人気ブログランキング |

タグ:吉田松陰 ( 26 ) タグの人気記事

 

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その4 <山田顕義終焉之地>

「その3」のつづきです。

生野の変ゆかりの地とは少し違うかもしれませんが、JR生野駅の駅前広場に、「山田顕義終焉之地」と刻まれた石碑があります。

山田顕義は元長州藩士で、明治新政府軍の参謀や政府の要職を務めた人物ですが、前稿で紹介した生野の変の強硬派の中心人物として自刃した河上弥市(南八郎)再従兄にあたります。


e0158128_18045040.jpg


山田顕義はあの吉田松陰松下村塾の門下生で、入門当時は15歳。

松蔭にとっては最年少の門下生でした。

文久2年(1862年)12月には、高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、品川弥二郎らとともに御楯組血判書にも名を連ね、その後、幕末の数々の戦いに参戦しました。

文久3年8月18日(1863年9月30日)の八月十八日の政変では、三条実美澤宣嘉らの長州亡命に同行しますが、途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻って潜伏します。

なので、生野の変には参加していません。

もし、そのまま七卿落ちに同行していたら、河上や澤らと共に生野の挙兵に加わっていたかもしれません。


e0158128_18045724.jpg


その後、禁門の変、馬関戦争、功山寺挙兵など長州藩士が関わるほとんどの内乱に参戦し、戊辰戦争では陸軍参謀兼海陸軍参謀として倒幕戦に尽力し、明治維新後は佐賀の乱西南戦争に征討軍の将として参加し、その戦術は「用兵の妙、神の如し」と評されるほどでした。


e0158128_18050072.jpg


明治新政府では、あの岩倉使節団の一員として欧米を視察したのち、東京鎮台司令長官、司法大輔、陸軍中将、参議、工部・内務・司法の各卿などを歴任。

明治18年(1885年)には初代の司法大臣として入閣し、明治24年(1891年)に病気療養を理由に辞職するまで、伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義と4代の内閣で司法大臣を務めます。

また、教育を重視し、明治22年(1889年)には日本大学の前身である日本法律学校を創設し、翌年には國學院(現在の國學院大学)を設立に尽力しました。


e0158128_18050350.jpg


そんな山田の終焉の地がなぜ生野にあるかというと、明治25年(1892年)11月、郷里の山口県から東京へ戻る途中、生野の変で自刃した再従兄河上弥市(南八郎)の菩提を弔うため、「その3」で紹介した山口護国神社を訪れました。

そのあと生野銀山を視察中に倒れ、そのまま立つことができず薨去します。

享年49。


e0158128_18050660.jpg


生野は兵庫県のちょうど真ん中あたりにあり、山口から東京へのついでで立ち寄れるようなところではありません。

当時なら、おそらく姫路から汽車で1日近く掛かったんじゃないでしょうか?
(そもそも汽車などまだつながっていなかったかも)

あるいは、ひとつ間違えれば河上とともに生野の挙兵に参加し、29年前にこの地で落命していたかもしれなかった山田顕義。

そんな思いが、病身をおしてでもこんな遠くまで足を運ばせたのかもしれませんね。

まさか、そこで29年越しに命を落とすとは・・・。

河上が呼び寄せたのかもしれません。

合掌。

「その5」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-11-27 01:04 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

伝馬町牢屋敷跡・処刑場跡(吉田松陰終焉之地)

東京メトロ日比谷線伝馬町駅を降りて地上に上がったところに、何やら古い石碑と説明板があります。

石碑を見つけるとついつい足を止めてしまうわたしですが、そこには、「吉田松陰先生終焉地」と刻まれた文字が。


e0158128_20070954.jpg


東京に土地勘のないわたしですが、「伝馬町」という地名には何となく聞き覚えがあったのですが、石碑を見て思い出しました。

そうだ、処刑場があったところだ!・・・・と。

この日わたしは別の目的で伝馬町駅を降りたのですが、こういうものを見つけてしまうと、立ち寄らないと気がすみません。


e0158128_20101587.jpg


駅の北側にある大安楽寺の門横に、「江戸伝馬町処刑場跡」と刻まれた石碑があります。


e0158128_20101934.jpg


まるで鮮血で書いたような文字ですね。


e0158128_20113952.jpg


境内には、「江戸傳馬町牢御椓場跡」と刻まれた石碑も。

つまり、ここは牢獄死刑場が一緒になった拘置所だったわけです。


e0158128_20130033.jpg


大安楽寺の北側にある十思公園も、伝馬町牢屋敷の敷地でした。

伝馬町牢屋敷は、慶長年間(1600年頃)から明治8年(1875年)まで270年にわたって数十万人の囚人を収容しました。

幕末期には、安政の大獄で捕まった吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らもここに収監され、処刑されています。


e0158128_20153550.jpg


公園内には、発掘された牢屋敷の石垣が展示されています。


e0158128_20153815.jpg

石の上にのってい乗っているのは、公園で遊んでいた親子の荷物です。

除けてくれないかなぁと思いながら待っていたのですが、その気配がなさそうなので、やむなくそのまま撮影(苦笑)。

まあ、公園なので仕方ありません。


e0158128_20202156.jpg


公園の片隅には、「松陰先生終焉之地」と刻まれた石碑と、辞世の句が刻まれた歌碑、そして顕彰碑が並んで建てられています。


e0158128_20202517.jpg


安政6年5月25日(1859年6月25日)、萩から護送された吉田松陰は、6月25日(7月24日)に江戸桜田の長州藩邸に入り、7月9日(8月7日)、ここ伝馬町牢屋敷へと移され、取り調べが始まりました。

松蔭にかけられた罪状は主に2つで、ひとつは、すでに捉えられていた梅田雲浜密談して反幕府政治工作を企てたのではないかという疑いで、そしてもうひとつは、京都御所で見つかった幕府批判の落とし文を書いたのではないかという嫌疑でした。しかし、松陰はそのどちらも身に覚えがなく、臆することなく否認します。


「吾性光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ」

(わたしは性来、公明正大を好む。落とし文などという隠れごとなどしない。)


・・・と。

その堂々とした受け答えに、取調官は大いに圧倒されたようです。

このままで終わっていれば、松蔭は大した罪には問われなかったかもしれませんが、しかし、ここで松蔭は、常人には理解できない行動にでます。

というのも、かつて幕府老中・間部詮勝要駕を企てたことを、訊ねられてもいないのに自ら白状してしまうんですね。

なぜ、そのような行動に出たのかはハッキリしませんが、だいたいの物語などでは、取調官の巧みな誘導尋問に乗っかったというのが、共通した描かれ方です。

光明正大にもほどがありますよね。

このときの松蔭について、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では次のように書いています。


「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。」


取調官の権謀術数にまんまとかかったのか、あるいは、取調官の老獪さを知った上で、あえて死を決して自供したのか、いずれにせよ、松蔭は自らの行いに一点の曇りもなかったのでしょう。


「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」


元は孟子の言葉で、松蔭の語録でもあるこの言葉どおり、誠意をもって話をすれば、取調官の心をも動かすことができると思ったのでしょうか?


e0158128_20203208.jpg


松蔭の取り調べは、その後、9月5日(9月30日)、10月5日(10月30日)と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。

しかし、10月16日(11月10日)の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。

そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。

これに松蔭は激しく異をとなえます。

もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。


「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」

(全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。

その話によると、10月5日(10月30日)の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。

その刑を下したのは、大老・井伊直弼だったと。

死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。

その冒頭の句が、この石碑に刻まれた有名な歌です。


「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

(この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


この歌が、その後、松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。


e0158128_20202975.jpg


『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日(11月21日)朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。

そして駕籠にてここ伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。

享年30。

このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。


「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」


こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。

そして、もうひとつ。


「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

(子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の報せが父母に届いたら、なんと思うだろう)


これも有名な辞世の句ですね。

哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。

後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。

なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2019-01-11 02:15 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その82 「吉田松陰拝闕詩碑」

「その80」で紹介した平安神宮の大鳥居の西側、京都府立図書館の敷地に、吉田松陰が詠んだとされる詩碑があります。

松蔭と京都の縁はあまり印象にないですが、この碑に刻まれた詩は、松蔭の著『長崎紀行』によれば、江戸から長崎へ向かう道中の嘉永6年10月2日(1853年11月2日)京都御所を拝したときに詠んだものだそうです。

嘉永6年といえば、ペリー提督率いる黒船艦隊がはじめて浦賀に来航した年。

松蔭はそれを目の当たりにして衝撃を受け、その後、師の佐久間象山の勧めもあって外国留学を決意し、長崎に寄港していたプチャーチンロシア軍艦に乗り込もうと考えて長崎に向かうも、船が予定より早く出航してしまったため、望みを果たせませんでした。

そのときの長崎行きの途中に寄った京都で詠んだ詩ということですね。


e0158128_18343721.jpg


<碑文>

山河襟帯自然城東来無不日憶神 京今朝盥嗽拝 鳳闕野人悲泣

不能行上林零落非復昔空有山河無変更聞説 今皇聖明徳

敬天憐民発至誠鶏鳴乃起親斎戒祈掃妖氛致太平従来 英皇不

世出悠々失機今公卿安得天詔勅六師坐使 皇威被八紘人

生若萍無定在何日重拝天日明

右癸丑十月朔日奉拝鳳闕粛然賦之時余将西走入海

丙辰季夏二十一回藤寅手録


<読み下し>

山河襟帯・自然の城、東来日として神京を憶はざるはなし、

今朝盥嗽(くわんそう)して鳳闕を拝し、野人悲泣して行くこと能はず、

上林零落・復た昔に非ず、空しく山河の変更なき有り、

聞説(きくなら)く今皇聖明の徳、天を敬ひ民を憐み至誠より発す、

鶏鳴乃ち起き親ら斎戒し、妖氛を掃ひて太平を致さんことを祈る、

従来英皇世(よゝ)出で(給は)ず、

悠々機を失す今の公卿、安んぞ天詔を六師に勅して、坐(ざ)ながら皇威をして八絋に被らしむるを得ん、

人生は萍の若(ごと)く定在なし、何れの日にか重ねて天日の明(あきらか)なるを拝せん。

右は癸丑十月朔旦(嘉永六年十月一日)鳳闕を拝し奉り、粛然として之を賦す、時に余将に西走して海に入らんとす

丙辰季夏(安政三年夏の末) 十一回(猛士)藤寅手録


e0158128_18361071.jpg


<大意>

京都は山河にかこまれ、おのづから他とは異なる地になっている

江戸へ来てからも、一日としてこの神聖な京都を思わぬ日はない

この朝身を清め御所を拝した

政治に無縁のわたしも悲しみのあまり動くことができない

というのは朝廷の権威と権力が地に落ちて昔に戻ることはなく

周囲の山河だけが変わりなく残っているのがいたましいからだ

もれうけたまわれば、今上天皇は最上の徳をお持ちで

天を敬い人民をいつくしみ誠を尽くしておられる

日出には起きて身を清め

日本にたれこめた妖気をはらい太平をもたらすことを祈られると

いままでこのような英明な天皇はいなかったというのに

役人どもはのんべんだらりと時間つぶしをやっているだけ

なんとかして天皇の詔勅をうけたまわり精鋭なる全軍を動かし

思うままに天皇の権威を世界におよぼしたいものだ

なんて思っていてもわたしはゆくえも知れない浮草の身

ふたたび御所を拝する日が来るだろうか


e0158128_18394046.jpg

この詩については、『長崎紀行』以外にも、一部の文字が異なるかたちでいくつか伝わるそうですが、この碑に刻まれた詩は、が安政3年(1856年)に山縣有朋の父・山縣有稔のために旧作を揮毫したものだそうで、後年、有朋が「この書は松陰先生の精神を体現したものであり、私蔵するべきではない」と考え、明治15年(1882年)に宮中に献納したそうです。

そして、松蔭の50回忌にあたる明治41年(1908年)10月、京都府教育会によって建碑されました。

石碑の裏の説明文は、松下村塾の門下生で、この当時子爵となっていた野村靖が書いたものです。


e0158128_18372196.jpg


「その78」で紹介しましたが、松陰は生前、京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り、人々の心を奮い立たせようという志を抱いていたといいます。

その志は叶いませんでしたが、没後50年にして、自身の勤王の志を詠んだ詩が京都のまちに建とうとは、夢にも思わなかったでしょうね。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-06-26 23:35 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その78 「尊攘堂」

前稿と同じく京都大学キャンパス内に、「尊攘堂」という名称の洋館があります。

ここは、元長州藩士で子爵となった品川弥二郎が、師の吉田松陰遺志を継いで建造したものに由来します。


e0158128_17271506.jpg


「尊攘」とは、言うまでもなく「尊皇攘夷」のことですね。

吉田松陰は生前、京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り、人々の心を奮い立たせようという志を抱いていましたが、それを果たせずに刑死します。

松蔭は死を前にして、その志を門人の入江九一に託しますが、その入江も、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で落命し、松蔭の遺志は遂げられませんでした。


e0158128_17271860.jpg


入江と共に松下村塾の門下生だった品川は、後年、この話を知り、師の遺志を果たそうと決意。

明治20年(1887年)にドイツから帰国すると、高倉通錦小路に尊攘堂を建造し、勤王志士の霊を祀り、志士の殉難の史料、遺墨、遺品などを収集し、祭儀を営み、一般の参拝を許し、収蔵品を観覧させました。

これが、初代の尊攘堂でした。


e0158128_17314460.jpg


品川の死後、明治34年(1901年)に所蔵品は京都帝国大学に寄贈され、明治36年(1903年)、大学構内に二代目の尊攘堂が新築されます。

それが、この尊攘堂です。


e0158128_17302350.jpg


平成10年(1998年)に国の登録有形文化財として登録されています。


e0158128_17272135.jpg


この石碑は、昭和15年(1940年)10月に皇紀2600年を記念して建てられ、 第二次世界大戦が終わった昭和20年(1945年)8月21日に一度撤去されたそうです。

その後、ながらく所在が不明となっていたそうですが、平成25年(2013年)3月1日、構内で遺跡の立合調査を行った際、樹木の根元に放置された状況で置かれているこの石碑が偶然発見されたそうです。


e0158128_17302728.jpg


石碑は、正面に「尊攘堂」、側面には「皇紀二千六百年記念」と刻まれ、反対側の側面にはこの建物の由来が刻まれています。

平成26年(2014年)12月、元あった場所に近い位置に設置されたそうです。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-06-20 23:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その29 「佐久間象山寓居之跡」

木屋町通り三条と木屋町御池の間に、佐久間象山寓居之跡があります。

現在はビルとビルの間にある有料駐車場の入口脇に石碑が建つのみとなっています。

写真のとおり、看板と店舗の壁の間にあって、見つけるのに苦労しました。


e0158128_22530910.jpg


文化8年(1811年)、信濃国松代藩士の家に生まれた佐久間象山ですが、後世には松代藩士としてのイメージはあまり知られず、幕末きっての知識人として高名ですよね。

象山は、儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術と称し、この2つの学問の融合をはかり、早くから海防の必要性を説き、開国を論じ、公武合体を説きました。

彼の論じるところは、分裂した国論を統一し、それによって国権の伸長をはかり、五大州をわが手に収め、その盟主となって全世界に号令するという、実に気宇壮大なものでした。

そんな象山の知識を吸収しようと、全国各地の優秀な人材が彼のもとに集いました。

象山の門弟からは、吉田松陰勝海舟をはじめ、橋本左内河井継之助山本覚馬坂本龍馬など、のちの日本を担う人物が数多く輩出されています。

彼がこの時代の先覚者として、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことは紛れもない事実でしょう。


e0158128_22531291.jpg


嘉永7年(1854年)、来航したペリー艦隊に乗り込んで密航を企てた門弟の吉田松陰に連座して、象山も蟄居を命じられます。

その後、約8年間、郷里である松代での蟄居を余儀なくされますが、その罪が解かれた元治元年(1864年)3月、一橋慶喜(のちの第十五代将軍・徳川慶喜)に招かれて上洛し、朝廷内に公武合体論開国論を説いてまわります。

そのとき、この地に居を構えていたようです。

しかし、当時の京都のまちは、前年の「八月十八日の政変」によって尊攘派は表立った行動ができなくなっていたとはいえ、未だ尊攘派志士たちが数多く潜伏しており、勢力の奪還をはかっていました。

そんななかを、象山は馬上洋装で都大路をさっそうと闊歩していたといいますから、殺してくれと言わんばかりの姿ですよね。

案の定、元治元年7月11日(1864年8月12日)、このすぐ近くで肥後の攘夷志士・川上彦斎らに襲撃されて落命します。

暗殺のくだりは、また次稿にて。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-04-06 22:41 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第36話「高杉晋作の遺言」 ~おもしろき こともなき世を おもしろく~

 四境戦争で幕府軍15万に圧勝した長州藩でしたが、その勝利のいちばんの立役者である高杉晋作が、戦後まもなくに伏してしまいます。というか、戦前から肺疾患の気配があったようで、とくに戦い終盤の小倉城攻めがこたえたらしく、慶応2年(1866年)9月4日に、白石正一郎邸で大量に吐血したと、白石の日記に記されています。戦の指揮の疲労も去ることながら、戦中も戦後も、晋作は連日のように芸姑をあげて大酒をあおっていたようで、それも、病状を悪化させた要因だったのでしょう。

 自身の容体が容易なことでないと自覚した晋作は、病気療養に専念すべく、白石邸を出て、下関郊外にある桜山という丘の麓に家を建て、そこに引っ越します。晋作はこの家を「東行庵」と名づけました。「東行」とは、かつて晋作が10年間隠棲するといって出家した際に、自らつけたですね。晋作はこの東行庵で、まさに世捨て人のようにを詠み、詩文を書いて過ごします。作家・司馬遼太郎氏は高杉晋作について、「幕末ではなく平和な時代に生まれていれば、有名な詩人になっていただろう。」と言っていますが、それは、この時期に残した数々の名句、名文によるイメージでしょう。東行庵は、療養所であると同時に、詩人・高杉晋作のアトリエでした。

 藩は晋作の病状がおもわしくないことを重く見、世子・毛利元徳から見舞状、見舞金の下付があり、すべての御役目を解かれ、病気療養手当が毎月支給されました。また、藩内で名医と評判の高い長野昌英李家文厚を藩命によって主治医にし、さらに、藩主の侍医である竹田友伯を出張先の太宰府から呼び戻し、晋作の治療にあたらせるなど、一介の書生への待遇としては異例の処置をとります。書生とはいえ、晋作はすでに救国の英雄的存在となっており、藩としては、いま晋作に死なれてはたまらないという思いがあったのでしょう。

 なぜかドラマでは出てきませんでしたが、東行庵で晋作の看病を務めたのは、妻の雅子でも美和でもなく、愛妾おうのと女流歌人の野村望東尼の両人でした。このふたりがドラマ自体にキャスティングされていないのならともかく、二人共何度か登場しているのに、なぜ最期のシーンに登場させなかったのでしょうか? 最期は愛妾ではなく正妻に看取らせるため? だとしたら、女性脚本家ならではの愚にも付かぬ設定ですね。わたしは、最終回まで観ずに批判することは極力しないようにしてきましたが、今話はさすがにひどすぎます。妻と息子に励まされて幸せそうに微笑む高杉晋作なんて、世の晋作像とはおよそかけ離れたキャラですし、ましてや、美和を呼びつけて未来を託すなんて、なんて安っぽい脚本でしょうか。吉田松陰久坂玄瑞の死が、それなりに上手く描かれていただけに、第三の見せ場である晋作の最期が、あまりにも幼稚な設定でガッカリです。

 妻の雅子が病床を訪れたのは、死の3週間ほど前の慶応3年(1867年)3月24日でした。この頃の晋作は、自力で立つこともままならないほど衰弱しきっていましたが、それでも突然、「林亀(料亭)に行きたい」などと口にし、周囲を困らせました。これを聞いたおうのは、三味線を弾いて林亀にいるかのように装い、晋作の気分を落ち着かせたというエピソードがあります。そして4月13日夜にも、今度は「対帆楼(料亭)に行きたい」というので、駕籠をよんで病床から乗りますが、駕籠のなかで便を漏らし、引き返して病床につきました。そしてその14日未明に死去します。享年28歳

 死の淵にあって晋作は、枕元にいた野村望東尼に筆と紙を要求し、

 「おもしろき こともなき世を おもしろく」

 とまで書いたところで力尽きて筆を落としてしまい、この尻切れとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないと考えた望東尼が、

 「すみなすものは 心なりけり」

 と書き足して晋作に見せると、「・・・面白いのう」と微笑んで、そのまま息を引き取った、という有名なエピソードがありますが、近年の研究によれば、この歌は死の前年にすでに詠まれていたという記録があるそうで、死の淵の逸話は誰かの作り話だろうという見方が有力なんだそうです。歴史研究が進むのは望ましいことですが、ときにそれでドラマチックな側面を失うこともあり、残念な思いになったりします。しかし、死の淵の逸話がどうであれ、高杉晋作という人物の短い生涯が、ドラマチックであったことは間違いありません。

 「人の生涯には春夏秋冬があり、それは人生の長さに関係しない」
 「男子たるもの、自身の人生を一遍の詩にすることが大事だ。」


 とは、吉田松陰が晋作ら弟子たちに残した言葉ですが、まさしく、晋作の生涯には激しすぎるほどの春夏秋冬があり、一遍の詩だったといえるでしょう。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2015-09-07 18:05 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(4)  

大阪都構想の夢ついえた橋下徹市長に告ぐ、志士は溝壑に在るを忘れず。

橋下徹大阪市長が推し進めてきた大阪都構想否決されましたね。
関西のテレビやラジオでは、今日1日その話題でもちきりです。
投票率66.8%という地方選では考えられない高い関心度を示した住民投票だったようですが、結果は反対が70万5585票、賛成の69万4844票という、わずか1万票余りの差での決着でした。
ただ、その結果を世代別で見ると、反対多数だったのは70歳代以上だけで、20歳代~60歳代は、いずれも賛成派が上回っていたそうですね。
年配の方にしてみれば、現在「市」から受けている福祉が削減されるかもしれないという不安に駆られてのことでしょうが、若い世代にとっては、10年後、20年後を見据えての判断だったのでしょう。
言葉は悪いですが、若者の希望を年寄りが潰したということになりますね。
わたしはお隣の兵庫県民なので投票権はなかったのですが、大阪の財政問題は関西全体の経済にも関わる問題で、当然、無関心ではいられるはずがありません。
そうですが・・・否決ですか・・・。
正直、残念ですね。

橋下さんのやり方も、もっと方法があったような気がしますね。
自身の人気を過信しすぎたのか、真っ向勝負しすぎだったんじゃないでしょうか?
良く言えば公明正大、悪く言えばバカ正直というか・・・。
それが彼の魅力といえばそうなんでしょうが、政治家はときには権謀術数も必要だと思いす。
やろうと思えば方法はあったと思うんですけどね。
たとえば、自民党府連は反対の立場をとっていましたが、菅義偉官房長官なんかは「個人的には賛成」などと言っていましたし、首相官邸サイドにしてみれば、橋下さんを敵に回したくない思惑があったわけでしょう。
だったら、それを利用しない手はないですよね。
その「思惑」交換条件にすれば、安倍晋三首相の援護射撃を取りつけることも出来たんじゃないでしょうか?
安倍さんもこの土日、関西に来てたしね。

この結果を受けて、橋下徹大阪市長は12月の任期満了で政界を引退するそうですね。
政治生命を賭けて臨んだ政策だっただけに、大阪都構想の終焉は政治家・橋下徹の終焉といったところなんでしょうが、これまた、少々カッコ良すぎるんじゃないでしょうか?
大阪都構想の夢は潰えましたが、賛成派がほぼ半数近くいたわけで、ましてや、今回の投票は大阪都構想への賛否であり、橋下市政ならびに政治家・橋下徹を否定したわけではありません。
市政は都構想だけではないですしね。
志尽きたからには、武士らしく潔く切腹・・・といえば、なるほど戦士の美学かもしれませんが、自身が代表を務める「大阪維新の会」の語源である「明治維新」の原動力となった吉田松陰の言葉に、次のようなものがあります。

志士は溝壑に在るを忘れず(志士不忘在溝壑)
勇士は其の元を失ふを忘れず(勇士不忘喪其元)


「志士は山野の溝に自分の遺体を晒すことを恐れてはならない」
「勇士は斬首されることを恐れてはならない」

ということです。
潔く切腹なんてのは、所詮は逃げ口上で、高い志を持った志士は、首をもがれて遺体を溝に捨てられるまで、戦い続けるべきである・・・と。
たしか、小泉純一郎元首相も、施政方針演説でこの言葉を引用していましたね。
その人気の高さや政治姿勢が、よく小泉さんと比較された橋下さんでしたが、その意味では、橋下さんの政治家としての首は、まだ繋がっていますよね。
まあ、今は精も根も尽き果てたといった状態かもしれませんが、少し頭を冷やして、もう一度考えなおして欲しいと思います。
わたしはこれまでも橋下さんに対して、たびたび厳しいことを言ってきましたが、それだけ期待していたということで、このまま幕を引くというのであれば、残念ながら、その程度の政治家だったのか・・・と、思わざるを得ません。
そうならないことを期待しています。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ

by sakanoueno-kumo | 2015-05-18 22:07 | 政治 | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その2 ~吉田松陰刑死~

 吉田松蔭の取り調べは、その後、安政6年(1859年)9月5日、10月5日と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。しかし、10月16日の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。これに松蔭は激しく異をとなえます。もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。

 「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」
 (全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


 この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。その話によると、10月5日の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。その刑を下したのは、大老・井伊直弼自身だったと。ドラマでは、「遠島」の上から紙を貼って「死罪」と訂正していましたが、たぶん、このエピソードを元にした演出だと思われます。

 死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。その冒頭の句が、あの有名な句です。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 (この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


 この言葉が、その後松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。

 『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。そして駕籠にて伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。享年30歳。このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。

 「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」

 こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。
 そして、もうひとつ。

 「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
 (子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の知らせを父母が知ったら、なんと思うだろう)


 有名な辞世の句ですね。哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2015-04-28 21:24 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その1 ~間部老中要駕策の自供~

 安政6年(1859年)5月25日、萩から護送された吉田松陰は、6月25日に江戸桜田の長州藩邸に入り、7月9日、伝馬町牢屋敷へと移され、取り調べが始まります。松蔭の吟味を担当したのは、主に寺社奉行松平伯耆守宗秀、大目付久貝因幡守正典、南町奉行池田播磨守頼方、北町奉行石谷因幡守穆清などの5人で、幕府の司法の執行権を持つ役人がすべて揃っていました。

 松蔭にかけられた罪状は主に2つで、ひとつは、すでに捉えられていた梅田雲浜との関係、そしてもうひとつは、京都御所で見つかった落とし文との関係についてでした。雲浜は、松蔭よりもはるかに名の通った尊皇攘夷のカリスマ的志士で、「戊午(ぼご)の密勅」の下賜に関わって大老・井伊直弼の失脚を謀った咎で捕縛され、松蔭が刑死する少し前に獄中死します。その雲浜がかつて長州を訪れたとき、密談して反幕府の政治工作を企てたのではないか、というのが、松蔭にかけられた嫌疑でした。しかし、松蔭は雲浜と面会はしたものの、政治的な結託はしておらず、むしろ、雲浜という人物を快く思っていなかったようで、臆することなく否認します。

 また、幕政を批判した落とし文についても、取調官は筆跡が酷似していると追求しますが、松蔭はまったく身に覚えがなく、だいいち、囚人として蟄居の身でありながら、京のまちで落とし文などといった政治工作を行うのは物理的に不可能であり、言いがかりも甚だしい容疑でした。松蔭はいいます。
「吾性光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ」
(わたしは性来、公明正大を好む。落とし文などという隠れごとなどしない。)
と。
その堂々とした受け答えに、取調官は大いに圧倒されたようです。

 このままで終わっていれば、松蔭は大した罪には問われなかったかもしれません。少なくとも命は救われたでしょうね。しかし、ここで松蔭は、常人には理解できない行動にでます。というのも、かつて幕府老中・間部詮勝要駕を企てたことを、訊ねられてもいないのに自ら白状してしまうんですね。なぜ、そのような行動に出たのかはハッキリしませんが、井伊大老と直接話しをするための策というのは、ドラマのオリジナルの解釈であり、フィクションです。だいたいの物語などでは、取調官の巧みな誘導尋問に乗っかったというのが、共通した描かれ方です。光明正大にもほどがありますよね。司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、このときの松蔭のことを次のように書いています。

 「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。」

 取調官の権謀術数にまんまとかかったのか、あるいは、取調官の老獪さを知った上で、あえて死を決して自供したのか、いずれにせよ、松蔭は自らの行いに一点の曇りもなかったのでしょう。

 「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」

 誠意をもって話をすれば、取調官の心をも動かすことができると思ったのでしょうか?

「余は人の悪を察すること能わず、ただ人の善のみを知る」
「余はむしろ、他人を信じるに失するとも、誓って人を疑うに失することなからんことを欲す」


 これも、松蔭の残した言葉です。
~♪信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがい♪~
なんて歌がありましたが、人を信じるということと、聞かれてもしない自分の罪を白状するのとは違うように思います。短慮な失言で政治生命の危機に立たされる政治家は現代でもたくさんいますが、松蔭のそれは、短慮というよりも、むしろ確信犯的に自ら死を呼び寄せたとしか思えない失言ですね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2015-04-27 22:19 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第16話「最後の食卓」 ~松蔭の江戸送り~

 吉田松陰の一度目の野山獄収監は、黒船密航未遂という国禁を犯した罪に対する服役でしたが、二度目の野山獄収監は、まだ何も罪を犯しておらず、いわば、これから犯すかもしれない罪を未然に防ぐためのものでした。これまでも、松蔭という過激な天才に対して、寛大な処置をとってきた長州藩でしたが、この時も、危険な言動を繰り返す松蔭に、罪を犯させないための処置であったといえます。それほど、長州藩は松蔭を守ろうとしていたんですね。このときの藩当局の立場を、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、次のように表しています。

 「藩庁は、松蔭の狂気を議論でしずめる自信がなかった。やむなく松蔭の身柄をふたたび野山獄に入れ、社会から隔離し、その自由をうばうことによってかれの暴発をふせごうとした。藩庁の要人である周布政之助らの好意であった。それ以外に藩庁としては、長州藩のほこるべきこの予言者の生命をまもるすべがない、と、藩庁にいる松蔭のファンたちは思ったのである。」

 しかし、その甲斐もなく、松蔭が収監されてから4ヵ月ほどが過ぎた安政6年(1859年)4月、松蔭を江戸に送るよう長州藩に幕命がくだります。こうなると、さすがの藩当局も幕府に逆らうわけにはいかず、松蔭の護送を決定します。そうすると、今度は、藩の立場として違う心配が出てくるんですね。またまた『世に棲む日日』から引用しますと、

 「この時期、長州藩は、松蔭という存在のためにおびえきっていた。幕府が、松蔭を訊問する、この訊問から糸がほぐれ出て、藩そのものに大事がおよびもしないかというお家大事の心配を、たとえば周布政之助という、いわばはねっかえりの進歩派官僚さえもった。」

 吉田松陰という人物に振り回されっぱなしですね。しかし、ただの危険人物であれば、これまでに藩として極刑に処する機会はあったわけで、でも、やらなかったことを思えば、やはり藩としては、松蔭という天才児をなんとか守りたいという思いがあったのでしょう。親の心子知らずですね。

e0158128_2044579.jpg 江戸送りが決まった松蔭との別れを惜しん描かれた肖像画が、後世の私たちに松蔭の姿を印象づけた有名な絵です。これを描いた松浦亀太郎は、武士でも足軽でもない魚屋の子で、ドラマでは温厚で地味な存在に描かれていますが、実際にはなかなかの切れ者だったようで、かつての松蔭と同じく、渡米を企てて失敗したという武勇伝の持ち主です。また、亀太郎は自宅蟄居中の松蔭に、京の情勢などを伝える情報源でもありました。そんな亀太郎を松蔭は愛し、「松洞」という号を与え、「才あり、気あり、一奇男子なり」と、高く評価しています。

 松蔭の生涯唯一のラブロマンスの相手(とされる)、高須久子との別れのシーンがありましたね。通説によると、江戸に護送される直前、久子は餞別がわりに手作りの汗拭きを松蔭に贈ったといいます。これに対して松蔭は、
 「箱根山 越すとき汗の 出でやせん 気の思ひを ふき清めてん」
という和歌と、
 「一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす)」
という俳句を、久子に贈りました。この種の歌を意訳するのは無粋というものですが、「あなたのその声を、どうして忘れられようか・・・」といったところでしょうか? この、気持ちをそのまま詠んだといえる句を聞けば、やはり、松蔭と久子のあいだには、特別な感情があったと思ってしまいますね。

 そして、安政6年(1859年)5月25日、松蔭の護送行列は萩を出立します。家族や門下生たちは、松蔭に厳しい処分が下るであろうことを予想して大いに悲しみ、どうすれば助けることができるか思いをめぐらせますが、そんな周囲の心配をよそに、当の松蔭本人は生に対して特に執着しておらず、むしろ、江戸での取り調べにおいて自身の考えを主張し、幕政に一石を投じるチャンスと考えていた様子すらうかがえます。ここでまた、司馬さんの言葉を引用します。

 「その楽天性は、もはや滑稽どころか、悲痛をもとおりこしてしまっている。」

 いうまでもなく、これを最後に松蔭は、二度と故郷の地を踏むことはありませんでした。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2015-04-20 20:49 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)