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明智光秀も枯死を惜しんだ「唐崎の松」。

坂本城跡公園から1.5kmほど南下したとこにある唐崎神社に、「唐崎の松」と呼ばれる老松があります。


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唐崎は古くから景勝の地として数々の古歌などに取り上げられ、また、日吉大社西本宮にかかわる信仰や祭礼の場としても知られてきました。

加えて「近江八景」のひとつ「唐崎の夜雨」の老松との景観は、天下の名勝としてしばしば安藤広重らの浮世絵などにも取り上げられてきました。


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この日はあいにくの曇り空で、その美しい景観を望むことはできませんでした。


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こちらが、その「唐崎の松」です。

この老松は三代目の松で、大正10年(1921年)に枯死した二代目の松に代わって、その実生木を近くの駒繋ぎ場から移植したもので、樹齢は150年から200年と推定されているそうです。


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ただ、このような貼り紙が・・・。


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三代目もそろそろ終焉を向かえつつあるようです。


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伝承によると、初代の松は舒明天皇7年(635年)といわれます。

そのころ、このあたりに住んでいた琴御館宇志丸宿禰「からさき」と名付けたとされ、ここ唐崎神社の祭神で琴御館宇志丸宿禰の妻、女別當命初代「唐崎の松」を植えたとされます。

これが事実かどうかはわかりませんが、万葉集には、

「ささなみの しがのからさき さきくあれど おおみやひとの ふねまちかねつ」

という柿本人麿の歌があり、また、古今集には、

「唐崎の 松は扇の要にて 漕ぎゆく船は 墨絵なりけり」

という紀貫之の歌があることを思えば、8世紀から9世紀には、すでに初代の松が存在したことは確かなようですね。


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その初代「唐崎の松」は、天正9年(1581年)に大風によって枯れてしまったといいます。

その頃、坂本城を居城としていた明智光秀は、老松の枯死を惜しんだ歌を詠んだとされます。


「われならで誰かは植ゑむ、一つ松、心して吹け、志賀のうら風」


司馬遼太郎の小説『国盗り物語』では、坂本城を築いたときすでに唐崎の松は枯死してしまっていて、それを惜しんだ光秀は、もう一度この地に松を植えてやろうと思い立ち、琵琶湖畔中で相応の松を探索し、敵陣の浅井領から一本の松の木を持ってきて植えたというエピソードが描かれています。

以下、引用。


(植えるべきだ)とこの復古趣味の豊かすぎる男は、この松を継植することに激しい情熱を感じた。が、植える、といっても往年のそれほどの松がどこにあるだろう。

光秀はこの点、奇人といってよかった。この松さがしのために、この多忙のなかで人数を割き、湖畔や山林のなかを踏みあるかせ、遠くは比良の山頂にのぼらせたり、まだ敵地である北近江の湖岸にまで遠出させた。

ついに彼等は北方の余呉の湖の近くで姿のいい松をみつけ、近在の農夫に化けて根を掘りはじめたまではよかったが、作業中、小谷城の浅井軍に発見され、襲撃を受けてしまった。

松掘り連中は鍬をすてて船に乗り、湖心に逃げたが、三人が銃弾のために負傷した。

が、光秀はあきらめず、付近の横山城の陣地司令官である木下藤吉郎に使いをやり、松掘り作業の援護を乞うた。現場へ兵を出してくれ、というのである。

「・・・なんだと?」

藤吉郎は事情をきいてあきれた。いま織田軍は西に東に蜂起した敵のために各地で悪戦苦闘をしているというのに、松堀りのために兵を出してくれとはどういう神経であろう。

 が、藤吉郎は本来、気軽な男だ。

 同僚の頼みにはいつも軽々と引き受けてきた男だし、それに洒落っ気もある。

 「百人ばかり、出してやろう」

 と約束し、日をうちあわせた。

(中略)

このことが、岐阜の信長に聞こえぬはずはない。前線におけるもっとも有能な二人の司令官が、松一本を敵地から盗む競技にあそび呆けているように思った。

「馬鹿めっ」

と叫び、その叱咤の声を伝えさせるために、それぞれの城へ使者を急派した。

が、その程度にしか信長は怒らなかったのは、この男の奇人好みのせいであろう。

(光秀とは妙な男だ)

と、一面では変に感心したのである。


どこまでが伝承で、どこからが司馬氏の創作かはわかりませんが、光秀が坂本城内に唐崎の松に代わる老松を植えたという伝承はあるようです。

生真面目な印象の光秀ですが、こんなお茶目な一面もあったのかもしれません。

もっとも、唐崎神社の記録によると、初代の松が枯死したのは天正9年(1581年)とありますから、本能寺の変の1年前で、北近江の浅井氏ももう滅んでいます。

社伝が正しければ、司馬氏の話は時系列的に辻褄があいませんね。

いずれにせよ、もし坂本城内に松を植えた話が本当だとしても、坂本城の落城とともに戦火に消えたでしょうが。


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二代目の松は、この地が豊臣家の直轄地となり、代官としてやってきた新庄直忠が天正19年(1591年)に植えたといわれています。

そのとき直忠は、

「おのづから 千代も経ぬべし辛崎の まつにひかる るみそぎなりせば」

と、自分の手で植えた松の長寿を願う歌を詠んだそうです。


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こちらには、松尾芭蕉の歌碑があります。

「唐崎の 松は花より朧(おぼろ)にて」


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芭蕉の歌も、二代目の松を見てですね。


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「唐崎の松」の向かいには、「名勝 近江八景 唐崎の夜雨」と刻まれた石碑があります。

が、あいにく小雨がぱらつく曇天で、美しい景観とはいえませんでした。

残念。


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三代目「唐崎の松」も、その樹勢に翳りが見えはじめているようですが、1400年近くこの地に受け継がれてきた松ですから、やがて四代目、五代目に引き継がれながら、未来永劫この地にあり続けることでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-05 00:10 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その9 <井伊直弼像、歌碑>

「その8」のつづきです。

彦根城東側の玄宮園の南にある桜橋駐車場の横の金亀児童公園に、幕末の幕府大老・井伊直弼が建てられています。


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井伊直弼は文化12年(1815年)に、彦根藩第13代藩主・井伊直中14男として彦根城二ノ丸の下屋敷(槻御殿)に生まれます。

幼い頃から和歌や槍術などを学び、文武両道に優れた聡明な子どもだったといいますが、兄が13人もいて、しかも側室の子であったため、養子のもらい手もなく、ましてや藩主の座が回ってくることなど考えられず、天保2年(1831年)に父の直中が亡くなると、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間300俵の部屋住みとして過ごします。

その邸宅を、直弼は自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けました。

この不遇の時代に、直弼は国学、禅、茶道、歌道、絵画、能楽、兵学、居合、槍術等をとことんまで修めたそうで、この頃、茶道の「ちゃ」、歌道の「か」、鼓を打った時の音の「ぽん」をとって、「ちゃかぽん」とあだ名されたそうです。

ところが、弘化3年(1846年)に兄の第14代藩主・井伊直亮の世子であった井伊直元(直中の11男で、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定し、嘉永3年(1850年)、直亮の死去にともない、家督を継いで藩主となります。

なるはずのなかった藩主の座がまわってきたんですね。


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藩主となった直弼は、もともと聡明な人物だったわけですから、その能力を発揮し、名君とうたわれました。

その直弼が幕府内で頭角を現したのは、嘉永7年(1854年)の2度目の黒船来航のときでした。

当時、有力藩主が集まって幕政に関与する溜間詰(たまりのまづめ)大名という集いがあり、直弼はその筆頭という立場でした。

ペリー艦隊来航に際して直弼は、溜間詰大名筆頭として開国を主張し、鎖国の維持と攘夷を主張する前水戸藩藩主・徳川斉昭激しく対立します。

結局、幕府は米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印を、朝廷の勅許を受けるということで事態の打開を図ろうとします。
また、折から幕府内では、将軍継嗣問題よる対立も深まっていました。

幕政改革を求める雄藩藩主らは、斉昭の子で英明と噂されていた一橋慶喜(のちの第15代将軍・徳川慶喜)を支持し、一橋派と呼ばれていました。

これに対して、系統重視の幕府主流派は紀伊藩主・徳川慶福(のちの第14代将軍・徳川家茂)を推し、南紀派と呼ばれます。

一橋派は、斉昭を中心に福井藩主・松平慶永(春嶽)や薩摩藩主・島津斉彬らで形成され、一方の南紀派は、直弼をはじめ、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤ら溜間詰大名が中心でした。

両者の対立は条約調印問題と将軍継嗣問題という2つの政治的対立によりさらに深まっていきますが、そんななか、安政5年(1858年)4月、直弼は大老職に電撃就任します。


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大老となった直弼は、その権限を遺憾なく発揮して、かなり強引な政務を執り行います。

孝明天皇(第121代天皇)の勅許が得られずに止まっていた日米修好通商条約は、「国家存亡のときにあってやむなし」という直弼の判断により、勅許のないまま調印が行われました。

そして、その直後には、自らが推していた徳川慶福を次期将軍に決定します。

当然のごとく、この強引な手法には大きな反発がありましたが、直弼はその反発に対して、反対勢力を徹底的に処罰するというさらに強引な手法で答えます。

その強引さたるや、抵抗勢力に刺客を送った小泉純一郎元首相の比ではなく、幕臣、大名はもちろん、市井の学者や志士に至るまで、あらゆる抵抗勢力の一切排除を断行しました。

そのなかに、政敵である斉昭がいたのは言うまでもありません。

斉昭は国許永蟄居の処分となり、政治生命を断たれました。

世に言う、「安政の大獄」です。


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政敵の弾圧に成功した直弼は、さらに水戸藩に圧迫を加えます。

幕府は水戸藩を威嚇して、安政6年(1859年)に朝廷より同藩に下った勅諚(条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っているということが記された書状)の返上を迫りました。

「勅諚」とは天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。

ときの帝・孝明天皇(第121代天皇)は元来、異国人の入国を病的なまでに嫌い、直弼が勅許を得ずに調印した日米修好通商条約締結を知って激怒しました。

そんな天皇の意志を利用し、薩摩の西郷吉之助(隆盛)や水戸藩士など先の将軍継嗣問題において失脚した一橋派の志士たちは、公卿への工作を行い、直弼の大老職の免職、徳川斉昭の処罰の撤回などを呼びかけ、形成の挽回をはかろうとします。

その工作により天皇を動かして出されたのが、この勅諚でした。

これが幕府にとって面白くないことであったのは言うまでもありません。

この勅諚は「戊午(ぼご)の密勅」と呼ばれ、直弼をはじめ幕府首脳部に強い危機感をもたらし、安政の大獄の引き金になったとも言われています。

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幕府の水戸藩に対する勅諚返上命令を受けて、水戸藩内では大紛争が巻き起こり、幕府の指令に忠実に従おうとする鎮派と、断固として返上反対を訴える激派とに二分します。鎮派は主に藩首脳陣で、激派の者たちは主として下級の藩士層でした。

藩内の対立が激化するなか、激派の中心人物だった高橋多一郎金子孫二郎関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。
この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。

雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。

駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。

襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。

享年46。

幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

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この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。

水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。

この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。

その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。


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作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。


「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」


この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは事実でしょうね。


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彦根城佐和口門の近くには、直弼の歌碑があります。


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井伊直弼に対する後世の評価は真二つにわかれます。

ひとつは、現実味のない攘夷論に与せず、客観的な視野を持って開国にふみきった開明的な政治家という評価と、もうひとつは、外圧に屈して違勅調印を行い、安政の大獄を起こして有能な人材を殺した極悪非道の政治家という批判です。

はたしてどちらが正しい評価でしょうか。

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私は、そのどちらでもないと思います。

開国にふみきった経緯で言えば、彼は決して積極的に通商条約に調印したわけではなく、外圧におされてやむなく調印したのであり、その証拠に、条約はいわゆる不平等条約でした。

彼が行った開国は、決して先見の明といえるものではなかったでしょう。

一方で、勤王の志士たちを殺した悪逆無道の政治家という評価は、これもまた、客観性を欠いた批判といえるでしょう。

幕府大老として幕権を守ろうとするのは当然のことで、違勅調印に対する批判にしても、のちの王政復古史観皇国史観の立場からの見方で、天皇の意志を絶対視する考えの上からの批判といえます。

幕閣である直弼の立場では、天皇の意思よりも幕府を重んじるのは当然のことでした。

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私は、井伊直弼批判の声をもっとも大きくしたのは、安政の大獄で吉田松陰を殺したことだと思います。

松蔭の教育を受けた者たちが、やがて明治の世の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、彼らの恩師である松蔭を殺した井伊直弼という人物は、極悪人というレッテルを貼られ、それに対する異論は封じられたのでしょう。

その意味では、直弼の最大の失策は、松蔭の処刑だったように思います。

もし、島流しぐらいにしておけば、後世にそれほど避難されることはなく、現代の小説やドラマでも、違った描かれ方をしていたかもしれません。


あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな


この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしているといわれます。

この歌を詠んだ2ヶ月後、直弼は凶刃に倒れました。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-22 23:55 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その31 「天誅組終焉之地_吉村寅太郎の墓」

シリーズ最後です。

足を負傷したために一行から遅れていた吉村寅太郎は、傷が悪化して歩行困難となり、駕籠に乗せられて運ばれていましたが、文久3年9月27日(1863年11月8日)、津藩兵に発見されて射殺されました。

吉村の死によって、他の兵たちも相次いで戦死するか捕縛され、ここに天誅組は壊滅しました。


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現在、吉村が討死した鷲家谷には、「天誅組終焉之地」と刻まれた大きな石碑が建てられています。


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ここを訪れたのは、平成30年(2018年)11月18日。

このシリーズを始めて、ここだけはどうしても彼らが死んだときと同じ紅葉の季節に来たいと思い、気候を見ながら満を持して訪れました。


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でも、真っ赤という状態ではなかったですね。

紅葉はその年の気温の変化などで変わるそうですから、この年は真っ赤に染まる条件ではなかったのかもしれません。


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石碑の背後には鷲家川があり、向こう岸にわたる橋があります。

この橋の向こうに、吉村寅太郎原瘞處があります。

「原瘞(げんえい)」とは最初に埋めたお墓という意味です。


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鷲家川です。


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橋を渡ると、説明板があります。

その向こうに、広い空間が見えます。


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ここが吉村の原瘞處です。

説明板によると、吉村はこの大きな岩の裏手の下流30m左岸の山際にあった薪小屋に潜んでいたところを、津藩兵の金屋健吉によって銃殺されたといいます。


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吉村寅太郎は土佐勤皇党出身で、その後、党を離脱して脱藩し、福岡藩士の平野国臣、久留米藩士の真木和泉、庄内藩士の清河八郎など、他藩の過激な尊攘派と深く親交します。

文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)の際には、それに連座して捉えられ、土佐に引き渡されて8ヶ月間投獄されますが、やがて政情が尊攘派に有利になると釈放され、藩から自費遊学の許可を得て京へ上ります。

同年8月、孝明天皇大和行幸に合わせて天誅組を結成し、公家の中山忠光を連れ出して五條へ向かうんですね。

しかし、ほどなく政情が尊攘派に不利になると、一転して逆賊となったわけです。


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吉村の遺体は村人の手によってこの岩の根元に埋葬され、土方直行筆によって墓碑が建てられましたが、明治29年(1896年)に「その26」で紹介した明治谷墓所改葬されたあとは、この碑は原瘞の碑として吉村を偲ぶ記念碑となっています。


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吉野山 風に乱るる もみじ葉は 

わが打つ太刀の 血煙と見よ


吉村の辞世です。

わたしは、幕末の志士たちの辞世の句のなかで、この吉村の歌がいちばん心に響きます。

なんという凄まじい辞世でしょう。

この歌の情景を知りたくて、わたしは紅葉の季節にここを訪れたかったんです。


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吉村の太刀の血煙です。


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天誅組のメンバーに吉村をはじめ土佐藩出身の志士たちが最も多かったのは、そのお国事情にあったといっていいでしょう。

幕末の土佐藩の事情は複雑でした。

いわゆる「郷士」と呼ばれる下級武士たちは熱心な尊皇攘夷運動の奔走しながらも、藩そのものは佐幕でした。

そのあたりが、長州藩の松下村塾系の若者や、薩摩藩の誠忠組の面々たちとは決定的に違ったところだったでしょう。

そんななか、あくまで一藩勤皇を目指した土佐勤皇党の首魁・武市半平太(瑞山)らは、結局は藩によって処刑され、藩に頼らず脱藩して奔走した吉村ら浪士たちも、そのほとんどが維新を見ることなく非業の死を遂げます。

彼ら土佐系の脱藩浪士たちが志を訴えるには、このような過激な道しか思いつかなかったのでしょうね。


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とはいえ、彼らがやったことは、どう考えても義挙とは言えず、単なるテロリズムでした。

義挙ではなく暴挙だったとわたしは思います。

妄信的に尊皇攘夷を唱え、幕府の役人というだけで何の罪もない代官を殺害して首を晒し、五條や吉野の民衆をも巻き込み、やがて自滅していった。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

天誅組をして「維新の魁」などと言う人がいますが、わたしは賛同できませんね。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。


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幕末の一流の志士たちのとっては、「尊皇攘夷」富国強兵の術であり、倒幕の手段にすぎませんでした。

だから、明治維新が成立するや否や新政府は「攘夷」を捨て、「尊皇」は、新政府の公約だったため一応は形だけ残しましたが、後年の帝国主義の天皇制とは違って、多分に形式的なお飾りでした。

天皇は尊ぶべき存在ではあっても担ぐべき存在ではないことを、一流の志士たちはちゃんとわかっていたんですね。

ところが、二流以下の志士たちは、これをほとんど宗教のように信じ、狂気と化していった。

司馬遼太郎さんは海音寺潮五郎さんとの対談形式の著書のなかで、そんな尊攘志士たちを神道的な国粋主義者と定義し、次のように述べています。


「国粋主義者というのは、つきつめてしまえばロマンティシズムであり、それに多少の評価を与えるとすれば、これは美学であって、とてもとても政治の救済にはならないし、その方策もなにも持っていない。もっていないだけにその信奉者の心情は常に悲痛で、発するところ、必ず暴発といった行動になる。」


まさしく、天誅組のこと評しているかの記述です。


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また、同じく海音寺さんとの対談のなかで、司馬さんはこうも述べています。


「幕末維新の諸事件の中で、天誅組がいちばんおろかしい感じがします。」


手厳しいですが、わたしもそう思います。


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天誅組の変は、幕府が倒れて明治に元号が変わる5年前の出来事でした。

もう少し大局を観て待っていれば、もっと違った歴史上の役割が彼らにもあったかもしれませんが、一見、犬死にのように思える彼らの屍のひとつひとつの積み重ねの上に維新が成立したとするならば、彼らがここで死んだことも、歴史上のひとつの役割だったのかもしれません。

その意味では、天誅組の暴挙は、歴史の必然だったのかもしれませんね。


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気がつけば「その31」まで続きました。

この稿にて、「天誅組の足跡を訪ねて。」のシリーズを終わります。




「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
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天誅組の足跡を訪ねて。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-16 00:38 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

緒方洪庵の適塾をたずねて。 <後編>

<前編>の続きです。

建物内はひととおり見学したので、建物の外を歩いてみましょう。


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説明板によると、表屋の建物は寛政4年(1792年)の北浜大火後まもなくの建築と考えられ、元は町筋に面する商家の形であったようですが、その後、弘化2年(1845年)に緒方洪庵が買い上げた際に若干の改造が行われたと見られています。


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建物の東側に、庭のような空間があります。


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入口の看板。

文字が消えて読めない(笑)。


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庭というか、公園ですね。


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近代的なビルに囲まれ、今も残る町家風のたたずまい。

不思議な空間ですね。


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第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)にこの建物は国に寄付されることになり、現在は大阪大学が所有、管理しています。

洪庵の子息や適塾門下生によって明治初期に設立された大阪仮病院大阪医学校が、やがて大阪帝国大学となり、現在の大阪大学医学部につながっているからだそうです。


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障子窓が開いているところが、前編で紹介した塾生大部屋です。


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続いて建物西側にやってきました。


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西側は広い公園になっていて、緒方洪庵の銅像が座しています。


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緒方洪庵は文化7年7月14日(1810年8月13日)、備中足守(岡山市足守)藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれました。

17歳のときに大坂に出て中天游の私塾「思々斎塾」に学び、21歳で江戸に出て坪井信道、宇田川玄真らに学ぶと、さらに26歳で長崎へ遊学して医学、蘭学を学び、29歳のときに大坂に帰って医業を開業しました。

このとき、同時に適塾を開きます。

同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚し、のち6男7女をもうけました。

その後、医師として種痘の普及や天然痘の予防などに尽力し、日本における西洋医学の基礎を築くとともに、教育者としては、福沢諭吉大村益次郎など幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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人柄は温厚篤実を絵に描いたような人物だったようで、福沢諭吉曰く「誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。


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故・司馬遼太郎氏が小学校の国語教科書用に書いた『洪庵のたいまつ』の冒頭で、司馬氏は洪庵について次のように語っています。


世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。

ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。

緒方洪庵のことである。

この人は、江戸末期に生まれた。

医者であった。

かれは、名を求めず、利を求めなかった。

あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。

そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。

(『洪庵のたいまつ』より)


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また、司馬氏の小説『花神』では、こうも言っています。


なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。

洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。

当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。

洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。

その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。

洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。

適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。

「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。

洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。

(『花神』より)


司馬さんはよほど洪庵に惚れ込んでいたようですね。


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ここ適塾で学んだ門下生たちが、のちに医学、兵事、政治など各方面で活躍し、そしてそれが現在の私たちの生活につながっています。

まさに、洪庵のたいまつはつながっているんですね。

先述した司馬氏の『洪庵のたいまつ』の文末は、こう結んでいます。


洪庵は、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。

かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。

弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。

やがてはその火の群が、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。

後生のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。

(『洪庵のたいまつ』より)


ここ適塾は、近代日本のたいまつ発祥の地といえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-15 07:53 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その6 <本丸>

「その5」の続きです。

高取城跡本丸下を1周して、いよいよ北側から本丸に登ります。


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まず登り始めて、右へ曲がらされます。


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右へ曲がると、またすぐ右へ曲がらされます。


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右へ曲がると、今度は左へ曲がらされます。

当時はここに城門があったそうです。


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左へ曲がると、またすぐ突き当りを左に。

本丸下と本丸の高低差が大きいので、何回も曲がらされます。

これは堅固ですね。


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ここを曲がると、ようやく本丸らしき場所が見えます。


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振り返ると、向こうに行き止まりの道があります。


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そして、本丸です。


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本丸からもう一度、虎口を見下ろします。

いかに複雑で堅固な造りといなっているかがわかりますね。


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本丸部分の大きさは東西に75m、南北に60mあります。


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天正17年(1589年)に豊臣秀長の命令で高取城に入った本多利久でしたが、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、その功で、徳川の世になったあとも本多氏は引き続き高取城を任されていました。

しかし、その本多氏が三代で断絶すると、寛永17年(1640年)に徳川家譜代の家臣であった植村家政が、本多氏と同石高の2万5千石の大名として入り、高取藩初代藩主となりました。

植村氏は、酒井氏本多氏(本多利久の本多氏とは関係ありません)らと共に三河時代から松平氏に仕えた古参で、徳川家康の下で抜群の戦功を挙げたことから、歴代藩主に家康の「家」を名乗ることを許されていた名門譜代でした。

以後、明治維新まで植村氏が14代の長きに渡って高取藩を治めます。

前稿でも紹介した司馬遼太郎さんの『街道をゆく』のなかで、司馬さんは高取城の存在価値についてこう分析しています。


城主が越智氏から筒井氏、本多氏と変わるうちに規模も大きくなり、やがて徳川初期に植村氏が入って、この山奥の急峻に累々と石垣が組みあげられ、近代的な築城形式に模様替えされた。徳川幕府がここに外様大名などを置かず、もっとも信頼できる譜代大名を封じ、当時すでに大時代だったこの山城をわざわざ補修改築させたのは、わかるような気もする。

幕府の近畿地方の防衛戦略という大きな視野からの判断だったかもしれない。

徳川幕府の仮想敵は、家康の代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。

<中略>

家康は、島津氏が京都に入って近畿をおさえ、天皇を擁して幕府と対決するだろうという想像をもち、死の寸前までそれが気がかりだったといわれている。

架空の状況において、島津氏がもし近畿をおさえた場合、大和の幕軍は平城の郡山城をすててこの高取城にこもり、他の方面の幕軍の巻きかえしを待つという戦略があったのではないか。


高取城は江戸時代には時代遅れの山城でしたが、徳川幕府はこの城を重要な拠点として考えていたということを、植村氏を封じたという事実が雄弁に語っています。


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本丸の説明板です。

高取城本丸には大天守、小天守、鉛櫓、煙硝櫓があり、それらを多門櫓で連結した連立式天守でした。

これは姫路城和歌山城などに見られる形式ですが、山城の天守としては、稀有な存在といえます。


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その大天守台石垣が北西隅に見えます。


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大天守台です。


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前稿で見た高石垣の上が、ここです。


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高取城天守台には通路が約3mの穴蔵が設けられています。


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大天守台に上がってみましょう。


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大天守の大きさは東西に約16m、南北に約14mの規模で、「御天守」と呼ばれていました。

『和州高取城山之絵図』によると、外観は1重目は千鳥破風、2重目の中央に出窓形式、3重目には軒唐破風があり、外壁は白漆喰総塗籠であったようで、外観3重、地下1階の大天守が推定されています。

また、大天守台の東側には付櫓台が属しており、2重の「具足櫓」が建っていたと考えられています。


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大天守台からさっきの穴蔵を見下ろします。


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大天守台から見た本丸。

手前に見える迷路のような石垣は、本稿の最初に紹介したジグザグ虎口です。


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まさに迷路です。


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天守台から二ノ丸を見下ろします。


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その向こうの西の空には、大和国と河内国の国境にある金剛山葛城山が見えます。

あの中腹に、楠木正成が築城した千早城があります。


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雲が低い。


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大天守台の前には、井戸跡の遺構があります。

5m×3m巨大井戸です。


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本丸南側には、多門櫓台跡石垣が伸びています。


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その石垣上からの南側眺望。

後醍醐天皇(第96代天皇)が南朝を開いた吉野山が見えます。


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こちらも雲が低いですね。


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明治4年(1871年)の廃藩置県により、全国の多くの城郭が廃されることとなり、建物の大部分が取り壊されましたが、標高600m近い山城であったため都市計画などに巻き込まれることはなく、廃城から150年近く経った現在でも、こうして壮大な石垣の遺構を見ることができるんですね。


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さて、本丸まで制覇しました。

まだまだ載せたい写真が山ほどあるのですが、キリがないのでこのへんで終わりにしたいと思います。


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ちなみに、高取城をCG再現した画像がこれです。

(引用元:高取城CG再現プロジェクト

こんな城がもし現存していたら、間違いなく世界遺産だったでしょうね。


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あっ、下山中に立ち寄った場所があります。

もう1回だけおお付き合いください。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-24 23:40 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その5 <二ノ丸上段~本丸下>

「その4」の続きです。

太鼓櫓跡新櫓跡をあとにして東側に向かうと、ど迫力の高石垣が目に入ります。


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ここは二ノ丸の一段高くなっている場所で、本丸のすぐ下。

二ノ丸上段といえば良いのか、本丸下段といえばいいのか、まあ、呼び方なんてどっちでもいい。

とにかく圧巻のロケーションです。


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正面の巨大な高石垣は天守台石垣

高取城には大小ふたつの天守があったそうで、この石垣は大天守石垣。


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大天守石垣の前にある巨木

樹齢はわかりませんが、かなりデカイです。

あるいは、往時を知っているかもしれません。


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大天守石垣の前には、石碑が建てられています。


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大天守石垣を見上げます。


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本丸の石垣は打込み接ぎです。


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本丸高石垣を1周してみましょう。


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作家、司馬遼太郎さんはその著書『街道をゆく』のなかで、高取城を訪れたときの感想を次のように述べておられます。


高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていていい。

その石垣も、数が多く、種類も多いのである。

登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳としている。

それが、自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持がすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。


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こちらは南西の出隅。

算木積みになっています。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。

この上に、小天守があったとされます。


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南側石垣。


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東南出隅。


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東側石垣。


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花には詳しくないのでわかりませんが、ユリの仲間でしょうか?


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北東部の本丸下にやってきました。


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司馬さんのいうように、自然林と石垣が同化したような神秘的な空間が広がります。


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まるでジブリアニメ『天空の城ラピュタ』神殿のようなロケーションです。

近年、兵庫県但馬地方の竹田城跡「天空の城」として有名になりましたが、あちらは、雲海の上に浮かぶ城跡という意味での天空の城で、アニメに出てくる神殿のロケーションでいえば、高取城のほうがイメージに近いです。

あるいは、宮崎駿氏も、ここを訪れたことがあったのではないでしょうか?


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北側の本丸へ通じる虎口前に来ました。

が本丸を誘導してくれます。


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これ、切り株の上に彫刻を乗せているのではなく、自然の木から彫り出したもののようです。

スゴイ!


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こちらのお城も、同じく木を彫り出したものです。


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さて、「その6」では、いよいよ本丸に登ります。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-23 03:58 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

伝馬町牢屋敷跡・処刑場跡(吉田松陰終焉之地)

東京メトロ日比谷線伝馬町駅を降りて地上に上がったところに、何やら古い石碑と説明板があります。

石碑を見つけるとついつい足を止めてしまうわたしですが、そこには、「吉田松陰先生終焉地」と刻まれた文字が。


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東京に土地勘のないわたしですが、「伝馬町」という地名には何となく聞き覚えがあったのですが、石碑を見て思い出しました。

そうだ、処刑場があったところだ!・・・・と。

この日わたしは別の目的で伝馬町駅を降りたのですが、こういうものを見つけてしまうと、立ち寄らないと気がすみません。


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駅の北側にある大安楽寺の門横に、「江戸伝馬町処刑場跡」と刻まれた石碑があります。


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まるで鮮血で書いたような文字ですね。


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境内には、「江戸傳馬町牢御椓場跡」と刻まれた石碑も。

つまり、ここは牢獄死刑場が一緒になった拘置所だったわけです。


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大安楽寺の北側にある十思公園も、伝馬町牢屋敷の敷地でした。

伝馬町牢屋敷は、慶長年間(1600年頃)から明治8年(1875年)まで270年にわたって数十万人の囚人を収容しました。

幕末期には、安政の大獄で捕まった吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らもここに収監され、処刑されています。


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公園内には、発掘された牢屋敷の石垣が展示されています。


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石の上にのってい乗っているのは、公園で遊んでいた親子の荷物です。

除けてくれないかなぁと思いながら待っていたのですが、その気配がなさそうなので、やむなくそのまま撮影(苦笑)。

まあ、公園なので仕方ありません。


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公園の片隅には、「松陰先生終焉之地」と刻まれた石碑と、辞世の句が刻まれた歌碑、そして顕彰碑が並んで建てられています。


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安政6年5月25日(1859年6月25日)、萩から護送された吉田松陰は、6月25日(7月24日)に江戸桜田の長州藩邸に入り、7月9日(8月7日)、ここ伝馬町牢屋敷へと移され、取り調べが始まりました。

松蔭にかけられた罪状は主に2つで、ひとつは、すでに捉えられていた梅田雲浜密談して反幕府政治工作を企てたのではないかという疑いで、そしてもうひとつは、京都御所で見つかった幕府批判の落とし文を書いたのではないかという嫌疑でした。しかし、松陰はそのどちらも身に覚えがなく、臆することなく否認します。


「吾性光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ」

(わたしは性来、公明正大を好む。落とし文などという隠れごとなどしない。)


・・・と。

その堂々とした受け答えに、取調官は大いに圧倒されたようです。

このままで終わっていれば、松蔭は大した罪には問われなかったかもしれませんが、しかし、ここで松蔭は、常人には理解できない行動にでます。

というのも、かつて幕府老中・間部詮勝要駕を企てたことを、訊ねられてもいないのに自ら白状してしまうんですね。

なぜ、そのような行動に出たのかはハッキリしませんが、だいたいの物語などでは、取調官の巧みな誘導尋問に乗っかったというのが、共通した描かれ方です。

光明正大にもほどがありますよね。

このときの松蔭について、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では次のように書いています。


「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。」


取調官の権謀術数にまんまとかかったのか、あるいは、取調官の老獪さを知った上で、あえて死を決して自供したのか、いずれにせよ、松蔭は自らの行いに一点の曇りもなかったのでしょう。


「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」


元は孟子の言葉で、松蔭の語録でもあるこの言葉どおり、誠意をもって話をすれば、取調官の心をも動かすことができると思ったのでしょうか?


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松蔭の取り調べは、その後、9月5日(9月30日)、10月5日(10月30日)と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。

しかし、10月16日(11月10日)の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。

そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。

これに松蔭は激しく異をとなえます。

もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。


「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」

(全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。

その話によると、10月5日(10月30日)の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。

その刑を下したのは、大老・井伊直弼だったと。

死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。

その冒頭の句が、この石碑に刻まれた有名な歌です。


「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

(この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


この歌が、その後、松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。


伝馬町牢屋敷跡・処刑場跡(吉田松陰終焉之地)_e0158128_20202975.jpg


『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日(11月21日)朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。

そして駕籠にてここ伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。

享年30。

このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。


「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」


こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。

そして、もうひとつ。


「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

(子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の報せが父母に届いたら、なんと思うだろう)


これも有名な辞世の句ですね。

哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。

後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。

なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-11 02:15 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

大久保利通終焉の地「紀尾井坂の変」跡地にて。

大久保利通が殺されたのは明治11年(1878年)5月14日でした。

場所は紀尾井坂付近だったといわれ、その地名をとって、この事件を「紀尾井坂の変」と呼びます。

紀尾井坂とは、現在の参議院清水谷議員宿舎前の坂道です。

江戸時代、このあたりは紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の大名屋敷があったことから、その頭文字をとって「紀尾井」と呼ばれるようになったそうです。

ただ、実際に大久保が襲撃されたのは紀尾井坂ではなく、少し先へ進んだ清水谷のあたりだったことが現在では立証されているそうです。

現在、その近くの清水谷公園内には大久保の哀悼碑が建てられています。


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事件当日の午前8時、大久保は明治天皇に謁見するために裏霞ヶ関の自邸を出発し、赤坂の仮皇居に向かいました。

共は下僕で馭者の中村太郎と、同じく下僕で馬丁の芳松の二人だけでした。

本来なら、大久保邸から赤坂仮皇居に向かうには、紀尾井坂を通るより赤坂見附を通ったほうが近道だったのですが、なぜか大久保はこのコースを選びました。

その理由は、赤坂見附は人通りが多くて危険だから、あえて人通りの少ないこの道を選んだと言われていますが、暗殺団がこの道で待ち伏せしていたことから考えれば、大久保は日常的にこの紀尾井坂コースを使っていたのでしょう。


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大久保を乗せた馬車が紀尾井町一丁目に差し掛かったとき、2人の書生が現れて通路を遮りました。

馬丁の芳松が馬車を降りて、脇によって道をあけるよう注意しますが、そのとたん、男たちは刀を抜き、いきなり馬の前脚を薙ぎ払いました。

この襲撃を合図に身を潜めていた4人の男が一斉に飛び出してきました。

刺客は全部で6人

芳松は背中から斬りつけられるもそれをかわし、助けを呼びに馬車を離れました。

馭者の中村は馬車から飛び降りたところを、刺客に一刀のもとに斬り下げられ、即死しました。

刺客たちは馬車によじ登り、中にいた大久保に斬りつけました。

このとき大久保は書類に目を通していたといい、一説によると「待て!」といって書類を風呂敷に包んだといいます。


大久保の最後のことばは、「無礼者!」という一喝だったといいます。

その後、大久保は馬車から引きずり出され、めった切りに斬りつけられました。

そして最後のトドメは喉に短刀が突き刺され、その短刀は地面にまで達していたといいます。

大久保は全身16ヶ所に刀を受けていましたが、その大半は頭部に集中していたといいます。

事件直後に現場にかけつけた前島密の証言によると、大久保の遺体は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」状態だったといいます。

さすがに、ドラマや映画ではそこまで描けません。


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実行犯は、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、および島根県士族の浅井寿篤の6名、いずれも太政官政治に不満を持つ不平士族でした。

彼らにとってこの襲撃は暗殺ではなく、政治でした。

なので、大久保を殺害するとすぐに自首しています。

彼らは、大久保さえ斃せば、やがて天下は転覆して世直しされると信じていました。


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この大久保襲撃については、まったく寝耳に水だったわけではなく、事前に予想できたことでした。

彼らは闇討ちのような卑怯な行為ではないことを主張するため、事件の4、5日前に大久保に宛てて殺害の予告状を送っています。

しかし、これを見た大久保は顔色ひとつ変えることなく、まったく意に介する様子もなかったといいます。


また、島田らが石川県を発ったとき、石川県令がすぐさま警戒すべきことを内務省に通報しており、そのことは大久保の耳にも届いていました。

さらに内務省は、警視庁に大久保内務卿の護衛を要請しますが、大警視の川路利良は、その必要はないとして、「加賀の腰抜けに何ができるか」と、相手にしなかったといいます。

これは、薩摩人特有の他藩蔑視の通癖が露骨に出た言葉ともいえますが、この当時、政府の要人警察が護衛するという習慣がまだなかったことと、他の大官に護衛がついていないのに、大久保だけに護衛をつけるのは、世間体から見て大久保を臆病者にすることになり、大久保を侮辱することになるといった思いもあったようです。

明治維新から10年以上が経ったこの時代でも、大官は役人である以前に、ひとりのサムライだったんですね。


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有名な話ですが、大久保は事件当日の朝、自邸に挨拶に訪れた福島県令の山吉盛典に対して、まるで遺言とも取れる明治30年計画を語ったといいます。

それによると、明治元年から10年を創業の時期として、戊辰戦争士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期と定義し、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものでした。

しかし、結局は第2期の入り口で凶刃に倒れたわけです。


また、どういうわけか、大久保はこの日、西郷隆盛からもらった古い手紙を2通、懐に忍ばせていたといいます。

それは、いずれも二人が蜜月の間柄だった頃の手紙で、この手紙を持参していた話は、事件後ほどない5月27日付の東京日日新聞に報ぜられています。

大久保がどういう意図で手紙を持参していたかはですが、大久保は西郷を死に至らしめたことでよほど悩み苦しんでいたようで、自分と西郷とは、かつて深い絆で結ばれていたということを、しきりに人々に話したがっていたといいます。

あるいは、近々自分が殺されるかもしれないことを想定し、その死後、自分と西郷との友情関係世に知らしめるために手紙を持ち歩いていたのでしょうか。

その真偽はいまとなっては確認しようがありません。


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作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、大久保の死についてつぎのように述べています。


「結局は大久保とその太政官が勝ち、西郷がほろびることによって世間の士族一般の怨恨や反乱への気勢は消滅したかにみえた。大久保とその権力はほとんど絶対化するかの勢いになった。日本における政治風土として、権力が個人に集中してそれが絶対化することは好まれず、それに対する反対勢力が相対的に公認されている状態が好まれる。権力が個人に集中して絶対化した例は日本の歴史でまれであったが、遠くは織田信長の末期、近くは井伊直弼の大老就任後がそうであったであろう。結局は爆走する絶対権力をとどめる方法がないままに暗殺者がそれを停止させることが、ほとんど力学現象のようにして生起する。」


大久保の死も、あるいは歴史の必然だったのかもしれませんね。


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また、作家の半藤一利氏はその著書『幕末史』のなかで、


「戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。」


と述べておられています。

しかし、わたしは、西郷は道義主義者だったと思いますが、大久保が超合理主義者だったとは思いません。

むしろ、西郷以上に情に厚い熱血漢だったと思っています。

ただ、その情は、西郷のように人に対してではなく、「国家」に向けられた。

彼は、彼らが作った新国家という作品を、どんなことをしても守りたかった。

その国家建設に抗おうとする勢力は、たとえそれが竹馬の友であっても、容赦なく叩き潰した。

これは、大久保の政治家としての信念だったのでしょう。

日本近代史において、大久保利通ほどの信念の政治家は、それ以前もそれ以後もいないとわたしは思っています。


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西郷隆盛が西南の城山に散ったのが、この8ヶ月前の明治10年(1877年)9月24日、さらにその4ヶ月前の5月26日には、大久保、西郷と並んで維新三傑の一人に挙げられた木戸孝允もこの世を去っていました。

わずか1年足らずの間に、維新の象徴的存在だった3人が揃ってこの世を去ったわけです。

ひとつの時代が終わりを告げました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-30 00:34 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

上野の西郷さん

明治維新150年にあたるメモリアルイヤーの今年、平成30年(2018年)の大河ドラマは『西郷どん』でしたが、その第1話のオープニングに登場した上野恩賜公園西郷隆盛像についての起稿です。

今年の春、たまたま東京に行く機会を得たので、ついでに足を運んできました。


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周知のとおり、西郷隆盛がこの世を去ったのは明治10年(1877年)9月24日、西南戦争における反乱軍としての戦死でした。

そのため西郷は「逆賊」汚名を着せられることになりますが、維新最大の功労者である西郷の名声は死後も落ちることはなく、名誉回復を求める声が高まるなか、明治22年(1889年)、明治天皇の意向や黒田清隆らの尽力もあり、大日本帝国憲法が公布される大赦によって「逆賊」の名を赦され、正三位の位が追贈されます。

これを受けて、西郷の旧友である吉井友美が西郷像の建立を計画。

御下賜金(天皇から賜ったお金)や有志が集めた寄付金を資金として、明治26年(1893)に起工、明治30年(1897年)に竣工したのが、この「上野の西郷さん」です。


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なぜ上野に西郷像が建てられたかというと、当初は皇居内に建てる計画だったそうですが、一時は朝敵となったことを理由に猛反対する声が上がり、やむなく、かつて西郷が指揮官として功を上げた上野戦争の舞台であり、皇室の御用地である上野に建てられることになったそうです。


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また、その姿についてですが、当初は騎馬像として設計されたものの資金が足りず、次に、陸軍大将の正装である軍服姿の立像で計画され、雛形まで出来あがっていたそうですが、これも、とある筋からの猛反対が起こり、結果、現在の着流し姿になったそうです。

反対派の理由は、西郷の高い人気を背景に反政府的機運を醸成しかねないとのことで、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする政治的意図があったとされます。

おそらくそのとおりだったでしょうね。


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除幕式の際にはじめて銅像を見た西郷夫人の糸子が、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかった)」と言って周囲を慌てさせたという有名なエピソードがあり、このことを理由に、この銅像は西郷に似ていないといも言われますが、糸子の言葉の真意は、「うちの人はこのような着流し姿で人前に出る人ではなかった」といった意味だったとも言われ、その真偽はわかりません。

まあ、夫人から見れば顔も違って見えたかもしれませんが、この除幕式には実弟の西郷従道も出席しており、また、この銅像の製作においては、西郷をよく知る吉井友美黒田清隆樺山資紀らも深く関わっていたわけで、まったく似ていないというわけでもなかったでしょう。

奥さんからすれば、どこか仕上がりに気に食わない部分があったのかもしれません。


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逆賊の汚名は返上されていたとはいえ、西郷が反乱軍を指揮した事実は変えようのない歴史です。

その反乱軍の総大将である人物の銅像が、同じ政権下で、死後わずか20年で建てられたという例は、世界中探しても類を見ないそうです。

また、その銅像が日本の首都のもっとも人の目につきやすい場所に建てられたということも、諸外国からすれば理解できないことだったようで、さらに、その除幕式に政府の要人が出席するということを聞いた在日の西洋人は、西洋諸国ではあり得ないこととして驚愕したといいます。

それだけ西郷隆盛という人物が、当時から比類なき英雄として愛されていたということの表れでしょうが、一方で、その西郷の盟友でありながら最後は西郷と敵対する立場となった大久保利通の像は、没後100年経った昭和54年(1979年)にようやく鹿児島の地に建てられましたが、西郷を死に至らしめたとの理由で大久保は死後100年経っても不人気で、銅像建設にも反対運動が大きく、竣工当日も、厳重な警備体制だったそうです。

同じく維新の立役者であり、近代日本の礎を築いた二人なのに、この差は気の毒ですね。

大久保贔屓のわたしとしては、釈然としない思いです。


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一般に、西郷は自ら反乱を望んだわけではなく、不平士族の怒りの捌け口を作るため、不平士族に担ぎ出される形で自分の命を預けたのが西郷の最期だったと言われています。

しかし、この解釈は、必ずしも正しいとは言いきれません。

実際、挙兵に至る経緯からその最期に至るまで、西郷自身の心情を吐露した史料は残されておらず、すべては後世の想像にすぎません。

「西南戦争は桐野利秋が起こしたいくさで、西郷はその神輿に乗っただけだ」と言ったのは、戦後、西郷の汚名返上に奔走していた勝海舟の言葉で、西郷を尊敬しながらも政府軍として敵対せざるをえなかった将校たちも、「そうであってほしい」という思いが、不世出の英傑である西郷を死に至らしめたことを正当化する口実になったともいえます。

そう考えれば、西郷の人物像は、その死後、必要以上に美化され、英雄化していったといえなくもありません。


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作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、つぎのように述べています。


「政治家や革命家が一時代を代表しすぎてしまった場合、次の時代にもなお役に立つということは、まれであるといっていい。西郷は倒幕において時代を代表し過ぎ、維新の成立によって局面がかわると後退せざるをえなくなったという当然の現象が、一世を蓋っている西郷の盛名と同時代に存在しているひとびとには、容易にわからなかった。」


この銅像が建ったときの西郷は、その銅像以上に巨大化された存在になっていたのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-27 14:22 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 総評

 「幕末」と呼ばれる時代はいつからいつまでを言うのか、という話題になったとき、その始まりは「黒船来航」からという意見で概ね一致しますが、その終わりとなると、ある人は「王政復古の大号令」だといい、別の人は「戊辰戦争の終結」だといい、いやいや「廃藩置県」だろうという人もいれば、「西南戦争の終結」まで幕末は続いていたという人もいて、なかなか解釈が定まりません。


 わたしの個人的意見を述べさせてもらうと、「幕末」「幕」「幕府」「幕」と解釈すれば、幕府政権の終わり、すなわち大政奉還から王政復古の大号令にかけてとなるのでしょうが、古い時代の「幕引き」、新しい時代の「幕開け」という意味での「幕」と考えれば、わたしは侍の時代にピリオドが打たれた西南戦争の終結までが幕末ではなかったかと思います。で、その幕末の最初から最後まで登場するのが、今年の大河ドラマ『西郷どん』の主人公である西郷隆盛です。


 たとえば、幕末の志士のなかで人気ナンバーワン坂本龍馬を主人公にした場合、物語は大政奉還で終わってしまいます。司馬遼太郎さんはその大政奉還を大きなクライマックスに見立てて、あの名作『竜馬がゆく』を生み出しましたが、実際には、大政奉還は確かに大きな節目ではありましたが、維新改革の観点で言えば序章にすぎません。また、もうひとりの人気者である高杉晋作などは、さらに早く死んでしまうため、彼を主人公とする『世に棲む日日』は、これから歴史が大きく動くというところで物語が終わっちゃうので、大河ドラマにはし難いでしょう。その点、西郷隆盛の物語は、黒船来航から西南戦争まで、幕末の始めから終わりまですべて描ける。戦国三英傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を比べたとき、その後世の人気度でいえば1信長、2秀吉、3家康という順番になるかと思いますが、物語にすると、家康ものが俄然面白い。というのは、桶狭間の戦いから大坂夏の陣まですべて描けるからに他なりません。その論でいえば、幕末はやはり西郷なんですね。


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 で、そんなミスター幕末・西郷隆盛を主人公にした大河ドラマは、30年前の『翔ぶが如く』以来、2度目の作品となります。わたしは、『翔ぶが如く』はわたしの知る限り3本の指に入るほどの名作だったと思っているので、どうしても、それとの対比になっちゃうのですが、今年の大河ドラマ『西郷どん』は、わたしにとってどうだったかといえば、正直に言って名作とはいえない残念な作品となりました。同じ西郷を主人公とした伝記ドラマであるはずの『翔ぶが如く』と『西郷どん』は、似て非なるものだったと言わざるを得ません。


 その理由はいくつも挙げられますが、いちばんの理由は、取捨選択のマズさと創作稚拙さでしょう。西郷の志士としての生涯は長く、しかも濃い。それ故に史実に縛られること大で、また、伝承レベルの逸話も数多くあることから、それをすべて描こうとすれば、47話ではとても足りない。だから、割愛しなければならないのは仕方がないことですが、その取捨選択があまりにも下手で、理解しがたいものでした。少しでも歴史を知っている人であれば、きっと、何でここをスルーしちゃうんだ?と思ったことは一度や二度ではなかったのではないでしょうか? それが最も顕著に表れているのが、時系列の構成。全47話中、戊辰戦争までの幕末期が38話あったのに対し、維新後の明治期はたった9話。当然ですが、明治期のひとつひとつの歴史的出来事の描き方は粗雑となり、無理やり短縮したり解釈を変えることによって、とても歴史ドラマといえるものではなくなってしまいました。ちなみに、先述した『翔ぶが如く』では、幕末編が29話で、明治編が19話でした。これでも、もっと明治期を描いてほしかったと思ったほどでしたから、このたびの9話というのが、いかに短縮されていたかがわかるかと思います。


 では、その分、幕末期の話が充実していたかといえば、決してそうとは言えず、逆に無駄な話が多かった。それをいくつか挙げていくと、まず、島津斉彬の死までが長かった。たしかに、斉彬は西郷の生涯にとって欠かせない重要な登場人物ですが、西郷と共に過ごした時間は短く、西郷の志士としての長い生涯においては、序章に過ぎません。しかし、今回のドラマでは、斉彬の死までに実に16話も費やしています。しかも、たいして面白くもない創作話をたくさん盛り込んで。明らかにここは無駄だったでしょう。あるいは、斉彬役に超ビッグなハリウッドスターをキャスティングしたため、早く死んでもらうわけにはいかなかったのでしょうか? だとすれば、本末転倒な話ですね。民放の月9ドラマだったら、俳優さんありきで物語が構成される場合も多々あるでしょうが、歴史ドラマにおける俳優さんはあくまで影武者であって、重点をおくべきは、歴史上の人物です。


 それから、篤姫とのラブコメ話もいらなかった。篤姫と西郷の関係は、篤姫の輿入れ時に、その輿入れ道具の調達を任された、ただそれだけの関係です。フィクションがダメだと言ってるわけではありません。ドラマが100話あるんだったら、そういう遊びの回があってもよかったでしょうが、限られた尺のなかで、大事な歴史のエピソードを削ってまでも描かなければならなかったとはとても思えません。それと、ヒー様との意味不明な友情話も不要。あれ、何が描きたかったのか、わけがわかりません。あと、西郷と何ら関わりがなかったであろうジョン万次郎の話もいらなかったですし、それから、坂本龍馬の出番も多すぎた。わたしは、スマホの待受画面を坂本龍馬にするほどの龍馬ファンですが、だからといって、何でもかんでも龍馬人気に肖ろうとする傾向は好きではありません。坂本龍馬の人生にとっては西郷との出会いは重要な出来事だったかもしれませんが、西郷の人生にとっては、坂本龍馬はそれほど重要な人物ではありません。薩長同盟のくだりで少し登場すればいい程度の存在です。龍馬とのエピソードを描くくらいなら、西郷に大きな影響を与えた橋本左内藤田東湖(今回のドラマには登場すらしなかった)との関係を、もっと描くべきだったんじゃないでしょうか? これらの無駄な回をなくすだけでも、ずいぶん幕末編を短縮できたでしょうし、その分、明治編をもっと丁寧に描けたように思います。


それから、人物の描き方についてですが、開明派が賢者で、保守派が愚者という解釈も、相変わらず短絡的すぎるような気がします。例えば島津久光などは保守派の代表のような人物ですが、決して愚人というわけではなく、あと半世紀ほど早く生まれていれば、名君として後世に名を残していたかもしれません。一方で、島津斉彬勝海舟といった開明派は、時代が違えば、奇人変人扱いだったかもしれず、実際に斉彬も勝も、当時の社会のなかでは、敵が多く理解者は少ない存在でした。特に斉彬は、西郷というフィルターを通してみれば名君だったでしょうが、そのあまりにも革新的な考えを実行するために、振り回され、翻弄され、酷使されて使い捨てられた家臣もたくさんいました。斉彬と久光、どちらが薩摩藩にとって名君だったかは、一概には言えないんです。ドラマですから、ある程度分かりやすくするために善悪で描かれるのは仕方ないにしても、賢愚で描くのは、そろそろ見直してほしいと思います。


西郷どん 総評_e0158128_20152636.jpgで、西郷の人物像についてですが、彼の場合、これまで多くの物語などで描かれてきた西郷がそうであったように、結局はつかみどころがない開明的なのか保守的なのか、賢人なのか愚人なのか、革命家なのか政治家なのか軍人なのか、西郷の言動や行動をいくら検証しても、ついぞ見えてこないんですよね。ある人は、西郷は自身が起こした革命を自らの死によって完成させたといい、またある人は、もう一度革命を起こして維新をやり直そうとしていたといい、また別の人は、自らの役目を終えたあとの死に場所を探して彷徨っていたと説きますが、どれも、そうともとれるし、でも腑に落ちません。司馬遼太郎さんは維新前の西郷と維新後の西郷とを、まるで別人と評しているのに対し、海音寺潮五郎さんは、維新前と維新後でまるで人が変ってしまうことなどあろうはずがないといっています。かつて司馬さんが執筆した『翔ぶが如く』を読んだ海音寺さんが、「司馬君でもまだ西郷を描ききれていない。」と評したという話がありますが、それほど、西郷という人物は、計り知れない人なんですね。


 そんな評価の難しい西郷ですが、素人のわたしなりに思う西郷像は、パートナーがあってこその西郷だったんじゃないかと思っています。つまり、西郷は維新第一の英雄となりましたが、自身の強烈な指導力で牽引するヒトラーのようなカリスマ革命家ではなく、誰かにサポートされて、もっといえば、誰かに操られて、その事績を成し得た珍しいタイプの革命家だったといえます。その西郷を操っていたのが、若き日は斉彬であり、革命期は大久保利通だったんじゃないかと。「操っていた」というと聞こえが悪いですが、決して彼らが西郷を見下していたというわけではなく、斉彬や大久保にはない人間的魅力を西郷は持っていて、その西郷の人間力を大久保たちは利用し、また、助けられてもいた。そんなギブアンドテイクの関係が成立していて、英雄・西郷隆盛が作られていったのではないかと思います。実際、斉彬は若き日の西郷を評して、「西郷を使いこなせるのは自分だけだ」と言っていたといいますし、斉彬亡きあと、ともすれば暴走しかねない西郷の手綱をさばいていたのは、大久保でした。西郷は西郷ひとりの力で西郷となったわけではなく、斉彬、大久保がいてこその西郷だったのではないかと。


 ところが、征韓論政変以降、西郷をいい意味で操る人間がいなくなり、西郷が身を預けたのが、桐野利秋別府晋介といった若いぼっけもんたちだった。彼らに西郷を操れるだけの能力はなく、神輿に担ぎあげるのが精一杯だった。これが、西郷の不幸だったといえるでしょう。ひるがえって考えれば、結局、西郷はその人生において自らの意思で能動的に行動したことは一度もなく、斉彬に使われ、大久保に操られ、最後はぼっけもんたちに担がれるという傀儡の生涯だったんじゃないかと。ちょっと西郷ファンには申し訳ないですが。


 今回のドラマの西郷は、これまでにないエネルギッシュな西郷でしたね。それはそれで悪くはなかったと思いますが、残念ながら西郷の生きた歴史、西郷が行った功績がほとんど描かれていなかったため、ただエネルギッシュな良い人、というだけでした。歴史上の英雄というのは、善きにせよ悪しきにせよ清濁併せ呑む人物だったからこそ英雄たり得たわけで、そこが偉人たちの魅力でもあります。そんな歴史上の英雄のなかでは、珍しく西郷は道義を重んじる人格者ではありましたが、西郷とて決して聖人君子ではありません。だから、ドラマ内の「皆が腹いっぱい食える世の中にしたい」というあの台詞を聞くたび、興ざめしていました。そんな、世のため人のために生きてませんよ、人は皆。西郷は道義主義者でしたが、彼の道義はあくまで当時の武士階級の道徳であり、士族至上主義でした。幕末期の西郷は薩摩藩の立場を守るために活動し、明治期の西郷は、薩摩士族のために働いた。ひいては、それが自身のためでもあったんです。決して、世のため人のためといった綺麗事で幕府を倒したわけではありません。自分たちのためです。民百姓のことなんて、眼中になかったと思いますよ。


 それらの人物像歴史解釈、フィクション部分を見ても、どうにも稚拙な描き方に思えてならない今年の大河ドラマでした。勘違いしないでほしいのは、わたしは、フィクションがダメだと言っているわけではありません。でも、全47話という限られた尺のなかで構成するわけですから、そこは、センスが問われるところだと思います。歴史ドラマといえどもエンターテイメントですから、フィクションは不可欠だと思いますし、そこには独自解釈があってもいいでしょう。ですが、歴史ドラマにおけるフィクションは、作り手の知識に裏付けされたセンスが必要だと思います。本作品の原作の林真理子さんと脚本の中園ミホさんに、どれほどの知識の裏付けがあるのかは知りませんが、想像するに、幕末維新の歴史も、西郷隆盛という人物のこともあまり知らずに、執筆依頼があってからにわか知識を放り込み、その程度の知識で作品を書かれたんじゃないでしょうか。


何年か前に、NHK-BSの『英雄たちの選択』で西郷隆盛が採り上げられたとき、パネラーで林真理子さんが出演されておられましたが、そのとき、林さんはあまり西郷のことを知っておられない様子でした。たぶん、あのとき既に大河作品の執筆依頼があって、にわか勉強中だったのでしょうね。ただ、残念ながら、にわか知識で書けるほど、西郷隆盛の生涯は単純じゃないです。どれだけ売れっ子の作家さんであっても、歴史ドラマは、歴史に精通していなければ書けないと思いますし、書くべきではないとわたしは思います。歴史の知識が浅い人が歴史ドラマを書くと、フィクションも的外れでトンチンカンなものになります。ピカソは、写実画を極めた上であの画風に行き着いたのです。デッサン力のない者が抽象画を書いても、ただの下手な絵でしかありません。歴史をしっかりと勉強した人にしかフィクションの歴史は書けないのではないでしょうか。


 というのも、ここ近年、やたらと女性の脚本家さんの作品が続きますよね。女性が主人公の作品だけならまだしも、それ以外も、2008年の『篤姫』以降の11作品中、8作品が女性の脚本家さんです。これ、どういうことでしょう? 女性がダメだとは言いませんが、この比率は明らかに偏っています。ここからはわたしの想像ですが、偏見かもしれませんが、男性の脚本家さんは、大河ドラマの脚本の難しさがわかるから、歴史にそれほど精通していない人は、オファーがあっても容易に引き受けないんじゃないかと。ところが女性の脚本家さんは、その難しさを考えず、にわか知識だけで安直にオファーを引き受けちゃうんじゃないかと。わたしの勝手な想像ですが、11作品中、8作品が女性というのは、どう見ても普通じゃないですよね。その背景には、そんな事情が隠されているように思えてなりません。それが、近年の大河の質の低下を引き起こしている原因じゃないかと。だとすれば、幕末維新じゃないけど、大河ドラマも根本的な改革が必要な時期に来ているのかもしれません。


 いささか辛口な批判ばかり述べてきましたが、最後に、鈴木亮平さんの西郷隆盛は良かったと思います。ここだけで言えば、『翔ぶが如く』の西田敏行さんより良かったかも。西田さんも良かったのですが、いかんせん背丈が・・・。その点、鈴木隆盛は申し分ない体躯と存在感でしたし、もちろん演技も、特に後半は本物の西郷もこんな感じだったんじゃないかと思えてくる程でした。それだけに残念、というしかありません。


 気がつけば、ずいぶん長文になってしまいました。厳しい意見ばかり吐いてきましたが、毎週面白いと思って観ておられた方には申し分ありません。それだけ今年の大河ドラマには期待していたということで、ご容赦ください。それでは、このあたりで『西郷どん』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。


●1年間の主要参考書籍

『西郷隆盛』 家近良樹

『大久保利通と明治維新』 佐々木克

『西郷内閣』 早瀬利之

『西郷隆盛101の謎』 幕末維新を愛する会

『幕末史』 半藤一利

『もう一つの幕末史』 半藤一利

『西郷と大久保二人に愛された男 村田新八』 桐野作人・則村一・卯月かいな

『翔ぶが如く』 司馬遼太郎

『歳月』司馬遼太郎

『西郷隆盛』 海音寺潮五郎

『西郷と大久保』 海音寺潮五郎


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by sakanoueno-kumo | 2018-12-21 00:07 | 西郷どん | Trackback | Comments(6)