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幕末京都逍遥 その78 「尊攘堂」

前稿と同じく京都大学キャンパス内に、「尊攘堂」という名称の洋館があります。

ここは、元長州藩士で子爵となった品川弥二郎が、師の吉田松陰遺志を継いで建造したものに由来します。


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「尊攘」とは、言うまでもなく「尊皇攘夷」のことですね。

吉田松陰は生前、京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り、人々の心を奮い立たせようという志を抱いていましたが、それを果たせずに刑死します。

松蔭は死を前にして、その志を門人の入江九一に託しますが、その入江も、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で落命し、松蔭の遺志は遂げられませんでした。


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入江と共に松下村塾の門下生だった品川は、後年、この話を知り、師の遺志を果たそうと決意。

明治20年(1887年)にドイツから帰国すると、高倉通錦小路に尊攘堂を建造し、勤王志士の霊を祀り、志士の殉難の史料、遺墨、遺品などを収集し、祭儀を営み、一般の参拝を許し、収蔵品を観覧させました。

これが、初代の尊攘堂でした。


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品川の死後、明治34年(1901年)に所蔵品は京都帝国大学に寄贈され、明治36年(1903年)、大学構内に二代目の尊攘堂が新築されます。

それが、この尊攘堂です。


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平成10年(1998年)に国の登録有形文化財として登録されています。


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この石碑は、昭和15年(1940年)10月に皇紀2600年を記念して建てられ、 第二次世界大戦が終わった昭和20年(1945年)8月21日に一度撤去されたそうです。

その後、ながらく所在が不明となっていたそうですが、平成25年(2013年)3月1日、構内で遺跡の立合調査を行った際、樹木の根元に放置された状況で置かれているこの石碑が偶然発見されたそうです。


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石碑は、正面に「尊攘堂」、側面には「皇紀二千六百年記念」と刻まれ、反対側の側面にはこの建物の由来が刻まれています。

平成26年(2014年)12月、元あった場所に近い位置に設置されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-20 23:37 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その69 「禁門変戦死長州人八名首塚碑(上善寺)」

相国寺北門から北へ300mほど歩いたところにある上善寺には、元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)で命を落とした長州藩士の首塚がります。

山門の横には、「贈 正四位入江九一外七名首塚」と刻まれた石碑があります。

ここに葬られているのは、石碑に刻まれていた入江九一をはじめ、原道太、半田門吉、奈須俊平、田村育蔵、緒方弥左衛門、小橋友之輔、そして無名藩士1の計8名の長州藩士たちです。


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ここは、長州藩の菩提寺というわけではなく、越前福井藩の菩提寺でした。

「禁門の変」というと、「その55」で紹介した蛤御門前の激戦をいちばんに思い出しますが、「その56」で紹介した堺町御門付近でも、鷹司邸に立て籠もった久坂玄瑞ら長州軍と越前福井藩の軍勢によって激しい交戦を繰り広げられました。

しかし、やがて鷹司邸は火を放たれ、立て籠もった長州藩士は全滅します。

このとき堺町御門警衛隊長だった越前福井藩士の桑山十蔵が、放置されたままになっていた長州藩士の遺骸を見かねて、主君の松平春嶽の許しを得て、その首級を持ち帰り、ここに葬ったそうです。

「その67」で紹介した相国寺内の長州藩士の墓は、薩摩藩邸のすぐ北にあたる場所で、薩摩藩士によって葬られたものだと伝えられます。

つまり、蛤御門で命を落とした長州藩士は薩摩藩士によって相国寺に、堺町御門付近で討死した長州藩士は、越前福井藩士によって、ここ上善寺に葬られたということでしょう。

故あって敵味方となったものの、共に皇国のために死力を尽くした者同士、敬意を表したというわけですね。

武士道の精神ここにありです。


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また、一説には、当初、この首塚に、久坂玄瑞の首も収められていたもいわれます。

ところが、ある日、ひとりの婦人が訪れて塚を掘り返し、久坂の首を持っていってしまったとのこと。

その婦人は、久坂の馴染み芸者で、久坂が死んだときに久坂の子を身籠っていた辰路という女性だったそうです。

この話は、元土佐藩士で陸援隊士だった元老・田中光顕の回顧録にある話だそうで、当時、田中は脱藩して長州藩に身を寄せていましたから、この話も、荒唐無稽とは言えないかもしれません。

実際に、辰路という女性は実在していますし、その生まれた子も、明治維新後に久坂の遺児認知され、久坂家を継いでいます。


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首塚は住職のお住いの抜けなければならない場所にあるようで、わたしがここを訪れたのは8月13日のお盆の真っ只中で、お墓参りの方々が大勢おられたなかで、カメラを首に下げたわたしが墓地に入らせてもらうことが憚られ、首塚に参るのは遠慮しました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-06 23:27 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その5 「東山霊山護国神社~長州藩殉難者の墓①」

東山霊山に眠る志士たちの墓は、ごとに招魂社を祀ってエリア別に葬られていますが、その中で、いちばん多くの墓石があるのが長州藩です。


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数が多すぎて全景を撮ることはできませんが、元治元年7月19日(1864年8月20日)に起きた禁門の変(蛤御門の変)だけでも、約200人の長州藩士が討死したといいますから、おそらく、それ以上はあるだろうと思います。


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ほとんどの墓碑が西の洛中側を向いているなかで、その中心にある6士の墓碑だけが、整列している他の長州藩士を見下ろすかのように南向きに建てられています。

左から、有吉熊次郎、入江九一、寺島忠三郎、久坂玄瑞、来島又兵衛、高杉晋作の6名。

来島又兵衛以外の5人は吉田松陰の私塾・松下村塾の門下生で、高杉晋作以外の5人は、禁門の変で落命した人たちです。


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有吉熊次郎は松蔭門下生のなかでも過激派の志士で、松陰の老中間部詮勝暗殺計画にも参加し、のちに高杉らとともに御楯組を結成すると、英国公使館焼き討ちなどの過激な企てにはほとんど参加しており、あの池田屋事件ではからくも襲撃現場を脱出し、池田屋事件の生き証言としてその悲報を伝えた人物です。

しかし、同じ年の禁門の変で重傷を負い、久坂、寺島らとともに鷹司邸内で自刃します。

享年23。


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入江九一は高杉、久坂、そして別の場所に祀られていた吉田稔麿とともに、「松下村塾四天王」として松陰からその才能を高く評価されていた人物で、彼もまた、有吉と同様、松陰の老中間部詮勝暗殺計画にも参加しています。

九一は禁門の変で久坂らと共に自刃しようとしますが、久坂がそれを制止し、急ぎ帰国して藩主父子の上洛を阻止するよう依頼しされたため脱出を図りますが、直後に鷹司屋敷の裏門で待ち伏せていた福井藩兵に槍で顔を突かれ、その衝撃で両眼が飛び出し見るも無惨な死体となって転がりました。

享年28。


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寺島忠三郎はこのなかでは最も若く、松蔭に師事したときはまだ16歳でしたが、詩文に長け、松陰からは「些の頑骨あり、愛すべし」と評され、深く信頼されたといいます。

禁門の変では、共に行動していた久坂と刺し違えて落命します。

享年21。


長くなっちゃったので、残りの3人は次稿にて。





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by sakanoueno-kumo | 2018-02-27 23:34 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

花燃ゆ 第27話「妻のたたかい」 ~禁門の変(蛤御門の変) その2~

 元治元年(1864年)7月19日、長州軍は京への進撃を開始します。まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。蛤御門に殺到しました。さすがは武勇の誉れ高き又兵衛、単に勇ましいだけじゃなく、よほどの実戦上手だったことがわかります。

 又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転します。その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助でした。西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。しばらくして又兵衛は胸を撃ち抜かれて落馬。死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。享年48歳。西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。

 久坂玄瑞真木和泉が率いる約500の部隊が御所に着いたときには、すでに又兵衛は討死していました。2日前の軍議で又兵衛と衝突していた玄瑞は、この惨状に及んでもなお朝廷への嘆願をあきらめておらず、前関白の鷹司輔煕屋敷に入ってへの取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた同じ松下村塾同門の寺島忠三郎と刺し違えて自刃します。玄瑞は自刃する直前、同じく腹を斬ろうとしていた同門の入江九一を制止し、急ぎ帰国して藩主父子の上洛を阻止するよう依頼しますが、不運にもその九一も、直後に鷹司屋敷の裏門で待ち伏せていた福井藩兵に槍で顔を突かれ、その衝撃で両眼が飛び出し、見るも無惨な死体となって転がりました。玄瑞25歳、忠三郎22歳、九一は28歳でした。

 前年の雪辱戦とばかりに暴発した長州藩兵は、薩会連合軍の前に潰滅してしまいましたが、その哀れな長州藩士たちに涙する前に、この戦いの巻き添えとなった京の市民たちに目を向けなければなりません。戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。21世紀のいまも変わらない事実です。

 この戦いにより、長州藩は多くの有能な人材を失いました。この発狂したとしか思えない無謀な暴挙によって古い攘夷派は壊滅、激情的な猪突猛進型の攘夷運動は、このときに終わったといえるでしょう。長州藩が目を覚ますには、あまりにも大きな代償でした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-06 16:34 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第15話「塾を守れ!」 ~松蔭獄中の過激政治工作~

 安政5年(1858年)12月、幕府老中・間部詮勝暗殺を企てた罪で再び野山獄につながれた吉田松陰でしたが、それでも計画をあきらめきれず、江戸にいる久坂玄瑞高杉晋作に計画の実行を要請します。しかし、松下村塾の龍虎と呼ばれた秀才ふたりの意見も、他の塾生たちと同じく、とうてい賛成できるものではありませんでした。ふたりは、その旨をしたためた手紙を松蔭に送り、なんとか師を思いとどまらせようとしますが、そんな彼らに対して、松蔭はあろうことか絶交状を送りつけます。師の身を案じての諌言だったのに、なんとも理不尽な話ですね。玄瑞も晋作も、たいそうショックだったことでしょう。

 この時期の松蔭の過激さは、一種の狂気をおびていて、間部老中暗殺計画のみならず、水野忠央暗殺計画、伏見獄舎破獄策、大原三位下向策、伏見要駕策など、次々に過激な政治工作をはかります。水野忠央暗殺計画は、南紀派の中心的存在だった紀伊藩の家老・水野忠央の命を奪おうとする計画で、伏見獄舎破獄策は、捉えられた梅田雲浜らが入獄されている伏見の獄舎を襲撃し、彼らを救出しようというものでした。松蔭は、これらの計画を門下の松浦松洞、赤禰武人に指示しますが、いずれも計画倒れに終わっています。

 次の大原三位下向策は、尊皇攘夷派の公家・大原重徳とその息子を長州藩に迎え、彼らを擁して、長州藩を中心とする諸藩で挙兵しようという計画で、特に松蔭はこの計画に思い入れがあったようで、再三再四、獄中から塾生らに賛同を求める書状を送っています。これを見かねた小田村伊之助が、安政6年(1859年)1月9日に、塾生すべてがこの策に反対であると伝えますが、それでもあきらめられない松蔭は、翌日に前原一誠ら3人の塾生に書状を送り、脱藩して計画を実行するよう要請しています。完全に狂気の沙汰といえますね。

 で、ドラマで描かれていたのが、最後の伏見要駕策です。この計画は、参勤交代で江戸に向かう途中の長州藩主・毛利敬親の籠にとりすがり、伏見から京都に向かわせ、大原重徳らと合流して御所に参内し、孝明天皇(第121代天皇)の勅命を得て幕府の失政を正そうというものでした。この頃になると、ほとんどの塾生たちが松蔭と距離をおきはじめ、野山獄への訪問や文通を控えていました。見放していたというわけではないのでしょうが、矢継ぎ早に実行不可能と思える指示を発してくる師に対して、ついていけなくなっていたというのが正直なところだったでしょう。

 それでも、入江九一野村靖の兄弟だけが松蔭との交流を続けており、そのせいで、弟の靖が脱藩して京都に向かい、この計画を実行することになります。しかし、それを知った前原一誠らが小田村伊之助に相談し、伊之助が差し向けた追手に説得された靖は、踏みとどまって藩当局に自首。兄ともども岩倉獄に投獄されます。気の毒な話ですが、そのまま計画を実行すれば間違いなく死罪だったわけで、そう思えば、未遂で終わって良かったといえます。

 最後まで手足となってくれていた九一・靖兄弟が獄につながれたことで、松蔭の獄中での政治工作は、事実上、実現不可能となります。藩当局は、そのために兄弟を投獄したのかもしれませんね。絶望と孤独の淵にいたであろうこのときの松蔭は、どんな思いを巡らせていたのでしょうか。われわれ凡人には、その胸中は計り知れません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-14 22:08 | 花燃ゆ | Comments(0)