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いだてん~東京オリムピック噺~ 第26話「明日なき暴走」 ~人見絹枝~

 今回は「女いだてん」こと、人見絹江が主人公の物語でしたね。ドラマで描かれていたとおり、人見は日本人女性初のオリンピック出場選手にして日本人女性初のオリンピックメダリストとなった伝説の女性です。金栗四三日本マラソン界の先駆者なら、人見絹枝は日本女子陸上競技、ひいては日本女子スポーツの先駆者といっていいでしょう。しかし、「○○界のパイオニア」と言われる人たちの多くがそうであるように、彼女のアスリートとしての生涯も、決して順風満帆なものではありませんでした。


 人見絹枝は明治40年(1907年)年1月1日、岡山県の自作農の次女として生まれました。幼い頃から活発で身体が大きかった彼女は、岡山高等女学校に入るとテニスバレーボールなどでその才能を発揮しますが、一方、学業成績も優秀で、読書が好きな文学少女でもあったそうです。そんな彼女に両親は女子師範学校への進学を望んでいましたが、彼女のスポーツの才能を惜しんだ女学校の教師たちに熱心に勧められ、上京して二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)に入学します。


 大正14年(1925年)10月に行われた岡山県女子体育大会に出場し、三段跳び世界記録を記録すると(現在非公認)、その後も次々に多種目で日本記録を樹立し、一躍日本女子陸上を牽引する存在となります。一方で、まだ女子スポーツへの偏見が厳しく、数々の批判にも晒されました。結婚して子供を生むことこそが女性の仕事だと考えられていたこの時代、女性がスポーツをすること自体が否定され、また、人見の実家にも「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」「日本女性の個性を破壊する」などといった文面の書簡が送られて来ていたといいます。「バケモノねえちゃん」と呼ばれていたかどうかはわかりませんが、それに近い罵声はあったかもしれませんね。当時、人見絹枝とともに日本女子陸上界のトップを走っていた寺尾正・文という姉妹がいましたが、彼女たちもアムステルダムオリンピックの出場選手候補にあがっていましたが、家族の意向によって出場は叶いませんでした。これも、女子陸上への世間の偏見が原因だといわれています。そんな時代だったんですね。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、人見絹枝が国際大会の舞台で戦ったのはアムステルダムオリンピックが初めてではなく、その2年前の大正15年(1926年)にスウェーデンのイエテボリで開催された国際女子競技大会に日本からたった1人で出場し、彼女はこの大会で走り幅跳び立ち幅跳び優勝するなどの活躍を見せ、その名を世界に知られるようになりました。人見のオリンピック挑戦は決して井の中の蛙だったわけではなく、世界で通用した実績があっての挑戦だったわけです。


e0158128_22162429.jpg そして、迎えた昭和3年(1928年)夏のアムステルダムオリンピッにて、人見は女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーしました。残念ながら彼女が最も得意としていた走り幅跳びがなく、実質100m一本に絞っていたといいます。その100mで、まさかの準決勝敗退。オリンピックのプレッシャーというのは、今も昔も変わらない・・・というか、世間の風当たりが強かった人見選手にとっては、その重圧は今の選手の比ではなかったでしょう。ただ、ここで意気消沈してしまわないのが彼女のスゴイところで、翌日に行われた800m予選を通過し、さらにその翌日の8月2日に行われた決勝で、みごと銀メダルを獲得します。タイムは2分17秒6世界新記録。優勝したドイツのリナ・ラトケ選手とは胸差の同タイムでした。ドラマでは、100m敗退のあとに急遽800m出場を決めたように描かれていましたが、エントリーはしていたわけですから、出場する意思は最初からあったのでしょう。でも、本命はあくまで100mで、800mにはそれほど力を入れてはいなかったようです。しかし、結果はその800mで日本人女性初のメダリストとなった。あるいは、ドラマのように、100mが不本意な結果に終わったことが、彼女の800mの走りを生んだのかもしれません。


 ドラマでは、彼女のその後は描かれないようですね。ナレーションで語られていたように、彼女はオリンピック出場からわずか3年後の昭和6年(1931年)、24歳の若さでこの世を去ります。その直接的な死因は結核だったようですが、オリンピック後の彼女は、日本人女性初のオリンピックメダリストとして全国各地より依頼された講演会などで多忙な毎日を送るなか、国内外の競技会にも出場するなどのハードスケジュールをこなし、その疲労から体調を崩し、その無理がたたって死に至ったと言われています。世間の偏見に晒されていた彼女だけに、オリンピック後、一転して称賛される身となったことで、後進のためにその偏見をなくそうと必死で頑張っていたのかもしれませんね。師の二階堂トクヨは彼女の死を悼み、「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『婦人公論』に寄せています。


 紀行でも紹介されていたとおり、その後、陸上日本女子のオリンピックメダリストは、64年後の平成4年(1992年)のバルセロナオリンピック女子マラソンでの有森裕子選手まで待たなければなりません。その有森選手が銀メダルを獲得したのが、日本時間では人見のメダル獲得と同じ8月2日(現地では8月1日)だったという話も、不思議な縁です。また、日本人女子陸上の世界記録樹立というと、あの高橋尚子選手までありませんでしたし、トラック競技でいえば、世界記録もメダリストも未だ生まれていません。後にも先にも人見絹枝ただ一人の偉業ということですね。日本が誇る伝説のアスリートです。


 文学少女だった人見は、その死に際して、辞世の詩を詠んでいます。


 「息も脈も高し されど わが治療の意気さらに高し」


 彼女が息を引き取ったのは、奇しくも彼女が銀メダルを獲得した日と同じ8月2日でした。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-08 23:04 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第24話「種まく人」 ~関東大震災~

 今回も前話に引き続いて関東大震災の話でしたね。大正12年(1923年)9月1日に発生した大地震は、死者・行方不明者10万8000人に達するという未曽有の被害をもたらしました。被災者340万人、その被害の大半が火災による二次災害で、死者・行方不明者の9割が焼死全焼した家屋が38万世帯といいますから、その被害の甚大さは筆舌に尽くしがたいものでした。それだけ多くの家が焼けたということは、それだけ住む家を失った人がいたということに他なりません。そこで政府は、応急措置とし学校、官公庁、寺社などの公共施設へ被災者を収容し、また、明治神宮外苑屋外天幕を張り、約1万人を収容しました。


 続いて、現代でいうところの仮設住宅にあたる「バラック」の建設が計画され、9月4日以降、東京府、市、警視庁の分担によって建設が開始されます。明治神宮外苑、日比谷公園、靖国神社境内、上野公園、芝離宮、芝公園の6ヵ所に大規模なバラックが建設され、また、小学校の焼け跡や公園、空き地、広場など90ヵ所に小規模なバラックが建てられ、10月上旬から収容が開始されました。わたしも、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災を経験したひとりですが、私の住まいは一部損壊ですんだため避難所生活を送る必要はありませんでしたが、町中の学校や公園、スポーツ施設など至るところに仮設住宅が建てられ、そこで生活している方々の姿を毎日目にしていました。平成の仮設住宅ですら、その過酷な生活環境には目を覆うものがありましたが、この時代のバラック生活の劣悪さは、おそらくその比ではなかったでしょう。


e0158128_19143177.jpg この惨事のなか、大日本体育協会の名誉会長となっていた嘉納治五郎は、9月30日に帝国ホテルで理事会、常務委員会を開き、翌年に行われる予定の第8回パリオリンピックに日本人選手を派遣することを決議します。その一環として、この秋に第一次予選会を行い、翌年の4月中旬には第二次予選会を東京で開催することを決定します。そして、そのために、競技場建設を急ぐよう求めるということも。翌10月1日に発表した大日本体育協会の宣言文には、こうあります。


 「翌年七月にパリで開かれる国際オリンピック大会に選手を送る計画のあったことは一般の知るところであり、この震災のために全ての計画を放棄するのは極めて遺憾であるとし、この際海外に日本国民の元気と復興の意気を示すためにも、派遣したほうがよい」


 こんなときだからこそ、国民の士気を鼓舞するためにもオリンピックに出るべきだ、と。東日本大震災のときも、プロ野球の開幕前だったことで、自粛すべきか否かで議論がありましたよね。100年前も今も、直面する問題は同じようです。


e0158128_22162429.jpg そんな震災のドサクサのなか、人見絹枝が上京してきましたね。実際には、この翌年の4月に上京し、二階堂トクヨが塾長を務める二階堂体操塾に入学します。ドラマでもいっていましたが、彼女はこの年の岡山県女子体育大会において、走幅跳4m67という当時の日本最高記録(非公認)で優勝しています。そんな彼女のスポーツの素質に注目した岡山高等女学校の教師が、彼女に東京の二階堂体操塾に進学するよう勧めたそうですが、ドラマでは、シマちゃんこと増野シマが彼女の素質を見抜いたという設定でしたね。シマちゃんはドラマのオリジナルで、実在の人物ではありません。そんな架空の人物であるシマちゃんに、物語は人見絹枝をスポーツの世界へ導くという重要な役割を与えていたんですね。シマちゃんのような名もなき女性がいたからこそ、人見絹枝のような稀代のアスリートが生まれた、と。まさにタイトルどおり「種まく人」でした。あるいは、本当にシマちゃんのような「種まく人」がいたかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-24 22:17 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第22話「ヴィーナスの誕生」 ~田村富美子と梶川久子~

 今回は「ヴィーナスの誕生」というサブタイトルのとおり、日本女子スポーツの黎明期の話でしたね。大正10年(1921年)1月より女子師範学校で教鞭をとることになった金栗四三は、女子体育の振興に力を注ぎます。これまでスポーツに縁がなかった女子たちにその楽しさや魅力を知ってもらうために、金栗はまず、当時人気があったテニスを推奨。日本で初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催します。


 劇中、テニスや陸上でひときわ活躍していた村田富江という女性は架空の人物ですが、モデルとなった人物がいたようです。それは、軟式テニスのペアで活躍した田村富美子という女性で、その相方だった梶川久子という女性が、劇中の梶原(名字しかわからない)のモデルだと思われます。実在した2人は金栗の務める女子師範学校の生徒ではなく、お茶の水女子高師附高等女学校の生徒でした。金栗と教師生徒の関係だったわけではないようですね。富美子はドラマと同じく医者の娘でしたが、ドラマと違うのは、スポーツをすることについて理解ある親だったようです。


e0158128_18330050.jpg 大正12年(1923年)5月、田村と梶川は大阪で行われた極東選手権競技大会(中国、フィリピン、日本の3国間)に出場しました。このとき、前例のない女子選手の参加についての賛否が随分議論されたそうですが、そんな逆境を跳ね返して2人はみごと優勝します。当時、女子選手は袴姿でテニスをしていましたが、この大会で田村と梶川は、当時の世界ナンバーワン女子テニスプレイヤーだったフランスのスザンヌ・ランラン選手の写真を参考にしてデザインしたユニフォーム姿で出場します。これがたちまち大評判となり、大会後、彼女たちは一躍スターとなったそうです。ドラマで描かれていたように、巷では2人のブロマイドが売られ、彼女たちがデザインしたユニフォームが、三越百貨店で「田村・梶川式ユニフォーム」として売り出されることになったそうです。まさにコートの妖精。大正時代のマリア・シャラポワだったんですね。


私が子供の頃、漫画『エースをねらえ!』が大ヒットし、女子の運動部ではテニス部が圧倒的な人気でしたが、大正時代にも女子テニスのブームがあったというのは知りませんでした。いつの時代でも、JKは流行に敏感なんですね。


 ちなみに、田村が素足で走ったという話も実話だそうです。当時、数々の雑誌や新聞にこの写真が掲載されたのだとか。当時、生娘が素足を顕にするなど言語道断だった時代。彼女は、単にスポーツ万能だっただけではなく、かなり革新的な考えを持った女性だったのでしょうね。


 人見絹枝が出てきましたね。ちょっと陸上競技を知っている人なら、彼女の名前を知らない人はいないでしょう。ある意味、主人公の金栗四三より後世に有名な彼女ですが、ドラマのとおり、岡山県高等女学校時代はテニス選手として活躍していました。田村、梶川ペアと戦ったかどうかはわかりませんが。彼女のその後については、これからドラマで描かれるでしょう。


 ちなみにちなみに、金栗が女生徒から「パパ」と呼ばれていたのは、どうやら本当の話らしいですよ。大正女子も、案外いまと変わらないんですね。そう呼ばれてニヤけている金栗も金栗ですが。おそらくドラマのように、スヤさんは怒っていたでしょう(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-10 18:35 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第18話「愛の夢」 ~走る広告塔・金栗四三と女子体育の出発点~

 京都から東京間の駅伝イベント企画を成功させた金栗四三は、さらに長距離走の普及に力を尽くします。関東の大学から長距離選手たちを集めて、富士山を練習場として連日鍛錬を重ねました。大正2年(1913年)に時事通信社が主催した富士登山マラソン競争という大会があったそうですが、一度きりになっていたのを、大正6年(1917年)に第2回大会として金栗が復活させ、自身の教え子を全員出場させました。このとき優勝したのは、金栗の東京高等師範学校の後輩の秋葉祐介で、その他の上位もほとんどが金栗の教え子だったそうです。のちにこの大会は富士登山競走駅伝となって、昭和20年代の終わりまで続きました。


e0158128_19143806.jpg 大正8年(1919年)には、その後輩の秋葉祐介と一緒に下関から東京までの1200kmを走破する耐久マラソンにも挑みました。それも、7月22日から8月初旬にかけての1年で最も暑い時期を選んでのチャレンジでした。これは、金栗自身が暑さのためにリタイアしたストックホルムオリンピック苦い経験からきたものだったことは言うまでもないでしょう。2人は20日間に渡って毎日60kmを走り続けました。金栗は朝日新聞に宿舎などの協力を依頼し、2人の20日間の激走は紙面で毎日報道されました。その挑戦は日本中で大きな話題になり、通過する町では沿道に大勢の見物客が集まったそうです。そんな沿道の人達にわかるように、2人は胸に「金栗」「秋葉」の名札をつけて走りました。


 さらに、同じ年の11月には、日光から東京間の120kmを、自身が勤める獨協中学校の徒歩部員たちに10区間を駅伝形式で走らせ、自身は1人で走って競争するというイベントに挑戦します。生徒たちの駅伝チームは3チーム作り、また、東京高等師範学校の徒歩部にも5区間で参加してもらい、その4チーム対金栗1人というレース。「師弟対決」というこのフレーズにマスコミが食いつき、これがまた世間の大注目を浴びました。結果はさすがに金栗の負けでしたが、マラソン、駅伝の普及という意味での興業としては、大いに成果をあげたといえます。この時期の金栗は、まさに走る広告塔として自身の知名度を存分に生かしていたんですね。


e0158128_22045659.jpg 今回は女子体育にもスポットが当てられていましたね。イギリス留学帰りの二階堂トクヨはのちに日本女子体育大学の創設者となり、後世に「女子体育の母」と称される女性です。大正4年(1915年)に東京女子師範学校教授となり、第六臨時教員養成所教授を兼任していましたが、日本の女子体育の教育に不満を抱き、大正11年(1922年)、私財を投げ打って日本女子体育大学の前身となる「二階堂体操塾」を開きました。その門下生に、のちに日本人女性初のオリンピックメダリストとなる人見絹枝がいるのですが、ひょっとして、杉咲花さんが演じるシマのモデルは人見絹枝でしょうか? だとしたら、年代が少し違うようですが(人見絹枝は、この頃はまだ12~3歳)、あくまで架空の人物という設定で、シマという名前にしたんでしょうか? もうちょっと観てみないとわかりませんね。ドラマ中、シマが帯を解いて走り出した瞬間、ピストルのスタード音が鳴りましたが、あれは、女子体育のスタートという意味だったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-05-13 22:05 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)