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幕末京都逍遥 その126 「三縁寺(池田屋変之殉難烈士之墓碑)」

前稿で紹介した「岩倉具視公旧蹟九兵衛宅址碑」から300mほど南下したところにある三縁寺に、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件で討死した攘夷派志士たちの墓があります。


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山門の横には、「池田屋変之殉難烈士之墓」と刻まれた石碑があります。


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かつて三縁寺は、「その38」で紹介した現在の京阪電鉄三条京阪駅の近くにありましたが、昭和54年(1979年)の駅前開発にともない、この地に移転されました。

その際、志士の遺骨も発掘され、ここに改葬されました。


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志士たちの場所は、本堂奥の墓地のいちばん高い場所にあります。

案内板などはないですが、ひと目みればそれとわかります。


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入口には鳥居があり、その一角だけ特別な場所といった感じです。


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まず正面には、宮部鼎蔵松田重助の墓碑があります。

肥後藩のふたりですね。

宮部は、このときのメンバーのなかでもリーダー的存在でした。


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その傍らにも、同じく宮部と松田の名が刻まれた小さな石碑があります。

ググってみると、こちらが元の墓碑で、先に紹介した大きな墓碑が新しく建てられたもののようです。


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こちらは、同じく肥後の上松源友胤の墓。

宮部の弟子です。


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こちらは、播州林田藩の大高又次郎の墓です。


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その横にあるこちらの墓碑は、長州藩の吉田稔麿、杉山松助、廣岡浪秀の3名、土佐藩の北添佶麿、望月亀弥太、石川潤次郎の3名の計6名の合同碑です。

事件発生後、現場に打ち捨てられたままになっていた志士たちの遺体は、三条にあった三縁寺に運び込まれて供養されたと伝えられます。

それが、ここに埋葬されている上松以外の9名でした(上松は池田屋事件で命を落とした人物ではありません)。

そのうち、宮部、松田、吉田、杉山、北添、石川、大高の7人は、のちの明治政府により「殉難七士」と呼ばれるようになります。

なぜ、望月廣岡は外されちゃったのでしょうね?

なんで「殉難九士」じゃだめだったのでしょう?

ちょっと気の毒な気がしないでもないです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-07 01:30 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その41 「吉田稔麿終焉の地(山本覚馬・八重邸跡)」

「その33」で紹介した長州藩邸跡の碑のあるホテルオークラ前の三条通と河原町通の交差点を挟んで対角にあるスギ薬局の前に、「此付近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」と刻まれた石碑があります。

元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件で、長州藩士・吉田稔麿がこの付近で落命したと伝えられます。


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吉田稔麿は久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一と並んで「松下村塾四天王」と称された人物で、4人のなかではいちばん年下でした。

師の吉田松陰才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容しています。

とても無口で勤勉な性格だったようです。

池田屋事件のあった当日、稔麿は会合に出席していましたが、一度屯所に戻るために席を外し、しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討死したとされています。

ドラマや小説などで描かれる稔麿の最期は、池田屋襲撃の事態を長州藩邸に知らせるべく現場から離脱するも、藩邸の門は開られることなく、門前で自刃するというものが多いと思いますが、最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも、この辺りで会津藩兵多数に遭遇し、討死した、とされていいます。

前者の説は、前稿で紹介した土佐藩士・望月亀弥太の最期と酷似しており、それと混同されて伝わったのかもしれません。


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石碑の別の面には、「此隣地山本覚馬 八重邸宅跡」と刻まれています。

山本覚馬は幕末の会津藩士で、明治維新後は京都府顧問、京都府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した人物で、八重はその妹で同志社英学校(現同志社大学)の創立者である新島襄の妻となった女性。

2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公ですね。

山本覚馬は賊軍となった会津藩士だったため中央政府には出仕しませんでしたが、その能力を買われて京都府庁に出仕し、東京に遷都して荒廃しかけていた京都の活気を取り戻すために力を尽くした人物です。

説明板によると、覚馬がこの場所にいつから住み始めたかはわかりませんが、少なくとも明治8年(1875年)には居住が確認できるそうです。


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幕末、京都守護職松平容保に従って入京した覚馬でしたから、当然、池田屋事件の際には会津藩兵のひとりとして出動していたことでしょう。

あるいは、この地で吉田稔麿と闘ったのは、覚馬だったかもしれません。

覚馬は池田屋事件の報復のために長州藩兵が引き起こした元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)での負傷がもとで、のちに失明してしまいます。

その覚馬をこの地にあった邸で献身的に支えたのが、妹の八重だったんですね。

その八重の名が共に刻まれているということは、この石碑はおそらく大河ドラマの放送以降に建てられたのでしょうね。

大河ドラマの影響力は絶大です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-25 22:55 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その39 「久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡碑(法雲寺)」

「その33」で紹介した長州藩邸跡ホテルオークラから200mほど北上したところに法雲寺というお寺があるのですが、その入口に、「久坂玄瑞 吉田稔麿等 寓居跡碑」と刻まれた石碑があります。


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長州藩邸がこの近くにあったことから、当時、このあたりには多くの長州藩士が居住しており、法雲寺もそのひとつとして使用されていました。


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文久2年(1862年)7月、久坂玄瑞は同志らと共に公武合体論者の長井雅楽殺害しようと計画しますが、失敗したため家老の浦靭負自首し、同年8月4日、謹慎処分となります。

その謹慎の場所が、ここ法雲寺だったと伝わります。

ともに謹慎となったのは、寺島忠三郎、野村和作(のち靖)、堀真五郎、福原乙之進でした。


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説明板によると、久坂らの謹慎中には、浦の家臣である秋良敦之助やその子息・秋良雄太郎赤祢幹之允(武人)、世良修蔵も慰問したほか、松島剛蔵(小田村伊之助の実兄)らも訪れています。


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また、同年7月17日には、万延元年(1860年)から亡命生活を送っていた吉田栄太郎(のちの稔磨)が、伏見街道で世子毛利定広(元徳)に自首し、ここで謹慎生活を送っています。

そのことは、久坂が萩に住む妻・杉文吉田松陰の妹)に宛てた手紙に書かれています。


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本堂です。

ここ法雲寺の伽藍は禁門の変戦火を免れたそうで、現存の本堂・書院・台所は、当時のものだそうです。

なので、ここに久坂らが居住していたということですね。


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吉田稔麿は同年閏8月13日に謹慎が解かれ、久坂らも同年9月12日に同じく謹慎が解かれ、ここを去りました。

中老の暗殺未遂でも、わずか1ヵ月余りの謹慎で済んじゃうんですね。

この緩さが、幕末の長州藩の若者を過激にしたのかもしれません。



冒頭に紹介した入口の石碑の側面には、「此南 池田屋事件 望月亀弥太終焉伝承地」と刻まれています。

次稿では、その場所を紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-22 00:49 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その38 「池田屋事変殉難志士墓所跡碑」

三条大橋を東に渡って100mほど歩いたところに、「池田屋事変殉難志士墓所跡」と刻まれた石碑が建てられています。

かつて、この場所には三縁寺」という寺があり、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件で討死した攘夷派志士たちが葬られていました。


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事件発生後、現場に打ち捨てられたままになっていた志士たちの遺体は、ここにあった三縁寺に運び込まれました。

そのメンバーは、熊本藩の宮部鼎蔵、松田重助、長州藩の吉田稔麿、杉山松助、廣岡浪秀、土佐藩の北添佶摩、石川潤次郎、望月亀弥太、林田藩の大高又次郎の9人だったといいます。

そのうち、宮部、松田、吉田、杉山、北添、石川、大高の7人は、のちの明治政府により「殉難七士」と呼ばれるようになります。


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三縁寺は、昭和54年(1979年)に京阪電鉄三条駅前開発にともない、左京区岩倉花園町に移転したそうで、その際、志士の遺骨も発掘され、岩倉の新墓地に改葬されました。


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移転するにあたって、三縁寺と京阪電車との間で「維新史蹟池田屋事変三縁寺墓所跡」という石碑を建立するという契約が結ばれたそうですが、その後30年、建碑は行われていませんでした。

ようやくこの石碑が建てられたのは、平成22年(2010年)だったそうです。


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現在、石碑の建つ場所は、バイク置き場になっています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-20 23:37 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

花燃ゆ 第25話「風になる友」 ~池田屋事件~

 八月十八日の政変によって長州藩が追い出されたことで、一時は静けさを取り戻したかに見えた京のまちでしたが、実はそれは表面的なもので、尊攘派の志士たちは京、大坂に潜伏して、勢力の挽回を謀っていました。そんななか、政変後に行われていた参預会議がもの別れに終わります。参預会議とは、一橋慶喜、島津久光、松平春嶽らが中心となって政局をはかった、いわば共和政治のような政治形態のことです。しかし、突然始まった連合政治でしたから、結局うまくは運営できずに短期間で瓦解してしまいます。これを政権奪還のチャンスと見た尊攘派の志士たちは、密かに京に集まってきました。

 そこで歴史の表舞台に一気に登場するのが新選組です。彼らはこの少し前から京都守護職・松平容保の預かりというかたちで京のまちの治安に当たるようになっていましたが、この新選組が日本史のなかに大きく名を刻むきっかけとなったのが、元治元年(1864年)6月に起きた「池田屋事件(池田屋の変)」でした。

 きっかけは、商人に化けて潜伏していた尊攘派志士の古高俊太郎が捕らえられたことに始まります。捕縛された古高は新選組の手によって厳しい拷問にかけられ、結果、力尽きて自白してしまいます。その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという超過激な計画で、しかも、近々市中で同志の集会があることも判明します。

 古高捕縛の報を受けた尊攘派志士たちは、肥後藩の宮部鼎蔵をはじめ、長州藩の桂小五郎ら約20名が、旅館・池田屋に集合して善後策を協議します。この会合を知った新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦しますが、戦闘なれした新選組にはほとんど刃が立たず、結果、多くの志士たちが闘死、もしくは捕らえられて斬られます。すさまじい弾圧だした。

 松下村塾四天王のひとりだった吉田稔麿は、この池田屋事件で命を落とします。これまでだいたいの物語での稔麿の最期は、池田屋襲撃の事態を長州藩邸に知らせるべく現場から離脱するも、藩邸の門は開られることなく、門前で自刃するという描かれ方がほとんどだったと思いますが、今回のドラマでは、藩邸に向かう道中で気が変わって引き返したところ、その帰路で囲まれて斬られるという設定でしたね。どちらが事実なのか調べてみたところ、どうやら諸説あって定説はないようです。前者の自刃説は、同じくこのとき死んだ土佐藩の望月亀弥太の話と酷似していますから、それと混同した話のようにも思えます。その意味では、ドラマの設定のほうが真実味があるかもしれませんね。享年24歳。無念だったに違いありません。

 このときの桂小五郎にも諸説あります。よく知られる話では、小五郎は池田屋に早く着きすぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており、そのため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。どちらが事実かはわかりませんが、のちに「逃げの小五郎」と言われた彼ですから、後者のほうが面白い気はしますけどね。いずれにせよ、このときもし小五郎が命を落としていたら、のちの維新三傑に名を連ねることもなかったでしょうし、明治維新における長州藩の立ち位置も違ったものになっていたかもしれません。

 この段階では、攘夷派のなかでは桂小五郎より宮部鼎蔵の方が、はるかにビッグネームでした。しかし、歴史は無惨にも宮部の命をここで終わらせてしまいます。歴史の犠牲となった宮部鼎蔵と、歴史に生かされた桂小五郎。この紙一重の運命の違いも、歴史の面白いところですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-22 17:38 | 花燃ゆ | Comments(7)