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天誅組の足跡を訪ねて。 その15 「天誅組天ノ辻本陣跡」

文久3年8月17日(1863年9月29日)に櫻井寺(別稿:その11)で五条新政府を立ち上げるも、その翌日に起きた「八月十八日の政変」により、わずか1日で逆賊となってしまった天誅組

京で天誅組追討の命が下されたことが明らかとなると、解散抗戦か協議のすえ、徹底抗戦の道を選びます。

もう、代官らを殺しちゃってましたからね。

いまさら後戻りは出来なかったのでしょう。

そして櫻井寺を後にした天誅組は、南下して要害堅固な天ノ辻本陣を移すことを決め、20日にこの地に入りました。

現在、本陣が布かれた場所は、維新歴史公園として整備されています。


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総裁の吉村寅太郎は、地元の医師・乾十郎とともに尊皇の志の厚いことで知られる十津川郷士募兵を働きかけ、960人の兵を集めました。

そして8月24日、その960人がこの地に集結したと伝えられます。


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しかし、その十津川郷士たちも、自ら臨んで来援した志士ばかりではなく、半ば脅迫されて強制的に集められた者たちも多かったため、戦意に乏しかったといいます。

しかも、休息も食事もなく戦闘に参加せられるなどの苛烈な指揮だったため、玉堀為之進ら数名の十津川郷士が天誅組幹部に抗議しますが、ここ天の辻で斬首されています。

こうなると、もはや義軍とはいえませんね。

天誅組は単なる暴徒と化していました。


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公園内には、「天誅組本陣遺趾」と刻まれた石碑が建てられています。


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こちらの説明碑は、新しいもののようです。


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ここ天誅組天辻本陣のあった場所は、地元の豪商であり有力者であった鶴屋治兵衛の屋敷がありました。

鶴屋治平衛は、天誅組の求めに応じて快く自宅を提供したと伝えられ、その結果、鶴屋も天誅組と運命をともにすることになります。

本当に快く協力したのか、あるいは、のちの明治政府がそういうことにしたのかはわかりません。

公園内には、「義烈 鶴屋治兵衛翁碑」と刻まれた石碑があります。

揮毫は公爵・三条公輝

元勲・三条実美の三男です。


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公園内には、天誅義士の歌碑がいくつかあります。

こちらは、天誅組記録方の伴林光平の歌碑です。


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伴林光平の歌碑がもうひとつありました。


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こちらは、武器取調方の野崎主計の歌碑です。

野崎は吉村と乾の誘いによって来援した十津川郷士です。


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誰の歌碑かわからないものもあります。


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8月26日、天誅組は高取城を攻撃しますが、高取藩兵の銃撃を受けてあえなく敗退

その日の夜に吉村ら決死隊が再び夜襲をかけましたが、これも失敗に終わり、天誅組は再びこの地に退却しました。

そして、9月14日、紀州藩・藤堂藩の追討軍が迫ってきたため、天誅組はここ天辻本陣に火を放って放棄し、その後、十津川村の武蔵、風屋、上野地などに本陣を転々と移すことになります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-19 11:55 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その9 「民俗資料館(五條代官所長屋門)」

「その8」で紹介した五條代官所跡のすぐ近くに、天誅組の史跡公園があります。

ここには、五條代官所の長屋門があり、民俗資料館として天誅組の史料などが展示されています。


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公園の入口には、「明治維新発祥の地」と書かれた大きな看板塔があります。

「発祥の地」とはちょっと言い過ぎの感はありますが、まあ、天誅組が倒幕の導火線にはなったかもしれません。


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ここにも、「さきがけの地」と書かれた説明駒札が。


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こちらの石碑にも、「明治維新発祥地」と刻まれた銘板が埋め込まれています。

どうしても、天誅組の変があったから明治維新が成ったということにしたいみたいです。


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石碑の裏側には、「明治100年記念事業として、旧代官所跡(現史跡公園)に建立」と記されています。


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公園内です。

向こうに見えるのが五條代官所の長屋門です。


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こちらの石碑は「天誅組一五〇年記念碑」とありますから、つい最近建てられたもののようですね。

手前の石板には、乾十郎、井澤宜庵、橋本若狭という五條出身の天誅義士3人の名が刻まれています。


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文久3年8月17日(1863年9月29日)に天誅組に襲撃されて焼き討ちされた五條代官所に代わり、翌年の元治元年(1864年)10月、この地に幕府が新たな代官所を立て直しました。

明治3年(1870年)、代官所は五條県発足の折りに五條県庁となり、その後、警察大屯所中学校などに利用されていたそうですが、明治10年(1877年)に五條区裁判所となり、現在に至っています。

裁判所の改築の際、正門である長屋門と広場を五條市が譲り受け、広場を史跡公園、長屋門を民俗資料館として整備されたそうです。


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つまり、この長屋門は天誅組襲撃時のときのものではないということですね。

天誅組義挙の翌年に建てられたものということです。


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長屋門は全長40mで、門脇に戸をつけ、その横に見張りのための出格子の窓をつけた番所がありました。


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長屋門の中は、天誅組資料館として古文書などの史料や天誅組史跡の写真パネルなどが展示されています。


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せっかくなので、吉村寅太郎のマグカップを購入しました。

坂本龍馬西郷隆盛などのグッズはいろんな観光地で売っていますが、吉村のマグカップは、ちょっとレアでしょう?(笑)

他にも藤本鉄石、松本奎堂のマグカップもありましたが、さすがにマニアックすぎて手が出ませんでした(笑)。

800円です。


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こちらは、長屋門下の石垣です。

なんか、城跡っぽくていいですね。


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現在はこうして五條市の観光誘致の顔となっている天誅組ですが、当時の五條の民衆にとっては、天誅組義挙というのはどのような事件だったのでしょうね。

観光案内の紹介文などでは、民衆は天誅組に協力的だったように書かれていましたが、果たしてそうだったでしょうか?

当時の幕府直轄地の民衆は、わりと恵まれた暮らしだったといいます。

五條の人たちにとっては、平穏な暮らしに突然襲いかかった暴徒でしかなかったんじゃないかと思うんですけどね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-04 02:03 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その8 「五条代官所跡」

文久3年8月17日(1863年9月29日)に五條に入った天誅組は、五條代官所を襲撃します。

現在、代官所のあった場所は五條市役所になっています。


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庁舎前の噴水池付近小庭園に、「五條代官所跡」と刻まれた石碑説明板があります。


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午後4時頃、代官所を包囲した天誅組は、代官の鈴木正信(源内)に降伏を要求。

ゲベール銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村寅太郎が率いる槍隊が裏門から突入しました。

突然の出来事に驚いた代官がこれを拒否するや、天誅組はすかさず武力で代官所を制圧。

代官所の人数は30人程で、意気軒昂な天誅組になす術もなく代官所方は敗北し、鈴木源内以下、5名が殺害されました。

その後、天誅組は代官所を焼き払います。


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なぜ天誅組が五條で旗揚げしたのかというと、天皇の行幸予定地である奈良に近かったことはもちろんですが、五條は幕府の直轄地であり、代官所の警備も手薄であったこと、古くから勤皇で知られた十津川郷が近く、いざというときには連携できるという思惑があったからでした。


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彼らがやったことは、どう考えても天誅とは言えず、単なるテロリズムでした。

妄信的尊皇攘夷を唱え、幕府の役人というだけで代官を殺害して首を晒し、やがて自滅していきます。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

天誅組をして「維新の魁」などと言う人がいますが、わたしは賛同できませんね。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-03 01:38 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その2 「狭山藩陣屋跡」

文久3年8月15日(1863年9月27日)に堺港に上陸した天誅組は、翌16日、払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入りました。

そこで天誅組は吉村寅太郎を軍使として狭山藩の陣屋に送り、先代藩主で隠居の身であった北条氏燕との面会を申し出ました。


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現在、その陣屋跡の一角には、石碑が建てられています。


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狭山藩北条氏は、戦国時代の関東で勢威を振るった小田原北条氏の子孫です。

豊臣秀吉小田原征伐によって小田原北条氏は滅亡しますが、その後、嫡流は断絶したものの、その枝流が跡を継いでこの地に移って大名となり、小藩ながら明治維新まで続きました。


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天誅組の申し出を受けた氏燕は、急病と偽って面会を断り、家老の朝比奈縫殿が代って対応します。

天誅組主将の中山忠光は、吉村を通して狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じました。

これに困った狭山藩は、とりあえず、甲冑ゲベール銃などの武具と、米、塩などを贈り、天皇親征の節には加わると回答したといいます。

しかし、周知の通り天皇親征は行われなかったんですね。

狭山藩の対応は賢明だったといえます。


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狭山藩陣屋は、狭山池東北の地にありました。

狭山池は日本最古のダム式ため池とされ、現在も洪水調整機能を備えたダム池として管理されています。


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現在、狭山池の周囲は公園として整備されています。


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天誅組の一行も、このため池の畔を歩いたかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-19 01:02 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その48 「藤本鉄石寓居之跡」

前稿で紹介した「西川耕蔵邸址」碑から100mほど東の御幸町通に、「藤本鉄石寓居址」と刻まれた石碑があります。

藤本鉄石は岡山藩出身の尊王攘夷派志士で、文久3年(1863年)に挙兵した天誅組の3人の総裁のひとりです。


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25歳のときに脱藩して上洛した藤本鉄石は、花房厳雄の門に入って天心独明流皆伝長沼流の軍学を学び、その後、全国を遊歴したのち、再び京に戻って私塾を開き、碧梅寒店と称しました。

文久2年(1862年)、薩摩藩国父の島津久光の率兵上京に呼応して、野国臣、清河八郎、吉村太郎らとともに討幕の挙兵を計りますが、久光の真意は公武合体であることがわかり、計画は頓挫します。

翌年の文久3年(1863年)、長州藩を中心とする在京の尊攘派は、孝明天皇を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。

これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。

この決定を知った鉄石は、吉村太郎、松本奎堂らとともに公卿の中山忠光を主将に推し立てて天誅組を組織し、その大和行幸の先兵として大和に乗り込みます。


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しかし、これに震え上がったのは当の孝明天皇。

自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない、討幕の先頭に立つなど滅相もない、と、京都守護職の松平容保SOSを求めます。

そうして起こったのが、尊攘派が一掃された「八月十八日の政変」でした。

これにより天皇の大和行幸の計画は頓挫し、大和で挙兵した天誅組は梯子を外されたかたちとなります。

孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。

鉄石は敗走の途中、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけ、壮絶な死を遂げたといいます。

享年48。


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藤本鉄石寓居址の石碑は、写真で見るとおり、有料駐車場と自動販売機の間に埋もれています。

わたしも、何度もこの前を通りながら、なかなかこの石碑が見つけられませんでした。

もうちょっと、どうにかならないでしょうかね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-05 00:17 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その28 「武市瑞山・吉村寅太郎寓居之跡」

三条木屋町を高瀬川沿いに上がったところにあるビルの前に、2つの石碑が建っています。

そのひとつは「武市瑞山寓居之跡」と刻まれたもので、もうひとつは、「吉村寅太郎寓居之跡」です。


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道路沿いに建てられているのは、武市瑞山の石碑です。

横には「ちりめん洋服発祥の地」と刻まれた石碑がありますが、ここでは関係ないのでスルーしましょう。

ここに、かつて武市瑞山が住んでいた「四国屋丹虎」がありました。


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瑞山というより、武市半平太と言ったほうがよく知られているかもしれません。

坂本龍馬の遠縁にあたり、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では、龍馬の盟友として登場する人物ですね。

土佐藩の郷士ながら、お見えの権利を持つ「白札」という身分を持つ武市は、江戸での剣術修行で鏡心明智流・桃井春蔵の道場の塾頭を勤めるほどの決客でしたが、やがて勤王思想に目覚め、帰郷後は郷士、村役人らを中心とする土佐勤王党を組織し、その首魁となります。

文久2年4月8日(1862年5月6日)、公武合体路線を推進する土佐藩参政・吉田東洋暗殺すると、すかさず土佐藩の人事を尊王派で固めるクーデターを起こし、白札の身分ながら藩政を牛耳り、全藩勤王を実現。

そして満を持して京に上った武市は、この地にあった「四国屋丹虎」を政治活動の拠点にします。

丹虎には各藩の尊王派の志士が集い、武市を中心に毎夜激論を交わしたと伝わります。

武市の手足となって「天誅」と称したテロ活動を行った岡田以蔵も、ここから暗殺現場に向かったといいます。

文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」が起こると、それまで藩政から離れていた山内容堂が復帰し、にわかに状況が悪化した土佐勤王党は大弾圧を加えられます。

そして、吉田東洋殺しや京都における天誅騒ぎの嫌疑により投獄され、在獄1年半のすえ、岡田以蔵の自白によって切腹を命じられます。

享年37。

辞世

「ふたゝひと返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」


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武市の石碑から奥まったとこの植え込みのなかに、吉村寅太郎の石碑があります。

実に見つけにくい場所で、知らなければ目に留まることもない場所です。


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吉村は、はじめは武市の組織した土佐勤皇党に名を連ねていたものの、党の方針に疑問を覚えて間もなく脱藩

同じ時期に坂本龍馬も脱藩しており、龍馬の脱藩に大きな影響を与えた人物ともいわれます。

その後、文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)に連座して捕縛され、国元へ帰され投獄されますが、8ヶ月後に保釈されると、再び京都へ上って、ここ武市がいた丹虎の隣に居を構え、諸藩の志士と交わって国事に奔走します。

そして、文久3年(1863年)8月、天皇の大和行幸を受けて倒幕の兵を大和で挙げることを計画し、尊攘派公卿の中山忠光(明治天皇の叔父)を擁して天誅組を結成しました。

ところが、「八月十八日の政変」で状況が一変し、梯子を外されたかたちで孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。

吉村寅太郎、享年27。


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かれの残した辞世の句、

「吉野山風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」

は、あまりにも有名ですね。

なんという凄まじい辞世でしょうか。


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そんな武市半平太と吉村寅太郎が居を構えたこの地。

短い期間ながら、日本の政局の中心になった場所でした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-05 20:29 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その13 「幕末志士葬送の道」

「その1」で紹介した維新の道の一筋南に、同じく東山霊山に通じる坂道があります。

ここは、「幕末志士葬送の道」と呼ばれ、坂本龍馬中岡慎太郎をはじめ、東山霊山に葬られた多くの志士たちの棺が運ばれたルートと伝わります。


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高台寺から清水寺に向かう有名な二年坂の途中を東に折れて進むと、「幕末志士葬送の道」と書かれた看板が目に入ります。


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そこからもうちょっと坂を上ると、石碑と説明板が。


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説明板によると、この道は、当地の東突当たりにある霊鷲山正法寺の参道で、「霊山正法寺道」ともいうそうです。

その正法寺の境内に、文化6年(1809年)霊明社(現在の霊明神社)が創建され、そこで神道による葬式が行われていたそうです。

江戸時代は徳川幕府の宗教政策によって原則すべての国民が仏教徒とされていましたが、幕末に入り、勤皇の志士たちは天皇家と同じく神道を信じる傾向にあったんですね。

それで、幕末の動乱で命を落とした勤皇の志士たちは、この道を通って霊明社に運ばれ、霊明社で神道によって埋葬祭祀されたというわけです。


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説明板の記載をそのまま引用すると、文久3年7月29日(1863年9月11日)、長州系志士である土佐の吉村太郎が、前日に亡くなった友人宮地宜蔵の埋葬祭祀を依頼したり(同日付村上都平宛吉村虎太郎書翰)、元治元年3月4日(1864年4月9日)、長州の久坂義助(玄瑞)が、先祖の永代供養を任せたほか(同年3月25日付妻宛書翰)、同年6月7日(1864年7月10日)、池田屋事件で亡くなった吉田稔麿らの遺体を長州屋敷が埋葬したそうですが、これらはほんの一例ですだそうです(同年6月13日付里村文左衛門ほか宛塩屋兵助ほか書翰)。


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「幕末志士葬送の道」の半分は階段です。

わたしが訪れた平成29年(2017年)8月は、道の北側が工事されていて、養生壁に囲われていました。

景観としては、少し残念。


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この日も二年坂は観光客でいっぱいでしたが、少し脇道にそれたこの道を通っていたのは、地元の人以外は私だけだった気がします。

ここを龍馬や慎太郎たちの遺体が通ったんですよ。

もうちょっと訪れる人がいてもいいですよね。

坂の上から見下ろすとこんな感じ。


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さて、次稿では「幕末志士葬送の道」を上ったところにある霊明神社を紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-14 00:25 | 幕末京都逍遥 | Comments(4)  

幕末京都逍遥 その8 「東山霊山護国神社~天誅組の墓」

こちらは天誅組コーナー(?)です。

「天誅組」とは、公卿の中山忠光を主将に尊皇攘夷派の志士たちで構成された集団で、文久3年(1863年)8月に起きた「天誅組の変」で壊滅しました。


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当時、京都のまちを支配していたのは、長州藩を中心とする尊王攘夷派でした。

彼らは孝明天皇を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。

これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。

天誅組は、その大和行幸の先兵として大和に乗り込みます。


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しかし、これに震え上がったのは当の孝明天皇。

自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない、討幕の先頭に立つなど滅相もない、と、京都守護職の松平容保SOSを求めます。

そうして起こったのが、尊攘派が一掃された「八月十八日の政変」でした。

これにより天皇の大和行幸の計画は頓挫し、大和で挙兵した天誅組は梯子を外されたかたちとなります。

孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。


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天誅組コーナーの中でも、吉村寅太郎の墓碑だけ別格あつかいでした。

吉村は天誅組総裁という立場で、主将は公卿の中山忠光でしたが、実質的指導者は吉村でした。

土佐藩出身の吉村は、はじめは土佐勤皇党に名を連ねていたものの、党の方針に疑問を覚えて間もなく脱藩

同じ時期に坂本龍馬も脱藩しており、龍馬の脱藩に大きな影響を与えた人物ともいわれます。

かれの残した辞世の句、


「吉野山風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」


は、あまりにも有名ですね。

なんという凄まじい辞世でしょうか。


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こちらは那須信吾の墓碑。

那須は吉村と同じく土佐勤皇党のメンバーで、吉田東洋暗殺の実行犯といわれています。

その後、脱藩して天誅組に加わり、戦死しました。


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こちらも土佐藩出身の池内蔵太の墓碑。

内蔵太は天誅組の変の数少ない生き残り組で、のちに坂本龍馬が結成した亀山社中(のちの海援隊)に入社しますが、不幸にも海難事故溺死します。

内蔵太の死を知った龍馬は、大いに悲しんだと伝えられます。


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幕末に一瞬の花火のように炸裂して散っていった天誅組。

しかし、彼らの国を思う気概は、150年経ったいまでも歴史の記憶に刻まれています。





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by sakanoueno-kumo | 2018-03-03 08:51 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」 奈良県五條市

吉野山から西南西に15kmほどのところに、「賀名生の里」と呼ばれる場所があるのですが、ここにも、かつて南朝の行宮があったと伝えられます。


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延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。


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現在、ここは「賀名生の里歴史民俗資料館」と称して観光用に公園整備されています。


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後醍醐天皇がこの地に滞在の理由は、真言密教に大きく帰依していた天皇が、総本山である高野山金剛峯寺への行幸を強く願っていたといい、それがかなわない場合に吉野山金峯山寺へと向かう計画だったため、高野山と吉野山のほぼ中間地点に位置する賀名生で様子をうかがっていたと伝えられます。


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後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)は、正平3年/貞和4年(1348年)、南朝の本拠地の吉野山が焼き討ちにあうと、ここ賀名生に行宮を定めました。

それから間もない正平6年/観応2年(1351年)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏して北朝の天皇は廃され、年号も統一されるのですが、しかし、具体的な和睦の条件は折り合わず、翌年には再び分裂します。

世にいう「正平の一統」です。

ただ、わずか数か月のことでしたが、南朝が唯一の朝廷となり、ここ賀名生はわが国の都になったことになるんですね。

その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、賀名生は南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。


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公園内には、「賀名生皇居跡」と伝わる藁葺屋根の古い屋敷があります。

ここは、西吉野の郷士・堀孫太郎信増の屋敷で、立ち寄った後醍醐天皇を手厚くもてなし、その後も後村上天皇、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)はこの地に入られたときも、皇居となりました。


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冠木門に掲げられた「賀名生皇居」扁額は、幕末の志士団・天誅組吉村寅太の筆によるものだそうです。

墨の色がまったく色褪せてないやん!・・・と思ってしまいますが、実はこれはレプリカで、本物は隣の「賀名生の里歴史民俗資料館」に展示されています。


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冠木門横に設置されていた説明板です。


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屋敷はいまも「堀家」様の住居として使用されておられるそうで、見学には事前の申込みが必要だそうです。

この日は申込みをしていなかったので、外観の写真のみ。


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南北朝時代に記された記録などによると、この地はもともと「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記され、「あなう」と呼ばれていたようです。

正平の一統のとき、後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたと伝えられるそうです。

のちに、この地の人々は「加名生」はおそれ多いとの理由で「賀名生」に改めたといわれ、明治のはじめに読み方を「あのう」に統一したそうです。


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700年近く前、わずか数ヶ月間わが国の首都となった賀名生の里。

いまは熊野路の隠れ郷といった雰囲気の静かな里です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-22 11:35 | 太平記を歩く | Comments(2)  

太平記を歩く。 その6 「大塔村」 奈良県五條市大塔町

後醍醐天皇(第96代天皇)が笠置山にて兵をあげると、その第2皇子・大塔宮護良親王も参向して父を助けます。

しかし、笠置山が落ちて父・後醍醐天皇が捕らえられると、大塔宮護良親王は幕府軍の追捕を逃れ、吉野、十津川、熊野などを転々とします。

その親王の名前が地名になった場所が、奈良県五條市の山奥にあります。


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和歌山県との県境に位置するこの地は、かつては奈良県吉野郡大塔村とされていましたが、現在は五條市に編入合併されています。

大塔村は「おおとうむら」と読みますが、大塔宮親王は「おおとうみや」とも「だいとうみや」とも読まれます。


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後醍醐天皇がまだ天皇になる前に生まれた大塔宮護良親王は、幼少期に比叡山に入り、20歳より同寺天台座主を務め、法名を尊雲と号しました。

この間、親王は比叡山の大塔周辺に門室を置いたことから、世に大塔宮と称されていました。

元弘元年(1331年)9月に後醍醐天皇が挙兵すると、還俗して参戦します。


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「道の駅・大塔」にある大塔村郷土館前には、大塔宮護良親王の騎馬像があります。


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逆光で顔が見難いですが、なかなか凛々しい姿です。


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アップです。


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後姿です。


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幕府の追捕を逃れた大塔宮護良親王は、熊野に落ち延びる途中にこの地に潜伏し、この地の豪族・竹原八朗、戸野兵衛の助けを得て全国各地に討幕の呼びかけを発し、機を窺っていました。

その縁で、この地は「大塔村」と呼ばれるようになったのだとか。

以後、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2にわたり幕府軍と戦い続けます。


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騎馬像の横には、「維新胎動の地」と刻まれた石柱が建てられています。

「胎動」とはいうまでもなく、生まれる前の胎児の動き。

このすぐ近くには、大塔宮護良親王の時代から500年以上あとの幕末騒乱期に立ち上がった吉村寅太郎ら反幕府勢力「天誅組」旗揚げの本陣跡があります。

彼らの挙兵は、あえなく幕府軍の追捕に散りますが、その後の討幕運動の起爆剤になりました。


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大塔宮護良親王の令旨も、天誅組の旗揚げも、この地から発せられた。

まさに、「維新胎動の地」だったわけですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-27 18:23 | 太平記を歩く | Comments(0)