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タグ:吉村寅太郎 ( 16 ) タグの人気記事

 

天誅組の足跡を訪ねて。 その31 「天誅組終焉之地_吉村寅太郎の墓」

シリーズ最後です。

足を負傷したために一行から遅れていた吉村寅太郎は、傷が悪化して歩行困難となり、駕籠に乗せられて運ばれていましたが、文久3年9月27日(1863年11月8日)、津藩兵に発見されて射殺されました。

吉村の死によって、他の兵たちも相次いで戦死するか捕縛され、ここに天誅組は壊滅しました。


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現在、吉村が討死した鷲家谷には、「天誅組終焉之地」と刻まれた大きな石碑が建てられています。


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ここを訪れたのは、平成30年(2018年)11月18日。

このシリーズを始めて、ここだけはどうしても彼らが死んだときと同じ紅葉の季節に来たいと思い、気候を見ながら満を持して訪れました。


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でも、真っ赤という状態ではなかったですね。

紅葉はその年の気温の変化などで変わるそうですから、この年は真っ赤に染まる条件ではなかったのかもしれません。


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石碑の背後には鷲家川があり、向こう岸にわたる橋があります。

この橋の向こうに、吉村寅太郎原瘞處があります。

「原瘞(げんえい)」とは最初に埋めたお墓という意味です。


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鷲家川です。


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橋を渡ると、説明板があります。

その向こうに、広い空間が見えます。


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ここが吉村の原瘞處です。

説明板によると、吉村はこの大きな岩の裏手の下流30m左岸の山際にあった薪小屋に潜んでいたところを、津藩兵の金屋健吉によって銃殺されたといいます。


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吉村寅太郎は土佐勤皇党出身で、その後、党を離脱して脱藩し、福岡藩士の平野国臣、久留米藩士の真木和泉、庄内藩士の清河八郎など、他藩の過激な尊攘派と深く親交します。

文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)の際には、それに連座して捉えられ、土佐に引き渡されて8ヶ月間投獄されますが、やがて政情が尊攘派に有利になると釈放され、藩から自費遊学の許可を得て京へ上ります。

同年8月、孝明天皇大和行幸に合わせて天誅組を結成し、公家の中山忠光を連れ出して五條へ向かうんですね。

しかし、ほどなく政情が尊攘派に不利になると、一転して逆賊となったわけです。


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吉村の遺体は村人の手によってこの岩の根元に埋葬され、土方直行筆によって墓碑が建てられましたが、明治29年(1896年)に「その26」で紹介した明治谷墓所改葬されたあとは、この碑は原瘞の碑として吉村を偲ぶ記念碑となっています。


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吉野山 風に乱るる もみじ葉は 

わが打つ太刀の 血煙と見よ


吉村の辞世です。

わたしは、幕末の志士たちの辞世の句のなかで、この吉村の歌がいちばん心に響きます。

なんという凄まじい辞世でしょう。

この歌の情景を知りたくて、わたしは紅葉の季節にここを訪れたかったんです。


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吉村の太刀の血煙です。


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天誅組のメンバーに吉村をはじめ土佐藩出身の志士たちが最も多かったのは、そのお国事情にあったといっていいでしょう。

幕末の土佐藩の事情は複雑でした。

いわゆる「郷士」と呼ばれる下級武士たちは熱心な尊皇攘夷運動の奔走しながらも、藩そのものは佐幕でした。

そのあたりが、長州藩の松下村塾系の若者や、薩摩藩の誠忠組の面々たちとは決定的に違ったところだったでしょう。

そんななか、あくまで一藩勤皇を目指した土佐勤皇党の首魁・武市半平太(瑞山)らは、結局は藩によって処刑され、藩に頼らず脱藩して奔走した吉村ら浪士たちも、そのほとんどが維新を見ることなく非業の死を遂げます。

彼ら土佐系の脱藩浪士たちが志を訴えるには、このような過激な道しか思いつかなかったのでしょうね。


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とはいえ、彼らがやったことは、どう考えても義挙とは言えず、単なるテロリズムでした。

義挙ではなく暴挙だったとわたしは思います。

妄信的に尊皇攘夷を唱え、幕府の役人というだけで何の罪もない代官を殺害して首を晒し、五條や吉野の民衆をも巻き込み、やがて自滅していった。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

天誅組をして「維新の魁」などと言う人がいますが、わたしは賛同できませんね。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。


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幕末の一流の志士たちのとっては、「尊皇攘夷」富国強兵の術であり、倒幕の手段にすぎませんでした。

だから、明治維新が成立するや否や新政府は「攘夷」を捨て、「尊皇」は、新政府の公約だったため一応は形だけ残しましたが、後年の帝国主義の天皇制とは違って、多分に形式的なお飾りでした。

天皇は尊ぶべき存在ではあっても担ぐべき存在ではないことを、一流の志士たちはちゃんとわかっていたんですね。

ところが、二流以下の志士たちは、これをほとんど宗教のように信じ、狂気と化していった。

司馬遼太郎さんは海音寺潮五郎さんとの対談形式の著書のなかで、そんな尊攘志士たちを神道的な国粋主義者と定義し、次のように述べています。


「国粋主義者というのは、つきつめてしまえばロマンティシズムであり、それに多少の評価を与えるとすれば、これは美学であって、とてもとても政治の救済にはならないし、その方策もなにも持っていない。もっていないだけにその信奉者の心情は常に悲痛で、発するところ、必ず暴発といった行動になる。」


まさしく、天誅組のこと評しているかの記述です。


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また、同じく海音寺さんとの対談のなかで、司馬さんはこうも述べています。


「幕末維新の諸事件の中で、天誅組がいちばんおろかしい感じがします。」


手厳しいですが、わたしもそう思います。


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天誅組の変は、幕府が倒れて明治に元号が変わる5年前の出来事でした。

もう少し大局を観て待っていれば、もっと違った歴史上の役割が彼らにもあったかもしれませんが、一見、犬死にのように思える彼らの屍のひとつひとつの積み重ねの上に維新が成立したとするならば、彼らがここで死んだことも、歴史上のひとつの役割だったのかもしれません。

その意味では、天誅組の暴挙は、歴史の必然だったのかもしれませんね。


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気がつけば「その31」まで続きました。

この稿にて、「天誅組の足跡を訪ねて。」のシリーズを終わります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-16 00:38 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その26 「天誅義士明治谷墓所」

「その25」で紹介した宝泉寺から南東に200mほど歩いたところにある墓地に、宝泉寺で菩提を弔われていた天誅組隊士たちの墓があります。


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墓所入口には、「天誅義士墓所」と刻まれた石碑が建てられています。

その横には石灯籠と「天誅義士明治谷墓所」と書かれた看板が。


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石碑です。


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天誅組隊士の墓所は何か所かありますが、ここに葬られている天誅組隊士の名簿です。

吉村寅太郎以外は、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で最期を遂げた隊士たちですね。


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この階段を上ったところに墓所があります。

なかなかハードです。


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この石碑は古そうです。


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途中、歌碑のようなものがあったのですが、古くて読解できません。


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たどり着きました。

石垣が城跡のようです。


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墓所です。


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鉄柵の門扉と玉垣で守られています。


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向かって左から、「その20」で討死した西田仁兵衛の墓です。


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同じく「その20」で討死した天保高殿の墓です。


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こちらは「その21」で討死した山下佐吉(安田鉄蔵)の墓。


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同じく「その21」で討死した植村定七の墓。

墓石には「定七郎」と刻まれています。


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こちらは「その23」で討死した林豹吉郎の墓。

贈正五位」とあります。


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「その24」で討ち死にした鍋島米之助の墓。

こちらも贈正五位」とあります。


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「その22」で紹介した宍戸弥四郎の墓。

ひとつ位階が上がって贈従四位」とあります。


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こちらは「その19」で討死した決死隊隊長の那須信吾の墓。

宍戸と同じく贈従四位」とあります。


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そして、いちばん右端には天誅組総裁吉村寅太郎の墓が。

総裁ということもあって、贈正四位」とあります。

この中で吉村だけは鳥ヶ峰の戦いで負傷していたため本隊と逸れ、鷲家口の決戦には参戦できませんでした。

吉村はその3日後に鷲家谷付近で落命します。

その場所にも吉村の墓がありますが、明治29年(1896年)にここへ改葬されたそうです。


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全員、現在の墓石の裏側に旧墓石があったのですが、吉村の旧墓石だけ、外から見える場所に設置されていました。

この碑は吉村の死後、間もなく建てられたものだそうですが、参拝をしてお願いをすればたいへん御利益があるという噂が広まり、一時は大勢の人々でにぎわったそうです。

ところが、この話が鈴木源内の後任の五条代官・中村官兵衛の耳に入り、「賊徒の墓に参拝するとはけしからん」と、この碑を川の下へ投げ落としたそうです。

墓碑の角が取れてこのように丸くなっているのは、このときのことだそうです。

このことは、古文書で次のように記されています。


「此にて天誅組の内、主たる人、吉村寅太郎様戦死。土民浪士の石碑を刻み其の土地に葬りけり。然るにその後、近村近国より参詣人多数、追々益々群集致し、天誅組吉村大神儀として、様々の立願相込め、御利益之存り候より、誠に追々参詣人群集致し候故、其の御支配御役所より差し止め候処、なかなか百姓共、聞き入れ申さず、益々参詣人弥増、不思議なる次第、可恐々」


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その横には、「夫仲吉村内分」と刻まれた墓碑があります。

ネットで調べてみると、建碑者不明の墓碑だそうですが、吉村寅太郎の妻が世を憚って変名彫刻したものであろうと伝えられているそうです。


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こちらの古い碑は、「天誅義士那須信吾・・・」と書かれているように見えますが、後半が読解不能です。


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明治22年(1889)に那須信吾の息子、那須重宗が墓参に訪れ、信吾の墓碑を建碑したそうです。

その後、明治27年(1894年)に全員の墓碑が新しく建碑され、大正元年(1912年)に石柵が設置されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-08 23:14 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その25 「宝泉寺(天誅組菩提寺)・天誅義士記念碑」

東吉野村の丘の上にある宝泉寺は、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦における戦死者の菩提寺です。


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宝泉寺は「その19」で紹介した出店坂の上にあります。

那須信吾決死隊は、この前を通って出店坂を駆け下り、彦根藩脇本陣碇屋に斬り込みました。


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ここで菩提を弔われている戦死者たちです。

吉村寅太郎以外は、「その19」から「その24」までで紹介した鷲家口の決戦で最期を遂げた隊士たちですが、注目すべきは、敵方である彦根藩士大館孫左衛門伊藤弥左衛門の二人も祀られているということ。

お寺にとっては、敵も味方もなく、この地で落命した侍たちを分け隔てなく手厚く葬り、弔ったということですね。

宗教のあるべき姿だと思います。

毎年、大臣が公式参拝するやしないやで物議を醸す有名な神社のように、どちらか一方だけを「忠臣」とか「英霊」とか聞こえの良い美談にすり替えて祀っているのとは、えらい違いです。


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本堂です。


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本堂には、「天誅義士 彦野藩士 菩提祠堂・・・」と書かれた木札が掲げられています(後半が消えかけてて、なんて描いてあるかわかりませんでした)。


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ここ宝泉寺は、鷲家口の決戦のとき、天誅組を迎え撃つ彦根勢が篝火の代わりに寺を焼こうとしたのを、当時の和尚が阻止したという逸話が残されています。

どのように抵抗したのでしょうね。


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寺の門前には、「天誅義士記念碑」が建てられています。


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この記念碑は大正2年(1913年)に作られましたが、しかし、寄付金を募って記念碑の建立や墓地の整備を行ったため、この地に建立までに歳月を要し、記念碑の除幕式は、大正9年(1919年)11月5日に行われました。

揮毫は伯爵・土方久元

土方は土佐勤皇党出身で、あの坂本龍馬中岡慎太郎とともに薩長同盟の締結に尽力した人ですね。

おそらく、吉村寅太郎とも面識があったでしょう。


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宝泉寺では、いまも毎年11月5日に天誅祭が法要されているそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-07 16:38 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その17 「鳥ヶ峰古戦場」

「その15」で紹介した天ノ辻へ本陣を移した天誅組は、近隣の高取藩兵糧の提供を求めます。

この数日前、天誅組は五條代官所襲撃後すぐに高取藩に対して那須信吾らを恭順勧告の使者として送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきていました。

しかし、京の政局が変わるや否や、高取藩は態度を翻して兵糧の差し出しを拒否します。

そこで、天誅組は高取城の攻撃を決定。

文久3年8月25日(1863年10月7日)に進軍を開始しました。


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高取城は織豊時代から続く高取山山頂に築かれた堅牢な山城でしたが、江戸時代になると、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移されていました。

天誅組はここを襲撃すべく、中山忠光率いる本隊が高取に向かい、吉村寅太郎別働隊を率いて御所方面に進出して郡山藩に備えました。

この動きを察知した高取藩は、防備を固めます。


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8月26日、鳥ヶ峰で火蓋は切られました。

現在、その地には「鳥ヶ峰古戦場」と刻まれた石碑が建てられています。


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1000人ほどの天誅組に対して、2万5千石の小藩である高取藩の兵力は、わずか200人程だったといいます。

しかし、地の利を熟知していた高取藩兵は、ここ鳥ヶ峰の丘の上に大坂冬の陣で使用したと伝わる大砲「権現砲」四門を据えて、天誅組に向かって砲撃。

火力に劣る天誅組はたちまち大混乱に陥り、若き忠光にこれをまとめる力はなく、敗走して天ノ辻まで退却します。

その夜には、吉村寅太郎率いる別働隊が夜襲を試みますが、味方の誤射によって寅太郎が負傷し、結局なすところなく退却します。

やはり、結局は即席で集まった烏合の衆だったということですね。

この鳥ヶ峰の戦いは、司馬遼太郎の短編『おお、大砲』で描かれています。


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石碑の横には、戦いの様子が描かれた絵が紹介された説明看板があります。


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石碑の立つ高取の森の丘の上から南を見ると、高取城跡がある高取山が見渡せます。

この日は高取城跡にも足を運びました。

その登城記は別稿で紹介していますので、よければ一読ください。

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日本最大の山城、高取城登城記。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-22 21:33 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その16 「賀名生皇居跡(堀家住宅)」

櫻井寺本陣から天辻本陣に南下するちょうど中間地点あたりに、賀名生(あのう)という山里があるのですが、かつてここは、南北朝時代の一時期、南朝の行宮所が置かれた場所です。

現在、その場所は賀名生の里歴史公園として観光用に公園整備されています。


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延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山に潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。

そのとき、後醍醐天皇を手厚くもてなしたのが地元郷士の堀孫太郎信増という人物で、その後も、その縁で後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)はこの地に入られたときも、皇居となりました。


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この賀名生の里に、櫻井寺本陣から天辻本陣に移る途中の天誅組の面々が立ち寄ったと伝えられます。


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文久3年8月20日(1863年10月2日)に櫻井寺本陣から天辻本陣に移った天誅組は、その道中、かつて後醍醐天皇を手厚くもてなした堀孫太郎信増の子孫の邸に立ち寄ります。

地元出身の乾十郎らの手引きがあったのかもしれません。

現在、その堀家の屋敷が公園内に残っています。


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このとき、堀家で後醍醐天皇の遺品を見た吉村寅太郎は、そこが戦火に巻き込まれないようにと、「皇居」と書いた扁額を冠木門に掲げました。

それが、これ。


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墨の色がまったく色褪せてないやん!・・・と思ってしまいますが、実はこれはレプリカで、本物は隣の「賀名生の里歴史民俗資料館」に展示されています。


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資料館内は撮影禁止だったため実物の扁額の写真は撮れなかったのですが、博物館内で撮影OKだった観光マップの写真を見ると、写真左端になんとなく写りこんでいました。

これぐらいなら許していただけるでしょうか?


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屋敷はいまも「堀家」様の住居として使用されておられるそうで、見学には事前の申込みが必要だそうです。

この日は申込みをしていなかったので、外観の写真のみ。


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この日は日曜日だというのに、観光客はわたしひとりでした。

人里はなれた山里だし、天誅組とか南朝行宮とか、マニアックですからね。

ここは、以前の拙稿(太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」)でも紹介していますので、よければ一読ください。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-21 22:16 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その15 「天誅組天ノ辻本陣跡」

文久3年8月17日(1863年9月29日)に櫻井寺(別稿:その11)で五条新政府を立ち上げるも、その翌日に起きた「八月十八日の政変」により、わずか1日で逆賊となってしまった天誅組

京で天誅組追討の命が下されたことが明らかとなると、解散抗戦か協議のすえ、徹底抗戦の道を選びます。

もう、代官らを殺しちゃってましたからね。

いまさら後戻りは出来なかったのでしょう。

そして櫻井寺を後にした天誅組は、南下して要害堅固な天ノ辻本陣を移すことを決め、20日にこの地に入りました。

現在、本陣が布かれた場所は、維新歴史公園として整備されています。


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総裁の吉村寅太郎は、地元の医師・乾十郎とともに尊皇の志の厚いことで知られる十津川郷士募兵を働きかけ、960人の兵を集めました。

そして8月24日、その960人がこの地に集結したと伝えられます。


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しかし、その十津川郷士たちも、自ら臨んで来援した志士ばかりではなく、半ば脅迫されて強制的に集められた者たちも多かったため、戦意に乏しかったといいます。

しかも、休息も食事もなく戦闘に参加せられるなどの苛烈な指揮だったため、玉堀為之進ら数名の十津川郷士が天誅組幹部に抗議しますが、ここ天の辻で斬首されています。

こうなると、もはや義軍とはいえませんね。

天誅組は単なる暴徒と化していました。


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公園内には、「天誅組本陣遺趾」と刻まれた石碑が建てられています。


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こちらの説明碑は、新しいもののようです。


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ここ天誅組天辻本陣のあった場所は、地元の豪商であり有力者であった鶴屋治兵衛の屋敷がありました。

鶴屋治平衛は、天誅組の求めに応じて快く自宅を提供したと伝えられ、その結果、鶴屋も天誅組と運命をともにすることになります。

本当に快く協力したのか、あるいは、のちの明治政府がそういうことにしたのかはわかりません。

公園内には、「義烈 鶴屋治兵衛翁碑」と刻まれた石碑があります。

揮毫は公爵・三条公輝

元勲・三条実美の三男です。


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公園内には、天誅義士の歌碑がいくつかあります。

こちらは、天誅組記録方の伴林光平の歌碑です。


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伴林光平の歌碑がもうひとつありました。


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こちらは、武器取調方の野崎主計の歌碑です。

野崎は吉村と乾の誘いによって来援した十津川郷士です。


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誰の歌碑かわからないものもあります。


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8月26日、天誅組は高取城を攻撃しますが、高取藩兵の銃撃を受けてあえなく敗退

その日の夜に吉村ら決死隊が再び夜襲をかけましたが、これも失敗に終わり、天誅組は再びこの地に退却しました。

そして、9月14日、紀州藩・藤堂藩の追討軍が迫ってきたため、天誅組はここ天辻本陣に火を放って放棄し、その後、十津川村の武蔵、風屋、上野地などに本陣を転々と移すことになります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-19 11:55 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その9 「民俗資料館(五條代官所長屋門)」

「その8」で紹介した五條代官所跡のすぐ近くに、天誅組の史跡公園があります。

ここには、五條代官所の長屋門があり、民俗資料館として天誅組の史料などが展示されています。


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公園の入口には、「明治維新発祥の地」と書かれた大きな看板塔があります。

「発祥の地」とはちょっと言い過ぎの感はありますが、まあ、天誅組が倒幕の導火線にはなったかもしれません。


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ここにも、「さきがけの地」と書かれた説明駒札が。


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こちらの石碑にも、「明治維新発祥地」と刻まれた銘板が埋め込まれています。

どうしても、天誅組の変があったから明治維新が成ったということにしたいみたいです。


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石碑の裏側には、「明治100年記念事業として、旧代官所跡(現史跡公園)に建立」と記されています。


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公園内です。

向こうに見えるのが五條代官所の長屋門です。


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こちらの石碑は「天誅組一五〇年記念碑」とありますから、つい最近建てられたもののようですね。

手前の石板には、乾十郎、井澤宜庵、橋本若狭という五條出身の天誅義士3人の名が刻まれています。


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文久3年8月17日(1863年9月29日)に天誅組に襲撃されて焼き討ちされた五條代官所に代わり、翌年の元治元年(1864年)10月、この地に幕府が新たな代官所を立て直しました。

明治3年(1870年)、代官所は五條県発足の折りに五條県庁となり、その後、警察大屯所中学校などに利用されていたそうですが、明治10年(1877年)に五條区裁判所となり、現在に至っています。

裁判所の改築の際、正門である長屋門と広場を五條市が譲り受け、広場を史跡公園、長屋門を民俗資料館として整備されたそうです。


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つまり、この長屋門は天誅組襲撃時のときのものではないということですね。

天誅組義挙の翌年に建てられたものということです。


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長屋門は全長40mで、門脇に戸をつけ、その横に見張りのための出格子の窓をつけた番所がありました。


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長屋門の中は、天誅組資料館として古文書などの史料や天誅組史跡の写真パネルなどが展示されています。


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せっかくなので、吉村寅太郎のマグカップを購入しました。

坂本龍馬西郷隆盛などのグッズはいろんな観光地で売っていますが、吉村のマグカップは、ちょっとレアでしょう?(笑)

他にも藤本鉄石、松本奎堂のマグカップもありましたが、さすがにマニアックすぎて手が出ませんでした(笑)。

800円です。


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こちらは、長屋門下の石垣です。

なんか、城跡っぽくていいですね。


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現在はこうして五條市の観光誘致の顔となっている天誅組ですが、当時の五條の民衆にとっては、天誅組義挙というのはどのような事件だったのでしょうね。

観光案内の紹介文などでは、民衆は天誅組に協力的だったように書かれていましたが、果たしてそうだったでしょうか?

当時の幕府直轄地の民衆は、わりと恵まれた暮らしだったといいます。

五條の人たちにとっては、平穏な暮らしに突然襲いかかった暴徒でしかなかったんじゃないかと思うんですけどね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-04 02:03 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その8 「五条代官所跡」

文久3年8月17日(1863年9月29日)に五條に入った天誅組は、五條代官所を襲撃します。

現在、代官所のあった場所は五條市役所になっています。


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庁舎前の噴水池付近小庭園に、「五條代官所跡」と刻まれた石碑説明板があります。


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午後4時頃、代官所を包囲した天誅組は、代官の鈴木正信(源内)に降伏を要求。

ゲベール銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村寅太郎が率いる槍隊が裏門から突入しました。

突然の出来事に驚いた代官がこれを拒否するや、天誅組はすかさず武力で代官所を制圧。

代官所の人数は30人程で、意気軒昂な天誅組になす術もなく代官所方は敗北し、鈴木源内以下、5名が殺害されました。

その後、天誅組は代官所を焼き払います。


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なぜ天誅組が五條で旗揚げしたのかというと、天皇の行幸予定地である奈良に近かったことはもちろんですが、五條は幕府の直轄地であり、代官所の警備も手薄であったこと、古くから勤皇で知られた十津川郷が近く、いざというときには連携できるという思惑があったからでした。


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彼らがやったことは、どう考えても天誅とは言えず、単なるテロリズムでした。

妄信的尊皇攘夷を唱え、幕府の役人というだけで代官を殺害して首を晒し、やがて自滅していきます。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

天誅組をして「維新の魁」などと言う人がいますが、わたしは賛同できませんね。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-03 01:38 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その2 「狭山藩陣屋跡」

文久3年8月15日(1863年9月27日)に堺港に上陸した天誅組は、翌16日、払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入りました。

そこで天誅組は吉村寅太郎を軍使として狭山藩の陣屋に送り、先代藩主で隠居の身であった北条氏燕との面会を申し出ました。


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現在、その陣屋跡の一角には、石碑が建てられています。


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狭山藩北条氏は、戦国時代の関東で勢威を振るった小田原北条氏の子孫です。

豊臣秀吉小田原征伐によって小田原北条氏は滅亡しますが、その後、嫡流は断絶したものの、その枝流が跡を継いでこの地に移って大名となり、小藩ながら明治維新まで続きました。


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天誅組の申し出を受けた氏燕は、急病と偽って面会を断り、家老の朝比奈縫殿が代って対応します。

天誅組主将の中山忠光は、吉村を通して狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じました。

これに困った狭山藩は、とりあえず、甲冑ゲベール銃などの武具と、米、塩などを贈り、天皇親征の節には加わると回答したといいます。

しかし、周知の通り天皇親征は行われなかったんですね。

狭山藩の対応は賢明だったといえます。


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狭山藩陣屋は、狭山池東北の地にありました。

狭山池は日本最古のダム式ため池とされ、現在も洪水調整機能を備えたダム池として管理されています。


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現在、狭山池の周囲は公園として整備されています。


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天誅組の一行も、このため池の畔を歩いたかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-19 01:02 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その48 「藤本鉄石寓居之跡」

前稿で紹介した「西川耕蔵邸址」碑から100mほど東の御幸町通に、「藤本鉄石寓居址」と刻まれた石碑があります。

藤本鉄石は岡山藩出身の尊王攘夷派志士で、文久3年(1863年)に挙兵した天誅組の3人の総裁のひとりです。


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25歳のときに脱藩して上洛した藤本鉄石は、花房厳雄の門に入って天心独明流皆伝長沼流の軍学を学び、その後、全国を遊歴したのち、再び京に戻って私塾を開き、碧梅寒店と称しました。

文久2年(1862年)、薩摩藩国父の島津久光の率兵上京に呼応して、野国臣、清河八郎、吉村太郎らとともに討幕の挙兵を計りますが、久光の真意は公武合体であることがわかり、計画は頓挫します。

翌年の文久3年(1863年)、長州藩を中心とする在京の尊攘派は、孝明天皇を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。

これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。

この決定を知った鉄石は、吉村太郎、松本奎堂らとともに公卿の中山忠光を主将に推し立てて天誅組を組織し、その大和行幸の先兵として大和に乗り込みます。


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しかし、これに震え上がったのは当の孝明天皇。

自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない、討幕の先頭に立つなど滅相もない、と、京都守護職の松平容保SOSを求めます。

そうして起こったのが、尊攘派が一掃された「八月十八日の政変」でした。

これにより天皇の大和行幸の計画は頓挫し、大和で挙兵した天誅組は梯子を外されたかたちとなります。

孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。

鉄石は敗走の途中、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけ、壮絶な死を遂げたといいます。

享年48。


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藤本鉄石寓居址の石碑は、写真で見るとおり、有料駐車場と自動販売機の間に埋もれています。

わたしも、何度もこの前を通りながら、なかなかこの石碑が見つけられませんでした。

もうちょっと、どうにかならないでしょうかね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-05 00:17 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)