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西郷どん 第28話「勝と龍馬」 ~第一次長州征伐と勝海舟~

 わずか1日だけの戦闘で終わった禁門の変から4日後の元治元年7月23日(1864年8月24日)、朝廷より一橋慶喜に対して長州藩追討の命令が下ります。これを受けた慶喜は、翌日、西国諸藩に出兵令を出します。つまり、長州藩は正式に「朝敵」となったわけです。長州藩にとっては前年の八月十八日の政変で失った覇権を取り戻すための挙兵が、逆に、自分たちの首を絞める結果になったわけですね。ドラマでも少し触れていましたが、さらに、8月5日には、前年の馬関海峡における砲撃事件の賠償交渉が遅々として進まないことに業を煮やした英仏米蘭の四ヵ国連合艦隊17隻が馬関海峡に姿を現し、壇ノ浦砲台に向けて砲撃を開始。長州藩はコテンパンにやっつけられました。まさに、泣きっ面に蜂とはこのことでしょう。このときの長州藩は、国内外すべてを敵に回した究極のいじめられっ子でした。


e0158128_15131310.jpg 西国諸藩に出兵令を出した幕府は、尾張藩前藩主の徳川慶勝征長総督に据え、10月末に進軍を開始し、11月中旬には攻撃を開始することを決定します。薩摩藩軍賦役を務めていた西郷吉之助(隆盛)も、当然、薩摩兵を率いて従軍することになるのですが、ところが、進軍開始を目前にした10月24日、西郷は総督の慶勝に対して長州藩を降伏させる腹案を進言します。具体的には、禁門の変を指揮した三家老の切腹、それに従った四参謀の斬刑、藩主親子の蟄居謹慎など、「長人(長州人)を以って長人を処置させる」という寛大案でした。禁門の変以降、長州藩内でも政権交代があり、この時点では、幕府恭順路線に転換していました。西郷はこれより少し前に下交渉のための人物を派遣し(ドラマでは中村半次郎(桐野利秋)川路正之進(利良)でしたが、実際に派遣されたのは高崎五六でした)、長州が恭順姿勢にあることを事前リサーチしていました。この西郷の進言を受けた慶勝は、異例にも西郷を参謀格に抜擢し、長州藩の処遇を一任します。ドラマでは、一橋慶喜が慶勝は「飾り」だとして西郷に全権を与えていましたが、実際には、西郷を大抜擢したのは慶勝でした。


 この西郷の策によって、長州征伐は戦わずして決着をみます。このときの西郷の心中については、後世にさまざまな解釈をよんでいます。薩長同盟はまだ1年以上先のことですが、いずれ長州と手を結ぶかもしれないことを想定して布石を打った、という見方や、西郷はこのとき既に幕府の末路を予見していた、とか、あるいは、すでに西郷は雄藩の連合政権を着想していた、などなど、どれも結果を知っている後世から見た解釈という感じもしますが、いずれにせよ、ここで戦争して長州藩を叩くのは得策ではないと考えたのでしょうね。ここで下手に恨みを買うより、長州人自らに裁いてもらった方がいい。長州藩内部がもめていることを知り、それを利用したわけです。西郷はこの時期から、巨大な政治家としての手腕があらわれはじめます。


e0158128_17121459.jpg もっとも、ドラマのように西郷は最初から長州征伐に反対だったわけではなく、長州征伐の命令が下された当初は、武力行使論でした。そのことは、元治元年9月7日(1864年10月7日)付で国元の大久保一蔵(利通)に宛てた書簡中に「是非兵力を以て相迫り、其の上降を乞い候わば、僅かに領地を与え、東国辺へ国替迄は仰せつけられず候ては、往先御国(薩藩)の災害を成し、御手の延び兼ね候儀も計り難く」と記していることからもわかります。では、その後、なぜ、西郷に心境の変化があったのか・・・。そこで、よく言われるのが、勝麟太郎(海舟)との出会いですね。


 西郷と勝の出会いは9月中旬頃だったといわれますから、この大久保宛ての書簡のすぐあとのことですね。このとき幕府の軍艦奉行だった勝は、幕臣の身でありながら幕府中枢の悪態をさんざんについた上で、雄藩諸侯の合議制による共和政治の構想を西郷に吹き込んだといいます。西郷はこの会談で大いに目からうろこが落ちたようで、珍しく興奮した手紙を国元の大久保宛に送っています。西郷はこの勝との出会いによって、「倒幕」を意識するようになったといわれます。


e0158128_14540330.jpg その勝の門人・坂本龍馬と西郷の最初の出会いは正確にはわかっていませんが、おそらくは勝の紹介だったでしょうから、たぶん同じ頃だったでしょう。ふたりの出会いについては、晩年の勝が語った『氷川清話』での話がよく知られていますね。西郷と会見して神戸に帰ってきた龍馬が、勝に西郷のことを報告しようとしないので、「ニ、三日は、坂本より云い出すのを待ちたれども、遂に堪りかねて『西郷はだうだ』と軽く問ひかくるや」龍馬はこう言ったといいます。


 「なるほど西郷といふやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらう。」


 あまりにも有名なエピソードですね。つまり、簡単にいえば、「つかみどころのない大人物」だといいたかったのでしょう。また、この龍馬のこの言葉の続きに、「残念なのはこれを突く撞木が小さかった」と、自分を西郷という鐘を突く撞木に例えて表現した言葉が有名ですが、これは上記『氷川清話』『追賛一話』などの勝の記録にはまったく記されておらず、出典がわかりません。おそらく後世に作られた脚色話と考えていいでしょう。


 龍馬との面会が西郷にどれほど印象を残したかはわかりませんが、勝との出会いは、明らかに西郷のその後に大きな影響を与えたようです。ふたりの歴史的会見はこの3年後のことですが、このときの会見も、歴史を大きく動かした瞬間だったといえるでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-30 17:15 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その74 「横井小楠殉節地」

京都御苑の南東、寺町通りと丸太町通の交差点を少し南に下ったあたりの歩道に、「横井小楠殉節地」と刻まれた石碑があります。

ここは、維新の十傑のひとりでもある横井小楠が襲われて落命した場所です。


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元は肥後熊本藩士でしたが、越前福井藩主の松平春嶽に招聘されて福井藩のアドバイザーとなり、春嶽が幕府の政事総裁職に就任すると、幕政改革にも関与します。

一方で、小楠は討幕派の志士たちにも、大きな影響を与えました。

幕末の人物たちのなかで、小楠に限っては、佐幕派、討幕派を超越した存在だったといっていいでしょう。


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勝海舟『氷川清話』の中で、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」と語っており、また、その西郷隆盛も、「小楠が諸国遊歴した際、人材であると言った人で、その後、名を挙げなかった者はいなかった」と、小楠の人物鑑識眼を高く評価しています。

坂本龍馬が作成した有名な「船中八策」「新政府綱領八策」は、小楠が幕府に提出した「国是七条」と福井藩に提出した「国是十二条」をそれぞれ下敷きにしたと言われていますし、また、由利公正が起草した「五か条の御誓文」にも、小楠の「国是十二条」が大きく影響しています。

維新後、新政府に招かれ参与に就任しましたが、ただ、彼の思想があまりにも革新的だったため、単純な尊攘派からたびたび命を狙われ、そして明治2年1月5日(1869年2月15日)、太政官に出仕して退朝する途中に6人の尊攘過激派に襲われて落命します。


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向こうに見える森のような場所は、京都御苑です。

刺客たちは、御所のすぐ傍での襲撃を避けて、このあたりで待ち伏せしたのでしょうか。


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石碑の側面には「昭和七年七月再建之」とあります。

ネット情報によると、大正5年(1916年)建立の石標が損壊し、昭和7年(1932年)に新しく再建されたようです。

小楠は後世、佐幕派としてただひとり、維新十傑に数えられています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-13 23:13 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その73 「常林寺(勝海舟宿坊跡)」

京都御苑の北西角から300mほど東へ進んで鴨川に架かる賀茂大橋を渡ってすぐのところに、常林寺というお寺があります。

ここは幕末、勝海舟宿坊だったと伝わるお寺です。


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常林寺山門前に立つ駒札の説明書きによると、創建は天正元年(1573年)、念仏専修僧魯道上人によって開創された寺院だそうです。

往時は知恩院末の有力寺院として活躍したそうですが、寛文11年(1671年)の大火で焼失し、現在の地に移ってきたそうです。


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時代は進んで幕末、常林寺は勝海舟の京都における宿坊だったと伝わり、子母澤寛の歴史小説『勝海舟』でも取り上げられています。

長崎に神戸に安芸と飛び回っていた勝でしたから、京都に宿坊があって当然だったでしょう。


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説明書きによると、勝を訪ねてきた坂本龍馬中岡慎太郎が本堂に宿泊したと紹介されていますが、これはどうでしょうね。

龍馬はともかく、中岡と勝の接点があったとは思えません。

ふたりで勝を訪ねてくるなんてことは、ちょっと考えにくいですね。

なんでも龍馬に結びつけて観光誘致に利用するのは感心できません。


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勝の京都でのエピソードとしては、龍馬が勝の進めていた海軍操練所設立のために奔走していたとき、勝の側にいられない自分に代わって土佐勤王党のメンバーで人斬りの異名で恐れられていた岡田以蔵を勝の京都での護衛役にし、勝が路上で3人の浪士に襲われた際、以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てたという有名な話があります。

そのあと勝は以蔵に対して、「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭しますが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返したといいます。

勝は「これには俺も一言もなかったよ」と、後年に述懐しています。

あるいは、以蔵こそ、ここに泊まっていたかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-12 23:54 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その63 「猿ヶ辻(姉小路公知遭難跡)(京都御苑)」

京都御所北東の角付近のことを、「猿ヶ辻」といいます。

御所の鬼門にあたるため、鬼門封じとして角を落とし、築地屋根下の蟇股(かえるまた)に烏帽子姿で御幣を担いだ猿の木彫りが置かれているため、この名がついたそうです。

文久3年5月20日(1863年7月5日)、国事参政として三条実美とともに攘夷派の中心人物だった公家・姉小路公知がこのあたりで暗殺された事件があり、これを「猿ヶ辻の変」といいます(別名:朔平門外の変)。


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事件が起きたのは午後10時頃、朝議からの帰りだった公知は、このあたりで3人の刺客に襲われ、扇を振い、刀を奪うなどして奮戦して撃退するも、頭と胸に重傷を負い、帰邸後の翌日21日未明、自邸にて死去します。

享年25。

事件現場には、犯行に使われたとおぼしき刀の鞘と、犯人のものと思われる木履が遺棄されていました。

それらの遺留品から、薩摩藩士・田中新兵衛が容疑者として捕らえられます。

しかし、新兵衛は取調中に隙を見て自害してしまい、真相は藪の中となりました。


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新兵衛は「人斬り新兵衛」と呼ばれて恐れられた幕末四大人斬りのひとりであり、いわばプロのテロリストでした。

そんな新兵衛が、果たしてすぐ足がつくであろう刀の鞘を現場に置き忘れるようなミスをするだろうか・・・という疑問から、あるいは、何者かが新兵衛の刀を盗んで犯行におよび、新兵衛に容疑をかけるために、あえて現場に遺留品を残したのではないか、との見方もあります。

新兵衛が自害したのは、容疑をかけられたことではなく、愛刀を何者かに奪われてぬれぎぬを着せられたことを恥辱としてだったと。

自尊心の塊の薩摩武士なら、あり得る話でしょうね。

一説には、薩摩藩の進出を妨害しようとする長州藩の陰謀とする見方もあります。

事実、このあと薩摩藩は乾門の警備担当からはずされ、それが、同年の八月十八日の政変遠因となります。


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また、同じ攘夷派であるはずの公知が狙われた理由については、この少し前に大坂で勝海舟と会談し、その影響によって攘夷派から開国派に転じたためだったとも言われますが、これも、憶測の域を出ません。

つまり、ほとんど謎の事件なんですね。


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金網の中に、木彫りの猿がいるのがわかるでしょうか?

この猿が御所の鬼門を守る日吉山王神社の使者だそうですが、夜になると付近をうろつき、通行人にいたずらをしたそうで、そのため、金網を張って閉じ込められたのだとか。

あるいは、公知暗殺の真犯人は、このなんじゃないですか?(笑)

いずれにせよ、真相を知っているのは、この猿ヶ辻の猿だけでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-29 23:35 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その25 「土佐藩邸跡」

坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡の石碑から河原町通を挟んで真向かいに、土佐藩邸がありました。

現在、石碑と立て札は、河原町通りではなく木屋町通り側の高瀬川沿いに建てられています。


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この高瀬川を渡った西側、西は河原町通にいたる間、元立誠小学校あたりが土佐藩邸でした。

高瀬川に面しても門が開かれ、土佐橋が架かっていたそうです。


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その高瀬川です。


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土佐藩邸の面積は約1万㎡(約3000坪)程だったと言われています。

これだけ聞けば広大な面積に思いますが、同じく雄藩の薩摩藩邸(現・同志社大学)はその倍近い約1万9000㎡(5805坪)あったといいますから、決して広すぎたわけでもなかったようです。


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近江屋跡と土佐藩邸は、ほんと、目と鼻の先でした。

当時の河原町通りは今のように広くありませんでしたから、歩いて十数歩の距離だったんじゃないでしょうか。

なのに、なぜ龍馬や慎太郎は藩邸に寝泊まりしなかったのか、不思議でなりません。

組織に縛られるのが嫌な性分だった・・・といえばカッコイイですが、少なくとも龍馬は、前年の4月に伏見の寺田屋で捕り方に襲われて瀕死の重症を負っており、命を狙われることの恐怖を十分に味わっています。

今なお、自身の命を狙う輩が大勢いることは自覚していたでしょうから、多少窮屈でも、ここ土佐藩邸に投宿するのが最も身の安全を確保できたはずです。

なのに、なぜかあえて危険な酢屋近江屋に投宿していた。

わたしは、何か、土佐藩邸には入りたくない、入っても安全とはいえない理由があったんじゃないかと思っています。

そのあたりに、龍馬暗殺の真相が隠されているんじゃないかと。


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龍馬は脱藩の罪を文久3年(1863年)に勝海舟松平春嶽らのとりなしによって赦免されていますが、そのとき、ここ土佐藩邸で7日間の謹慎処分をくらっています。

その後、再び龍馬は脱藩しますが、暗殺される9ヵ月前の慶応3年(1867年)2月、慎太郎と共にまたもや脱藩の罪を赦されています。

郷士という低い身分の分際で脱藩という重大な罪を2度も犯しながら、2度とも赦されて復帰していた龍馬。

藩邸内では、必ずしも彼らの存在を肯定する人物ばかりではなかったであろうことは、容易に想像がつきますね。

そのあたりの事情も、ふたりが藩邸に入りたがらなかった理由のひとつだったかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-02 22:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第30話「お世継ぎ騒動!」 ~第一次長州征伐の決着~

 ドラマは奥勤め話が中心ですが、当ブログは頑固に世情中心で進めます。

 正義党井上聞多が闇討ちに遭い、周布政之助が自刃すると、椋梨藤太を中心とする藩内保守派の俗論党がいよいよ主導権を握ります。これにより、井上が進言して決定していた武装恭順の方針はまたたく間に却下となり、幕府に対して徹底的な恭順を藩是とします。しかし、それでも当初の幕府征長軍はあくまで強硬姿勢を崩さず、特に会津藩などは、長州藩の領地をすべて没収して東北のどこかの3万石程度の小さな領地に押し込んでしまえ、といった厳罰論を唱えていました。もし、そうなっていたら、その後の歴史はずいぶんと変わっていたでしょうが、ここで征長軍総参謀長となった薩摩藩西郷吉之助(隆盛)が登場します。このとき西郷が示した腹案は、「長人(長州人)を以って長人を処置させる」という寛大案でした。

 このときの西郷の心中については、後世にさまざまな解釈をよんでいます。薩長同盟はまだ1年以上先のことですが、いずれ長州と手を結ぶかもしれないことを想定して布石を打った、という見方や、西郷はこのとき既に幕府の末路を予見していた、とか、あるいは、すでに西郷は雄藩の連合政権を着想していた、などなど、どれも結果を知っている後世から見た解釈という感じもしますが、いずれにせよ、ここで戦争して長州藩を叩くのは得策ではないと考えたのでしょうね。ここで下手に恨みを買うより、長州人自らに裁いてもらった方がいい。長州藩内部がもめていることを知り、それを利用したわけです。西郷はこの時期から、巨大な政治家としての手腕があらわれはじめます。

 あと、この少し前に、西郷と幕臣の勝麟太郎(海舟)が面会していたことも、大いに影響したんじゃないかと言われています。勝はこのとき、幕臣の身でありながら幕府中枢の悪態をさんざんについた上で、雄藩諸侯の合議制による共和政治の構想を西郷に吹き込んだといいます。西郷はこの会談で大いに目からうろこが落ちたようで、珍しく興奮した手紙を大久保一蔵(利通)宛に送っています。長州藩内で俗論党と正義党がもめている同じ頃、長州藩の運命は思わぬところで変わり始めていたということです。

 西郷は自身の長州処分案が採用されると、さっそく岩国藩主吉川経幹を仲介にし、長州藩代表に次のような降伏条件を提示しました。

 一、藩主親子の蟄居謹慎
 二、禁門の変を指揮した三家老の切腹
 三、それに従った四参謀の斬刑
 四、三条実美ら五卿を九州太宰府へ移す
 五、山口の新城を破壊する


 長州藩の政庁は萩城でしたが、文久2年(1862年)に行われた文久の改革によって藩主妻子の帰国が許されると、山口に新たな藩主居館が作られました。しかし、本来は大坂夏の陣後に制定された一国一城令により、各藩とも城は1か所しか許されていませんから、これは明らかに幕法違反でした。ましてや、山口はかつて関が原の戦いに敗れて広島城を失った毛利家が、山口を居城建設候補地として幕府に申請するも許可されず、僻地である萩に押し込められた歴史があります。だから、幕府側としては五の条件は当然なんですね。しかし、文久の改革で参勤交代が廃止されて以降、どの藩も江戸には少しの外交官だけを置いて藩士を帰国させており、そのため、城はキャパオーバーだったことは確かでしょうね。そこで、ドラマの奥女中リストラ話につながるわけです。やっとドラマに沿うことができました(笑)。

 切腹した家老は、福岡越後 国司信濃 益田右衛門介の3人。しかし、これにて一件落着とはいかず、これを皮切りに椋梨藤太は政敵を次々と粛清していきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-27 16:13 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第22話「弟のかたき」 ~江戸開城談判~

 江戸城に戻ってきた徳川慶喜は、朝廷に対しての恭順姿勢を表明します。この間、幕府役人の中では、勘定奉行・小栗上野介忠順や海軍総裁・榎本武揚、歩兵奉行・大鳥圭介らは徹底した抗戦論を主張し、慶喜と共に大坂城から江戸へ下ってきた会津藩主の松平容保や桑名藩主の松平定敬も、しきりに再挙を訴えます。しかし、陸軍総裁・勝海舟や会計総裁・大久保一翁らが熱心に謝罪恭順を慶喜に説き、結果的に海舟らの主張が抗戦派を抑え、慶応4年(1868年)2月21日、慶喜は上野の寛永寺大慈院に入り謹慎します。以後、勝海舟や大久保一翁に全権を委ね、新政府軍との交渉にあたらせます。

 さらに、上野の輪王寺宮や前将軍・徳川家茂の御台所で天皇の叔母にあたる静寛院宮(和宮)、13代将軍徳川家定の御台所で薩摩藩出身の天璋院(篤姫)らが必死になって慶喜の助命と徳川家の存続運動に奔走します。新政府側では、岩倉具視は慶喜の謝罪の誠意が現れるならば、その助命と徳川家存続は認めるとの内意をもらしていたようですが、そのころ西郷隆盛は、慶喜助命の嘆願に対して、
 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届千万、是非とも切腹までには参り申さず候ては相済まず、必ず越土(越前、土佐)などよりも寛論起こり候わんか。しかれば静寛院(和宮)と申しても、やはり賊の一味と成りて退隠ぐらいにて相済候事と思しめし候わば、致し方なく候に付き、断然追討あらせられ度き事と存じ奉候。かくまで押し詰め候処を寛に流し候ては、再び、ほぞをかむとも益なき訳に到り候わん。」
 と、あくまで許すべからずとの過激な意思を大久保一蔵(利通)宛の手紙に書いています。その大久保もまた、
「天地容るべからざる之大罪なれば天地之 間を退隠して後初めて兵を解かれて然るべし」
 といっています。少なくともこの時点では、西郷と大久保の間では慶喜の助命という選択肢はなかったようです。

 その西郷を軟化させたのが、有名な勝海舟と西郷隆盛の会談ですね。二人の会談が行われたのは、慶応4年(1868年)3月13日と14日の二日間。江戸に集結した新政府軍が江戸城総攻撃を計画していたのが翌15日のことで、ギリギリの交渉でした。なんとしても新政府軍との武力衝突を避けたい勝は、3月9日、旗本の山岡鉄舟に手紙を持たせ、駿府の大総督府にいた西郷を訪ねさせます。その手紙には、こう記されていました。
 「今、官軍都府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の道を守るは、我が徳川氏の士民といえども、皇国の一民なるを以てのゆえなり。且つ、皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。然りといえども鄙府四方八達、士民数万往来して、不教の民、我主の意を解せず、或はこの大変に乗じて不軌を計るの徒、鎮撫尽力余力を残さずといえども、終にその甲斐無し。今日無事といえども、明日の変誠に計り難し。小臣殊に鎮撫力殆ど尽き、手を下すの道無く、空しく飛丸の下に憤死を決するのみ。然りといえども後宮の尊位(静寛院宮か、あるいは天璋院か)、一朝この不測の変に到らば、頑民無頼の徒、何等の大変牆内(しょうない)に発すべきや、日夜焦慮す。恭順の道、これにより破るといえども、如何せむ、その統御の道無き事を。」

 この手紙には、もし官軍が江戸を攻撃すれば、日本にとってどれだけ大変なことになるかわからないとだけ強調し、「西郷くんよ、ここを察せよ」というだけで、一言も徳川家を助けてくれとは言っていません。これは、まことに相手をよく知り抜いた高度な政治的交渉術だと専門家は言います。西郷はただちにその意味を察し、山岡をしばらく待たせて参謀会議を開き、慶喜謝罪の七条件を山岡に示します。その内容は、第一に慶喜を備前藩にあずける。第二に江戸城明け渡し。第三、第四、軍艦と兵器をいっさい引渡し。第五に城内居住の家臣は向島にて謹慎。第六に慶喜の妄動をたすけた者の謝罪の道をたてる。第七に幕府で鎮撫しきれず暴挙するものあらば、その者のみを官軍が鎮定する。以上の七条が実行されるなら、徳川家存続は寛大に処置する・・・というものでした。山岡はこの条件を勝のもとに持ち帰ります。

 西郷が江戸総攻撃を目前に江戸高輪の薩摩邸に入った13日、勝はただちに西郷を訪問しますが、この日は天璋院と静寛院宮の身の安全の保証を話し合っただけで、早々に引き上げます。このあたりも、勝ならでは高等な交渉術だったのでしょうか? 翌14日に両者は再び会談。勝のほうから、西郷が山岡に持たせた七条件につき、第一条の慶喜を備前藩にあずけるという項目を、水戸に引退して謹慎すると改めたほかは、ほとんど大差のない条件を出します。西郷はそれに同意し、すぐさま駿府に使者を送って、翌日にせまった江戸城総攻撃の中止を命じさせました。この崖っぷちの談判で、徳川家ものちの日本もすくわれたといっていいかもしれません。まさに、英雄と英雄が肝胆相照らして日本をすくった・・・といったら、すこしオーバーでしょうか?

 この歴史的会談で徳川家も日本もすくわれましたが、まだ幕末の動乱の着地点が見つかったわけではありませんでした。
 「振り上げた拳をば、どけに下すかじゃな・・・。」
 その矛先となったのが、八重たちの会津だったわけです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-06-05 16:04 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

八重の桜 第16話「遠ざかる背中」 ~徳川慶喜は二枚舌?~

 「徳川にかけそこなった一橋」
 安政5年(1858年)、第14代将軍が一橋慶喜のライバルだった徳川慶福(家茂)に決まると、ときの人々はこのような川柳を詠んで嘲弄したといいます。その家茂が死に、いよいよ慶喜が徳川宗家の相続者となると、今度は次のような狂歌が作られました。
 「大木をばたおしてかけし一橋 渡るもこわき徳川のすえ」
 「二つ箸持つとも喰えぬ世の中に 一ツ橋でも喰えなかるらん」

 この時期、すでに庶民は幕府の瓦解を予見しはじめていたのでしょうか。

 慶喜は徳川本家相続を承知したとき、自分の意のままに政治を改革することを条件とし、これを老中らに承認させます。そして慶応2年(1866年)9月には、人材の登用、賞罰の厳正、冗費の節約、陸海軍の充実、外交の刷新、貨幣・商法制度の改革など、8箇条の施政方針を示し、その線に沿って改革が行われますが、まず当面解決しなければならない問題は、第二次長州征伐をどう処理するかということでした。

 慶喜は当初、自ら長州征伐に出陣し、あくまで武力によって長州藩を屈服させるべく強硬な態度で臨みました。出陣を前に旗本を集めて、「毛利大膳父子は君子の仇である、このたび出陣する以上、たとへ千騎が一騎になろうとも、山口城に攻め入り、勝敗を決する覚悟でいる。」と、勇ましく述べています。しかし、いよいよ出陣しようとしたときに、小倉落城の報が伝わり、戦局が絶望的となっていることを知ると、たちまち態度を軟化させて自身の出陣を取りやめ、朝廷にはたらきかけて、将軍の死を理由に休戦命令を出させることに成功します。

 続いて慶喜は、軍艦奉行・勝海舟を広島へ派遣して、長州藩との休戦交渉に当たらせます。もともと慶喜は勝のことを快く思っていませんでしたが、この局面で長州藩と口がきけ、また薩摩藩との対立も緩和させ、しかも幕府の立場を守る交渉ができる人物は、勝以外にいなかったでしょう。勝は厳島で、長州藩代表の広沢兵助(真臣)井上聞多(馨)らと会談し、幕府軍が撤退するとき、長州藩が追撃しないことで協定を成立させます。さすがは勝海舟といったところですが、実はもう一方で、慶喜は朝廷にも同時にはたらきかけ、休戦から更に進んだ停戦の勅命の引出しに成功します。勝の派遣は、いわば時間稼ぎに利用されたかたちになってしまいました。しかも、結果的に交渉の席についた長州藩にも不義理をはたらくことになってしまい、これに怒った勝は、辞表を提出して江戸へ帰ってしまいます。こうして、第二次長州征伐は、なおいくつかの問題を残しながら、一応の決着をみたのです。

 二点三点したこれらの行動から、「二心殿」「二枚舌」などと揶揄され、後世にあまり人気がない慶喜ですが、果たして本当に「二枚舌」だったのでしょうか? たとえば当初の勇ましい態度にしても、事実上幕府軍の総裁という立場で、兵の士気を高めるためには必要な態度だったでしょうし、一方で、戦局を冷静に判断して引き際を模索するのもまた、立場上、必要なことだったのではないでしょうか。長州藩との交渉にしても、結果的に勝を裏切るかたちになってしまったものの、もし勝の交渉が不成功に終わったときのことを考え、次の手を準備するのもまた、総裁という立場上、当然の行動だったように思います。ただ、あまりにも頭が良すぎて、その思考のスピードに周りの者がついていけなかった・・・。そんなところだったんじゃないでしょうか?

 「太平の世にあぐらをかいた幕府など、一度、壊れた方がよいのだ。幕府を鍛え直さねばならぬ。カビの生えた軍制から職制の大元に至るまで、全てを作り直す。それが将軍の勤めだ。」 
 ドラマ中、将軍職継承宣言をした小泉孝太郎さん演じるところの徳川慶喜が言った台詞ですが、ちょっと待って!!!・・・どっかで聞いたことある台詞ですよね!
 「自民党をぶっ潰す!」
 そうです・・・小泉孝太郎さんの実父・小泉純一郎元首相の掲げた「聖域なき構造改革」のキャッチフレーズですね。この台詞を聞いて思わず吹き出してしまったひと、多かったんじゃないでしょうか? どう考えても、この台詞は作者の意図的にしか思えません(笑)。ぜったい小泉慶喜にこの台詞を言わせたかったのでしょうね(笑)。でも、だったら、せっかくだからこう言わせたほうが良かったんじゃないでしょうか?
 「幕府をぶっ潰す!」
 実際の慶喜に、そこまでの気概があったかどうかはわかりませんけどね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-22 19:29 | 八重の桜 | Trackback(3) | Comments(8)  

八重の桜 第15話「薩長の密約」 ~将軍・家茂の死と慶喜の相続~

 薩長同盟第二次長州征伐、将軍・徳川家茂の死、一橋慶喜の将軍就任と、本来の幕末モノであれば3話ぐらいに分かれそうな話を、かなり駆け足に描きましたね。まあ、八重の生涯を描くドラマですから、幕末はあくまでプロローグに過ぎず、ここで時間を割いてはいられないといったところでしょうか。おそらく前半のクライマックスを会津戦争にもってくるのでしょうね。ではでは、当ブログも駆け足でいきます。

 慶応2年(1866年)1月、長年の宿敵であった薩摩藩長州藩の間に提携の密約が結ばれます。世に云う「薩長同盟」ですね。この二藩を仲介した立役者は、ほかならぬ土佐藩の坂本龍馬中岡慎太郎であることは周知のところでしょう。言わずと知れた幕末のヒーローですね。ところが今回のドラマでは、ナレーションで「土佐の脱藩浪士」と語られただけで、龍馬の存在をほとんどスルーしました。なんで?・・・と思った人も多かったかもしれませんが、考えようによっては、これはこれで正しいでしょうね。物語の中心である会津藩視点でみれば、坂本龍馬などあくまで「名もなき土佐の脱藩浪士」に過ぎません。人気者の龍馬を無理やり登場させて視聴者を惹きつけようという作為が感じられず、逆に良かったんじゃないでしょうか。(龍馬ファンのために桔梗の家紋の後ろ姿を映したのは、なんとも憎い演出でした)

 薩長同盟については過去の拙ブログで書いていますので、よければそちらを一読ください。
 (参照:龍馬伝 第35話「薩長同盟ぜよ」

 多くの反対や慎重論などがあって足並みが揃わないまま強行した第二次長州征伐は、ドラマにあったとおり幕府にとって厳しい戦いとなりました。そして、幕府が長州相手に敗北を重ねているとき、幕府にとってさらなる痛手となったのは、大坂在陣中の第14第将軍・徳川家茂の死でした。慶応2年(1866年)7月20日、将軍在職8年余り、若き将軍・家茂は脚気衝心でこの世を去ります。享年21歳。この日の大坂城中の様子を、家茂から厚い信頼を受けていた幕臣・勝海舟は、次のように記しています。
 「七月十九日夜、医官松本良順より隠密の報あり、将軍危篤、ついに薨去ありと。余、この報を得て、心腸寸断、ほとんど人事を弁ぜず。忽ち思うところあり、払暁登城す。城内寂として人無きがごとし。余最も疑う。奥に入れば諸官充満、一言も発せず。皆目をもって送る。惨憺悲風の景況、ほとんど気息を絶せんとす。」
 大坂城中、寂として声なき様子がよくうかがえます。家茂の死はしばらく秘密にされ、約1か月後の8月20日に正式に発表されました。

 後継者は一橋慶喜以外、適当な人物はほとんどいませんでした。家茂は死に際して田安亀之助(家茂の従兄弟)を後継者とする遺言を残したといわれますが、このとき亀之助はわずか4歳、国事多難な情勢のなか、幼君では舵取りが困難との理由で多くの大名らが反対、老中・板倉勝静稲葉正邦、前福井藩主・松平春嶽、京都守護職・松平容保、所司代・松平定敬らが、こぞって慶喜を推します。

 ところが当の慶喜は、徳川宗家の相続は承知したものの、将軍就任は容易に受けようとはしませんでした。この態度は、困難な政局を前にして、多くの人々の推薦を得てから将軍職に就き、恩を売ったかたちで将軍になることで、政治を有利に進めていく狙いがあったのでは・・・と言われています。だた、実際にはその真意は定かではありません。いわば、幕府=沈みかけの船の船頭となるのを拒んでいただけかもしれません。支持率を落とした政権与党の党首になるようなもので・・・。慶喜は後年の回想録で、このときの気持ちを次のように語っています。
 「遂に板倉・永井を召し、徳川家を相続するのみにて、将軍職を受けずとも済むことならば足下等の請に従わんといいしに、それにてもよしとの事なりしかば、遂に宗家を相続することとなれり。されども一旦相続するや、老中等はまた将軍職をも受けらるべしと強請せるのみならず、外国との関係などもありて、結局これをも諾せざるを得ざるに至れり。かかる次第にて、予が政権奉還の志を有せしは実にこの頃よりの事にて、東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり。」と。

 慶喜がすでにこの頃から大政奉還の志を持っていたという述懐は眉唾ものですが、英明な慶喜のことですから、この局面での将軍職就任が「貧乏くじ」であることは、直感的に感じていたのかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-16 17:24 | 八重の桜 | Trackback | Comments(2)  

八重の桜 第11話「守護職を討て!」 ~佐久間象山暗殺~

 元治元年(1864年)7月11日、当時のわが国でもっとも開明的な知識人だったであろう、佐久間象山暗殺されました。享年54歳。象山は、これより遡ること10年前の嘉永7年(1854年)、来航したペリー艦隊に乗り込んで密航を企てた門弟の吉田松陰に連座して蟄居させられており(参照:第2話)、その罪が許されたばかりでした。

 信濃国松代藩士の佐久間象山は、儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術と称し、この2つの学問の融合をはかり、早くから海防の必要性を説き、開国を論じ、公武合体を説きました。彼の論じるところは、分裂した国論を統一し、それによって国権の伸長をはかり、五大州をわが手に収め、その盟主となって、全世界に号令するという、実に気宇壮大なものでした。そんな象山の知識を吸収しようと、全国各地の優秀な人材が彼のもとに集いました。

 一方で、象山は自信過剰傲慢なところがあり、たいへん敵が多かったといわれています。彼の門弟であり義弟にもあたる勝海舟ですら、後年の回顧談で傲慢な象山のことをあまり高く評価していません(もっとも、海舟もまた、一癖も二癖もある人物ではあったようですが)。身分制度の厳しい封建社会において、若い頃より上者に対しても自身の意見を曲げず、不遜な態度がたびたびあったようで、何度か閉門などの罰を受けています。おそらく、自分以外の者がすべて馬鹿に見えるといった性格の持ち主だったのでしょうね。ただ、彼がこの時代の先覚者として、実に優れた人材であったことは間違いなく、彼の門弟からは、上述した吉田松陰や勝海舟をはじめ、橋本左内河井継之助、八重の兄の山本覚馬、さらにはあの坂本龍馬など、のちの日本を担う人物が数多く輩出されています。彼の存在が、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことは紛れもない事実でしょう。

 蟄居がとかれた象山は、元治元年(1864年)3月、一橋慶喜(のちの第十五代将軍・徳川慶喜)に招かれて上洛し、朝廷内に公武合体論や開国論を説いてまわります。しかし、当時の京都のまちは、前年の「八月十八日の政変」によって尊攘派は表立った行動ができなくなっていたとはいえ、未だ尊攘派志士たちが数多く潜伏しており、勢力の奪還をはかっていました。そんななかを、象山は馬上洋装で都大路をさっそうと闊歩していたといいますから、その姿が尊攘派にとって格好のターゲットとなったことは想像に難しくありません。しかも、共も連れずに移動することもしばしばだったとも・・・。このあたりも、彼の自信過剰な性格を表しているといえるでしょうか。

 都で目立ちすぎた象山は、7月11日午後5時、刺客のために非業の最期を遂げました。刺客は、肥後の河上彦斎、隠岐の松浦虎太郎の二人だともいわれていますが、確たる証拠はありません。象山が殺された現場には、次のような斬奸状が残されていました。

 松代藩 佐久間修理
 この者、元来西洋学を唱え、交易開港の説を主張し、枢機の方へ立入り、御国是を謝り候。大罪捨て置き難く候の処、あまつさえ奸賊の会津藩、彦根の二藩に与党し、中川宮と事を謀り、おそれ多くも九重(天皇)御動座、彦根城へ移し奉り候。儀を企て、昨今しきりにその機会窺い候。大逆無道、天地に容るべからざる国賊に付、即ち、今日三条木屋町に於い、て天誅を加え畢りぬ。但し、斬首梟木に懸くべき処、白昼其の儀も能わざる者也。
 元治元年七月二十一日  皇国忠義士


 象山の死後、彼の妾が生んだ恪二郎家禄を相続すべく松代藩に申し入れますが、藩はこれを受け入れず、佐久間家の家禄を召し上げました。その理由は、殺された象山が背中に深傷を負っていることにふれ、「敵に背中を見せるとは、武士としてあるまじきことなり。」というものだったそうです。むろん、これが真の理由でなかったことは言うまでもありません。真の理由は尊攘派に対する体裁だったことは間違いないでしょうが、もし、象山が日頃から敵が多い人物でなければ、また違った扱われ方をしたかもしれませんね。最後は人格がものをいう、といったら、少し酷でしょうか。

 ドラマではおそらく描かれないでしょうが、相続を退けられた象山の息子・佐久間恪二郎は、八重の兄・山本覚馬に仇討ちを勧められて、新選組に入隊します。でも結局は、父譲りの傲慢な性格が露呈して上層部から目をつけられ、隊を脱走することになるんですね。明治維新後は「象山の息子」であることを利用して司法省に出仕するも、警察官との喧嘩沙汰で免職となります。父は傲慢ではあったものの、時代の先覚者としての裏付けがありましたが、恪二郎は傲慢なだけのただのドラ息子だったようです。後進に多大な影響を与えた象山でしたが、自身の息子には悪影響しか与えていなかったようですね。

 話がすいぶんとそれちゃいました。本日はこのへんで・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-18 23:43 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(2)