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タグ:和宮親子内親王 ( 3 ) タグの人気記事

 

江戸城を歩く。 その2 「坂下門~正門・二重橋」

「その1」の続きです。

桔梗門から蛤濠に沿って南西に歩きます。

向こうに見えるのは、坂下門です。


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坂下門で思い出されるのは、やはり幕末の「坂下門外の変」ですね。

文久2年1月15日(1862年2月13日)に、ここ坂下門外にて尊皇攘夷派水戸浪士6人が、幕府老中・安藤信正(磐城平藩主)を襲撃し、負傷させた事件です。


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その2年前に起きた「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が暗殺されると、幕政は老中・安藤信正、久世広周によって公武合体策が進められ、特に安藤は、皇女和宮を14代将軍・徳川家茂降嫁させる策を実現させますが、これに反発する尊攘派から激しい非難の的となります。

そして、登城する安藤の行列が坂下門外に差しかかったとき、水戸浪士6人が斬りかかりました。

しかし、桜田門外の変以降、幕府側の警備が厳しくなっていて、命を奪うまでには至らず、志士6名はいずれもその場で斬殺されました。


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坂下門外ですから、このあたりだったでしょうか?


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坂下門から二重橋濠沿いに南下します。

上の写真はその二重橋濠

濠の向こうは宮内庁があり、その奥が皇居です。


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ここがその皇居正門

その手前の橋が、正門石橋です。

当然ですが、一般人は通行できません。

もっとも、新年の1月2日や天皇誕生日皇居一般参賀時には、正門が開放され渡ることができます。


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現在の皇居は、かつての江戸城西の丸にあたります。

なので、この皇居正門は、かつては西の丸大手門と呼ばれていました。

明治21年(1888年)明治宮殿造営の際、この門のすぐ前にあった高麗門を撤去し、そのときに名称も皇居正門と改めました。

門の建造は3代将軍・徳川家光の時代と推定されているそうです。


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皇居正門と正門石橋、そして向こうに見えるのが、西の丸の伏見櫓です。

絵葉書などにも使用されている、皇居の顔の景色ですね。

正門石橋は、江戸時代は土で出来た土橋でしたが、明治20年(1887年)12月に現在のようなめがね型の橋に生まれ変わったそうです。


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西の丸の伏見櫓です。

かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現在残っているのは、三の丸の巽櫓、本丸の富士見櫓、そしてこの伏見櫓の3つだけです。

伏見櫓は皇居敷地内にあるため、近寄ることは出来ません。


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二重橋濠には、もうひとつ橋が架かっています。

それがこれ、正門鉄橋です。

西の丸玄関門に渡る橋ですが、この鉄橋と石橋の2つの橋を合わせて「二重橋」というのかと思っていたら、そうじゃないそうですね。

二重橋とはこの正門鉄橋のことだそうで、かつては、この橋桁が二重構造になっていたことから、そう呼ばれていたそうです。


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おっ母さん、ここが、ここが、二重橋・・・・て、古いですね(笑)。

若い人はわからないでしょうね。

わたしもまだ生まれていません。

次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-01 03:45 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その62 「皇女和宮生誕の地・橋本家跡(京都御苑)」

京都御所の西側中央付近に、「皇女和宮生誕の地(橋本家跡)」と書かれた木柱が建てられています。

江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室となる和宮親子内親王は、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)、父が仁孝天皇(第120代天皇)、母は大納言・橋本実久の娘・経子の娘として、橋本家の屋敷があったこの地で生まれました。

孝明天皇(第121代天皇)の腹違いの妹となります。


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周知のとおり、和宮は幕府と朝廷が手を結ぶ「公武合体」の象徴として、徳川家に嫁ぎます。

「公武合体」とは、朝廷の権威を借りて幕府の権威を強固にしようという考えであり、威信が著しく落ちはじめていた幕府にとってみれば、藁をもつかむ策だったわけです。

なんとしても天皇家との縁談を成立させたい。

そこで、白羽の矢を立てられたのが、和宮でした。


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しかし、和宮は、代々親王家をつとめる有栖川家の皇子・有栖川宮熾仁親王と幼いときから婚約しており、話があった当初は、強く拒んだといいます。

しかし、兄の孝明天皇の強い意向をうけて、ついに徳川家への降嫁を承諾しました。

この婚礼は、天皇にとっても、幕政への発言権を強めるという意味では大きなメリットがあったわけです。


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文久元年10月20日(1861年11月22日)、16歳の花嫁・和宮の行列が京の都を出発。

行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列の長さは50kmに及んだといいます。

和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれたといいます。


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徳川家大奥に入ってからも和宮は京風の生活を改めようとせず、姑の天璋院篤姫とのさまざまな確執があったとされますが、次第にわかり合い、慶応元年閏5月22日(1965年7月14日)、将軍・家茂が第二次長州征伐総大将として上方に向けて出立した際には、天璋院篤姫と共にお百度を踏んで夫の無事を祈っています。

しかし、その甲斐も虚しく家茂は大阪城にて病没

和宮は落飾し、名を静寛院宮と改めます。

わずか4年余りの結婚生活でした。


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その後、薩長軍による王政復古のクーデターが起き、戊辰戦争が始まると、徳川家の存続と前将軍・徳川慶喜助命嘆願のために天璋院篤姫と共に力を尽くします。

明治維新後は、亡き夫・家茂の生母である実成院とともに田安屋敷に移り、その後、明治2年(1869年)には京に戻りますが、明治7年(1874年)に再び東京に入り、その後は天璋院篤姫らと交流を持って穏やかな日々を過ごしますが、それも長くは続かず、明治10年(1877年)9月2日、脚気衝心のためにこの世を去ります。

32歳という若さでした。

当初、政府は葬儀を皇室に合わせて神式で行う予定でしたが、「家茂の側に葬って欲しい」という和宮の遺言を尊重するかたちで仏式で行われ、墓所は増上寺の家茂の側に葬られました。

徳川家歴代将軍のなかで、夫婦2人の墓が並ぶのは、天璋院篤姫と和宮の2組だけだそうです。

政局に利用され、思いもよらない人生を歩むことになった和宮でしたが、徳川家最後の御台所として、誇り高き最後を迎えたといえるのかもしれません。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-26 09:51 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

JIN -仁-(完結編) 第2話・第3話

 江戸時代、江戸のまちでは富裕層の間で玄米にかえて精米された白米を食べる習慣が広まり、将軍をはじめ富裕層に脚気患者が多かったという。当時、脚気のことを別名、「江戸患い」といったらしい。その脚気に効く食べ物として仁友堂が考案・開発した「安道名津(あんドーナツ)」が江戸で瞬く間に評判となり、それを耳にした医学所頭取の松本良順が、ある高貴な人物が脚気を患っており、安道名津を献上して欲しいと、南方仁に耳打ちをする。その高貴な人物とは、孝明天皇の妹にして第14代将軍・徳川家茂の正室、皇女・和宮だった。

 和宮は仁孝天皇の第8皇女として生まれ、孝明天皇とは異母兄妹だった。一時は有栖川宮熾仁親王と婚約をしていたものの、安政5年(1858年)の安政の大獄によって亀裂が生じていた朝廷幕府の関係を修復するため、宮との婚約を破棄し、「公武合体」の証として家茂の正室となる。いわゆる「皇女降嫁」である。彼女は、2008年の大河ドラマ『篤姫』の主役だった天璋院(篤姫)とは嫁と姑の関係にあり、幕府瓦解後はともに江戸無血開城に尽力した。波乱に満ちた生涯から「悲劇の皇女」として知られる。

 良順から懇願された仁は、歴史に対する影響力を考慮して献上を躊躇するものの、仁友堂の逼迫した台所事情などを知り、少しでも皆の暮らしの足しになればと、献上を決意する。そして咲とともに和宮の元に赴いた仁だったが、何者かの陰謀によって、献上した安道名津を口にした和宮が突然倒れるという事態が起こり、仁は一転、罪人として捕らえられてしまう・・・というのが第2話、3話のストーリー。

 ここで、幕府の医療形態について少しだけ。幕府将軍付の医師のことを、「奥医師」といった。ドラマに出てくる「本道」とは、漢方医のことで、古くからの伝統的な東洋医学で漢方薬などを用いての治療のこと。一方、「蘭方」とは、江戸時代にオランダから伝わった西洋医学のこと。この言葉でもわかるように、「漢方=本道」で、「蘭方=邪道」というのが江戸時代の一般的な見方だったが、幕末のこの時期、邪道だった蘭方が信用されはじめ、将軍付の奥医師も、本道・蘭方 双方が仕えており対立していたという。

 ドラマでいうところの「医学館」は本道(漢方)、「西洋医学所」は蘭方が仕切っていた。登場人物でいえば、多紀元琰福田玄孝などは本道、松本良順伊東玄朴、それに一昨年の1作目で死んだ緒方洪庵などが蘭方医である。本道VS蘭方の対立もさることながら、今話で和宮にヒ素を盛った(かもしれない)伊東玄朴は、もともと「西洋医学所」の取締役でありながら松本良順の弾劾により失脚した人物。同じ蘭方医の間でも、地位を巡った争いがあったであろうことは、想像に難しくない。そんな対立に仁を絡めたのが、2話3話の設定である。しかし、このような話はこの時代に限らず、現代の大学病院大病院などでも、似たような話がありそうだと思ってしまうのだが、いかがなものだろう。

 結局、本堂である「医学館」の多紀元琰の尽力によって濡れ衣を着せられずにすんだ仁。そのお礼にペニシリンの製法を記した虎の巻を持って「医学館」に訪れた仁だったが、それを渡された多紀は、「しかしこれは仁友堂の秘伝の妙薬では」と、たいそう驚く。この時代、特に漢方医にとっては薬の処方が生命線。他流派には絶対に教えられない秘伝・口伝のものだった。技術を公正に公開し、医療全体の向上に繋げる・・・といった考え方はなかった時代である。仁の行いに対して多紀が驚くのは、当然のことだった。しかし、形は違えど現代でも、新薬保険制度に認定するか否かの判断は、多分に製薬会社と行政の利権が関係している(といわれている)。権力争いにしても利権争いにしても、人命救助や医療向上が二の次になっている状況は、今も昔も変わらないようである。

 前作からここまでドラマを見てきて何となく見えてきたこと。自分が歴史上の人物と関わることで、歴史を変えてしまうかもしれないと懸念する仁だが、今話の最後で坂本龍馬薩長同盟を模索し始めたところを見ても、どうやら歴史の大筋は正しい方向へ進んでいるようである。考えて見れば、今話で助けた皇女・和宮も、1話で助けた西郷隆盛も、史実でいえばまだ死んではいけない人物である。逆に前作の緒方洪庵や1話での佐久間象山など、歴史上そこで死ぬべき人物は助けることは出来なかった。歴史は狂ってはいない・・・というよりも、西郷や和宮の例でみれば、狂い始めた歴史を軌道修正しているようにも思える。そのあたりが、今後の物語の展開の重要なポイントのように思えるが、いかがなものだろう。原作の漫画を読んでいないので、的外れな見方だったらゴメンナサイ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-04 21:28 | その他ドラマ | Trackback(2) | Comments(2)