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幕末京都逍遥 その68 「薩摩戦死者墓」

前稿で紹介した長州藩士の墓は相国寺の西側の墓地にありますが、同じく相国寺の東側には、薩摩藩士の墓があります。

ここは、相国寺塔頭・林光院の境外墓地で、相国寺東門を抜けて40mほど東にあります。


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玉垣に囲われた広い敷地の墓所は、門扉に鍵がかかっていて中には入れません。


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敷地内には、中央に大きな墓石が一基あり、その後ろの玉垣の向こうには、たくさんの小さな墓石が見えます。


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中央の墓石には、「甲子役 戊辰役 薩軍戰没者墓」と刻まれています。

「甲子役」とは、元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)のことで、「甲子(きのえぬ)」とは、十干の「甲」と、十二支の「子」が重なった年の干支のことです。

10と12の最小公倍数、つまり、60年に一度訪れる干支で、西暦年を60で割って4が余る年が甲子の年となります。

元治元年(1864年)は、その甲子の年だったんですね。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さな局地戦にみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子戦争」「甲子役」といわれたそうです。


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「戊辰役」とは、いうまでもなく戊辰戦争のことで、これも、同じく十干の「戊」と、十二支の「辰」が重なった60年に一度の干支を意味しています。

西暦年を60で割って8が余る年が戊辰の年となります。

といっても、戊辰戦争の場合、慶応3年(1868年)に起きた鳥羽・伏見の戦いから、翌年の函館戦争の終結までの約1年半の戦いを総じていいますから、実際には、戊辰から己巳にかけての戦いなんですけどね。

もっとも、ここの墓所に葬られている戦死者は、おそらく鳥羽・伏見の戦いの戦死者だと思われます。


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ここに眠るのは、甲子戦争の戦死者7名と鳥羽伏見の戦いでの戦死者65名計72名だそうです。

墓石下の基壇部分に埋められている3枚の陶板には、その犠牲者の名前が記されています。

3枚のうち真ん中の1枚が禁門の変での戦死者、野村勘兵衛、野村藤七郎、松下弥七郎、赤井兵之助、宮内彦二、森喜藤太、濱田藤太郎の7名です。

このうち、野村勘兵衛と野村藤七郎という人物は、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』新装版(三)の「灰燼」の稿で、名前が出てきます。

以下、抜粋。


長州藩の突撃のすさまじさは、

「賊勢(長州)すこぶる猛烈」

と、会津藩の記録にあるとおりであった。会津は公卿門警備の隊長野村勘兵衛とその部将野村藤七郎がたちまち戦死し、友軍の桑名藩が逃げ出し、慶喜直属の一橋勢も乾御門のほうへ退却し、

「藩兵の守り、ほとんど失わんとす」

と、会津側が記録している。


ん? 小説では会津藩士となっていますね。

まあ、会津藩の記録に載っていたから、会津藩士だと司馬さんも思ったのでしょうね。

司馬さんでも、こんな間違いをするんですね。

ここを参ればわかったのにねぇ。


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敷地内左側(西側)には、大正時代建立の戦没者合同碑もありますが、劣化がひどく、文字は読み取れません。


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禁門の変というと、どうしても長州藩士の犠牲者に目がいってしまいますが、戦争である以上、敵対した薩摩藩士や会津藩士にも犠牲者は当然いたわけです。

そのことを、忘れてはならないですね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-05 23:56 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その21 「明保野亭」

観光客で賑わう東山の三年坂(産寧坂)に、「明保野亭」という会席料理店があります。

ここは、幕末は旅館を兼ねた料亭で、攘夷派の志士たちの密議の場として多く利用されていたといいます。

特に土佐系の志士たちによく利用され、坂本龍馬の京での定宿のひとつだったともいわれ、司馬遼太郎『竜馬がゆく』でも、たびたび登場する場所です。


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現在の店構えはこんな感じ。

もっとも、当時の明保野亭の場所はここよりやや東北位置にあったといわれています。


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店頭のメニュー板には、龍馬の写真が。

メニューの中には「竜馬御膳」なるものがあります。

「龍馬」とつければ、なんでも商売になるんですね。


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藍色の麻の暖簾が、京都らしい風情を醸し出しています。


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入口の前には古い井戸の跡が。

これは幕末当時からあったものでしょうか?


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せっかくなので、「竜馬御膳」を食しました。

3,500円。

まんまとお店の策略にハマってしまっています(笑)。


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ここ明保野亭は、元治元年6月10日(1864年7月13日)に起きた明保野亭事件の舞台でもあります。

明保野亭事件とは、池田屋事件残党探索を行なっていた新選組に応援として派遣された会津藩士の柴司が、ここ明保野亭に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得て踏み込み、現場にいた土佐藩士・麻田時太郎を長州系浪士と思い込んで襲撃し、負傷させた事件です。

当初は柴の行為は会津藩から正当な職務行為と認定されましたが、その後、負傷した麻田が土佐藩から士道不覚悟として切腹させられたため、土佐藩士の一部が不公平と反発して事態は紛糾、会津藩と土佐藩の衝突になりかねない事態となり、これを重く見た柴は、明保野亭事件の責任を自発的に取るかたちで自決を決意し、2日後の6月12日に、兄の介錯で切腹しました。

享年21。

これにより、会津藩と土佐藩の衝突は回避されました。

柴の葬儀には、会津藩士をはじめ新撰組隊士たちも参列して、その死を惜しんだといいます。

龍馬のメニュー看板を見てこのお店に続々と入ってくるお客さんたちは、明保野亭事件のことはきっと知らないでしょうね。

店内にも、事件を紹介する説明板などはありませんでした。

坂本龍馬は宣伝に使えても、柴司は宣伝にはならないようですね。

少し気の毒な気がしないでもないです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-03-27 23:58 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん キャスト&プロローグ

さて、来年の大河ドラマは『西郷どん』ですね。言わずと知れた幕末維新の英雄・西郷隆盛の物語です。歴史に興味のない人でも、「西郷隆盛」という名を知らない人は、まずいないでしょう。今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』は、あるいは大河ドラマ史上最も知名度の低い主人公の物語だったかもしれませんが、来年はその真逆で、日本史上最も知名度の高い人物の物語といえるかもしれません。


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 というのも、たとえば「戦国三傑」と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人では、誰がいちばん知られているか甲乙つけがたいと思いますが、「維新三傑」と称される西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人では、知名度、人気ともに圧倒的に西郷が突出しています。聞くところによると、西郷の伝記は、世界中を見渡して、イエス・キリストの伝記に次ぐほど数が多いといいます。キリスト伝は世界中で出版されているのに対し、西郷の伝記はほとんど日本での刊行であることを思えば、いかに西郷を研究する歴史家が多く、また、国民の間に絶大な人気を有しているかが窺えます。

 にも関わらず、後世の西郷に対する評価は一定ではありません。賢人愚人か、はたまた聖人悪人か、見方によって大きく評価が変わるのが、西郷という人の不思議なところです。幕末、西郷とはじめて会った坂本龍馬が、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と評したという有名なエピソードがありますが、同時代に生きた者でさえつかみどころがなかったわけですから、後世のわたしたちが理解に苦しむのも当然かもしれません。


西郷隆盛を題材にした史伝の代表的な作品として、海音寺潮五郎『西郷隆盛』と、司馬遼太郎『翔ぶが如く』がありますが、海音寺さんと司馬さんの西郷評も、ぜんぜん違うんですね。司馬さんは維新前の西郷と維新後の西郷とを、まるで別人と評しているのに対し、海音寺さんは、維新前と維新後でまるで人が変ってしまうことなどあろうはずがないといっています。今回、原作は林真理子さんだそうですね。原作小説を読んでいないのでわかりませんが、歴史上最も有名でありながら理解に難しい西郷隆盛という人物が、今回、どのように描かれるか楽しみにしています。


 以下、現時点で発表されているキャストです。


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西郷吉之助(隆盛)・・・・・・・鈴木亮平(幼少期:渡邉蒼)

大久保一蔵(利通)・・・・・・・瑛太

岩山糸・・・・・・・黒木華

西郷吉兵衛・・・・・・・風間杜

西郷満佐子・・・・・・・松坂慶子

西郷琴・・・・・・・桜庭ななみ

西郷吉二郎・・・・・・・渡部豪太

西郷龍右衛門・・・・・・・大村崑

西郷きみ・・・・・・・水野久美

大久保次右衛門・・・・・・・平田満

熊吉・・・・・・・塚地武雅

於一(篤姫)・・・・・・・北川景子

ふき・・・・・・・高梨臨

大山格之助(綱良)・・・・・・・北村有起哉

有村俊斎(海江田信義)・・・・・・・高橋光臣

村田新八・・・・・・・堀井新太

赤山靭負・・・・・・・沢村一樹

幾島・・・・・・・南野陽子

由羅・・・・・・・小柳ルミ子

島津斉興・・・・・・・鹿賀丈史

島津斉彬・・・・・・・渡辺謙

島津久光・・・・・・・青木崇高

喜久・・・・・・・戸田菜穂

山田為久・・・・・・・徳井優

愛加那・・・・・・・二階堂ふみ

西郷従道(信吾)・・・・・・・錦戸亮

大久保満寿・・・・・・・ミムラ

桂久武・・・・・・・井戸田潤

タマ・・・・・・・田中道子

阿部正弘・・・・・・・藤木直人

月照・・・・・・・尾上菊之助

徳川家定・・・・・・・又吉直樹

調所広郷・・・・・・・竜雷太

井伊直弼・・・・・・・佐野史郎

徳川斉昭・・・・・・・伊武雅刀

語り・・・・・・・西田敏行

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 西郷隆盛役の鈴木亮平さんのことは、それほど詳しくは知らないのですが、NHK朝ドラ『花子とアン』やNHK大河ファンタジー大河『精霊の守り人』が印象に残っています。大河ドラマは初出演にして初主演だそうですね。巷の噂では、とあるビッグネームの俳優さんが断ったことによる大抜擢だとも聞きますが、たとえそうであったとしても、そんなことはどうでもいいことなんじゃないでしょうか。今やハリウッドスター渡辺謙さんも、『独眼竜政宗』の主役に抜擢されたときは、それほど知名度の高い俳優さんではありませんでしたが、同作品は大河史上に残る名作との呼び声が高い作品となりました。名前の大きさなんて、あとからついてくるものなんじゃないかと。


 その渡辺謙さんが、今回、島津斉彬をやるんですね。ピッタリだと思います。斉彬はたぶん、物語前半しか出てきませんが、西郷の精神の核となる部分を生み出す人物として、重要な登場人物です。渡辺謙さんなら、申し分ないのではないでしょうか。


 大久保利通は瑛太さんですね。西郷といえば大久保。この2人の関係がどのように描かれるかも楽しみのひとつです。一般に、西郷の人気の高さに対して後世に悪評高い大久保ですが、実は、わたしはどちらかといえば大久保贔屓です。なので、大久保利通の扱いがどのように描かれるかが気になるところ。その意味では28年前の大河ドラマ『翔ぶが如く』での鹿賀丈史さんの大久保利通は最高でしたし、その後の幕末ものに出てくる大久保役は、どれもイマイチ納得できませんでした。今回、瑛太大久保は鹿賀大久保を超えられるか。楽しみです。


 その鹿賀丈史さんも、今回、島津斉興役で出られるんですね。それと、語りが西田敏行さん。『翔ぶが如く』での西郷と大久保が、28年後にも揃って出演。これ、往年の大河ファンにはたまらない粋な計らいです。あと、松坂慶子さん、風間杜夫さん、平田満さんの『蒲田行進曲』トリオの共演も話題になっていましたね。皆さん、年を取られました(笑)。


 天璋院篤姫役は北川景子さん。これまた意外にも大河ドラマは初出演だそうですね。篤姫役といえば宮崎あおいさんを思い出しますが、実は『翔ぶが如く』のときの篤姫は富司純子さんでした。もちろん、富司さんは美しい女優さんですが、28年前といえども、当時、富司さんは40代半ばだったと思います。篤姫が第13代将軍・徳川家定のもとに輿入れしたのは20歳のとき。あれはちょっと、無理がある配役でしたよね。その意味では、北川さんはギリギリセーフかな?(笑)。そして、その家定役が芥川賞作家の又吉直樹さんだそうで、これもイメージ出来すぎて笑っちゃいましたが、いちばん笑ったのは、由羅役の小柳ルミ子さん。イメージピッタリです(笑)。


 まだまだ、勝海舟坂本龍馬、木戸孝允、小松帯刀らのキャストも発表されていませんし、桐野利秋、篠原国幹、別府晋介といった西郷と運命をともにする主要キャストも発表されていません。楽しみですね。


 とにもかくにも、また今回も1年間お付き合いいただけたら幸いです。

 楽しみましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2017-12-30 15:19 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

映画『関ヶ原』鑑賞記

映画『関ヶ原』を今日、ようやく観てきました。

歴史ファンとしては観ておかないといけない作品で、およばずながら、素人なりの寸評を述べさせてください。

ここからはネタバレになりますので、これから観る予定でまだ観てない方は、読むか読まないかは自己責任でお願いします。


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観る前からある程度予想はしていましたが、やっぱりな・・・というのが率直な感想です。
ていうか、想像以上(以下?)だったかも。

やっぱ、無理があるんですよ、司馬遼太郎さんの長編作品映画化するのは。

原作小説の魅力をそのまま描こうとすれば、とても2時間3時間では収まらない。

大河ドラマ作品になってもよさそうなくらいの濃い内容の話ですからね。

それを2時間40分ほどに無理やり詰め込んだわけですから、ほとんどダイジェスト版のようなものでした。

「関ヶ原の戦い」という超有名な史実が題材ですから、ある程度観る側に予備知識があることを前提にして作られたものだとしても、あまりにも説明不足で、観る側の歴史知識のスキルを信用しすぎ、作りが雑すぎてわけがわからない。

一緒に観に行った妻なんて、途中から寝てましたからね。


わずか6時間でその後の日本の歴史が変わった関ヶ原の戦いですが、小説『関ヶ原』の面白さは、その「わずか6時間」に至るまでの経緯にあります。

つまり、戦術、戦略ではなく、それ以前の政略で雌雄を決したのが、関ヶ原の戦いと言っていいでしょう。

だから、そこを丁寧に描かないと、この物語の魅力は引き出せない。

合戦シーンは、その結論に過ぎないですからね。

合戦に至るまでに、徳川家康がどれだけ老獪豊臣恩顧の大名たちを抱き込んでいったか。

「へいくゎい者」と言われた不器用石田三成が、その柔軟性のない性格でどれだけ無用の反感を買ってきたか。

これがさっぱり伝わってこない。

三成らしさが出ていたのは、「上様」という言葉尻をつかまえて本多正信を叱責したシーンぐらいだったでしょうか?

家康の老獪さに至っては、その最も重要なシーンであるはずの小山評定がまるまる割愛されていました。

びっくりです。

小山評定のない『関ヶ原』なんて、『関ヶ原』じゃない!


登場人物の人物像がちゃんと作り込まれていたのも、三成と家康、そして島左近ぐらいだったでしょうか?

あとの人物たちは、その上っ面だけで作られた小者感たっぷりのキャラで、可愛そうなほどでした。

福島正則加藤清正なんて、あれじゃただのバカ殿ですよ。

短い時間でキャラ設定しようとすれば、ああいうわかりやすい人物像になっちゃうんですね。

あと、直江兼続も、何のために出したのかよくわからない。

兼続を出すんだったら、直江状上杉討伐も描かないと意味がないし、そもそも、三成と兼続の密約こそ、本当にあったかどうかわからない説なわけで、こここそ、別に割愛してもよかったシーンだったんじゃないでしょうか?

明らかに松山ケンイチさんの友情出演ありきのシーンで、唐突感ありありでした。


合戦に入ってからも、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊らの存在がまったく無視されていましたし、三成と懇意だったはずの島津隊がなぜ動かなかったかも、もうちょっと丁寧に描いてほしかった。

あれじゃあ、ほんとに原作をちゃんと読んでる人じゃないと理解できないですよね。

そこをちゃんと描かないと、西軍がなぜ負けたのかが伝わらないし、なにより小早川秀秋なぜ裏切ったのかがぜんぜんわからない。

秀秋自身は三成につきたかったけど、家臣に押し切られた?

原作小説とは違う解釈ですが、それはいいとしても、じゃあなんでそうなったの?

さっぱりわかりませんでした。


それから、初芽

原作では藤堂高虎から三成の元に送り込まれた間者でしたが、映画では、伊賀の忍びという設定でした。

まあ、それはいいでしょう。

もともと架空の人物ですから、原作小説とキャラ設定を変えるのもありだとは思います。

ただ、解せないのは、初芽だけじゃなく、原作には登場しない忍者たちがやたらと暗躍していたこと。

なんで?

これって忍者映画なの?

外国での忍者ブームにのっかって海外進出を狙ってる?

司馬さんの原作には、忍びは出てきません。

まあ、いくさは情報収集戦でもあったでしょうから、水面下での諜報部隊の働きはあったかもしれませんが、小山評定とかの重要なシーンを削ってでもクローズアップする必要があったでしょうか?

あの忍者たちのシーンが、作品を歴史映画じゃなくファンタジー映画にしてしまっていたように思えてなりません。


で、最後に、最も重要なところ。

敗走して落ち延びた三成が、なぜ自害しなかったかについてですが、原作小説では、最後まで望みを捨てずに生きる道を選び、再起を図るため・・・というものだったのに対し、映画では、死ぬ前に見届けたい大切な人に会うため・・・でした。

つまり、初芽に会うために自害しなかった・・・と。

いやいや、そこは変えちゃダメでしょう。

これって恋愛映画だったの?

三成はその処刑の直前、警護の者から干柿を差出されたところ、干柿は痰の毒だから食べないと言って断り、間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしいと笑われますが、三成は、大義を思うものは首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うからである、と言い放ったというエピソードがあります。

この逸話が実話かどうかは別にしても、ここが三成最大の見せ場であり、関ヶ原の戦いの着地点ともいえます。

それを、好きな女に会うためなんて、そんな安っぽい理由にしちゃったら、三成が浮かばれません。

ここは、絶対変えたらダメなところでしょう!


岡田准一さん、役所広司さん、平岳大さん、有村架純さんと、豪華キャストで描かれた大作でしたが、残念ながら名作とはいい難い作品でした。

まあ、予想してましたけどね。

やはり、司馬さんの長編作品の映画化は無理があったということでしょう。

実に残念でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-01 05:06 | 映画・小説・漫画 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~

樫井古戦場跡の近くに、同戦いで討死した塙団右衛門直之の墓があります。
団右衛門は「その6」で紹介した「夜討ちの大将」として、後世に人気の武将ですね。

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団右衛門の出自は不明ですが、はじめ織田信長に仕えるも酒癖の悪さでクビになり、続いて、豊臣秀吉に仕えるも、またも同じ理由で出奔、その後、賤ケ岳の七本槍の一人、加藤嘉明のもとで文禄・慶長の役に出陣し、敵の番船を乗っ取る大功を挙げます。
しかし、関ケ原の戦いで徳川方についた嘉明隊の鉄砲大将に任じられながら、自ら槍を取って敵中へ一騎駆けをしたため、嘉明から「大将の器にあらず」と叱責され、これに気を悪くした団右衛門は、加藤家を去ります。

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その後、小早川秀秋、松平忠吉、福島正則と主を変えるも長続きせず、そして大坂冬の陣が始まると、豊臣方に与すべく大坂城に入城します。
そして、本町橋の夜襲で名をあげますが、最後は、「その12」で紹介したとおり、功名に焦って討死するんですね。
人気の高い武将ではありますが、「大将の器にあらず」といった嘉明の評価は正しく、スタンドプレイの武将だったといえるでしょうか。

余談ですが、現地説明板の英文を読んでみると、「大坂夏の陣」の英訳は「Osaka Summer Campaign」となるんですね。
「陣」って、「キャンペーン」なんですか?(笑)
じゃあ、さしずめ淀殿は、キャンペーンギャル?(笑)
      ↓↓↓
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司馬遼太郎の短編小説『言い触らし団右衛門』のなかで団右衛門は、分の悪い豊臣方についた理由について、次のように言います。

「さむらいとは、自分の命をモトデに名を売る稼業じゃ。名さえ売れれば、命のモトデがたとえ無(の)うなっても、存分にそろばんが合う」

後世の講談や小説で人気を博した団右衛門。
ある意味、望みを果たしたといえるでしょうか。

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塙団右衛門の墓所は、写真のように住宅密集地の中にひっそりと、見落としてしまいそうなロケーションにあります。
目立ちたがり屋の塙団右衛門からすれば、少々不満かもしれませんね。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-20 23:10 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

坂本龍馬の北辰一刀流免許皆伝は、やはり事実だった! 

e0158128_21185141.jpg先ごろ、坂本龍馬の剣術の腕前を証明する資料が見つかり、話題になっているようです。
記事によれば、今年6月、高知県立坂本龍馬記念館が北海道に住む坂本家の子孫の方から寄贈を受けた資料の中に、かつて「北辰一刀流兵法皆伝」の巻物が実在したとの記述があり、その後、火災で失われたと説明されている文書が確認されたそうです。
嬉しいニュースですね。

幕末の剣豪、千葉周作が創始した北辰一刀流千葉道場で剣術を学んだ龍馬は、後世の証言などから剣の達人だったと伝えられますが、その一方、実際の目録や皆伝を示す史料が現存しないため、近年は疑問視する声が多くあがっていました。
剣の達人と言われながらも護身用にピストルを持ち、実際に剣を使って戦った逸話もなく、しかも、不意をつかれたとはいえ、近江屋でいとも簡単に刺客に討たれたことなどから、龍馬が剣の達人だったという説は、後世の物語が作り出した虚像なんじゃないか?・・・と。

実際、わたしたちが知る坂本龍馬の人物像というのは、以前も当ブログの「坂本龍馬の人物像についての考察。」の稿でも述べたとおり、虚実とり混ぜた物語の中からその「龍馬像」をもらっています。
とくにその「龍馬像」を決定的にしたものが、故・司馬遼太郎氏の代表作『竜馬がゆく』で、わたしたちの知る龍馬像はこの作品によって作られたと言われることに異論はありません。
ただ、その『竜馬がゆく』には、司馬氏の創作部分が多く入っており、世間一般の龍馬像に懐疑的な意見の方々は、それを根拠に批判します。
坂本龍馬を日本史上のスターにしたのは司馬遼太郎の大罪で、実際の坂本龍馬は、とくに大きな功績を残したわけでもなく、当時はそれほど重要視される人物ではなかった・・・と。

たしかに、司馬氏の描いた竜馬像のすべてを鵜呑みにするのは間違いだとは思います。
でも、司馬氏のファンの立場として反論させてもらうと、司馬氏は、『竜馬がゆく』を執筆するにあたって、一等資料だけでなく、ゴシップの類から新聞記事、龍馬の脱藩後に出かけた土地のそれぞれの郷土史までも、しらみつぶしに買い集め、その数およそ3000冊、重さにして約1トン、金額は昭和30年代当時で1000万円もかけたといいます。
手間を掛ければいいというものでもないかもしれませんが、少なくとも、司馬氏の描いたフィクションというのは、氏の想像の世界だけで創りだされた荒唐無稽なものではなく、莫大な史料の断片を繋ぎあわせて確立した龍馬像であり、限りなく実像に近い虚像だと、わたしは思います。

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京都の東山にある龍馬の墓所です。
ここには、幕末維新に殉じたそうそうたるメンバーの墓や慰霊碑が並んでいますが、その中で、最も大きな面積に祀られているのは木戸孝允ですが、龍馬と中岡慎太郎の墓も、いちばん見晴らしのいい場所に、特別扱いの様相で葬られています。
もし、当時の坂本龍馬が、とるに足らない人物だったのであれば、こんな墓の扱いではなかったのではないでしょうか?
ここへ来ると、いつもそう思います。

とにもかくにも、このたびの発見は、龍馬の実像にせまる大きな史料になりそうですね。
剣の達人論争も、これで決着になるかな。


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-14 21:25 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第31話「命がけの伝言」 ~高杉晋作の大演説~

 第一次長州征伐後に藩の実権を手中にした俗論党の首領・椋梨藤太は、次々に正義党派閥の者たちを槍玉にあげ、片っ端から処刑していきます。身の危険を感じた高杉晋作は、海を渡って筑前国福岡藩に逃れ、同藩志士の月形洗蔵や女流歌人・野村望東尼の庇護を受けます。桂小五郎禁門の変以後、但馬国出石藩に身を隠したまま。井上聞多は刺客の襲撃により瀕死の重傷を負い、伊藤俊輔は別府温泉に逃げていました。つい数ヶ月前まで長州藩を動かしていた男たちが、あっという間に政治の外側に追い出されてしまいます。

 晋作がつくった奇兵隊をはじめとする諸隊も、すべて解散を命じられ、萩城下から追い出されました。彼らは長府の功山寺近くに集まり、今後の去就についての相談を繰り返しますが、なかなか意見の一致をみません。強いリーダーシップを持った人物がいなかったんですね。このときの奇兵隊総督は赤禰武人でしたが、赤禰は俗論党に取り行って隊の存続を図ろうとしていました。それを潜伏先で知った晋作は、再び長州の地に戻って俗論党打倒することを決意します。

 戻ってきた晋作は、諸隊らの駐屯地にふらりと顔を出します。このとき赤禰は不在でした。そこで晋作は、「今こそ立ち上がるべきときである」と、隊士たちに激をとばしますが、なかなか皆、乗ってきません。俗論党による粛清の嵐に、行き場を失った諸隊士たちのモチベーションはダダ下がり状態で、晋作の攻撃的な策より、赤禰の進める俗論党との融和策のほうが、現実的だと思えたのでしょうね。無理もないことだったでしょう。ここに集まる諸隊士たちはわずが80人ほどで、弱体化したとはいえ数千人はくだらない長州藩正規兵が相手では、衆寡敵せずと見るのが当然でした。

 そんな彼らの反応を、赤禰の政論に毒されているとみた晋作は、次のように吠えます。

 「赤禰とは何者なるか! 大島郡の土百姓ではないか! これに反してこの晋作は、毛利家譜代恩顧の士である。武人の如き匹夫と同一視される男児ではではない!」

 身分階級にとらわれない奇兵隊を創設した晋作の言葉とは思えない暴言ですね。同じく土百姓あがりが多数いる諸隊のかれらは、晋作の言葉にドン引きします。これまた無理もありません。晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。ドラマでは、それに近い台詞を吐いていましたね。実際の晋作は、言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。このときの晋作について司馬遼太郎氏は、小説『世に棲む日日』のなかで、「晋作という男は直感で物事を判断する資質には富んでいたが、理屈で相手にわからせるという能力に欠けていた」と分析しています。天才にありがちな欠陥かもしれません。

 そしてここで、晋作は沈黙する隊士たちに向けて、後世に有名な大演説をぶちます。

 「もし諸君が僕の意見を聞いてくれないとすれば、もはや諸君に望むところはない。ただ従来の旧誼に甘え、一頭の馬を貸してもらいたい。僕はその馬で萩へ駆けつけ、御両殿様に直諫する。もし、御両殿様に受け入れてもらえなければ、その場で腹を掻っ切り、臓腑をつかみだし、城門へそれをたたきつけて、御両殿様のご聡明をめぐらし奉ろうと存ずる。萩への途中、もし俗論等にはばまれて斬殺されるとも、あえて厭わぬ。いまの場合、萩に向かって一里ゆけば一里の忠を尽くし、二里ゆけば二里の義をあらわす。尊皇の臣子たるもの一日として安閑としている場合ではない。」

 この演説は、長州維新史料のあらゆるところに記録されているそうで、よほど当時、語り伝えられたのでしょう。高杉晋作のいちばんの見せ場といえるかもしれません。ただ、このとき諸隊士たちは晋作の迫力に圧倒されますが、この時点ではまだ、誰一人晋作とともに立ち上がろうとする者はいませんでした。まさに、たった一人の決起。ここから、晋作の奇跡の大逆転劇がはじまります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-03 16:57 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第22話「妻と奇兵隊」 ~下関戦争と奇兵隊~

 文久3年(1863年)5月、馬関海峡を通る外国船を次々に砲撃し、攘夷を決行した長州藩でしたが、当然、外国側がそのまま黙っているはずがなく、6月1日にはアメリカ軍監が下関沖に現れ、長州藩の軍監2隻を撃沈します。続いて5日にはフランス軍監2隻が下関に入ってきて、長門下関の砲台を撃破。さらに陸戦隊約250人に上陸されて砲台を占領され、長州藩の本営・慈雲寺を焼かれてしまいます。完膚なきまでに叩きのめされたといっていい惨敗でした。幼稚園児が大人に喧嘩を売ったようなもので、当然といえば当然の結果ですよね。そもそも、一橋慶喜がその場しのぎで決定した5月10日の攘夷決行命令でしたから、実行した藩はほとんどありません。ところが、長州藩だけは藩をあげて実行しちゃうんですよね。このときの長州藩について、司馬遼太郎氏は小説『世に棲む日日』のなかで、次のように表現しています。

 「長州は藩をあげて気が狂った。攘夷々々と唱えるうちに、ついにゆきつくところまで行きついたという観がある。このわずか三十六万九千石の藩が、世界じゅうを相手に宣戦布告をやってのけたようなものであった」

 まさしく、この知らせを聞いた幕府や他藩は、長州藩は発狂したと思ったでしょうね。その結果、長州は外国との軍事力の違いを、まざまざと思い知らされることになります。

 事態を重く見た藩当局は、萩にて隠棲中だった高杉晋作を登用し、軍制の再構築を命じます。このとき晋作は若干24歳。後世に「天才」の呼び声が高い晋作ですが、この藩の存続に関わる危機的状況において、このような若僧に重責を負わせるあたり、晋作の軍才というのは、当時から非凡な存在として認められていたということでしょうね。

 下関についた晋作は、6月6日、新しい軍組織の案を提唱します。事ここまで至ったからには、もはや武士の身分に限らず、町民、農民なども混じえた有志の者を選抜し、近代的な軍隊を組織しようというものでした。有名な「奇兵隊」ですね。この案は、晋作の師匠である吉田松陰の持論『草莽崛起論』、あるいは著書の『西洋歩兵論』に影響されたものだといわれていますが、この時代、こういった合理的な発想で組織が作られること自体、革命的なことでした。封建社会の秩序を守っているのは、身分制度でした。身分があることによって、社会が安定して構築されていました。ところが、晋作の構想する奇兵隊では、それを一挙になくしてしまおうというわけです。またまた、『世に棲む日日』から引用しますと、

 「もはやその瞬間から封建身分社会が崩れたことになるであろう。げんにこの『奇兵隊』から、明治維新は出発するといっていい。・・・(中略)・・・徳川封建制という巨大な石垣のすき間に無階級戦士団という爆薬を挿しこみ、それを爆発させることによって自分の属する長州の藩秩序をゆるがせ、ついに天下をも崩してしまったのである。」

 とあります。長州藩が明治維新の主役になり得たのも、この「奇兵隊」の着想があったからかもしれません。

 しかし、軍を組織するにはお金がかかります。奇策を講じることについては天才的頭脳の持ち主だった晋作ですが、金の工面はできません。そこで泣きついたのが白石正一郎という下関の豪商。正一郎は商人ながら尊皇攘夷の志を強く持ち、長州藩士のみならず、幕末志士たちの多くと交流し、そのスポンザーとなります。そんな正一郎でしたから、当然、晋作が組織した奇兵隊の結成にも惜しみなく援助し、以後も晋作を経済面で大いに支えます。ところが、あまりにも支援しすぎたため、明治維新を迎える前に破産してしまうという結果をまねいちゃうんですね。しかし、正一郎はそのことについて、少しも後悔していなかったとか。幕末の豪傑というのは、武士に限ったことではなかったようです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-01 19:39 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その15 ~福谷城跡~

端谷城跡から南西に1.5kmほど下ったところにある丘陵上に、福谷城跡があります。
現在の住所でいう神戸市西区櫨谷町一帯には、端谷城を本城として多くの支城が築かれていましたが、ここ福谷城も、その支城のひとつだったようです。

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城主はわかっていませんが、おそらく端谷城と同じ衣笠氏の一族だったと考えられています。

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現在、城跡の主郭跡らしき場所は、秋葉神社が建っています。
神社の参道ということで、登山道は舗装されていて歩いやすくなっていたのですが、かなりの急斜面で、メタボ腹のわたしは息切れしまくりです。

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この急斜面、写真で伝わるでしょうか?

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主郭跡とみられる場所にある、秋葉神社です。
ありがたいことに、境内横に物見台っぽい展望台が建てられていました。

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そこから見た西側の眺望です。
現在、この辺りは狩場台糀台という地名で、西神ニュータウンといわれ、神戸市内有数のベットタウンとなっています。
30年前は何もない山だったんですけどね。

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境内北側は、自然のままの山道になっています。
中へと進むと、土塁らしき遺構が見られます。

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そのまま更に北へ進むと、藪が拓けた場所が見えてきます。
曲輪跡か何かかな?・・・と近づいてみると・・・

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ゴルフ城・・・じゃなかったゴルフ場に出ちゃいました(笑)。
ファー!!!

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上の写真は福谷城跡の鳥瞰図
図の切れている上が、ゴルフ場になっています。
史料が乏しく城史が定かではない福谷城ですが、おそらく、天正8年(1580年)2月の織田軍の攻撃によって、本城の端谷城と共に落城したと考えられています。

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それにしても、神戸市西区や北区には、福谷、櫨谷、寺谷、名谷、伊川谷、押部谷、箕谷と、「谷」の付く地名がやたら多いですね。
で、そのほとんど場所に、かつて城があったとされています。
その谷と谷の間には、「◯◯ヶ丘」「◯◯台」といった地名が必ずあるのですが、それらのほとんどは、昭和の時代に開かれたニュータウンです。

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司馬遼太郎氏の何の作品だったか忘れたのですが、その中で司馬さんは、古来、日本人はずっと、「谷」を恵み地としてきた、ということを述べておられました。
谷には川が流れ、その川を水源に、田畑を耕してきた。
一方で谷には洪水がつきもので、人々は、天災と戦いながら、それでも谷に住み続けた・・・と。
それが、産業が発達した近代、人々は災害の多い谷を嫌って、「丘」へと移り住んだ。
で、いつの間にか、「◯◯ヶ丘」といった場所が、人々の憧れの地となった。
でも、司馬さんは、新しい地名の「丘」「台」にはまったく魅力を感じず、歴史と共に歩んできた「谷」にこそ、深い感動を覚える・・・と。
うろ覚えで申し訳ないのですが、たしか、そんな旨のことを述べられていました。
なるほどなあ・・・と。
だから、「谷」には必ずがあったんですね。
「谷」に比べたら、「丘」や「台」は安っぽい土地なんですね。
そういうわたしは、丘に住んでるんですが(笑)。

話がずいぶんそれちゃいました。
次回に続きます。



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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2015-05-07 23:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その1 ~間部老中要駕策の自供~

 安政6年(1859年)5月25日、萩から護送された吉田松陰は、6月25日に江戸桜田の長州藩邸に入り、7月9日、伝馬町牢屋敷へと移され、取り調べが始まります。松蔭の吟味を担当したのは、主に寺社奉行松平伯耆守宗秀、大目付久貝因幡守正典、南町奉行池田播磨守頼方、北町奉行石谷因幡守穆清などの5人で、幕府の司法の執行権を持つ役人がすべて揃っていました。

 松蔭にかけられた罪状は主に2つで、ひとつは、すでに捉えられていた梅田雲浜との関係、そしてもうひとつは、京都御所で見つかった落とし文との関係についてでした。雲浜は、松蔭よりもはるかに名の通った尊皇攘夷のカリスマ的志士で、「戊午(ぼご)の密勅」の下賜に関わって大老・井伊直弼の失脚を謀った咎で捕縛され、松蔭が刑死する少し前に獄中死します。その雲浜がかつて長州を訪れたとき、密談して反幕府の政治工作を企てたのではないか、というのが、松蔭にかけられた嫌疑でした。しかし、松蔭は雲浜と面会はしたものの、政治的な結託はしておらず、むしろ、雲浜という人物を快く思っていなかったようで、臆することなく否認します。

 また、幕政を批判した落とし文についても、取調官は筆跡が酷似していると追求しますが、松蔭はまったく身に覚えがなく、だいいち、囚人として蟄居の身でありながら、京のまちで落とし文などといった政治工作を行うのは物理的に不可能であり、言いがかりも甚だしい容疑でした。松蔭はいいます。
「吾性光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ」
(わたしは性来、公明正大を好む。落とし文などという隠れごとなどしない。)
と。
その堂々とした受け答えに、取調官は大いに圧倒されたようです。

 このままで終わっていれば、松蔭は大した罪には問われなかったかもしれません。少なくとも命は救われたでしょうね。しかし、ここで松蔭は、常人には理解できない行動にでます。というのも、かつて幕府老中・間部詮勝要駕を企てたことを、訊ねられてもいないのに自ら白状してしまうんですね。なぜ、そのような行動に出たのかはハッキリしませんが、井伊大老と直接話しをするための策というのは、ドラマのオリジナルの解釈であり、フィクションです。だいたいの物語などでは、取調官の巧みな誘導尋問に乗っかったというのが、共通した描かれ方です。光明正大にもほどがありますよね。司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、このときの松蔭のことを次のように書いています。

 「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。」

 取調官の権謀術数にまんまとかかったのか、あるいは、取調官の老獪さを知った上で、あえて死を決して自供したのか、いずれにせよ、松蔭は自らの行いに一点の曇りもなかったのでしょう。

 「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」

 誠意をもって話をすれば、取調官の心をも動かすことができると思ったのでしょうか?

「余は人の悪を察すること能わず、ただ人の善のみを知る」
「余はむしろ、他人を信じるに失するとも、誓って人を疑うに失することなからんことを欲す」


 これも、松蔭の残した言葉です。
~♪信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがい♪~
なんて歌がありましたが、人を信じるということと、聞かれてもしない自分の罪を白状するのとは違うように思います。短慮な失言で政治生命の危機に立たされる政治家は現代でもたくさんいますが、松蔭のそれは、短慮というよりも、むしろ確信犯的に自ら死を呼び寄せたとしか思えない失言ですね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-27 22:19 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)