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幕末京都逍遥 その51 「土佐志士寓居跡」

東山の三十三間堂南大門の南に、かつて土佐藩出身の尊攘派志士が隠れ家としていた邸がありました。

現在、塩小路通に「この付近 坂本龍馬 北添佶摩など土佐志士寓居跡」と刻まれた石碑が建ちます。


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土佐藩士たちが隠れ家とした家は、河原屋五兵衛という人物の隠居所だったそうです。

河原屋五兵衛という人について調べかつかなかったのですが、説明板には、「瓦屋の五郎兵衛の意か」と書かれていたので、おそらく武士ではないのでしょう。

この当時、豪商たちが志士のパトロンとして援助するといった話は、よくあることでした。

ここに、石碑に刻まれた坂本龍馬北添佶摩をはじめ、中岡慎太郎望月亀弥太などが隠れ住んでいたといいます。

ここで、龍馬の妻となるお龍の母・と妹の君江が賄いとして働いていたんですね。

その縁で、龍馬とお龍が出会います。

まさに、ここが2人の出会いの場だったんですね。

時は元治元年(1864年)、 お龍24歳、龍馬30歳でした。

2人の出会いについて、お龍は回顧録で次のように語っています。


「名前は、聞かれ、『お龍』 と答えると 『わしと同じじゃ』 と二人はすぐに打ち解けました。お互いの身の上話で大いに盛り上がりました」(『千里駒後日譚』より)


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現地説明板によると、ここが土佐藩士たちの隠れ家だったことが、お龍の晩年の回想録「反魂香」に記録されているそうです。

それによると、「大仏南の門今熊の(野)道」の河原屋五兵衛の隠居所を借りて、「中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶磨)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山岡甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」と同居していたといいます。

これが事実かどうか、ながくわからなかったのですが、これを裏付けたのが、お龍の回想にも出てくる北添佶磨の書簡(元治元年(1864年)5月2日母宛)でした。

そこには、「私儀は此節は、洛東東山近辺瓦屋町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮し居候」と記されており、ここの南向いの地名はいまも「本瓦町」で、北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいないということになったそうです。


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北添の書簡から約1ヶ月後の元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件の際、ここも京都守護職などの役人に踏み込まれました。

龍馬らは不在でしたが、貞や君江などが連行されたそうです(まもなく釈放)。

ちなみに北添は池田屋事件で落命します。

その後、8月初旬、龍馬とお龍は青蓮院塔頭金蔵寺祝言を挙げることとなります。

次稿では、その祝言の地を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-10 01:23 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その38 「池田屋事変殉難志士墓所跡碑」

三条大橋を東に渡って100mほど歩いたところに、「池田屋事変殉難志士墓所跡」と刻まれた石碑が建てられています。

かつて、この場所には三縁寺」という寺があり、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件で討死した攘夷派志士たちが葬られていました。


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事件発生後、現場に打ち捨てられたままになっていた志士たちの遺体は、ここにあった三縁寺に運び込まれました。

そのメンバーは、熊本藩の宮部鼎蔵、松田重助、長州藩の吉田稔麿、杉山松助、廣岡浪秀、土佐藩の北添佶摩、石川潤次郎、望月亀弥太、林田藩の大高又次郎の9人だったといいます。

そのうち、宮部、松田、吉田、杉山、北添、石川、大高の7人は、のちの明治政府により「殉難七士」と呼ばれるようになります。


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三縁寺は、昭和54年(1979年)に京阪電鉄三条駅前開発にともない、左京区岩倉花園町に移転したそうで、その際、志士の遺骨も発掘され、岩倉の新墓地に改葬されました。


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移転するにあたって、三縁寺と京阪電車との間で「維新史蹟池田屋事変三縁寺墓所跡」という石碑を建立するという契約が結ばれたそうですが、その後30年、建碑は行われていませんでした。

ようやくこの石碑が建てられたのは、平成22年(2010年)だったそうです。


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現在、石碑の建つ場所は、バイク置き場になっています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-20 23:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

龍馬伝 第23話「池田屋に走れ」

 元治元年(1864年)6月5日、京都三条の旅宿・池田屋に集った過激攘夷志士を、幕府の特別警察隊であった新選組が襲撃した。世に言う「池田屋事件」である。「池田屋の変」「池田屋事変」とも言われる。この事変によって、攘夷派の志士13人が命を落とすことになる。死者の中には、肥後熊本藩の宮部鼎蔵を始め攘夷派の実力者が多く含まれており、尊攘派は大打撃を受けた。逆に御所焼き討ちという暴挙を未然に防いだという功により、新選組の名が天下に轟く事件となった。

 幕末の物語には不可欠なこの事件で、今回のドラマでは坂本龍馬が事件後の現場に駆け付けるという設定になっていたが、実は龍馬はこの4日前の6月1日に幕府軍艦に乗って勝海舟に会うため江戸に向かっている。おそらくは龍馬がこの事件を知ったのは、江戸に着いてからのことだろう。前年の「八月十八日の政変」に始まり、この「池田屋の変」、そしてこの翌月に起こる「禁門の政変(蛤御門の変)」と、この時期の重要な出来事に龍馬は直接関わっておらず、土佐藩目線で見ても、土佐勤王党の弾圧、武市半平太の投獄など、こちらも龍馬の活躍の場が乏しく、龍馬を主役とするドラマ作りとしては最も難しい時期だろう。上記で述べたように、この時期江戸に向かっていた龍馬が望月亀弥太の最期を看取ることができるはずもなく、ドラマ独自のフィクションなのだが、龍馬ではなく、実はお龍が亀弥太の死体と遭遇していたようだ。晩年の彼女がこのときのことを振り返り、
 「頭の髪か、手足の指か、何かひとつ形見に切つておきたいと思ひましたが、番人がいつぱいをつて取れないのです。また晩方いつてみると、死骸ははや長州屋敷へ引き取つたあとでした。」
と語っている。龍馬もおそらくはお龍からこのことを聞き、やるせない感情を抱いたことだろう。

 この「池田屋事件」で命を落とした土佐の攘夷志士は望月亀弥太を始め5人を数えるが、その中に今回のドラマでは登場していない土佐勤王党員・北添佶摩という人物がいる。これもドラマでは紹介されていないが、この頃の龍馬は「蝦夷地開拓」という考えを持っており、この前年、脱藩したばかりの佶摩を口説いて蝦夷地視察に行かせている。かねてから龍馬は、京でバタバタと死んでいく志士たちの状況を憂い、彼らの活動の場所を蝦夷地に求めていたという。海舟の作った「神戸海軍操練所」もそういった発想も理由のひとつにあった。この「蝦夷地開拓」は、後の北海道屯田兵のようなもので、龍馬の先見性がうかがえるエピソードだ。このときの龍馬の江戸行きは、この蝦夷地開拓の案を幕府に提案すべく海舟のもとに向かったとも言われており、その案を実現するために現地視察に行ったはずの北添佶摩が、同じときに龍馬の思いに反するかたちで命を落とすことになるとは、龍馬にとって何とも口惜しい話だっただろう。

 この時期、多くの若い志士たちが死に急いだ。新しい時代を迎えるにはまだ機が熟していなかった。が、彼らの熱い血潮はその機を待っていられなかった。彼らの中には、明治の世まで生きていれば、重責を任されたであろう優秀な人物が多くいた。しかし、彼らはその新時代に自身が立つことよりも、その捨て石になる道を選んで散っていった。彼らの死は決して無駄死にではない。そのひとつひとつの命が積み重なって新時代を迎える礎となり、ひいては現代の私たちにつながっている。

 「最低でも県外」などと出来もしないことを軽々しく言葉にし、それが出来なくとも命まで失うことはない現代の「政権交代」は、この時代に「政権交代」を目指して散っていた志士たちの熱意には足元にも及ばない薄っぺらいものだった。「歴史的政変」として高揚した昨夏から8カ月。実は歴史的でも何でもなかった。新しい時代を迎えるにはまだまだ機が熟していないようだ。今の日本にも、まだまだ「捨て石」が必要なようである。菅直人氏も然り・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2010-06-07 01:31 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(8)