人気ブログランキング |

タグ:司馬遼太郎 ( 71 ) タグの人気記事

 

日本最大の山城、高取城登城記。 その6 <本丸>

「その5」の続きです。

高取城跡本丸下を1周して、いよいよ北側から本丸に登ります。


e0158128_14281652.jpg


まず登り始めて、右へ曲がらされます。


e0158128_14281848.jpg


右へ曲がると、またすぐ右へ曲がらされます。


e0158128_14282269.jpg


右へ曲がると、今度は左へ曲がらされます。

当時はここに城門があったそうです。


e0158128_14294411.jpg


左へ曲がると、またすぐ突き当りを左に。

本丸下と本丸の高低差が大きいので、何回も曲がらされます。

これは堅固ですね。


e0158128_14312000.jpg


ここを曲がると、ようやく本丸らしき場所が見えます。


e0158128_14312375.jpg


振り返ると、向こうに行き止まりの道があります。


e0158128_14332301.jpg


そして、本丸です。


e0158128_14345347.jpg


本丸からもう一度、虎口を見下ろします。

いかに複雑で堅固な造りといなっているかがわかりますね。


e0158128_14430650.jpg


本丸部分の大きさは東西に75m、南北に60mあります。


e0158128_14431052.jpg


天正17年(1589年)に豊臣秀長の命令で高取城に入った本多利久でしたが、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、その功で、徳川の世になったあとも本多氏は引き続き高取城を任されていました。

しかし、その本多氏が三代で断絶すると、寛永17年(1640年)に徳川家譜代の家臣であった植村家政が、本多氏と同石高の2万5千石の大名として入り、高取藩初代藩主となりました。

植村氏は、酒井氏本多氏(本多利久の本多氏とは関係ありません)らと共に三河時代から松平氏に仕えた古参で、徳川家康の下で抜群の戦功を挙げたことから、歴代藩主に家康の「家」を名乗ることを許されていた名門譜代でした。

以後、明治維新まで植村氏が14代の長きに渡って高取藩を治めます。

前稿でも紹介した司馬遼太郎さんの『街道をゆく』のなかで、司馬さんは高取城の存在価値についてこう分析しています。


城主が越智氏から筒井氏、本多氏と変わるうちに規模も大きくなり、やがて徳川初期に植村氏が入って、この山奥の急峻に累々と石垣が組みあげられ、近代的な築城形式に模様替えされた。徳川幕府がここに外様大名などを置かず、もっとも信頼できる譜代大名を封じ、当時すでに大時代だったこの山城をわざわざ補修改築させたのは、わかるような気もする。

幕府の近畿地方の防衛戦略という大きな視野からの判断だったかもしれない。

徳川幕府の仮想敵は、家康の代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。

<中略>

家康は、島津氏が京都に入って近畿をおさえ、天皇を擁して幕府と対決するだろうという想像をもち、死の寸前までそれが気がかりだったといわれている。

架空の状況において、島津氏がもし近畿をおさえた場合、大和の幕軍は平城の郡山城をすててこの高取城にこもり、他の方面の幕軍の巻きかえしを待つという戦略があったのではないか。


高取城は江戸時代には時代遅れの山城でしたが、徳川幕府はこの城を重要な拠点として考えていたということを、植村氏を封じたという事実が雄弁に語っています。


e0158128_14464562.jpg


本丸の説明板です。

高取城本丸には大天守、小天守、鉛櫓、煙硝櫓があり、それらを多門櫓で連結した連立式天守でした。

これは姫路城和歌山城などに見られる形式ですが、山城の天守としては、稀有な存在といえます。


e0158128_14432358.jpg


その大天守台石垣が北西隅に見えます。


e0158128_14490846.jpg


大天守台です。


e0158128_14491264.jpg


前稿で見た高石垣の上が、ここです。


e0158128_14491527.jpg


高取城天守台には通路が約3mの穴蔵が設けられています。


e0158128_14571462.jpg


大天守台に上がってみましょう。


e0158128_14584463.jpg


大天守の大きさは東西に約16m、南北に約14mの規模で、「御天守」と呼ばれていました。

『和州高取城山之絵図』によると、外観は1重目は千鳥破風、2重目の中央に出窓形式、3重目には軒唐破風があり、外壁は白漆喰総塗籠であったようで、外観3重、地下1階の大天守が推定されています。

また、大天守台の東側には付櫓台が属しており、2重の「具足櫓」が建っていたと考えられています。


e0158128_14584922.jpg


大天守台からさっきの穴蔵を見下ろします。


e0158128_15022421.jpg


大天守台から見た本丸。

手前に見える迷路のような石垣は、本稿の最初に紹介したジグザグ虎口です。


e0158128_15023174.jpg


まさに迷路です。


e0158128_15042224.jpg


天守台から二ノ丸を見下ろします。


e0158128_15042557.jpg


その向こうの西の空には、大和国と河内国の国境にある金剛山葛城山が見えます。

あの中腹に、楠木正成が築城した千早城があります。


e0158128_15053087.jpg


雲が低い。


e0158128_15265776.jpg


大天守台の前には、井戸跡の遺構があります。

5m×3m巨大井戸です。


e0158128_15290118.jpg


本丸南側には、多門櫓台跡石垣が伸びています。


e0158128_15310133.jpg


その石垣上からの南側眺望。

後醍醐天皇(第96代天皇)が南朝を開いた吉野山が見えます。


e0158128_15334945.jpg


こちらも雲が低いですね。


e0158128_15335218.jpg


明治4年(1871年)の廃藩置県により、全国の多くの城郭が廃されることとなり、建物の大部分が取り壊されましたが、標高600m近い山城であったため都市計画などに巻き込まれることはなく、廃城から150年近く経った現在でも、こうして壮大な石垣の遺構を見ることができるんですね。


e0158128_15335673.jpg


さて、本丸まで制覇しました。

まだまだ載せたい写真が山ほどあるのですが、キリがないのでこのへんで終わりにしたいと思います。


e0158128_15371700.jpg


ちなみに、高取城をCG再現した画像がこれです。

(引用元:高取城CG再現プロジェクト

こんな城がもし現存していたら、間違いなく世界遺産だったでしょうね。


e0158128_15371944.jpg


あっ、下山中に立ち寄った場所があります。

もう1回だけおお付き合いください。


e0158128_18383245.jpg


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-05-24 23:40 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その5 <二ノ丸上段~本丸下>

「その4」の続きです。

太鼓櫓跡新櫓跡をあとにして東側に向かうと、ど迫力の高石垣が目に入ります。


e0158128_13410349.jpg


ここは二ノ丸の一段高くなっている場所で、本丸のすぐ下。

二ノ丸上段といえば良いのか、本丸下段といえばいいのか、まあ、呼び方なんてどっちでもいい。

とにかく圧巻のロケーションです。


e0158128_13415091.jpg


正面の巨大な高石垣は天守台石垣

高取城には大小ふたつの天守があったそうで、この石垣は大天守石垣。


e0158128_13453963.jpg


大天守石垣の前にある巨木

樹齢はわかりませんが、かなりデカイです。

あるいは、往時を知っているかもしれません。


e0158128_13474249.jpg


大天守石垣の前には、石碑が建てられています。


e0158128_13494692.jpg


大天守石垣を見上げます。


e0158128_13495182.jpg


本丸の石垣は打込み接ぎです。


e0158128_13510854.jpg


本丸高石垣を1周してみましょう。


e0158128_13522272.jpg


作家、司馬遼太郎さんはその著書『街道をゆく』のなかで、高取城を訪れたときの感想を次のように述べておられます。


高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていていい。

その石垣も、数が多く、種類も多いのである。

登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳としている。

それが、自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持がすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。


e0158128_13534805.jpg


こちらは南西の出隅。

算木積みになっています。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。

この上に、小天守があったとされます。


e0158128_13555242.jpg


南側石垣。


e0158128_13555612.jpg


東南出隅。


e0158128_13580394.jpg


東側石垣。


e0158128_13581003.jpg


花には詳しくないのでわかりませんが、ユリの仲間でしょうか?


e0158128_14024682.jpg


北東部の本丸下にやってきました。


e0158128_14024903.jpg
e0158128_14025357.jpg


司馬さんのいうように、自然林と石垣が同化したような神秘的な空間が広がります。


e0158128_14025715.jpg


まるでジブリアニメ『天空の城ラピュタ』神殿のようなロケーションです。

近年、兵庫県但馬地方の竹田城跡「天空の城」として有名になりましたが、あちらは、雲海の上に浮かぶ城跡という意味での天空の城で、アニメに出てくる神殿のロケーションでいえば、高取城のほうがイメージに近いです。

あるいは、宮崎駿氏も、ここを訪れたことがあったのではないでしょうか?


e0158128_14110558.jpg


北側の本丸へ通じる虎口前に来ました。

が本丸を誘導してくれます。


e0158128_14111753.jpg


これ、切り株の上に彫刻を乗せているのではなく、自然の木から彫り出したもののようです。

スゴイ!


e0158128_14112567.jpg


こちらのお城も、同じく木を彫り出したものです。


e0158128_14113281.jpg


さて、「その6」では、いよいよ本丸に登ります。


e0158128_18383245.jpg



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-05-23 03:58 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

伝馬町牢屋敷跡・処刑場跡(吉田松陰終焉之地)

東京メトロ日比谷線伝馬町駅を降りて地上に上がったところに、何やら古い石碑と説明板があります。

石碑を見つけるとついつい足を止めてしまうわたしですが、そこには、「吉田松陰先生終焉地」と刻まれた文字が。


e0158128_20070954.jpg


東京に土地勘のないわたしですが、「伝馬町」という地名には何となく聞き覚えがあったのですが、石碑を見て思い出しました。

そうだ、処刑場があったところだ!・・・・と。

この日わたしは別の目的で伝馬町駅を降りたのですが、こういうものを見つけてしまうと、立ち寄らないと気がすみません。


e0158128_20101587.jpg


駅の北側にある大安楽寺の門横に、「江戸伝馬町処刑場跡」と刻まれた石碑があります。


e0158128_20101934.jpg


まるで鮮血で書いたような文字ですね。


e0158128_20113952.jpg


境内には、「江戸傳馬町牢御椓場跡」と刻まれた石碑も。

つまり、ここは牢獄死刑場が一緒になった拘置所だったわけです。


e0158128_20130033.jpg


大安楽寺の北側にある十思公園も、伝馬町牢屋敷の敷地でした。

伝馬町牢屋敷は、慶長年間(1600年頃)から明治8年(1875年)まで270年にわたって数十万人の囚人を収容しました。

幕末期には、安政の大獄で捕まった吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らもここに収監され、処刑されています。


e0158128_20153550.jpg


公園内には、発掘された牢屋敷の石垣が展示されています。


e0158128_20153815.jpg

石の上にのってい乗っているのは、公園で遊んでいた親子の荷物です。

除けてくれないかなぁと思いながら待っていたのですが、その気配がなさそうなので、やむなくそのまま撮影(苦笑)。

まあ、公園なので仕方ありません。


e0158128_20202156.jpg


公園の片隅には、「松陰先生終焉之地」と刻まれた石碑と、辞世の句が刻まれた歌碑、そして顕彰碑が並んで建てられています。


e0158128_20202517.jpg


安政6年5月25日(1859年6月25日)、萩から護送された吉田松陰は、6月25日(7月24日)に江戸桜田の長州藩邸に入り、7月9日(8月7日)、ここ伝馬町牢屋敷へと移され、取り調べが始まりました。

松蔭にかけられた罪状は主に2つで、ひとつは、すでに捉えられていた梅田雲浜密談して反幕府政治工作を企てたのではないかという疑いで、そしてもうひとつは、京都御所で見つかった幕府批判の落とし文を書いたのではないかという嫌疑でした。しかし、松陰はそのどちらも身に覚えがなく、臆することなく否認します。


「吾性光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ」

(わたしは性来、公明正大を好む。落とし文などという隠れごとなどしない。)


・・・と。

その堂々とした受け答えに、取調官は大いに圧倒されたようです。

このままで終わっていれば、松蔭は大した罪には問われなかったかもしれませんが、しかし、ここで松蔭は、常人には理解できない行動にでます。

というのも、かつて幕府老中・間部詮勝要駕を企てたことを、訊ねられてもいないのに自ら白状してしまうんですね。

なぜ、そのような行動に出たのかはハッキリしませんが、だいたいの物語などでは、取調官の巧みな誘導尋問に乗っかったというのが、共通した描かれ方です。

光明正大にもほどがありますよね。

このときの松蔭について、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では次のように書いています。


「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。」


取調官の権謀術数にまんまとかかったのか、あるいは、取調官の老獪さを知った上で、あえて死を決して自供したのか、いずれにせよ、松蔭は自らの行いに一点の曇りもなかったのでしょう。


「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」


元は孟子の言葉で、松蔭の語録でもあるこの言葉どおり、誠意をもって話をすれば、取調官の心をも動かすことができると思ったのでしょうか?


e0158128_20203208.jpg


松蔭の取り調べは、その後、9月5日(9月30日)、10月5日(10月30日)と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。

しかし、10月16日(11月10日)の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。

そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。

これに松蔭は激しく異をとなえます。

もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。


「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」

(全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。

その話によると、10月5日(10月30日)の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。

その刑を下したのは、大老・井伊直弼だったと。

死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。

その冒頭の句が、この石碑に刻まれた有名な歌です。


「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

(この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


この歌が、その後、松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。


e0158128_20202975.jpg


『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日(11月21日)朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。

そして駕籠にてここ伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。

享年30。

このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。


「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」


こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。

そして、もうひとつ。


「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

(子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の報せが父母に届いたら、なんと思うだろう)


これも有名な辞世の句ですね。

哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。

後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。

なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2019-01-11 02:15 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

大久保利通終焉の地「紀尾井坂の変」跡地にて。

大久保利通が殺されたのは明治11年(1878年)5月14日でした。

場所は紀尾井坂付近だったといわれ、その地名をとって、この事件を「紀尾井坂の変」と呼びます。

紀尾井坂とは、現在の参議院清水谷議員宿舎前の坂道です。

江戸時代、このあたりは紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の大名屋敷があったことから、その頭文字をとって「紀尾井」と呼ばれるようになったそうです。

ただ、実際に大久保が襲撃されたのは紀尾井坂ではなく、少し先へ進んだ清水谷のあたりだったことが現在では立証されているそうです。

現在、その近くの清水谷公園内には大久保の哀悼碑が建てられています。


e0158128_18301584.jpg


事件当日の午前8時、大久保は明治天皇に謁見するために裏霞ヶ関の自邸を出発し、赤坂の仮皇居に向かいました。

共は下僕で馭者の中村太郎と、同じく下僕で馬丁の芳松の二人だけでした。

本来なら、大久保邸から赤坂仮皇居に向かうには、紀尾井坂を通るより赤坂見附を通ったほうが近道だったのですが、なぜか大久保はこのコースを選びました。

その理由は、赤坂見附は人通りが多くて危険だから、あえて人通りの少ないこの道を選んだと言われていますが、暗殺団がこの道で待ち伏せしていたことから考えれば、大久保は日常的にこの紀尾井坂コースを使っていたのでしょう。


e0158128_18304154.jpg

大久保を乗せた馬車が紀尾井町一丁目に差し掛かったとき、2人の書生が現れて通路を遮りました。

馬丁の芳松が馬車を降りて、脇によって道をあけるよう注意しますが、そのとたん、男たちは刀を抜き、いきなり馬の前脚を薙ぎ払いました。

この襲撃を合図に身を潜めていた4人の男が一斉に飛び出してきました。

刺客は全部で6人

芳松は背中から斬りつけられるもそれをかわし、助けを呼びに馬車を離れました。

馭者の中村は馬車から飛び降りたところを、刺客に一刀のもとに斬り下げられ、即死しました。

刺客たちは馬車によじ登り、中にいた大久保に斬りつけました。

このとき大久保は書類に目を通していたといい、一説によると「待て!」といって書類を風呂敷に包んだといいます。


大久保の最後のことばは、「無礼者!」という一喝だったといいます。

その後、大久保は馬車から引きずり出され、めった切りに斬りつけられました。

そして最後のトドメは喉に短刀が突き刺され、その短刀は地面にまで達していたといいます。

大久保は全身16ヶ所に刀を受けていましたが、その大半は頭部に集中していたといいます。

事件直後に現場にかけつけた前島密の証言によると、大久保の遺体は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」状態だったといいます。

さすがに、ドラマや映画ではそこまで描けません。


e0158128_18305083.jpg


実行犯は、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、および島根県士族の浅井寿篤の6名、いずれも太政官政治に不満を持つ不平士族でした。

彼らにとってこの襲撃は暗殺ではなく、政治でした。

なので、大久保を殺害するとすぐに自首しています。

彼らは、大久保さえ斃せば、やがて天下は転覆して世直しされると信じていました。


e0158128_18310021.jpg


この大久保襲撃については、まったく寝耳に水だったわけではなく、事前に予想できたことでした。

彼らは闇討ちのような卑怯な行為ではないことを主張するため、事件の4、5日前に大久保に宛てて殺害の予告状を送っています。

しかし、これを見た大久保は顔色ひとつ変えることなく、まったく意に介する様子もなかったといいます。


また、島田らが石川県を発ったとき、石川県令がすぐさま警戒すべきことを内務省に通報しており、そのことは大久保の耳にも届いていました。

さらに内務省は、警視庁に大久保内務卿の護衛を要請しますが、大警視の川路利良は、その必要はないとして、「加賀の腰抜けに何ができるか」と、相手にしなかったといいます。

これは、薩摩人特有の他藩蔑視の通癖が露骨に出た言葉ともいえますが、この当時、政府の要人警察が護衛するという習慣がまだなかったことと、他の大官に護衛がついていないのに、大久保だけに護衛をつけるのは、世間体から見て大久保を臆病者にすることになり、大久保を侮辱することになるといった思いもあったようです。

明治維新から10年以上が経ったこの時代でも、大官は役人である以前に、ひとりのサムライだったんですね。


e0158128_18311051.jpg


有名な話ですが、大久保は事件当日の朝、自邸に挨拶に訪れた福島県令の山吉盛典に対して、まるで遺言とも取れる明治30年計画を語ったといいます。

それによると、明治元年から10年を創業の時期として、戊辰戦争士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期と定義し、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものでした。

しかし、結局は第2期の入り口で凶刃に倒れたわけです。


また、どういうわけか、大久保はこの日、西郷隆盛からもらった古い手紙を2通、懐に忍ばせていたといいます。

それは、いずれも二人が蜜月の間柄だった頃の手紙で、この手紙を持参していた話は、事件後ほどない5月27日付の東京日日新聞に報ぜられています。

大久保がどういう意図で手紙を持参していたかはですが、大久保は西郷を死に至らしめたことでよほど悩み苦しんでいたようで、自分と西郷とは、かつて深い絆で結ばれていたということを、しきりに人々に話したがっていたといいます。

あるいは、近々自分が殺されるかもしれないことを想定し、その死後、自分と西郷との友情関係世に知らしめるために手紙を持ち歩いていたのでしょうか。

その真偽はいまとなっては確認しようがありません。


e0158128_18312320.jpg


作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、大久保の死についてつぎのように述べています。


「結局は大久保とその太政官が勝ち、西郷がほろびることによって世間の士族一般の怨恨や反乱への気勢は消滅したかにみえた。大久保とその権力はほとんど絶対化するかの勢いになった。日本における政治風土として、権力が個人に集中してそれが絶対化することは好まれず、それに対する反対勢力が相対的に公認されている状態が好まれる。権力が個人に集中して絶対化した例は日本の歴史でまれであったが、遠くは織田信長の末期、近くは井伊直弼の大老就任後がそうであったであろう。結局は爆走する絶対権力をとどめる方法がないままに暗殺者がそれを停止させることが、ほとんど力学現象のようにして生起する。」


大久保の死も、あるいは歴史の必然だったのかもしれませんね。


e0158128_18313027.jpg


また、作家の半藤一利氏はその著書『幕末史』のなかで、


「戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。」


と述べておられています。

しかし、わたしは、西郷は道義主義者だったと思いますが、大久保が超合理主義者だったとは思いません。

むしろ、西郷以上に情に厚い熱血漢だったと思っています。

ただ、その情は、西郷のように人に対してではなく、「国家」に向けられた。

彼は、彼らが作った新国家という作品を、どんなことをしても守りたかった。

その国家建設に抗おうとする勢力は、たとえそれが竹馬の友であっても、容赦なく叩き潰した。

これは、大久保の政治家としての信念だったのでしょう。

日本近代史において、大久保利通ほどの信念の政治家は、それ以前もそれ以後もいないとわたしは思っています。


e0158128_18314109.jpg


西郷隆盛が西南の城山に散ったのが、この8ヶ月前の明治10年(1877年)9月24日、さらにその4ヶ月前の5月26日には、大久保、西郷と並んで維新三傑の一人に挙げられた木戸孝允もこの世を去っていました。

わずか1年足らずの間に、維新の象徴的存在だった3人が揃ってこの世を去ったわけです。

ひとつの時代が終わりを告げました。




ブログ村ランキングに参加しています。

よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-30 00:34 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

上野の西郷さん

明治維新150年にあたるメモリアルイヤーの今年、平成30年(2018年)の大河ドラマは『西郷どん』でしたが、その第1話のオープニングに登場した上野恩賜公園西郷隆盛像についての起稿です。

今年の春、たまたま東京に行く機会を得たので、ついでに足を運んできました。


e0158128_13442250.jpg


周知のとおり、西郷隆盛がこの世を去ったのは明治10年(1877年)9月24日、西南戦争における反乱軍としての戦死でした。

そのため西郷は「逆賊」汚名を着せられることになりますが、維新最大の功労者である西郷の名声は死後も落ちることはなく、名誉回復を求める声が高まるなか、明治22年(1889年)、明治天皇の意向や黒田清隆らの尽力もあり、大日本帝国憲法が公布される大赦によって「逆賊」の名を赦され、正三位の位が追贈されます。

これを受けて、西郷の旧友である吉井友美が西郷像の建立を計画。

御下賜金(天皇から賜ったお金)や有志が集めた寄付金を資金として、明治26年(1893)に起工、明治30年(1897年)に竣工したのが、この「上野の西郷さん」です。


e0158128_13442600.jpg


なぜ上野に西郷像が建てられたかというと、当初は皇居内に建てる計画だったそうですが、一時は朝敵となったことを理由に猛反対する声が上がり、やむなく、かつて西郷が指揮官として功を上げた上野戦争の舞台であり、皇室の御用地である上野に建てられることになったそうです。


e0158128_13442982.jpg


また、その姿についてですが、当初は騎馬像として設計されたものの資金が足りず、次に、陸軍大将の正装である軍服姿の立像で計画され、雛形まで出来あがっていたそうですが、これも、とある筋からの猛反対が起こり、結果、現在の着流し姿になったそうです。

反対派の理由は、西郷の高い人気を背景に反政府的機運を醸成しかねないとのことで、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする政治的意図があったとされます。

おそらくそのとおりだったでしょうね。


e0158128_13443379.jpg


除幕式の際にはじめて銅像を見た西郷夫人の糸子が、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかった)」と言って周囲を慌てさせたという有名なエピソードがあり、このことを理由に、この銅像は西郷に似ていないといも言われますが、糸子の言葉の真意は、「うちの人はこのような着流し姿で人前に出る人ではなかった」といった意味だったとも言われ、その真偽はわかりません。

まあ、夫人から見れば顔も違って見えたかもしれませんが、この除幕式には実弟の西郷従道も出席しており、また、この銅像の製作においては、西郷をよく知る吉井友美黒田清隆樺山資紀らも深く関わっていたわけで、まったく似ていないというわけでもなかったでしょう。

奥さんからすれば、どこか仕上がりに気に食わない部分があったのかもしれません。


e0158128_13443663.jpg


逆賊の汚名は返上されていたとはいえ、西郷が反乱軍を指揮した事実は変えようのない歴史です。

その反乱軍の総大将である人物の銅像が、同じ政権下で、死後わずか20年で建てられたという例は、世界中探しても類を見ないそうです。

また、その銅像が日本の首都のもっとも人の目につきやすい場所に建てられたということも、諸外国からすれば理解できないことだったようで、さらに、その除幕式に政府の要人が出席するということを聞いた在日の西洋人は、西洋諸国ではあり得ないこととして驚愕したといいます。

それだけ西郷隆盛という人物が、当時から比類なき英雄として愛されていたということの表れでしょうが、一方で、その西郷の盟友でありながら最後は西郷と敵対する立場となった大久保利通の像は、没後100年経った昭和54年(1979年)にようやく鹿児島の地に建てられましたが、西郷を死に至らしめたとの理由で大久保は死後100年経っても不人気で、銅像建設にも反対運動が大きく、竣工当日も、厳重な警備体制だったそうです。

同じく維新の立役者であり、近代日本の礎を築いた二人なのに、この差は気の毒ですね。

大久保贔屓のわたしとしては、釈然としない思いです。


e0158128_13444059.jpg


一般に、西郷は自ら反乱を望んだわけではなく、不平士族の怒りの捌け口を作るため、不平士族に担ぎ出される形で自分の命を預けたのが西郷の最期だったと言われています。

しかし、この解釈は、必ずしも正しいとは言いきれません。

実際、挙兵に至る経緯からその最期に至るまで、西郷自身の心情を吐露した史料は残されておらず、すべては後世の想像にすぎません。

「西南戦争は桐野利秋が起こしたいくさで、西郷はその神輿に乗っただけだ」と言ったのは、戦後、西郷の汚名返上に奔走していた勝海舟の言葉で、西郷を尊敬しながらも政府軍として敵対せざるをえなかった将校たちも、「そうであってほしい」という思いが、不世出の英傑である西郷を死に至らしめたことを正当化する口実になったともいえます。

そう考えれば、西郷の人物像は、その死後、必要以上に美化され、英雄化していったといえなくもありません。


e0158128_13444373.jpg


作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、つぎのように述べています。


「政治家や革命家が一時代を代表しすぎてしまった場合、次の時代にもなお役に立つということは、まれであるといっていい。西郷は倒幕において時代を代表し過ぎ、維新の成立によって局面がかわると後退せざるをえなくなったという当然の現象が、一世を蓋っている西郷の盛名と同時代に存在しているひとびとには、容易にわからなかった。」


この銅像が建ったときの西郷は、その銅像以上に巨大化された存在になっていたのかもしれません。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-27 14:22 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

西郷どん 総評

 「幕末」と呼ばれる時代はいつからいつまでを言うのか、という話題になったとき、その始まりは「黒船来航」からという意見で概ね一致しますが、その終わりとなると、ある人は「王政復古の大号令」だといい、別の人は「戊辰戦争の終結」だといい、いやいや「廃藩置県」だろうという人もいれば、「西南戦争の終結」まで幕末は続いていたという人もいて、なかなか解釈が定まりません。


 わたしの個人的意見を述べさせてもらうと、「幕末」「幕」「幕府」「幕」と解釈すれば、幕府政権の終わり、すなわち大政奉還から王政復古の大号令にかけてとなるのでしょうが、古い時代の「幕引き」、新しい時代の「幕開け」という意味での「幕」と考えれば、わたしは侍の時代にピリオドが打たれた西南戦争の終結までが幕末ではなかったかと思います。で、その幕末の最初から最後まで登場するのが、今年の大河ドラマ『西郷どん』の主人公である西郷隆盛です。


 たとえば、幕末の志士のなかで人気ナンバーワン坂本龍馬を主人公にした場合、物語は大政奉還で終わってしまいます。司馬遼太郎さんはその大政奉還を大きなクライマックスに見立てて、あの名作『竜馬がゆく』を生み出しましたが、実際には、大政奉還は確かに大きな節目ではありましたが、維新改革の観点で言えば序章にすぎません。また、もうひとりの人気者である高杉晋作などは、さらに早く死んでしまうため、彼を主人公とする『世に棲む日日』は、これから歴史が大きく動くというところで物語が終わっちゃうので、大河ドラマにはし難いでしょう。その点、西郷隆盛の物語は、黒船来航から西南戦争まで、幕末の始めから終わりまですべて描ける。戦国三英傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を比べたとき、その後世の人気度でいえば1信長、2秀吉、3家康という順番になるかと思いますが、物語にすると、家康ものが俄然面白い。というのは、桶狭間の戦いから大坂夏の陣まですべて描けるからに他なりません。その論でいえば、幕末はやはり西郷なんですね。


e0158128_22363584.jpg


 で、そんなミスター幕末・西郷隆盛を主人公にした大河ドラマは、30年前の『翔ぶが如く』以来、2度目の作品となります。わたしは、『翔ぶが如く』はわたしの知る限り3本の指に入るほどの名作だったと思っているので、どうしても、それとの対比になっちゃうのですが、今年の大河ドラマ『西郷どん』は、わたしにとってどうだったかといえば、正直に言って名作とはいえない残念な作品となりました。同じ西郷を主人公とした伝記ドラマであるはずの『翔ぶが如く』と『西郷どん』は、似て非なるものだったと言わざるを得ません。


 その理由はいくつも挙げられますが、いちばんの理由は、取捨選択のマズさと創作稚拙さでしょう。西郷の志士としての生涯は長く、しかも濃い。それ故に史実に縛られること大で、また、伝承レベルの逸話も数多くあることから、それをすべて描こうとすれば、47話ではとても足りない。だから、割愛しなければならないのは仕方がないことですが、その取捨選択があまりにも下手で、理解しがたいものでした。少しでも歴史を知っている人であれば、きっと、何でここをスルーしちゃうんだ?と思ったことは一度や二度ではなかったのではないでしょうか? それが最も顕著に表れているのが、時系列の構成。全47話中、戊辰戦争までの幕末期が38話あったのに対し、維新後の明治期はたった9話。当然ですが、明治期のひとつひとつの歴史的出来事の描き方は粗雑となり、無理やり短縮したり解釈を変えることによって、とても歴史ドラマといえるものではなくなってしまいました。ちなみに、先述した『翔ぶが如く』では、幕末編が29話で、明治編が19話でした。これでも、もっと明治期を描いてほしかったと思ったほどでしたから、このたびの9話というのが、いかに短縮されていたかがわかるかと思います。


 では、その分、幕末期の話が充実していたかといえば、決してそうとは言えず、逆に無駄な話が多かった。それをいくつか挙げていくと、まず、島津斉彬の死までが長かった。たしかに、斉彬は西郷の生涯にとって欠かせない重要な登場人物ですが、西郷と共に過ごした時間は短く、西郷の志士としての長い生涯においては、序章に過ぎません。しかし、今回のドラマでは、斉彬の死までに実に16話も費やしています。しかも、たいして面白くもない創作話をたくさん盛り込んで。明らかにここは無駄だったでしょう。あるいは、斉彬役に超ビッグなハリウッドスターをキャスティングしたため、早く死んでもらうわけにはいかなかったのでしょうか? だとすれば、本末転倒な話ですね。民放の月9ドラマだったら、俳優さんありきで物語が構成される場合も多々あるでしょうが、歴史ドラマにおける俳優さんはあくまで影武者であって、重点をおくべきは、歴史上の人物です。


 それから、篤姫とのラブコメ話もいらなかった。篤姫と西郷の関係は、篤姫の輿入れ時に、その輿入れ道具の調達を任された、ただそれだけの関係です。フィクションがダメだと言ってるわけではありません。ドラマが100話あるんだったら、そういう遊びの回があってもよかったでしょうが、限られた尺のなかで、大事な歴史のエピソードを削ってまでも描かなければならなかったとはとても思えません。それと、ヒー様との意味不明な友情話も不要。あれ、何が描きたかったのか、わけがわかりません。あと、西郷と何ら関わりがなかったであろうジョン万次郎の話もいらなかったですし、それから、坂本龍馬の出番も多すぎた。わたしは、スマホの待受画面を坂本龍馬にするほどの龍馬ファンですが、だからといって、何でもかんでも龍馬人気に肖ろうとする傾向は好きではありません。坂本龍馬の人生にとっては西郷との出会いは重要な出来事だったかもしれませんが、西郷の人生にとっては、坂本龍馬はそれほど重要な人物ではありません。薩長同盟のくだりで少し登場すればいい程度の存在です。龍馬とのエピソードを描くくらいなら、西郷に大きな影響を与えた橋本左内藤田東湖(今回のドラマには登場すらしなかった)との関係を、もっと描くべきだったんじゃないでしょうか? これらの無駄な回をなくすだけでも、ずいぶん幕末編を短縮できたでしょうし、その分、明治編をもっと丁寧に描けたように思います。


それから、人物の描き方についてですが、開明派が賢者で、保守派が愚者という解釈も、相変わらず短絡的すぎるような気がします。例えば島津久光などは保守派の代表のような人物ですが、決して愚人というわけではなく、あと半世紀ほど早く生まれていれば、名君として後世に名を残していたかもしれません。一方で、島津斉彬勝海舟といった開明派は、時代が違えば、奇人変人扱いだったかもしれず、実際に斉彬も勝も、当時の社会のなかでは、敵が多く理解者は少ない存在でした。特に斉彬は、西郷というフィルターを通してみれば名君だったでしょうが、そのあまりにも革新的な考えを実行するために、振り回され、翻弄され、酷使されて使い捨てられた家臣もたくさんいました。斉彬と久光、どちらが薩摩藩にとって名君だったかは、一概には言えないんです。ドラマですから、ある程度分かりやすくするために善悪で描かれるのは仕方ないにしても、賢愚で描くのは、そろそろ見直してほしいと思います。


e0158128_20152636.jpgで、西郷の人物像についてですが、彼の場合、これまで多くの物語などで描かれてきた西郷がそうであったように、結局はつかみどころがない開明的なのか保守的なのか、賢人なのか愚人なのか、革命家なのか政治家なのか軍人なのか、西郷の言動や行動をいくら検証しても、ついぞ見えてこないんですよね。ある人は、西郷は自身が起こした革命を自らの死によって完成させたといい、またある人は、もう一度革命を起こして維新をやり直そうとしていたといい、また別の人は、自らの役目を終えたあとの死に場所を探して彷徨っていたと説きますが、どれも、そうともとれるし、でも腑に落ちません。司馬遼太郎さんは維新前の西郷と維新後の西郷とを、まるで別人と評しているのに対し、海音寺潮五郎さんは、維新前と維新後でまるで人が変ってしまうことなどあろうはずがないといっています。かつて司馬さんが執筆した『翔ぶが如く』を読んだ海音寺さんが、「司馬君でもまだ西郷を描ききれていない。」と評したという話がありますが、それほど、西郷という人物は、計り知れない人なんですね。


 そんな評価の難しい西郷ですが、素人のわたしなりに思う西郷像は、パートナーがあってこその西郷だったんじゃないかと思っています。つまり、西郷は維新第一の英雄となりましたが、自身の強烈な指導力で牽引するヒトラーのようなカリスマ革命家ではなく、誰かにサポートされて、もっといえば、誰かに操られて、その事績を成し得た珍しいタイプの革命家だったといえます。その西郷を操っていたのが、若き日は斉彬であり、革命期は大久保利通だったんじゃないかと。「操っていた」というと聞こえが悪いですが、決して彼らが西郷を見下していたというわけではなく、斉彬や大久保にはない人間的魅力を西郷は持っていて、その西郷の人間力を大久保たちは利用し、また、助けられてもいた。そんなギブアンドテイクの関係が成立していて、英雄・西郷隆盛が作られていったのではないかと思います。実際、斉彬は若き日の西郷を評して、「西郷を使いこなせるのは自分だけだ」と言っていたといいますし、斉彬亡きあと、ともすれば暴走しかねない西郷の手綱をさばいていたのは、大久保でした。西郷は西郷ひとりの力で西郷となったわけではなく、斉彬、大久保がいてこその西郷だったのではないかと。


 ところが、征韓論政変以降、西郷をいい意味で操る人間がいなくなり、西郷が身を預けたのが、桐野利秋別府晋介といった若いぼっけもんたちだった。彼らに西郷を操れるだけの能力はなく、神輿に担ぎあげるのが精一杯だった。これが、西郷の不幸だったといえるでしょう。ひるがえって考えれば、結局、西郷はその人生において自らの意思で能動的に行動したことは一度もなく、斉彬に使われ、大久保に操られ、最後はぼっけもんたちに担がれるという傀儡の生涯だったんじゃないかと。ちょっと西郷ファンには申し訳ないですが。


 今回のドラマの西郷は、これまでにないエネルギッシュな西郷でしたね。それはそれで悪くはなかったと思いますが、残念ながら西郷の生きた歴史、西郷が行った功績がほとんど描かれていなかったため、ただエネルギッシュな良い人、というだけでした。歴史上の英雄というのは、善きにせよ悪しきにせよ清濁併せ呑む人物だったからこそ英雄たり得たわけで、そこが偉人たちの魅力でもあります。そんな歴史上の英雄のなかでは、珍しく西郷は道義を重んじる人格者ではありましたが、西郷とて決して聖人君子ではありません。だから、ドラマ内の「皆が腹いっぱい食える世の中にしたい」というあの台詞を聞くたび、興ざめしていました。そんな、世のため人のために生きてませんよ、人は皆。西郷は道義主義者でしたが、彼の道義はあくまで当時の武士階級の道徳であり、士族至上主義でした。幕末期の西郷は薩摩藩の立場を守るために活動し、明治期の西郷は、薩摩士族のために働いた。ひいては、それが自身のためでもあったんです。決して、世のため人のためといった綺麗事で幕府を倒したわけではありません。自分たちのためです。民百姓のことなんて、眼中になかったと思いますよ。


 それらの人物像歴史解釈、フィクション部分を見ても、どうにも稚拙な描き方に思えてならない今年の大河ドラマでした。勘違いしないでほしいのは、わたしは、フィクションがダメだと言っているわけではありません。でも、全47話という限られた尺のなかで構成するわけですから、そこは、センスが問われるところだと思います。歴史ドラマといえどもエンターテイメントですから、フィクションは不可欠だと思いますし、そこには独自解釈があってもいいでしょう。ですが、歴史ドラマにおけるフィクションは、作り手の知識に裏付けされたセンスが必要だと思います。本作品の原作の林真理子さんと脚本の中園ミホさんに、どれほどの知識の裏付けがあるのかは知りませんが、想像するに、幕末維新の歴史も、西郷隆盛という人物のこともあまり知らずに、執筆依頼があってからにわか知識を放り込み、その程度の知識で作品を書かれたんじゃないでしょうか。


何年か前に、NHK-BSの『英雄たちの選択』で西郷隆盛が採り上げられたとき、パネラーで林真理子さんが出演されておられましたが、そのとき、林さんはあまり西郷のことを知っておられない様子でした。たぶん、あのとき既に大河作品の執筆依頼があって、にわか勉強中だったのでしょうね。ただ、残念ながら、にわか知識で書けるほど、西郷隆盛の生涯は単純じゃないです。どれだけ売れっ子の作家さんであっても、歴史ドラマは、歴史に精通していなければ書けないと思いますし、書くべきではないとわたしは思います。歴史の知識が浅い人が歴史ドラマを書くと、フィクションも的外れでトンチンカンなものになります。ピカソは、写実画を極めた上であの画風に行き着いたのです。デッサン力のない者が抽象画を書いても、ただの下手な絵でしかありません。歴史をしっかりと勉強した人にしかフィクションの歴史は書けないのではないでしょうか。


 というのも、ここ近年、やたらと女性の脚本家さんの作品が続きますよね。女性が主人公の作品だけならまだしも、それ以外も、2008年の『篤姫』以降の11作品中、8作品が女性の脚本家さんです。これ、どういうことでしょう? 女性がダメだとは言いませんが、この比率は明らかに偏っています。ここからはわたしの想像ですが、偏見かもしれませんが、男性の脚本家さんは、大河ドラマの脚本の難しさがわかるから、歴史にそれほど精通していない人は、オファーがあっても容易に引き受けないんじゃないかと。ところが女性の脚本家さんは、その難しさを考えず、にわか知識だけで安直にオファーを引き受けちゃうんじゃないかと。わたしの勝手な想像ですが、11作品中、8作品が女性というのは、どう見ても普通じゃないですよね。その背景には、そんな事情が隠されているように思えてなりません。それが、近年の大河の質の低下を引き起こしている原因じゃないかと。だとすれば、幕末維新じゃないけど、大河ドラマも根本的な改革が必要な時期に来ているのかもしれません。


 いささか辛口な批判ばかり述べてきましたが、最後に、鈴木亮平さんの西郷隆盛は良かったと思います。ここだけで言えば、『翔ぶが如く』の西田敏行さんより良かったかも。西田さんも良かったのですが、いかんせん背丈が・・・。その点、鈴木隆盛は申し分ない体躯と存在感でしたし、もちろん演技も、特に後半は本物の西郷もこんな感じだったんじゃないかと思えてくる程でした。それだけに残念、というしかありません。


 気がつけば、ずいぶん長文になってしまいました。厳しい意見ばかり吐いてきましたが、毎週面白いと思って観ておられた方には申し分ありません。それだけ今年の大河ドラマには期待していたということで、ご容赦ください。それでは、このあたりで『西郷どん』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。


●1年間の主要参考書籍

『西郷隆盛』 家近良樹

『大久保利通と明治維新』 佐々木克

『西郷内閣』 早瀬利之

『西郷隆盛101の謎』 幕末維新を愛する会

『幕末史』 半藤一利

『もう一つの幕末史』 半藤一利

『西郷と大久保二人に愛された男 村田新八』 桐野作人・則村一・卯月かいな

『翔ぶが如く』 司馬遼太郎

『歳月』司馬遼太郎

『西郷隆盛』 海音寺潮五郎

『西郷と大久保』 海音寺潮五郎


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-12-21 00:07 | 西郷どん | Comments(6)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その3 ~西郷死す~

 昨日の続きです。

 明治10年(1877年)9月24日早朝、政府軍は西郷隆盛らの籠もる城山を包囲しました。政府軍は兵力の差で西郷軍を圧倒していましたが、それでも、その包囲網は幾重にも連ね、さらになどで囲って防御用の陣地を構築するといった念の入れようだったといいます。これは、政府軍の参軍・山縣有朋慎重すぎる性格が濃厚に反映していたと見られます。前稿で紹介したように、山縣は前日に西郷に宛てて畏敬の念を込めた手紙を送りましたが、それはあくまで個人的な西郷に対する友情の証であり、政府軍の総帥という立場では、これ以上この戦いを長引かせたくない、是が非にも今日の戦いで決着をつけたいという思いでこの日を向かえたのでしょう。


 午前4時頃、3発の号砲を合図に政府軍の総攻撃が開始されました。これを聞いた西郷は、きっと、「今日が死ぬ日か」と思ったに違いありません。政府軍の戦術は、五個旅団を総攻撃に当て、残りの三個旅団に警戒を命じるというものでした。


 e0158128_15131310.jpgこの総攻撃を受けて、西郷らは洞窟前に整列し、岩崎谷に進撃して敵方を迎え撃つことに決します。この時点で、西郷軍本隊の兵力は、西郷隆盛、桐野利秋、村田新八、桂久武、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太など、約40人になっていました。しかし、政府軍は西郷軍が岩崎谷に兵力を集中させるであろうことをあらかじめ予測しており、第4旅団の主力を岩崎谷に投入していました。この読みは見事に的中し、西郷軍の将兵は、敵弾の雨のなかに次々と命を落としていきます。


 一説には、政府軍の総攻撃が開始されて間もなく、西郷の身辺を警護していた辺見十郎太が西郷に対して切腹を勧めたものの、その時点では西郷はこれを受け入れなかったといいます。西郷は、その前後の言動からみても、自決などという考えはなかったようで、あくまで戦死にこだわっていたようです。それは、戦国武士的な気概を尊ぶ薩摩武士の美徳でもあったかもしれませんし、何より、自殺という行為は、西郷の行動哲学である「敬天愛人」に反するものだったからとも考えられます。人は天命というものを天から与えられ、それに従って生きている。彼は彼の義を貫くために戦いに及んだ。だから、その死は自決ではなく戦死でなければならない。そう考えていたのではないでしょうか。


 e0158128_17565901.jpgしかし、やがて西郷は島津応吉久能邸門前でに敵弾を浴びます。これにより、西郷は自力での歩行は困難となりました。西郷の理想は最後まで戦って戦死することでしたが、事ここに至り、自らの命運が尽きたことを悟った西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて、こう言って介錯を乞うたといいます。


「晋どん、もう、ここらでよか。」


 西郷はそう呼びかけると、東方(明治天皇の住む皇居の方角)に向って手を合わせて跪座しました。これを見た別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫び、泣きながら西郷の首を落としたとされています。享年51。島津斉彬に認められて以来、四半世紀に及んだ彼の長い長い志士人生が幕を閉じました。


 ドラマでは、西郷の介錯のシーンは描かれなかったですね。この西郷の最期については、西郷軍の生き残りである加治木常樹という人物の目撃談によるものですが、別の説では、桐野利秋が西郷を射殺したという説もあり、その真偽は定かではありません。ただ、現存する政府軍の屍体検査書には、「頭体離断」と記されており、生きている間か死んだあとかはわかりませんが、誰かが西郷の首を落としたことは間違いありません。ドラマで介錯のシーンを描かなかったのは、諸説ある西郷の死を曖昧なままにしたのかもしれませんし、あるいは、西郷の望んだ戦死による最期を遂げさせたのかもしれませんね。


 西郷の死を見守っていた桐野や村田ら配下の者たちは、その後、次々に突撃し、敵弾に斃れました。あるいはこの戦争の実質的首魁だったかもしれない桐野は、最後まで塁上に身を晒して凄まじいばかりの勇戦を見せたといいますが、最後は額を打ち抜かれて戦死しました。そして総攻撃が始まって約3時間後、西郷軍の主だった者は全員討ち死にし、戦いは終焉を向かえます。


 結局のところ、西郷にとって西南戦争とはなんだったのでしょう。よく言われるのは、西郷は不平士族たちの憤懣を一身に受け止め、彼らに身を預けて戦いに一身を投じることで、自身が作り上げた明治維新を完結させたとする解釈があり、今回のドラマでも、その解釈に則った描かれ方でした。しかし、わたしには、それは多分に西郷を罪人にしたくないという後世の心情が作り出した虚像のように思えてなりません。西郷は、西郷なりに思うところがあって挙兵した。それは不平士族たちのためではなく、自身の思う国家を創るため、もう一度維新をやり直すための決起で、壮士たちの暴発によってその決起が少し早まってしまったものの、挙兵当初の西郷は、決して負けるとは思っていなかった。自身の声望を以てすれば、現行政府を覆すことも難しくはない、そう思っての決起だったんじゃないかと思います。しかし、その見通しは甘かった。そして、結果的に、自身の本意ではなかったにせよ、自身の死によって侍の時代が終焉を向かえ、維新を完結させることになったんじゃないかと。


 作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、このように評しています。


 「西郷とその徒の死は、前時代からひきついできたエネルギーの終焉であったであろう。そのエネルギーというのはただに江戸期だけではなく、室町期あるいはさらに鎌倉期からひきつがれてきているなにごとかであったかもしれない。」


 西郷が死んだ明治10年(1877年)9月24日以降、夜空にひとつの星がひときわ大きく輝くようになりました。この星の正体は、楕円形の軌道を描いてこの年の秋に地球に接近していた火星だったのですが、天体の知識に乏しかった当時の人々はこの星を「西郷星」と名付け、崇めたといいます。また、同時期に火星に寄り添って輝いていた土星を「桐野星」とも呼んだとか。当時の人々が、いかに西郷たちの死を悼んだかということがわかるエピソードですね。西郷はその死後も、星になって人々の心に宿ったんですね。


 さて、西郷の死を以て最終稿としたかったのですが、もうひとつ、語らなければならないことがありますね。大久保利通の死です。明日、もう一稿だけお付き合いください。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-12-19 01:27 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その1 ~可愛岳越え~

 明治10年(1877年)2月に始まった西南戦争は、3月の田原坂の戦いを峠に西郷軍の敗色が濃厚となり、九州各地を転戦したのち、8月16日、延岡の北方にあった長井村において西郷隆盛自ら軍の解散を布告します。ところが、それでも、西郷を慕う私学校以来の約400人弱が行動を共にすることを希望し、そこで西郷は、配下の辺見十郎太らの進言を容れ、残った兵と眼前に聳える可愛岳を超えて長井村を脱出し、再起を目指すことになります。可愛岳は標高728mで険阻な断崖絶壁の山でしたが、全軍を3つに分けて17日深夜に登山を開始。地元の木こりや猟師を先導役にして絶壁をよじ登るなど、その進軍は困難を極めました。


e0158128_15131310.jpg当初、西郷は山駕籠に乗っていましたが、100kg以上あったとされる西郷の巨体を運ぶのは容易ではなく、急斜面では西郷も駕籠を降り、雑兵たちと同じように四つ這いになって切り立った崖をよじ登ったといいます。行軍中、私語は厳禁とされていましたが、このとき西郷は、四つ這いで岩肌をよじ登りながら、「夜這んごつある(夜這いのようだ)」とつぶやいて周囲を笑わせたと伝えられます。この一言で緊張が解けた、と生き残りの人たちがのちに語っていますが、この最悪の局面でこのようなジョークを言えるところが、西郷の常人にはない人間的魅力なんでしょうね。


 その西郷の魅力について、このときの有名なエピソードがあります。長井村で解散令を出されたあとも西郷に付き従っていた兵のほとんどは旧薩摩藩士でしたが、なかには少数ながら鹿児島以外の者も残っており、そのなかに、旧中津藩士増田栄太郎という人物がいました。増田は中津隊を率いていましたが、西郷の解軍の令に接し、配下に中津へ帰るよう諭したうえで、自身はこのまま西郷に付き従う旨を伝えます。困惑する配下に増田は、こう言いました。


「自分は隊長という立場上、西郷という人格にしばしば接した。 諸君は幸いにも西郷を知らない。自分だけが職務上これを知ったが、知った以上、もはやどうにもならぬ」


 そう言って増田は涙を流したといいます。「もはやどうにもならぬ」とは、どういう意味かと更に尋ねると、増田は涙ながらにこう答えました。


 「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」


 増田とて、それほど西郷と深く接したわけではなかったでしょう。しかし、そんな増田にここまで言わせてしまう西郷の魅力というのは、後世の私たちには計り知れない部分です。西郷と増田は、主従関係でもなければなにか特別な恩義があるわけでもない。解軍の令が発せられた以上、もはや勝ち目のない西郷と運命をともにする義理などどこにもないわけです。しかし、この人のために死にたい、増田はそう思ったのでしょうね。これほど人を惹きつける魅力を持つ人物というのは、おそらく同時代においては西郷しかいなかったでしょう。作家・司馬遼太郎氏もその著書『翔ぶが如く』のなかでこのエピソードを採り上げ、このように評しています。


 「増田の言葉は、西郷という実像をもっとも的確に言い中てているかもしれない。(中略)要するに西郷という人は、後世の者が小説をもってしても評論をもってしてもとらえがたい箇処があるのは、増田栄太郎のいうこういうあたりのことであろう。西郷は、西郷に会う以外にわかる方法がなく、できれば数日接していなければその重大な部分がわからない。」


 苦心惨憺の末、西郷軍約400人は18日の日の出の頃に可愛岳頂上付近の中の越に到達しました。可愛岳の南側は断崖絶壁でしたが、北側は比較的緩やかな斜面で、その眼前には政府軍の第一旅団、第二旅団の本営が置かれていました。これを見た辺見らは、すぐさま敵方の本営を襲撃して弾薬などを分捕ります。政府軍にしてみれば、西郷軍の可愛岳突破はまったくの想定外だったようで、狼狽して為す術もなかったようです。

 「その2」に続きます。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-12-17 00:37 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その4 ~西郷軍解散と木戸孝允の死~

 昨日の続きです 

田原坂の陣を奪われた西郷軍は、以後、退却を重ねていくことになります。3月20日に田原坂をあとにした西郷軍の本営は、4月以降、神瀬、木山を経て、もともと薩摩国に接し、薩摩の影響の強い人吉へと移されました。ここで西郷隆盛は、負傷した別府晋介鹿児島に帰らせ、先に熊本から帰郷していた桂久武とともに、新たな兵員の募集に当たらせました。この期に及んで、まだ西郷は戦いを諦めてはいなかったようです。しかし、この時点ではすでに武器弾薬や食料は底をつき、その敗北は誰の目にも明らかな状態になっていました。


 そんな状況のなか、逮捕された大山綱良に変わって新たに鹿児島県令に任に就いていた岩村通俊から、5月7日、すでに決着がついたとしたうえで、これ以上の犠牲者を出さないために、西郷に対して投降を呼びかける告諭書が出されます。しかし、西郷はこれを受け入れることはありませんでした。ここで投降するなど、死んでいった兵たちに申し訳が立たないといった心境だったのかもしれません。また、同時期に、鹿児島城下にいた西郷軍が奪還を目指して兵を挙げ、城下の大部分が焼け野原となる攻撃を仕掛けていたことも関係していました。事ここに至っては、もう後戻りはできなかったんでしょうね。


e0158128_15131310.jpg やがて人吉の西郷軍の本営も政府軍に攻撃を受け、6月1日に陥落します。やむなく西郷軍は宮崎方面へ逃れ、都城、宮崎、高鍋と本営を転々としたのち、延岡の北方にあった長井村へ逃れ、8月15日、ここで西南戦争最後の激戦が展開されることになります。2月の挙兵以来、これまで西郷は戦闘の指揮を桐野利秋らに任せて口出しすることはありませんでしたが、このとき、初めて自ら指揮を執りました。西郷は、丘陵の中央に位置した和田越えの頂上に立ち、約3千人の兵を集めて彼らを激励し、士気を鼓舞したといいます。それは、弾丸が雨のように降り注ぐ中での指揮でした。このとき、村田新八らが危険だから高台を降りるようにといくら勧めても、西郷はその場を動こうとはせず、やむなく、兵数人で西郷の巨体を抱え、無理やり後方へ運んだといいます。このとき西郷はどんな心中だったのか。あるいは、敗色が濃厚となるなか、弾に当たって戦死しようとしていたのかもしれません。


 西郷の指揮もむなしく、西郷軍の士気は低下し、投降者が相次ぎました。やがて西郷は、これ以上の戦争継続は困難と判断し、8月16日、軍の解散を布告し、全将兵に行動の自由を許しました。このとき、西郷自身も、自らの身体にけじめを付けるべく、陸軍大将の軍服を焼却するなどの身辺整理を行ったといいます。西郷は解散令を出したあと、自ら人を呼び、野戦病院の始末などの事務処理細かく指示したといいます。これも、鹿児島出立以来、はじめてのことでした。このときの西郷について、作家・司馬遼太郎氏はその著書『翔ぶが如く』のなかで、次のように述べています。


 「西郷は戦いのあいだ狩猟などをして何もせず、和田越をのぞいては前線にさえ立たなかったが、最後にのぞみ、解散についてのさまざまな始末を、幕僚にはかることなくみずからやったという点、この人物の何事かが見えるようである」


 部下を信頼して仕事を任せる。失敗すれば、その責任をとって後始末をする。そう考えれば、理想的な上司像といえるかもしれませんが、これが、戦争の指揮官として理想的といえるかどうかは、難しいところですね。


 全軍解散となった西郷軍でしたが、それでも、西郷を慕う私学校以来の約300人行動を共にすることを希望します。そして、このあと長井村から脱出を図る有名な作戦が決行されます。それは次回、最終回にて。


 e0158128_19334109.jpg最後に、木戸孝允についても触れておきましょう。西郷たちが人吉を本営としていた明治10年(1877年)5月26日、木戸は京都の邸で病にて息を引き取りました。木戸はその死の直前、西南の地で挙兵した西郷と明治政府を案じ、昏睡状態のなか見舞いに訪れた大久保利通の手を握りしめ、「西郷、いいがげんにせんか」と言ったといいます。盟友といえたかどうかはわかりませんが、木戸にとって西郷、大久保は共に明治新国家を作り上げた同志であったことは間違いなく、その同志のふたりが敵対している現状は、木戸にとって最大の心残りだったに違いありません。結局、西郷は木戸の死から4ヶ月後、大久保も約1年後に落命します。「維新三傑」と呼ばれたこの3人が、偶然にもわずか1年の間にこの世を去ることになるという事実も、歴史というのは実にドラマチックにできていると思わずにいられません。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-12-13 23:59 | 西郷どん | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その3 「桜田門」

「その2」の続きです。

皇居正門から二重橋濠沿いに南へ歩きます。

打込み接ぎの高い石垣が続きます。


e0158128_16504163.jpg


濠が直角に西へ曲がったところに、渡櫓門が見えます。

皇居から霞が関エリアに抜ける「桜田門」です。


e0158128_16523842.jpg


桜田門といえば、なんと言っても思い出されるのは、幕末に起きた「桜田門外の変」でしょう。

安政7年3月3日(1860年3月24日)、ここ江戸城桜田門外水戸藩脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老・井伊直弼暗殺した事件です。


e0158128_16581723.jpg


安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政6年(1859年)が暮れて、大老・井伊直弼独裁専制志士弾圧に反発する空気はいよいよ緊迫し、「除奸」すなわち奸物・井伊を暗殺しようという計画が、水戸藩士と薩摩藩士のあいだで進められました。

過激派の中心人物だった水戸藩士の高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。


e0158128_16582106.jpg


この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。

雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の浪士たちの手によってさんざんに斬りつけられます。

駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。

襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。

享年46。

幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。


e0158128_16582460.jpg


この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。

水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。

この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。

その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。


e0158128_16582726.jpg


作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。


「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」


この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは事実でしょうね。


e0158128_17032679.jpg


写真は桜田門外側の高麗門です。

この高麗門と上の渡櫓門枡形構造になっています。


e0158128_17033273.jpg


説明板によると、この門の正式名称は「外桜田門」というそうで、「その1」で紹介した桔梗門「内桜田門」といったそうです。


e0158128_17033687.jpg


「桜田門外の変」と呼ばれるくらいですから、この高麗門の外で起きたのでしょうね。


e0158128_17052592.jpg
e0158128_17052814.jpg


桜田門前の交差点です。

このあたりで事件が起きたのかもしれません。


e0158128_17081377.jpg


桜田門西側の桜田濠


e0158128_17081731.jpg


桜田門東側の凱旋濠です。


e0158128_17095646.jpg


桜田門だけでずいぶん長くなっちゃいました。

次稿に続きます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-06 23:47 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)