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タグ:古戦場跡 ( 75 ) タグの人気記事

 

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その5 <大川藤蔵(小河吉三郎)捕縛地>

「その4」のつづきです。

「その3」で紹介した山口護国神社から5kmほど北上した兵庫県朝来市山内の一角に、「勤皇志士 大川藤蔵殉難之地」と刻まれた石碑があります。

大川藤蔵は水戸藩士・小河吉三郎の変名で、生野の変挙兵メンバーのひとりでした。


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万延元年(1861年)、小河吉三郎は同じく水戸藩士の林忠左衛門らとともに江戸の薩摩藩邸で攘夷の実行をうったえますが、聞き入れられず、水戸に送還されて禁固処分となります。

釈放後、京都にて同志と交わり、文久3年(1863年)2月に長州へ入り、同年10月、生野での挙兵メンバーに加わりました。


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文久3年10月13日(1863年11月23日)の夜に総帥の澤宣嘉解散派とともに本陣から脱出してしまったことを知った小河は、河上弥市(南八郎)少壮派のいる妙見山本陣に向かい、その事実を伝えます。

そこで河上らが決死の覚悟を固めていることを知ると、同じく水戸藩士で挙兵メンバー最年長の川又左一郎とともに解散するよう説得しますが、河上らはこれを聞き入れません。

やむなく説得を諦めた小河と川又は、因州の大村辰之助、丹波国氷上郡黒井村の庄屋出身の木村愛之助(片山九市)らとともに沢宣嘉を探して丹波路に向かいました。

しかに、追ってきた農兵に囲まれ、窮地に陥った小河は、山内村サケジ谷切腹して果てます。

享年27。


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小河の介錯をした川又は自ら縄に就き、大村は腹を切ったが死にきれず、片山もその場で取り押さえられました。

3人は出石藩に引き渡れ、川又は、11月23日、出石の獄で自ら首をくくって自殺し、大村と片山は京都の六角獄舎に送られ、片山は獄中で病死、大村は翌年の7月20日、平野國臣、横田友次郎、本多素行らとともに、禁門の変における大火災の混乱のなか判決が出ていない状態のまま斬首されます。

参照:六角獄舎跡(勤王志士平野國臣外十数名終焉之地)

彼らの遺骸は、13年後の明治10年(1877年)、京都の竹林寺に埋葬されました。

参照:平野國臣以下三十七士之墓(竹林寺)


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小河が切腹したサケジ谷は、この石碑の建つ場所より1kmほど先に行った山中にあるそうです。


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いまは長閑な田園風景が広がる山内村。

水戸藩出身の小河が、縁もゆかりもない但馬国の村で腹を切ることになろうとは、さぞかし無念だったでしょうね。


志士は溝壑に在るを忘れず。

勇士は其の元を喪うを忘れず。


「その6」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-28 00:17 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その28 「松本奎堂戦死之地」

「その27」の最後に紹介した藤本鉄石が紀州藩撃ち方の的場喜一郎を討ち取ったという場所は、現在、天誅組史跡公園となっており、藤本とともに天誅組三総裁のひとりだった松本奎堂戦死の地を示す石碑が建てられています。


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文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で、決死隊が囮となって壮絶な死を遂げていた隙きに、松本奎堂は藤本鉄石堂とともに敵中突破に成功し、丹生川上神社から高見川に沿って木津川、伊豆尾笠松に上り、夜半、庄屋の松本清兵衛宅で休息をとります。

松本奎堂はもともと隻眼だったのですが、天誅組の挙兵後、十津川の陣中で両眼を失明してしまい、そのため、駕篭での移動を余儀なくされていました。

翌25日昼過ぎ清兵衛の案内で出発し、萩原の御殿越峠の頂上まで来たとき、紀州兵の銃声が聞こえ、驚いた駕篭かきが逃げ出してしまい、駕篭もろとも放置された奎堂は、発見されて銃殺されたといいます。


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道路沿いに「天誅義士戦死の地」と刻まれた大きな石碑があります。


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「至従是 天誅義士 松本奎堂先生戦死之地」と刻まれています。


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その横にある小さな石碑には、「松本奎堂先生従者 天誅組志士 村上萬吉戦死之地」と刻まれています。

従者の村上萬吉も、松本奎堂とともに銃撃されました。


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漢文の石板です。


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説明板です。


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その横にある石碑には、「松本奎堂先生墓所これより900m」と刻まれています。

ええ?

ここじゃないの?


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この日は小雨の降る天気だったので迷ったのですが、意を決して1kmの登山に挑みました。


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ガッツリ登山です。


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残り1000mの標識が。

増えてるし!


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残り800m。


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しばらくすると、道がなくなってどうにも進める状況ではなくなりました。

どうも、山道がちゃんと整備されていないようです。

天気も悪いし足元もぬかるんでるし、登山はここで断念


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なんとか車で頂上まで行けないものかと検索してみると、車道に誘導看板があったのでしばらく走らせてみると、それらしき看板が現れました。


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でも、その横には、やはり「松本奎堂先生墓所これより900m」の石碑が。

どうやら山の反対側に来ただけだったみたいです。


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ここからは、こんな道になり、軽自動車だったらあるいは行けたかもしれませんが、わたしの愛車プリウスαでは、とても無理な道幅でした。

このあたりに車を停めるスペースもなく、結局断念することにしました。


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松本奎堂は三河国刈谷藩出身の人物で、「その22」で討死した宍戸弥四郎とは竹馬の友だったといいます。

刈谷藩は小藩ながら譜代大名で、宍戸と松本は、譜代藩出身の勤皇志士という異色の経歴の持ち主でした。

特に松本は、藩より選ばれて昌平坂学問所に学び、舎長(塾頭)まで勤めたエリートであり、そのまま藩にいれば将来は安泰だったはずで、そういった意味でも、他の天誅組志士たちの経歴と比べて異質な存在でした。

あるいは、いちばん志の高い人物だったかもしれません。


辞世

「君が為め みまかりにきと 世の人に 語りつきてよ 峰の松風」





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by sakanoueno-kumo | 2019-11-12 23:43 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その27 「鷲家古戦場~藤本鉄石 福浦元吉 戦死之地」

鷲家口の激戦地から3kmほど北上した鷲家にも、天誅組史跡が残されています。

まずは、幕府より命を受けて追討軍として出陣した津藩の陣所跡です。


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古い家屋の2階部分に看板が見えます。


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「天誅組史跡(油屋) 藤堂藩陣所跡」と記されています。

藤堂藩とは津藩のこと。

津藩の追討軍は、かつてここにあった油屋に陣を布き、天誅組の行く手を阻みました。


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家屋の横の植え込みには、「藤堂藩本陣跡」と刻まれた石碑が。


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そのすぐ側には、文政11年(1828年)建立と記された伊勢街道の道標があり、その上には常夜灯が設置されています。

ここ鷲家村は、江戸時代は紀州藩領で、伊勢南街道と佐倉峠を通って宇陀に出る道の交差点にあたり、かつては交通の要所として宿屋や店がいくつか軒を並べ賑わう場所だったそうです。

つまり、この道標は、天誅組の変のときもあったということですね。


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道路を挟んでその斜め向かいの郵便局の前には、「紀州藩本陣跡」と刻まれた石碑看板があります。


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石碑です。


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看板には、「大庄屋辻四郎三郎屋敷 紀州藩家老 天誅組追討軍総督山高左近 本陣跡」とあります。


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その近くには、「紀州藩軍役方頭取 金沢弥右衛門 陣所跡」と書かれた看板があり、その下には、「藤本鉄石 福浦元吉 戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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藤本鉄石天誅組三総裁のひとり、福浦元吉はその従者でした。


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文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で、決死隊が囮となって壮絶な死を遂げていた隙きに、藤本はもうひとりの総裁・松本奎堂とともに敵中突破に成功します。

しかし、翌日の25日に松本とはぐれ、ここ鷲家の中心部から東へ約1kmの岩本谷という所に出ました。

そこで、紀州藩銃撃隊の的場喜一郎狙撃を受けますが、命中せず、肉迫して的場を討ち取りました。

しかし、そこで、もはや逃げられないと観念したのか、あるいは、仲間を残して自身だけ逃げるのを潔しとしなかったのか、伊勢街道を東へ逃れる計画を断念し、西の敵陣まで引き返し、ここ紀州藩の陣所に猛烈に斬り込みました。

不意をつかれた紀州藩軍は大混乱に陥りましたが、数十人いたという紀州兵に対して、こちらは藤本と福浦の2名

結局は多勢に無勢で壮絶な討死を遂げます。


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ここから東へ約1kmの岩本谷には、的場喜一郎を討ち取ったことを説明する看板がありました。


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藤本は死の前日、昼食のもてなしを受けた武木の庄屋大西家で、その好意に謝意を込めた辞世ともとれる和歌三首を短冊に記しました。


大君の 御たゝむきさす あむ置きて あきつはなきか 秋のみ空に

八咫(やた)からす 導けよかし 大君の 事しいそしむ 御軍(みいくさ)のため

雲をふみ 岩をさくみし もののふの よろひの袖に 紅葉かつちる



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-09 23:49 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その24 「鷲家口古戦場~鍋島米之助・森下幾馬戦死の地・島村省吾捕縛地」

鷲家口古戦場から伊勢街道を1kmほど北上したところに、「天誅義士 鍋島米之助先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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鍋島米之助は、文久3年9月24日(1863年11月5日)、那須信吾を隊長とした決死隊6名のうちのひとりです。

彼らは中山忠光率いる天誅組本隊を逃がすための捨て石として、彦根藩陣所に斬り込みました。


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説明板によると、敵弾を受けて負傷した鍋島は敵陣を突破してこのあたり「一ノ谷」まで進み、農家の納屋に潜んでいたところを翌朝発見されて密告され、駆けつけた藤堂藩の銃撃隊狙撃されてあえない最期を遂げたといいます。


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鍋島は土佐藩出身の郷士でした。

文久2年(1862)、脱藩して京都に入り、諸藩の志士と交わって尊皇攘夷運動に奔走し、やがて天誅組に加わります。

若い土佐藩の志士たちにとって、吉村寅太郎那須信吾ら歴戦の志士たちは憧れだったのでしょうね。


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鍋島米之助戦死の地碑のすぐ側には、別の説明板と誘導板がありました。

まず、説明板を見てみます。


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文久3年9月26日(1863年11月7日)、天誅組の森下儀之助、森下幾馬、山下佐吉、山崎吉之助の4名は、負傷して本隊と逸れていた吉村寅太郎の命を受けて、中山忠光率いる本隊のその後の様子を確認するため鷲家口までやってきますが、そのうち森下兄弟がこの谷を登り、頂上近くの紀伊街道(赤谷口)についたとき、なぜか兄の儀之助はに進み、弟の幾馬はに進みました。

左に進んだ兄は無事脱出できましたが、右を進んだ弟は、折から山狩中だった藤堂藩士西荘源左衛門の隊に遭遇し、その銃弾で戦死しました。


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その横にある誘導板は、島村省吾捕縛地に向かう標識です。

島村は土佐藩士で、天誅組では最年少の19歳でした。

鷲家口の決戦において、中山忠光の本隊とともに鷲家口を切り抜けましたが、かなりの深傷を負っていたため、このあたり「一ノ谷」の柴小屋で傷の養生をしていましたが、25日昼過ぎ紀州藩に捕えられました。

そのとき省吾は刀一本一両のほかは何も持っていなかったといいます。

のちに京都に送られ、文久4年2月16日(1864年3月23日)、京都の六角獄舎斬首されました。


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捕縛地はここから歩いて20分ほどと書かれていましたが、こんな山道を歩かなければならず、この日は天気も悪く時間もなかったため、断念しました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-06 20:12 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その23 「鷲家口古戦場~林豹吉郎戦死の地・誕生地」

「その22」で紹介した宍戸弥四郎戦死の地のすぐ北側に、「天誅義士 林豹吉郎先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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林豹吉郎は、文久3年9月24日(1863年11月5日)、那須信吾を隊長とした決死隊6名のうちのひとりです。

彼らは中山忠光率いる天誅組本隊を逃がすための捨て石として、玉砕戦に散りました。


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説明板によると、林豹吉郎は川口釣具店の付近より敵陣の裏を進み、紙屋重兵衛宅前に陣していた彦根勢に斬り込み激戦中、敵の銃弾にて見事な最後を遂げたといいます。

前額部を射抜かれて息絶えたそうです。


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林豹吉郎は大和国宇陀郡松山出身の人物でした。

宇陀郡松山というと、ここ鷲家口から10kmほど北上したところです。

豹吉郎にとって鷲家口は地元のようなものだったでしょう。


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以前、宇陀松山城跡を訪れた際、城下町を散策していて偶然、林豹吉郎の誕生地を示す石碑を見つめました。

それがこれ。


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逆光でわかりづらいですが、「天誅義士 贈正五位 林豹吉郎誕生地」と刻まれています。


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豹吉郎の父・兵蔵は鋳物師で、豹吉郎はその長男として生まれ、幼時より絵を好んだと伝わります。

天保5年(1834年)、18歳のときに長崎の画人・中島青淵が大和に来た際に絵を習い、その時、西欧人が東洋を侵略している話しを聞いて、高島秋帆製砲の技術を学びました。

また、大坂で緒方洪庵適塾に入って蘭学を学び、さらに、伊豆の代官・江川太郎左衛門の家僕となって大砲の技術を修めました。

安政5年(1858年)、近畿地方に戒厳令がくだると、郡山藩は豹吉郎に大砲をつくらせたといいます。

その経験から、天誅組では砲技を担当していたといいます。


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この誕生地の碑は、昭和7年(1932年)に地元の人たちによって建てられたものだそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-02 21:07 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その22 「鷲家口古戦場~宍戸弥四郎戦死の地」

鷲家口北側の県道16号線と220号線が交わる三叉路に、「天誅義士 宍戸弥四郎先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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宍戸弥四郎は三河国刈谷藩出身の人物で、天誅組では副隊長格でした。

天誅組三総裁の一人である松本奎堂とは、竹馬の友だったといいます。

刈谷藩は小藩ながら譜代大名で、宍戸と松本は、譜代藩出身の勤皇志士という異色の経歴の持ち主でした。


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宍戸は旧藩時代、馬廻役に取り立てられ、のちに江戸に出て兵法を学び、3年後に帰国して藩兵の訓練につくしました。

その後、28才の時再び江戸に出て以来、関東各地を回って勤皇の志士と交わり、やがて自身も勤皇家となっていきます。


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天誅組には文人、学者、思想家などが揃っていましたが、宍戸のような兵学者は少なかったようで、宍戸は隊の合図係となりました。

以後、各地の激戦で法螺貝を吹き、前線の先頭に立ってきました。


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文久3年9月24日(1863年11月5日)、那須信吾を隊長とした決死隊の一員に加わって敵陣に切り込み大激戦を繰り広げますが、その後、このあたりに来て敵と戦っていた最中に足を滑らせて川に転落し、対岸によじ登ろうとしたところを、背後から彦根勢の一斉射撃を浴び、壮絶な最期を遂げました。


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彦根藩士がその遺骸を調べると、「埋葬代」としたためた肌付き金小判十両が縫い付けてあったといいます。

いつ死んでもいいように、自身が死んだあとの始末もちゃんと付けていたわけですね。

まさに、志士は溝壑に在るを忘れず。

武士道を体現した最期だったといえるでしょうか。


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遺骸は小川の明治谷墓地に埋葬されています。

辞世

「今はただ 何おかもはむ 敵あまた うちて死にきと 人のかたらば」




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-01 19:51 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その21 「鷲家口古戦場~植村定七・山下佐吉(安田鉄蔵)戦死の地」

「その19」で紹介した出店坂の上にある吉野小学校の校舎沿いに、「天誅義士 植村定七先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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植村定七那須信吾を隊長とする決死隊6名の1人ですが、五條近在の人という以外、詳しいことはわかっていません。


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説明板によると、文久3年9月24日(1863年11月5日)夕方、決死隊が彦根藩陣所を攻め込むべく出店坂を駆け下りる際、この付近で彦根藩歩兵頭伊藤弥左衛門という人物を討ち取ったが、その後、間髪入れずに飛来した敵の銃弾によって、この付近で討ち死にしたそうです。

遺骸は小川の明治谷墓地に埋葬されています。

賀名の堀家に残されている天誅組隊士署名の中に「大和、上村貞心」とあるそうですが、これが植村定七の本名のようです。


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出店坂を下って少し北に歩くと、「天誅義士 山下佐吉先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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説明板によると、文久3年9月26日(1863年11月7日)夜、酒屋弥八郎宅前の明蔵に潜伏していた山下佐吉は、彦根の巡羅卒に発見され、この付近まで走って彦根勢に取り囲まれ、激戦の末に戦死したとあります。


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山下佐吉という人のこともよく知らないのですが、説明板には本名が安田鉄蔵とあり、元高取藩士と記されています。

高取藩といえば、「その15」で紹介した鳥ヶ峰天誅組と戦った敵方でしたが、天誅組のなかにも高取藩士がいたんですね。


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同じ説明版には、決死隊の那須信吾は碇屋前の彦根陣所を突破してここまで進んだとき、彦根藩の大館孫左衛門という人物に遭遇し、これを手だれの槍で討ち取ったとも記されています。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-31 23:56 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その20 「鷲家口古戦場~天保高殿・西田仁兵衛戦死の地」

「その19」で紹介した那須信吾戦死の地のすぐ近くの高見川沿いに、「天保高殿先生戦死之地・西田仁兵衛先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。

天保高殿は水戸藩脱藩浪士、西田仁兵衛は武蔵国出身の人物だったようですが、それ以上のことはよくわかりません。


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石碑は高見川沿いの堤防の上にあります。


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その横に建てられた説明板は、「その18」で紹介した出合橋跡を説明したもので、二人とは関係ありません。


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両士に関しての説明板は、道路を挟んで向かい側に設置されていました。


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説明板によると、これも「その18」で紹介した福屋彦根陣所を一蹴した天誅組の本隊は、直ちに出合橋を渡って鷲家口集落に突入するも、そのとき、主将の中山忠光の側近にいた天保と西田の2名が、この付近で敵弾に散ったと記されています。

中山忠光の側近にいた二人ですから、決して軽い身分の人物ではなかったのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-30 23:04 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その19 「鷲家口古戦場~那須信吾戦死の地」

文久3年9月24日(1863年11月5日)夕方、鷲家口手前で軍議を開いた天誅組残党一行は、敵陣に決死隊を斬り込ませて撹乱し、その隙に中山忠光ら本体が切り抜ける作戦を立てます。

その決死隊に志願したのは、那須信吾を隊長として、鍋島米之助、宍戸弥四郎、名所繁馬、植村定七、林豹吉郎の6名でした。


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那須は、もとは土佐勤皇党の一員で、あの吉田東洋暗殺の実行犯と言われる人物です。

彼らは、宝泉寺前の出店坂を駆け下って彦根藩脇本陣碇屋に斬り込みます。

上の写真は、その出店坂の上に建てられていた説明板です。


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これが出店坂。

ここを那須らが駆け下っていったそうです。


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坂の途中にも説明板があります。


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坂を下ったところにある民家に、「彦根藩・石原甚五左衛門陣所跡」と書かれた看板が設置されています。

ここに、那須らが斬り込んだ彦根藩脇本陣碇屋があったようです。


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その横の商店の前に、「天誅義士 那須信吾先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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もともと彼ら決死隊は、中山忠光ら本隊を逃がすために編成した隊でしたから、読んで字の如く「死ぬと決めた隊」であり、時を稼いで玉砕することが彼らの目的でした。

古来、死を決した戦士ほど強いものはありません。

彼らは壮烈な戦いを繰り広げ、彦根藩追討軍にも相当のダメージを与えたようです。

しかし、やがて6名全員が戦死します。


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那須信吾は身長180cm以上の巨漢で、武勇に優れた怪力の持ち主で、走ることにおいては馬より速いと噂され、「天狗様」と称されたといいます。

天狗が死を決して玉砕に臨んだわけですから、追討軍の兵たちは相当怖かったんじゃないでしょうか。


辞世

「君ゆゑえに 惜しからぬ身を ながらへて 今この時に逢ふぞうれしき」




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-25 13:24 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その18 「鷲家口古戦場~出合橋」

高取城攻めで大敗を喫し、天ノ辻本陣まで退却した天誅組でしたが、そこで、中山忠光吉村寅太郎らの意見が別れはじめます。

そこへ、幕府の命を受けた紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などによる総勢1万4000の討伐軍が進軍を開始し、さらに文久3年9月1日(1863年10月13日)には、追い打ちをかけるように朝廷からも天誅組追討の勅令が下されました。

つまり、天誅組は幕府、朝廷の両方から暴徒とみなされたわけです。


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もはや孤立無援となった天誅組は、それでも必死の抵抗を見せますが、多勢に無勢はいかんともしがたく、また、もともと戦意の乏しかった十津川郷士たちが離反し、14日には吉村らが守っていた天ノ辻本陣が奪われ、19日、ついに進退窮まった中山は、天誅組の解散を命じました。

天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出を試みますが、やがて重傷を負っていた吉村が一行から脱落し、24日、鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇し、激しい戦いとなります。

鷲家口の激戦地となった奈良県東吉野村には、その場所を示す石碑看板が数多く建てられています。


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村を流れる高見川に架かる出合橋です。

もちろん、当時は木の橋でしたが、ここを中山忠光率いる天誅組本体が進軍したと伝えられます。


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橋の欄干には天誅組のイメージ画を刻んだ鋳物が埋め込まれています。


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「維新のさきがけ天誅組」と書かれたも。


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橋から高見川を見下ろすと、川遊びをする家族連れが楽しそうにはしゃいでいます。

かつての激戦地も、いまは長閑な山里です。


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橋の少し北側には、「出合橋跡」と書かれた看板があります。

どうやら、当時の出合橋は今より少し北側にあったようです。


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出合橋を渡って西側にある東吉野村役場の一角には、「天誅組史跡(福屋)彦根藩 舟橋七郎右衛門陣所跡」と記された銘板があります。

ここに、中山忠光らが攻め込んだと伝えられます。


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鷲家口には他にもたくさんの激戦の跡が残されています。

次稿もその足跡を追います。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-23 21:02 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)