台風の影響で地上波の放送がなくなっちゃいましたね。こんなこともあろうかと、わたしは18時からのBSを録画して観ました。まだ観てない方もおられると思いますが、フライングして起稿します。
慶応4年3月9日(1868年4月1日)の駿府での山岡鉄舟との膝詰め談判で、徳川慶喜の処遇問題、江戸城の開城、旧幕府方の責任者の処罰、軍艦、武器弾薬の引き渡しなどの条件を提示した東征大総督府下参謀の西郷吉之助(隆盛)は、3月12日、品川に着陣しました。江戸総攻撃の予定日が3月15日ですから、その3日前のことですね。この報告を受けた勝海舟は、すぐさま使いを出して面会を求めます。その目的はいうまでもなく、徳川家の存続と江戸総攻撃の中止を求めるためでした。
勝の言い分は、すでに山岡が持参した手紙によってじゅうぶんに伝わっていました。あの「無偏無党、王道堂々たり」で始まる有名な手紙です。
無偏無党、王道堂々たり矣。今、官軍都府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の道を守るは、我が徳川氏の士民といえども、皇国の一民なるを以てのゆえなり。且つ、皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。
然りといえども鄙府四方八達、士民数万往来して、不教の民、我主の意を解せず、或はこの大変に乗じて不軌を計るの徒、鎮撫尽力余力を残さずといえども、終にその甲斐無し。今日無事といえども、明日の変誠に計り難し。小臣殊に鎮撫力殆ど尽き、手を下すの道無く、空しく飛丸の下に憤死を決するのみ。
然りといえども後宮の尊位(静寛院宮か、あるいは天璋院か)、一朝この不測の変に到らば、頑民無頼の徒、何等の大変牆内(しょうない)に発すべきや、日夜焦慮す。恭順の道、これにより破るといえども、如何せむ、その統御の道無き事を。唯、軍門参謀諸君、よくその情実を詳らかにし、その条理を正さんことを。且つ百年の公評を以て、泉下に期すに在るのみ。
嗚呼痛ましいかな、上下道隔たる。皇国の存亡を以て心とする者少なく、小臣悲歎して訴えざるを得ざる処なり。その御処置の如きは、敢えて陳述する所にあらず。正ならば皇国の大幸、一点不正の御挙あらば皇国瓦解、乱民賊子の名、千載の下、消ゆる所なからむか。小臣推参して、その情実を哀訴せんとすれども、士民沸騰、半日も去るあたわず。ただ愁苦して鎮撫す。果たしてその労するも、また功なきを知る。然れども、その志達せざるは天なり。ここに到りこの際において何ぞ疑いを存せむや。恐惶謹言。
三月五日
参謀軍門下
勝 安房
この手紙には、もし官軍が江戸を攻撃すれば、日本にとってどれだけ大変なことになるかわからないとだけ強調し、「西郷くんよ、ここを察せよ」というだけで、一言も徳川家を助けてくれとは言っていません。これは、まことに相手をよく知り抜いた高度な政治的交渉術だと専門家は言います。
慶応4年3月13日(1868年4月6日)に高輪の薩摩藩下屋敷で、14日には芝田町の薩摩藩蔵屋敷で、勝と西郷の歴史的な会談がなされます。初日は、天璋院と静寛院宮の身の安全の保証を話し合っただけで、早々に引き上げます。このあたりも、勝ならでは高等な交渉術だったのでしょうか? 翌14日に両者は再び会談。この日、勝のほうから、西郷が山岡に持たせた七条件につき、第一条の慶喜を備前藩にあずけるという項目だけは受け入れられないとし、水戸に引退して謹慎することで理解を求めます。備前藩は新政府側についていましたから、幕臣としては当然の主張でした。侍にとって、最も守るべきものはわが主君ですから、幕臣としては、慶喜が罪人として首を討たれるなどということになれば、武士の誇りを失うことと同じでした。これまで幕臣の身でありながら、さんざん幕府の悪態をついてきた勝でしたが、幕府の終焉にあたって、最後は武士の誇りを貫いたんですね。この勝の条件を理解した西郷は、すぐさま駿府に使者を送り、翌日にせまった江戸城総攻撃の中止を命じさせました。
結果を知っている後世から見れば、勝と西郷という賢者によって成された至極当然の平和的解決としてこの会談をみてしまいがちですが、ことここに至るまでは決して簡単な道のりではありませんでした。勝はこの会談に臨むにあたって、まず、徹底抗戦を主張する強硬派を全部罷免して江戸から追い出し、一方で、もし、新政府軍が徳川家の歎願を聞き入れずに江戸に攻め込んできたときには、新政府軍を江戸の真ん中まで引き入れて周囲の家屋に火を放ち、江戸の街ごと火攻めにして新政府軍を皆殺しにするという過激な作戦を具体的に練り上げていたといいます。この江戸焦土作戦で江戸を火の海にする役目は侍ではなく、火消しの親分・新門辰五郎をはじめ、町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、非人頭などの町民たちで、勝自ら彼らの家を回って協力を求めたといいます。さらに、房総など江戸湾中の船頭に話をつけて、もしそうなればありったけの船を出して町民を避難させる手筈も整えていたといいます。
この作戦は、この半世紀以上前、ナポレオンに攻め込まれたモスクワ焦土作戦を参考にしたと後年の勝が語っていますが、もちろん、これは最悪の場合のシナリオだったことは言うまでもありません。しかし、西郷との談判に臨むにあたって、それだけの準備があったからこそ相手を呑む胆力が生じたと、後年の勝は回顧しています。
一方の西郷も、当初は何が何でも慶喜の首を討つと主張していましたが、江戸が焦土と化すことは、必ずしも望むところではなかったでしょう。そこには、かつての京での禁門の変の苦い経験があったかもしれません。前年の八月十八日の政変から禁門の変にかけて、長州藩を京から排除して朝廷における主導権を握った薩摩藩でしたが、京の街を火の海にしたことで、民衆からの悪評に苦慮しました。あのときと同じように、江戸を戦場にしてしまったら、多くの人々が命を落としたり路頭に迷うことになり、そうなると新政府軍は民心を失い、旧幕府方に勢いがつく。勝の本気度を見て、西郷はそう考えたのではないでしょうか。新政権を樹立するにあたって、大都市である江戸の民衆の支持は不可欠でした。このあたりの機微の敏感さは、政治家・西郷の真骨頂でしょうね。
また、西郷が江戸攻めを思い留まったもうひとつの理由として、会談初日の13日に、イギリス公使ハリー・パークスから戦争を反対されたということも影響していたと考えられます。会談の直前、西郷の使いで先鋒総督府参謀の木梨精一郎がパークスのもとを訪れますが、そこで、パークスは、新政府サイドから居留地の諸外国に対して江戸総攻撃に至る経緯の説明がなかったことを指摘し、居留地の安全は誰が保証するのかと迫り、これは万国公法に違反した戦争だと強く反対したと伝わります。パークスにしてみれば、日本が内乱状態になって生じる貿易上の損失を憂慮しての反対だったのでしょうが、西郷にとっては、後ろ盾になってもらえると目論んでいたパークスからの反対は、大きな誤算だったに違いありません。
かくして江戸は、ギリギリの局面で焦土と化すことを免れました。勝と西郷、それぞれの思惑が交差した会談でしたが、結果的にのちの日本を救ったという点において、やはり、この会見は歴史的会談だったといえるでしょう。ふたりが日本史上の英雄となった瞬間でした。ただ、わたし個人的には、江戸無血開城の最大の功労者は、西郷よりも勝だったと思っています。ところが、世間一般の歴史観では、西郷の功績という印象が強いですね。ドラマ中、勝が西郷の銅像でも上野に建てるかと言っていましたが、事実、これよりわずか30年後の明治30年(1897年)に上野公園に西郷の銅像が建てられたのに対し、勝の銅像が建てられたのは、西郷の銅像竣工から100年以上が過ぎた平成15年(2003年)のことでした。このあたりからも、つくづく、歴史とは勝者が作るものだということがわかりますね。
勝と西郷の歴史的会談で、すべてが一件落着となったわけではありませんでした。この時期の歴史は内容が濃すぎて、とても一回では語りつくせません。続きは明日の稿にて。
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▲ by sakanoueno-kumo | 2018-10-01 01:28 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)