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西郷どん 第43話「さらば、東京」その4 ~明治6年の政変<西郷と大久保の決別>~

 e0158128_15131310.jpg昨日の続きです。

 辞表を提出した西郷隆盛は、まもなく日本橋小網町にあった家を引き払い、隅田川の枕橋近くにあった越後屋喜右衛門の別荘に身を隠しました。越後屋喜右衛門は旧徳川時代に庄内藩御用達だった人物で、その縁で、この当時西郷家の面倒をみていました。西郷はここに数日間滞在し、釣り詩作揮毫などをして過ごしたと言われています。西郷は東京を去ることを決意し、あるいは最後になるかもしれない東京での生活を、ここで心に刻んでいたのかもしれません。西郷は、政府を去った自分がいつまでも東京にいると、自分を担ごうとする血気の集団が騒ぎ出して何をしでかすかわからない、そう考えていたのでしょう。西郷は、「西郷隆盛」という人物が政治に与える影響力の大きさをいちばんよく知っていたといえるかもしれません。


 西郷は、彼を慕う桐野利秋ら取り巻きの面々にも、一言も報せることなく東京を去ります。ただ、ひとりだけ別れの挨拶をしにいった人物がいます。大久保利通でした。


 e0158128_15131733.jpg10月28日、西郷は突然、大久保の邸を訪れます。そこには先客がいました。伊藤博文でした。伊藤は気を使って、「拙者ははずしましょうか?」といいますが、西郷はかまいませんと言って伊藤に会釈し、大久保と向き合ったといいます。そして西郷は大久保に対して、これから鹿児島に帰る旨を伝え、「後のことは、よろしゅう頼ん申す」と言いました。すると大久保は、これまで誰にも見せたことがないほどの怒気を表し、「そいは吉之助さぁ、おいの知ったこつか!! いつでんこいじゃ。いまはちゅう大事なときにお前さぁは逃げなさる。後始末はおいがせんならん。もう、知ったこつか!」と、激しく罵倒したといいます。これには西郷も気を悪くしたらしく、珍しく激しい口調で「知らんとはどういうこつか!」怒りを顕にし、そのまま立て上がって出ていきました。大久保はよほど腹が立っていたらしく、玄関まで見送るということさえしなかったといいます。これを終始、側で見ていた伊藤がさすがに見かね、西郷が退去したあと、「アンナ場合にアンナ挨拶は善くない」と大久保をたしなめると、大久保は先刻とは別人のような疲れを見せて、「私もそう思います」と、小声でいったといいます。


 このエピソードは、後年、伊藤がハルビンで命を落とす直前に、新聞記者に語った回顧談です。伊藤は、西郷のことをあまり良く思っていなかったのか、後年になっても西郷の思い出をあまり語ろうとしなかったといいますが、このときの光景はよほど印象深かったのか、複数の場所で人に語っています。また、西郷の死後、大久保自身が前島密に対して語ったところでは、このとき大久保が懸命に西郷の帰郷を止めたのに対し、西郷は頑なにこれを拒絶したため、頭にきた大久保が「然らば勝手にせよ」と言ったと回顧しています。このあたりのエピソードの微妙な違いは今となっては確認のしようがありませんが、このとき、二人が喧嘩別れのような別れ方をしたのは間違いなさそうですね。


 ただ、ここで考えたいのは、西郷が結果的に自分を政府から追い出した大久保のところだけに別れの挨拶をしに行ったということでしょう。西郷にとって大久保は、竹馬の友であり、幕末から維新にかけて苦楽を共にしてきた唯一無二の戦友でした。自分のことを最もよく理解しているのは大久保だという思いがあり、どれだけ政見を違えて政敵となっても、大久保を畏敬する気持ちに変わりはなかったのでしょう。また、大久保も、常に沈着冷静で感情的に人を罵ることなどなかった彼が、西郷に対してのみ、伊藤が見たこともないような怒気を表したわけで、裏を返せば、それだけ大久保にとっても西郷は特別な存在だったということの表れだったでしょう。伊藤には喧嘩別れのように見えたこのときの二人でしたが、二人なりのお互いを認めあった別れの挨拶だったのかもしれません。


 この日を境に、西郷は大久保に向けて書簡を発することは一度もありませんでした。文字通り、この日がふたりの永遠の別れとなります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-22 02:33 | 西郷どん | Trackback | Comments(4)  

西郷どん 第43話「さらば、東京」その1 ~明治6年の政変<征韓論反対派の裏工作>~

 ドラマはいきなり征韓論閣議から始まりましたが、ここに至るまでにも様々なドラマがありました。本稿では、その経緯をできるだけ手短に解説します。


e0158128_15131733.jpg 征韓論が閣議の議題にはじめてのぼったのは明治6年(1873年)6月12日で、その2ヶ月後の8月17日の閣議で西郷隆盛朝鮮国派遣内定しましたが、前話で描かれていたように、征韓論が唱えられる以前の5月26日に、すでに大久保利通は帰国していました。木戸孝允も、大久保に遅れること2ヶ月後の7月23日に帰国しています。しかし、ふたりともこの重大な問題に直接かかわろうとしませんでした。大久保は帰国するやいなや病気を申し立てて自邸に引きこもり、大蔵卿としての職務も引き続き大隈重信に代務させ、7月になると、静養のためとして夏期休暇をとり、近畿の名所旧跡をめぐる観光旅行に発ちました。木戸もまた、体調不良を理由に参議としての職務を休みます。大久保も木戸も、留守政府に対して強い不満を抱いており、ましてや、欧米の進んだ文明を目の当たりにしてきた彼らにしてみれば、いまの日本の国力で外征など愚の骨頂、まずは内治に力を注ぎ、富国強兵に努めるべきだと考えていました。しかし、自分たちだけで現行政府の暴走を抑えることはできない。ここは何としても岩倉具視の帰国まで時間を稼がねばならない。彼らにとってこの職務放棄は、重要な政治行動だったと言えるかもしれません。


e0158128_11234954.jpg 9月13日、岩倉が帰国しました。大久保はさっそく、太政大臣・三条実美と右大臣・岩倉具視に対して長文の意見書を提出しました。そのなかで大久保は、財政上の問題、政府内の機構の問題、欧米列強の野心と日本の国際間における位置の低さの問題など、あらゆる角度から我が国の現状を分析し、いま朝鮮を刺激することがいかに無意味で愚かなことであるかを説きました。大久保と同じく欧米列強の実情を見てきた岩倉は、大久保の説くところの正しさを十分に理解していました。岩倉は帰国するや否や、すぐさま50日間の休暇を願い出ます。理由は、岩倉の実父の服喪でした。岩倉はパリにいたときに実父の訃報に接しましたが、外遊中だったために喪に服することができませんでした。公卿の慣習では、父の忌は50日でした。岩倉はこれを理由に廟議の開催を50日伸ばし、にわかに沸騰した征韓論の政情に冷却を与えようとしたんですね。策謀家・岩倉具視にとっては、父の死も政略の道具でした。


 しかし、これに最も困ったのは、岩倉の帰国を待ち望んでいた三条実美でした。彼は彼自身の力ではとても西郷を始めとする留守政府の面々を抑えることはできず、ひたすら岩倉の政治力を期待し続けて待ちあぐねていました。三条は岩倉に服喪の短縮を懇願し、岩倉はやむなく7日間に縮めます。そしてこの7日間、水面下で政局打開の裏工作が繰り広げられるんですね。


 e0158128_21582847.jpgこのときもっとも活躍したのは、当時、工部大輔だった伊藤博文でした。伊藤は年も若くてフットワークも軽く、同じ長州藩出身の木戸とは縁が深く、また、外遊中に大久保にも気に入られ、同じ征韓論反対派でありながら反りが合わない大久保と木戸の間を周旋する存在としては、うってつけの役者でした。伊藤はまず、参議の職を捨てようとしていた木戸に対して説得を重ね、大久保が参議になるなら、自分も辞職を思いとどまると言わせるまでに事を運びます。大久保の参議就任は、岩倉も三条も望むところでした。そこで伊藤は、大久保邸に足繁く通い、説得を重ねます。


 しかし、大久保は容易に首を縦には振りません。その理由はいくつか考えられますが、まず挙げられるのは、国元の旧藩主である島津久光の存在があったからでしょう。久光は相変わらず、西郷と大久保が政府の大官になっていることを嫌いつづけていました。西郷が参議兼陸軍大将という重責を担っている以上、自身は大蔵卿という職にとどまっているほうが賢明と考えていたのかもしれません。また、もうひとつの理由としては、自身が参議になることによって、西郷と直接対決することになる。これをどうしても避けたかったのでしょう。これは、竹馬の友である二人の友情関係というような美談ではなく、大久保が恐れたのは、西郷の取り巻きだったと考えられます。西郷と対決するということは、西郷を慕う薩摩系近衛兵たちが暴挙に走り、自分は殺されるかもしれない。そう危惧していたのではないでしょうか。しかし、伊藤の熱心な説得に根負けした大久保は、10月8日、とうとう参議就任を受諾します。このとき大久保は、当時、アメリカに留学中だった長男と次男に宛てた遺書を残しています。まさに大久保は、一命を賭して西郷と闘う覚悟を決めていたんですね。


明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-19 01:19 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第32話「大逆転!」 ~功山寺挙兵~

 たったひとりで決起した高杉晋作でしたが、ほどなく力士隊を率いていた伊藤俊輔が同調して立ち上がります。すると、少しずつ共鳴する者たちが増え、遊撃隊も加わります。この時点の人数は、物の本によれば84人だったといわれていますが、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』では80人半藤一利氏の著書『幕末史』では60余人と書かれています。いずれにせよ、長州藩正規軍の兵力は役3000人。どう考えても衆寡敵せずですが、晋作はこの人数で挙兵します。

 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

 とは、晋作の師である吉田松陰の有名な言葉ですが、これは、松蔭の生前、晋作が「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」と質問したことに対しての答えだったといいます。今こそ命を賭けるべきとき・・・晋作は師の言葉を思い出し、そう覚悟したことでしょう。

 挙兵決行日は元治元年(1864年)12月15日。本当は、先日の14日に挙兵する予定だったようですが、準備に手間取り翌日にずれ込んでしまったと言われています。12月14日は、師の吉田松陰が最初に脱藩した日であり、また、赤穂浪士吉良邸討ち入りの日でもありました。自身の覚悟を、赤穂四十七士や松蔭の覚悟になぞらえていたのではないかと言われています。奇しくも、この日は吉良邸討ち入りのときと同じく、下関では珍しい大雪でした。

 立ち上がった反乱軍は、三条実美五卿がいた功山寺に集結。ここで晋作は三条らに、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と言ったと伝えられます。この言葉は、この時期、ほうぼうに喧伝されました。周囲は大雪。死を覚悟し、わずか数十人で決起した反乱軍のリーダーの台詞としては、あまりにカッコよすぎですね。この辺りも、晋作が後世に人気の高い所以でしょう。そして、翌16日からは下関の会所、三田尻海軍局などを次々と襲撃して代官所を占領。さらに、軍監「癸亥丸」の奪取にも成功します。

 赤禰武人の不在中、奇兵隊をまとめていた山縣狂介は、当初は晋作の決起を時期尚早として反対の立場をとっていましたが、晋作ら反乱軍の勢いを見て、翌16日の奇兵隊の大部分を率いて合流します。山縣は若いときから、良くいえば慎重、悪くいえば老人のような性格で、長州藩若者特有の軽挙を好みませんでした。彼は晋作らに呼応するにあたって、自分は不本意ながら、やむなく決起するということを表すために、髪を剃って坊主になりました。往生際が悪いというか、その後、年が明けた絵堂・大田の戦いでは、山縣はそれなりに活躍を見せるのですが、司馬遼太郎などは『世に棲む日日』のなかで、「唯一、山県が軍人らしいところをみせた場面であった」と、皮肉たっぷりに書いています。決起して間もなく晋作に同調した伊藤俊輔と、勢いを見て乗っかってきた山縣狂介。のちにそれぞれ、初代、第三代の内閣総理大臣になるわけですが、後世の評価は、このときすでに見えていたような気がします。

 その後、瀬戸内海沿岸に布陣していた諸隊も次々に加わり、晋作は海の上から空砲威嚇砲撃を開始。俗論党の士気は下がり、反乱軍の勢いは一気に増していきます。この頃には、井上聞多率いる農民軍も加わり、その数は1000人を超えていました。こうなると、もう反乱軍ではなく、立派な革命軍です。革命が成るときというのは、人数ではなく勢いなんですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-10 21:40 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第28話「泣かない女」 ~伊藤俊輔、井上聞多の留学と、下関戦争の講和談判~

 ドラマは未亡人となった奥御殿に入る「大奥編」に入りましたが、残念ながらわたしは文の奥御殿勤めの逸話をほとんど知りませんので、当ブログはあくまで長州藩を中心とした幕末の情勢に終始します。

 時は遡って、禁門の変(蛤御門の変)の1年以上前、長州藩は極秘で5人の若者を英国に留学させていました。メンバーは伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)で、いずれも維新後それぞれの分野で活躍することになる人物ですが、そのなかでも特に伊藤俊輔と井上聞多は、政府高官となる人物として周知のところだと思います。この当時、攘夷の先鋒藩だった長州藩が西洋に留学生を出すなど矛盾した政策でしたが、これを企画実行したのは、このとき藩政の中心にいた周布政之助だったようです。周布は、攘夷論を表向きは肯定しながら、一方で、攘夷が不可能であることも感じ取っていました。そこで、来るべき西洋化の時代に向けての人材養成の必要性を感じていましたが、藩内は攘夷の狂気が絶頂のなか、表だった留学生派遣は不可能で、5人はあくまで「秘密留学生」としての密出国でした。周布のこのときの機転がなければ、伊藤や井上ののちの栄達はなかったかもしれませんね。

 留学した伊藤らは西洋との国力の違いを目の当たりにし、攘夷がいかに無謀な政策であるかを痛感しますが、彼らの留学中に長州藩は馬関海峡で攘夷を決行し、更に八月十八日の政変で京のまちを終われ、政局はめまぐるしく変わっていきました。留学先の英国の新聞で長州藩の現状を知った伊藤と井上は、藩の危機を案じ、他の3人の制止を聞かずに帰国を決意します。ふたりの英国滞在はわずか半年、中途半端な留学となりましたが、他の3人がその後、単なる西洋仕込みの知識人というだけに終わったことを思えば、ここが伊藤と井上の人生のターニングポイントだったといえるかもしれません。

 ふたりが帰国した約1ヵ月後に禁門の変が起こり、長州藩は瀕死の敗北を喫しますが、その翌月には、朝廷より勅許を得た幕府から長州征伐の軍令が下り、さらに時を同じくして元治元年(1864年)8月5日には、前年の馬関海峡における砲撃事件の賠償交渉が遅々として進まないことに業を煮やした英仏米蘭の四ヵ国連合艦隊17隻が、馬関海峡に姿を現し、一斉に砲撃を開始しました。まさに、泣きっ面に蜂とはこのことでしょう。このときの長州藩は、国内外すべてを敵に回した究極のいじめられっ子でした。

 8月8日、長州藩の降伏が決定すると、その講和の席に誰を送り込むかを思案した結果、外国人相手に交渉できる胆力があるのは高杉晋作しかいないだろう、ということになります。このとき晋作若干24歳。ついこの前まで罪人として獄に繋がれていた若造が、いきなり藩代表として事にあたるわけですから、いかにこの時期の長州藩上層部に人材がいなかったかがわかります。しかし、150石の身では藩代表とはなれないため、臨時で藩筆頭家老である宍戸家の養子ということにし、名を宍戸刑馬として交渉にあたりました。そしてその通訳官として、英国帰りの伊藤と井上が同席することになります。ふたりはこのために帰ってきたようなものですね。

 談判の席において連合軍はさまざまな条件を突きつけてきますが、そのなかで、彦島を(香港のように)百年ほど租借地にさせてくれとの要求があったといいます。晋作は、他の条件はほぼ受け入れたたのに対し、この要求は頑として拒否します。後年の伊藤の回想によると、このとき晋作は、古事記、日本書紀の講釈をはじめたといいます。
 「そもそも日本国なるは高天原よりはじまり、はじめ国常立命ましまし、つづいて伊弉諾・伊弉冊なる二柱の神現れ・・・」
 と、他の長州藩士も連合国側も呆然とするなか、延々と説き続けました。つまり晋作がいうところは、日本は神代より一民族の国家であり、1センチ四方の土地とて譲ることは出来ないということでしたが、その結論に至るまで、およそ2日間日本の歴史を説き続けたといい、相手が呆れて止めても聞かず、最終的には、相手側が疲れ果てて「もういいよ」と、租借の要求を撤回しました。租借地=植民地化ということを、上海を見てきた晋作は十分知っていたのでしょうが、これを取り下げさせた晋作の交渉術は、見事というべきか無茶苦茶というべきか・・・。いずれにせよ、もし租借の要求を受け入れていれば、日本の歴史はずいぶん変わっていたかもしれませんね。このときの晋作の様子を、英国通訳官だったアーネスト・サトウはのちに、「戦争に負けたくせに『魔王』の如く威張っていた」と描写しています。

 魔王の働きによって連合国との講和は決着をつけましたが、長州藩の試練はまだまだ続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-14 17:24 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(4)  

花燃ゆ 第12話『戻れないふたり』 ~文と久坂玄瑞の新婚生活~

 安政4年(1857年)12月、久坂玄瑞は晴れて夫婦となりますが、ふたりの新婚生活の場は、文の実家である杉家でした。その理由は定かではありませんが、おそらく、玄瑞は若くして親兄弟と死別しており、孤独な身であったこと、久坂家と杉家は直誠意距離で約1里半離れており、松下村塾の門弟として通い詰めるには遠かったことなどが理由だったのでしょう。一説には、吉田松蔭に目をかけられていた玄瑞は、結婚前から杉家で暮らしていたともいいます。文と玄瑞を結婚させたのは松蔭の意向だったといいますから、あるいは、ふたりを結婚させて、これまで以上に玄瑞を身近において指導したかったのかもしれません。いずれにせよ、ふたりの新婚生活は、玄瑞のマスオさん状態でスタートします。

 玄瑞の「不美人」発言の件、やけにひっぱってましたね。まあ、数少ないふたりの馴初めのエピソードですからね。この話は前話の稿で紹介したとおり(参照:第11話)、同じ松下村塾生だった横山幾太という人物が明治24年(1891年)に執筆した随筆『鷗磻釣餘鈔』に書かれていたものです。実際にこんな発言があったかどうかはわかりませんが、少なくとも、本人の耳に入れることはなかったでしょう。ドラマでは酔った高杉晋作KYな爆弾発言を吐いちゃってましたけどね(笑)。あのシーンは笑っちゃいました。

 ちなみに、伊藤利助が凍りついた空気をフォローするために「不美人はおすみちゃん」と言っていましたが、その“おすみちゃん”こと入江九一の妹・すみ子は、のちに利助のとなる女性です。他愛もないシーンですが、いちおう伏線をはってるんですね。もっとも、ほどなく「最初の妻」という言い方になるのですが・・・。

 そんなこんなで、文と玄瑞の夫婦生活がスタートしますが、年が明けた安政5年(1858年)2月、玄瑞は予てから希望していた江戸遊学が許され、萩を発ちます。そのため、ふたりの新婚ホヤホヤの生活は、わずか2ヵ月ほどで別居状態を強いられることとなります。こののち、玄瑞は江戸、京都、下関を拠点に志士活動を活発化させていくため、夫婦は事実上の別居状態となります。ふたりの夫婦生活は、玄瑞が自刃する禁門の変までの約5年半でしたが、実際にひとつ屋根の下で暮らしたのは、延べ数ヶ月ほどだったとも・・・。それが理由だったのか、ふたりの間に子宝は恵まれませんでした。決して、屋根裏部屋で寝ていたからではありません(笑)。

 椋梨藤太周布政之助の政権争いによって、奥方たちの勢力図も一変したようです。もちろん、奥方たちの記録など残っておらず、ドラマのフィクションではあるのですが、現代社会でも、社宅住まいなどの奥様方は、似たようながあると聞きますよね(まるでドラマ『半沢直樹』の奥様会を見ているようでした)。当時の武家社会は狭い社会ですから、実際にも、あんな感じだったんじゃないでしょうか? そんななか、夫・小田村伊之助のために、妹の文のために、懸命に椋梨の奥方に取り入る寿。なんとも健気じゃないですか・・・。なんで、伊之助はこの妻の内助の功を評価してあげられないのでしょうね。文の縁談にしても、妹のことを思ってやったこと。責められることではないですよね。なんか、寿が不憫になってきました。

 文と玄瑞の馴初め話で2話ほど歴史が停滞していましたが、江戸では赤鬼・井伊直弼大老に就任しました。いよいよ、安政の大獄の始まりです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-23 19:47 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

シリーズ最後です。

江戸時代も後期に入った明和6年(1769年)兵庫津一帯は尼崎藩領から離れ、幕府の直轄領となります。
このとき、兵庫陣屋の敷地を縮小して「勤番所」となり、兵庫城の堀も幅2間分(約3.6m)を残して埋め立てられ、町人地として払い下げがおこなわれました。

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外堀の外にある、町屋街路の跡です。
いわゆる城下町ですね。
調査によると、何度も火災に遭いながらも再建し、町屋を営み続けていた様子が明らかになったそうです。
その一軒一軒の町屋の区画は、何度も何度も同じ区画のまま踏襲されていることがわかったそうで、その礎石も、ほとんど同じ場所に敷かれていたことが明らかになったそうです。

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写真は、街路を掘った断面です。
何層にもなっているのが、その時代時代の道の跡だそうで、グレーの部分が地表、茶色の部分が埋められた土だそうです。
焼けては埋めて道を造り、また焼けては埋めて道を造る、そうした250年の繰り返しの歴史の跡が、この地層だそうです。
すごいですね。

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出土品も数多く展示されていました。

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明治元年(1868年)5月、この場所に兵庫県庁が置かれ、初代知事にのちの初代内閣総理大臣・伊藤博文が赴任します。
初代兵庫県知事が伊藤博文ということも、知らない人が多いですよね。
しかし、わずか4ヶ月で県庁は現在の中央区に移転。
その後、明治6年(1873年)までは外郭となっていた土塁が残っていたようですが、市街地発展のため取り除かれ、翌年には大規模な兵庫港改修工事が始まり、兵庫新川運河の開削によって、兵庫城はほとんど破壊されてしまいます。
今となっては、なんで史跡として残さなかったのかと思ってしまいますが、城跡を史跡とみなすようになったのは近年のことで、明治新政府の発足当時は、城跡は無用の長物でしかありませんでした。

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兵庫城が水没した兵庫新川運河です。
上の写真左側に少し写っているのが、今回の発掘現場ですね。
下の写真は、運河の東側から西側の発掘現場に向かって撮影したものです。
この運河が出来たことによって、船を風や波から守る避難泊地として大いに活躍し、それまで頻繁にあった海難事故激減したそうです。
当時、神戸港発展のためには、不可欠な工事だったということですね。
兵庫城が運河の底に消滅したのも、やむを得ないことだったのでしょう。

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現在、その運河西側の遊歩道に、「兵庫城跡、最初の兵庫県庁の地」と刻まれた碑が立っています。

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運河西側から発掘現場を望む場所に、城跡を見守るかのように無数のかもめが整然と並んでとまっていました。
あまりにも印象的だったので、思わすシャッターを切りました。

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まるで、発掘調査を見守るかのようですね。

こののち、発掘調査は終了して、当初の予定どおりイオンのショッピング施設が建設されます。
イオンモール側にしてみれば、金を出して神戸市から土地を買ったにもかかわらず、この発見のおかげで工期が延期になり、迷惑千万な話だったと思いますが、われわれ歴史ファンの無責任な意見としては、これほど立派な遺跡が発掘されたのに、調査が終われば破壊というのは、なんともやりきれない思いです。
これまで謎だった兵庫城は、地元神戸市民ですら、その存在自体を知らない人のほうが多かったと思います。
今回の発見は、学術的価値だけでなく、神戸市民、兵庫県民の宝でもあると思います。
この歴史的遺産が、こののち完全に破壊され、もう二度とその姿を表すことはありません。
残念でならないですね。
もう決まったことでしょうから、今更わたしがここで訴えても、どうなるものでもないでしょうが、なんとか遺跡を残してほしいと思っているのは、きっとわたしだけではないでしょう。
明治の運河開削はやむを得ななかったのかもしれませんが、平成のショッピングモール建設は、400年前の歴史的遺産を破壊してまで建てなければならないものでしょうか?
いったん神戸市がイオンモールに売ったものを、ふたたび買い戻すなどといったことがあり得ないことはわかっています。
ですが、400年前の先人たちからのメッセージを、どうにか保存する手立てはないものかと、素人ながら思う次第です。
壊してしまったら、もう二度と元へは戻せないですからね。


二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-06 16:54 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

八重の桜 第44話「襄の遺言」 ~一国の良心~

 同志社大学にするため奔走していた新島襄でしたが、その一方で、肝心の同志社英学校で学ぶ学生たちの中途退学が目立ち始めます。その理由は、明治政府の定める徴兵制度にありました。政府は、官公立学校の学生にのみ兵役免除の特権を与え、私立学校の学生にはこれを認めませんでした。となれば、学生たちが官公立学校に転校したいと考えるのは無理もなかったでしょう。政府にしてみれば、官公立学校に優秀な人材を集めたいという思惑があったのかもしれませんね。あるいは、伊藤博文と対立して政府を追われた大隈重信東京専門学校(のちの早稲田大学)を開校したことも、政府を刺激したかもしれません。

 「官立大学は政府の意のままに人を育てる大学です。それに対抗しうる自立した私立大学が必要なのです。」

 ドラマでの襄の台詞ですが、まさしく襄の大学設立の趣旨はこの台詞どおりだったようですね。襄の「同志社大学設立の旨意」に、次のように記されています。

 「一国を維持するは、決して二三の英雄の力に非ず。実に一国を組織する教育あり、知識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず。是等の人民は一国の良心とも謂ふべき人々なり。而して吾人は即ち此の一国の良心とも謂ふ可き人々を養成せんと欲す。」

 「一国の良心とも謂ふ可き人々」・・・つまり、国の権力に左右されない民間人、国のチェック機能となれる人材、といったところでしょうか。これが、エリート官僚を養成する官学に対抗する私学の本来の教育理念だったんですね。官学のすべり止めになっちゃってる現代とは、ずいぶん違います(まあ、現代では私学からでも官僚になれますが)。

 そんな襄が、明治17年(1884年)4月、再び欧米に向けて旅立ちます。その表向きの理由は静養だったようですが、本来の目的は大学設立の資金集めだったようです。しかし、ドラマのとおり、同年8月、スイスのサンゴタール峠心臓発作を起こして倒れてしまいます。あるいは、日本にいた頃から兆候があったのでしょうか。幸いこのときは命を落とすまでには至らず事なきを得るのですが、襄自身は死を覚悟したようで、ドラマにあったように、八重と両親に宛てた遺書を記しています。

 「私の髪を一房切り取り、キリストの名において結ばれて、断つことのできない絆のしるしとして、京都にいる大切な妻に送って欲しい。」

 もちろん、それ以外にも同志社のことなど連連と綴っていたそうですが、襄の八重に対する愛情が伝わってくる一文ですね。

 実際に襄がこの世を去るのはこの6年後のことですが、その間、襄の遺言は30通あまりあるといわれています。それだけ死と背中合わせの晩年だったということでしょうが、襄はかなりの筆まめだったことがうかがえますね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-11-05 23:54 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

坂の上の雲 第6話「日英同盟」

 「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」
 第1部と同様のオープニングで、「坂の上の雲」第2部が始まった。舞台は日清戦争後の明治の日本である。

 日清戦争に勝利した日本は、その勝利で得た遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの「三国干渉」により清国に返還せざるを得なかった。満州や朝鮮半島におけるロシアの脅威を痛感した日本政府は、それ以後、「臥薪嘗胆」をスローガンに、軍事費を拡大していく。

 日清戦争の戦時下にあった明治28年(1895年)の日本の総歳出は9600万円だった。翌29年(1896年)は平和のなかにある。当然民力を休めねばならないのに、この年の総歳出は2億円を超えた。戦時下の倍以上だった。そのうち軍事費の占める割合は、28年は32%だったのに対し、海軍の建艦十カ年計画が開始された翌29年は48%に飛躍、さらに翌30年には55%に達した。現代では考えられない数字で、当然、税金から還元されるべき福祉や保障の類はほとんどなかったわけだが、不思議なことにこの時期の日本人には、これについての不満の声がほとんどなかったという。

 日清戦争時の日本海軍は、海軍とは名ばかりの、ボロ汽船に大砲を積んだだけといった船がほとんどで、当然、軍艦などもなかった。ところが戦後10年の日露戦争開戦直前には巨大海軍といえるものを作り上げ、世界五大海軍国の末端に連なるまでに至った。他国から見れば驚異的な進歩だったわけだが、さして産業のない日本がこれだけの軍事費を費やしたのだから、当然、国民生活は貧困にならざるを得ない。この戦争準備予算そのものが奇蹟なのだが、それに耐えた明治の国民のほうがむしろ奇蹟だった。

 「日本人は、大げさにいえば飲まず食わずでつくった。」と、作者はいう。

 飲まず食わずで戦争の準備をする・・・現代に生きる私たちには理解し難いことだが、それほど日清戦争後の「臥薪嘗胆」のリベンジ精神は、国家全体を覆っていたのだろう。

 明治34年(1901年)、親英派である桂太郎が総理に就任すると、同じく親英派の小村寿太郎を外相に起用し、ロシアを仮想敵国としたイギリスとの軍事同盟を推し進めた。しかし、当時元勲元老として存在していた伊藤博文山縣有朋井上馨などの賛同を得ることは容易ではなかった。特に日露同盟論者でる伊藤の説得が難事だった。彼は、イギリスが極東の田舎国である日本と対等な立場での同盟に応じるはずがないと見ていた。その点ロシアは世界最強の陸軍を持つとはいえ、文明的には西欧諸国に比べて後進状態にあり、日本と比べてもそう格差はない。加えてロシアは日本からみた直接的な脅威の対象であり、それと直接談判することで、戦争を回避できると伊藤は考えた。そして一旦は元老として正式に対英交渉に賛同したものの、政府とは別に伊藤個人で対露交渉に望むべくロシアに向かうのである。結局、伊藤の計画はドラマのとおり失敗に終わるのだが、この伊藤の勝手な個人行動が、対英交渉を進める日本政府をどれだけ困惑させたかは言うまでもないだろう。この間のことを、小村寿太郎がのちに、「外交というものは本来、外交よりも内交のほうが難しいものなのだ。」といったそうだが、まさしくそのとおりだろう。昨今でいえば、鳩山由紀夫前内閣の普天間基地移設問題などに例えられるだろうか。外交に臨む前段階の内交がいかに難しいものかということは、100年前も今も変わらないようだ。

 明治35年(1902年)に日英同盟は締結されるが、同盟が結ばれるに際し、駐日イギリス公使・クロード・マクドナルドの積極的な活動が大きく寄与している。彼がなぜ、日本との同盟が望ましいと思ったのか。それはドラマ中でも少しだけ紹介されていた北清事変(義和団の乱)がきっかけだった。動乱発生時、彼はイギリス公使として北京に駐在していた。八ヶ国連合軍が北京に侵攻するまでの間、諸外国公使たちと中国人クリスチャンは公使館区域で籠城し、連日の義和団・清国軍隊の攻撃から決死の防衛戦を繰り広げ、連合軍到着まで耐え忍んでいた。この籠城戦の総指揮官だったクロード・マクドナルドは、そこで日本の駐在武官・柴五郎中佐と出会う。柴中佐と配下の日本将兵は誰よりも勇敢に戦い、その勇気と礼儀正しさは諸外国の賞賛を浴びたという。のちに柴は欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、彼の名は欧米でも広く知られるところとなった。この体験により、マクドナルドは非白人であるアジアの小国の日本を、同盟を結ぶに足る信頼出来る国と高く評価し、日英同盟を熱心に推進していった。柴五郎は事実上、日英同盟のきっかけを作った影の立役者だった。この話はドラマにも原作の小説にも出てこないが、北清事変の際の日本の軍人は掠奪行為などは一切行わず、あくまで行儀がよかったと作者は伝えている。

 海軍少佐・広瀬武夫のロシア駐在は足かけ5年にも及び、その間多くの海軍武官とつきあったが、広瀬はかれらの間で最も人気のある外国人武官だったという。海軍士官だけでなく、宮廷の婦人たちにも人気があり、そのなかで、当時ペテルブルグの貴族の中できっての美人といわれたアリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤという娘から熱烈な求愛を受けたという。生涯独身主義だった広瀬だが、彼も彼女にたいしてただならぬ感情を抱いていたことは、残っている往復書簡でもうかがえるらしい。アリアズナは文学的教養の高い娘で、彼女がロシア語で詩を書いて送り、広瀬がそれに対し漢詩で返事をし、ロシア語の訳をつけたりしたという。結局二人の恋は、広瀬の帰国とともに終わるのだが、帰途のイルクーツクから広瀬は彼女に最後の手紙を書き、「永遠に愛おしい御身の上に神の恩寵のあらんことを」という言葉で結んでいる。

 日英同盟の締結によって、歴史は日露戦争へ向かって足を速めはじめた。物語の舞台であるこの時代、地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない。謀略だけが他国への意志であり、侵略だけが国家の欲望だった。作者はいう。
 「19世紀からこの時期にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それが嫌なら産業を興して軍事力をもち、帝国主義の仲間入りをするか、その二通りの道しかなかった。」
 ナレーションではここまでだったが、原作ではさらにこのあと作者の言葉は続く。
 「後世の人が幻想して侵さず侵されず、人類の平和のみを国是とする国こそ当時のあるべき姿とし、その幻想国家の架空の基準を当時の国家と国際基準に割りこませて国家のありかたの正邪を決めるというのは、歴史は粘土細工の粘土にすぎなくなる。」と。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-09 21:47 | 坂の上の雲 | Trackback(1) | Comments(2)