定され、債権者にしてみれば、これほど理不尽な制度はないわけです。


 実はこのとき、井伊家は度重なる出陣策謀の被害などから、人的損傷もさることながら、経済的にも大いに疲弊していました。そのため、「銭主」と呼ばれる豪商から多額の借金をして、なんとか領主の対面を保っていました。じゃあ、徳政令を発布すれば井伊家も借金返済を免れていいじゃないか・・・というのは短慮で、徳政令によって銭主が破産すると、井伊家はこののちお金を借りることができなくなり、井伊家の財政が立ち行かなくなります。だから、直虎としては、農民より銭主を守らなければならない事情があったわけです。


 徳政を願い出る場合、本来は在地領主の井伊家に訴え出るのが筋でしたが、このとき、百姓たちは井伊家を飛び越えて駿府の今川氏真に訴えました。これを手引したのが、本来は直虎をサポートすべき立場にあった小野但馬守政次でした。理由はわかりませんが、徳政令を利用して直虎の失脚を図り、井伊家を乗っ取ろうとしていたと考えられます。政次は蜂前神社の神職・祝田禰宜と結託して、氏真から徳政令を出させます。


 祝田禰宜は祝田の市場の特権井伊直盛のときに安堵されており、神職でありながら商人でもあって、井伊谷の経済の中核にいた人物でした。ところが、この頃、瀬戸方久をはじめとする新興勢力が現れ、商人としての祝田禰宜は圧迫を受けはじめていました。祝田禰宜にとっては、この徳政令を道具にして方久ら新興勢力にダメージを与えようとの狙いがあったんですね。


 それぞれの立場のそれぞれの思惑が込められた徳政令でしたが、直虎はこれを握りつぶします。というより、先送りにしたというほうが正しいかもしれません。新興勢力の商人に支えられていた井伊家としては、徳政令を施行するわけにはいかなかったんですね。直虎はできるだけ徳政令の施行を引き伸ばし、その間に、銭主の被害がなるべく少なくすむための対策を講じていきます。直虎が単なる虎松成人までのお飾りではなく、優れた行政能力を持った人物であったことが窺えるエピソードです。


 ドラマ中、「逃散」という言葉が出てきましたね。「逃散」とは、農民が集団で荘園から退去して一時的に他の土地へ逃げ込み、年貢の軽減などを訴える行為で、一揆のように武力に訴えることはないものの、いわばストライキのようなものでした。一応、合法なのでボイコットとは違います。ただ、合法と認められるには、訴えの対象になっていない年貢はちゃんと納めているなど、領民としての義務を果たしている必要があります。合法と認められない場合には、領主が妻子や家、田畑などを差し押さえることができました。いずれにせよ、領民に逃げられてしまっては、年貢が入らずに領国経営が立ち行かなくなります。領主というと、農民の血税の上にあぐらをかいているイメージがありますが、決してそんなことはなく、逃散や一揆などが起こらないようにする統治能力が求められていたんですね。前話のタイトルじゃないですが、まさに「領主はつらいよ」です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-10 18:00 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)