タグ:古戦場跡 ( 63 ) タグの人気記事

 

幕末京都逍遥 その161 「幕府軍野戦病院の地・戊辰役東軍戦死者埋骨地(長圓寺)」

「その160」で紹介した東運寺の隣にある長圓寺にも、これまで紹介してきたものと同じ鳥羽・伏見の戦いで戦死した旧幕府軍の戦死者を供養する墓碑があります。


e0158128_13114173.jpg


山門の向かって右横には、「鳥羽伏見の戦い幕府軍野戦病院の地」と刻まれた石碑があります。

ここは、慶応4年1月5日(1868年1月29日)にこの1kmほど北で起きた千両松の戦いでの負傷者が収容され、野戦病院の役割を果たした寺と伝えられます。


e0158128_13142841.jpg


寺伝によると、八幡大菩薩の化身である足立観音を安置する長圓寺を新政府軍が攻めることは恩を背くことになるため、ここが戦場となることはなかったと伝えますが、そういう信心深い理由よりも、おそらく当時でも、野戦病院は攻撃しないというのちの赤十字精神のような暗黙のルールはあったんじゃないでしょうか?

武士の情けってやつですね。


e0158128_13143142.jpg


山門の向かって左横には、「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻まれた石碑があります。

これは、「その158」で紹介した妙教寺にあったものと同じで、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうで、揮毫は榎本武揚によるものだそうです。


e0158128_13143517.jpg


千両松の戦いでは新選組のメンバーの多くが戦死しますが、その後、生き残ったメンバーは榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸に撤退します。

その際、土方歳三が榎本に、ここ長圓寺に助けられたことを話し、それを記憶していた榎本が、ここに石碑を建てたというのですが・・・。

この話も、寺伝によるものなので、事実かどうかはわかりません。


e0158128_13162299.jpg


境内には、これまで紹介してきたものと同じ「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた墓碑があります。

ここは、「その159」で紹介した光明寺が廃寺になったあと、そこに葬られていた墓が移葬された

と伝わります。


e0158128_13163671.jpg


ここまで見てきたとおり、淀城の周辺の寺の多くに鳥羽・伏見の戦いの旧幕府兵が葬られています。

なぜか。

それは、敗色濃厚となって退却してきた旧幕府兵の入城を、淀城が拒否したからなんですね。

これにより旧幕府軍の敗北は決定的となり、このあたりで多くの兵が戦死しました。

次稿では、その淀城を紹介します。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-11-10 00:53 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その160 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(大専寺・文相寺・東運寺)」

「その159」で紹介した光明寺跡から300mほど南下したところにある大専寺にも、鳥羽・伏見の戦いで戦死した旧幕府軍の戦死者を供養する墓碑があります。


e0158128_13013027.jpg

こちらが、その墓碑。

これまで紹介してきた碑と同じく「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。


e0158128_13013698.jpg


また、大専寺から南西に100mほど歩いたところにある文相寺に境内にも、同じ墓碑があります。


e0158128_13032147.jpg


それがこれ。

同じく「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。


e0158128_13032423.jpg


さらに、文相寺から300mほど南下した場所にある東運寺にも、同じ墓碑があります。


e0158128_13063637.jpg


これです。

これもやはり「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。

石碑の後ろに大きな切り株があります。


e0158128_13063912.jpg


あるいは、往時を知っていた木だったかもしれません。


e0158128_13064266.jpg


これらの碑はすべて、ここまで何度も紹介したものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。

こうして見ても、このあたり一帯の寺院のほとんどが、鳥羽・伏見の戦いに関係していたことがわかりますね。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-11-09 02:09 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その159 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(光明寺跡)」

淀城の前に、かつて光明寺というお寺がありました。

「その157」で紹介したとおり、慶応4年1月5日(1868年1月29日)に千両松の戦いで、旧幕府軍に多くの死者が出ました。

その戦死者たちを葬った寺のひとつが、ここ光明寺でした。


e0158128_23220279.jpg


その後、光明寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となり、ここに葬られていた旧幕府軍の墓は、近くの長円寺に移葬されました。

現在、その跡地には、石碑のみが建てられています。


e0158128_23221700.jpg


地蔵堂を挟んで右側にある新しい石碑には、「幕府軍新選組縁 鳥羽伏見の戦い戦死者供養之寺 淀城前 光明寺」と刻まれています。

「新選組縁」とありますが、新選組の隊士が葬られていたのかどうかはわかりません。

ただ、千両松の戦いの激戦地はこのすぐ近くで、この戦いで新選組のメンバー14名が戦死したと伝わります。

あるいは、そのメンバーの誰かがここに葬られていたかもしれませんね。


e0158128_23240986.jpg


そのときの戦死者の中に新選組結成当時からのメンバーで六番隊組長だった井上源三郎がいましたが、このとき、源三郎の首は甥の泰助が持って逃げたのですが、まだ少年だったので首の重さに耐えきれなくなり、通りかかった寺の門前に泣く泣く埋めたというエピソードがあります。

その寺は今もって定かになっておらず、一説には、伏見の欣浄寺という寺だったのではないかと言われているのですが、地図で確認するかぎり、千両松の戦いの現場から6kmほど北東にあり、しかも、退路とは反対方向にあるため、わたしとしてはあまり信じる気になれません(現在、首塚もあるそうですが、発掘調査は行われていません)。

その点、ここ光明寺は戦地より数百メートルの場所にあり、しかも、退却の経路の道中にあります。

源三郎の首が埋められたのは、ここだったんじゃないでしょうか?


e0158128_23241597.jpg


地蔵堂を挟んで反対側の古い石碑には、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。

この碑は、ここまで何度も紹介したものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。



「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-11-03 22:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その158 「戊辰之役東軍戦死者之碑(妙教寺)」

「その156」で紹介した愛宕茶屋埋骨地から500mほど南西に歩くと、妙教寺というお寺があります。

ここも、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、戦火に巻き込まれました。


e0158128_23052002.jpg


ここ妙教寺のある納所・淀方面に主戦場が移ったのは、戦いが始まって3日目の1月5日でした。


e0158128_23073181.jpg


境内には、「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻まれた石碑があります。

明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうで、揮毫は榎本武揚によるものだそうです。

榎本武揚といえば、旧幕府軍として戊辰戦争を最後まで戦った人物。

東軍戦死者の招魂碑の揮毫者としては最も適任だったといえるでしょう。


e0158128_23073605.jpg


側面には、「戦死者埋骨地三所一 在下鳥羽村悲願寺墓地 一 納所村愛宕茶屋堤防 一 八番楳木」と刻まれています。

「その153」 「その154」 「その155」で紹介した東軍戦死者埋骨地を示したものです。


e0158128_23113342.jpg


境内にはもうひとつ、鐘楼の側にも関連の石碑があります。


e0158128_23092736.jpg


石碑には「史跡 淀古城址 戊辰役砲弾貫通跡」と刻まれています。

ひとつは、かつてこのあたりに淀古城があったとする記述です。

現在、この少し南に淀城跡がありますが、そこは江戸時代に入ってから築城されたもので、ここで言う淀古城とは、豊臣秀吉の時代、淀殿が居城としていたと伝わる淀城です。


e0158128_23093058.jpg


そしてもうひとつ、「戊辰役砲弾貫通跡」とあるのは、ここの本堂に鳥羽・伏見の戦い時の砲弾の跡が残されているという標示です。

伝承によると、ここ妙教寺の上を両軍の砲弾が飛び交ったといい、そのうちの1発が本堂南側の壁と位牌壇を突き破り、北側の柱も貫通したそうです。

寺にはその際飛び込んだ「四斤山砲」と呼ばれる重さ4kgもある砲弾も伝わるそうで、水平に近い弾道は、砲弾がかなりの速さで飛び込んだことを伝えています。

当時の住職の記録には、「銃丸雨の如く集まる」「嗚呼危うかりし哉」と記されているそうで、その後、戦いを後世に伝えようと、穴の開いた壁や柱をそのまま残したといいます。


e0158128_23134829.jpg


わたしが訪れたこの日は、お寺の関係者の方々が不在だったようで、残念ながら本堂の中に入ることができませんでした。

超残念


e0158128_23135354.jpg


石碑の説明書きには、「慶應四年正月四日」と記されています。

戦史の記録では、このあたが主戦場となったのは1月5日だったと思うのですが、この砲弾はその前日の4日に撃ち込まれたことになっていますね。

4日はもう少し北の下鳥羽付近が主戦場だったはずですが、ここ納所・淀方面でもすでにドンパチが始まっていたということでしょうか。

戦いが広範囲に渡って繰り広げられていたことがわかる記録です。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-11-02 23:18 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その157 「戊辰役東軍戦死者埋骨地・八番楳木(千両松)戦場跡」

「その156」で紹介した愛宕茶屋埋骨地から600mほど南東にも、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた墓碑があります。

ここは現在、京都競馬場の北側の道路沿いです。


e0158128_22580265.jpg


この墓碑も、「その155」「その156」前々稿で紹介したものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。


e0158128_22580675.jpg


かつてこの地には川が流れていて、狭い堤防上の道で「淀堤」と呼ばれていました。

そこに「千両松」と呼ばれた松並木がありました。

「千両松」とは、豊臣秀吉が植えたと伝わる松で、そのあまりの見事さにその名が付いたとされます。

その千両松付近で、鳥羽・伏見の戦いが始まって3日目の慶応4年1月5日(1868年1月29日)、激しい戦闘が繰り広げられます。


e0158128_22581083.jpg


ここで戦った旧幕府軍は、土方歳三率いる新選組と、佐川官兵衛率いる会津藩の部隊が中心でした。

剣客揃いだった彼らは、この狭い淀堤の上を通る新政府軍をこの地で待ち伏せして一斉に斬り込み、一時は新政府軍に多数の死傷者を出すなど戦いを優勢に進めますが、その後、千両松並木の奥に退却した新政府軍が、体制を立て直して一斉射撃を開始すると、形勢は逆転して旧幕府軍は壊滅します。

この戦いで新選組のメンバー14名が戦死したと伝わります。

その中には、新選組結成当時からのメンバーで六番隊組長だった井上源三郎がいました。

源三郎とともに戦っていた甥の泰助は源三郎の首を持って逃げましたが、まだ少年だったので首の重さに耐えきれなくなり、通りかかった寺の門前に泣く泣く埋めたといいます。

この惨敗によって、土方歳三は剣の時代が終わったことを悟ったといいます。


e0158128_23010742.jpg


墓碑の横にある石碑には、次のように記されています。


e0158128_23011001.jpg


幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない。

それが日本人同族の争いでもあり、いづれもが正しいと信じたるま々に、それぞれの道へと己等の誠を尽くした。

然るに流れ行く一瞬の時差により、或る者は官軍となり、或るは幕軍となって、士道に殉じたので有ります。

ここに百年の歳月を関し、其の縁り有る、此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し慰霊碑の建つるを見る。

在夫の魂以て冥すへし。


また、裏面にはこ記されています。


e0158128_23011438.jpg


慶応四年戊辰正月、伏見鳥羽の戦いに敗れ、ここ淀堤千両松に布陣し、薩摩長州の西軍と激戦を交し、非命に斃れた会津・桑名の藩士、及び新選組、並びに京都所司代見廻組の隊士に捧ぐ。


e0158128_23011792.jpg


この千両松の戦いは、鳥羽・伏見の戦いの中でも最も激しい戦いだったと伝えられます。



「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-11-01 23:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その156 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋埋骨地)」

下鳥羽から桂川沿い鳥羽街道4kmほど南下したにも、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた墓碑があります。


e0158128_22473844.jpg


かつてこの地には鳥羽街道の愛宕茶屋があったそうで、その傍に愛宕神社の分祀されたがあったそうです。

鳥羽・伏見の戦いの際、この場所でも激しい戦闘が繰り広げられたと伝わり、ここに墓碑が建てられました。

この墓碑も前稿で紹介した悲願寺墓地内のものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。


e0158128_22453818.jpg


ここに眠っているのは、慶応4年1月5日(1868年1月29日)に戦死した東軍兵35名だそうです。

1月5日といえば、戦いが始まって3日目で、あの岩倉具視が作ったとされる偽の「錦の御旗」を新政府軍が掲げた日です。

あるいは、錦旗を見て戦意を喪失して敗走中の兵だっかたもしれませんね。


e0158128_22474930.jpg


石碑の前は、かつての鳥羽街道が今も通っており、その前には桂川の堤防があります。


e0158128_22504239.jpg


堤防の上から墓碑を見下ろします。


e0158128_22504686.jpg


墓碑の後ろには、枝打ちされてはいますが大きな銀杏の巨樹があります。

幹の太さから見て、結構な樹齢ではないでしょうか?

あるいは、ここで戦死した35名の最期を見届けていたかもしれません。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-31 21:08 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その155 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(悲願寺墓地)」

「154」で紹介した法傳寺から少し北上したところにある悲願寺墓地内に、鳥羽・伏見の戦いで戦死した東軍兵の埋葬地があります。


e0158128_22402449.jpg


鳥羽・伏見の戦い後、この付近で戦死した兵の遺骸がそのまま放置されていたそうで、それを見かねた下鳥羽の人々が、この墓地の一隅に穴を掘り、焼け残った家の梁や柱を集めて戦死者の遺骸をその上に積み、荼毘に付したうえで丁重に埋葬したそうです。

自分たちの家も戦災で焼けていたにもかかわらず、昔の人は皆、殊勝な人ばかりですね。

まあ、遺体がそこら中に散乱していたら、誰でもそうするでしょうか?


e0158128_22403107.jpg


ここに葬られたのは233名だそうです。

鳥羽・伏見の戦いでの東軍の戦死者は279人といいますから、その大半がここに眠っていることになりますね。


e0158128_22402856.jpg


墓碑には「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。

同じ文字が刻まれた墓碑がここ以外にも複数存在しますが、いずれも、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。

十七日会は徳川家康の命日である十七日(元和2年4月17日)にちなんだ徳川家恩顧者の会だそうです。


e0158128_22415291.jpg


ここ悲願寺墓地の歴史は古く、奈良時代の高僧・行基が改装を行ったとされているそうです。

この墓地は寺所有の墓地ではないのですが、格式が高い墓地ということで、「寺」の称号が与えられたのだとか。

かつてはここより南にありましたが、昭和59年(1984年)の都市計画によって、現在の場所に移転され、そのときに鳥羽伏見戦の戦死者の遺骨も改葬されたそうです。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-28 08:04 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その154 「戊辰東軍戦死之碑(法傳寺)」

「その153」で紹介した下鳥羽にある石碑のすぐ近くにある法傳寺の正門横に、戊辰戦争のの発端となった鳥羽・伏見の戦いで戦死した東軍兵を供養する石碑があります。


e0158128_22332629.jpg


もともと法傳寺は鳥羽街道沿いにあり、石碑の建つ正門前でも激しい戦闘が繰り広げられたといいます。

その縁から、東軍が使用した短銃、砲弾、太刀、槍の穂先、東軍戦死者名簿なども所蔵しており、毎年8月には慰霊祭が行われているそうです。


e0158128_22332947.jpg


この碑は、京都で初めて東軍慰霊祭が大々的に行われた明治30年(1897年)の三十回忌の年に建立されたそうです。


e0158128_22333364.jpg


石碑には、「戊辰東軍戦死之碑」と刻まれています。

揮毫は、空海の書法を究めた名筆家として知られた宮小路康文

東軍=旧幕府軍ですね。

会津の人たちはいまでも薩長軍=官軍、幕府・会津軍=賊軍という表現を嫌うそうで、あくまで東軍、西軍というそうです。

先祖が長岡藩士だという作家の半藤一利氏も、その著書では東軍、西軍という呼称にこだわっています。

たしかに、ある日突然、偽の錦の御旗が翻って賊軍とみなされたわけですから、納得できるはずがなかったでしょうね。

「東軍」と刻まれたこの石碑の発起人は、おそらく旧幕府側の人たちだったんじゃないでしょうか。


e0158128_22333798.jpg


石碑の上手には「支那事変・大東亜戦・戦没者之碑」と刻まれた石碑が並び、下手には「戦死者埋骨東北悲願寺墓地」と刻まれた標識の碑があります。

次稿では、その悲願寺墓地を訪れます。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-27 00:50 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その153 「鳥羽伏見の戦い 下鳥羽戦跡」

慶応4年1月3日(1868年1月27日)の夕方に始まった鳥羽・伏見の戦いは、日没を迎えてもなお戦闘は続きました。

兵力は旧幕府軍が約1万5000だったのに対し、新政府軍は約5000と明らかに劣勢でしたが、それを補える高性能の武器を揃えていたこと、また陣形、戦術ともに新政府軍が勝っていたことなどから、旧幕府軍は死傷者が続出し、やむなく下鳥羽方面に退却します。

現在、その下鳥羽の桂川に面した道路沿いに、「鳥羽伏見戦の跡」と刻まれた石碑が建てられています。


e0158128_22253559.jpg


開戦から1日経った1月4日も、ここ下鳥羽付近で激戦が繰り広げられ、一時は旧幕府軍が盛り返しますが、ここで新政府軍は「錦の御旗」を掲げるんですね。

錦の御旗は、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになりました。

これを見た旧幕府軍の兵たちの士気は大きく低下し、またたく間に総崩れとなりました。


e0158128_22253928.jpg


この「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。

いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、薩摩の大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。

実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。


e0158128_22254236.jpg


偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。

そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。

自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。

ずるいですね。

それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。

もうちょっと製作が遅れていたら、戦いは違った結末を見ていたかもしれません。

そう考えれば、歴史は薩長の策謀に味方したということかもしれませんね。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-25 00:47 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その152 「城南宮」

「その150」で紹介した小枝橋から300mほど東にある城南宮は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩軍が陣を布いた場所です。


e0158128_22125244.jpg


鳥羽街道を北上してきた旧幕府軍に対して、薩摩藩を中心とする新政府軍は、ここ城南宮から小枝橋方面に東西に長い陣を布いて北上軍への備えとしました。


e0158128_22125613.jpg

境内には、鳥羽・伏見の戦いを説明する駒札が建てられています。


e0158128_22104836.jpg

この大鳥居からの参道に、薩摩軍の大砲がズラリと並んでいたと伝えられ、明治に入って描かれた合戦絵巻にも、ここに大砲が並んでいる様子が描かれています。

「その150」でも紹介しましたが、鳥羽・伏見の戦いの戦端は、薩摩軍が放った一発の砲によって開かれました。

その最初の砲は、ここ城南宮に置かれた砲だったという説もあります。


e0158128_22163989.jpg


ニノ鳥居です。


e0158128_22165363.jpg


舞殿です。


e0158128_22172266.jpg


わたしがここを訪れたとき、本殿は改修工事中でした。


e0158128_22193939.jpg


後年、西郷隆盛が鳥羽・伏見の戦いを回顧して、

「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」

と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、薩摩は、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、どうしても戦争がしたかったんですね。

だから、一旦は恭順を公言していた旧幕府軍を挑発し、無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

これって、すでに瀕死の状態にある日本に対して、戦争を終らせるためといって原爆を投下したアメリカ軍と同じですよね。

歴史を否定するつもりはありませんが、歴史を歪曲して賛美するのも好きではありません。

鳥羽・伏見の戦いは「義戦」ではありません。

薩長と旧幕府との「私戦」です。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-20 00:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)