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幕末京都逍遥 その113 「戒光寺(御陵衛士菩提寺)」

東山にある泉涌寺の塔頭・戒光寺に、慶応3年11月18日(1867年12月13日)に起きた油小路通事件で落命した伊東甲子太郎御陵衛士4人の墓があります。


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ここに葬られているのは、新選組・近藤勇らの謀略によって殺された伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人。

彼らの遺体は、事件後3日間現場に放置されていたといいます。

これは、生き残った御陵衛士の他のメンバーを誘き寄せるための新選組の策でしたが、結局、残党は現れず、その後、4人の遺体は新選組の手によって「その104」で紹介した光縁寺に葬られたそうです。

その後、明治に入って、御陵衛士の残党が光縁寺から戒光寺に改葬したそうです。


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戒光寺の本寺である泉涌寺は歴代天皇家の菩提所で、慶応2年12月25日(1867年1月30日)に崩御した孝明天皇(第121代天皇)の御陵(後月輪東山陵)もありました。

彼らの結成した「御陵衛士」の名称は、孝明天皇の御陵の護衛者という意味です。

熱烈な勤王志士だった伊東は、戒光寺の長老である堪然の仲介によって、孝明天皇の御陵守護の任を拝命していました。


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現在、4人の墓は一般公開されていません。

以前は普通に墓参できていたみたいですが、現在は墓参するには事前申し込みが必要で、それも、わたしのような観光客には許可いただけないみたいです。

その理由は、過去の聖霊に畏敬の念を持たない不心得者から墓を守るため、だそうです。

残念ですが、何か、そうせざるを得ない出来事があったのでしょうね。

たしかに、墓は観光名所ではないので、やむを得ません。


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御陵衛士を結成してからわずか8ヶ月で落命した伊東甲子太郎ら4人。

さぞかし無念だったに違いありませんが、ここ戒光寺に葬られたことで、死してなお、御陵をお守りし続けているといえます。

ある意味、武士の本懐かもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-14 23:20 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その112 「御陵衛士屯所跡(月真院)」

東山にある高台寺の塔頭、月真院を訪れました。

ここは、新選組から分裂した伊東甲子太郎率いる御陵衛士が屯所とした場所です。


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伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。

そんな伊東を近藤勇参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤らとは「攘夷」の点では結ばれていても、佐幕色を強めていく新選組の方針に矛盾を感じはじめ、やがて新選組を離脱

同志14名と共に御陵衛士を結成します。


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「御陵衛士」とは、孝明天皇(第121代天皇)の御陵(墓)護衛者という意味。

熱烈な勤王志士だった伊東は、孝明天皇陵(後月輪東山陵)のある泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命していたため、この名称を掲げたのでしょう。


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慶応3年3月10日(1867年4月14日)に新選組を離脱した御陵衛士は、はじめは五条橋東詰の長円寺(善立寺説もあり)に屯所を構えていましたが、同年6月、ここ月真院に屯所を移しました。

新選組とは表面的には話し合いでの分裂でしたが、その思想は佐幕勤王倒幕という真逆の立場であったため、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たといいます。


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高台寺の塔頭を拠点としたため、御陵衛士はのちに「高台寺党」とも呼ばれるようになります。


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それから5ヶ月後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)、「その110」で紹介した油小路において、新選組近藤勇らの謀略によって伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人が死亡。

残った同士は薩摩藩邸に逃げ、御陵衛士は解散を余儀なくされます。

ここに、わずか8ヵ月の御陵衛士の短い歴史が終わります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-11 01:44 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その110 「伊東甲子太郎外数名殉難之跡(本光寺)」

前稿で紹介した不動堂明王院から北へ150mほど上ったところにある本光寺の山門の横に、「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」と刻まれた石碑があります。

ここは新選組元隊士の伊東甲子太郎御陵衛士の面々が粛清された油小路事件があったとされる場所です。


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伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。

そんな伊東を近藤勇参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤らとは「攘夷」の点では結ばれていても、佐幕色を強めていく新選組の方針に矛盾を感じはじめ、やがて新選組を離脱

同志14名と共に御陵衛士を結成します。


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やがて近藤勇は、御陵衛士にスパイとして送り込んでいた斎藤一から、伊東が近藤の暗殺を計画しているとの報告を受け、伊東の殺害を決意します。


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慶応3年11月18日(12月13日)、近藤は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を開き、その帰路、新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せて、酔っている伊東を襲撃しました。

槍で襲われた伊東は、深手を負いながらも一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで倒れたといいます。

その絶命した場所が、ここ本光寺前だったと伝えられます。


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この扉の前だったのでしょうか?


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山門をくぐると、古い石塔があり、その横に「伊東甲子太郎絶命の跡」と刻まれた新しい石碑があります。

伝承によると、かつてこの石塔は本光寺門前にあったそうで、伊東はこの石塔に寄りかかるように絶命したといいます。


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その後、伊東の遺骸は七条油小路の辻に放置されました。

これは、遺骸を引き取りに来た御陵衛士の仲間を誘き寄せるための罠で、その計画通り、藤堂平助ら同志8名が現場に現れ、待ち伏せていた永倉新八 、原田左之助ら約40名の新選組がこれを迎えちました。

近藤は、幹部のなかでは最年少だった藤堂は生かしておくよう命じていたといいますが、その命令が新選組隊士全員に行き届いておらず、激闘のすえ絶命します。

その他、御陵衛士の服部武雄、毛内有之助も死亡しました。

この事件が起きたのは坂本龍馬が暗殺された3日後のことで、伊東と藤堂は龍馬暗殺の当日、龍馬が暗殺された近江屋を訪問し、命を狙われているから土佐藩邸に移るよう忠告したといいますが、その日の夜に龍馬が暗殺されて、自分たちの忠告が届かなかったことを嘆いたといいます。

その3日後に自分たちが殺されることになろうとは、露ほども思わなかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-09 00:22 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)