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幕末京都逍遥 その48 「藤本鉄石寓居之跡」

前稿で紹介した「西川耕蔵邸址」碑から100mほど東の御幸町通に、「藤本鉄石寓居址」と刻まれた石碑があります。

藤本鉄石は岡山藩出身の尊王攘夷派志士で、文久3年(1863年)に挙兵した天誅組の3人の総裁のひとりです。


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25歳のときに脱藩して上洛した藤本鉄石は、花房厳雄の門に入って天心独明流皆伝長沼流の軍学を学び、その後、全国を遊歴したのち、再び京に戻って私塾を開き、碧梅寒店と称しました。

文久2年(1862年)、薩摩藩国父の島津久光の率兵上京に呼応して、野国臣、清河八郎、吉村太郎らとともに討幕の挙兵を計りますが、久光の真意は公武合体であることがわかり、計画は頓挫します。

翌年の文久3年(1863年)、長州藩を中心とする在京の尊攘派は、孝明天皇を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。

これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。

この決定を知った鉄石は、吉村太郎、松本奎堂らとともに公卿の中山忠光を主将に推し立てて天誅組を組織し、その大和行幸の先兵として大和に乗り込みます。


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しかし、これに震え上がったのは当の孝明天皇。

自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない、討幕の先頭に立つなど滅相もない、と、京都守護職の松平容保SOSを求めます。

そうして起こったのが、尊攘派が一掃された「八月十八日の政変」でした。

これにより天皇の大和行幸の計画は頓挫し、大和で挙兵した天誅組は梯子を外されたかたちとなります。

孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。

鉄石は敗走の途中、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけ、壮絶な死を遂げたといいます。

享年48。


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藤本鉄石寓居址の石碑は、写真で見るとおり、有料駐車場と自動販売機の間に埋もれています。

わたしも、何度もこの前を通りながら、なかなかこの石碑が見つけられませんでした。

もうちょっと、どうにかならないでしょうかね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-05 00:17 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その28 「武市瑞山・吉村寅太郎寓居之跡」

三条木屋町を高瀬川沿いに上がったところにあるビルの前に、2つの石碑が建っています。

そのひとつは「武市瑞山寓居之跡」と刻まれたもので、もうひとつは、「吉村寅太郎寓居之跡」です。


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道路沿いに建てられているのは、武市瑞山の石碑です。

横には「ちりめん洋服発祥の地」と刻まれた石碑がありますが、ここでは関係ないのでスルーしましょう。

ここに、かつて武市瑞山が住んでいた「四国屋丹虎」がありました。


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瑞山というより、武市半平太と言ったほうがよく知られているかもしれません。

坂本龍馬の遠縁にあたり、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では、龍馬の盟友として登場する人物ですね。

土佐藩の郷士ながら、お見えの権利を持つ「白札」という身分を持つ武市は、江戸での剣術修行で鏡心明智流・桃井春蔵の道場の塾頭を勤めるほどの決客でしたが、やがて勤王思想に目覚め、帰郷後は郷士、村役人らを中心とする土佐勤王党を組織し、その首魁となります。

文久2年4月8日(1862年5月6日)、公武合体路線を推進する土佐藩参政・吉田東洋暗殺すると、すかさず土佐藩の人事を尊王派で固めるクーデターを起こし、白札の身分ながら藩政を牛耳り、全藩勤王を実現。

そして満を持して京に上った武市は、この地にあった「四国屋丹虎」を政治活動の拠点にします。

丹虎には各藩の尊王派の志士が集い、武市を中心に毎夜激論を交わしたと伝わります。

武市の手足となって「天誅」と称したテロ活動を行った岡田以蔵も、ここから暗殺現場に向かったといいます。

文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」が起こると、それまで藩政から離れていた山内容堂が復帰し、にわかに状況が悪化した土佐勤王党は大弾圧を加えられます。

そして、吉田東洋殺しや京都における天誅騒ぎの嫌疑により投獄され、在獄1年半のすえ、岡田以蔵の自白によって切腹を命じられます。

享年37。

辞世

「ふたゝひと返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」


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武市の石碑から奥まったとこの植え込みのなかに、吉村寅太郎の石碑があります。

実に見つけにくい場所で、知らなければ目に留まることもない場所です。


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吉村は、はじめは武市の組織した土佐勤皇党に名を連ねていたものの、党の方針に疑問を覚えて間もなく脱藩

同じ時期に坂本龍馬も脱藩しており、龍馬の脱藩に大きな影響を与えた人物ともいわれます。

その後、文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)に連座して捕縛され、国元へ帰され投獄されますが、8ヶ月後に保釈されると、再び京都へ上って、ここ武市がいた丹虎の隣に居を構え、諸藩の志士と交わって国事に奔走します。

そして、文久3年(1863年)8月、天皇の大和行幸を受けて倒幕の兵を大和で挙げることを計画し、尊攘派公卿の中山忠光(明治天皇の叔父)を擁して天誅組を結成しました。

ところが、「八月十八日の政変」で状況が一変し、梯子を外されたかたちで孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。

吉村寅太郎、享年27。


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かれの残した辞世の句、

「吉野山風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」

は、あまりにも有名ですね。

なんという凄まじい辞世でしょうか。


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そんな武市半平太と吉村寅太郎が居を構えたこの地。

短い期間ながら、日本の政局の中心になった場所でした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-05 20:29 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その13 「幕末志士葬送の道」

「その1」で紹介した維新の道の一筋南に、同じく東山霊山に通じる坂道があります。

ここは、「幕末志士葬送の道」と呼ばれ、坂本龍馬中岡慎太郎をはじめ、東山霊山に葬られた多くの志士たちの棺が運ばれたルートと伝わります。


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高台寺から清水寺に向かう有名な二年坂の途中を東に折れて進むと、「幕末志士葬送の道」と書かれた看板が目に入ります。


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そこからもうちょっと坂を上ると、石碑と説明板が。


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説明板によると、この道は、当地の東突当たりにある霊鷲山正法寺の参道で、「霊山正法寺道」ともいうそうです。

その正法寺の境内に、文化6年(1809年)霊明社(現在の霊明神社)が創建され、そこで神道による葬式が行われていたそうです。

江戸時代は徳川幕府の宗教政策によって原則すべての国民が仏教徒とされていましたが、幕末に入り、勤皇の志士たちは天皇家と同じく神道を信じる傾向にあったんですね。

それで、幕末の動乱で命を落とした勤皇の志士たちは、この道を通って霊明社に運ばれ、霊明社で神道によって埋葬祭祀されたというわけです。


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説明板の記載をそのまま引用すると、文久3年7月29日(1863年9月11日)、長州系志士である土佐の吉村太郎が、前日に亡くなった友人宮地宜蔵の埋葬祭祀を依頼したり(同日付村上都平宛吉村虎太郎書翰)、元治元年3月4日(1864年4月9日)、長州の久坂義助(玄瑞)が、先祖の永代供養を任せたほか(同年3月25日付妻宛書翰)、同年6月7日(1864年7月10日)、池田屋事件で亡くなった吉田稔麿らの遺体を長州屋敷が埋葬したそうですが、これらはほんの一例ですだそうです(同年6月13日付里村文左衛門ほか宛塩屋兵助ほか書翰)。


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「幕末志士葬送の道」の半分は階段です。

わたしが訪れた平成29年(2017年)8月は、道の北側が工事されていて、養生壁に囲われていました。

景観としては、少し残念。


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この日も二年坂は観光客でいっぱいでしたが、少し脇道にそれたこの道を通っていたのは、地元の人以外は私だけだった気がします。

ここを龍馬や慎太郎たちの遺体が通ったんですよ。

もうちょっと訪れる人がいてもいいですよね。

坂の上から見下ろすとこんな感じ。


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さて、次稿では「幕末志士葬送の道」を上ったところにある霊明神社を紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-14 00:25 | 幕末京都逍遥 | Comments(4)  

幕末京都逍遥 その8 「東山霊山護国神社~天誅組の墓」

こちらは天誅組コーナー(?)です。

「天誅組」とは、公卿の中山忠光を主将に尊皇攘夷派の志士たちで構成された集団で、文久3年(1863年)8月に起きた「天誅組の変」で壊滅しました。


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当時、京都のまちを支配していたのは、長州藩を中心とする尊王攘夷派でした。

彼らは孝明天皇を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。

これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。

天誅組は、その大和行幸の先兵として大和に乗り込みます。


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しかし、これに震え上がったのは当の孝明天皇。

自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない、討幕の先頭に立つなど滅相もない、と、京都守護職の松平容保SOSを求めます。

そうして起こったのが、尊攘派が一掃された「八月十八日の政変」でした。

これにより天皇の大和行幸の計画は頓挫し、大和で挙兵した天誅組は梯子を外されたかたちとなります。

孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。


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天誅組コーナーの中でも、吉村寅太郎の墓碑だけ別格あつかいでした。

吉村は天誅組総裁という立場で、主将は公卿の中山忠光でしたが、実質的指導者は吉村でした。

土佐藩出身の吉村は、はじめは土佐勤皇党に名を連ねていたものの、党の方針に疑問を覚えて間もなく脱藩

同じ時期に坂本龍馬も脱藩しており、龍馬の脱藩に大きな影響を与えた人物ともいわれます。

かれの残した辞世の句、


「吉野山風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」


は、あまりにも有名ですね。

なんという凄まじい辞世でしょうか。


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こちらは那須信吾の墓碑。

那須は吉村と同じく土佐勤皇党のメンバーで、吉田東洋暗殺の実行犯といわれています。

その後、脱藩して天誅組に加わり、戦死しました。


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こちらも土佐藩出身の池内蔵太の墓碑。

内蔵太は天誅組の変の数少ない生き残り組で、のちに坂本龍馬が結成した亀山社中(のちの海援隊)に入社しますが、不幸にも海難事故溺死します。

内蔵太の死を知った龍馬は、大いに悲しんだと伝えられます。


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幕末に一瞬の花火のように炸裂して散っていった天誅組。

しかし、彼らの国を思う気概は、150年経ったいまでも歴史の記憶に刻まれています。





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by sakanoueno-kumo | 2018-03-03 08:51 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」 奈良県五條市

吉野山から西南西に15kmほどのところに、「賀名生の里」と呼ばれる場所があるのですが、ここにも、かつて南朝の行宮があったと伝えられます。


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延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。


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現在、ここは「賀名生の里歴史民俗資料館」と称して観光用に公園整備されています。


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後醍醐天皇がこの地に滞在の理由は、真言密教に大きく帰依していた天皇が、総本山である高野山金剛峯寺への行幸を強く願っていたといい、それがかなわない場合に吉野山金峯山寺へと向かう計画だったため、高野山と吉野山のほぼ中間地点に位置する賀名生で様子をうかがっていたと伝えられます。


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後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)は、正平3年/貞和4年(1348年)、南朝の本拠地の吉野山が焼き討ちにあうと、ここ賀名生に行宮を定めました。

それから間もない正平6年/観応2年(1351年)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏して北朝の天皇は廃され、年号も統一されるのですが、しかし、具体的な和睦の条件は折り合わず、翌年には再び分裂します。

世にいう「正平の一統」です。

ただ、わずか数か月のことでしたが、南朝が唯一の朝廷となり、ここ賀名生はわが国の都になったことになるんですね。

その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、賀名生は南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。


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公園内には、「賀名生皇居跡」と伝わる藁葺屋根の古い屋敷があります。

ここは、西吉野の郷士・堀孫太郎信増の屋敷で、立ち寄った後醍醐天皇を手厚くもてなし、その後も後村上天皇、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)はこの地に入られたときも、皇居となりました。


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冠木門に掲げられた「賀名生皇居」扁額は、幕末の志士団・天誅組吉村寅太の筆によるものだそうです。

墨の色がまったく色褪せてないやん!・・・と思ってしまいますが、実はこれはレプリカで、本物は隣の「賀名生の里歴史民俗資料館」に展示されています。


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冠木門横に設置されていた説明板です。


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屋敷はいまも「堀家」様の住居として使用されておられるそうで、見学には事前の申込みが必要だそうです。

この日は申込みをしていなかったので、外観の写真のみ。


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南北朝時代に記された記録などによると、この地はもともと「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記され、「あなう」と呼ばれていたようです。

正平の一統のとき、後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたと伝えられるそうです。

のちに、この地の人々は「加名生」はおそれ多いとの理由で「賀名生」に改めたといわれ、明治のはじめに読み方を「あのう」に統一したそうです。


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700年近く前、わずか数ヶ月間わが国の首都となった賀名生の里。

いまは熊野路の隠れ郷といった雰囲気の静かな里です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-22 11:35 | 太平記を歩く | Comments(2)  

太平記を歩く。 その6 「大塔村」 奈良県五條市大塔町

後醍醐天皇(第96代天皇)が笠置山にて兵をあげると、その第2皇子・大塔宮護良親王も参向して父を助けます。

しかし、笠置山が落ちて父・後醍醐天皇が捕らえられると、大塔宮護良親王は幕府軍の追捕を逃れ、吉野、十津川、熊野などを転々とします。

その親王の名前が地名になった場所が、奈良県五條市の山奥にあります。


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和歌山県との県境に位置するこの地は、かつては奈良県吉野郡大塔村とされていましたが、現在は五條市に編入合併されています。

大塔村は「おおとうむら」と読みますが、大塔宮親王は「おおとうみや」とも「だいとうみや」とも読まれます。


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後醍醐天皇がまだ天皇になる前に生まれた大塔宮護良親王は、幼少期に比叡山に入り、20歳より同寺天台座主を務め、法名を尊雲と号しました。

この間、親王は比叡山の大塔周辺に門室を置いたことから、世に大塔宮と称されていました。

元弘元年(1331年)9月に後醍醐天皇が挙兵すると、還俗して参戦します。


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「道の駅・大塔」にある大塔村郷土館前には、大塔宮護良親王の騎馬像があります。


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逆光で顔が見難いですが、なかなか凛々しい姿です。


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アップです。


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後姿です。


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幕府の追捕を逃れた大塔宮護良親王は、熊野に落ち延びる途中にこの地に潜伏し、この地の豪族・竹原八朗、戸野兵衛の助けを得て全国各地に討幕の呼びかけを発し、機を窺っていました。

その縁で、この地は「大塔村」と呼ばれるようになったのだとか。

以後、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2にわたり幕府軍と戦い続けます。


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騎馬像の横には、「維新胎動の地」と刻まれた石柱が建てられています。

「胎動」とはいうまでもなく、生まれる前の胎児の動き。

このすぐ近くには、大塔宮護良親王の時代から500年以上あとの幕末騒乱期に立ち上がった吉村寅太郎ら反幕府勢力「天誅組」旗揚げの本陣跡があります。

彼らの挙兵は、あえなく幕府軍の追捕に散りますが、その後の討幕運動の起爆剤になりました。


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大塔宮護良親王の令旨も、天誅組の旗揚げも、この地から発せられた。

まさに、「維新胎動の地」だったわけですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-27 18:23 | 太平記を歩く | Comments(0)  

龍馬伝 第24話「愛の蛍」

 愛妻家だったという武市半平太。妻と離れ京にいた頃、勤王党の輩が色町に繰り出しても彼は決して行かなかったという。「天皇好き」とあだ名された半平太だったが、近しい者たちからは、「奥方好き」とも親しみをこめて揶揄された。

 ドラマ中、坂本龍馬の姉・乙女が語った半平太と妻・の夫婦愛のエピソード。この話は実話で、ここに出てきた友人というのは、龍馬より一足先に脱藩して、先の天誅組の変で落命した吉村寅太郎である。半平太と冨の間には子がなく、これが半平太のもとに集う一同の悩みの種だった。弟子たちは半平太に妾を持つよう勧めるが、彼はいっこうにその気を示さない。事を深刻に考えた寅太郎は、ある作戦を考えた。冨に理由をつけて一時実家に帰ってもらい、その間に美しい賄い女を雇い、半平太に手をつけさせるという作戦。冨も納得して暇を願い里に帰った。現代の感覚でいえばヒドイ話だが、この時代には「七去」という妻を離縁する基準とされた戒めがあり、「父母に順ならず」「子なき」「淫」「炉」「悪疾」「多言」「竊盗」という七つがその条件だった。中でも「嫁して三年子なきは去る」というのは一番の戒めとされ、寅太郎のとった行動は、師を思う行いとして当然のことだったのである。

 しかし半平太はその女中にまったく関心を示さない。業を煮やした寅太郎は、次々とタイプの違う美女を武市邸内に送りこむが、半平太は手をつけることなく、逆に不審に思った半平太が寅太郎を問いただし計略を白状させ、大いに叱責したという。その後呼び戻された冨は、あまりに喜ぶ半平太の姿に驚き、それまで以上に夫婦の絆が深まったという。至誠の人と言われた武市半平太の人物像がよくわかるエピソードだ。

 半平太が投獄されると、冨は献身的なまでに牢獄へと差入を行ない、影から武市の牢獄生活を支えた。獄中で主人は冬でも板の間に寝ているからと、自分も同じように板の間に寝て、夏には蚊帳も付けずに、冬でも何もかぶらずにいたという。差し入れは弁当や衣類のみならず、季節がわかるように、「花」やドラマのとおり「蛍」などを届けたという。まさにタイトルどおり「愛の蛍」だった。

 維新後、武市家の家録は没収されており家庭は貧困を極め、縫い仕事、袋貼り、マッチの箱貼り、押し絵づくりなどをしてようやく生計を立てていたらしいが、その後養子を迎え、その子に半太と名付け家督を継がせた。明治24年に朝廷から半平太に正四位が贈位された際、弟を伴って上京した冨に対し後藤象二郎板垣退助は、「半平太を死に追いやったのは、いかにも間違いであった」と詫びている。その後の武市家は田中顕助らの尽力もあって経済的には楽になり、養子・半太に半平太の甥の娘を娶わせ武市家を守った。そして大正6年、86歳まで天寿を全うする。

 冨が亡くなる5年前の大正元年、82歳の冨が実に50年近く前の夫を偲び詠んだ歌がある。
 「時しあれば 吹かでも花はちるものを 心みじかき 春の山風」 武市冨
 大意は、「時が来れば風の吹かなくても花は散るのに、なぜあなたは春の山風のように急いで散ったのですか」といったもので、15年間ほどの短い夫婦生活にもかかわらず、その後半世紀、亡き夫を思い続けた冨の心がうかがえる。冨の心にはいつも自分を慈しんでくれた夫が生き続けていたのだろう。心から妻を愛した武市半平太と、夫亡き後その思いを50年守り続けた貞節の妻・富。半平太の短い生涯は、冨という妻にめぐり合えた一点でのみ、幸せだったと言えるかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-06-14 01:54 | 龍馬伝 | Comments(2)