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軍師官兵衛 第36話「試練の新天地」 ~豊前6郡入国と肥後国人一揆~

 九州征伐を終えた黒田官兵衛は、その恩賞として九州は豊前6郡を与えられます。豊前6郡をとは、現在の福岡県東部から大分県北部にまたがる地域で、概ね12万石でした。豊前国は8郡あったのですが、残り2郡は毛利勝信に与えられ、豊前一国とはいかなかったわけです。

 この豊前6郡12万石という扱いについて、他の大名に与えられた恩賞や官兵衛の九州征伐での働きから考えると、少ないのではないかという意見があります。これは、豊臣秀吉が官兵衛に大きな力を与えることを恐れていたのではないか・・・という見方ですね。実際に、官兵衛の家臣たちのあいだでは、恩賞の少なさに不満の声が上がっていたとか。一方で、つい3年前に5万石になったばかりだと考えれば、倍以上の加増とも言えるわけで、官兵衛が元は小寺氏の家臣という出自を考えると、妥当だとの意見もあります。どちらの見方が正しいのかはわかりませんが、家臣から不満の声が上がっていたのが事実だとすれば、やはり思ったより少ないという印象は当時からあったのでしょうね。

 豊前に入国した官兵衛はさっそく検地を開始しますが、その方法は検地奉行が田畑に赴いて測量を行う丈量検地ではなく、村々からの自己申告による指出検地だったようです。それは、そのほうが短期間で検地を行えるという理由もあったでしょうが、在地で新しい領主に対する抵抗が起きることは珍しくなく、それを踏まえたうえで、まずは領民たちの不満を買わないよう配慮したものと考えられます。政権交代後いきなり増税では、高い支持率を得られないですからね。

 しかし、そんな配慮をしてもなお、領国内の反発は激しかったようで、入国早々かなり手を焼いていたようです。そしてもうひとつ、官兵衛が手を焼いたのが、かつて豊前国内に勢力を誇った宇都宮鎮房でした。

 宇都宮氏は、下野の宇都宮氏の流れをくむ名門で、鎌倉時代からこの地の本拠を置く一族でした。戦国期に九州北部が戦乱で揺れる中でも、当主の鎮房は周防の大内義隆、豊後の大友宗麟など有力な大名に与して命脈を保ち、薩摩の島津義久が勢力を伸ばすとその配下に入るという、巧みな情勢判断で戦乱を生き残ってきた強者といえます。そんな嗅覚の持ち主である鎮房ですから、秀吉による九州征伐では島津氏を離れ、豊臣方に与します。名門である宇都宮氏にとって成り上がりの秀吉に従うことは本意ではなかったでしょうが、鎌倉時代から根付く領地を守るためには、背に腹は代えられない選択だったのでしょう。

 ところが、戦後、鎮房に下った命令は、加増というかたちで伊予国今治への転出でした。しかし、この命令をどうしてものむことが出来ない鎮房は、旧領に居座ったまま動こうとしません。これに怒った秀吉は、鎮房に与えた伊予国今治の領地も召しとってしまうんですね。これにより、鎮房はいよいよ豊前国から動けなくなります。同じ領国内に新旧の領主が同座するかたちとなった豊前国。黒田家と宇都宮家が激突するのは時間の問題となります。

 そんなとき、お隣の肥後国で大規模な一揆が勃発します。先の九州征伐も恩賞として肥後国50万石を与えられ、大大名となった佐々成政でしたが、豊前の官兵衛と違い、強引丈量検地を行おうとしたため、領民たちの大反発を買い、それが連鎖して国人たちの一斉蜂起を招き、収拾がつかなくなってしまいます。たまりかねた成政は秀吉に援軍を要請し、それを受けた秀吉は諸大名に出兵を命じて肥後の一揆鎮圧に向かわせます。その中に、官兵衛率いる黒田軍もいました。官兵衛にしてみれば、自領もまだ落ち着いてない状態での出陣は気がかりだったでしょうが、やむを得ず留守を嫡男の黒田長政にまかせて領国をあとにします。このとき、それを見ていたかのように鎮房が挙兵するんですね。これは、明らかに官兵衛の不在を狙った挙兵とみて間違いないでしょう。

 こうして、黒田家と宇都宮家の戦いの火蓋は切られます。また、この戦いをきっかけに長政と後藤又兵衛間に確執が生じ始めるのですが、それは次回以降ということで・・・。

 ちなみに、肥後国人一揆を招いた佐々成政は、翌年、秀吉の命により切腹させられます。戦上手で知られた成政でしたが、内政には明るくなかったのかもしれませんね。たかが検地と高をくくっていたのかもしれません。増税の方法を間違えると一気に政権から引きずり降ろされる。戦国の世も現代も同じですね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-08 23:50 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)