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室町時代の庭園が残る多気北畠氏城館跡を訪ねて。<前編> 北畠神社

南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国の守護大名だった北畠氏の城館跡が、三重県津市の多気の地にあります。

多気(たげ)と読みます。


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多気北畠氏城館跡は多気のほぼ中央に位置する館跡詰城およびその背後の山頂にある霧山城をあわせた総称ですが、この日は夕方からの訪問だったため、麓の館跡のみの見学です。


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駐車場にイラストマップがあります。


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現在、館跡には北畠神社が鎮座します。

北畠神社はその名のとおり、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能を主祭神とする神社です。

石碑には、「別格官幣社」とあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)11月18日。

紅葉まっさかりの時期でした。


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境内入口の石鳥居です。


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社殿です。

北畠神社は建武中興十五社にも数えられています。

「建武中興十五社」とは、後醍醐天皇(第96代天皇)の建武の新政(建武の中興)に尽力した人物を祀った神社のことですが、北畠神社には主祭神の北畠顕能のほかに、父の北畠親房と兄の北畠顕家が合祀されていることから、建武中興十五社に数えられたのでしょう。

北畠神社の創建は寛永20年(1643年)3月と伝わり、建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持ちます。

つまり、他の14社は明治以降の創建ということ。

明治政府が多分に政治利用するために創建したバッタもんの神様、とは言い過ぎでしょうか。


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境内には、合祀された北畠顕家の像があります。


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北畠顕家は建武の新政下、わずか16歳陸奥守兼鎮守府将軍に任じられた南朝方の武将で、一時は反旗を翻した足利尊氏軍を九州へ追いやる活躍を見せますが、延元3年/建武5年(1338年)、5月22日、阿倍野・石津の戦い21歳という若さで討死した悲運の武将です。


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「花将軍 北畠顕家公」とあります。

これと同じような像が、同じく建武中興十五社に名を連ねる阿部野神社にもあります(参照:太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」)。

顕家は紅顔の美少年だったと言われ、その貴公子ぶりからも「花将軍」と称されました。

平成3年(1991年)のNHK大河ドラマ『太平記』では、当時、「国民的美少女」と持てはやされた後藤久美子さんが演じて話題になりましたね。


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境内に設置された説明板では、日本最古の石垣が発掘されたと書かれていました。

でも、あたりを見渡すかぎり、それらしき石垣は見当たりませんでした。


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こちらにも、何か説明板があります。


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入口跡の石段が見つかったとありますが、これも、見当たりませんでした。

たぶん、埋め戻されたのでしょうね。


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こちらの説明板には、礎石建物跡が出土したとありましたが、これも埋め戻されたのでしょう。


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結局、遺構といえるようなものは見られませんでした。

仕方がないので、紅葉をアップします。


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さて、<後編>では室町時代から残る庭園を散策します。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-12 23:34 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その191 「石清水八幡宮」 京都府八幡市

京都府八幡市の男山山中に鎮座する「石清水八幡宮」を訪れました。

貞観元年(895年)の創建と言われる石清水八幡宮は、数々の歴史の舞台に登場する大社ですが、『太平記』の時代にも、その地理的要衝から恰好の軍事目標となり、何度も軍事拠点となって兵火にも晒されました。


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『太平記』で最初に石清水八幡宮が登場するのは、配流先の隠岐島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が船上山に立てこもると、天皇は共に隠岐島を脱出した千種忠顕山陽・山陰道の総司令官に任命し、援軍として京に向かわせます。

楠木正成、護良親王、赤松則村(円心)の挙兵で六波羅が混乱しているなか、忠顕は8000の兵(太平記では20万7千騎)を率いて一気に京都を目指して出陣します。

そのとき千種軍が陣を布いたといわれるのが、ここ石清水八幡宮だったと伝えられます。


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しかし、勢いだけで突き進んだ千種軍は、あえなく六波羅軍によって撃退され、忠顕は淀川を挟んだ北東の山崎に陣を布いていた円心の元に落ち延びたと伝わります。

円心は摩耶山合戦で六波羅軍を撃退したあと、兵を山崎まで進めていましたが、六波羅軍の抵抗の前に総崩れとなり、千種軍とともに退却、再起をはかります。


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次に石清水八幡宮が舞台となるのは、建武の新政が始まった年の建武元年(1334年)9月21日、討幕の成功と王政一統を報告するために後醍醐天皇の行幸が行われたときです。

この行幸の列には、前衛に足利尊氏、中衛に楠木正成、後衛に名和長年を付き従わせ、世間に新政権は武家と朝廷が共に協力しあう政権であることを喧伝したと伝わります。

しかし、この頃すでに武士たちの不満が積もり始めており、尊氏が反旗を翻すのは、この翌年のことです。


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本殿の近くには、楠木正成が建武元年(1334年)に必勝を祈願して植えたと伝わるクスノキがあります。

『洛陽名所集』によると、「戦勝軍利を祈り、楠千本を八幡山にうへけり」とあります。

その逸話が事実だとすれば、この行幸の際に植えられたのかもしれませんね。


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でも、だとすれば、この時点で正成は、近い将来戦が起こることを予感していたということでしょうか。


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樹齢700年近くなる大樹は、根周り18m、樹高30m、樹冠40mで、京都府指定天然記念物となっています。


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続いて石清水八幡宮が舞台となるのは、足利幕府が成立した翌年の延元2年/建武4年(1337年)12月、南朝方の北畠顕家新田義貞の子の新田義興とともに再起をかけて、ここ石清水八幡宮に籠城します。

これに対して尊氏が差し向けた高師直率いる包囲軍は約10万、一方の籠城軍は2000ほどだったといわれます。


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しかし、北畠、新田ら籠城軍はよく戦い、籠城は4ヶ月に及びますが、結局は衆寡敵せず

籠城軍は総崩れとなり、石清水八幡宮軍は高師直軍の手によって、火にかけられます。

このとき、籠城軍の多くが焼死したと伝わります。


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そして最後に石清水八幡宮が舞台となるのは正平6年/観応3年(1352年)に起きた「正平の役(八幡の戦い)」のとき。

足利幕府の内紛に乗じて一時、南朝方が京を奪回すると、ここ男山八幡の麓に後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の仮皇居が置かれますが、その後、勢力を盛り返した足利義詮軍が攻め寄せ、男山八幡を背にしたこのあたり一帯が戦場となります。


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幾多の戦乱に巻き込まれた石清水八幡宮。

現在、国宝に指定されている石清水八幡宮の社殿は、寛永11年(1634年)に徳川家光が寄進したものです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-31 09:06 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(0)  

太平記を歩く。 その151 「北畠顕家供養塔」 大阪府堺市

前稿で紹介した阿倍野区にある北畠顕家の墓とは別に、堺市にも顕家の墓があります。


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阿倍野の墓は江戸時代に建てられたものですが、こちらは昭和12年(1936年)に顕家600回忌に町の有志によって建てられたものだそうで、墓というより、供養塔と言ったほうが正しいでしょうね。


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『太平記』では、顕家戦死の地摂津阿倍野と記されているので、一般には前稿の墓が有名ですが、近年の研究では、ここ堺市の石津で討死したという見方が主流だそうです。


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『神皇正統記』などでは、延元3年(1338年)5月22日朝、足利軍高師直率いる1万8千と戦い、ここ摂津国石津で戦死したと伝えています。

享年21。


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供養塔の前には、「此附近北畠顕家奮戦地」と刻まれた石碑があります。


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供養塔です。

「源顕家公 殉忠遺蹟供養塔 南部師行公」

と刻まれています。

南部師行とは、顕家と共にこの地で戦死した南朝方の武将です。


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その南部師行から数えることの33代目にあたる子孫の男爵・南部日実氏が揮毫した慰霊碑です。

残念ながら、右上が欠けてしまっています。


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隅にある「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の裏には、「正徳3年(1711年)建立、行家」と刻まれており、古くからこの地が古戦場であったと知られていたことがわかりますが、この稿を起稿するにあたってネットで調べていると、行「家」ではなく、「蒙」の草冠がない字だそうです。

たしかに言われてみれば、そうです。


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これは、当時、徳川幕府の目を恐れた人たちが、こういう形で顕家の霊を弔ったものだそうです。

へぇ~、ですね。


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慰霊碑の前に流れる石津川です。

おそらく、当時は浜辺だったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-28 09:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その150 「北畠顕家墓所」 大阪市阿倍野区

北畠顕家の墓所と伝わる場所に来ました。

現在は北畠公園として整備されています。


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公園入口の石碑は、昭和14年(1939年)に建てられたものです。


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由緒書です。


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墓石の周りは塀と柵で囲われていて、なかに入ることはできません。


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墓所の前の石碑は大正8年(1919年)のものです。


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こちらはの看板には、阿倍野合戦之図と、同合戦に顕家が出陣の際に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に送ったとされる上奏文要訳が記載されています。その内容は、


一、西府(九州)と東関(関東)を平定するために人を遣わし、あわせて山陽、北陸等に藩鎮を置くこと。

一、戦争で疲弊した民の租税を減免し、倹約すること

一、貴族、僧侶への恩賞は、働きに応じて与えること

一、臨時の行幸や酒宴は控えること

一、法令に尊厳をもたせること

一、公家・官女・僧侶などのうちに政治に介入して政務を害する者あり  益のないものは退けること

延元三年(1338)5月15日

従二位権中納言兼陸奥守大介 臣 源朝臣顕家 上


この上奏文は、若年ながら顕家の卓越した政治理念を知ることのできる資料として、後世に高く評価されいます。


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柵の隙間から墓石を撮影。


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碑文は、手前の看板で紹介されていました。

「別当鎮守府大将軍従二位行権守中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」


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顕家の墓は、かつてこの地にあった「大名塚」と呼ばれていた塚を、江戸時代の国学者・並川誠所が享保年間(1720年頃)に北畠顕家の墳墓と比定し、建てられたものだそうです。


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公園の片隅にあるプレファブの前に、「北畠顕家公ご尊像」と書かれた看板がありました。

その窓を覗いてみると・・・。


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中に顕家の像があるのですが、ガラスが汚れている上に反射して、写真ではよくわからないですね。


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さて、次回はもう1ヶ所ある顕家の墓を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-26 23:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」 大阪市阿倍野区

大阪市阿倍野区にある「阿部野神社」を訪れました。

ここは、前稿で紹介した北畠親房と、その子の北畠顕家二柱を祭神として祀る神社です。

全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、元別格官幣社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始り、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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神社への参拝入口は複数あるのですが、この日は南側から入ります。


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境内に入ると、すぐに顕家の像が目に入ります。


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親房のことは前稿で紹介したので、本稿では顕家のみ紹介します。


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元弘3年/正慶2年(1333年)8月、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開始した建武の新政下、わずか16歳陸奥守兼鎮守府将軍に任じらた顕家は、同年10月、父と共に義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州は陸奥国へ下向し、多賀城を国府として東国経営に努めます。

延元元年/建武3年(1336年)、足利尊氏謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功。

この功績により、顕家は鎮守府大将軍に任じられます。

しかし、その後、湊川の戦い楠木正成新田義貞軍が敗北すると形勢は逆転。

やがて後醍醐天皇が吉野に落ちると、延元3年/建武5年(1338年)、京都回復のために兵を挙げて各地で転戦。

一時は北朝方を圧倒する戦いを見せますが、同年3月16日、摂津での戦いに敗れると、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠ります。

その後も顕家軍は和泉で奮戦しますが、やがて5月16日、足利方の高師直軍が堺の浦に出撃を開始し、5月22日、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げます。

享年21。


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「花将軍 北畠顕家」という歌の歌詞だそうです。

聴いたことないですが(笑)。

顕家は紅顔の美少年だったと言われ、その貴公子ぶりからも「花将軍」と称されました。

平成3年(1991年)のNHK大河ドラマ『太平記』では、当時、「国民的美少女」と持てはやされた後藤久美子さんが演じて話題になりましたね。


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拝殿です。


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いたるところに北畠家の家紋菊の紋章が。

北畠家が天皇家直属の公卿だったことを意味しているのでしょうか。


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拝殿の周りには、「建武の中興六百五十年祭を迎へて」と題した木製のなが~い看板が設置されています。


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すべて楷書手書きです。

これ、凄いですね。


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そして、こちらは西側の参拝口。


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なぜ、この地に北畠父子を祀る神社が創建されたかというと、このあたりが顕家と足利軍が戦った古戦場跡と伝わり(異説あり)、この近くに顕家の墓があったからだそうです。

次回は、その顕家の墓を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-25 22:27 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)